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普段余り取り上げられる事の無いニッチなテーマを扱ってくれるの有難いです。
このチャンネルで30年戦争、魔女裁判、神聖ローマ帝国ってワードが登場するんやなぁ
江戸時代全体では鎖国というより管理貿易ですよね記録に残らない残せない取引はありまくったと思う
冒頭のあいさつからの本題までのよどみがない会話の運びが素晴らしいです。こんな大人になりたいです。
ケンペルは日本に居た時期が良かったですね
そうなんですよね。まだ武士が元気だった古き良き時代にケンペルは来て、それが日本のイメージに定着したんですね。自分も元禄時代に行ってみたいです
オランダ商館長が見た江戸の災害という本ではカピタンが義務で書いていた日記や磯田道史さんの解説があって楽しめるよ
長崎市に住んでました。出島商館員証(年パス)持ってます。出島もいいですが、歩いて行ける場所にある、中国人が囲われて住んでいた唐人屋敷跡もいいですよ。大半は住宅化してますが、一部に当時の施設が残ってます。
カピタン江戸参府の際、制度が定められた家康の時代当時のオランダの礼服が正式な典礼として定められ、おかげで二百年以上経った幕末に至ってもオランダ人達は典礼に従い二世紀も前のファッションを着ねばならなかったそうですね。まあ武士の服装は260年全く変わらなかったので当然なんでしょうけど…。
いつも台北で楽しく拝見いたします.この日本誌の作者の人生そして彼のいた環境を見て,感動です.当時ヨーロッパの人口5分の1以上やられたと言われる30年戦争が終わって貴族と英雄の崩壊そして近代啓蒙主義の哲学などが台頭して,まさしく新しい"天下"の意識を再発見する時代でした.こうやって1人の医者さんが自分の知識欲を満たす成果は子々孫々何千万人を救われる蘭学の開花とアジアの真実を知られる貢献は歴史中でも珍しいと思います.
長崎出島にはオランダ人以外はドイツ人などもいたようですね。チーズなども作られていたようです。
後々説明されるかもしれませんが、ケンペルより後にやってきたローマ人宣教師のシドッチは紹介されるのでしょうか?ある意味彼も蘭学が流行るきっかけになった犠牲……ごほんごほん。
ありがとうございます。新井白石がシドッチに尋問した時の通詞は、動画内でも登場したケンペルの愛弟子今村英生ですから、これだけでもかなりの貢献だと思います。同じヨーロッパ人でも不遇を極めた彼のお話はまたいつか
こんばんは。滅多なことは言えませんが、今の日本が日本国として稀有な存在でいられるのは、ケンペルさんが江戸時代の中でも最も華やかな頃を見聞きしたことで世界に知られたことも原因の一つであるかもしれないと思いました。
最近学校では鎖国を教えないというし、実際家光が鎖国したと教える必要は無いと思うけど、ケンペルを通じて日本人が自国が鎖国していることを知ったという文脈では教える必要があると思うんだよな。
ケンペル,ツュンベリー,シーボルトとも期せずしてかプラントハンターになったことだけ知っていました.ツュンベルギアという植物もあります.
ありがとうございます!
ありがとうございます。いつもいつも大変励みになります
勉強になりました。
話が逸れますが、義務教育課程の生徒さん達にとって、夏休みの自由研究のテーマとして最適だと思いました。
ドイツ人は、オランダ人を「低地ドイツ人」と呼ぶことが昔はありましたし、標準ドイツ語をHoⅽh -Deutsch(高地ドイツ語)といういいます。それをあってドイツ人のジーボルトを「山オランダ人」とオランダ人が言い訳したのでしょう。
当初その辺り(オランダなどのヨーロッパの複雑な事情)の説明を詳しく入れていたのですが、わたしの不勉強と余りにも話が長くなりすぎるのでカットした次第です。何れどこかの機会で説明を入れたいとは思います
1635年の時点で外国船の入港は長崎のみに限定されていたけど、かつて徳川家康がオランダに「オランダ船は何処の港に入港しても良い」という朱印状を出していた事もあり、1643年にはオランダ船ブレスケンス号が陸奥国山田浦に入港して乗組員が捕縛されるという事件が起きた。この時に乗組員解放を働きかけたのも出島のオランダ商館だった。
待ってました!
