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本を読んでいる気分になるくらい深掘りされていて面白い。
元々は現在の京王線に沿ったルートにする計画もあったようで甲州街道沿いに烏山、調布、府中など宿場があり、SLの運行で煤煙が出るなど考えられたので反対があったため、田畑が多く、誘致もあったために何もないところに一直線に敷設したときいたことがあります。甲武鉄道が開通し、宿場がさびれてしまったことで鉄道が必要ということで当初は笹塚と調布の間に京王電気軌道が開通して、新宿と笹塚、調布から府中を経て国分寺へバス路線を開設、新宿と府中へ路線が延長されたときに笹塚と新宿のバス路線は廃止、調布と府中の間も廃止になりましたが国分寺と府中の間は存続、現在も存続しており、京王のバス路線では最古の路線となっています。あくまできいた話なので他にもあると思います。
1:50~209系が2編成とも画角に入っておるの、凄いな
素晴らしくとても面白かった。今後も多摩地区について色々と考察深堀して頂けると身近なので嬉しいです。
今日も浅川さんの動画投稿待ってました😊いつも参考になります
大変参考になる動画でした❗
府中市民です。ひいおばあちゃん(大正15年生まれ)の話だと最初は新宿~八王子間に鉄道を敷く計画は今の20号(甲州街道)沿いに作る予定だったとかでもめちゃくちゃ反対運動があって、もっと北側になったとのこと。座り込みの話もしていましたので、反対意見があったのは嘘ではないですよ。当時、甲州街道寄りのほうが人口が多かったので、北側の方が引きやすかったはずです。
府中出身です。私も府中の甲州街道沿いでは養蚕がさかんでSLの煙が忌避されて反対運動が起こったという話を聞きました。これには続きがあって実は甲州街道沿いの反対運動とは関係なく今の路線に決まったというのが真相でそれ対して後年になって悔しがった人たちが本当は甲州街道沿いに敷設される計画だったのを反対運動で阻止したというデマを流したという話も聞きました。
出身地を通る中央線の話、楽しく拝見しました。途中で用地買収が難しいとありましたが、中央線の開業後わずか20年ほどで旧甲州街道上に京王線が開業できたことを考えると、中央線のあの線形は多摩地域の短距離需要より山梨と直結することを優先したのかなとも想像します。
甲武鉄道=中央線が開業して、それまで人がほとんどいないような場所が栄えて主要路の甲州街道沿道が落ち込みだしたのも京王線が早期に開業できた理由のひとつだと思います。
鉄道建設についての「反対運動」があった、ということは、周辺都市などの地誌にも出てきます。しかし、このような、国内トップレベルの直線になったのは、ここには、「建設上の障害がほとんどなかったから」、「定規で線を引いたから、」という理由は、確実にあったと、推測されます。また、常識的に言っても、現地調査を全くやらずに建設することは考えられないので、「地形」や、「利用者」、「その後の延伸」「他線との接続」等の点で、「適切なところであったから」と、考えられます。なお、中央線と交差する、青梅街道、五日市街道、井の頭通り、玉川上水、連雀通りなどと、「斜めに」交差するところに、昔から、不思議さを感じていました。この辺に重要なヒントがあるのかもしれません。国分寺駅における、E851等によるセメント列車等の直通運転は、昭和50年ごろまで行われ、西武多摩川線の検査時の回送列車等も、これまでは、国分寺から、受け渡しのための直通列車があったりしました。
国分寺駅の西武線の乗り場、国分寺線は中央線と並走していて支線感があるが、多摩湖線はやや離れたところにホームがある。これが開通時別会社だった名残ですね。
国分寺から2本出てる西武線が八坂の辺りでクロスしてんのも不思議に思ってましたが、元々別会社だったからというのが理由なんでしょうね。
京王ユーザーだと中央線、西武線とか近いんだけど乗る機会がないなー
私奴は、西武国分寺駅から京王バスで、京王線府中駅に出る方法をとっています。
興味深い内容でした。玉川上水の土手を利用した馬車鉄道の話は初めて聞きました。三鷹市内に上水の流れが崖っぷちのような絶妙な場所にある区間があり、仮に上水沿いに開業できたとしても(高速鉄道として)現在まで存続できていなかったと思われるので、現在のコース設定した人は先見の明に秀でた方だったのしょう。
反対運動の理由について、NHKチコちゃんに叱られる!で放送された事があったような気がします。蒸気機関車の煙と火が街道沿いの住民から敬遠されたため、集落から離れた農地を通す事になったというものでした。この事が用地買収が困難だった事に繋がっていると思っていますが、そうではないのでしょうか?
