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急行高千穂の全区間乗車の需要はちゃんとありました。それは米国統治時代の沖縄の人なのです。当時の沖縄では国鉄の切符が買えるはずも無く、船で鹿児島に上陸してから乗車券と急行券(自由席)を買うのがやっとです。もちろん高千穂の他に桜島もありましたが、皆さんのご想像通り高千穂の方が着席確率が高いので敢えてこちらを選ぶ、と。沖縄復帰で国鉄那覇港駅(事実上の営業所)が設置され特急券や急行指定券が買えるようになって事実上の役割を終えてて、山陽新幹線博多開業までの数年は良く保ったと言えます。
14:31 全区間走破した人は少なかったと思いますが、当時は特急なんて贅沢な乗り物であり、また周遊券なら急行は料金不要だったので、そしてボックスシートが当たり前だったので、関東から九州まで、それなりに乗っていた人はいたと思います。
富士や高千穂が運転されていた時代は、現在とダイヤ作成に対する考えが違っており、少数の長大編成の列車を長距離で運転することにより、様々な需要を一本の列車で満たすようになっていました。それゆえ、国鉄当局も富士、高千穂を全線乗り通す客がほとんどいないことは織り込み済みであり、とくに宮崎以南の区間は、日豊本線や山陽本線沿線各地との連絡列車という利用が多かったと思われます。
夜行急行の一夜明けた後のすえた臭い、放置された弁当の残がいやカップ酒、疲れきってだらしなく眠る乗客を思い出しました。急行料金払って途中から乗りたいと思えない惨状でした。朝早い上野到着の「津軽」ならともかく、遅い時間帯に着く「八甲田」は荒れた車内のまま空気を運んでました。こういうのが長距離夜行急行が原因でしょうね。
寝台特急富士、子どもの頃「大人になったら乗るんだ!」と憧れていたなあ。寝台特急が全廃されるなんて、思っても見なかったあの頃・・・・・・
そういうのは料金半額の子供のうちに乗れって言われなかったんかな
高千穂などには敵いませんが全区間通しの乗客が多かった国鉄の超長距離列車といえば大阪~青森間(客レ時代)の急行「きたぐに」でしょうか。私を含め関西からワイド周遊券片手に北海道へ行く学生さんが愛用されていました。
田舎が札幌だったなので、幼い頃に「はくつる」や「ゆうづる」で青森、青函連絡船で函館に行き、「北斗」「北海」「おおぞら」「おおとり」で札幌に行った事が走馬灯の様に思い出す…また乗りたいなぁ
西鹿児島から東京まで高千穂の1等車で乗り通すのが子供の頃の夢でした。大分以降の食事は毎回食堂車で。タイムマシーン欲しい…。
ドラえもん寝台特急乗りたいよー
自分も食堂車に憧れてたんですが、いろいろ調べてたら平成末〜令和にかけて食品衛生法などの食品に関する法律が改正され、当時の食堂車の衛生基準が完全に対応できなくなってしまいました。今運営してる法対応の食堂車付きの列車は私鉄含め1か2編成ほどになってしまいましたね…(それ以外は冷食の持ち込み)利用者側にとっては食事の安心安全はありがたいことなんですが…もし食堂車付きの夜行がいまも多数存在してたとしても、法規制に合わせた改造にお金かかりすぎるので、冷食をチンするだけの提供方法になっていたでしょうね…
今大学生だけど乗せてくれた親に感謝
え、、何留…?
@たにおねぎ 現役生ですし留年もしてませんよw
@@初狩り大元帥んじゃあおかしくないか?仮に25年前(年齢)だとすると1975年にはならないぞ?1990年とかになる。
@@初雁れーる あー、動画内で富士・はやぶさの話が出てきたのでそれについて言及しただけです
@@初狩り大元帥 ん?乗せてくれた親に感謝って言ってたけど乗ったのか?
1966年3月だったと思うけど、吉都線の小林に行くため、高千穂で東京~都城乗りました。行きは寝台車でしたけど、帰りは普通車でした。その年の5月に再度、行きは飛行機(羽田~伊丹は2月に羽田沖に墜落したボーイング727)伊丹~鹿児島は、まだ鹿児島市内にあった鹿児島空港(今の鴨池辺り?)までフレンドシップというプロペラ機)。帰りは肥薩線経由で八代からはやぶさに乗りました。まだ蒸気機関車が引っ張っていました。高千穂が無くなった後、桜島っていう急行があったような・・・・
多分ですが、桜島は鹿児島本線経由の急行ではないでしょうか。元々「霧島」と言う愛称だったと思います。末期(?)には高千穂と併結して「高千穂」「桜島」となって、門司で分割(あるいは併結)してました。私が覚えている時代は列車番号が1101(桜島)・4101(高千穂)で、わざわざ高千穂の方に乗って西鹿児島まで行きました。寝台は既になく、「高千穂」「桜島」にグリーン車がそれぞれ1両付いてたぐらいです。なお「霧島」と言う愛称はその後関西と西鹿児島を結ぶ寝台電車特急に「きりしま」とひらがな表記で引き継がれました。
@@spy007ex4 そうなのかも知れませんね。なんとなく覚えているのは、桜島が大阪の方の始発の列車だった事は覚えています。
50年前の話しですが夏休みは必ず鹿児島の親戚宅で過ごしていました。夏休みが終わって福岡へ帰る時にタクシーの運転手さんに西駅までと言えば西鹿児島駅まで乗せてくれました。懐かしい記憶です。😊
1:01 昼行特急(朝に出発して深夜に到着)で1000km超えてたのは"白鳥"だけだぞかつて長距離昼行特急と言われた"なは"(大阪〜西鹿児島)、"日向"(大阪〜宮崎)、"つばめ"(名古屋〜熊本)はどれも900km台
50年前小学5年生の時に横浜から熱海迄乗りました。向かい合いの硬い木製座席が大変気に入りました。当初は浜松迄きっぷを買いましたが、途中で熱が出て引き返しました。今では良い思い出です。
意外と思うかもしれませんが、昭和48年頃に乗った記憶ではそこそこ入れ替わりながら乗客はありました。この頃の長距離列車は乗客の方も乗り慣れた強者が多かったですね。九州行きには焼酎の空になった一升瓶が付き物でした。
我ら【昭和時代の貧乏学生の旅】は『長距離急行』+「ユースホステル」が“定番”だった。
寝台特急が全盛期の頃、時刻表見ながらワクワクしてたな!
