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鍋島様は、天然痘のワクチン接種を実践したり、飢饉の際には贅沢禁止野草を食べよう!と自ら野草粥を食べたり家臣の子供を塾に入れ子供の成績が給金に反映したりと教育にも熱を入れ、アームストロング砲を作ったり、日本初の蒸気戦艦を作ってみたりととなかなか面白い方だったようです。
その土地の民が大変な苦労と思いをしてたんだろうなと良く分かる
私がかつて教わった歴史の授業とは異なり、とても勉強になりました。幕末に裕福だった藩として 薩摩、長州は知っていたけど、松前藩は、知りませんでした。
やはり米でしか経済的な尺度を持たない藩は衰退し、商業の重要性を認識した藩は飛躍したと言う事でしょうね。当時の儒教的価値観からすると異端な政策だから、何処の藩でも真似出来る代物ではない。開明な藩主がいての結果。
東北諸藩のようにまず食べるものに困難する可能性があるところはまず改革が厳しいですもんね…
国立公文書館に江戸時代に杉田玄白が書いた『後見草』がある。何もかも食べ尽くした果てに人の屍肉をすすった飢民の話や、犬の肉と偽って人肉が売られたことなど「天明の飢饉」の光景が記録されている。地獄絵さながらの惨状を紹介する一方で、著者の杉田玄白は領内から1人の餓死者も出さぬよう指導力を発揮した米沢藩主上杉治憲(鷹山ようざん)を「賢君」と称えている。適切な対策を講じていれば被害はこれほど大きくならずに済んだのではないか。玄白が「賢君」に言及した背景には、東北だけで30万人の餓死、疫病死の大飢饉を招来した領主たちに対する厳しい批判の目があった。飢饉は天災であると同時に人災。前々から米を大阪や江戸へ廻して藩財政を維持してきた東北諸藩の経済構造にも原因があったからだ。とある。領主次第だな。
江戸中期を題材にしている時代劇では、後世において経済通とされる人物が悪役とされていることが多い。例:柳沢吉保、荻原重秀、間部詮房、田沼意次・意知父子
@@Kaito5327 さん、武士たるものが金儲けなどに手を染めるべきではないとの発想からでしょうね。
あっあっあっあっ、伊達騒動
俺は松前の出身だが、今となっては超絶過疎地で江戸期の面影はどこにもないなwJRもろくに通っていなくて、俺がかよった小学校なんかも1学年10人ほどの世界だった。今や松前は人よりも桜の木のほうがはるかに多いなww
松前藩は米は取れないが石高は1万石として存続したが鰯を肥料やボッタクリ状態でアイヌと交易で利益を挙げて居て参勤交代も数年に一回だったから財政は豊かだった。
ボッタクリというのは、安く仕入れて、江戸で高く売ったということですかね。
@@acebfg アイヌ人からは只同然に近い値段で仕入れて、江戸や大坂に売る時は高値で売ったから。
@@73moto ただ同然というのはどういうのですかね。そもそもそんなにお金無くてもよかったとか?ウポポイの前身の施設の博物館で説明聞きましたが、かつては今の貨幣価値で2000万くらいの収入があったらしいですからね。満足してたんじゃないかなあと思ったりしますが、なにせアイヌの記録がないので伝説しかないのであてになりません。
@@acebfg この時代の貿易ってのはそういうもので、北の果てでは価値の無いものが消費地にもってけば巨利を生む、別にアイヌの干鰯に限った話じゃない。ミカン材木だって塩だって藁製品だって石材だってそうさ、この時代はそれを運べるものが主に利を手にする。いつの時代も資本を持つものが偉いけど、それとともにこの時代は作る事より運べるということに莫大な価値がある。
@@184よっしん-q2b でしょうねえ。今でも商社というのは情報とマネーとコネなどで価値を作ってる。知恵のない者は稼げないということかと。