従来、蒸気機関車の煤煙被害や宿場の客を取られること理由に反対してきたと、安易に流す風潮だったけれど、これに疑問が呈されるようになったのは、何よりです。いくつかの地誌にそのような記述があるといっても、根拠となる具体的な反対運動の記録はないし、浅川さんも述べられているように、甲武鉄道の初開業は、新橋ー横浜の20年近く後ですからね。しかし、手間暇かけて作られた動画ではありますが、こちらも、直線開通に関する具体的な史料はありません。この問題は、多くの研究者が長年取り組んできたけれど、史料がないため、真相は闇と言わざるを得ないのでは、と思います。新史料の発見に期待します。
甲武鉄道が、設立された当時は第一次私鉄ブームの頃で新宿から立川までの間は農地が広がっていました。途中に、人が住む街等も無かったので日本鉄道の新宿駅と接続して立川までを最短で結ぶ為に東中野から立川まで直線で建設したのでしょう。
結局定規説が否定し切れず可能性として残っていてワロタ
ひとつ土木の技術屋からの視点から見ると、武蔵野台地の上だから、という理由が見えるのです。台地の上なので、多摩川の氾濫に対しての安全性と基盤岩の上なので地盤の安全性ですね。俺が今計画するとしても、大河川の氾濫域は外したいですし、安定した地盤上に建設したいから、武蔵野台地の上を通るルートを選択しますね。
月刊地理3月号に、鉄道忌避説伝説が特集されており、中央線についても詳細が掲載されています。
長野県中信の住民ですので、東京に出る際は、中央東線線を利用します。いつも利用する線路にそれらのエピソードがあったことが興味深いでした。
当時その土地を所有していた5人の大地主が直線の方が建設費が安くなるから土地を出し合ったと聞いています。福生市の田村酒造の田村さんで玉川上水からの分水で田村分水を所有しています。
西武国分寺線は栄光の歴史があったんですね!初めて知りました。確かに国分寺から川越まで、直線的に線路が延びてますね。
国分寺市出身です。もう50年以上前ですが、小学校の社会の授業の中に国分寺の歴史を教える時があり、確か3年か4年生くらいだったと思いますが、子供達へ郷土史が理解できるような教科書を市が編纂し教材に使っていました。今もそうかも知れませんが、以下はその時の記憶です。担任が社会科の好きな先生で、熱心に教えていたことを覚えています。その中に中央線が今の場所に建設された理由として、当初甲州街道沿いに建設する予定が煤煙で煙たくなったり、火の粉がとんで火事になるかも知れないことなどを懸念する住民の強い反対運動により、当時農地だった中野から立川までを直線で引いてそこに建設し、中央線と命名し、国分寺と立川の中間に駅を作る際にそれぞれの漢字を取って国立としたことを習った記憶があります。その後鉄道沿いが栄えたため、甲州街道沿いの旧宿場町に近いところにも鉄道を引いたことまで話をしていた記憶も残っています。おそらく沿線で育った人はそういう形で習っていて、私を含めて疑問にも思わずにいるんではと思います。
参考文献中村建治『中央線誕生』青木栄一『鉄道忌避伝説の謎』
鉄道が好きな人でも忌避伝説を唱える人がいてびっくりしますよね。むしろ我田引鉄なのに。
中央線快速電車は現在の西武国分寺線、新宿線、拝島線と非常に縁の深い路線ですね!
