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さおりさんこんばんは😃♥️最近中々毎日見れないのでまとめて見ています😅さおりさんのナレーションいつも聴きやすいし最高😃⤴️⤴️
安定したナレーション、安心して視聴しました。是からも末永く御活躍される事を願います。
土佐山之内家とともに戦略と世渡り上手の見本のような家ですね、見習うべきところが大いにありますね、
「歴史の細道」は、世間の中で有名な人物の他に、あまり光が当たらない人物にもスポットを当てるので、良いですね!
幕末の薩摩藩の琉球貿易の密貿易相手の北前船が、前田(富山売薬)藩。かつて密貿易の相手だった長岡藩が幕府から新潟湊を没収され、さらに木曽三川の工事で財政難に陥った薩摩藩を救ったのが、富山売薬がもたらした羅臼昆布貿易。富山売薬の原料はインド製の輸入品なので、長崎出島が使えない幕末に薩摩との取引が無ければ終わっていた。越中国の湊を独占していた金沢藩は手取川が幕府の天領で監視されてるので、表向きすっとぼける必要があった。全国に北海道の昆布を広げたのは、前田藩。そもそも本願寺の鉄砲の硝石の原料を作っていたのが、世界遺産の合掌造りでそこを抑えたのが前田利家。合掌造りと金沢城の間には、塩硝街道が作られて今は通行禁止となっている。これを知らずに、北越戦争は理解出来ない。
いつも楽しく視聴させてもらっています。皆さん言われる事ですが、美人で美声で素敵です✨
気にしていたことですが、今回偶然見つけました、勉強になりました。
婦人雑誌にたまに前田家現当主と奥様が出て来てインタビュー答えているの見て、現在も子孫はうまくやっているなと思いますわ。
ナレーションきれいな声でした
それで十分。平和だから文化は発達した。加賀百万石
やっぱさおりさんが良いね〰🎵
利家が勝家を見限ったのは、負けると分かった勝家が昔から友好があった前田家を大事にしろと書状をかいて、撤退させた説もあるよ
生粋の金沢っ子です。確かに、幕末期の薩摩や長州や会津の話を聞くと、ちょっと寂しい気がしてましたね。でも、伝統文化や工芸に力を入れて、また、空襲も免れたので、京都を除けば日本で最も良き歴史と伝統を感じる素晴らしい街のひとつですよ。北陸新幹線が開業以来、外国人を含む沢山の観光客で賑わっています。観光公害も多少目立って来ましたが……😰 自然豊かな富山県や岐阜県の合掌造りで有名な白川郷や飛騨高山などにも比較的近いので、一度は要らして下さい。食べ物も美味しいですよ😋
金沢に何回か行きましたが(出張含む) 物価が高い❗️ 飲みに行っても料金にビックリ😵 よそ者料金か❓️😲
加賀百万石(実高約120万石)のうち、越中(富山県)が53万石。加賀国は45万石程度に過ぎない。ちなみに能登国は22万石。近江のマキノ周辺も飛び地だった。「加賀百万石」という響きで、加賀国だけで100万石あると思っている人が案外多くて驚いている。
家を残すことは大変重要。国や家臣、身内の生活もかかっているからね。自らの生き方を貫い為改易を食らった大名、後の生活は地獄じゃなかったのかな。長いもに巻かれる生き方も大切だと思う。
豊臣秀吉死後の徳川家康対策に成功した前田家と失敗した上杉家でその後の江戸時代及び幕末が変わった。目立たないように動いた前田家は凄い。
加賀前田は地味に藩政改革を行い幕府につけいられないように守りを固めていました改作法を執り行いましたしかし幕府の監視の目は厳しく本多が幕府から家老として付けられていました結局明治維新で表に出て来なかったのはこの時期の影響が強かったと思います。加賀という地味な土地で冬は雪に閉ざされていた前田家は加賀の地で独自の文化を栄えさせていました。
「加賀百万石」・・「加賀」の国だけだと、約45万石。越中や能登、その他の飛び地を合わせて百万石以上あった。ちなみに東北数か国合わせて一括で「陸奥」という呼び名で百万石を超えるが、単独の国で石高が最も多いのは、近江77万石。琵琶湖に巨大な面積を占められながら、生産性がすごい。
加賀藩は、加賀、能登、越中の三国をほぼ掌握していた大大名だ歴代藩主も扶桑守と称することが多かったとか。扶桑というのは日本の国名の別名だな守とか介とか、これは旧律令制の国司の事であり。扶桑守は日本の国司というかなりたいそうな意味だ。大岡忠相が越前守と称したことなど有名だが大岡忠相が越前国を領有したことなどなく、ただの自称ではあるがいわゆる、国主大名のこれは実態があり、薩摩藩の島津家は右中将兼薩摩守と官位を称したりした
尾張徳川62万石…広くはないが近江に次ぐ生産率です。御三家の御威光もあり木曽川の水利権、木曽檜の運上税などもあり隠れ石高は65万石。そしてやはり御三家の御威光で各普請事業が免除もあり本来なら裕福であるはずが御三家筆頭の立場に胡座をかいた為、江戸時代全般で御三家の末席的扱いであった。
加賀、能登、越中3つで加賀藩っていう一つの国だから。単独で100万石でしょ。能登、越中は加賀藩って国になる前の国の名前だから。
@@001takeunicorn9 尾張藩は御三家筆頭だったと思ったが御三家で格が落とされたとすれば、むしろ八代将軍の頃あの頃、将軍位を巡る争いで、本来御三家筆頭の尾張藩から出されるはずが吉宗が将軍になり、その後の将軍位は紀州の血筋で固められたからな尾張藩としては相当、面白くなかったそうだ尾張藩公宗春と八大将軍吉宗の対立は有名だし
加賀国=100万石という間違ったイメージを持つ人が多い。律令下に決められた「国」を指している。藩と混同しているだけ。加賀藩=100万石なら問題はない。
沙織さん可愛い❗
名を捨てて実を取った前田家。家系を永らえるという意味では賢い選択だった。
家系ねえ。うんうん、大事だねー
死んだふりをして、生き残った名家。
前田利家は死ぬ前に「全力で秀頼を守れ」と遺言したが息子の利長はあっさり徳川に屈してしまっただが逆にそれが良かった。もし家康に対抗して戦ってたら前田家は取り潰されていたかもしれない
生は一代名は末代個人は何時死んでも当たり前そういう意味では戦国のままだったのだ。
加賀藩は参勤交代の時には一万人以上を引き連れて江戸に入り、その力を見せつけたこともあったそうだ。加賀藩の表高は102万石万を超える家臣団がいただろうしな
内容が良いので、チャンネル登録致しておりましたが、こんなにも素敵な歴女さんだったとは!!今後も愉しみにしています。#👴翁
面白かったよ
この声の人こんな美人だったんかいなw
嬉しいな沙織さんだー。明日も、、、駄目かなー。
だから加賀百万石は平和で住民は幸せだったのでは
まあ平和すぎてお家騒動起こしては火消しに大金使っての繰り返しだったんだがね。世間が尊王攘夷で騒然としているのにお家騒動やってたというあきれたのんきぶり。
富山に生まれましたが、前田利家以後の殿様の名前を知りません。殿様のエピソードも、聞いたことありませんでした。