薩摩藩の石高成立には齟齬があります元々石高制が引かれていいなかった島津家に石高制を持ち込んだのが豊臣家。九州征伐で薩日隅三ヶ国に閉じ込められた島津家ですがこの時、豊臣家が検地を強行。島津家の石高を56万石と規定します。将来の大陸出兵を見据えた処置で石高で動員兵力を決めていた豊臣政権は島津家に15千人の動員をさせるためにこの架空石高にしたというわけです。その朝鮮出兵における泗川の戦いの褒章5万石加増で61万石へ。島津家の基礎石高は明治維新までこの時の検地が元になっていますその後、江戸時代に入り琉球侵攻で琉球を支配下に置き、この時幕府が琉球の石高を11万石と規定。これで島津家の石高は72万石へ。更にこの琉球分も含めた高直しが数回あり最終的に約90万石へとなった経緯ですね琉球分の11万石(最終的に17万石)は賦課対象外となったものの格式は外様二番目となり平和な時代ではこの格式維持が重負担になりました
>元々石高制が引かれていいなかった島津家に石高制を持ち込んだのが豊臣家。秀吉の太閤検地で石高制が採用されるまでは全国的に貫高が主でした。薩摩に限った話しではありません。それと奄美は薩摩に編入されて薩摩の石高に加えられてますが琉球は表向きは薩摩の石高になってないのでは。あと記事で薩摩だけ籾高と言ってますが、石高は米の取れ高ではなく土地の生産力を米に換算したものであって、薩摩だけ籾高ということはありません。これは石高制を理解してない人が言い出した俗説です。
「番外で松前藩」とやろうとしたら、正当な扱いでしたね。ただ、松前藩として独立し蝦夷地の支配権を認められたのが1599年。大名となったのは1719年。その後、ロシア人が南下してアイヌとの交易を行なっていたが藩はこれを幕府に報告しなかったため罰として支配権を取り上げられました。1821年に支配を戻されるのですが、1855年に箱館が開港されるとほとんどの地域がまた幕府の直轄地へ。1864年にごく一部が松前藩に戻されますが、最後は非常に厳しい状態でした。
松前藩は羽振りのいい中小企業といったところですかね。北海道には今でも一次産業でそこそこの小金持ちがいます。
共通しているのは「貿易・交易できる環境かどうか?」でもありますね。内4藩は海上貿易も出来ますし。
どの様な組織でも、単一産業(スキル)は限界がある。現場一本槍だけではなく、他の産業(技術職等)も考えさせられる。
松前藩と新宮藩は意外でした。石高が少ないのに実は裕福だったって、なんかカッコイイ🙁
松前は貿易立国、新宮は資源立国ですね。経済の肝を抑えた国は古今東西、必ず強いです。
@@kato-takehito 新宮って確かになんかやらたお城が綺麗で立派でしたわ
土佐藩も初期は20万石だったが幕末では実高49万石。阿波は表高25万石だが藍玉の製造で実高35万石。庄内藩は本間を登用して改革を行い幕末では最新装備で戊辰戦争を最後まで戦い負け無し。戦後は本間が新政府に30万両献金したので処分は緩やかだった。備中藩は藩主板倉勝静が農民の山田方谷を家老に抜擢して藩政改革を行い4年で財政黒字となった。藩政改革の成功を見て勝清は幕府からスカウトされて老中に賄賂無しで就任できた。方谷には大久保利通から新政府の財務大臣のスカウトがあったが高齢を理由に断った。河井継之助は方谷に1年間弟子入りした後に長岡藩で藩政改革を行なった。尾張は表高60万石だが木曽の檜木地帯が付属していたので実質100万石。
薩摩藩が大坂で売却する砂糖の売上は、米の約40倍だったそうで…。奄美などでどれだけ搾取していたか、そのことからもうかがい知れますね(^^;)松前藩のアイヌに対するそれもしかりで、シャクシャインの乱などが起こる。