以前に都城で聞いたときには、むかしは高千穂で東京に行っていたという人が結構いましたから、往年には全区間とは言わないもののそれに近い区間に乗る客はそこまで少なくはなかったみたいですね。他にこれといった交通機関がなかったってことなんでしょうけど。
急行高千穂は対沖縄連絡列車の役割があったからなぁ
ああ〜…なるほどありがとうございます
1978,年3月に寝台特急あさかぜ下り1号上り4号を24系25型にあたり食堂車は新製されなかったために基本編成から付属編成に変わっている。これは基本編成だと3編成必要が付属編成だと2編成で済むためではやぶさと富士及び2編成で済む出雲がそれにあたる。それと24系24型に変わったときには関西地区発着の九州方面の寝台特急削減で捻出された車両を使用していた。ただ食堂車は5,両しか無く早岐客貨車区から転属のオシ14型を一部改造してオシ24型100番台になっている。
中学生のときに東京から京都まで利用した事があります。43系の客車だったと思いますが、正直に言って拷問です。夏休みでしたが、クーラーはもちろん無いし車販も無かっかな?数時間あとから発車する新幹線ひかりの方が先に京都に着く訳で、余程の暇人か変態でないと全線制覇なんて出来ないでしょう。唯一連結してあったグリーン車(クーラー付き)なら西鹿児島まで行けたかも知れませんが……当時は新快速で大阪に行き、新大阪に戻って寝台特急彗星に乗り換えました。懐かしい思い出です。
昭和40年代は西鹿児島行急行高千穂利用しました。日豊本線経由で東京-西鹿児島を結ぶとはいえ東海道本線の昼行急行の補完的な夜割があり、普通座席車の区間利用が多かったです。客車列車ですから酒臭い車内でも乗り心地はよかった。
高千穂は子どものとき東京─神戸を何回か乗せてもらった。新幹線が嫌いなへそまがりは自覚していた。1975年、新幹線博多開業で無くなったときは無念だった。どんなものにも、その時代に存在理由はあったのであり、何も知らない後世の人間が揶揄的に取り上げるべきではない。
親父が鹿児島出身だったので幼い頃富士で東京―西鹿児島間往復したのうっすらと覚えてます
2回寝台特急列車日本海に、新大阪から、青森まで乗った事がある。初めて新大阪から乗った時、まるで、999に乗る光景と、リンクした。
飛行機嫌いと鉄道マニアからしたら30時間とは言わなくとも同区間の夜行があればありがたいだろうな!九州の北と南だけでも、こんなに時間かかってたのか!
長時間走る列車は他にもありましたね。戦前は、国際列車というのがありました。旅客用の航空機のない時代の話です。急行「高千穂」は面白い列車でしたが、国鉄だから設定できた列車です。民間会社じゃ無理です。
古~い話ですが、史上最長距離を走った普通列車がありました。鹿児島発東京行きで41時間25分の所要時間です。34列車、鹿児島21時丁度発、翌々日の14時25分に東京到着。当時の駅で鹿児島含めて272の駅があり、通過駅は8駅のみというとんでもない列車です。
@@pin5861 関門トンネルが開業した1942年(昭和17年)11月改正で登場した列車で、片道だけの設定なのが特徴ですよね。それ以外にも東京1040→八代翌日の2303・八代835→東京翌日の2010の31・38列車、東京1525→長崎翌々日の729・長崎528→東京翌日の1840の35・36列車、東京1500→長崎翌日の1430・長崎港1530→長崎1540→東京翌日の1525の特別急行富士号1・2列車、都城2010→大阪翌日の2328の224列車(吉都線・肥薩線経由)などが設定されました。
少年の頃、大分駅の西大分側の引き上げ線に富士の追加編成が必ず入ってきてから駅に戻って行き、宮崎方面から来た車両と連結してるのを遠目に見ていました。懐かしい。
子供だったんで記憶が薄いけど、60年近く前に遠い親戚を訪ねるんで横浜から宮崎まで乗った。行きはハネだったけど途中で切り離されハザに乗換えた覚えはある。帰りは寝台が取れなかったんでロザで帰ってきた。
特急『富士』は 1回の運転で 反対側の『富士』と2回すれ違うという それだけでも最長距離運行を感じさせる列車でした。急行『高千穂』を全区間乗り通すお客さんは ゼロではないにしてもまずいなかったでしょうね。最末期は東京を10:00発 西鹿児島到着は翌日の14:20で 門司まで併結の急行『桜島(鹿児島本線経由)』に乗れば 西鹿児島には11:43到着でした。余談ですが 臨時列車ながら東京−下関を田町の167系で運行した急行『長州』は 最長距離の『電車急行』だったかも。
朝9時前に西駅(西鹿児島)に行くと、上り富士を牽引するDF50がアイドリングしてるのを見て、これから東京まで行くんだと思うと、遠さがひしひしと伝わりましたね。鹿児島本線経由のはやぶさは昼頃の始発だから違うもんだなあと思ってました。
はやぶさも2回すれ違ってたし、高千穂は3回すれ違ってた。
臨時急行長州は下関運転所の167系で修学旅行専用列車わこうどが運転されない多客期に運転されていました。また大阪万博の頃には下関運転所の167系8両と岡山電車区の165系6両を東京お菓子間は併結運転で急行瀬戸51号も運転されていた。しかし基本的には長州は下関運転所の167系10両編成であった。これが電車急行では最長です。