@@seiichikirikami2184 利長、利常も名君ですよ。。大坂夏の陣、冬の陣は利常の死後起きてるので
家族を守ることも大切なことです
前田利家の遺言は「どんな事をしてでも家を保て」だと聞いた事があります。その言いつけを代々守ったお陰で、幕末まで存続したんだと思います。前田利常の代に謀反の疑いをかけられた時、鼻毛を伸ばしたりしたのも、家を守る為なのかも知れません。それに、他の幕臣に袴を手繰り上げて、股間を見せて「最近、ムスコがふんどしにすれて痛いんだよなぁ」と言ったりしてたとか。なもんで「あぁ…コイツは馬鹿だから、謀反するわけないか」と思われたのかも。
ナレーター聴きやすくて安心できますね。
加賀藩が徳川幕府に厚く遇されていたのはその支配地域の大半が一向宗の門徒集団であったことが大きいのでは家康自身も一向宗に苦しめられた経験から、幕府では一向宗への締め付けが激しくこれは加賀藩内でもかなりの弾圧体制が敷かれていたと言います加賀藩が歴史的にさほど活躍できていない理由はそういう内政に忙殺されていたからでしょう
最大の大名であるために幕府の警戒を受けやすいのが加賀藩だっただから江戸時代を通じて加賀藩の至上命題は「存続」にあった。そのため幕府に睨まれないように加賀藩は幕府に対して慎重な運営を行っていたようだよ加賀藩の表石は102万石だが実石は120万石だったが仙台藩伊達家が表石が62万石に対して実石が98万石米沢藩上杉家が表石が14万7000石に対して実石が28万石余りこれを観れば表石と実石の差が加賀藩はそんなにない事がわかる。それだけ幕府に気を使っていたようだ
私の先祖は江戸時代は前田藩の御殿医をしていました❗父から家系図をみながら聴いてました❗祖父が九州帝国大学医学部に入った為北陸から北九州市で次男であったため開業しました❗長男は高岡市の医院をついだそうです。江戸時代はお姫様の眼を治したとの事でした。
前田家は3代利常(正室徳川秀忠 次女)までは、徳川家に対抗意識が窺えるのですが、4代光高(正室徳川頼房 四女)、5代綱紀(正室保科正之 四女)あたりになると徳川家からの輿入が続いたことで徳川家の親族意識が高くなり、だんだん骨抜きされたイメージですね。
“家”を残したわけやから結果的に前田はよくやったと思う…ってか沙織さんかわいい😍
確かにかわいいですね。アグネスチャンの若い時に似てますよね・・(;^ω^)・・
@@granbluesea1 838
お目目がとっても大きいのに黒コンでごまかしていないキレイなお姉さんのサオリさん!声も表情も名前もステキで、すごい美人なのにイヤミが全然なくて女から見ても憧れちゃう!
幕末まで何もやらなかったわけではなくて、色々やって失敗した。特に幕末では保守派と尊攘派の対立(父対子)で尊攘派が大弾圧されており、時勢に乗り遅れてしまった。ただ大政奉還後は新政府側についており、結果的にうまく生き残れたのではないだろうか?
本多家家臣の末裔として興味深く拝聴しました。
結局宮内庁に前田家がいる時点で、天下とった家は織田、豊臣、徳川でなく前田家だと思います。確かに人気では勝てませんけど、人気でなく永遠のナンバー2とどの家もできなかった。
あ‼️さおりさんだ🥰無条件で👍
沙織お姉さんの声と話し方、ほれてまうー
北陸の所長の「土地柄2番目が好き」という言葉を思い出しました。今は違うんでしょうけどね。実質最初の場合は2番目と先人がいることを偽造することで説得したと言ってました。この動画をみて思い出しました。
大藩故に将軍家の監視もキツかったろう。明治新政府は薩長が中心となり、加賀藩士は相当苦汁を飲まさせられた。その鬱憤が大久保利通暗殺に繋がった。
明治以後も旧前田家臣からの人材がいる。ソロバン侍の息子とか(大正のシーメンス事件で酷い目に)昭和にも当主が東條英機大将と同期で。口論で負けた東條が「この殿様がっ!」と叫んだという。
了解
加賀藩前田家がどれだけすごいか。同家の家格は御家門筆頭の越前松平よりも上だった。一斉登城の際の序列は御三家、加賀、越前の順だっだけど、加賀は御三家との間に1席分空けて座ったそう。何かの本で読んだ。
興味深い内容で大変勉強になりました。
ご先祖様、力をお貸し下さい🌹🌹
藤堂高虎の口利きにより本多正信の次男正重が5万石の筆頭家老として前田家に送り込まれる。正重は幕府とかけあい新川郡20万石を前田家にもたらした。10年前まで城の横に本多家老館があったが現在は県立博物館に移転した。幕末の財政難は銭屋五兵衛の財産没収でのりきった。
加賀繙は藩政改革に江戸中期から乗り出しとくにのうせいかいかくである改作法を行ったが大藩のわりに存在感が薄いのが悲しいところ地味さにについては栃木の結城氏と並ぶ地味さでは山形の最上もなかなかのものである青森の南部も鉄器位しか思いつない。これらの大名は外様でもなかなかの大藩であり明治維新のさいに影が薄いのは前田上杉伊達結城といえるとおもうそのまま未だにじみと言える安芸広島福島氏も熊本の加藤家とならぶ賎ヶ岳七本槍の福島氏の所領だか維新期には陰か薄く隣国の周防長門の毛利氏と薩摩のしまずに主役の座を取られている経済的には毛利氏しまずに負けない大藩ばけりだが歴史の表舞台には出てくることなく歴史の闇に消えていってしまった唯一広島は栄えたが他は本当に地味な地方になってしまった。華がない。それは徳川の地元の三河も同じで唯一トヨタとデンソーがあると言うことしか華がない。とても住みやすい良いところではあるけれどもう少し栄えても良い気がする。
美人だから、とりあえず登録しました。
私も前から「前田家」が謎で仕方なかった…なんとなくスッキリした…😒
秀吉の痕跡を消す勢いで秀吉の壮大な墓地を徹底的に破却してますね。秀吉の遺骨もわからなくなるぐらい。今あるのは明治時代の再建墓石。
秀吉の遺骨は明治時代にあらだがみねで完全な形で発見されています
加賀は参勤交代の時遠周りしなければならず、百万石と言う名の減俸政策、
加賀藩主達は前世で貢献した魂達の集まりで平和主義で芸術家です。
東京大学の敷地はは加賀前田藩の江戸屋敷跡です。
本多家よりも前田土佐守家の方がスパイスを醸し出していたりする…解説にあった加賀騒動にも関わっているし(告発側として)加賀の大商人・銭屋五平衛が起こした事件とか幕末でも度々顔を出している。…ただ、顔の出し方が常に後ろ向き(※個人の感想です)なんですけどね…
前田家は外様じゃないですよ。元はそうだったかもしれませんが、元禄時代の地図では、松平加賀守として準親藩扱いをされています。
Asuka S. 他の大名家とは格別の扱い受けてるし、松平の名字を下賜されてるもんね
利常が秀忠の娘と結婚してるからその時点で親戚だしね
何もしなかったから前田家は生き延びた
正に仮痴不癲の計ですな、痴を仮りて癲わず!流石前田家100万石の名門