やはり商業をとりこんだ藩が裕福だったんですねぇ。下剋上を止め儒教を基本とし他の藩を疲弊させて商業ではなく米価を基本とした社会を作っても幕府は時限付きだったんだなあ、と。
幕府の目が届かない地方の藩とか自由に出来る裏庭がある藩は強いね
斬新な切り口での歴史 大変興味深く拝見しました。 動画配信ありがとうございました。
七日市藩は、飢饉になると前田本家から毎回五百両、大飢饉だと千両貰ってました。藩侯の誕生日、大阪城加番の折には五百両と名刀を贈られてます。参勤交代でも前田本家は、七日市に宿泊してますので落ちるお金も莫大でした。家老、守役、代官、番頭、小姓は全て前田本家からの出向でした。
信長の野望で松前はいつも金が余りまくってるから納得です。(笑)
1位の藩は、領地が遠隔地のため参勤交代の頻度が少なかったのも裕福だった要因だと思います。当初は3~6年に1回の出府、1727年以降は5年に1回で定着。頻度が少なければ当然旅費も少なく済むし、江戸の屋敷も最低限の造りで済む・物価高の江戸で屋敷の運営費が少なく済む、といったメリットがあります。一方で貧乏藩として有名だったのが御三家の一つ・水戸藩。表高が実高より少ない稀有な藩である上に、藩主が参勤交代なしの原則江戸定府のため江戸屋敷の運営費が多額になったり、藩をあげての大事業である「大日本史」の編纂で多額の出費があったことによります。
唐津藩が石高の倍近い収入があったけど、水野忠邦の代に「これ以上出世できないののであれば領地替えする!」と言い出して浜松へ。ってのを風雲児たちで読みました。
「食いぶちは自分で稼げ」でも、税を取られず作り取りできるんなら悪くないんやで佐賀藩では、俸禄が食費に満たない下級武士でも、農業すればその分課税される……帯刀その他の最低限の見栄が不要な分、普通の農民の方が楽なおそれもそして幕末期はともかく、基本的に貧乏なイメージしかないでござる
江戸時代、米価が下がり続けたから農業立国の藩は時代が下るに連れて財政が厳しくなっていく。特産品の販売、運送、倉庫業に進出した藩が経済力を強化した。
豊かになるには農業ではなく商工業の発達が必要。薩摩・長州など長崎近辺の藩は密貿易をしていたはずである。
唐津藩6万石 実高25万石 そこを捨てててまで浜松6万石に入った水野忠邦
唐津藩は長崎警備の役目があるので老中になれないからどうしても老中になりたい水野忠邦は唐津藩から浜松藩に移封希望した。もちろん反対派の家老は切腹して抗議したが
浜松に行ってみると参勤交代費用や長崎警備費用が節減出来た。また米も近くの消費地で売り捌けたので手数料が節減出来た。結果寧ろ藩財政は好転したが、老中になるのは巨額賄賂が必要で、そちらで財政は大変だった。
水野はサイコパスだから
そういえば浜松って規模の割には世界的な企業が本社を構える奇跡の町だよな。
そのああおりを受けたのが井上正甫。農家の奥さんを手ごめにしようとした事件を引っ張り出されて棚倉へ。
興味深く勉強になりました、しかし信長の野望では瞬殺されていた松前藩が裕福な大名だったとは、江戸幕府から遠いことで好き放題できたのかもしれませんね。(でも冬は厳しい、熊は出るし)
熊が出るから、熊の肝(熊の脾臓。高級医薬品)&熊皮(高級皮革)でなおさら儲かるわけで。
蠣崎家も雑魚すぎた
@@中段チェリ王 蠣崎は松前の前身ですから同じ家です。
大変わかりやすい解説でした。
長州藩は帰農する藩士に毛利家に似た家紋を与え武士の誇りを忘れさせないようにしたとか…。薩摩 松前は琉球 北海道でえげつない悪政をしいていたことはご存知の通り。
鹿児島県では奄美群島のおかげで幕末の資金源の一つ黒糖を得ていたのに平成初期まで県庁の役人が大島支庁に赴任した時に島差別をして地元のマスコミが問題にしました。西郷隆盛も奄美群島の住民を下に見ていました。
