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当時、リアルタイムでTV中継を視てたけど、ファステストラップを更新しながら3位のパトレーゼを猛追する姿に、心底シビレた。😊
89年の最終戦オーストラリアGPではプロストのボイコットとセナの事故で早々にレースを終えたマクラーレンのピットウォールで、ホンダスタッフが総出で中嶋さんを応援してるのを見て、とても胸が熱くなりました。3位のパトレーゼより断然早いタイムで走ってるのに、ミスファイアによって近付けないもどかしさ。本当に最高のレースでした。
あの時、高校生の私は、中嶋の走りに救われた…中嶋こそ、私のヒーローです!
最後の中嶋さんの写真超かっこいいですね勝利も表彰台もなかったけど僕にとっては永遠のヒーローです
このお話は何度聞いてもスカッとします。中嶋さん夢をありがとう。
89年のオーストラリアGPは観ていて興奮しましたねチ-ムロータスのスタッフだけでなく、HONDAのスタッフも現地で必死に応援してたのを覚えてますあと、F1総集編でナレーションの城達也さんが「雨の日、雪の日、三河の山岳を車で攻めた、誰よりも速くコーナーを駆け抜けた、雨の中嶋の由来である」この言葉も印象に残ってます。
89年のオーストラリアGPはリアタイで放送見てました見ていて胸が熱くなったのがいい思い出
当時のロータスではありえない速さでしたね。ファステストラップの字幕にセナでもプロストでもなく映し出された「S.NAKAJIMA」の文字が感動でした
この年のロータス101が、ホンダエンジンだったら間違いなく中嶋さんがパトレーゼさんに勝ってましたよ・・・きっと!
@@Taxi_go_3584さん。上空ヘリ(よくあの土砂降りで😅)からの映像見ればストレートでは明らかに置いて行かれるのにコーナーで一気に差を詰める中嶋悟。間違い無いですよね😊。
中嶋悟さんの走りには、アイルトンのような華やかさも、ナイジェルのような豪快さも、アランのような繊細さも無いけど、気付いたら後ろにいるという「怖さ」は有ると思います。
以前CSで当時の国際映像版の方流したの見ましたけど、あの雨の中他のドライバーはカウンター当てるのが普通に走ってたのが中嶋さんだけ殆どカウンターも当てずにスムーズに曲がっていくのを見て繊細なドライブが凄いと思いましたね。90年はティレルでアレジの活躍ばかりが目立ちましたが、それもいきなりピレリに変わったタイヤの使えるセット探しやマシーン開発方面に中嶋さんが尽力してたのもあるんですよね
日本人F1ドライバーの中で、参戦したすべての年でポイントを獲得してる唯一のドライバーです。
しかも乗った全車種でポイント取ってますしね。 ロータス99T ロータス100T ロータス101 ティレル018 ティレル019 ティレル020
中嶋を見てくれた人がいて中嶋は夢を叶えそして時代が過ぎ、今度は中嶋が推薦したのが角田君。胸熱
ときには息子の一貴くんのことも思い出してあげてください
息子さんも非凡な才能だったけど。もう少しウィリアムズに入る時期が早かったらなぁ、、
子供の頃、夜中にやっていたF1をビデオに撮って、繰り返し何度も見ていた頃のドライバーや出来事が思い出されて凄く嬉しかったです。今後も楽しみにしています⭐︎
中嶋悟のマシン開発能力はピカイチ!ロータス時代、セナにHONDAエンジンの特性を教えたのも、ピケのセッティングを出してたのも中嶋悟だったという…雨でマシンが性能差や体力のハンデがなくなれば、中嶋のテクニックが際立つ…でも中嶋の「自分よりみんな」という浪花節的性格では、生き馬の目を抜く、他人を蹴落としてのし上がるF1界では上位にはいけなかったんだよねそんな中嶋悟が大好きなんだけどさ
あのケン・ティレルおじさんも、そこを気に入ってました。「アレジはタイヤテストを全然やってくんなかった!だけどサトルは熱心にやってくれた!」と。
いいね〜浪花節👍
日本人初のフル参戦F1ドライバーが中嶋悟さんでしたね。そして、初めてのパートナーとなったのがセナだったというのも運命で。HONDAエンジンを知り尽くしHONDAに貢献してきたお二人だからお互いのデータを見たり聞き合ったりしていたそうで。 雨に強かったセナ 日本人では雨に強かった中嶋さん ティレルへ移籍しても中嶋さんはかなり努力をされていましたね…。 雨の中嶋という名言は伝説。 中嶋さんの表彰台が見たかったです。
動画見てたら小さい頃見てたから、感動して涙出そうになった、F1参戦34歳だとセナでも体力的に下降してきた時だったよね34歳でほとんど初めてのコースで結果残したのは凄いよ、お世辞にも速くはなかったけど、遅くもなかった引退する年の最終戦が確か雨だったよね、まさに雨のナカジマ!
アデレードで、ファステストラップを叩き出しながらパトレーゼを追っかけ回している映像を見て応援してる自分に「ああ、これがナショナリズムか…」と思ったことを思い出した自分がいる…
雨の中嶋が 引退レースも雨でスピン リタイアなのもまた一興
当時は閉鎖的なヨーロッパの文化であったF1。この扉を力ずくでこじ開けたのは中嶋悟さん。彼が居なければ亜久里氏も琢磨氏も、ましてやyuki君もF1には乗れていなかった。日本のレース界の宝ですよ。未だに最も尊敬できるドライバーです。
高校時代に友達に薦められてF1を見始めたときに、中嶋悟さんが走っていた。時は流れSUPER GTを見に行くようになり、中嶋悟さんをパドック裏で見かけたときに握手してもらおうかと思いましたが、緊張で動けなくなってしまいました。自分にとって中嶋悟さんは今でも伝説の男です。
89年のオーストラリアはリアルタイムで見てましたが、前を走るパトレーゼよりも明らかに早いペースで飛ばしていたので、’絶対に抜ける’と思っていたのですが、本当に惜しかった。セナのチームメイトだった時は速さでは負けていましたが、ピケと組んでいた時は殆ど互角の走りをしていた、と思います。
まあ、ピケはロータスがあまりに酷いんで殆どやる気なかったという事情を考慮してあげないとね中嶋と互角のように言うのはピケに対してあまりに失礼
当時中嶋親父の方は撮影機材を積んでいたのでセナより10キロ以上重い状態でした。
89年当時のいわゆる「2時間で打ち切りルール」がなければなぁ……って思った。あと、セナがホンダエンジンに乗った時に「振動がある、異常だ」って騒いだ時、桜井総監督と共に「正常ですよ」って言ってセナを納得させた逸話がありますよね。
中嶋伝説。俺にとってこの人はLEGEND。
89年のオーストラリアGPは 表彰台まで あと一歩 本当に 惜しかった、
中嶋悟氏は、正直後五年位早くF1デビューしてれば、表彰台どころか優勝もあり得ましたね。所属してたチーム(ロータス・ティレル)も低迷期でしたから運もなかった。
Lotusもアクティブサスがマッチせず、結果も出せず他をいじり下降線を辿った。Tyrrellは慢性資金難のチームだったが、エンジンよりピレリタイヤのチョイスが裏目に出たように思う。
もちろん中嶋自身の努力も、ホンダエンジンの後押しもあっただろうけど、現在では考えられない年齢でF-1デビューして、5年間フル参戦して、ファステストラップも記録してマールボロブックに名前が残るドライバーになったのだから素晴らしい。コンビを組んだドライバーもセナ、ピケ、アレジと(モデナはあえて触らない)そうそうたるドライバーだったね。
共通している事は『車のセッティングはサトル・ナカジーマさんがアップしてくれているのでその面では楽だった。』と言う事をセナ、ピケ、アレジと言ったドライバーが口にする程技量が高いドライバーでしたよね。
@@アルベルトアムル アレジに関して言えば正にそうですよね。中嶋のセッティングであれだけ暴れる事が出来たと思うし、実際フェラーリに移籍してからは泣かず飛ばすでしたからね。タイトルはおろか優勝一回だけというリザルトでしたから…
@@アルベルトアムル ヒーローズレーシングで中嶋さん、星野さんが一緒に走っていた頃、中嶋さんの方が星野さんより常に良い車に乗っていたと考える方が多いのです。何故ならいつも中嶋さんのマシンの方が良いセッティングだったから。それほどマシンセッティングに長けた方だったんです。
あんな豪華なメンバーと組めた日本人ドライバーです未だにいませんね、悟さん以外は。(但し、後に優勝、或いはチャンピオン獲得者と組めたドライバーはいますけど。)
モデナはジョーダン・ヤマハで散々な目に…。
初のF1フルタイムエントリーも勿論ですが、レーシングスクールで佐藤琢磨、角田裕毅の活躍の切っ掛けを作り、息子の一貴はル・マン三連覇というモータースポーツ史に残る偉業が輝かしいですね。
日本のF1ブームを作ったのはホンダでもセナでもなく中嶋悟F1では絶対に通用しないと思っていた日本人ドライバーが3度世界チャンピオンを取ったピケと千分の一まで同じタイムで予選を走った
雨の中嶋……雨と言えば星野一義氏もかなり強かったですが、やはり89年オーストラリアGPは76年エフワンインジャパンとは違いますね…。星野氏は好走しましたが結果はリタイアです。13年後の中嶋はファステストラップ サトル ナカジマが幾周と表示されました。セナもピケもプロストもマンセルもリタイアした豪雨のアデレードで……。駄作と言っても差し支えないロータス101でファステストラップを連発しながらの4位…。最高ですね。ストリートコースでのファステストラップ、入賞は中嶋悟ただ一人だと思います。ある意味でセナやピケと互角以上に戦えた唯一のドライバー……と私的には思ってますね。
雨のスパ予選で中嶋さんの走りを見ていたジャッキーイクスが「ナカジマのスロットルはセナより美しい。あいつ完璧だ」と言ってたそうです。それを伝え聞いた中嶋さんは「ジャッキーイクスはスパのヌシみたいな人だから嬉しかったね」と言ってました。ジェームスハントは雨のアデレード以降中嶋さんのファンになったようで、中嶋さんにも「お前うまいんだけど体力がないな」って声掛けてくれてたそうですね
80年代を戦ってたドライバーは、ほんとタフでしたもんね。なかでもチェザリスなんでゴリラみたいな体つきでしたからね笑
ピケも悟さんの事を体力的な…と指摘をしていました、日本人の悲しさか…?