@@もりわききくお さまこれは失礼。下関の167系でしたか。ご指摘感謝します🙇運転日によっては同じスジで 広島行き臨時急行(修学旅行列車と同じ名の)『わこうど』大阪行き臨時急行『ながと』にもなりましたね。
爺さんの家の真ん前に山陽線が走ってたけど、ブルートレインが走るとテンションあがったなあ。結局大人になってから、何とかサンライズには乗れたな
高千穂が平仮名だと違和感が半端ないてすね
長距離急行の本来の目的は荷物(新聞など)と郵便輸送。その定時発着が重宝された時代。
生活に於いて何もかも緩かった時代の賜物ですね。
戦前にシャワー室が付いていたのはビックリ
蒸気機関車から熱源を容易く取れたと言うのが大きいですね。
急行たかちほ号は座席車が連結かつ急行券で乗車できるため短距離区間の利用多かった気がします、私も小学生時代通院でひとり隼人西鹿児島間乗車していました。
私も寝台特急「富士」は2回ほど乗りましたが、大分着でした。急行たかちほはテツの師匠は乗った経験があるようです。🚃
急行高千穂は、1970年頃に福岡県内から三宮まで乗りました。車両は、旧客で外装が青色に塗装されている以外は当時残っていた普通列車の客車と差はなかったような。
都城は、鹿児島でわなく宮崎県です。
でわなく、ではなくではなくです
良い動画でした。
急行高千穂が出てくるまでの前置きが長過ぎる🤣
Z世代のyoutuberに何を期待してる?外注丸投げじゃないだけましだと思いなさい(笑)
青森から大阪行きに新津駅から大阪まで乗りました懐かしいですね17歳でした
昔の一等展望車って凄い、まるで御召列車みたい。
我々はこの当時の電車に乗ってみたいな~と思う一方、当時の人は東京~西鹿児島(鹿児島中央)を電車で7時間足らずで移動できることをいいな~と思うのだろう。いつだって隣の芝は青い
宮脇秀三さんによると、昭和30年頃、東京~早岐の鈍行列車が、2日かかったそうです。
博多経由の鹿児島行き名称は確か「さつま」でしかかね?松本清張の作品を映画化した「張込み」では主人公が鳥栖まで乗り、そこで乗り換え佐賀まで行く設定がありました。横浜で飛び乗る撮影は一発勝負だったとか
桜島では?
「さつま」は伝説の2夜行ですね。戦前の2年間と昭和33年くらいまでしかありませんでしたが、急行としては霧島のスジよりもこっちが先に設定されましたね。
@@sunami808 そうでしたか。失礼しました
今の新幹線やパターン化した特急しかない時代には、車内トリックとか無理。当時を思うと、ワクワクしますね
日豊線の夜行列車は対関西だとフェリーがライバルでしたね。今でも大分や宮崎発着の夜行バスは少ないです。
当時西鹿児島へ、鹿児島本線と日豊本線を使って東京を往復していた急行桜島・高千穂でしょうか。
急行[高千穂]…と云えば、寝台車連結時代の頃に何故か上り東京行だけ(下りは東京→門司)筑豊本線の飯塚始発東京行の2等座席車1両を門司から連結していましたね。しかもこの飯塚からの車両は当時筑豊本線経由だった京都←熊本間の上り急行[天草]に飯塚から連結されて門司までやって来て[天草]から切り離し、数分前に先着していた上り東京行[高千穂]に再び連結されて[天草]よりも一足先に発車してゆく…という、何とも面白い運用でした(笑)
飯塚、門司でどのように連絡、つなぎ直しをしていたのでしょうか。飯塚で一番後ろに連結して門司で先発につなぎ直すには、一旦切り離して後退、隣のホームに待機中の先発にスイッチバックしないと無理そうです。今では考えられない芸当ですね。ほかにも、上野発、釜石、盛岡、花輪線回り?!の急行みちのくというのがあったと思いますが、これもあちこちで連結、つなぎ直しをしていて、ホームを行ったり来たりしないと無理そうです。不思議だ〜
@@巌鈴木-g4g 当時の[高千穂][天草]は郵便荷物車両を除きどちらも①~⑭号車という編成であり、東京←飯塚間の車両はいずれも東京方⑭号車に連結されていたようでしたので、まず先着の上り[高千穂]の門司まで牽引してきた機関車を切り離して引き上げ、[高千穂]を牽く関門専用の機関車が後から来た上り[天草]の東京方で待機し、[天草]到着後に同牽引機関車を切り離して引き上げさせた後、[高千穂]牽引機関車が転線の上、[天草]の東京方先頭の⑭号車に連結…そして⑭号車のみを牽いて再び[高千穂]が停まっている番線に転線して東京方先頭に連結し、[高千穂]は先発。[天草]には別の関門用機関車が東京方先頭に連結されて[高千穂]に続いて発車…といったような流れではなかったのかと個人的には想像いたします。まあいずれにせよ、機関車牽引列車が全盛の時代ならでは…の光景だったように思われますね。この時代頃までは今では考えられない区間を走る列車や面白い運用等が目白押しであり、鉄道好きには大変興味が尽きない良い時代でした。当時北九州には門司港発(~黒崎~直方~原田~博多~黒崎~)直方行…という当時の循環急行も顔負けのとんでもない普通列車(もちろん定期列車)等も走ってたみたいです(笑)
早速、詳しい説明、ありがとうございます。門司⇄下関は、関門トンネル専用の電気機関車に付け替えるから、こんな複雑な運用ができたんですね。蝶々みたいに軽々と華麗なダンス!!素敵です。また、門司港発のぐるっと一周各停も面白いですね。これなら、点と線も、戸津川警部も大活躍です。ただ、運転手や車掌さん、乗客も目が回りそう。時刻表自体が旅の味わいがある時代でしたね。ありがとうございました😃