玉川上水での水運は船頭が放尿したりと悪さするので即禁止となりました。
また江戸時代末期に「コレラ」が蔓延した事が開国して欧州の水道方式を取り入れたかった理由になっています。その時に取り入れられた消毒方式が「次亜塩素酸ナトリウム」による消毒方法でした。とはいえ欧州と日本では原水に性質の違いが有ったので現在の砧浄水場で添加量の研究が行われた結果「0.1mg/L」の添加量で水に含まれる細菌類の消毒が出来る事がわかり水道法で「次亜塩素酸ナトリウムの最低添加量」が定められました。因みに「添加量の上限は有りません」。😅
たぶん、当時は、物流メインだからら工場とか多摩川砂利の引き込み線を調べると良いかもね。
当時の中野~国立間は大した町もなかったから、寄り道せずに直線で線路を引くのは合理的な判断だと思う。
敷地は直線なのに線路は結構ぐにゃぐにゃなんよね駅のところが主に。
完全な一直線で走れたのは開業して間もない単線の頃だけだと思う。
玉川上水は水を羽村から四谷まで尾根筋を通って距離42kmで高低差92mしかありません。一方現在の中央線のルートは新宿のある淀橋台から神田川、桃園川、善福寺川、仙川、野川と何本もの川を渡り、国分寺崖線を突っ切るアップダウンの激しいルートになっています。高架化によって目立たないですが地上を歩けばよく分かります。今のルートになったのが勾配を原因としたとは思えないです。
そもそも玉川上水は江戸へ水を送るために、非常に緩やかで一律な傾斜で作られましたから、私も勾配説はちょっと違うと思います。国分寺崖線に関しては国分寺付近(まさに“川越鉄道”を分岐するあたり)で下に降りますが、八王子(多摩川の対岸)を目的地とするなら、一度は通らなければなりません。
青梅街道ルートから直線ルートになったのは、熱心な誘致活動と給水契約ができた立川-国分寺-境(武蔵境)と買収の必要がない中野(当時は明治政府が管理していた土地)を真っ直ぐに結んだだけじゃない?開業時の駅と一致するし、案外その程度の単純な理由じゃないかなと
玉川上水は、確かに 小平水衛所(玉川上水駅付近)までは、東京都水道局の羽村堰から流れてくる 多摩川の水なんですよね😊。小平水衞所らは、多摩川上流処理場の下水処理水が流れています。それにしても・・・良くお調べで😊。本当に毎回 感心です。
考察動画ありがとうございます。まず、初期計画の上水沿いに関しては、馬車鉄道としてはもっとも理にかなっていると言えそうです。単純に勾配差が少なく、少ない労力で運営出来ると判断したからでしょう。次に目的地が八王子になったのも幕府時代からの甲府~八王子・更に拝島・入間から佐野経由日光東照宮方面に通じる日光千人同心街道が優先されたからでしょう。第二案の砂川以降が大体そのルートの近くを通る事になってます。もしこのルートで決まった場合、現八高線の始点がそこになり、八高線(砂高?高砂線?)だけでなく、その先、北東の入間や佐野方面にも線路が伸びたかもしれませんね。(西武と東武の事情も?)最終的には上水沿い西武(拝島へ)・多摩川・甲州街道沿い京王・その真ん中に中央線という構図になっています。立川(青梅鉄道・五日市鉄道)や国分寺・吉祥寺はこの路線にぴったりな位置関係として甲府方面への最短経路結びともあり、発展を後押しすることになります。日野駅の嘆願も今のルート決定に大きく関わっている事でしょう。明治中盤辺りから富国強兵時代が始まり、軍事施設が続々と建設されると、イメージは大きく変わり、2つの飛行場兼基地が出来る事になり、様々な出来事を経て今の施設となっています。さて、羽村へは線路が伸びていなかったかと言うと、実は狭山・村山湖建設に辺り、工事専用の軽便鉄道は羽村側から建設されており、今もその際作られたトンネル群は自転車道として開放されています。もしこの際、現西武側と緊密な連携を行っていれば村山線はしっかりと羽村まで伸びていたかも?(その後横田基地によって分断の危機?)そのような様々な歴史から立川駅半径10kmに約50もの駅がある訳です。(それでも昭島市には廃線された五日市鉄道跡(立川市内の中央・青梅短絡線として一部使用・元は川崎~立川の南武鉄道が敷設した西立川への短絡路線・青梅方面の砂利目的)もありますが)まあ色々調べて観てくださいね。
甲州街道はほぼ玉川上水に沿って造られていたんだから、アップダウンは物凄く少ないはず、少なくとも現在の直線中央線が通るコースに比べればまっ平に近いといっていい
今と昔の蒸気機関車の出す煙は変わらないと思いますが、当時蒸気機関車の出す煙が屋根に引火して家が燃えるからという理由で反対運動があったといわれています。そのため人家の少ないというか人のいない場所を選定したら直線になったというのを20年前に卒業論文で書いたなぁ。その後起きた関東大震災で被災した人々が中央線沿線に移り住んで町が発展し今に至るのは偶然だったのか必然だったのか。