中嶋さんと言えば『雨の中嶋』ですが、あの通り名は…体力面でのハンデが有った為に、『身体に掛かるGが幾分弱くなる』ウェット(路面)でしか本領発揮出来なかった…事を示してるのが、何とも(^^;)『身体的に充実していた頃に、挑戦出来ていたら…』と思わずにはいられないですね。
@@三木拓也-k2u さん、正直…日本、いや…東洋人の悲しさかも知れないですが、当時の悟さんは余りにも年齢的なハンディキャップがあり過ぎました…もっと角田君並みの若さがあれば。
@@t4k3z0u さん、通称殺しても死なないチェザリスでしたが…だけど2014年にバイク事故で他界されたそうです。
F1フル参戦したころは、バブル‼️免許がない自分は、埼玉から二子玉で行き、グッズを買っていた‼️深夜放送で眠い目をこすりながらOnタイムで見ていた‼️速報雑誌を買いレーザーデスクを買った‼️中嶋さんが在籍した5年が、一番熱い青春時代でした‼️
あの時はスリップに入ろうとするとミスファイアが起きてしまったと、川井ちゃんが言ってたような。いずれにしても中嶋が表彰台に一番近いレースだった。惜しい!
今考えると、アイルトン・セナやネルソン・ピケとチームメイトだった日本人レーサーがいるって相当すごいよなあ…。息子の中嶋一貴も、後にワールドチャンピオンになるニコ・ロズベルグとチームメイトだったし。
雨のオーストラリアも凄いですが、個人的には88年のスパの予選2回目2位が印象深いです。エンジニアのデンシャム氏が戻り、決勝もネルソンを後ろに連れて5位走行。がっ、惜しくもエンジントラブルでリタイア…ピットでマシンに乗りながら、ガクッと空を見つめる中嶋さんが印象深いです。
87年のギャラだけで言えば86年より安くて「なんでそこまでしてやるの?」と言われた事もあったそうだ。 中嶋さんに足りなかったのは『少しの運』、完走すればポイント確実のレースを何回落としたことか。 中嶋さんは6台のF1マシンでレース出走して全部のマシンでポイントを取ったのは中嶋さんだけ、当時の6位以内の入賞がどれだけ大変で 6位入賞と7位完走だと達成感が全然が違う時代、今のF1に『サバイバルレース』って縁遠くなったなぁ。
悟さんのデビュー戦…今ならば5ポイントゲットですね、間違えでしたらごめんなさい。
動画を見る前に皆様のコメントを読んでまた更に中嶋さんの伝説を知ることが出来ました。確かにチームメイトもセナ、ピケ、アレジ、モデナ…そんな面々が中嶋さんの引退を惜しみ、セナ以外のドライバーには雨では寄せ付けなかったのがとんでもない伝説でそれを当時見られたのはラッキーでした。いい時代に生まれたと思っています。中嶋さんの鈴鹿1コーナーのアウトからの大外刈り、エプソンカラーのティレル019は最高にカッコよかったです。今宮純さんが中嶋さんの引退当時にウエットでセナと対決したらどちらが速いんだろう?」と。ウエット対決を見たかったと仰っていました。「雨ではセナにも負けなかった、そんな日本人がいたってことを後々に語り継いでいきたいと思っていたので是非ともウエット直接対決を見たかった」のだと。たらればを言ってはいけないのですが雨のアデレードでセナがリタイアしてなければセナか中嶋さん、かどちらがファステストラップを取ったのかなぁ、と私も思います。HパターンのMTに超絶重ステ、TCS無し、1000馬力オーバーのドッカンターボエンジン…相当大変だっただろうし、決して言い訳をしなかったのが中嶋さんでした。
中嶋さんのデビューシーズンの87年の中盤戦の頃、プロスト・マンセル・ピケ・ベルガーの速さは理解ができる範疇だけど、セナの速さだけはどうしても理解が出来ないと仰っていました。本当にセナと中嶋さんの、雨のガチンコバトルを見てみたかったものです。
@@t4k3z0u 中嶋さんはセナにとってライバルにならなかったのかとても親切に色々と教えてくれた、と後に中嶋さんが仰っていましたが中嶋さんも初めてセナがタイトルを取った時に「アイルトンがプロストに勝ってくれた」と大喜びしていたそうですね。
雨の豪GP、中島の走りを手に汗握って深夜にブラウン管TVの前で応援してました!
89年最終戦アデレードですよね。前車の赤いテールランプがいきなり現れる,ものすごいウォータースクリーンだったと記憶しています。今どきのF1なら多分走らせない。あの当時だから実現したレースだったと思います。本当に巧いドライバーは,車の性能差がほとんどなくなる強烈なレインコンディションで分かる。
セナと中嶋とあとルーベンス・バリチェロも雨に強いかったかなあ。
70年代から80年代にかけて日本の自動車レース界でトップレーサーとして君臨した中嶋悟と星野一義。両者ともレーサー引退後、国内フォーミュラカテゴリーのチームを率いますが、中嶋さんが才能ある原石の若手ドライバーをじっくり育てる方針なのに対し、星野さんは「オレは最初から速いヤツ、勝てるヤツしか雇わない。時間かけて育てるなんてそんなゆとりはない」と言い切っています。 両者の現役時代からの性分と言うか考え方の差異がモロに表れていて興味深いです。
中嶋さん、「レーシングドライバーになる!」と将来の夢を御表明した際にお祖母ちゃんから「悟、頼むから暴走族になんかならないでおくれ(泣)」って嘆かれたんだって(笑)
日本人F1ドライバーの中では飛び抜けてレジェンド中のレジェンドだと思います。入賞回数や獲得ポイントは多くないですが、現在の2/3の開催数の16戦で、しかも6位までが入賞で、しかもセナやプロストやマンセルやピケやベルガーなど強豪がひしめくなか6位に入賞してやっと1ポイントの時代ですからね。そのほか歴代チームメイトがセナとピケとアレジっていうのもレジェンドといわれる所以だとおもいます。実際に本当に世界的にレジェンドで、むかし90年代後半に中嶋さんがF1のパドックを歩いた時に、近くを通った複数のピットのクルーがそれまで作業中だったのにみんな立ちあがって直立不動になった映像をみたことがあります。
俺が俺がのレースの世界でフォアザチームで真面目にコツコツ頑張る人柄が見えるエピソードですね。自分の中でも日本人F1パイロットといえば一番に浮かぶのは中嶋悟です。
雨が印象的なドライバーって能力も有るけど立場も有る。上位陣には取れないリスクがありますからね。
1980年の鈴鹿F2、当時中嶋は『チーム・イクザワ』からエントリーしていましたが、マシンは一年落ちのマーチ792、他の有力チームはマーチ802を使用していて中嶋は苦戦していました。確かグレート20だったと思いますが、その日の決勝は大雨でしたが、中嶋はスタート後にトップに立つと、他のドライバーが雨に足を取られて苦戦するのを尻目に独走状態に。途中でスプーンコーナーでスピンするも、一回転して何事も無い感じでそのままチェッカーを受けました。他にも1983年のレースでも豪雨の中を独走、このレースの最終コーナーでマシン3台によるクラッシュが発生(この事故が切っ掛けで、シケインが設けられました)。中嶋は直後に最終コーナーを抜けてきましたが、無事に通過して優勝しています。
ロータス初年度は、Tカー(予備車両)が一台しかなく使用出来るのもセナだけでしたが。シーズン中盤に、セナが中嶋さんのTカー使用を認めて、中嶋用シートを作成したそうです。中嶋さんは、雨のレースについて聞かれると「レインコンディションは嫌いだよ。好きなドライバーはいないでしょう。」とも答えていました。危険だと言うのは認識していました。中嶋さんを酷評していたBBCF1解説者ハント氏は、元F1チャンピオンです。中嶋さんが引退を表明して迎えた日本GPの鈴鹿サーキットパドックで、チームオーナーのケンティレル氏が、中嶋さんの為に新車を用意してくれたそうです。シリーズ終盤でチームの財政状況を考えたら、最後の母国GPを新車で心置きなく走って欲しい。というケンティレル氏の気持ちが嬉しかったそうです。ケンティレル氏は、チームの為に他のドライバーなら嫌がることを真摯に行う中嶋さんに感銘を受けていたそうです。
アル中&ヤク中のハントが言うな😂😂😂
0:21 タミヤ模型の1988年版カタログ、表紙を開くとロータス99Tが掲載されていた。当時「天才」アイルトン・セナが20代後半でで中嶋悟は30代半ばだったが、「岡崎市出身」と知って愛知県民として驚いた。
雨の中嶋といえば…グループAツーリングカーレースで雨の中、クラス3のシビックで総合優勝かっさらったのが今でも思い出します😅
本当に「たられば」の話ですが…もう少し体力のある年齢で中嶋さんF-1に行かれてたならまた違う結果があったかもしれないと今でも思います雨のアデレードもリアルタイムで観ながら「エンジンがジャッドじゃなくてホンダだったら」なんて思いながら文字通り手に汗握りながら見たのを覚えていますあの雨の中で中嶋さんのロータスが明らかに他の車とは違う速さでコースを駆け抜けていく姿は鳥肌が立ちましたし同じ日本人として誇りに思いました