もう日本では楽しめない過去のもの。外国で楽しんできます。(事実タイでブルートレイン乗ってきました。)車両は元新大阪から大分を走っていた彗星号。タイでももう新型導入と老朽化で廃止されちゃったけど。
1970年代位が国鉄最盛期だったかな?と感じています。時刻表を見るのが楽しみでした。
別会社とは言えJRグループで手を組み再度寝台特急走らせれば乗る人増えると思うけどなー。色んな問題あるかもしれないけど鉄道好きな方が増え旅行者が増えているわけですから。
戦前の富士の英文字表記「HUZI」だったんだ。こっちの書き方がかっこいいな
2000年頃だったかなぁ、九州から関西、東京に割引率の高い往復寝台切符が販売されてて、西鹿児島~東京をB寝台で36000円くらいだったかな。当時はLCCもなかったので、遊びに仕事に重宝してました。
自宅に「トワイライトエクスプレス大分行き」の方向幕があるいけど、まさか札幌からじゃないよね?季節専用車だったらしい・・。
出張の帰り、下関からあさかぜに乗り、大阪あたりで駅弁でも買おうかと思ったら広島を出た後、大阪、京都、名古屋を飛ばし次に停車したのは静岡だった。
特急[富士],急行[高千穂][桜島]どちらも食堂車連結当時が絶頂期だろう[🍴☕]
リニア開業時には富士が復活するのかな。でもほとんどがトンネルなので東海道区間のひかり又はこだまをふじに変更した方が良さそうだけど。
かつての高千穂の様に東京から鹿児島中央まで直通する新幹線の列車があったら面白いけどなぁ。でも4時間以上かかりそうだし、航空機の方が速くて便利だから需要は全く無さそうだな。
1977年夏休みに東京駅にブルトレを撮りに行きました。1630さくら、1645はやぶさ、1700みずほ、1時間空けて1800が西鹿児島行き富士でブルトレ発車が再開でしたね。その当時で西鹿児島着が1826だったのは忘れません。
最終が出雲・紀伊でしたね。
@hiroshia5789 さん撮りに行った頃の山陰行き2番目はまだ「いなば」でした。ゴハチ牽引でヘッドマークも無く、それまでの列車よりいきなり格下感を覚えたものです。
前振りが長すぎるよ。自分は、、、、12/31 東京→西鹿児島 「桜島 ロザ指」 改札出ずに乗継 1/ 1 西鹿児島→宮崎 「高千穂 ハザ自」下車翌日は、日南線~志布志線でC11貨物列車を撮影した。昭和何年かは忘れたが、この年の10/1 ~ 3/??の半年間は、< 201km~ >のG料金が最大2000円だった。 桜島のG席は「4D」だった。途中金光駅辺りで日付が変わり新年を迎えた。スゴイッショ!?!?!?
3段ベット懐かしですね
今では、鹿児島へ新幹線で行ける時代だからね。
太平洋戦争末期、終戦直後に東京初門司港行きの普通列車があって2晩超えて走るダイヤだったとか。社会状況からまともに運行できていたか怪しい。それに関するより詳しい情報があったら欲しい。
サンライズ出雲 楽しかったなー結局東京まで一睡もしなかったw
夕方の大阪駅で(桜島)(高千穂)を見かけました。そのまま乗って西鹿児島まで行っちゃうか?と思いましたが、かーぁちゃんにしかられるので辞めました。笑
「高千穂」の後継とは何かて聞かれたら、強いて挙げれば門司港始発・終着の夜行「日南」がそれに近いか?もっともこれは宮崎以南寝台車連結のローカル列車やけど、つまり一本の長距離列車で複数の役割を担っとった点では「高千穂・桜島」と共通やろうな。
2:27 当時の長距離移動手段は鉄道と船舶のみ。そりゃ時間掛かるわ。2ヵ月前に大西洋上でタイタニック号が沈没していますね。
「だれも乗らないのに」wwwwZ世代のyoutuberはそういうイメージなんですね。
戦前どころか『大正時代の誕生』のぞみ如きなんぞとは『歴史の重みが、いや、格が違いすぎて大爆笑ꉂ🤣𐤔😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂』
乗ってみたかったなあ
13:01 都城は宮崎県なのでよろしく
『みやこんじょ』は 東国原英夫さんの出身地ですね。
1968年から1975年までの食堂車と寝台車廃止されてた期間にあえて全区間乗った奴いそうw
ヨンサントウダイヤ改正からは急行霧島(ヨンゴウトウから桜島)と併結されていてヨンナナサンダイヤ改正までは霧島の方に食堂車が連結されていた。
国鉄時代の周遊券は普通急行列車利用ができたのでそれで使っていた人は割といそうではある
ヨンナナサンダイヤ改正で東京発が1時間早くなり、博多と大分着が早朝になった。ヨンサントウダイヤ改正で東京発着が残されたのは周遊券族にとってはありがたかった。ただ全体的には東海道本線区間は新幹線の止まらない駅など短距離移動に使用されていて山陽区間からは夜行列車として寝台特急の補完にあたっていた。またこの列車は明石や、加古川には止まらず米原にも止まらなかった。岐阜を出ると大津までノンストップだった。
ん?都城って鹿児島?宮崎ちゃうかった?社会人になって寝台結構乗ったけどサンライズ以外なくなる未来は想像できひんかったなぁ。
都城市は宮崎県
旦奈→旦那 だよ😅
次に富士が使われるとしたらリニアかな。
夜行列車乗った 2001年1月
食堂車が無い寝台列車に魅力は無え!