@@宗岡亮博-u5s そうですね西郷隆盛は奄美に島流しされた時、現地の女性と子供を作っておきながら、その女性は奄美に置き去りにし、子供は引き取りましたが母親のことと奄美の血が入っていることは口にするなと厳命していましたね
@@宗岡亮博-u5s 奄美の黒糖地獄は黒人奴隷のサトウキビプランテーションのようですな甘み(奄美)って響きなのに全然甘くない
松前藩、意外でした。ありがとうございます
河内木綿を育成する時、綿の根元に金肥の身欠きにしんを一本ずつ差し込んでいたそうです。どれ程の量が移送されたか想像ができます。日本からの木綿は、南北戦争終戦後の混乱期に輸出され大いに利を得た記録が残ります。
幕末で借財が無かった大野藩(4万石) 福井県が出てないのでは? 「大野屋」、そして「大野丸」の運営、蝦夷地の開拓で藩の財政の好転で尽力した内山兄弟は有名だと思う。 明治4年(1871年)廃藩置県時、明治幕府は各藩の借金を肩代わりした。 この時に大野藩には借金が無かった。 なお、明治政府は各藩が外国から借りた金は返済したが、鴻池屋などで有名な大名貸し=国内での借金は明治政府は踏み倒した・・・正確には1844年より前(27年より前)の借金はチャラ(現在の金額で1兆円以上 当時の経済規模は小さいからね 年貢で言えば3年分ぐらいだった)、1844年以降のは公債証書(4,000億円ぐらい)なる紙切れを発行して支払いは・・・
松前藩で一番有名な人物が永倉新八さんの件
徳島藩は25万石ほどでしたが、藍(染料)の独占で相当儲かっていたらしく、40万石以上の利益があったらしいですよ。
1650年代の福山藩水野家時代の福山藩は一度も一揆が無かった
面白かったです
佐賀藩は全ての武士が藩主の城下に集住する、という一般的な江戸時代の諸藩のイメージと違って、藩主鍋島家の旧主の龍造寺家系や鍋島家の親族系の重臣が事実上半独立の藩を設けているような状況でしたね。あたかも戦国時代の戦国大名のような家中のありさまでした。藩としての中央財政が確立しにくかった藩だったと言えるんじゃないでしょうか。それでも逆に、武雄鍋島家など重臣家中の陪臣層に自主独立の気風があったためにそこでうまれたインテリジェンスを中央に回収して富国強兵殖産興業に生かすことができた、という側面もあったようです。
神代鍋島藩の家臣の末裔です。かなりゆとりがあったようです。ですが、神代鍋島藩の資料を収集するところが無いようです。長崎県(雲仙市含む)も佐賀県も自分のところがやることじゃないってことだそう。
鍋島さんの顔が印象的すぎるのですがうーん色々と兵器の開発をしていたのは聞き及んでいたかもしれませんまあどうでもいいですけどね
経済的な観点での歴史は面白い切り口ですね。室町・戦国時代は海外との通商で潤っていたところもあったのですが江戸時代はほとんどが農業が背景になっていてやはり鎖国の時代なんだなと感じました。
いやいや、やはりそれを利用していた藩があったのだよ。薩摩藩、鍋島藩は出て来ていたが、長州(萩)藩も35万石しかない筈なのになぜ、幕府と戦えたか、それは、中国と陸奥貿易をしていたからなのです。室町幕府の割符を密に持っていて、勝手に国際貿易をしていたからだし、3白を奨励して、米以上の売上を出していたからなのです。なぜか情報に出てきてないが。
松前藩は商売などでお金は儲けていたでしょうが領内で主食である米が穫れないのでは困りますよね。お金に物言わせて本州の各藩から購入していたのでしょうか。しかし近くの青森など東北地方は飢饉が多かったからそこに頼るのはリスクが高いですね。西国の藩からそれこそ北前舟で運んでもらったか。
財政改革とは言うもののその内容は借金踏み倒しというw
天の刻は地の利にしかズ地の利は人の和に如かず。知恵と工夫ですね…