中嶋さんといえばリタイアしないドライバーでしたね古舘さんが実況の時には「粘り強い納得走法」と言ってましたマシンにも優しい名ドライバーでした
“納得走法”ではなく“納豆走法”ですよ。ちゃんと推敲して下さい。
中嶋さんは「納豆走法」と言われる事に憤りを感じていたそうですスポンサーやチームへの気遣い、なにより万が一クラッシュしてシャシーを壊してしまった場合、新しいシャシーなど回って来ない…更に中古のボロシャシーしか与えられないので、次のレースを考えればおとなしく我慢の走行をするしかなかった…毎レース屈辱の走りだったと、引退後のインタビューで吐露されてました89年の最終戦、雨のアデレードはロータスから移籍するのは決まっていたし、同じマシンは翌年は使用しない事も分かっていたので、限界まで攻められた…そうです
そこを「俺納豆嫌いだから『甘納豆』にしてくれよ」とかわすのが中嶋さん。
88年メキシコ、89年ドイツも振り返りたい。
遥か昔、車(初代NSXだったと思うの)運転ビデオ(当時はDVDなんてなくってビデオ)でペダルを操る足捌きが凄く滑らかで、ドライバーいったい誰だろう?っ手思ったら中嶋悟氏だった。とんでもなく美しい動きだったことを思い出しました
基本他人を認めないジェームス・ハントが認めた数少ないドライバー
ハントによれば『同じマシンで雨の中で走ったらサトル・ナカジーマさんに勝てると感じますか?。』と言う質問に対して『そこが鈴鹿やアデレードなら5分5分で富士なら100%俺が勝つよね!。』と返していたのが懐かしいですね。そのハントが若くしてこの世を去ったと言う事が未だに信じられません。
@@アルベルトアムル そのハントが豪雨の富士を走った76年(F1世界選手権inJapan)を観戦していた中嶋さんが『(旧バンクがある関係などで、コースに轍があった当時の富士でホームストレートを)雨が一番溜まるラインを車が暴れようがなんだろうが、抑えこんで踏んでくる彼を見た時は衝撃的だった。でも僕からすると、なんでこのラインを走るんだろうって(笑)ライン取りを教えてやろうかって考えてたよ(笑)』って話でしたね。
あいつはタクシードライバーか?と馬鹿にしていたハントを申し訳無かったと謝罪させた悟さんは凄かったです。あの辛口評価のハントが。
@@アルベルトアムル93年でしたからイモラの悲劇の時にはもう居なかったんですね。
ヒーローズレーシングで星野さんのチームメイトだったころからのファンです。
89年オーストラリアGPリアルタイムで見ていたけど鳥肌が立ったなぁ
愛知県岡崎出身…雨の中嶋悟…最高🥺
引退レースのアデレードでレース開始前に突然雨が降ってきたときは期待したな結果リタイアだったけど最後のレースが雨というのも中島らしいと思ったな
日本でも大活躍してたブーツェンが、F1で上手く行ってない中嶋を気にかけてたそうだ。F1の強烈なグリップ力に腕力がついてこれなかったと知って「もう少し若くしてデビューしてれば」・・・そんな思いが今でもありますね。
F1にパワステがなかった時代に34歳でのデビューだったからな。
中嶋が引退すると聞いたネルソン・ピケが辞めるにはまだ若いと言った
そして翌年には歌手デビューも果たすんだぜ!wwwこの雨のアデレード戦はリアタイで見てめちゃくちゃ興奮したのを覚えてますし、レース終了後の中嶋さんが笑顔で耳栓をスポッと外しているシーンが脳裏に焼き付いていますね~
「悲しき水中翼船」今でも持ってます笑
@@t4k3z0u さん、あれは悟さんは相当嫌がっていたそうです…強引に歌わされたとかで。
@@マイルドジタン玉置さんとのツーショを見た記憶が😅😅😅
当時はパワステじゃ無かったから雨のが腕力や体力で不利な所カバー出来たんだよね
昔日本のレース界で言われていたのが、日本一速いのは星野、日本一上手いのは中嶋って言われてましたね。あと、晩年雨で速かったのは年齢的に体力が落ちて、パワステの無い当時のマシンで2時間走るのはかなり辛かったそうですが、雨が降るとグリップが無くなる分ステアリングが軽くなるので速く走れたそうです。と、いってもこんな芸当が出来たのは中嶋さんの実力があったからこそですね。
雨だと簡単にスピン出来ますしまずまっすぐ走らせる事すら難しい話、それを更に水捌けの悪いストリートコースでファステストラップを連発してほぼ最後尾から表彰台間近まで追い詰めたのは本当に伝説。たらればはいけませんがもう何周か長かったら?まともなグリッドからスタートしていれば?エンジンがもっとまともだったら?更には88年の鈴鹿でまともにスタート出来ていれば?けどそれでも決して言い訳をしなかったのが中嶋さんの人柄ですね。
当時レースで路面がウエットになったらセナと中島の独壇場だった非力なマシンや故障など不運が最後まで続いたが雨の日だけは違った
田中うめおさんも中嶋悟を資金難から救いましたよそれを取り込んで欲しかった
誰?ググると出ますか?
聴く前にググってくださいよ
@@ゴン中原95 何と、碧マツのお偉方でしたか。実は自分が中嶋さんを知ったのは緑のRX-3時代です、カテゴリー自体が不人気だったけどグラチャンのスーパーツーリングは世界に名を知らしめた人を輩出してましたね。関谷さんが元静岡マツダのディーラーマンだった事を知る人がどれだけ居るのか😅😅😅
昭和50年頃のピットスタッフが白いつなぎ姿の時代のレースを考えるとF1出場決めた時は本当かと思いましたが、確かにチャンスは自分で作らないとダメなんだって言うのは見た事がありますね、でもあの時代のレースをテレビで視ていたらとてもF1なんていうのは想像もつかなかったし。でも、あの時代の草レースっぽい雰囲気はそれなりに面白かったですね。
「雨なら...」 アイルトンは「雨なら」プロストをはじめとするF1の超一流を千切るような異次元の速さで他を圧倒しました。中島さんは「雨なら」ファステストラップや表彰台レベルに匹敵する速さを見せてくれました。つまり、そういうことです。パワステがあったらよかったね。
免許取得したばかりの頃、ガソリンスタンドで働きつつ、トラックでドラム缶の配達をする時に、倒さず転がさずに走ってドラテクの肝となる荷重移動を究めていた話…暴走豆腐屋の息子のストーリーと似ているのは、ノンフィクションなのです(笑)。
フレッシュマン時代に、サバンナREばかりの中ポンコツのファミリアでその年のシリーズチャンピオンになったとか。
@@黒瀬明文クボキヨのせいでそのエピソードがブチ壊し
中嶋さん自身の分析によれば、悲しい話ですが、F1では、雨でハンドルが軽くなる事、またスピードが落ちる事により、アクセルワークやブレーキ操作を繊細にコントロールできるようになるから早く走れるようになるって話でしたね。当時はパワステも無い時代でしたから、年齢的にF1に上がるのが遅れた事で、厳しい戦いを強いられましたね。
え~、今のF1てパワステなの?知らなかったわ幻滅~~~もう実車で走るのやめてゲーセンのドライビングゲームにすればいいじゃんそうすりゃあらゆる資源の節約になって、誰も怪我しないし名付けて F1 TAITO GRAND PRIX
鈴鹿のラストラン見に行ったよ今何処に居るか歓声で解る彼が通過すると歓声も一緒に回るリタイヤだったけど、最後に手をふったのは、未だ目に焼き付いている(3コーナー)で
こんなに凄いドライバーなのに、モナコでカメラマンにコーナーでのブレーキングポイントをセナと見比べて欲しいと頼んで、セナの方がもっと奥でブレーキしていると聞いてビックリした話しを聞いた事があります。チャンピオンになるドライバーは更に凄いんですよね。でも、中嶋さんの功績は日本のF1にとっては大事な事でした。
ありがとうございます。
当時中嶋さとる応援してたよ 中継が夜中で眠さと戦いながら みんながレースしてる中 風邪で休みってビックリしたよ
ネット情報見れる様になってNo.2ドライバーは性能落ちる車だったり環境悪い中頑張ってたんだなぁって わかりました!本気で応援してたよ 歌も良かった♪日本では、中継されなくなった?年末の総編集も録画してテープのびるまで見たなぁ 俺の青春 サトル中嶋🎉🎉🎉
この頃は良い時代だった F1ではホンダ WRCでは三菱 スバル トヨタ パリダカでは 三菱 日野 make JAPAN great again
雨のアデレード今もビデオ持てます本当にミスファイアさえ無ければ、セナは雨のドニントンで有名でも早い新人ドライバーを見つけるの凄い、何人もいるでも角田選手も中嶋からみだったとは。本当はF1の中継の解説してもらいたい。