今からすると、27時間も寝台で寝たままの旅なんて羨ましすぎる
個室は兎も角、B寝台は朝7時頃から座席にセットされました。
「高千穂」は、寝台列車になったことは一度もないと思うけど。そもそも最盛期でも寝台車は3両だけだし、それも大分止まりなので。夜行列車と言うことでなら、文句なしの最長ですが。
急行『さつま』も、大概な列車だと思いますが…
急行高千穂の全区間乗車の需要はちゃんとありました。それは米国統治時代の沖縄の人なのです。
当時の沖縄では国鉄の切符が買えるはずも無く、船で鹿児島に上陸してから乗車券と急行券(自由席)を買うのがやっとです。
もちろん高千穂の他に桜島もありましたが、皆さんのご想像通り高千穂の方が着席確率が高いので敢えてこちらを選ぶ、と。
沖縄復帰で国鉄那覇港駅(事実上の営業所)が設置され特急券や急行指定券が買えるようになって事実上の役割を終えてて、
山陽新幹線博多開業までの数年は良く保ったと言えます。
14:31 全区間走破した人は少なかったと思いますが、当時は特急なんて贅沢な乗り物であり、また周遊券なら急行は料金不要だったので、そしてボックスシートが当たり前だったので、関東から九州まで、それなりに乗っていた人はいたと思います。
富士や高千穂が運転されていた時代は、現在とダイヤ作成に対する考えが違っており、少数の長大編成の列車を長距離で運転することにより、様々な需要を一本の列車で満たすようになっていました。
それゆえ、国鉄当局も富士、高千穂を全線乗り通す客がほとんどいないことは織り込み済みであり、とくに宮崎以南の区間は、日豊本線や山陽本線沿線各地との連絡列車という利用が多かったと思われます。
夜行急行の一夜明けた後のすえた臭い、放置された弁当の残がいやカップ酒、疲れきってだらしなく眠る乗客を思い出しました。急行料金払って途中から乗りたいと思えない惨状でした。朝早い上野到着の「津軽」ならともかく、遅い時間帯に着く「八甲田」は荒れた車内のまま空気を運んでました。こういうのが長距離夜行急行が原因でしょうね。
寝台特急富士、子どもの頃「大人になったら乗るんだ!」と憧れていたなあ。
寝台特急が全廃されるなんて、思っても見なかったあの頃・・・・・・
そういうのは料金半額の子供のうちに乗れって言われなかったんかな
高千穂などには敵いませんが全区間通しの乗客が多かった国鉄の超長距離列車といえば大阪~青森間(客レ時代)の急行「きたぐに」でしょうか。私を含め関西からワイド周遊券片手に北海道へ行く学生さんが愛用されていました。
田舎が札幌だったなので、幼い頃に「はくつる」や「ゆうづる」で青森、青函連絡船で函館に行き、「北斗」「北海」「おおぞら」「おおとり」で札幌に行った事が走馬灯の様に思い出す…また乗りたいなぁ
西鹿児島から東京まで高千穂の1等車で乗り通すのが子供の頃の夢でした。大分以降の食事は毎回食堂車で。タイムマシーン欲しい…。
ドラえもん寝台特急乗りたいよー
自分も食堂車に憧れてたんですが、
いろいろ調べてたら平成末〜令和にかけて食品衛生法などの食品に関する法律が改正され、
当時の食堂車の衛生基準が
完全に対応できなくなって
しまいました。
今運営してる法対応の食堂車付きの列車は私鉄含め1か2編成ほどになってしまいましたね…(それ以外は冷食の持ち込み)
利用者側にとっては
食事の安心安全は
ありがたいことなんですが…
もし食堂車付きの夜行がいまも
多数存在してたとしても、
法規制に合わせた改造に
お金かかりすぎるので、
冷食をチンするだけの提供方法になっていたでしょうね…
今大学生だけど乗せてくれた親に感謝
え、、何留…?
@たにおねぎ 現役生ですし留年もしてませんよw
@@初狩り大元帥んじゃあおかしくないか?仮に25年前(年齢)だとすると1975年にはならないぞ?1990年とかになる。
@@初雁れーる あー、動画内で富士・はやぶさの話が出てきたのでそれについて言及しただけです
@@初狩り大元帥 ん?乗せてくれた親に感謝って言ってたけど乗ったのか?
1966年3月だったと思うけど、吉都線の小林に行くため、高千穂で東京~都城乗りました。行きは寝台車でしたけど、帰りは普通車でした。その年の5月に再度、行きは飛行機(羽田~伊丹は2月に羽田沖に墜落したボーイング727)伊丹~鹿児島は、まだ鹿児島市内にあった鹿児島空港(今の鴨池辺り?)までフレンドシップというプロペラ機)。帰りは肥薩線経由で八代からはやぶさに乗りました。まだ蒸気機関車が引っ張っていました。高千穂が無くなった後、桜島っていう急行があったような・・・・
多分ですが、桜島は鹿児島本線経由の急行ではないでしょうか。元々「霧島」と言う愛称だったと思います。末期(?)には高千穂と併結して「高千穂」「桜島」となって、門司で分割(あるいは併結)してました。私が覚えている時代は列車番号が1101(桜島)・4101(高千穂)で、わざわざ高千穂の方に乗って西鹿児島まで行きました。寝台は既になく、「高千穂」「桜島」にグリーン車がそれぞれ1両付いてたぐらいです。
なお「霧島」と言う愛称はその後関西と西鹿児島を結ぶ寝台電車特急に「きりしま」とひらがな表記で引き継がれました。
@@spy007ex4 そうなのかも知れませんね。なんとなく覚えているのは、桜島が大阪の方の始発の列車だった事は覚えています。
50年前の話しですが夏休みは
必ず鹿児島の親戚宅で過ごして
いました。夏休みが終わって
福岡へ帰る時にタクシーの運転手
さんに西駅までと言えば西鹿児島駅まで乗せてくれました。
懐かしい記憶です。😊
1:01 昼行特急(朝に出発して深夜に到着)で1000km超えてたのは"白鳥"だけだぞ
かつて長距離昼行特急と言われた"なは"(大阪〜西鹿児島)、"日向"(大阪〜宮崎)、"つばめ"(名古屋〜熊本)はどれも900km台
50年前小学5年生の時に横浜から熱海迄乗りました。向かい合いの硬い木製座席が大変気に入りました。当初は浜松迄きっぷを買いましたが、途中で熱が出て引き返しました。今では良い思い出です。
意外と思うかもしれませんが、昭和48年頃に乗った記憶ではそこそこ入れ替わりながら乗客はありました。この頃の長距離列車は乗客の方も乗り慣れた強者が多かったですね。九州行きには焼酎の空になった一升瓶が付き物でした。
我ら【昭和時代の貧乏学生の旅】は『長距離急行』+「ユースホステル」が“定番”だった。
寝台特急が全盛期の頃、時刻表見ながらワクワクしてたな!
