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一番好きな哲学者です。苦しい現実や醜い人間から、偉大さや幸福を見出だそうとする優しい姿勢が大好きです。
よくここまで上手く纏めますね…毎度感心します。本当にいつもありがとうございます。
見て良かった。今日一有意義な時間だった。
冷静な紹介ですごくいいね
信仰によって妄想(理性)の暴走をコントロールする事で、生衝動の安定的な発現を実践させる手法は、親鸞に通ずるモノを感じます。😊
虚栄心も時空の概念も、自己の存在位置(意義?価値?)を確認するための手法だとするなら、“人間の認識すべき世界”(理性)とは、自らが属する群れ=社会という事になるでしょう…
有難うございます!分かりやすい解釈をつけていただき感謝します!
参りましたまた哲学チャンネルさん一から観たくなりました(涙)精神科医とはよく、抑圧と報酬の衡量、双方の必要性について話しますこれは②ですねよって極めて前向きに絶望しているのだと思いますいつも本当にありがとうございます
私は「哲学」というものが他人の思想を紹介するのではなく、自分自身が物事の本質に迫ろうとするということであると思っていますので、投稿主様御自身の「哲学」も紹介(立場の主張)していただけたら有難いですし、それこそ真にこのチャンネルタイトルに適うと思います。
サブチャンネルをおすすめします
「てつがくちゃんねる」というサブチャンネルでお話しされてます
偉大な科学者であっても、我々と同じような苦悩を持ち、最後には幸福論に終始するいくら文明が発達しようともそれが人の幸福には繋がらない辺りが面白いというか度し難いというか・・・とくに宗教を信仰しているわけではないですが、神という概念は深くて面白いですよね
この動画面白いと感じたら國分さんの「暇と退屈の倫理学」をぜひ読んでみてほしい。
ここ数年、信仰の大切さについて考えているので、とても面白い動画でした(^^)ありがとうございます。理性といえば、心に残っている言葉がありまして、「狂人とは理性を失った者ではなく、理性以外のあらゆるものを失った者だ。」チェスタトンについては取り上げる予定はありますか?既に取り上げていたらすみませんm(__)m
ショーペンハウアーの思想と似ているなと思いましたが、幸福へのアプローチに対する結論は違うようですね。
私は最近様々な本を読んだ結果、人間は脳の仕組みから自由意志を持たないかもしれない、遺伝子の運び手にすぎないかもしれない、しかし自分の持つ性質や欲望の原理について理解し本当に自分が何を行いたいのか考えることでより高みへと到れるのではないかと考えており、僭越ながら不肖私の思考とパスカルの考える葦に一致する部分があり驚きました。
理性を意識や脳に替えたら養老孟司先生の言ってることと同じかも
哲学を自嘲するものこそ、真の哲学者である。
Thanks a lot 🤞🏾
絶対的な盲信は危険ですねまあ、それに命を賭けられる程なら別かもしれませんが
なるべく早めにコメントしようと思っていましたが、あれこれAIに質問して遊んでいるうちに興味が発散してしまいコメントするのが遅れました。パスカルの死後に思索の断片を集めて本にしたというだけあって、統一的なイメージがつかみにくい感じはあります。実際、本人の中でもまとめきれていない部分もあったのではと思えます。とくに宗教のことが絡んでくると話がややこしくなってくる。ヒルティなどもそうですが、信仰と幸福が結びつくというのが個人的にはいまいちピンとこない感じはあります。なぜ幸福が必要なんだろうと疑う天の邪鬼ですので。とくにパスカルの場合は科学者でもあり、なぜそこまで宗教に入れ込む必要があったのかという疑問はあります。まず、パスカルは物理や数学の業績が多々ある科学者ですが、デカルト的な合理主義には批判的だったらしい。懐疑主義的ではあるが、ユークリッド幾何を範とするようなデカルト的な方法的懐疑ではなさそうです。むしろ、デカルトが疑わなかった理性や自我自体を疑っている。ひとつには、デカルトとの自然観の違いがあるんでしょう。デカルトの場合は、方法的な思考手続きによって自然はすべて解明できるという感じなのに対し、パスカルの場合は、自然は理性をいくら働かせても汲み尽くせないものだという認識があったようです。「幾何学」より「繊細」を強調していることからも、感覚や直観を重視していることはうかがえます。