VHSをDVD化して下さい、可能ですから…僕も見たいです。
雨の中嶋は89年のオーストラリアGPが有名ですが、それ以外にも雨のセッションでピケを上回る事は度々有りましたからね。89年で言えばカナダGPとベルギーGPは予選落ちしてしまって土砂降りの決勝を走れなかったのが本当に残念でした😢
雨降れば、操作系が幾分ラクになりライバル足り得ると中嶋さんが言ってました。
この年の中嶋さんのマシンはLotus101。当時解説者たちは「101」と略して話していたんだけど、「中嶋さんって101(育毛剤)使っているんですか?」って話に加わった女子アナがいた事を思い出す。有賀さつきさんだったような… 今でも薄毛の人車のナンバーが101だとそのエピソードを思い出す。
ドリームチーム生沢徹とのi &iレーシングを入れて欲しかった
中嶋は年齢もあって、体力差があった。しかし雨ならGフォースが軽減され、本来のドライビングテクニックが発揮できた。引退のアデレードが雨のときは89年の再来と思ったけど、スピンして本当に残念だった。
雨の中嶋と呼ばれたのはまだ全日本のF2走ってた頃に付いた名で、やっとF1に辿り着いた時には峠を越えていた。
中嶋、腕自体はF-1ドライバーの中でも高かったんだろうな。本人も言ってたけど、年齢と体力が厳しかった。雨で低速のレースになってコントロール能力が発揮できるチャンスがやって来た。まあ、引退レースも大雨だったのにリタイアしちゃったけど…
引退する時、ハンドルが重くてとこぼしたらホンダエンジニアが「シーズン前言ってくれたらパワステ付けたのに。」
中嶋曰く「雨だとタイヤのグリップとトラクションがセンシブルになるんで、力でこじるようなハンドルさばきができないボクのドライビングやパワー不足なうちの車の不利が消えるんだよ」と言ってた。決して雨は好きじゃないけど雨の時なら戦えると雑誌で言ってた記憶もある。今のF1はパワステついてるし、スタートなんかはトラクションコントロール付きのプログラムでいけるし、セミオートマティックで両腕はなさずギアチェンジできるし・・昔のF1マシンは今のドライバー速く走らせるの無理とか聞くしな・・中嶋さんはようがんばったよ。
プロストの雨嫌いは有名な話。大人になって理由を知ったら単なる我儘って思えなくなったなぁ。
プロストは雨嫌いはわがままかも?F1を政治利用とか…ちょっと考え物です。スポーツなのに、F1だって…。
プロストは若い頃は雨でも速かったし、得意だと言っていたんですよね。1980年アメリカGPの事故で「右眼の視力が低下し、特に薄暗くなると見え難くなる」障害になったのと、82年のドイツGPで雨天走行中にディディエ・ピローニと接触し選手生命を絶つというトラウマを抱えることとなった。この2つの事故により、雨天での危険な走行を辞めた。
@@カイザーソゼ-r2e 目の事は初耳でした。
年齢も年齢だし仕方ないとはいえ、体力がもう少し何とかなっていれば...
雨のナカジマの激走から19年後にご子息の一貴が雨のモナコGPで2番時計を叩き出しながらモナコ初入賞したのも伏線だったのか。タイヤ交換がもたつかなければ表彰台だった。
ファステストラップはボールポジションウィナーの3人は永久に残りますね
最強マシンに乗る日本一速い男、星野一義。でもウェットになれば"若手"の中嶋悟だったなあ
納豆走法と呼ばれた粘り強い走りは雨の中嶋の真骨頂
中嶋さんがセミオートマチック、パワステのマシンに乗れたらもっと上位に食い込んでいたと思う。 近くでロータス99のマシン(ホンダのイベント)を見た事が有りますが、ペラペラな印象でした。
オーストラリアGPの快走で株を上げたのはケンティレルかもしれない。ホンダエンジンが欲しい為に中嶋悟を起用したと思われていたところにこの快走でケンおじさんのほくそ笑む顔が国際映像で流れてたね。
予選落ちしちゃってたから仕方ないけど89年のカナダとベルギーは決勝レース走って欲しかった。
まったくだね。カナダは感想してれば表彰台間違いなしだった。惜しい。
運が大きく作用する世界だけど見つけてもらうには本人が実力を示していないと見つからないわけだし表彰台には立てなかったけどマシンのせいにしたりアクティブサスの良いマシンに乗ってもチームメイトと違って何度も車を壊したり文句ばかり言っていた亜久里と違って只々黙って自分のやれることをやっていたドライバーだから好きだったな。雨のアデレードはあの日中嶋さんが世界で一番早かった記録が残ってて嬉しいね。引退時にステアリングの重さを話したらホンダのチームが言ってくれればパワステ作ったのにみたいなこと言っててすごく惜しいと思った反面本人は重いハンドルを扱えて一流みたいなこと言っててプライドを感じたね。今はパワステが当たり前だけど34歳でデビューだったからかなりきつかったと思う。
14:39 「全戦が雨で開催されるなら」峠の下りで、リッターバイクをピタッと追尾する軽2輪スクーターですな
中嶋さんはF1参戦は最初断っていたようですね。でもホンダ側から日本でのF1人気を出すためとホンダエンジンの特性を知る中嶋さんにエンジンについてきちんと報告をしてほしいと言うことを何度もホンダ側からお願いされて参戦を決めたんだよね。でも当時のF1のステアリングの重さがどうしても辛くて晴れの日はレース終盤に疲れてしまい、それをしないようにとするとレースでのポテンシャルが出せなかったって。だから雨だとグリップが下がるから、自分の思うようにマシンを扱えるってことを言ってた。
中嶋のF1で2年目の1988年に他のチームがパワステを実戦投入した、その翌年にはまた別のチームがセミオートマを実戦にデビューさせた。どちらも最初はトラブル続きでまともに使えるようになったのは中嶋が引退する頃だった。
4:00 初の全日本F-2チャンピオン、欧州F-2遠征、なによりホンダとの繋がりが始まったのはハラダレーシングじゃなくて、生沢徹が設立したi&iレーシング。3000万の契約金を出したのはハラダレーシングだけど(この資金を元手に、将来は自チームでの欧州参戦を目論んでいたらしい)
確か生前の風戸さんがヨーロッパで騙されかけた事を知って生沢さんに対して不信になったんじゃないかな?
@@maruhiroya417 そのへんはわかりません。表になってる理由は、生沢さんの計画では年間5〜6戦しか欧州F-2に参戦できなかったのが、欧州に拠点を移してフル参戦を望んでいた中嶋さんには不満だったということです。
@@上杉貴志 その時の拗れが個人的にJPSと繋がってた生沢さんに遺恨という形で残ったとしたら中嶋さんがF1参戦する際にJPSがロータスと切れたのも合点が行きます。風戸さんとの件はグラチャン事故の動画で語ってた人がいましたよ、 #チームジャパン (#チームニッポン ?)でググると出るかもしれません。
たしか・・・中嶋さんが雨でスリップしてリタイアして、セナがレース中止しろの合図で、レース終わった事を思い出した。
雨の中嶋悟 古舘さんナレーション風に言うと出た! 中嶋の納豆走行1993年4月11日ヨーロッパGPでの雨のセナは神がかってた。
中嶋様♡♡♡♡♡♡
腕力不足のハンデが少なくなる雨のレースで速いのならば、テクニックとしてはかなり上位のドライバーなんでしょうね。実際、3位走行中のパトレーゼよりも圧倒的に速かったとか。エンジンのミスファイアが無ければ…。でも「これもレース」ですけどね。
とりあえずF1デビューが遅かった・・10年、いやあと5年早くデビューしていれば表彰台に上ったかもしれない。それでも正直、ほんとにF1は甘くないのでウェットコンディション、壊れないマシン(ウェットなのでエンジンパワーはいらない)、そしてある程度の棚ぼたなどの条件が揃えばの話だと個人的には思う。
幻の日本人初フルタイムF1ドライバー『瀬名』。
中嶋のよかった時期は89年まででしたね。確かにウェットコンディションは速かったですね。しかし、どう贔屓目に見ても予選、決勝での体力、ストリートコースではトップドライバーではなかったですね。
当時、リアルタイムでTV中継を視てたけど、ファステストラップを更新しながら3位のパトレーゼを猛追する姿に、心底シビレた。😊
89年の最終戦オーストラリアGPではプロストのボイコットとセナの事故で早々にレースを終えたマクラーレンのピットウォールで、ホンダスタッフが総出で中嶋さんを応援してるのを見て、とても胸が熱くなりました。
3位のパトレーゼより断然早いタイムで走ってるのに、ミスファイアによって近付けないもどかしさ。
本当に最高のレースでした。
あの時、高校生の私は、中嶋の走りに救われた…
中嶋こそ、私のヒーローです!