以前に都城で聞いたときには、むかしは高千穂で東京に行っていたという人が結構いましたから、往年には全区間とは言わないもののそれに近い区間に乗る客はそこまで少なくはなかったみたいですね。他にこれといった交通機関がなかったってことなんでしょうけど。
急行高千穂は対沖縄連絡列車の役割があったからなぁ
ああ〜…なるほど
ありがとうございます
1978,年3月に寝台特急あさかぜ下り1号上り4号を24系25型にあたり食堂車は新製されなかったために基本編成から付属編成に変わっている。これは基本編成だと3編成必要が付属編成だと2編成で済むためではやぶさと富士及び2編成で済む出雲がそれにあたる。それと24系24型に変わったときには関西地区発着の九州方面の寝台特急削減で捻出された車両を使用していた。ただ食堂車は5,両しか無く早岐客貨車区から転属のオシ14型を一部改造してオシ24型100番台になっている。
中学生のときに東京から京都まで利用した事があります。43系の客車だったと思いますが、正直に言って拷問です。夏休みでしたが、クーラーはもちろん無いし車販も無かっかな?
数時間あとから発車する新幹線ひかりの方が先に京都に着く訳で、余程の暇人か変態でないと全線制覇なんて出来ないでしょう。
唯一連結してあったグリーン車(クーラー付き)なら西鹿児島まで行けたかも知れませんが……
当時は新快速で大阪に行き、新大阪に戻って寝台特急彗星に乗り換えました。
懐かしい思い出です。
昭和40年代は西鹿児島行急行高千穂利用しました。日豊本線経由で東京-西鹿児島を結ぶとはいえ東海道本線の昼行急行の補完的な夜割があり、普通座席車の区間利用が多かったです。客車列車ですから酒臭い車内でも乗り心地はよかった。
高千穂は子どものとき東京─神戸を何回か乗せてもらった。新幹線が嫌いなへそまがりは自覚していた。1975年、新幹線博多開業で無くなったときは無念だった。
どんなものにも、その時代に存在理由はあったのであり、何も知らない後世の人間が揶揄的に取り上げるべきではない。
親父が鹿児島出身だったので幼い頃富士で東京―西鹿児島間往復したのうっすらと覚えてます
2回寝台特急列車日本海に、新大阪から、青森まで乗った事がある。初めて新大阪から乗った時、まるで、999に乗る光景と、リンクした。
飛行機嫌いと鉄道マニアからしたら30時間とは言わなくとも同区間の夜行があればありがたいだろうな!
九州の北と南だけでも、こんなに時間かかってたのか!
長時間走る列車は他にもありましたね。
戦前は、国際列車というのがありました。旅客用の航空機のない時代の話です。
急行「高千穂」は面白い列車でしたが、国鉄だから設定できた列車です。民間会社じゃ無理です。
古~い話ですが、史上最長距離を走った普通列車がありました。
鹿児島発東京行きで41時間25分の所要時間です。
34列車、鹿児島21時丁度発、翌々日の14時25分に東京到着。
当時の駅で鹿児島含めて272の駅があり、通過駅は8駅のみというとんでもない列車です。
@@pin5861 関門トンネルが開業した1942年(昭和17年)11月改正で登場した列車で、片道だけの設定なのが特徴ですよね。それ以外にも東京1040→八代翌日の2303・八代835→東京翌日の2010の31・38列車、東京1525→長崎翌々日の729・長崎528→東京翌日の1840の35・36列車、東京1500→長崎翌日の1430・長崎港1530→長崎1540→東京翌日の1525の特別急行富士号1・2列車、都城2010→大阪翌日の2328の224列車(吉都線・肥薩線経由)などが設定されました。
少年の頃、大分駅の西大分側の引き上げ線に富士の追加編成が必ず入ってきてから駅に戻って行き、宮崎方面から来た車両と連結してるのを遠目に見ていました。懐かしい。
子供だったんで記憶が薄いけど、60年近く前に遠い親戚を訪ねるんで横浜から宮崎まで乗った。行きはハネだったけど途中で切り離されハザに乗換えた覚えはある。帰りは寝台が取れなかったんでロザで帰ってきた。
特急『富士』は 1回の運転で 反対側の『富士』と2回すれ違うという それだけでも最長距離運行を感じさせる列車でした。
急行『高千穂』を全区間乗り通すお客さんは ゼロではないにしてもまずいなかったでしょうね。
最末期は東京を10:00発 西鹿児島到着は翌日の14:20で 門司まで併結の急行『桜島(鹿児島本線経由)』に乗れば 西鹿児島には11:43到着でした。
余談ですが 臨時列車ながら東京−下関を田町の167系で運行した急行『長州』は 最長距離の『電車急行』だったかも。
朝9時前に西駅(西鹿児島)に行くと、上り富士を牽引するDF50がアイドリングしてるのを見て、これから東京まで行くんだと思うと、遠さがひしひしと伝わりましたね。鹿児島本線経由のはやぶさは昼頃の始発だから違うもんだなあと思ってました。
はやぶさも2回すれ違ってたし、高千穂は3回すれ違ってた。
臨時急行長州は下関運転所の167系で修学旅行専用列車わこうどが運転されない多客期に運転されていました。また大阪万博の頃には下関運転所の167系8両と岡山電車区の165系6両を東京お菓子間は併結運転で急行瀬戸51号も運転されていた。しかし基本的には長州は下関運転所の167系10両編成であった。これが電車急行では最長です。
@@もりわききくお さま
これは失礼。下関の167系でしたか。
ご指摘感謝します🙇
運転日によっては同じスジで 広島行き臨時急行(修学旅行列車と同じ名の)『わこうど』大阪行き臨時急行『ながと』にもなりましたね。