この点は私も少しパスカルに同意するところはあります。もうひとつは、宗教的な背景や認識論。パスカルは当時のジャンセニズムというカトリックからすると異端とされた宗派にはまっていたとのこと。アウグスティヌスの唱えた原罪と恩寵を重視するのが特徴らしい。それに対して当時のカトリックは、トマス・アクゥイナス以降のアリストテレス的な理性主義が基本にあるので、その立場からするとジャンセニズムは過激な原理主義のように見えていたと思われます。パスカルの懐疑的スタイルは、そうしたカトリックの理性主義を批判するためのものだったのではないか。デカルトはプラトン的な二元論の影響もありますが、合理主義ではあったのでパスカルの批判の対象になったのではないか。人生の儚さと不幸の話についても、宗教的背景が感じられるような気もします。人生は変化の乏しい夢にすぎないという分析は、科学的でもあり、またショーペンハウアの「表象としての世界」やベルクソンの「時間論」などを先取りしたような印象もありますが、意外にアウグスティヌスあたりから発想を得ていたりするとか。永遠性を求める理性や自我には、刹那的な「表象」を時系列につなぎ止める働きがあるわけですが、有限な存在である人間にとって、そうした作業は過重な苦役でしかない。だから、神の恩寵にすがるしかないという感じでしょうか。「パスカルの賭」については、パスカルの科学者の側面が反映されているようで面白いですね。神を信じることのリスクは少なく、リターンは大きいのだから、信仰しない手はないという説明ですが、パスカルは賭け事をきっかけに確率の研究をしていたそうなので、それを神学にも応用しようとしたんでしょうか。合理的ともいえますが、少し無理やりなかんじがしないでもありません。初詣でおみくじを引くようなお手軽な世俗性と深遠で神聖なる思想性とのミスマッチ感がありますね。リスク計算は功利主義的ともいえるでしょうし、とりあえず信仰してみましょうというのはプラグマティズム的でもあります。また、無限なものに「賭ける」というところは、実存主義の「企投」を連想させます。さらに、理性では無限なものに到達できないというのは、カントの「物自体」に通ずるようでもあり、無限に救いを求めるのは偶然の必然性を唱えるメイヤスーではないかと思ったり。総じて近代合理性の批判のみならず、現代哲学に通ずるような先進性は感じられます。これが正当派カトリックの古典的教義と相いれなかったというのも当然といえば当然だったのでしょう。ジャンセニズムはカトリックの一派ではあったにせよ、むしろプロテスタント的な思想も取り込んでいる印象はあります。カルヴァンの予定説などの影響もあるとAIは言ってましたね。アウグスティヌスの予定説を先鋭化したものがカルヴァンの二重予定説だそうです。神によって選ばれし人々のみが恩寵なり救済に預かることができるという。一方のカトリックの場合は、一応キリスト者であればだれでも救済されるという立場なんでしょう。そう考えると「人間は考える葦である」というのも、少しひねった天の邪鬼な見方ができるかもしれません。人間はものを考える存在だから高貴である、という思想は、予定説的にいえば、考える人間のみが恩寵に預かることができると解釈することもできそうです。これがカトリックだったら、考える人も考えない人も等しく救われると説くんじゃないですか。さて、どちらがいいんでしょうね。人間はすべて平等に救われるべきだとは思いますが、かといって考えない人が増えるのも考えものですし。パスカルの生い立ちを見ると、彼が税務官の息子であり、社交界にも出入りしていたといいます。都会に住んで税を徴集するような官僚貴族的な位置にいたのでしょう。そんな立場から、イエズス会の腐敗を糾弾したりとか、現世の生臭いしがらみの中で生きていた様子も想像されます。何がどう絡み合ったいたのか、実際のところはよくわかりませんが。「人間は考える葦である」も、考えるものだけが生き残ると解釈するのは若干問題があるように思えます。個人的には、たまたま思考能力をもった人類という種が結果的に地球上に蔓延っているだけ、ぐらいに考えておくのがいいように思います。
ああ、ジャンセン派ポールロワイヤルは異端扱いでイエズス会に弾圧されていて、パスカルはそれと戦って『プロヴァンシアル書簡』を残したくらいなことは知って置くべきだよ。AIは人が魂の救いを求める信仰について何を語れるのかね?