最後の中嶋さんの写真超かっこいいですね
勝利も表彰台もなかったけど僕にとっては永遠のヒーローです
このお話は何度聞いてもスカッとします。
中嶋さん夢をありがとう。
89年のオーストラリアGPは観ていて興奮しましたね
チ-ムロータスのスタッフだけでなく、HONDAのスタッフも現地で必死に応援してたのを覚えてます
あと、F1総集編でナレーションの城達也さんが「雨の日、雪の日、三河の山岳を車で攻めた、誰よりも速くコーナーを駆け抜けた、雨の中嶋の由来である」
この言葉も印象に残ってます。
89年のオーストラリアGPはリアタイで放送見てました
見ていて胸が熱くなったのがいい思い出
当時のロータスではありえない速さでしたね。ファステストラップの字幕にセナでもプロストでもなく映し出された「S.NAKAJIMA」の文字が感動でした
この年のロータス101が、ホンダエンジンだったら
間違いなく中嶋さんがパトレーゼさんに勝ってましたよ・・・きっと!
@@Taxi_go_3584さん。
上空ヘリ(よくあの土砂降りで😅)からの映像見ればストレートでは明らかに置いて行かれるのにコーナーで一気に差を詰める中嶋悟。
間違い無いですよね😊。
中嶋悟さんの走りには、アイルトンのような華やかさも、ナイジェルのような豪快さも、アランのような繊細さも無いけど、気付いたら後ろにいるという「怖さ」は有ると思います。
以前CSで当時の国際映像版の方流したの見ましたけど、あの雨の中他のドライバーはカウンター当てるのが普通に走ってたのが
中嶋さんだけ殆どカウンターも当てずにスムーズに曲がっていくのを見て繊細なドライブが凄いと思いましたね。
90年はティレルでアレジの活躍ばかりが目立ちましたが、それもいきなりピレリに変わったタイヤの使えるセット探しや
マシーン開発方面に中嶋さんが尽力してたのもあるんですよね
日本人F1ドライバーの中で、参戦したすべての年でポイントを獲得してる唯一のドライバーです。
しかも乗った全車種でポイント取ってますしね。 ロータス99T ロータス100T ロータス101 ティレル018 ティレル019 ティレル020
中嶋を見てくれた人がいて中嶋は夢を叶えそして時代が過ぎ、今度は中嶋が推薦したのが角田君。胸熱
ときには息子の一貴くんのことも思い出してあげてください
息子さんも非凡な才能だったけど。もう少しウィリアムズに入る時期が早かったらなぁ、、
子供の頃、夜中にやっていたF1をビデオに撮って、繰り返し何度も見ていた頃のドライバーや出来事が思い出されて凄く嬉しかったです。今後も楽しみにしています⭐︎
中嶋悟のマシン開発能力はピカイチ!
ロータス時代、セナにHONDAエンジンの
特性を教えたのも、ピケのセッティングを
出してたのも中嶋悟だったという…
雨でマシンが性能差や体力のハンデが
なくなれば、中嶋のテクニックが際立つ
…でも中嶋の「自分よりみんな」という
浪花節的性格では、生き馬の目を抜く、
他人を蹴落としてのし上がるF1界では
上位にはいけなかったんだよね
そんな中嶋悟が大好きなんだけどさ
あのケン・ティレルおじさんも、そこを気に入ってました。
「アレジはタイヤテストを全然やってくんなかった!だけどサトルは熱心にやってくれた!」と。
いいね〜浪花節👍
日本人初のフル参戦F1ドライバーが中嶋悟さんでしたね。そして、初めてのパートナーとなったのがセナだったというのも運命で。HONDAエンジンを知り尽くしHONDAに貢献してきたお二人だからお互いのデータを見たり聞き合ったりしていたそうで。
雨に強かったセナ
日本人では雨に強かった中嶋さん
ティレルへ移籍しても中嶋さんはかなり努力をされていましたね…。
雨の中嶋という名言は伝説。
中嶋さんの表彰台が見たかったです。
動画見てたら小さい頃見てたから、感動して涙出そうになった、F1参戦34歳だとセナでも体力的に下降してきた時だったよね
34歳でほとんど初めてのコースで結果残したのは凄いよ、お世辞にも速くはなかったけど、遅くもなかった
引退する年の最終戦が確か雨だったよね、まさに雨のナカジマ!
アデレードで、ファステストラップを叩き出しながらパトレーゼを追っかけ回している映像を見て応援してる自分に「ああ、これがナショナリズムか…」と思ったことを思い出した自分がいる…
雨の中嶋が 引退レースも雨でスピン リタイアなのもまた一興
当時は閉鎖的なヨーロッパの文化であったF1。この扉を力ずくでこじ開けたのは中嶋悟さん。彼が居なければ亜久里氏も琢磨氏も、ましてやyuki君もF1には乗れていなかった。
日本のレース界の宝ですよ。
未だに最も尊敬できるドライバーです。
高校時代に友達に薦められてF1を見始めたときに、中嶋悟さんが走っていた。
時は流れSUPER GTを見に行くようになり、中嶋悟さんをパドック裏で見かけたときに握手してもらおうかと思いましたが、緊張で動けなくなってしまいました。
自分にとって中嶋悟さんは今でも伝説の男です。
89年のオーストラリアはリアルタイムで見てましたが、前を走るパトレーゼよりも明らかに早いペースで飛ばしていたので、’絶対に抜ける’と思っていたのですが、本当に惜しかった。セナのチームメイトだった時は速さでは負けていましたが、ピケと組んでいた時は殆ど互角の走りをしていた、と思います。
まあ、ピケはロータスがあまりに酷いんで殆どやる気なかったという事情を考慮してあげないとね
中嶋と互角のように言うのはピケに対してあまりに失礼
当時中嶋親父の方は撮影機材を積んでいたのでセナより10キロ以上重い状態でした。
89年当時のいわゆる「2時間で打ち切りルール」がなければなぁ……って思った。
あと、セナがホンダエンジンに乗った時に「振動がある、異常だ」って騒いだ時、桜井総監督と共に「正常ですよ」って言ってセナを納得させた逸話がありますよね。
中嶋伝説。俺にとってこの人はLEGEND。
89年のオーストラリアGPは 表彰台まで あと一歩 本当に 惜しかった、
中嶋悟氏は、正直後五年位早くF1デビューしてれば、表彰台どころか優勝もあり得ましたね。
所属してたチーム(ロータス・ティレル)も低迷期でしたから運もなかった。
Lotusもアクティブサスが
マッチせず、結果も出せず
他をいじり下降線を辿った。
Tyrrellは慢性資金難のチーム
だったが、エンジンよりピレ
リタイヤのチョイスが裏目に
出たように思う。
もちろん中嶋自身の努力も、ホンダエンジンの後押しもあっただろうけど、現在では考えられない年齢でF-1デビューして、5年間フル参戦して、ファステストラップも記録してマールボロブックに名前が残るドライバーになったのだから素晴らしい。コンビを組んだドライバーもセナ、ピケ、アレジと(モデナはあえて触らない)そうそうたるドライバーだったね。
共通している事は『車のセッティングはサトル・ナカジーマさんがアップしてくれているのでその面では楽だった。』と言う事をセナ、ピケ、アレジと言ったドライバーが口にする程技量が高いドライバーでしたよね。
@@アルベルトアムル
アレジに関して言えば正にそうですよね。中嶋のセッティングであれだけ暴れる事が出来たと思うし、実際フェラーリに移籍してからは泣かず飛ばすでしたからね。タイトルはおろか優勝一回だけというリザルトでしたから…
@@アルベルトアムル ヒーローズレーシングで中嶋さん、星野さんが一緒に走っていた頃、中嶋さんの方が星野さんより常に良い車に乗っていたと考える方が多いのです。
何故ならいつも中嶋さんのマシンの方が良いセッティングだったから。
それほどマシンセッティングに長けた方だったんです。
あんな豪華なメンバーと組めた日本人ドライバーです未だにいませんね、悟さん以外は。(但し、後に優勝、或いはチャンピオン獲得者と組めたドライバーはいますけど。)
モデナはジョーダン・ヤマハで散々な目に…。
初のF1フルタイムエントリーも勿論ですが、レーシングスクールで佐藤琢磨、角田裕毅の活躍の切っ掛けを作り、息子の一貴はル・マン三連覇というモータースポーツ史に残る偉業が輝かしいですね。
日本のF1ブームを作ったのはホンダでもセナでもなく中嶋悟
F1では絶対に通用しないと思っていた日本人ドライバーが3度世界チャンピオンを取ったピケと千分の一まで同じタイムで予選を走った
雨の中嶋……雨と言えば星野一義氏もかなり強かったですが、やはり89年オーストラリアGPは76年エフワンインジャパンとは違いますね…。星野氏は好走しましたが結果はリタイアです。13年後の中嶋はファステストラップ サトル ナカジマが幾周と表示されました。セナもピケもプロストもマンセルもリタイアした豪雨のアデレードで……。駄作と言っても差し支えないロータス101でファステストラップを連発しながらの4位…。最高ですね。ストリートコースでのファステストラップ、入賞は中嶋悟ただ一人だと思います。ある意味でセナやピケと互角以上に戦えた唯一のドライバー……と私的には思ってますね。
雨のスパ予選で中嶋さんの走りを見ていたジャッキーイクスが「ナカジマのスロットルはセナより美しい。あいつ完璧だ」と言ってたそうです。それを伝え聞いた中嶋さんは「ジャッキーイクスはスパのヌシみたいな人だから嬉しかったね」と言ってました。
ジェームスハントは雨のアデレード以降中嶋さんのファンになったようで、中嶋さんにも「お前うまいんだけど体力がないな」って声掛けてくれてたそうですね
80年代を戦ってたドライバーは、ほんとタフでしたもんね。
なかでもチェザリスなんでゴリラみたいな体つきでしたからね笑
ピケも悟さんの事を体力的な…と指摘をしていました、日本人の悲しさか…?