爺さんの家の真ん前に山陽線が走ってたけど、ブルートレインが走るとテンションあがったなあ。
結局大人になってから、何とかサンライズには乗れたな
高千穂が平仮名だと違和感が半端ないてすね
長距離急行の本来の目的は荷物(新聞など)と郵便輸送。
その定時発着が重宝された時代。
生活に於いて何もかも緩かった時代の賜物ですね。
戦前にシャワー室が付いていたのはビックリ
蒸気機関車から熱源を容易く取れたと言うのが大きいですね。
急行たかちほ号は座席車が連結かつ急行券で乗車できるため短距離区間の利用多かった気がします、私も小学生時代通院でひとり隼人西鹿児島間乗車していました。
私も寝台特急「富士」は2回ほど乗りましたが、大分着でした。急行たかちほはテツの師匠は乗った経験があるようです。🚃
急行高千穂は、1970年頃に福岡県内から三宮まで乗りました。車両は、旧客で外装が青色に塗装されている以外は当時残っていた普通列車の客車と差はなかったような。
都城は、鹿児島でわなく宮崎県です。
でわなく、ではなく
ではなくです
でわなく、ではなく
ではなくです
良い動画でした。
急行高千穂が出てくるまでの前置きが長過ぎる🤣
Z世代のyoutuberに何を期待してる?外注丸投げじゃないだけましだと思いなさい(笑)
青森から大阪行きに新津駅から大阪まで乗りました懐かしいですね17歳でした
昔の一等展望車って凄い、まるで御召列車みたい。
我々はこの当時の電車に乗ってみたいな~と思う一方、当時の人は東京~西鹿児島(鹿児島中央)を電車で7時間足らずで移動できることをいいな~と思うのだろう。いつだって隣の芝は青い
宮脇秀三さんによると、昭和30年頃、東京~早岐の鈍行列車が、2日かかったそうです。
博多経由の鹿児島行き名称は確か「さつま」でしかかね?松本清張の作品を映画化した「張込み」では主人公が鳥栖まで乗り、そこで乗り換え佐賀まで行く設定がありました。横浜で飛び乗る撮影は一発勝負だったとか
桜島では?
「さつま」は伝説の2夜行ですね。戦前の2年間と昭和33年くらいまでしかありませんでしたが、急行としては霧島のスジよりもこっちが先に設定されましたね。
@@sunami808 そうでしたか。失礼しました
今の新幹線やパターン化した特急しかない時代には、車内トリックとか無理。当時を思うと、ワクワクしますね
日豊線の夜行列車は対関西だとフェリーがライバルでしたね。
今でも大分や宮崎発着の夜行バスは少ないです。
当時西鹿児島へ、鹿児島本線と日豊本線を使って東京を往復していた急行桜島・高千穂
でしょうか。
急行[高千穂]…と云えば、寝台車連結時代の頃に何故か上り東京行だけ(下りは東京→門司)筑豊本線の飯塚始発東京行の2等座席車1両を門司から連結していましたね。
しかもこの飯塚からの車両は当時筑豊本線経由だった京都←熊本間の上り急行[天草]に飯塚から連結されて門司までやって来て[天草]から切り離し、数分前に先着していた上り東京行[高千穂]に再び連結されて[天草]よりも一足先に発車してゆく…という、何とも面白い運用でした(笑)
飯塚、門司でどのように連絡、つなぎ直しをしていたのでしょうか。飯塚で一番後ろに連結して門司で先発につなぎ直すには、一旦切り離して後退、隣のホームに待機中の先発にスイッチバックしないと無理そうです。今では考えられない芸当ですね。
ほかにも、上野発、釜石、盛岡、花輪線回り?!の急行みちのくというのがあったと思いますが、これもあちこちで連結、つなぎ直しをしていて、ホームを行ったり来たりしないと無理そうです。不思議だ〜
@@巌鈴木-g4g
当時の[高千穂][天草]は郵便荷物車両を除きどちらも①~⑭号車という編成であり、東京←飯塚間の車両はいずれも東京方⑭号車に連結されていたようでしたので、まず先着の上り[高千穂]の門司まで牽引してきた機関車を切り離して引き上げ、[高千穂]を牽く関門専用の機関車が後から来た上り[天草]の東京方で待機し、[天草]到着後に同牽引機関車を切り離して引き上げさせた後、[高千穂]牽引機関車が転線の上、[天草]の東京方先頭の⑭号車に連結…そして⑭号車のみを牽いて再び[高千穂]が停まっている番線に転線して東京方先頭に連結し、[高千穂]は先発。[天草]には別の関門用機関車が東京方先頭に連結されて[高千穂]に続いて発車…といったような流れではなかったのかと個人的には想像いたします。
まあいずれにせよ、機関車牽引列車が全盛の時代ならでは…の光景だったように思われますね。
この時代頃までは今では考えられない区間を走る列車や面白い運用等が目白押しであり、鉄道好きには大変興味が尽きない良い時代でした。当時北九州には門司港発(~黒崎~直方~原田~博多~黒崎~)直方行…という当時の循環急行も顔負けのとんでもない普通列車(もちろん定期列車)等も走ってたみたいです(笑)
早速、詳しい説明、ありがとうございます。門司⇄下関は、関門トンネル専用の電気機関車に付け替えるから、こんな複雑な運用ができたんですね。蝶々みたいに軽々と華麗なダンス!!素敵です。
また、門司港発のぐるっと一周各停も面白いですね。これなら、点と線も、戸津川警部も大活躍です。ただ、運転手や車掌さん、乗客も目が回りそう。時刻表自体が旅の味わいがある時代でしたね。ありがとうございました😃
もう日本では楽しめない過去のもの。
外国で楽しんできます。
(事実タイでブルートレイン乗ってきました。)車両は元新大阪から大分を走っていた彗星号。タイでももう新型導入と老朽化で廃止されちゃったけど。
1970年代位が国鉄最盛期だったかな?と感じています。時刻表を見るのが楽しみでした。