楽しめました
出島といえばシーボルト
知的探求心と過大も過小も評価せず等身大を淡々を記述するのは向こうのエリート教育あってのことかなぁ・・とは思う。日本ではそういった人物はいたけど、書籍としてきちんと残しているのは少ないからねぇ・・・
いや、「向こうのエリート教育」が寄与しているのではないと思う。「知的探求心と過大も過小も評価せず等身大を淡々を記述する」のは、ケンペルという人物が、とても優れていたからだろう。そしてそれは、洋の東西を問わず、いるところにはいる。何しろ、21世紀現代の「向こうのエリート教育」を受けた欧州議員は、コーランを燃やす暴挙を表現の自由と言う有様だし。
先生、先生UP主さま。今回もUPありがとうございました。😅リクエストします。江戸期の人々は、当時、南太平洋から発生し、関東ほか各地にやってくる台風をどのように考えて、どんな対処をしていたのでしょか?昔々の文献にどのように書き止められたのか、是非、考察をお願いします。😅
出島の復元のきっかけがナポレオン時代、オランダの国旗が掲げられた数少ないところで、第二次世界大戦後、オランダが戦時賠償と代わりに吉田首相に要求とあって驚いた記憶
関ヶ原では西軍につき家康と対立し、幕末では討幕の先頭に立ち指揮を取った、薩摩藩を紹介してほしい。特にあまり注目されない関ヶ原以降から幕末に至るまでの薩摩藩を取り上げてほしい。薩摩藩は先に述べた二つの時期から徳川とはずっと対立していたように思われているが、初代家久は外様としては家康から「家」の字を偏諱としてもらった数少ない人物ですし、また島津家は浄岸院竹姫、広大院茂姫、天璋院篤姫など徳川(特に一橋)や松平(特に久松)一族と多くの婚姻関係を結んだりもしていて、徳川に積極的に接近する政策を行っています。このような薩摩藩と島津についても紹介してほしいです。また島津四兄弟、特に義久・義弘兄弟という秀吉・家康と渡り合ってきた偉大すぎる2人の父に隠れてあまり評価されず、冷酷なイメージばかり持たれている初代家久やまだまだ自身に取って代わる恐れるある人物がいて、権力が盤石とは言えなかった二代光久。この2人が冷徹で過酷な感じではあるが、藩主に権力集中をし、家康から家光までの武断政治の期間を乗り越えたのは評価に値すると思います。この辺も紹介してほしいです。
日本の近代化の始まり!泰平の眠りを覚ます蒸気船たった4杯で夜も眠れず。
この時はまだ日本の風俗のことまでは書かれていないんですね。あと別件ですが投稿の通知の題名が間違ってますねw。
ありがとうございます。表題はすぐ気づいて直したのですが、反映に時間がかかったと思われます
実際は長崎以外でも認められた港があるとか
鎖国・・・すべてスペインが悪い(偏見)
へーじぁ歌舞伎を観に行かないと。
オランダは幕末の外交史において対アメリカの貴重な情報をもたらしているし出島があったことの意義は大きいですね
普段余り取り上げられる事の無いニッチなテーマを扱ってくれるの有難いです。
このチャンネルで30年戦争、魔女裁判、神聖ローマ帝国ってワードが登場するんやなぁ
江戸時代全体では鎖国というより管理貿易ですよね
記録に残らない残せない取引はありまくったと思う
冒頭のあいさつからの本題までのよどみがない会話の運びが素晴らしいです。
こんな大人になりたいです。
ケンペルは日本に居た時期が良かったですね
そうなんですよね。まだ武士が元気だった古き良き時代にケンペルは来て、それが日本のイメージに定着したんですね。自分も元禄時代に行ってみたいです
オランダ商館長が見た江戸の災害
という本ではカピタンが義務で書いていた日記や磯田道史さんの解説があって楽しめるよ
長崎市に住んでました。出島商館員証(年パス)持ってます。
出島もいいですが、歩いて行ける場所にある、中国人が囲われて住んでいた唐人屋敷跡もいいですよ。大半は住宅化してますが、一部に当時の施設が残ってます。
カピタン江戸参府の際、制度が定められた家康の時代当時のオランダの礼服が正式な典礼として定められ、おかげで二百年以上経った幕末に至ってもオランダ人達は典礼に従い二世紀も前のファッションを着ねばならなかったそうですね。まあ武士の服装は260年全く変わらなかったので当然なんでしょうけど…。
いつも台北で楽しく拝見いたします.この日本誌の作者の人生そして彼のいた環境を見て,感動です.当時ヨーロッパの人口5分の1以上やられたと言われる30年戦争が終わって貴族と英雄の崩壊そして近代啓蒙主義の哲学などが台頭して,まさしく新しい"天下"の意識を再発見する時代でした.こうやって1人の医者さんが自分の知識欲を満たす成果は子々孫々何千万人を救われる蘭学の開花とアジアの真実を知られる貢献は歴史中でも珍しいと思います.
長崎出島にはオランダ人以外はドイツ人などもいたようですね。
チーズなども作られていたようです。
後々説明されるかもしれませんが、ケンペルより後にやってきたローマ人宣教師のシドッチは紹介されるのでしょうか?