寒々しいイメージの松前藩が凄い裕福だつた。オットセイ将軍家斉公もご愛用でした。❗️
ルソンと密貿易を行い、土佐124万石と云われた山内家。
天領と藩領の違いも書いてほしいなー。天領に住む百姓と、藩領に住む百姓、生活はどうだったのか。ぶっちゃけ、藩領に住む人間とか外様大名が、協調性があって商売上手。外様大名は経済の失敗は藩が全て背負う。譜代大名は幕府も背負うから、最悪失敗しても何とかなった。藩領の税収とその額と天領はどうことなっていたのか?薩摩藩や長州藩にも天領はあったと思うがどの程度でどのくらいだったのか?とかも知りたいですね。
弘前藩だけでなく南部藩、会津藩、仙台藩など東北の藩は表石より実石はかなり高かったみたいです。これら東北の藩に共通するのは他国の藩とくらべ石高のわりに領地が広いことです。つまり冷害の心配がある稲作よりその心配が少ない漁業や林業や鉱山業などが大規模に行えたわけです当時の税は米なので非課税の産業で丸々もうけをだしてたわけですしかも幕末にはロシアが津軽海峡までやってきたことでこれらの藩には補助金と最新の武器も援助してもらえましたそれだけの国力があったからのちに奥羽列藩同盟で新政府と戦うこともできたわけです
毛利藩のはじめのころの実態は重税で弾き出した表高ですよ。毛利家が元々領民に重税かけていたんでまあさもありなんだなと思います
結局幕末の倒幕明治維新を実現するにしても金が必要なんだな。主導した薩長土肥はどこも金あったからできたんだな。
榎本武揚は捕虜に金銭持たせて帰してあげてたらしいから、北海道は結構資源に恵まれてたのかな?
毎年参勤交代で潤ってた喜連川藩が、一番の金持ちでしょ。徳川家からは客分として扱われてたから、上屋敷与えられなかったのね。江戸での住まいに苦慮した御所様は上野不忍池隣に三千坪の土地を現金で買い取り上屋敷を建てた。毎年参勤交代で、伊達家が、喜連川宿に泊まる時に支払う金額は三百両。今の貨幣価値にすると軽く3億円。一晩で3億円。他にも南部氏、丹羽氏、津軽氏、等も泊まるので莫大な金が喜連川宿に落ちてました。しかも喜連川御所様は参勤交代無し、所役無し、でしたからね。五島家は徳川幕府三百年の中で参勤交代したのは僅か十年間のみ。外国船監視役を与えられてたので参勤交代も免除されてました。初めは勇魚漁で潤ったが、後に勇魚漁の漁場を分家の富江藩に分けた為に藩財政は赤字になってゆきます。因みに富江藩には、徳川将軍家の孫が婿入りしてたりして、巡検使、大目付、お側役等もこなしてたのでお金持ちでした。
とても面白かったです。表の石高と、実高があったのですね。昔から経済・経営感覚がとても重要だったのですね。大変勉強になりました!
松江藩が無いようですが。商人や領民や武士に貸付をするほど豊かで、茶の湯の振興などで隆盛を誇ったそうです。石見銀山は原資として大きかったようです。
石見銀山は天領では無いのか?佐渡や生野など金山や銀山はみんな幕府領だった
@@ワイルドメーン 銀座所属のはずだよね。
松江藩は雲州松平家の入封時点で18万6千石 、実高は幕末時点で25万8千石程度で特段裕福でもない。飢饉対策もなっておらず、幕末の隠岐騒動で農民に反逆される遠因となっている。雲州松平家が入封した時点では財政は火の車で、寛永、つまり江戸時代初期から数々の専売制をしく改革を行う必要に迫られていた他の方がおっしゃる通り、石見銀山は天領ですから、松江藩の財政には寄与しません。松江藩の財政に寄与したのはたたら製鉄。特に天秤鞴が実用化されるようになると、大きな成果を上げるようになる一時期、朝日茂保の藩政改革で成果を上げたのですが、それに気を良くした藩主・松平治郷(通称・不昧公)が茶の湯などに大散財してしまい元の木阿弥幕末も財政難・人材難でろくに身動きが取れず新政府の不信を買っていたりもする