別会社とは言えJRグループで手を組み再度寝台特急走らせれば
乗る人増えると思うけどなー。
色んな問題あるかもしれないけど
鉄道好きな方が増え旅行者が増えているわけですから。
戦前の富士の英文字表記「HUZI」だったんだ。こっちの書き方がかっこいいな
2000年頃だったかなぁ、九州から関西、東京に割引率の高い往復寝台切符が販売されてて、西鹿児島~東京をB寝台で36000円くらいだったかな。
当時はLCCもなかったので、遊びに仕事に重宝してました。
自宅に「トワイライトエクスプレス大分行き」の方向幕があるいけど、まさか札幌からじゃないよね?季節専用車だったらしい・・。
出張の帰り、下関からあさかぜに乗り、大阪あたりで駅弁でも買おうかと思ったら広島を出た後、大阪、京都、名古屋を飛ばし次に停車したのは静岡だった。
特急[富士],急行[高千穂][桜島]
どちらも食堂車連結当時が絶頂期だろう[🍴☕]
リニア開業時には富士が復活するのかな。
でもほとんどがトンネルなので東海道区間のひかり又はこだまをふじに変更した方が良さそうだけど。
かつての高千穂の様に東京から鹿児島中央まで直通する新幹線の列車があったら面白いけどなぁ。
でも4時間以上かかりそうだし、航空機の方が速くて便利だから需要は全く無さそうだな。
1977年夏休みに東京駅にブルトレを撮りに行きました。
1630さくら、1645はやぶさ、1700みずほ、1時間空けて1800が西鹿児島行き富士でブルトレ発車が再開でしたね。
その当時で西鹿児島着が1826だったのは忘れません。
最終が出雲・紀伊でしたね。
@hiroshia5789 さん
撮りに行った頃の山陰行き2番目はまだ「いなば」でした。
ゴハチ牽引でヘッドマークも無く、それまでの列車よりいきなり格下感を覚えたものです。
前振りが長すぎるよ。
自分は、、、、
12/31 東京→西鹿児島 「桜島 ロザ指」 改札出ずに乗継
1/ 1 西鹿児島→宮崎 「高千穂 ハザ自」下車
翌日は、日南線~志布志線でC11貨物列車を撮影した。
昭和何年かは忘れたが、この年の10/1 ~ 3/??の半年間は、< 201km~ >のG料金が最大2000円だった。
桜島のG席は「4D」だった。途中金光駅辺りで日付が変わり新年を迎えた。
スゴイッショ!?!?!?
3段ベット懐かしですね
今では、鹿児島へ新幹線で行ける時代だからね。
太平洋戦争末期、終戦直後に東京初門司港行きの普通列車があって2晩超えて走るダイヤだったとか。
社会状況からまともに運行できていたか怪しい。
それに関するより詳しい情報があったら欲しい。
サンライズ出雲 楽しかったなー
結局東京まで一睡もしなかったw
夕方の大阪駅で(桜島)(高千穂)を見かけました。そのまま乗って
西鹿児島まで行っちゃうか?と
思いましたが、かーぁちゃんにしかられるので辞めました。笑
「高千穂」の後継とは何かて聞かれたら、強いて挙げれば門司港始発・終着の夜行「日南」がそれに近いか?
もっともこれは宮崎以南寝台車連結のローカル列車やけど、つまり一本の長距離列車で複数の役割を担っとった点では「高千穂・桜島」と共通やろうな。
2:27 当時の長距離移動手段は鉄道と船舶のみ。そりゃ時間掛かるわ。2ヵ月前に大西洋上でタイタニック号が沈没していますね。
「だれも乗らないのに」wwww
Z世代のyoutuberはそういうイメージなんですね。
戦前どころか『大正時代の誕生』のぞみ如きなんぞとは『歴史の重みが、いや、格が違いすぎて大爆笑ꉂ🤣𐤔😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂😂』
乗ってみたかったなあ
13:01 都城は宮崎県なのでよろしく
『みやこんじょ』は 東国原英夫さんの出身地ですね。
1968年から1975年までの食堂車と寝台車廃止されてた期間にあえて全区間乗った奴いそうw
ヨンサントウダイヤ改正からは急行霧島(ヨンゴウトウから桜島)と併結されていてヨンナナサンダイヤ改正までは霧島の方に食堂車が連結されていた。
国鉄時代の周遊券は普通急行列車利用ができたので
それで使っていた人は割といそうではある
ヨンナナサンダイヤ改正で東京発が1時間早くなり、博多と大分着が早朝になった。ヨンサントウダイヤ改正で東京発着が残されたのは周遊券族にとってはありがたかった。ただ全体的には東海道本線区間は新幹線の止まらない駅など短距離移動に使用されていて山陽区間からは夜行列車として寝台特急の補完にあたっていた。またこの列車は明石や、加古川には止まらず米原にも止まらなかった。岐阜を出ると大津までノンストップだった。
ん?都城って鹿児島?宮崎ちゃうかった?
社会人になって寝台結構乗ったけどサンライズ以外なくなる未来は想像できひんかったなぁ。
都城市は宮崎県
旦奈→旦那 だよ😅
次に富士が使われるとしたらリニアかな。
夜行列車乗った 2001年1月
食堂車が無い寝台列車に魅力は無え!
今からすると、27時間も寝台で寝たままの旅なんて羨ましすぎる
個室は兎も角、B寝台は朝7時頃から座席にセットされました。
「高千穂」は、寝台列車になったことは一度もないと思うけど。そもそも最盛期でも寝台車は3両だけだし、それも大分止まりなので。夜行列車と言うことでなら、文句なしの最長ですが。
急行『さつま』も、大概な列車だと思いますが…
子供だったんで記憶が薄いけど、60年近く前に遠い親戚を訪ねるんで横浜から宮崎まで乗った。行きはハネだったけど途中で切り離されハザに乗換えた覚えはある。帰りは寝台が取れなかったんでロザで帰ってきた。