中嶋さんと言えば『雨の中嶋』ですが、あの通り名は…体力面でのハンデが有った為に、
『身体に掛かるGが幾分弱くなる』ウェット(路面)でしか本領発揮出来なかった
…事を示してるのが、何とも(^^;)
『身体的に充実していた頃に、挑戦出来ていたら…』と思わずにはいられないですね。
@@三木拓也-k2u さん、正直…日本、いや…東洋人の悲しさかも知れないですが、当時の悟さんは余りにも年齢的なハンディキャップがあり過ぎました…もっと角田君並みの若さがあれば。
@@t4k3z0u さん、通称殺しても死なないチェザリスでしたが…だけど2014年にバイク事故で他界されたそうです。
F1フル参戦したころは、バブル‼️免許がない自分は、埼玉から二子玉で行き、グッズを買っていた‼️深夜放送で眠い目をこすりながらOnタイムで見ていた‼️速報雑誌を買いレーザーデスクを買った‼️中嶋さんが在籍した5年が、一番熱い青春時代でした‼️
あの時はスリップに入ろうとするとミスファイアが起きてしまったと、川井ちゃんが言ってたような。いずれにしても中嶋が表彰台に一番近いレースだった。惜しい!
今考えると、アイルトン・セナやネルソン・ピケとチームメイトだった日本人レーサーがいるって相当すごいよなあ…。
息子の中嶋一貴も、後にワールドチャンピオンになるニコ・ロズベルグとチームメイトだったし。
雨のオーストラリアも凄いですが、個人的には88年のスパの予選2回目2位が印象深いです。
エンジニアのデンシャム氏が戻り、決勝もネルソンを後ろに連れて5位走行。がっ、惜しくもエンジントラブルでリタイア…
ピットでマシンに乗りながら、ガクッと空を見つめる中嶋さんが印象深いです。
87年のギャラだけで言えば86年より安くて「なんでそこまでしてやるの?」と言われた事もあったそうだ。 中嶋さんに足りなかったのは『少しの運』、完走すればポイント確実のレースを何回落としたことか。 中嶋さんは6台のF1マシンでレース出走して全部のマシンでポイントを取ったのは中嶋さんだけ、当時の6位以内の入賞がどれだけ大変で 6位入賞と7位完走だと達成感が全然が違う時代、今のF1に『サバイバルレース』って縁遠くなったなぁ。
悟さんのデビュー戦…今ならば5ポイントゲットですね、間違えでしたらごめんなさい。
動画を見る前に皆様のコメントを読んでまた更に中嶋さんの伝説を知ることが出来ました。
確かにチームメイトもセナ、ピケ、アレジ、モデナ…そんな面々が中嶋さんの引退を惜しみ、セナ以外のドライバーには雨では寄せ付けなかったのがとんでもない伝説でそれを当時見られたのはラッキーでした。いい時代に生まれたと思っています。
中嶋さんの鈴鹿1コーナーのアウトからの大外刈り、エプソンカラーのティレル019は最高にカッコよかったです。
今宮純さんが中嶋さんの引退当時にウエットでセナと対決したらどちらが速いんだろう?」と。ウエット対決を見たかったと仰っていました。
「雨ではセナにも負けなかった、そんな日本人がいたってことを後々に語り継いでいきたいと思っていたので是非ともウエット直接対決を見たかった」のだと。
たらればを言ってはいけないのですが雨のアデレードでセナがリタイアしてなければセナか中嶋さん、かどちらがファステストラップを取ったのかなぁ、と私も思います。
HパターンのMTに超絶重ステ、TCS無し、1000馬力オーバーのドッカンターボエンジン…
相当大変だっただろうし、決して言い訳をしなかったのが中嶋さんでした。
中嶋さんのデビューシーズンの87年の中盤戦の頃、プロスト・マンセル・ピケ・ベルガーの速さは理解ができる範疇だけど、セナの速さだけはどうしても理解が出来ないと仰っていました。
本当にセナと中嶋さんの、雨のガチンコバトルを見てみたかったものです。
@@t4k3z0u
中嶋さんはセナにとってライバルにならなかったのかとても親切に色々と教えてくれた、と後に中嶋さんが仰っていましたが中嶋さんも初めてセナがタイトルを取った時に「アイルトンがプロストに勝ってくれた」と大喜びしていたそうですね。
雨の豪GP、中島の走りを手に汗握って深夜にブラウン管TVの前で応援してました!
89年最終戦アデレードですよね。
前車の赤いテールランプがいきなり現れる,ものすごいウォータースクリーンだったと記憶しています。
今どきのF1なら多分走らせない。あの当時だから実現したレースだったと思います。
本当に巧いドライバーは,車の性能差がほとんどなくなる強烈なレインコンディションで分かる。
セナと中嶋とあとルーベンス・バリチェロも雨に強いかったかなあ。
70年代から80年代にかけて日本の自動車レース界でトップレーサーとして君臨した中嶋悟と星野一義。
両者ともレーサー引退後、国内フォーミュラカテゴリーのチームを率いますが、中嶋さんが才能ある原石の
若手ドライバーをじっくり育てる方針なのに対し、星野さんは「オレは最初から速いヤツ、勝てるヤツしか雇わない。
時間かけて育てるなんてそんなゆとりはない」と言い切っています。 両者の現役時代からの性分と言うか
考え方の差異がモロに表れていて興味深いです。
中嶋さん、「レーシングドライバーになる!」と将来の夢を御表明した際に
お祖母ちゃんから「悟、頼むから暴走族になんかならないでおくれ(泣)」って嘆かれたんだって(笑)
日本人F1ドライバーの中では飛び抜けてレジェンド中のレジェンドだと思います。入賞回数や獲得ポイントは多くないですが、現在の2/3の開催数の16戦で、しかも6位までが入賞で、しかもセナやプロストやマンセルやピケやベルガーなど強豪がひしめくなか6位に入賞してやっと1ポイントの時代ですからね。そのほか歴代チームメイトがセナとピケとアレジっていうのもレジェンドといわれる所以だとおもいます。実際に本当に世界的にレジェンドで、むかし90年代後半に中嶋さんがF1のパドックを歩いた時に、近くを通った複数のピットのクルーがそれまで作業中だったのにみんな立ちあがって直立不動になった映像をみたことがあります。
俺が俺がのレースの世界でフォアザチームで真面目にコツコツ頑張る人柄が見えるエピソードですね。自分の中でも日本人F1パイロットといえば一番に浮かぶのは中嶋悟です。
雨が印象的なドライバーって能力も有るけど立場も有る。
上位陣には取れないリスクがありますからね。
1980年の鈴鹿F2、当時中嶋は『チーム・イクザワ』からエントリーしていましたが、マシンは一年落ちのマーチ792、他の有力チームはマーチ802を使用していて中嶋は苦戦していました。
確かグレート20だったと思いますが、その日の決勝は大雨でしたが、中嶋はスタート後にトップに立つと、他のドライバーが雨に足を取られて苦戦するのを尻目に独走状態に。
途中でスプーンコーナーでスピンするも、一回転して何事も無い感じでそのままチェッカーを受けました。
他にも1983年のレースでも豪雨の中を独走、このレースの最終コーナーでマシン3台によるクラッシュが発生(この事故が切っ掛けで、シケインが設けられました)。
中嶋は直後に最終コーナーを抜けてきましたが、無事に通過して優勝しています。
ロータス初年度は、Tカー(予備車両)が一台しかなく使用出来るのもセナだけでしたが。
シーズン中盤に、セナが中嶋さんのTカー使用を認めて、中嶋用シートを作成したそうです。
中嶋さんは、雨のレースについて聞かれると「レインコンディションは嫌いだよ。好きなドライバーはいないでしょう。」とも答えていました。危険だと言うのは認識していました。
中嶋さんを酷評していたBBCF1解説者ハント氏は、元F1チャンピオンです。
中嶋さんが引退を表明して迎えた日本GPの鈴鹿サーキットパドックで、チームオーナーのケンティレル氏が、中嶋さんの為に新車を用意してくれたそうです。シリーズ終盤でチームの財政状況を考えたら、最後の母国GPを新車で心置きなく走って欲しい。というケンティレル氏の気持ちが嬉しかったそうです。
ケンティレル氏は、チームの為に他のドライバーなら嫌がることを真摯に行う中嶋さんに感銘を受けていたそうです。
アル中&ヤク中のハントが言うな😂😂😂
0:21 タミヤ模型の1988年版カタログ、表紙を開くとロータス99Tが掲載されていた。当時「天才」アイルトン・セナが20代後半でで中嶋悟は30代半ばだったが、「岡崎市出身」と知って愛知県民として驚いた。
雨の中嶋といえば…
グループAツーリングカーレースで雨の中、クラス3のシビックで総合優勝かっさらったのが今でも思い出します😅