アライグマおつまみからだにピース酢漬けぬわーーっっ!!
信仰による幸福って、信仰によって思考停止できて難しいことにも納得がいって幸福になれるというプロセスだと思うんだけど…理性による思考と信仰は両立できないと思うんだよなぁ信仰による損失も「特になし」ではなく「思考できなくなること」だと思うんだけどあんまり合理的だとは思えないから納得できない…そもそも信仰による幸福の認識が違うのかな?
個人的にはこの場合の神を 世界を動かす大きな潮流 という事象それ自体として代入すれば少しわかりやすくなるんじゃないかなと思う。自分は死ぬことを「自我を構成する脳内の電気信号が霧散すること」と認識してるんだけど、これを理性的にしか見れないとすれば、死はただ「消える」以外の意味を持てない。だから世界を大きな一つの潮流と捉えて、そこに神を見ることで、自分を構成している原子はその中に還っていくのだ、と納得することで死を好意的に捉えるように努力している。この「世界に親しみを感じて好意的に見る」ことがパスカルの言う「神への信仰」なのだと思う。
ちょっと仏教やヒンドゥー教と似たところがありますね
しまった、パスカルが出て来ない...野坂昭如 ソクラテス サントリーゴールド900 1976年ruclips.net/video/SwzQkt56T6Y/видео.html
「理性を越えたものがある」というのはその通りと思いますが、そこからいきなり「それはキリスト教の神です」というのは・・・パスカル、やらかしてしまった感があります。時代的な限界(当時は「神=キリスト教の人格神」と当然のように考えている人が多かったですね)もあったとは思いますが・・・。
一番好きな哲学者です。
苦しい現実や醜い人間から、偉大さや幸福を見出だそうとする優しい姿勢が大好きです。
よくここまで上手く纏めますね…毎度感心します。
本当にいつもありがとうございます。
見て良かった。今日一有意義な時間だった。
冷静な紹介ですごくいいね
信仰によって妄想(理性)の暴走をコントロールする事で、生衝動の安定的な発現を実践させる手法は、親鸞に通ずるモノを感じます。😊
虚栄心も時空の概念も、自己の存在位置(意義?価値?)を確認するための手法だとするなら、“人間の認識すべき世界”(理性)とは、自らが属する群れ=社会という事になるでしょう…
有難うございます!
分かりやすい解釈をつけていただき感謝します!
参りました
また哲学チャンネルさん一から観たくなりました(涙)
精神科医とはよく、抑圧と報酬の衡量、双方の必要性について話します
これは②ですね
よって極めて前向きに絶望しているのだと思います
いつも本当にありがとうございます
私は「哲学」というものが他人の思想を紹介するのではなく、自分自身が物事の本質に迫ろうとするということであると思っていますので、投稿主様御自身の「哲学」も紹介(立場の主張)していただけたら有難いですし、それこそ真にこのチャンネルタイトルに適うと思います。
サブチャンネルをおすすめします
「てつがくちゃんねる」というサブチャンネルでお話しされてます
偉大な科学者であっても、我々と同じような苦悩を持ち、最後には幸福論に終始する
いくら文明が発達しようともそれが人の幸福には繋がらない辺りが面白いというか度し難いというか・・・
とくに宗教を信仰しているわけではないですが、神という概念は深くて面白いですよね
この動画面白いと感じたら國分さんの「暇と退屈の倫理学」をぜひ読んでみてほしい。
ここ数年、信仰の大切さについて考えているので、とても面白い動画でした(^^)ありがとうございます。
理性といえば、心に残っている言葉がありまして、
「狂人とは理性を失った者ではなく、理性以外のあらゆるものを失った者だ。」
チェスタトンについては取り上げる予定はありますか?既に取り上げていたらすみませんm(__)m
ショーペンハウアーの思想と似ているなと思いましたが、幸福へのアプローチに対する結論は違うようですね。