当時その地域を所有していた大地主5名が直線の方が建設費が安くなるだろうと土地を出し合ったと聞いております。その1人が福生市の田村酒造の田村さんで玉川上水を掘削した人の関係者でその功績により玉川上水から分水の権利を貰い田村分水を掘削したとの事です。
リニアと同じように個別の事情を聞いていたらいつまでたってもできない。
街道筋は反対運動と買収問題があったので、一面桑畑の武蔵野台地を最短で突っ切った……という辺りがやはり定番でしょうね。しかし本当に玉川上水や五日市街道に沿って敷設されていたら、武蔵野台地の交通事情はどうなっていたのか!?というifを考えるのも楽しいですね。
列車見張員の研修に行った時に聞きましたが、立川寄りから新宿方面に向かって少しづつ降下しているらしいです、地形を考える人と逆に思いますが。
飯田橋~東中野も直線で結べば、東京駅方面には更に直線的に行けて時間短縮だったのにね。もっともそれでは新宿副都心の発展は無かっただろうけどね。
昔の特別快速は、立川を出ると、三鷹、中野しか止まらなかったから、この区間を全速で走れたんだよな。すっごく速かった。
懐かしい
そのため武蔵小金井駅辺りは自殺の名所になっていましたね。現在では八王子⇔高尾間の直線区間になっています。😮💨
国立から走行して高架を降りるあたりから南側にカーブするのはカーブの始まりあたりから立川駅までの間に貨物駅を作ったから。そして貨物駅廃止後も線路をまっすぐに直さなかった。東中野はホームの新宿側の先端部がカーブしてる。これが直線区間を短縮させた原因かもしれない。まあ直線なのは測量線上の定義だけだけど。
高列車密度,島式ホームの為にスピードは意外に出ない💦
面白い動画なのに反応少ないなー、と思ったら投稿されたのが40分前だったわ。
まあ、反対運動がなくても土地の買収・移転交渉が楽なルートで決定したかったのは間違いないでしょう。加えて、蒸気機関車がカーブで速度を落とさずに安全に曲がれる技術が確立されていなかったのかも知れないですね。
西武農業鉄道の絵図は確か西武のホームページか何かに有った様な。
京王民ですが、曾て京王八王子駅から山梨を目指したと聞いています。 しかも、途中の富士急行線を改軌するといったものでした。 これだと、京王線ではなく、京州線になってしまいますね。
年表を目で見せて、音では頭に入らない
建設時点は無人の野で上意であると接収が容易だったからでしょ
反対で直線なったって聞いたが
昔も今と同じで鉄道や道路建設する時は反対運動が起こっていたんですね。当時は反対でも実際に開通したら、利便性などが向上し、地代も上がり、街は開けたから反対派もウハウハになったのかな?
投資物件異なり住民にとっては利便性や資産価値より住環境守る気持ちが強いのでしょうね。
武蔵野台地をぶった斬る中央線。好きです。
中央本線の長い直線区間は有名だが、その理由が分かりました。
11:56~ 色、反対じゃない❓
興味深いですね。考察が「根拠のない推測による独自の研究」なのか文献史料に基づいた研究なのか?後者なら参考文献を示すべきですね。
千石貢って、やはり千石秀久の子孫なんだな😅
明治維新の激動から、たった5年で鉄道を完成させてしまう明治の日本は熱かった。それに比べて今の日本は。。敦賀延伸に何年かかってるんだか。
「風水の力で富士山のエネルギーを運ぶ為になされた。だから、山手線内は陰陽の形になっている」という話を昔読みました。たしかに、山手線内は意味深なルートではありますね。
おいおい、解決してないやん
何の疑問も持たずに、「中央快速」なんて言わないでください。 別に快速でも何でも無いのです。 そんなことどうして? 加速区間は新宿と東京の藍9だだけですよ。 他は鈍行です。 別に通勤快速、とか青梅特快、とか野呼びなの他の線路では急行や特急という言葉で呼ばれる物が走っています。 何故か、JRは国鉄時代の感覚のまま運営して居るみたいですね。 まるで、新宿伊藤は別の路線のような感覚なのでしょう。 ふざけてます。 今時中央線が東京、名古屋間を結んでいると思っている人は居ないでしょう。 だったら現実に合わせて名前を変えるべきです。 何故か、社内用語をふつうの人、しかも岡区に押しつけているようで、いまだにおおむかしの官営「国鉄」のままというイメージです。 実際頭の中はその通りなのでしょうね。 一般常識と違うことに対しては、ある程度その旨を指摘して、その言葉を使った方が良いと思いますよ。 何故間マスコミのように盲目的に相手にしたがっているだけの印象があります。 ネットの番組には相応しくない態度です。