本当に「たられば」の話ですが…もう少し体力のある年齢で中嶋さんF-1に行かれてたならまた違う結果があったかもしれないと今でも思います
雨のアデレードもリアルタイムで観ながら「エンジンがジャッドじゃなくてホンダだったら」なんて思いながら文字通り手に汗握りながら見たのを覚えています
あの雨の中で中嶋さんのロータスが明らかに他の車とは違う速さでコースを駆け抜けていく姿は鳥肌が立ちましたし同じ日本人として誇りに思いました
中嶋さんといえばリタイアしないドライバーでしたね
古舘さんが実況の時には「粘り強い納得走法」と言ってました
マシンにも優しい名ドライバーでした
“納得走法”ではなく“納豆走法”ですよ。
ちゃんと推敲して下さい。
中嶋さんは「納豆走法」と言われる事に憤りを感じていたそうです
スポンサーやチームへの気遣い、なにより万が一クラッシュしてシャシーを壊してしまった場合、新しいシャシーなど回って来ない…更に中古のボロシャシーしか与えられないので、次のレースを考えればおとなしく我慢の走行をするしかなかった…毎レース屈辱の走りだったと、引退後のインタビューで吐露されてました
89年の最終戦、雨のアデレードはロータスから移籍するのは決まっていたし、同じマシンは翌年は使用しない事も分かっていたので、限界まで攻められた…そうです
そこを「俺納豆嫌いだから『甘納豆』にしてくれよ」とかわすのが中嶋さん。
88年メキシコ、89年ドイツも振り返りたい。
遥か昔、車(初代NSXだったと思うの)運転ビデオ(当時はDVDなんてなくってビデオ)でペダルを操る足捌きが凄く滑らかで、ドライバーいったい誰だろう?っ手思ったら中嶋悟氏だった。とんでもなく美しい動きだったことを思い出しました
基本他人を認めないジェームス・ハントが認めた数少ないドライバー
ハントによれば『同じマシンで雨の中で走ったらサトル・ナカジーマさんに勝てると感じますか?。』と言う質問に対して『そこが鈴鹿やアデレードなら5分5分で富士なら100%俺が勝つよね!。』と返していたのが懐かしいですね。
そのハントが若くしてこの世を去ったと言う事が未だに信じられません。
@@アルベルトアムル そのハントが豪雨の富士を走った76年(F1世界選手権inJapan)を観戦していた中嶋さんが『(旧バンクがある関係などで、コースに轍があった当時の富士でホームストレートを)雨が一番溜まるラインを車が暴れようがなんだろうが、抑えこんで踏んでくる彼を見た時は衝撃的だった。でも僕からすると、なんでこのラインを走るんだろうって(笑)
ライン取りを教えてやろうかって考えてたよ(笑)』って話でしたね。
あいつはタクシードライバーか?と馬鹿にしていたハントを申し訳無かったと謝罪させた悟さんは凄かったです。あの辛口評価のハントが。
@@アルベルトアムル
93年でしたからイモラの悲劇の時にはもう居なかったんですね。
ヒーローズレーシングで星野さんのチームメイトだったころからのファンです。
89年オーストラリアGPリアルタイムで見ていたけど鳥肌が立ったなぁ
愛知県岡崎出身…雨の中嶋悟…最高🥺
引退レースのアデレードでレース開始前に突然雨が降ってきたときは期待したな
結果リタイアだったけど最後のレースが雨というのも中島らしいと思ったな
日本でも大活躍してたブーツェンが、F1で上手く行ってない中嶋を気にかけてたそうだ。F1の強烈なグリップ力に腕力がついてこれなかったと知って「もう少し若くしてデビューしてれば」・・・そんな思いが今でもありますね。
F1にパワステがなかった時代に34歳でのデビューだったからな。
中嶋が引退すると聞いたネルソン・ピケが辞めるにはまだ若いと言った
そして翌年には歌手デビューも果たすんだぜ!www
この雨のアデレード戦はリアタイで見てめちゃくちゃ興奮したのを覚えてますし、レース終了後の中嶋さんが笑顔で耳栓をスポッと外しているシーンが脳裏に焼き付いていますね~
「悲しき水中翼船」今でも持ってます笑
@@t4k3z0u さん、あれは悟さんは相当嫌がっていたそうです…強引に歌わされたとかで。
@@マイルドジタン
玉置さんとのツーショを見た記憶が😅😅😅
当時はパワステじゃ無かったから雨のが腕力や体力で不利な所カバー出来たんだよね
昔日本のレース界で言われていたのが、日本一速いのは星野、日本一上手いのは中嶋って言われてましたね。
あと、晩年雨で速かったのは年齢的に体力が落ちて、パワステの無い当時のマシンで2時間走るのはかなり辛かったそうですが、雨が降るとグリップが無くなる分ステアリングが軽くなるので速く走れたそうです。
と、いってもこんな芸当が出来たのは中嶋さんの実力があったからこそですね。
雨だと簡単にスピン出来ますしまずまっすぐ走らせる事すら難しい話、それを更に水捌けの悪いストリートコースでファステストラップを連発してほぼ最後尾から表彰台間近まで追い詰めたのは本当に伝説。
たらればはいけませんが
もう何周か長かったら?
まともなグリッドからスタートしていれば?
エンジンがもっとまともだったら?
更には88年の鈴鹿でまともにスタート出来ていれば?
けどそれでも決して言い訳をしなかったのが中嶋さんの人柄ですね。
当時レースで路面がウエットになったらセナと中島の独壇場だった
非力なマシンや故障など不運が最後まで続いたが雨の日だけは違った
田中うめおさんも中嶋悟を資金難から救いましたよ
それを取り込んで欲しかった
誰?ググると出ますか?
聴く前にググってくださいよ
@@ゴン中原95
何と、碧マツのお偉方でしたか。実は自分が中嶋さんを知ったのは緑のRX-3時代です、カテゴリー自体が不人気だったけどグラチャンのスーパーツーリングは世界に名を知らしめた人を輩出してましたね。関谷さんが元静岡マツダのディーラーマンだった事を知る人がどれだけ居るのか😅😅😅
昭和50年頃のピットスタッフが白いつなぎ姿の時代のレースを考えるとF1出場決めた時は本当かと思いましたが、
確かにチャンスは自分で作らないとダメなんだって言うのは見た事がありますね、でもあの時代のレースをテレビで視ていたらとてもF1なんていうのは想像もつかなかったし。
でも、あの時代の草レースっぽい雰囲気はそれなりに面白かったですね。
「雨なら...」 アイルトンは「雨なら」プロストをはじめとするF1の超一流を千切るような異次元の速さで他を圧倒しました。中島さんは「雨なら」ファステストラップや表彰台レベルに匹敵する速さを見せてくれました。つまり、そういうことです。パワステがあったらよかったね。
免許取得したばかりの頃、ガソリンスタンドで働きつつ、トラックでドラム缶の配達をする時に、倒さず転がさずに走ってドラテクの肝となる荷重移動を究めていた話…暴走豆腐屋の息子のストーリーと似ているのは、ノンフィクションなのです(笑)。
フレッシュマン時代に、サバンナREばかりの中ポンコツのファミリアでその年のシリーズチャンピオンになったとか。
@@黒瀬明文
クボキヨのせいでそのエピソードがブチ壊し
中嶋さん自身の分析によれば、悲しい話ですが、F1では、雨でハンドルが軽くなる事、またスピードが落ちる事により、アクセルワークやブレーキ操作を繊細にコントロールできるようになるから早く走れるようになるって話でしたね。当時はパワステも無い時代でしたから、年齢的にF1に上がるのが遅れた事で、厳しい戦いを強いられましたね。
え~、今のF1てパワステなの?知らなかったわ
幻滅~~~
もう実車で走るのやめてゲーセンのドライビングゲームにすればいいじゃん
そうすりゃあらゆる資源の節約になって、誰も怪我しないし
名付けて F1 TAITO GRAND PRIX
鈴鹿のラストラン見に行ったよ
今何処に居るか歓声で解る
彼が通過すると歓声も一緒に回る
リタイヤだったけど、最後に手をふったのは、未だ目に焼き付いている
(3コーナー)で
こんなに凄いドライバーなのに、モナコでカメラマンにコーナーでのブレーキングポイントをセナと見比べて欲しいと頼んで、セナの方がもっと奥でブレーキしていると聞いてビックリした話しを聞いた事があります。チャンピオンになるドライバーは更に凄いんですよね。
でも、中嶋さんの功績は日本のF1にとっては大事な事でした。
ありがとうございます。
当時中嶋さとる応援してたよ 中継が夜中で眠さと戦いながら みんながレースしてる中 風邪で休みってビックリしたよ
ネット情報見れる様になってNo.2ドライバーは性能落ちる車だったり環境悪い中頑張ってたんだなぁって わかりました!本気で応援してたよ 歌も良かった♪日本では、中継されなくなった?年末の総編集も録画してテープのびるまで見たなぁ 俺の青春 サトル中嶋🎉🎉🎉