6:11加藤はまだしも、福島と最上は救済措置的なのを取られたにもかかわらず、当主がそれに従わなかったから取り潰されただけで、『平気で』取り潰された訳じゃない
薩摩、長州に比べたら幕末存在感出せなかったけど、逆に幕府側についてたら内乱が長引いて日本中疲弊してた危険性あるから、逆に何もしなくて良かった🎵
幕末は日和見と言うより、尾張徳川公の説得によって降伏したようですね。私の祖先が加賀藩士で、当時江戸勤めだったことから祖父母の話では、旗本のしょうぎ隊と共に上野の戦に参加する予定だったのですが、加賀からの伝令が直前になって届き、その場で家臣関係を構い亡しとする沙汰がでて、江戸勤家臣団は解散となったそうです。無用な殺生を避ける意味があったとは思いますが、この沙汰だけで主従関係がおしまいとは悲しいものがあります。
加賀百万石は表石は102万石だが。実高は120万石くらいだったかな?表石と実石の差は少ない方だ。長州藩は表石は36万石だが、実石は江戸初期でも50万石を超えていた。幕末には実石は100万石を超えていたのではないかと言われる加賀藩は前田利家以来、存続が史上命題になり。とにかく幕府に睨まれないようにしていたらしい表石と実石の差もあまりないのもそのためのようだまあ、幕府も外様と言っても加賀藩は別格の扱いをしていた。御三家に次ぐ扱いにあり参議兼扶桑守と官位を名乗ることが多かったそうだ。参議以上が公卿だから、武家で公卿の扱いを受けたのは御三家と加賀藩藩主くらいのものではなかったかな。あと、鷹司松平家とかも、一万石の小大名ながら、初代藩主が鷹司家の庶子であることから摂関家の鷹司家の分家であり将軍家とも姻戚関係がある特殊性から親藩の扱いも受けていた官位に限ればこの鷹司松平家が例外的に高かったくらいか
利家は親父と慕っていた勝家と親友の秀吉の狭間で苦労して親父様の許可を貰って秀吉側についたはず
中々の数の子を抱えながらのプー時代をどう乗り越えたのほうが、興味あるんですけど。外様で、時代をしのげたのは、産業の興しかたや、都市建設の上手さもあるでしょう。リスク有りの高山右近を抱えたとかも。
ええ声
下手に所帯がでかくなり過ぎて、何もしない事がお家安泰になるという体質になってしまった。特に三代目利常は有能な藩主であるにもかかわらず、敢えて愚鈍な言動で幕閣から睨まれる事を避けたり、大坂の陣の頃に、家康側近の本多正純の弟政重を5万石の破格の待遇で藩の家老に抜擢。真田丸での「歴史的な惨敗」は、政重が指揮を執った事でも知られる。側から見ても、「忖度が過ぎる」とは、こういう事を指すのだろが、安定の時代を生き抜くためだから、やむを得ないのか。
吉原ばかり行ったよ。 身請けもした。
企業もあまりにデカすぎると潰すに潰せない、産業再生機構とかが出てくる。加賀前田もうっかり潰すと浪人が大量発生して社会不安を引き起こすから、それが幸いしたと思うね。余談ながらお姉さんに、お稲荷🦊コスをしてもらいたいです❣️
煙にまかれてかが逃げた…。大藩ですがなぜか強いというイメージはあまりないです。
キャラってあるじゃないですか。利家のキャラは嫌いではありません。賢いリーダーは リーダーの存在感が無い組織を作るんです。優秀な部下がたくさん居たら 社長が前面に出て活躍する必要はないんです。会社のHPで 社長の顔がでっかく出てる会社はダメだ!と言われる所以でもあります。
どうなんだろうねぇ。ただ、前田の殿様の置き土産ともいえる参勤交代を模した百万石まつりがあります。残念ながら昨年から中止になっていますが、我々は甲冑を着て市内を練り歩いてます。観光客の方に評判いいですよ^^
天下を取ると言う野心が無かっただけだと思うのですが❓。戦国時代は家を残す事が大事なことでしたから。
しかも、金沢は空襲を受けなかったので古い町並みも残っていますね。
GOOD !
利家が柴田勝家を見限ったのは日和見したわけではないんじゃないの?
前田利家が加賀侵攻の時に門徒虐殺をやったおかげで、その後領民に不服従運動をされて領地の直接支配を諦めざるえなくなっています。
そのころの利家は信長の部下で、上司の命令でやっただけ 恨まれていたのは信長でしょう
佐久間盛政の時に門徒宗は見つけ次第に磔でしたから仕方ない利家が金沢城に入城して 門徒宗と和睦してからは 慶長7年に金沢に東本願寺(金沢別院)が建てられるなど上手く統治したようですね
まぁ幕末で日和った藩は珍しくないからなぁ。加賀藩だけでなく、親藩筆頭の尾張や譜代筆頭の彦根ですら似たようなもん。むしろ意地を張った会津が特殊なんだよ・・・
酒井美意子さんの御先祖さまですね 戦前までは華族でしたよね
加賀前田藩は、バカ殿を演じることもあったかもしれませんが、葵紋と松平姓を下賜された準親藩であったばかりではなく、第4代綱紀が学問振興に務め、徳川幕府と並んで、書物奉行を置き、その蔵書は徳川家を凌ぐと言われたほど。貧民救済のためにお助け小屋を設立するなど、善政を敷き、財政が困窮すれば倹約に務める一方、財政が潤沢な際には、書物やさまざまな美術工芸品その他を購入し、工芸産業を興し、兼六園を初めとする造園などで散財し、謀反の疑いを逸らす一方、藩内の文化的水準を高めた。葵紋を下賜されても、菅原家ゆかりの梅鉢紋に拘ったことからも、学問を重んじていたことが窺われます。だから、幕府としても、簡単に潰すこともできず、一目置いていたのではないでしょうか?経済成長を遂げた後の現代日本にも、見習ってほしい精神ですね。-私の母の実家が加賀藩御文庫係(恐らくは、書物奉行か祐筆のような役職?)で、梅鉢紋を下賜されていたらしい。学問に関わる家臣を大切にし、誇りにもしていたということでしょう。綱紀公は、学者を大勢招聘して召し抱えたそうですし。曽祖父が御文庫係として勤務していた頃の加賀藩御文庫には、アングルの絵画があったそうで、前田のお殿様は、ずいぶんハイカラで、芸術鑑識眼も高かったのだと痛感しました。-薩摩・長州藩のように、藩の財力を軍備に投じたり、軍隊を組織して、率先して世の中を変え、海外列強に対抗できるような国造りをし、幕府を倒そうとはしなかったから、幕末も表舞台にも立たなかった。けれども、積み重ねてきた学問と芸術、工芸などへの教養が大きかったから、明治時代、華族令で侯爵家となってからも、東京に洋館を建築し、鹿鳴館時代をリードする存在だったようですし。明治維新で日本が列強に潰されなかったのは、単なる富国強兵論だけに留まらない、前田侯爵家のような存在があったからなのではないでしょうか?-ちなみに、東大赤門や三四郎池などが、加賀藩江戸屋敷跡だということは有名ですが、再築されなかった江戸城天守閣の台座も、加賀藩が造ったものですよね。ある意味、徳川幕府は、加賀藩をいいように使っていた感もあります。
もし、幕府がカソリックの国に対しては鎖国でも、イスラムや辺境の民族に対しては開国方針を取って、沿海州あたりを開拓していれば、どういう戦略を選択しただろうか?