本を読んでいる気分になるくらい深掘りされていて面白い。
元々は現在の京王線に沿ったルートにする計画もあったようで甲州街道沿いに烏山、調布、府中など宿場があり、SLの運行で煤煙が出るなど考えられたので反対があったため、田畑が多く、誘致もあったために何もないところに一直線に敷設したときいたことがあります。甲武鉄道が開通し、宿場がさびれてしまったことで鉄道が必要ということで当初は笹塚と調布の間に京王電気軌道が開通して、新宿と笹塚、調布から府中を経て国分寺へバス路線を開設、新宿と府中へ路線が延長されたときに笹塚と新宿のバス路線は廃止、調布と府中の間も廃止になりましたが国分寺と府中の間は存続、現在も存続しており、京王のバス路線では最古の路線となっています。あくまできいた話なので他にもあると思います。
1:50~209系が2編成とも画角に入っておるの、凄いな
素晴らしくとても面白かった。今後も多摩地区について色々と考察深堀して頂けると身近なので嬉しいです。
今日も浅川さんの動画投稿待ってました😊いつも参考になります
大変参考になる動画でした❗
府中市民です。ひいおばあちゃん(大正15年生まれ)の話だと
最初は新宿~八王子間に鉄道を敷く計画は
今の20号(甲州街道)沿いに作る予定だったとか
でもめちゃくちゃ反対運動があって、もっと北側になったとのこと。
座り込みの話もしていましたので、反対意見があったのは
嘘ではないですよ。当時、甲州街道寄りのほうが
人口が多かったので、北側の方が引きやすかったはずです。
府中出身です。私も府中の甲州街道沿いでは養蚕がさかんでSLの煙が忌避されて反対運動が起こったという話を聞きました。これには続きがあって実は甲州街道沿いの反対運動とは関係なく今の路線に決まったというのが真相でそれ対して後年になって悔しがった人たちが本当は甲州街道沿いに敷設される計画だったのを反対運動で阻止したというデマを流したという話も聞きました。
出身地を通る中央線の話、楽しく拝見しました。
途中で用地買収が難しいとありましたが、中央線の開業後わずか20年ほどで旧甲州街道上に京王線が開業できたことを考えると、中央線のあの線形は多摩地域の短距離需要より山梨と直結することを優先したのかなとも想像します。
甲武鉄道=中央線が開業して、それまで人がほとんどいないような場所が栄えて
主要路の甲州街道沿道が落ち込みだしたのも京王線が早期に開業できた理由のひとつだと思います。
鉄道建設についての「反対運動」があった、ということは、周辺都市などの地誌にも出てきます。
しかし、このような、国内トップレベルの直線になったのは、ここには、「建設上の障害がほとんどなかったから」、「定規で線を引いたから、」という理由は、確実にあったと、推測されます。
また、常識的に言っても、現地調査を全くやらずに建設することは考えられないので、「地形」や、「利用者」、「その後の延伸」「他線との接続」等の点で、「適切なところであったから」と、考えられます。
なお、中央線と交差する、青梅街道、五日市街道、井の頭通り、玉川上水、連雀通りなどと、「斜めに」交差するところに、昔から、不思議さを感じていました。この辺に重要なヒントがあるのかもしれません。
国分寺駅における、E851等によるセメント列車等の直通運転は、昭和50年ごろまで行われ、西武多摩川線の検査時の回送列車等も、これまでは、国分寺から、受け渡しのための直通列車があったりしました。
国分寺駅の西武線の乗り場、国分寺線は中央線と並走していて支線感があるが、多摩湖線はやや離れたところにホームがある。これが開通時別会社だった名残ですね。
国分寺から2本出てる西武線が
八坂の辺りでクロスしてんのも
不思議に思ってましたが、
元々別会社だったからというのが
理由なんでしょうね。
京王ユーザーだと中央線、西武線とか近いんだけど乗る機会がないなー
私奴は、西武国分寺駅から京王バスで、京王線府中駅に出る方法をとっています。
興味深い内容でした。
玉川上水の土手を利用した馬車鉄道の話は初めて聞きました。
三鷹市内に上水の流れが崖っぷちのような絶妙な場所にある区間があり、仮に上水沿いに開業できたとしても(高速鉄道として)現在まで存続できていなかったと思われるので、現在のコース設定した人は先見の明に秀でた方だったのしょう。
反対運動の理由について、NHKチコちゃんに叱られる!で放送された事があったような気がします。
蒸気機関車の煙と火が街道沿いの住民から敬遠されたため、集落から離れた農地を通す事になったというものでした。
この事が用地買収が困難だった事に繋がっていると思っていますが、そうではないのでしょうか?