私は最近様々な本を読んだ結果、人間は脳の仕組みから自由意志を持たないかもしれない、遺伝子の運び手にすぎないかもしれない、しかし自分の持つ性質や欲望の原理について理解し本当に自分が何を行いたいのか考えることでより高みへと到れるのではないかと考えており、僭越ながら不肖私の思考とパスカルの考える葦に一致する部分があり驚きました。
理性を意識や脳に替えたら養老孟司先生の言ってることと同じかも
哲学を自嘲するものこそ、真の哲学者である。
Thanks a lot 🤞🏾
絶対的な盲信は危険ですね
まあ、それに命を賭けられる程なら別かもしれませんが
なるべく早めにコメントしようと思っていましたが、あれこれAIに質問して遊んでいるうちに興味が発散してしまいコメントするのが遅れました。
パスカルの死後に思索の断片を集めて本にしたというだけあって、統一的なイメージがつかみにくい感じはあります。実際、本人の中でもまとめきれていない部分もあったのではと思えます。とくに宗教のことが絡んでくると話がややこしくなってくる。
ヒルティなどもそうですが、信仰と幸福が結びつくというのが個人的にはいまいちピンとこない感じはあります。なぜ幸福が必要なんだろうと疑う天の邪鬼ですので。とくにパスカルの場合は科学者でもあり、なぜそこまで宗教に入れ込む必要があったのかという疑問はあります。
まず、パスカルは物理や数学の業績が多々ある科学者ですが、デカルト的な合理主義には批判的だったらしい。懐疑主義的ではあるが、ユークリッド幾何を範とするようなデカルト的な方法的懐疑ではなさそうです。むしろ、デカルトが疑わなかった理性や自我自体を疑っている。
ひとつには、デカルトとの自然観の違いがあるんでしょう。デカルトの場合は、方法的な思考手続きによって自然はすべて解明できるという感じなのに対し、パスカルの場合は、自然は理性をいくら働かせても汲み尽くせないものだという認識があったようです。「幾何学」より「繊細」を強調していることからも、感覚や直観を重視していることはうかがえます。この点は私も少しパスカルに同意するところはあります。
もうひとつは、宗教的な背景や認識論。パスカルは当時のジャンセニズムというカトリックからすると異端とされた宗派にはまっていたとのこと。アウグスティヌスの唱えた原罪と恩寵を重視するのが特徴らしい。それに対して当時のカトリックは、トマス・アクゥイナス以降のアリストテレス的な理性主義が基本にあるので、その立場からするとジャンセニズムは過激な原理主義のように見えていたと思われます。パスカルの懐疑的スタイルは、そうしたカトリックの理性主義を批判するためのものだったのではないか。デカルトはプラトン的な二元論の影響もありますが、合理主義ではあったのでパスカルの批判の対象になったのではないか。
人生の儚さと不幸の話についても、宗教的背景が感じられるような気もします。人生は変化の乏しい夢にすぎないという分析は、科学的でもあり、またショーペンハウアの「表象としての世界」やベルクソンの「時間論」などを先取りしたような印象もありますが、意外にアウグスティヌスあたりから発想を得ていたりするとか。
永遠性を求める理性や自我には、刹那的な「表象」を時系列につなぎ止める働きがあるわけですが、有限な存在である人間にとって、そうした作業は過重な苦役でしかない。だから、神の恩寵にすがるしかないという感じでしょうか。
「パスカルの賭」については、パスカルの科学者の側面が反映されているようで面白いですね。神を信じることのリスクは少なく、リターンは大きいのだから、信仰しない手はないという説明ですが、パスカルは賭け事をきっかけに確率の研究をしていたそうなので、それを神学にも応用しようとしたんでしょうか。合理的ともいえますが、少し無理やりなかんじがしないでもありません。初詣でおみくじを引くようなお手軽な世俗性と深遠で神聖なる思想性とのミスマッチ感がありますね。