ある意味彼も蘭学が流行るきっかけになった犠牲……ごほんごほん。
ありがとうございます。新井白石がシドッチに尋問した時の通詞は、動画内でも登場したケンペルの愛弟子今村英生ですから、これだけでもかなりの貢献だと思います。同じヨーロッパ人でも不遇を極めた彼のお話はまたいつか
こんばんは。滅多なことは言えませんが、今の日本が日本国として稀有な存在でいられるのは、ケンペルさんが江戸時代の中でも最も華やかな頃を見聞きしたことで世界に知られたことも原因の一つであるかもしれないと思いました。
最近学校では鎖国を教えないというし、実際家光が鎖国したと教える必要は無いと思うけど、
ケンペルを通じて日本人が自国が鎖国していることを知ったという文脈では教える必要があると思うんだよな。
ケンペル,ツュンベリー,シーボルトとも期せずしてかプラントハンターになったことだけ知っていました.
ツュンベルギアという植物もあります.
ありがとうございます!
ありがとうございます。いつもいつも大変励みになります
勉強になりました。
話が逸れますが、義務教育課程の生徒さん達にとって、夏休みの自由研究のテーマとして最適だと思いました。
ドイツ人は、オランダ人を「低地ドイツ人」と呼ぶことが昔はありましたし、標準ドイツ語をHoⅽh -Deutsch(高地ドイツ語)といういいます。それをあってドイツ人のジーボルトを「山オランダ人」とオランダ人が言い訳したのでしょう。
当初その辺り(オランダなどのヨーロッパの複雑な事情)の説明を詳しく入れていたのですが、わたしの不勉強と余りにも話が長くなりすぎるのでカットした次第です。何れどこかの機会で説明を入れたいとは思います
1635年の時点で外国船の入港は長崎のみに限定されていたけど、かつて徳川家康がオランダに「オランダ船は何処の港に入港しても良い」という朱印状を出していた事もあり、1643年にはオランダ船ブレスケンス号が陸奥国山田浦に入港して乗組員が捕縛されるという事件が起きた。この時に乗組員解放を働きかけたのも出島のオランダ商館だった。
待ってました!
楽しめました
出島といえばシーボルト
知的探求心と過大も過小も評価せず等身大を淡々を記述するのは向こうのエリート教育あってのことかなぁ・・とは思う。日本ではそういった人物はいたけど、書籍としてきちんと残しているのは少ないからねぇ・・・
いや、「向こうのエリート教育」が寄与しているのではないと思う。
「知的探求心と過大も過小も評価せず等身大を淡々を記述する」のは、ケンペルという人物が、とても優れていたからだろう。そしてそれは、洋の東西を問わず、いるところにはいる。
何しろ、21世紀現代の「向こうのエリート教育」を受けた欧州議員は、コーランを燃やす暴挙を表現の自由と言う有様だし。
先生、先生UP主さま。
今回もUPありがとうございました。😅
リクエストします。
江戸期の人々は、当時、
南太平洋から発生し、関東ほか各地にやってくる台風をどのように考えて、どんな対処をしていたのでしょか?
昔々の文献にどのように書き止められたのか、
是非、考察をお願いします。😅
出島の復元のきっかけがナポレオン時代、オランダの国旗が掲げられた数少ないところで、第二次世界大戦後、オランダが戦時賠償と代わりに吉田首相に要求とあって驚いた記憶
関ヶ原では西軍につき家康と対立し、幕末では討幕の先頭に立ち指揮を取った、薩摩藩を紹介してほしい。
特にあまり注目されない関ヶ原以降から幕末に至るまでの薩摩藩を取り上げてほしい。
薩摩藩は先に述べた二つの時期から徳川とはずっと対立していたように思われているが、初代家久は外様としては家康から「家」の字を偏諱としてもらった数少ない人物ですし、また島津家は浄岸院竹姫、広大院茂姫、天璋院篤姫など徳川(特に一橋)や松平(特に久松)一族と多くの婚姻関係を結んだりもしていて、徳川に積極的に接近する政策を行っています。
このような薩摩藩と島津についても紹介してほしいです。
また島津四兄弟、特に義久・義弘兄弟という秀吉・家康と渡り合ってきた偉大すぎる2人の父に隠れてあまり評価されず、冷酷なイメージばかり持たれている初代家久やまだまだ自身に取って代わる恐れるある人物がいて、権力が盤石とは言えなかった二代光久。この2人が冷徹で過酷な感じではあるが、藩主に権力集中をし、家康から家光までの武断政治の期間を乗り越えたのは評価に値すると思います。この辺も紹介してほしいです。
日本の近代化の始まり!泰平の眠りを覚ます蒸気船たった4杯で夜も眠れず。
この時はまだ日本の風俗のことまでは書かれていないんですね。あと別件ですが投稿の通知の題名が間違ってますねw。
ありがとうございます。表題はすぐ気づいて直したのですが、反映に時間がかかったと思われます
実際は長崎以外でも認められた港があるとか
鎖国・・・すべてスペインが悪い(偏見)
へーじぁ歌舞伎を観に行かないと。
オランダは幕末の外交史において対アメリカの貴重な情報をもたらしているし出島があったことの意義は大きいですね