加賀藩は立地的にも内部的にも大事を起こしづらかった事情もあるし、日本最大の大藩が力を蓄えたおかげでその後の日本の近代化を促進したと考えると、国家規模での政治で見ると大殊勲の働きとも言えますね。
その通りです。前田家の下級家臣の子孫としてはご主君様の日和見、長いものに巻かれるで我慢していただいたおかげで徳川幕府から目をつけられず幕末もすぐ新政府に付いたおかげで藩も潰されずに私が現在存在しているわけです。歴代前田公の卓見に感謝申し上げます。幕初家康公に馬鹿みたいに突っかかって、幕府に滅ぼされた奴ら、幕末新政府に逆らった奥羽列藩同盟の奴らの悲惨なこと。幕初の勇猛果敢猪突猛進、大坂の陣で終了。豊臣系大名が目をつけられているのもわからんで、馬鹿な福島や加藤は滅んだ。藤堂なんぞはいつの間にか家康公のブレーンになっている。伊達細川黒田もいつの間にか屈服していた。島津も毛利も然り。幕末は逆に伊達藩がんばったな。いずれにしろ日和見と言われようが、生きるのが先決。会津藩の馬鹿野郎は慶喜の恨みをもろに受けて青森の僻地に追いやられ、塗炭の苦しみだぞ。前田藩の子孫は前田公に皆感謝しています。殿よくぞ日和見と我慢して頂きました、と。おかげでなんの憂いもなく幕末を乗り切り我らは現在を生きながらえた。ありがたやありがたや前田公。バカ殿でなくて本当に良かった。毛利、島津なみでよかった。だが違うのは毛利、島津は好戦的なところ。前田は雅。文化。武力は三代さんから捨てているからね。
確か…有名な東大の赤門は前田家の武家屋敷の跡地だったような…
その通りです☝ 東京大学の赤門は 確か、前田家の上屋敷跡の名残ですよ。板橋区には下屋敷が在って、今でも板橋加賀町と云う町名が在ります。参勤交代で最も規模が大きな行列は加賀藩だったんです。
ついでに。 東大の駒場(教養学部等があり、旧制一高があった場所)は、前田藩の下屋敷
戊辰戦争を最後の悪あがきとは、どのような神経してるんですか?会津の人も心外だと思いますけど。
naru 3 実際悪あがきと言われてもしかたないわなww
@@ますだ-p2m お前に何言っても無駄そうだな
「勝てば官軍」的意見。さおりさんのせいではない。
naru 3 実際悪あがきだろ
まあ、悪あがきしていた当人やゆかりの人たちは、それを認めるわけない。外から見てたら悪あがき以外の何物でもないが、本人たちは認めないことが多いわな。
二代将軍 徳川秀忠も真田に三度も敗れ、関が原には遅刻するという、ちょっと間の抜けた殿様だったみたいですけどね。といっても、家康が出来過ぎた当主より、それくらいの方が敵から狙われにくいと考えたという話もありますが、その辺どうだったんだろ・・実際は。
二代目があれだったからこそ家康は当主のキャラに頼らない「仕組み」として幕府を長続きさせる体制づくりを心掛け、その結果260年だったかなという戦乱の無い時代をおぜん立てできたのでしょう。 人生なにが幸いするか分からないものです。
秀忠が関ヶ原の戦いに遅参したのは、真田家が妨害してたからじゃなかったっけ?
綺麗な子やな。おっちゃんついつい登録しちゃったがね(^^♪
生き残った方が勝ちでしょ
前田は過大評価されすぎ前田が何もしなかったとコメントあるけど、越前松平が直下におったからな今の金沢市は歴史が浅く、前田頼みなのは否めない
前田家に限らずに遅れて新政府側に付いた勢力はみんな影が薄いよ前田家は政府に警戒されてたからな動きようが無いしそのせいで石川県の県庁は最初は金沢ではなくて美川に建てられた余談だが北陸道(高速道路)走ると「美川県一の町」って書いてあるよな、アレ俳優の「美川賢一」じゃないよ、そもそも接点ないしw廃藩置県で最初に町になったって意味で、県庁が置かれて目の前の川(手取川)が水が少なくて石ばかりなので県名が「石川県」なんですその時代で前田家は製鉄や造船に多額の出資をして日本の近代化に寄与してるんですよ軍事では後に加賀・土佐・丸亀で第3軍を編成し旅順攻略(日露戦争)にあたることになりました
加賀八家と言われた家は一万石以上持っていました。
100万石の大名にしては、マイナーな大名に感じる前田家
tennensui77 大きく動いてないからね
前田家は利家の時代だけですね 存在感あったのは
加賀100万石はむしろ3代目 前田利常があってこそだと思います。
3国支配しててマイナーなわけないやろ
@@前田利家-w7s これは個人的ですが織田・豊臣・徳川・武田・上杉までだと思いますメジャーといわれる戦国武将は、あとは住んでいる地域にもよると思います。石川県なら百万石まつりで毎年芸能人がふんして町をねりあるくのでメジャーかもしれませんがね。
日本最後の大名で最後の藩主である林忠崇をお願いしたい
酒井みいこさんの話が続けば良かった。
そうですね、大正から戦前にかけての当主「利為」さんの娘で、世が世ならお姫様でした
タイトルで吹いた
お家維持は大変
いやすべての生きる人間のお手本です。名を得ようと欲が出ると自滅する。争わずに時を判断する。簡単そうでいちばん難しい役回り。庶民にとって争いがなく平和。だから今でも金沢の城下町は栄えている。
時代に揺さぶられ続けた越前福井本来なら加賀前田家の監視役だったはずなのにそして寝たふりを続けた前田家本家だけで百万石越え分家が十万石が二家他にも最大家臣で五万石それでも参勤交代は費用削減の為に自炊で藩士は木賃宿状態
雑司が谷鬼子母神堂を寄進したのも元前田家の姫様✨
本多家ってあの弥八郎の家?
まとめのところは富山城だ!
加賀藩を初め、加賀前田氏の始祖は、前田利春という人です。
うちには先祖が前田家からもらった子供用の兜があるぜ!いえ~い!
前田家の選択。なんとも北陸らしい保守的な感じですね。
何?北陸らしいってww
加賀藩の本多家って幕府から派遣されたわけではないけどね。
徳川家旗本の本多家と、加賀前田藩の家老本多家とは、先祖は同じ系列ですが、江戸時代になると、別々の家になっていたと、理解しています。
@@山田実-c6m 様確かに本田政重は、陪臣なので正純のとばっちりを受けずにすみましたね。妻は直江兼続の娘ですし、西軍側の大名に義理伊達して味方になってるし。徳川幕府から送り込まれたと言うのはあり得ないでしょうね。まつを人質にした件は、直接交渉したのは横山氏ですが、差配し根回ししたりして前田家の存続に貢献してますし、元々能力を前田氏が買っていたから登用した訳ですしね。
加賀の城の瓦は鉛で出来ていた。鉛は火に強いが、高価であった。その為、金沢城だけが、鉛の瓦を使っていた。高価な鉛を使うほど財政的に豊かだったのである。石高が太閤検知で100万石であったが、明治になっては150万石を越えていた。新田開発を積極的に行った結果である。日本の戦後の一時期に似ている。経済的に豊かになっても、世界的に見れば大したことないねで終わりそう。
ある意味では無く 利家の死を家康は待っていた嫡男はまつ が認める程 器量が無く 家康に勝てないと嫡男を家康側に付くように諭している前田家の唯一の功労?は徳川家からの嫁入りがありその為 前田家が倒れる位の金がかかったのだが その時に前田家の門を朱色にしたのだが今では東大の名物 赤門になっている加賀藩は江戸時代全く活躍せず明治時代 ばかにされていた加賀藩士は 苦痛を強いられ後に 大久保利通暗殺の時にその鬱憤をはらす事になる
東大の赤門が前田の何とか屋敷じゃなかったかな
柴田勝家を見限ったのではなく、裏切っただけだよ。前田家はなにもしなかった。
さおりさんこんばんは😃♥️
最近中々毎日見れないのでまとめて見ています😅
さおりさんのナレーションいつも聴きやすいし最高😃⤴️⤴️
安定したナレーション、安心して視聴しました。
是からも末永く御活躍される事を願います。
土佐山之内家とともに戦略と世渡り上手の見本のような家ですね、見習うべきところが大いにありますね、
「歴史の細道」は、世間の中で有名な人物の他に、あまり光が当たらない人物にもスポットを当てるので、良いですね!