リスク計算は功利主義的ともいえるでしょうし、とりあえず信仰してみましょうというのはプラグマティズム的でもあります。また、無限なものに「賭ける」というところは、実存主義の「企投」を連想させます。さらに、理性では無限なものに到達できないというのは、カントの「物自体」に通ずるようでもあり、無限に救いを求めるのは偶然の必然性を唱えるメイヤスーではないかと思ったり。総じて近代合理性の批判のみならず、現代哲学に通ずるような先進性は感じられます。
これが正当派カトリックの古典的教義と相いれなかったというのも当然といえば当然だったのでしょう。ジャンセニズムはカトリックの一派ではあったにせよ、むしろプロテスタント的な思想も取り込んでいる印象はあります。カルヴァンの予定説などの影響もあるとAIは言ってましたね。アウグスティヌスの予定説を先鋭化したものがカルヴァンの二重予定説だそうです。神によって選ばれし人々のみが恩寵なり救済に預かることができるという。一方のカトリックの場合は、一応キリスト者であればだれでも救済されるという立場なんでしょう。
そう考えると「人間は考える葦である」というのも、少しひねった天の邪鬼な見方ができるかもしれません。人間はものを考える存在だから高貴である、という思想は、予定説的にいえば、考える人間のみが恩寵に預かることができると解釈することもできそうです。これがカトリックだったら、考える人も考えない人も等しく救われると説くんじゃないですか。
さて、どちらがいいんでしょうね。人間はすべて平等に救われるべきだとは思いますが、かといって考えない人が増えるのも考えものですし。
パスカルの生い立ちを見ると、彼が税務官の息子であり、社交界にも出入りしていたといいます。都会に住んで税を徴集するような官僚貴族的な位置にいたのでしょう。そんな立場から、イエズス会の腐敗を糾弾したりとか、現世の生臭いしがらみの中で生きていた様子も想像されます。何がどう絡み合ったいたのか、実際のところはよくわかりませんが。
「人間は考える葦である」も、考えるものだけが生き残ると解釈するのは若干問題があるように思えます。個人的には、たまたま思考能力をもった人類という種が結果的に地球上に蔓延っているだけ、ぐらいに考えておくのがいいように思います。
ああ、ジャンセン派ポールロワイヤルは異端扱いでイエズス会に弾圧されていて、パスカルはそれと戦って『プロヴァンシアル書簡』を残したくらいなことは知って置くべきだよ。AIは人が魂の救いを求める信仰について何を語れるのかね?
アライグマ
おつまみ
からだにピース
酢漬け
ぬわーーっっ!!
信仰による幸福って、信仰によって思考停止できて難しいことにも納得がいって幸福になれるというプロセスだと思うんだけど…
理性による思考と信仰は両立できないと思うんだよなぁ
信仰による損失も「特になし」ではなく「思考できなくなること」だと思うんだけど
あんまり合理的だとは思えないから納得できない…
そもそも信仰による幸福の認識が違うのかな?
個人的にはこの場合の神を 世界を動かす大きな潮流 という事象それ自体として代入すれば少しわかりやすくなるんじゃないかなと思う。
自分は死ぬことを「自我を構成する脳内の電気信号が霧散すること」と認識してるんだけど、これを理性的にしか見れないとすれば、死はただ「消える」以外の意味を持てない。
だから世界を大きな一つの潮流と捉えて、そこに神を見ることで、自分を構成している原子はその中に還っていくのだ、と納得することで死を好意的に捉えるように努力している。この「世界に親しみを感じて好意的に見る」ことがパスカルの言う「神への信仰」なのだと思う。
ちょっと仏教やヒンドゥー教と似たところがありますね
しまった、パスカルが出て来ない...
野坂昭如 ソクラテス サントリーゴールド900 1976年
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「理性を越えたものがある」というのはその通りと思いますが、そこからいきなり「それはキリスト教の神です」というのは・・・パスカル、やらかしてしまった感があります。時代的な限界(当時は「神=キリスト教の人格神」と当然のように考えている人が多かったですね)もあったとは思いますが・・・。