この頃は良い時代だった F1ではホンダ WRCでは三菱 スバル トヨタ パリダカでは 三菱 日野 make JAPAN great again
雨のアデレード今もビデオ持てます本当にミスファイアさえ無ければ、セナは雨のドニントンで有名でも早い新人ドライバーを見つけるの凄い、何人もいるでも角田選手も中嶋からみだったとは。本当はF1の中継の解説してもらいたい。
VHSをDVD化して下さい、可能ですから…僕も見たいです。
雨の中嶋は89年のオーストラリアGPが有名ですが、それ以外にも雨のセッションでピケを上回る事は度々有りましたからね。
89年で言えばカナダGPとベルギーGPは予選落ちしてしまって土砂降りの決勝を走れなかったのが本当に残念でした😢
雨降れば、操作系が幾分ラクになりライバル足り得ると中嶋さんが言ってました。
この年の中嶋さんのマシンはLotus101。当時解説者たちは「101」と略して話していたんだけど、「中嶋さんって101(育毛剤)使っているんですか?」って話に加わった女子アナがいた事を思い出す。有賀さつきさんだったような… 今でも薄毛の人車のナンバーが101だと
そのエピソードを思い出す。
ドリームチーム生沢徹とのi &iレーシングを入れて欲しかった
中嶋は年齢もあって、体力差があった。
しかし雨ならGフォースが軽減され、本来のドライビングテクニックが発揮できた。
引退のアデレードが雨のときは89年の再来と思ったけど、スピンして本当に残念だった。
雨の中嶋と呼ばれたのはまだ全日本のF2走ってた頃に付いた名で、やっとF1に辿り着いた時には峠を越えていた。
中嶋、腕自体はF-1ドライバーの中でも高かったんだろうな。
本人も言ってたけど、年齢と体力が厳しかった。
雨で低速のレースになってコントロール能力が発揮できるチャンスがやって来た。
まあ、引退レースも大雨だったのにリタイアしちゃったけど…
引退する時、ハンドルが重くてとこぼしたらホンダエンジニアが「シーズン前言ってくれたらパワステ付けたのに。」
中嶋曰く「雨だとタイヤのグリップとトラクションがセンシブルになるんで、力でこじるようなハンドルさばきができないボクのドライビングやパワー不足なうちの車の不利が消えるんだよ」と言ってた。決して雨は好きじゃないけど雨の時なら戦えると雑誌で言ってた記憶もある。
今のF1はパワステついてるし、スタートなんかはトラクションコントロール付きのプログラムでいけるし、セミオートマティックで両腕はなさずギアチェンジできるし・・昔のF1マシンは今のドライバー速く走らせるの無理とか聞くしな・・中嶋さんはようがんばったよ。
プロストの雨嫌いは有名な話。
大人になって理由を知ったら単なる我儘って思えなくなったなぁ。
プロストは雨嫌いはわがままかも?F1を政治利用とか…ちょっと考え物です。スポーツなのに、F1だって…。
プロストは若い頃は雨でも速かったし、得意だと言っていたんですよね。
1980年アメリカGPの事故で「右眼の視力が低下し、特に薄暗くなると見え難くなる」障害になったのと、82年のドイツGPで雨天走行中にディディエ・ピローニと接触し選手生命を絶つというトラウマを抱えることとなった。
この2つの事故により、雨天での危険な走行を辞めた。
@@カイザーソゼ-r2e
目の事は初耳でした。
年齢も年齢だし仕方ないとはいえ、体力がもう少し何とかなっていれば...
雨のナカジマの激走から19年後にご子息の一貴が雨のモナコGPで2番時計を叩き出しながらモナコ初入賞したのも伏線だったのか。
タイヤ交換がもたつかなければ表彰台だった。
ファステストラップは
ボールポジション
ウィナーの3人は永久に残りますね
最強マシンに乗る日本一速い男、星野一義。でもウェットになれば"若手"の中嶋悟だったなあ
納豆走法と呼ばれた粘り強い走りは雨の中嶋の真骨頂
中嶋さんがセミオートマチック、パワステのマシンに乗れたらもっと上位に食い込んでいたと思う。 近くでロータス99のマシン(ホンダのイベント)を見た事が有りますが、ペラペラな印象でした。
オーストラリアGPの快走で株を上げたのはケンティレルかもしれない。
ホンダエンジンが欲しい為に中嶋悟を起用したと思われていたところにこの快走でケンおじさんのほくそ笑む顔が国際映像で流れてたね。
予選落ちしちゃってたから仕方ないけど89年のカナダとベルギーは決勝レース走って欲しかった。
まったくだね。カナダは感想してれば表彰台間違いなしだった。惜しい。
運が大きく作用する世界だけど見つけてもらうには本人が実力を示していないと見つからないわけだし表彰台には立てなかったけどマシンのせいにしたりアクティブサスの良いマシンに乗ってもチームメイトと違って何度も車を壊したり文句ばかり言っていた亜久里と違って只々黙って自分のやれることをやっていたドライバーだから好きだったな。雨のアデレードはあの日中嶋さんが世界で一番早かった記録が残ってて嬉しいね。引退時にステアリングの重さを話したらホンダのチームが言ってくれればパワステ作ったのにみたいなこと言っててすごく惜しいと思った反面本人は重いハンドルを扱えて一流みたいなこと言っててプライドを感じたね。今はパワステが当たり前だけど34歳でデビューだったからかなりきつかったと思う。
14:39 「全戦が雨で開催されるなら」
峠の下りで、リッターバイクをピタッと追尾する軽2輪スクーターですな
中嶋さんはF1参戦は最初断っていたようですね。でもホンダ側から日本でのF1人気を出すためとホンダエンジンの特性を知る中嶋さんにエンジンについてきちんと報告をしてほしいと言うことを何度もホンダ側からお願いされて参戦を決めたんだよね。でも当時のF1のステアリングの重さがどうしても辛くて晴れの日はレース終盤に疲れてしまい、それをしないようにとするとレースでのポテンシャルが出せなかったって。だから雨だとグリップが下がるから、自分の思うようにマシンを扱えるってことを言ってた。
中嶋のF1で2年目の1988年に他のチームがパワステを実戦投入した、その翌年にはまた別のチームがセミオートマを実戦にデビューさせた。
どちらも最初はトラブル続きでまともに使えるようになったのは中嶋が引退する頃だった。
4:00 初の全日本F-2チャンピオン、欧州F-2遠征、なによりホンダとの繋がりが始まったのはハラダレーシングじゃなくて、生沢徹が設立したi&iレーシング。
3000万の契約金を出したのはハラダレーシングだけど(この資金を元手に、将来は自チームでの欧州参戦を目論んでいたらしい)
確か生前の風戸さんがヨーロッパで騙されかけた事を知って生沢さんに対して不信になったんじゃないかな?
@@maruhiroya417 そのへんはわかりません。
表になってる理由は、生沢さんの計画では年間5〜6戦しか欧州F-2に参戦できなかったのが、欧州に拠点を移してフル参戦を望んでいた中嶋さんには不満だったということです。
@@上杉貴志
その時の拗れが個人的にJPSと繋がってた生沢さんに遺恨という形で残ったとしたら中嶋さんがF1参戦する際にJPSがロータスと切れたのも合点が行きます。
風戸さんとの件はグラチャン事故の動画で語ってた人がいましたよ、 #チームジャパン (#チームニッポン ?)でググると出るかもしれません。
たしか・・・
中嶋さんが雨でスリップしてリタイアして、セナがレース中止しろの合図で、レース終わった事を思い出した。
雨の中嶋悟 古舘さんナレーション風に言うと出た! 中嶋の納豆走行
1993年4月11日ヨーロッパGPでの雨のセナは神がかってた。
中嶋様♡♡♡♡♡♡
腕力不足のハンデが少なくなる雨のレースで速いのならば、テクニックとしてはかなり上位のドライバーなんでしょうね。実際、3位走行中のパトレーゼよりも圧倒的に速かったとか。エンジンのミスファイアが無ければ…。でも「これもレース」ですけどね。
とりあえずF1デビューが遅かった・・
10年、いやあと5年早くデビューしていれば表彰台に上ったかもしれない。
それでも正直、ほんとにF1は甘くないのでウェットコンディション、壊れないマシン(ウェットなのでエンジンパワーはいらない)、そしてある程度の棚ぼたなどの条件が揃えばの話だと個人的には思う。
幻の日本人初フルタイムF1ドライバー『瀬名』。
中嶋のよかった時期は89年まででしたね。確かにウェットコンディションは速かったですね。しかし、
どう贔屓目に見ても予選、決勝での体力、ストリートコースではトップドライバーではなかったですね。