幕末の薩摩藩の琉球貿易の密貿易相手の北前船が、前田(富山売薬)藩。
かつて密貿易の相手だった長岡藩が幕府から新潟湊を没収され、さらに木曽三川の工事で財政難に陥った薩摩藩を救ったのが、富山売薬がもたらした羅臼昆布貿易。
富山売薬の原料はインド製の輸入品なので、長崎出島が使えない幕末に薩摩との取引が無ければ終わっていた。
越中国の湊を独占していた金沢藩は手取川が幕府の天領で監視されてるので、表向きすっとぼける必要があった。
全国に北海道の昆布を広げたのは、前田藩。
そもそも本願寺の鉄砲の硝石の原料を作っていたのが、世界遺産の合掌造りでそこを抑えたのが前田利家。
合掌造りと金沢城の間には、塩硝街道が作られて今は通行禁止となっている。
これを知らずに、北越戦争は理解出来ない。
いつも楽しく視聴させてもらっています。皆さん言われる事ですが、美人で美声で素敵です✨
気にしていたことですが、今回偶然見つけました、勉強になりました。
婦人雑誌にたまに前田家現当主と奥様が出て来てインタビュー答えているの見て、現在も子孫はうまくやっているなと思いますわ。
ナレーションきれいな声でした
それで十分。平和だから文化は発達した。加賀百万石
やっぱさおりさんが良いね〰🎵
利家が勝家を見限ったのは、負けると分かった勝家が昔から友好があった前田家を大事にしろと書状をかいて、撤退させた説もあるよ
生粋の金沢っ子です。確かに、幕末期の薩摩や長州や会津の話を聞くと、ちょっと寂しい気がしてましたね。でも、伝統文化や工芸に力を入れて、また、空襲も免れたので、京都を除けば日本で最も良き歴史と伝統を感じる素晴らしい街のひとつですよ。北陸新幹線が開業以来、外国人を含む沢山の観光客で賑わっています。観光公害も多少目立って来ましたが……😰 自然豊かな富山県や岐阜県の合掌造りで有名な白川郷や飛騨高山などにも比較的近いので、一度は要らして下さい。食べ物も美味しいですよ😋
金沢に何回か行きましたが(出張含む) 物価が高い❗️ 飲みに行っても料金にビックリ😵 よそ者料金か❓️😲
加賀百万石(実高約120万石)のうち、越中(富山県)が53万石。加賀国は45万石程度に過ぎない。ちなみに能登国は22万石。近江のマキノ周辺も飛び地だった。
「加賀百万石」という響きで、加賀国だけで100万石あると思っている人が案外多くて驚いている。
家を残すことは大変重要。国や家臣、身内の生活もかかっているからね。自らの生き方を貫い為改易を食らった大名、後の生活は地獄じゃなかったのかな。長いもに巻かれる生き方も大切だと思う。
豊臣秀吉死後の徳川家康対策に成功した前田家と失敗した上杉家でその後の江戸時代及び幕末が変わった。目立たないように動いた前田家は凄い。
加賀前田は地味に藩政改革を行い幕府につけいられないように守りを固めていました改作法を執り行いましたしかし幕府の監視の目は厳しく本多が幕府から家老として付けられていました結局明治維新で表に出て来なかったのはこの時期の影響が強かったと思います。加賀という地味な土地で冬は雪に閉ざされていた前田家は加賀の地で独自の文化を栄えさせていました。
「加賀百万石」・・「加賀」の国だけだと、約45万石。越中や能登、その他の飛び地を合わせて百万石以上あった。ちなみに東北数か国合わせて一括で「陸奥」という呼び名で百万石を超えるが、単独の国で石高が最も多いのは、近江77万石。琵琶湖に巨大な面積を占められながら、生産性がすごい。
加賀藩は、加賀、能登、越中の三国をほぼ掌握していた大大名だ
歴代藩主も扶桑守と称することが多かったとか。扶桑というのは日本の国名の別名だな
守とか介とか、これは旧律令制の国司の事であり。扶桑守は日本の国司というかなりたいそうな意味だ。
大岡忠相が越前守と称したことなど有名だが
大岡忠相が越前国を領有したことなどなく、ただの自称ではあるが
いわゆる、国主大名のこれは実態があり、薩摩藩の島津家は右中将兼薩摩守と官位を称したりした
尾張徳川62万石…広くはないが近江に次ぐ生産率です。
御三家の御威光もあり木曽川の水利権、木曽檜の運上税などもあり
隠れ石高は65万石。
そしてやはり御三家の御威光で各普請事業が免除もあり本来なら裕福
であるはずが御三家筆頭の立場に胡座をかいた為、江戸時代全般で
御三家の末席的扱いであった。
加賀、能登、越中3つで加賀藩っていう一つの国だから。
単独で100万石でしょ。
能登、越中は加賀藩って国になる前の国の名前だから。
@@001takeunicorn9
尾張藩は御三家筆頭だったと思ったが
御三家で格が落とされたとすれば、むしろ八代将軍の頃
あの頃、将軍位を巡る争いで、本来御三家筆頭の尾張藩から出されるはずが
吉宗が将軍になり、その後の将軍位は紀州の血筋で固められたからな
尾張藩としては相当、面白くなかったそうだ
尾張藩公宗春と八大将軍吉宗の対立は有名だし
加賀国=100万石という間違ったイメージを持つ人が多い。律令下に決められた「国」を指している。藩と混同しているだけ。加賀藩=100万石なら問題はない。
沙織さん可愛い❗
名を捨てて実を取った前田家。家系を永らえるという
意味では賢い選択だった。
家系ねえ。うんうん、大事だねー
死んだふりをして、生き残った名家。
前田利家は死ぬ前に
「全力で秀頼を守れ」と遺言したが息子の利長はあっさり
徳川に屈してしまった
だが逆にそれが良かった。
もし家康に対抗して戦ってたら前田家は取り潰されていたかもしれない
生は一代
名は末代
個人は何時死んでも当たり前
そういう意味では戦国のままだったのだ。
加賀藩は参勤交代の時には一万人以上を引き連れて江戸に入り、その力を見せつけたこともあったそうだ。
加賀藩の表高は102万石
万を超える家臣団がいただろうしな
内容が良いので、チャンネル登録致しておりましたが、こんなにも素敵な歴女さんだったとは!!