従来、蒸気機関車の煤煙被害や宿場の客を取られること理由に反対してきたと、安易に流す風潮だったけれど、これに疑問が呈されるようになったのは、何よりです。いくつかの地誌にそのような記述があるといっても、根拠となる具体的な反対運動の記録はないし、浅川さんも述べられているように、甲武鉄道の初開業は、新橋ー横浜の20年近く後ですからね。
しかし、手間暇かけて作られた動画ではありますが、こちらも、直線開通に関する具体的な史料はありません。この問題は、多くの研究者が長年取り組んできたけれど、史料がないため、真相は闇と言わざるを得ないのでは、と思います。新史料の発見に期待します。
甲武鉄道が、設立された当時は第一次私鉄ブームの頃で新宿から立川までの間は農地が広がっていました。
途中に、人が住む街等も無かったので日本鉄道の新宿駅と接続して立川までを最短で結ぶ為に東中野から立川まで直線で建設したのでしょう。
結局定規説が否定し切れず可能性として残っていてワロタ
ひとつ土木の技術屋からの視点から見ると、武蔵野台地の上だから、という理由が見えるのです。
台地の上なので、多摩川の氾濫に対しての安全性と基盤岩の上なので地盤の安全性ですね。
俺が今計画するとしても、大河川の氾濫域は外したいですし、安定した地盤上に建設したいから、武蔵野台地の上を通るルートを選択しますね。
月刊地理3月号に、鉄道忌避説伝説が特集されており、中央線についても詳細が掲載されています。
長野県中信の住民ですので、東京に出る際は、中央東線線を利用します。
いつも利用する線路にそれらのエピソードがあったことが興味深いでした。
当時その土地を所有していた5人の大地主が直線の方が建設費が安くなるから土地を出し合ったと聞いています。
福生市の田村酒造の田村さんで玉川上水からの分水で田村分水を所有しています。
西武国分寺線は栄光の歴史があったんですね!
初めて知りました。
確かに国分寺から川越まで、
直線的に線路が延びてますね。
国分寺市出身です。もう50年以上前ですが、小学校の社会の授業の中に国分寺の歴史を教える時があり、確か3年か4年生くらいだったと思いますが、子供達へ郷土史が理解できるような教科書を市が編纂し教材に使っていました。今もそうかも知れませんが、以下はその時の記憶です。担任が社会科の好きな先生で、熱心に教えていたことを覚えています。
その中に中央線が今の場所に建設された理由として、当初甲州街道沿いに建設する予定が煤煙で煙たくなったり、火の粉がとんで火事になるかも知れないことなどを懸念する住民の強い反対運動により、当時農地だった中野から立川までを直線で引いてそこに建設し、中央線と命名し、国分寺と立川の中間に駅を作る際にそれぞれの漢字を取って国立としたことを習った記憶があります。その後鉄道沿いが栄えたため、甲州街道沿いの旧宿場町に近いところにも鉄道を引いたことまで話をしていた記憶も残っています。
おそらく沿線で育った人はそういう形で習っていて、私を含めて疑問にも思わずにいるんではと思います。
参考文献
中村建治『中央線誕生』
青木栄一『鉄道忌避伝説の謎』
鉄道が好きな人でも忌避伝説を唱える人がいてびっくりしますよね。むしろ我田引鉄なのに。
中央線快速電車は現在の西武国分寺線、新宿線、拝島線と非常に縁の深い路線ですね!