今後も愉しみにしています。#👴翁
面白かったよ
この声の人こんな美人だったんかいなw
嬉しいな沙織さんだー。明日も、、、駄目かなー。
だから加賀百万石は平和で住民は幸せだったのでは
まあ平和すぎてお家騒動起こしては火消しに大金使っての繰り返しだったんだがね。世間が尊王攘夷で騒然としているのにお家騒動やってたというあきれたのんきぶり。
富山に生まれましたが、前田利家以後の殿様の名前を知りません。殿様のエピソードも、聞いたことありませんでした。
@@seiichikirikami2184 利長、利常も名君ですよ。。
大坂夏の陣、冬の陣は利常の死後起きてるので
家族を守ることも大切なことです
前田利家の遺言は
「どんな事をしてでも家を保て」
だと聞いた事があります。
その言いつけを代々守ったお陰で、幕末まで存続したんだと思います。
前田利常の代に謀反の疑いをかけられた時、鼻毛を伸ばしたりしたのも、家を守る為なのかも知れません。
それに、他の幕臣に袴を手繰り上げて、股間を見せて
「最近、ムスコがふんどしにすれて痛いんだよなぁ」
と言ったりしてたとか。
なもんで
「あぁ…コイツは馬鹿だから、謀反するわけないか」
と思われたのかも。
ナレーター聴きやすくて
安心できますね。
加賀藩が徳川幕府に厚く遇されていたのは
その支配地域の大半が一向宗の門徒集団であったことが大きいのでは
家康自身も一向宗に苦しめられた経験から、幕府では一向宗への締め付けが激しく
これは加賀藩内でもかなりの弾圧体制が敷かれていたと言います
加賀藩が歴史的にさほど活躍できていない理由は
そういう内政に忙殺されていたからでしょう
最大の大名であるために幕府の警戒を受けやすいのが加賀藩だった
だから江戸時代を通じて加賀藩の至上命題は「存続」にあった。
そのため幕府に睨まれないように加賀藩は幕府に対して慎重な運営を行っていたようだよ
加賀藩の表石は102万石だが実石は120万石だったが
仙台藩伊達家が表石が62万石に対して実石が98万石
米沢藩上杉家が表石が14万7000石に対して実石が28万石余り
これを観れば表石と実石の差が加賀藩はそんなにない事がわかる。それだけ幕府に気を使っていたようだ
私の先祖は江戸時代は前田藩の御殿医をしていました❗父から家系図をみながら聴いてました❗祖父が九州帝国大学医学部に入った為北陸から北九州市で次男であったため開業しました❗長男は高岡市の医院をついだそうです。江戸時代はお姫様の眼を治したとの事でした。
前田家は3代利常(正室徳川秀忠 次女)までは、徳川家に対抗意識が窺えるのですが、
4代光高(正室徳川頼房 四女)、5代綱紀(正室保科正之 四女)あたりになると
徳川家からの輿入が続いたことで
徳川家の親族意識が高くなり、だんだん骨抜きされたイメージですね。
“家”を残したわけやから結果的に前田はよくやったと思う…
ってか沙織さんかわいい😍
確かにかわいいですね。
アグネスチャンの若い時に似てますよね・・(;^ω^)・・
@@granbluesea1 838
お目目がとっても大きいのに黒コンでごまかしていないキレイなお姉さんのサオリさん!
声も表情も名前もステキで、すごい美人なのにイヤミが全然なくて女から見ても憧れちゃう!
幕末まで何もやらなかったわけではなくて、色々やって失敗した。特に幕末では保守派と尊攘派の対立(父対子)で尊攘派が大弾圧されており、時勢に乗り遅れてしまった。ただ大政奉還後は新政府側についており、結果的にうまく生き残れたのではないだろうか?
本多家家臣の末裔として興味深く拝聴しました。
結局宮内庁に前田家がいる時点で、天下とった家は織田、豊臣、徳川でなく前田家だと思います。確かに人気では勝てませんけど、人気でなく永遠のナンバー2とどの家もできなかった。
あ‼️
さおりさんだ🥰
無条件で👍
沙織お姉さんの声と話し方、ほれてまうー
北陸の所長の「土地柄2番目が好き」という言葉を思い出しました。今は違うんでしょうけどね。
実質最初の場合は2番目と先人がいることを偽造することで説得したと言ってました。
この動画をみて思い出しました。
大藩故に将軍家の監視もキツかったろう。明治新政府は薩長が中心となり、加賀藩士は相当苦汁を飲まさせられた。その鬱憤が大久保利通暗殺に繋がった。
明治以後も旧前田家臣からの人材がいる。ソロバン侍の息子とか(大正のシーメンス事件で酷い目に)
昭和にも当主が東條英機大将と同期で。口論で負けた東條が「この殿様がっ!」と叫んだという。
了解
加賀藩前田家がどれだけすごいか。
同家の家格は御家門筆頭の越前松平よりも上だった。
一斉登城の際の序列は御三家、加賀、越前の順だっだけど、加賀は御三家との間に1席分空けて座ったそう。何かの本で読んだ。
興味深い内容で大変勉強になりました。
ご先祖様、力をお貸し下さい🌹🌹
藤堂高虎の口利きにより本多正信の次男正重が5万石の筆頭家老として前田家に送り込まれる。
正重は幕府とかけあい新川郡20万石を前田家にもたらした。
10年前まで城の横に本多家老館があったが現在は県立博物館に移転した。
幕末の財政難は銭屋五兵衛の財産没収でのりきった。
加賀繙は藩政改革に江戸中期から乗り出しとくにのうせいかいかくである改作法を行ったが大藩のわりに存在感が薄いのが悲しいところ地味さにについては栃木の結城氏と並ぶ地味さでは山形の最上もなかなかのものである青森の南部も鉄器位しか思いつない。これらの大名は外様でもなかなかの大藩であり明治維新のさいに影が薄いのは前田上杉伊達結城といえるとおもうそのまま未だにじみと言える安芸広島福島氏も熊本の加藤家とならぶ賎ヶ岳七本槍の福島氏の所領だか維新期には陰か薄く隣国の周防長門の毛利氏と薩摩のしまずに主役の座を取られている経済的には毛利氏しまずに負けない大藩ばけりだが歴史の表舞台には出てくることなく歴史の闇に消えていってしまった唯一広島は栄えたが他は本当に地味な地方になってしまった。華がない。それは徳川の地元の三河も同じで唯一トヨタとデンソーがあると言うことしか華がない。とても住みやすい良いところではあるけれどもう少し栄えても良い気がする。
美人だから、とりあえず登録しました。
私も前から「前田家」が謎で仕方なかった…なんとなくスッキリした…😒
秀吉の痕跡を消す勢いで秀吉の壮大な墓地を徹底的に破却してますね。秀吉の遺骨もわからなくなるぐらい。今あるのは明治時代の再建墓石。
秀吉の遺骨は明治時代にあらだがみねで完全な形で発見されています
加賀は参勤交代の時遠周りしなければならず、百万石と言う名の減俸政策、
加賀藩主達は前世で貢献した魂達の集まりで平和主義で芸術家です。
東京大学の敷地はは加賀前田藩の江戸屋敷跡です。
本多家よりも前田土佐守家の方がスパイスを醸し出していたりする…
解説にあった加賀騒動にも関わっているし(告発側として)
加賀の大商人・銭屋五平衛が起こした事件とか幕末でも度々顔を出している。
…ただ、顔の出し方が常に後ろ向き(※個人の感想です)なんですけどね…
前田家は外様じゃないですよ。
元はそうだったかもしれませんが、元禄時代の地図では、松平加賀守として準親藩扱いをされています。
Asuka S. 他の大名家とは格別の扱い受けてるし、松平の名字を下賜されてるもんね
利常が秀忠の娘と結婚してるからその時点で親戚だしね
何もしなかったから前田家は生き延びた
正に仮痴不癲の計ですな、痴を仮りて癲わず!流石前田家100万石の名門
6:11
加藤はまだしも、福島と最上は救済措置的なのを取られたにもかかわらず、当主がそれに従わなかったから取り潰されただけで、『平気で』取り潰された訳じゃない
薩摩、長州に比べたら幕末存在感出せなかったけど、逆に幕府側についてたら内乱が長引いて日本中疲弊してた危険性あるから、逆に何もしなくて良かった🎵
幕末は日和見と言うより、尾張徳川公の説得によって降伏したようですね。私の祖先が加賀藩士で、当時江戸勤めだったことから祖父母の話では、旗本のしょうぎ隊と共に上野の戦に参加する予定だったのですが、加賀からの伝令が直前になって届き、その場で家臣関係を構い亡しとする沙汰がでて、江戸勤家臣団は解散となったそうです。無用な殺生を避ける意味があったとは思いますが、この沙汰だけで主従関係がおしまいとは悲しいものがあります。
加賀百万石は表石は102万石だが。実高は120万石くらいだったかな?
表石と実石の差は少ない方だ。
長州藩は表石は36万石だが、実石は江戸初期でも50万石を超えていた。幕末には実石は100万石を超えていたのではないかと言われる
加賀藩は前田利家以来、存続が史上命題になり。とにかく幕府に睨まれないようにしていたらしい
表石と実石の差もあまりないのもそのためのようだ
まあ、幕府も外様と言っても加賀藩は別格の扱いをしていた。御三家に次ぐ扱いにあり
参議兼扶桑守と官位を名乗ることが多かったそうだ。参議以上が公卿だから、武家で公卿の扱いを受けたのは御三家と加賀藩藩主くらいのものではなかったかな。
あと、鷹司松平家とかも、一万石の小大名ながら、初代藩主が鷹司家の庶子であることから摂関家の鷹司家の分家であり将軍家とも姻戚関係がある特殊性から親藩の扱いも受けていた
官位に限ればこの鷹司松平家が例外的に高かったくらいか
利家は
親父と慕っていた勝家と親友の秀吉の狭間で苦労して
親父様の許可を貰って秀吉側についたはず
中々の数の子を抱えながらのプー時代をどう乗り越えたのほうが、興味あるんですけど。
外様で、時代をしのげたのは、産業の興しかたや、都市建設の上手さもあるでしょう。
リスク有りの高山右近を抱えたとかも。
ええ声
下手に所帯がでかくなり過ぎて、何もしない事がお家安泰になるという体質になってしまった。特に三代目利常は有能な藩主であるにもかかわらず、敢えて愚鈍な言動で幕閣から睨まれる事を避けたり、大坂の陣の頃に、家康側近の本多正純の弟政重を5万石の破格の待遇で藩の家老に抜擢。真田丸での「歴史的な惨敗」は、政重が指揮を執った事でも知られる。側から見ても、「忖度が過ぎる」とは、こういう事を指すのだろが、安定の時代を生き抜くためだから、やむを得ないのか。
吉原ばかり行ったよ。 身請けもした。
企業もあまりにデカすぎると潰すに潰せない、産業再生機構とかが出てくる。加賀前田もうっかり潰すと浪人が大量発生して社会不安を引き起こすから、それが幸いしたと思うね。余談ながらお姉さんに、お稲荷🦊コスをしてもらいたいです❣️
煙にまかれてかが逃げた…。
大藩ですがなぜか強いというイメージはあまりないです。
キャラってあるじゃないですか。
利家のキャラは嫌いではありません。
賢いリーダーは リーダーの存在感が無い組織を作るんです。
優秀な部下がたくさん居たら 社長が前面に出て活躍する必要は
ないんです。
会社のHPで 社長の顔がでっかく出てる会社はダメだ!と言われる
所以でもあります。
どうなんだろうねぇ。ただ、前田の殿様の置き土産ともいえる参勤交代を模した百万石まつりがあります。残念ながら昨年から中止になっていますが、我々は甲冑を着て市内を練り歩いてます。観光客の方に評判いいですよ^^
天下を取ると言う野心が無かっただけだと思うのですが❓。戦国時代は家を残す事が大事なことでしたから。
しかも、金沢は空襲を受けなかったので古い町並みも残っていますね。
GOOD !
利家が柴田勝家を見限ったのは日和見したわけではないんじゃないの?
前田利家が加賀侵攻の時に門徒虐殺をやったおかげで、その後領民に不服従運動をされて領地の直接支配を諦めざるえなくなっています。
そのころの利家は信長の部下で、上司の命令でやっただけ 恨まれていたのは信長でしょう
佐久間盛政の時に門徒宗は見つけ次第に磔でしたから仕方ない
利家が金沢城に入城して 門徒宗と和睦してからは 慶長7年に金沢に東本願寺(金沢別院)が建てられるなど上手く統治したようですね
まぁ幕末で日和った藩は珍しくないからなぁ。
加賀藩だけでなく、親藩筆頭の尾張や譜代筆頭の彦根ですら似たようなもん。
むしろ意地を張った会津が特殊なんだよ・・・
酒井美意子さんの御先祖さまですね 戦前までは華族でしたよね
加賀前田藩は、バカ殿を演じることもあったかもしれませんが、葵紋と松平姓を下賜された準親藩であったばかりではなく、第4代綱紀が学問振興に務め、徳川幕府と並んで、書物奉行を置き、その蔵書は徳川家を凌ぐと言われたほど。
貧民救済のためにお助け小屋を設立するなど、善政を敷き、財政が困窮すれば倹約に務める一方、財政が潤沢な際には、書物やさまざまな美術工芸品その他を購入し、工芸産業を興し、兼六園を初めとする造園などで散財し、謀反の疑いを逸らす一方、藩内の文化的水準を高めた。
葵紋を下賜されても、菅原家ゆかりの梅鉢紋に拘ったことからも、学問を重んじていたことが窺われます。
だから、幕府としても、簡単に潰すこともできず、一目置いていたのではないでしょうか?
経済成長を遂げた後の現代日本にも、見習ってほしい精神ですね。
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私の母の実家が加賀藩御文庫係(恐らくは、書物奉行か祐筆のような役職?)で、梅鉢紋を下賜されていたらしい。
学問に関わる家臣を大切にし、誇りにもしていたということでしょう。綱紀公は、学者を大勢招聘して召し抱えたそうですし。
曽祖父が御文庫係として勤務していた頃の加賀藩御文庫には、アングルの絵画があったそうで、前田のお殿様は、ずいぶんハイカラで、芸術鑑識眼も高かったのだと痛感しました。
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薩摩・長州藩のように、藩の財力を軍備に投じたり、軍隊を組織して、率先して世の中を変え、海外列強に対抗できるような国造りをし、幕府を倒そうとはしなかったから、幕末も表舞台にも立たなかった。
けれども、積み重ねてきた学問と芸術、工芸などへの教養が大きかったから、明治時代、華族令で侯爵家となってからも、東京に洋館を建築し、鹿鳴館時代をリードする存在だったようですし。
明治維新で日本が列強に潰されなかったのは、単なる富国強兵論だけに留まらない、前田侯爵家のような存在があったからなのではないでしょうか?
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ちなみに、東大赤門や三四郎池などが、加賀藩江戸屋敷跡だということは有名ですが、再築されなかった江戸城天守閣の台座も、加賀藩が造ったものですよね。
ある意味、徳川幕府は、加賀藩をいいように使っていた感もあります。
もし、幕府がカソリックの国に対しては鎖国でも、イスラムや辺境の民族に対しては開国方針を取って、沿海州あたりを開拓していれば、どういう戦略を選択しただろうか?