玉川上水での水運は船頭が放尿したりと悪さするので即禁止となりました。
また江戸時代末期に「コレラ」が蔓延した事が開国して欧州の水道方式を取り入れたかった理由になっています。
その時に取り入れられた消毒方式が「次亜塩素酸ナトリウム」による消毒方法でした。
とはいえ欧州と日本では原水に性質の違いが有ったので現在の砧浄水場で添加量の研究が行われた結果「0.1mg/L」の添加量で水に含まれる細菌類の消毒が出来る事がわかり水道法で「次亜塩素酸ナトリウムの最低添加量」が定められました。
因みに「添加量の上限は有りません」。😅
たぶん、当時は、物流メインだからら工場とか多摩川砂利の引き込み線を調べると良いかもね。
当時の中野~国立間は大した町もなかったから、寄り道せずに直線で線路を引くのは合理的な判断だと思う。
敷地は直線なのに線路は結構ぐにゃぐにゃなんよね
駅のところが主に。
完全な一直線で走れたのは開業して間もない単線の頃だけだと思う。
玉川上水は水を羽村から四谷まで尾根筋を通って距離42kmで高低差92mしかありません。
一方現在の中央線のルートは新宿のある淀橋台から神田川、桃園川、善福寺川、仙川、野川と何本もの川を渡り、国分寺崖線を突っ切るアップダウンの激しいルートになっています。高架化によって目立たないですが地上を歩けばよく分かります。
今のルートになったのが勾配を原因としたとは思えないです。
そもそも玉川上水は江戸へ水を送るために、非常に緩やかで一律な傾斜で作られましたから、私も勾配説はちょっと違うと思います。国分寺崖線に関しては国分寺付近(まさに“川越鉄道”を分岐するあたり)で下に降りますが、八王子(多摩川の対岸)を目的地とするなら、一度は通らなければなりません。
青梅街道ルートから直線ルートになったのは、熱心な誘致活動と給水契約ができた立川-国分寺-境(武蔵境)と買収の必要がない中野(当時は明治政府が管理していた土地)を真っ直ぐに結んだだけじゃない?
開業時の駅と一致するし、案外その程度の単純な理由じゃないかなと
玉川上水は、確かに 小平水衛所(玉川上水駅付近)までは、東京都水道局の羽村堰から流れてくる 多摩川の水なんですよね😊。
小平水衞所らは、多摩川上流処理場の下水処理水が流れています。
それにしても・・・良くお調べで😊。本当に毎回 感心です。
考察動画ありがとうございます。まず、初期計画の上水沿いに関しては、馬車鉄道としてはもっとも理にかなっていると言えそうです。単純に勾配差が少なく、少ない労力で運営出来ると判断したからでしょう。次に目的地が八王子になったのも幕府時代からの甲府~八王子・更に拝島・入間から佐野経由日光東照宮方面に通じる日光千人同心街道が優先されたからでしょう。第二案の砂川以降が大体そのルートの近くを通る事になってます。もしこのルートで決まった場合、現八高線の始点がそこになり、八高線(砂高?高砂線?)だけでなく、その先、北東の入間や佐野方面にも線路が伸びたかもしれませんね。(西武と東武の事情も?)最終的には上水沿い西武(拝島へ)・多摩川・甲州街道沿い京王・その真ん中に中央線という構図になっています。立川(青梅鉄道・五日市鉄道)や国分寺・吉祥寺はこの路線にぴったりな位置関係として甲府方面への最短経路結びともあり、発展を後押しすることになります。日野駅の嘆願も今のルート決定に大きく関わっている事でしょう。明治中盤辺りから富国強兵時代が始まり、軍事施設が続々と建設されると、イメージは大きく変わり、2つの飛行場兼基地が出来る事になり、様々な出来事を経て今の施設となっています。さて、羽村へは線路が伸びていなかったかと言うと、実は狭山・村山湖建設に辺り、工事専用の軽便鉄道は羽村側から建設されており、今もその際作られたトンネル群は自転車道として開放されています。もしこの際、現西武側と緊密な連携を行っていれば村山線はしっかりと羽村まで伸びていたかも?(その後横田基地によって分断の危機?)そのような様々な歴史から立川駅半径10kmに約50もの駅がある訳です。(それでも昭島市には廃線された五日市鉄道跡(立川市内の中央・青梅短絡線として一部使用・元は川崎~立川の南武鉄道が敷設した西立川への短絡路線・青梅方面の砂利目的)もありますが)まあ色々調べて観てくださいね。
甲州街道はほぼ玉川上水に沿って造られていたんだから、アップダウンは物凄く少ないはず、
少なくとも現在の直線中央線が通るコースに比べればまっ平に近いといっていい
今と昔の蒸気機関車の出す煙は変わらないと思いますが、当時蒸気機関車の出す煙が屋根に引火して家が燃えるからという理由で反対運動があったといわれています。そのため人家の少ないというか人のいない場所を選定したら直線になったというのを20年前に卒業論文で書いたなぁ。その後起きた関東大震災で被災した人々が中央線沿線に移り住んで町が発展し今に至るのは偶然だったのか必然だったのか。