加賀藩は立地的にも内部的にも大事を起こしづらかった事情もあるし、日本最大の大藩が力を蓄えたおかげでその後の日本の近代化を促進したと考えると、国家規模での政治で見ると大殊勲の働きとも言えますね。
その通りです。前田家の下級家臣の子孫としてはご主君様の日和見、長いものに巻かれるで我慢していただいたおかげで徳川幕府から目をつけられず幕末もすぐ新政府に付いたおかげで藩も潰されずに私が現在存在しているわけです。歴代前田公の卓見に感謝申し上げます。幕初家康公に馬鹿みたいに突っかかって、幕府に滅ぼされた奴ら、幕末新政府に逆らった奥羽列藩同盟の奴らの悲惨なこと。幕初の勇猛果敢猪突猛進、大坂の陣で終了。豊臣系大名が目をつけられているのもわからんで、馬鹿な福島や加藤は滅んだ。藤堂なんぞはいつの間にか家康公のブレーンになっている。伊達細川黒田もいつの間にか屈服していた。島津も毛利も然り。幕末は逆に伊達藩がんばったな。いずれにしろ日和見と言われようが、生きるのが先決。会津藩の馬鹿野郎は慶喜の恨みをもろに受けて青森の僻地に追いやられ、塗炭の苦しみだぞ。前田藩の子孫は前田公に皆感謝しています。殿よくぞ日和見と我慢して頂きました、と。おかげでなんの憂いもなく幕末を乗り切り我らは現在を生きながらえた。ありがたやありがたや前田公。バカ殿でなくて本当に良かった。毛利、島津なみでよかった。だが違うのは毛利、島津は好戦的なところ。前田は雅。文化。武力は三代さんから捨てているからね。
確か…有名な東大の赤門は前田家の武家屋敷の跡地だったような…
その通りです☝ 東京大学の赤門は 確か、前田家の上屋敷跡の名残ですよ。板橋区には下屋敷が在って、今でも板橋加賀町と云う町名が在ります。参勤交代で最も規模が大きな行列は加賀藩だったんです。
ついでに。 東大の駒場(教養学部等があり、旧制一高があった場所)は、前田藩の下屋敷
戊辰戦争を最後の悪あがきとは、
どのような神経してるんですか?
会津の人も心外だと思いますけど。
naru 3
実際悪あがきと言われてもしかたないわなww
@@ますだ-p2m お前に何言っても無駄そうだな
「勝てば官軍」的意見。さおりさんのせいではない。
naru 3 実際悪あがきだろ
まあ、悪あがきしていた当人やゆかりの人たちは、それを認めるわけない。
外から見てたら悪あがき以外の何物でもないが、本人たちは認めないことが多いわな。
二代将軍 徳川秀忠も真田に三度も敗れ、
関が原には遅刻するという、
ちょっと間の抜けた殿様だったみたいですけどね。
といっても、家康が出来過ぎた当主より、
それくらいの方が敵から狙われにくいと考えたという話もありますが、
その辺どうだったんだろ・・実際は。
二代目があれだったからこそ家康は当主のキャラに頼らない「仕組み」として幕府を長続きさせる体制づくりを心掛け、その結果260年だったかなという戦乱の無い時代をおぜん立てできたのでしょう。 人生なにが幸いするか分からないものです。
秀忠が関ヶ原の戦いに遅参したのは、真田家が妨害してたからじゃなかったっけ?
綺麗な子やな。おっちゃんついつい登録しちゃったがね(^^♪
生き残った方が勝ちでしょ
前田は過大評価されすぎ
前田が何もしなかったとコメントあるけど、越前松平が直下におったからな
今の金沢市は歴史が浅く、前田頼みなのは否めない
前田家に限らずに遅れて新政府側に付いた勢力はみんな影が薄いよ
前田家は政府に警戒されてたからな動きようが無いし
そのせいで石川県の県庁は最初は金沢ではなくて美川に建てられた
余談だが北陸道(高速道路)走ると「美川県一の町」って書いてあるよな、アレ俳優の「美川賢一」じゃないよ、そもそも接点ないしw
廃藩置県で最初に町になったって意味で、県庁が置かれて目の前の川(手取川)が水が少なくて石ばかりなので県名が「石川県」なんです
その時代で前田家は製鉄や造船に多額の出資をして日本の近代化に寄与してるんですよ
軍事では後に加賀・土佐・丸亀で第3軍を編成し旅順攻略(日露戦争)にあたることになりました
加賀八家と言われた家は一万石以上持っていました。
100万石の大名にしては、マイナーな大名に感じる前田家
tennensui77 大きく動いてないからね
前田家は利家の時代だけですね 存在感あったのは
加賀100万石はむしろ3代目 前田利常があってこそだと思います。
3国支配しててマイナーなわけないやろ
@@前田利家-w7s これは個人的ですが織田・豊臣・徳川・武田・上杉までだと思いますメジャーといわれる戦国武将は、あとは住んでいる地域にもよると思います。
石川県なら百万石まつりで毎年芸能人がふんして町をねりあるくのでメジャーかもしれませんがね。
日本最後の大名で最後の藩主である林忠崇をお願いしたい
酒井みいこさんの話が続けば良かった。
そうですね、大正から戦前にかけての当主「利為」さんの娘で、世が世ならお姫様でした
タイトルで吹いた
お家維持は大変
いやすべての生きる人間のお手本です。名を得ようと欲が出ると自滅する。争わずに時を判断する。簡単そうでいちばん難しい役回り。庶民にとって争いがなく平和。だから今でも金沢の城下町は栄えている。
時代に揺さぶられ続けた越前福井本来なら加賀前田家の監視役だったはずなのにそして寝たふりを続けた前田家本家だけで百万石越え分家が十万石が二家他にも最大家臣で五万石それでも参勤交代は費用削減の為に自炊で藩士は木賃宿状態
雑司が谷鬼子母神堂を寄進したのも元前田家の姫様✨
本多家ってあの弥八郎の家?
まとめのところは富山城だ!
加賀藩を初め、加賀前田氏の始祖は、前田利春という人です。
うちには先祖が前田家からもらった子供用の兜があるぜ!いえ~い!
前田家の選択。なんとも北陸らしい保守的な感じですね。
何?北陸らしいってww
加賀藩の本多家って幕府から派遣されたわけではないけどね。
徳川家旗本の本多家と、加賀前田藩の家老本多家とは、先祖は同じ系列ですが、江戸時代になると、別々の家になっていたと、理解しています。
@@山田実-c6m 様
確かに本田政重は、陪臣なので正純のとばっちりを受けずにすみましたね。妻は直江兼続の娘ですし、西軍側の大名に義理伊達して味方になってるし。徳川幕府から送り込まれたと言うのはあり得ないでしょうね。
まつを人質にした件は、直接交渉したのは横山氏ですが、差配し根回ししたりして前田家の存続に貢献してますし、元々能力を前田氏が買っていたから登用した訳ですしね。
加賀の城の瓦は鉛で出来ていた。鉛は火に強いが、高価であった。その為、金沢城だけが、鉛の瓦を使っていた。高価な鉛を使うほど財政的に豊かだったのである。石高が太閤検知で100万石であったが、明治になっては150万石を越えていた。新田開発を積極的に行った結果である。日本の戦後の一時期に似ている。経済的に豊かになっても、世界的に見れば大したことないねで終わりそう。
ある意味では無く 利家の死を家康は待っていた
嫡男はまつ が認める程 器量が無く 家康に勝てないと嫡男を家康側に付くように諭している
前田家の唯一の功労?は
徳川家からの嫁入りがあり
その為 前田家が倒れる位の金がかかったのだが その時に前田家の門を朱色にしたのだが
今では東大の名物 赤門になっている
加賀藩は江戸時代全く活躍せず
明治時代 ばかにされていた
加賀藩士は 苦痛を強いられ
後に 大久保利通暗殺の時に
その鬱憤をはらす事になる
東大の赤門が前田の何とか屋敷じゃなかったかな
柴田勝家を見限ったのではなく、裏切っただけだよ。
前田家はなにもしなかった。