当時その地域を所有していた大地主5名が直線の方が建設費が安くなるだろうと
土地を出し合ったと聞いております。
その1人が福生市の田村酒造の田村さん
で玉川上水を掘削した人の関係者でその功績により玉川上水から分水の権利を貰い田村分水を掘削したとの事です。
リニアと同じように個別の事情を聞いていたらいつまでたってもできない。
街道筋は反対運動と買収問題があったので、一面桑畑の武蔵野台地を最短で突っ切った……という辺りがやはり定番でしょうね。
しかし本当に玉川上水や五日市街道に沿って敷設されていたら、武蔵野台地の交通事情はどうなっていたのか!?というifを考えるのも楽しいですね。
列車見張員の研修に行った時に聞きましたが、立川寄りから新宿方面に向かって少しづつ降下しているらしいです、地形を考える人と逆に思いますが。
飯田橋~東中野も直線で結べば、東京駅方面には更に直線的に行けて時間短縮だったのにね。もっともそれでは新宿副都心の発展は無かっただろうけどね。
昔の特別快速は、立川を出ると、三鷹、中野しか止まらなかったから、この区間を全速で走れたんだよな。
すっごく速かった。
懐かしい
そのため武蔵小金井駅辺りは自殺の名所になっていましたね。
現在では八王子⇔高尾間の直線区間になっています。😮💨
国立から走行して高架を降りるあたりから南側にカーブするのはカーブの始まりあたりから立川駅までの間に貨物駅を作ったから。
そして貨物駅廃止後も線路をまっすぐに直さなかった。
東中野はホームの新宿側の先端部がカーブしてる。
これが直線区間を短縮させた原因かもしれない。
まあ直線なのは測量線上の定義だけだけど。
高列車密度,島式ホームの為にスピードは意外に出ない💦
面白い動画なのに反応少ないなー、と思ったら投稿されたのが40分前だったわ。
まあ、反対運動がなくても土地の買収・移転交渉が楽なルートで決定したかったのは間違いないでしょう。
加えて、蒸気機関車がカーブで速度を落とさずに安全に曲がれる技術が確立されていなかったのかも知れないですね。
西武農業鉄道の絵図は確か西武のホームページか何かに有った様な。
京王民ですが、曾て京王八王子駅から山梨を目指したと聞いています。 しかも、途中の富士急行線を改軌するといったものでした。
これだと、京王線ではなく、京州線になってしまいますね。
年表を目で見せて、音では頭に入らない
建設時点は無人の野で上意であると接収が容易だったからでしょ
反対で直線なったって聞いたが
昔も今と同じで鉄道や道路建設する時は反対運動が起こっていたんですね。
当時は反対でも実際に開通したら、利便性などが向上し、地代も上がり、街は開けたから反対派もウハウハになったのかな?
投資物件異なり住民にとっては利便性や資産価値より住環境守る気持ちが強いのでしょうね。
武蔵野台地をぶった斬る中央線。好きです。
中央本線の長い直線区間は有名だが、その理由が分かりました。
11:56~ 色、反対じゃない❓
興味深いですね。考察が「根拠のない推測による独自の研究」なのか文献史料に基づいた研究なのか?
後者なら参考文献を示すべきですね。
千石貢って、やはり千石秀久の子孫なんだな😅
明治維新の激動から、たった5年で鉄道を完成させてしまう明治の日本は熱かった。
それに比べて今の日本は。。
敦賀延伸に何年かかってるんだか。
「風水の力で富士山のエネルギーを運ぶ為になされた。だから、山手線内は陰陽の形になっている」という話を昔読みました。
たしかに、山手線内は意味深なルートではありますね。
おいおい、解決してないやん
何の疑問も持たずに、「中央快速」なんて言わないでください。 別に快速でも何でも無いのです。 そんなことどうして? 加速区間は新宿と東京の藍9だだけですよ。 他は鈍行です。 別に通勤快速、とか青梅特快、とか野呼びなの他の線路では急行や特急という言葉で呼ばれる物が走っています。 何故か、JRは国鉄時代の感覚のまま運営して居るみたいですね。 まるで、新宿伊藤は別の路線のような感覚なのでしょう。 ふざけてます。 今時中央線が東京、名古屋間を結んでいると思っている人は居ないでしょう。 だったら現実に合わせて名前を変えるべきです。 何故か、社内用語をふつうの人、しかも岡区に押しつけているようで、いまだにおおむかしの官営「国鉄」のままというイメージです。 実際頭の中はその通りなのでしょうね。
一般常識と違うことに対しては、ある程度その旨を指摘して、その言葉を使った方が良いと思いますよ。 何故間マスコミのように盲目的に相手にしたがっているだけの印象があります。 ネットの番組には相応しくない態度です。