@@ワイルドメーン 出雲は鉄が沢山取れるからそれの収入はあったはず佐渡の金山も鉱床がいくつかあって、収入の良いのは幕府持ちでそれ以外は他藩の所有だったしもしかしたら小規模な銀山もいくつか所有権あったかもね
庄内藩も裕福でしたよ!米所に加え、北前船での貿易が盛んでしたし、日本一の大地主・本間家が財政を支えていました。領民との関係も良好で、酒井家の領地替えの際にはお殿様にいてほしいからと前代未聞の阻止運動が起きたほどです。
これは面白い。大学の授業でも使えるレベルだよな
めいかじゃなくて、めいけね。
一位は薩摩と長州と佐賀と互角に争って、近代化に発展した熊本藩だと思いましたがまさか、松前藩だと分かりました。
鍋島直正の逸話はカエサルにも似たような話がありますね
カエサルと違うのは前当主の龍蔵寺を最も慕ってたのが鍋島氏だからね・・・。
@@455jj3 カエサルの出陣パレードに借金取りが押しかけてクラッススが債務保証してくれるまで出発できなかったことを言ってるんだけど
13:48陶器じゃなくて磁器。
薩摩、長州がなぜ倒幕を主導できたかがわかったわ
備後福山藩は藩主が水野氏だった頃は表石高10万石に対して15万~30万石相当の豊かさだった
阿部氏の時は水野氏の7割ぐらいの領地で同じ10万石なので百姓一揆が多かった
@@ワイルドメーン それでよく老中首座が出たな(阿部正弘)
@@提督オルタ 交際費とか諸々の経費がかさみ藩の財政に重い負担となるので 家臣や 領民に取っては ありがた迷惑だったりする。
薩摩藩には大変お世話になりました。感謝しています。岐阜より。
やはり 殖産興業と 優れた財政家 の存在は国家の発展には必須だね
桂小五郎 桂 太郎 長州
@@松平一郎-q8e 長州は維新後に銭でやらかすやつ多すぎる
関ヶ原の戦いの後に、会津120万石から米沢30万石に減封されても領土の開墾を勧めて家臣をリストラしなかった景勝公、兼続公が好き。
その至誠の精神が上杉鷹山公(1751~1822)に受け継がれ、鷹山公の事績は米国のジョン・Fケネディ(1917~1963)も感動させたという。
会津120万石では?
@@サトウり そうですね。間違えたので訂正させて頂きます。
上杉鷹山と言えば、為せば成る 為さねば成らぬ なにごとも成らぬは人の 為さぬなりけりですね。要は、てめーらごちゃごちゃ口ばっか文句垂れてねーで、頭と体動かして働けや!ということ。今に通じるわ。
でも、その景勝公の考え方に縛られ、結局民に負担がかかったのでは😅まあ、尚武思想が強すぎて、土地が痩せてるのに郷士が多く、重税を課していた薩摩も似たようなもんですが。ちなみに、私も上杉鷹山のことは尊敬しています。もともと、宮崎の高鍋藩出身ということもあって、一度は行ってみたいですね。
新宮藩はどうなんだろう 和歌山からも三重からも中間地点で普通ならなんもない場所なんだけど、すごく栄えていて街も綺麗なんだよね
ゼロ石の「藩」を迷わず1位にするのは流石ですね😃👍✨
薩摩藩は治水工事の時に当時の勘定奉行がかなり無茶したんだよ。勘定奉行として商人に認識されていたから藩の名前出さずに、自分の名前で追加融資受けて、全部終わってから割腹してチャラにしたんだ。まあ、商人の方もある程度読んだようで、勘定奉行が割腹したら追加融資分を香典扱いで処理したそうです。
薩摩藩は幕府に警戒され、土木工事にかりだされてしまいます。それの名残が千本松原です。
これは興味深かった
松前藩は、『無高』というのでしようか。豊臣政権時代から大名扱いであつたにしても、それにしても、無高であつても、一国一城制が始まった中で、城の破却はせずに、城持大名であつたのですね(?!)。どういう特例なのか、江戸初期の藩主の政治手腕の賜物なのだろうかと思いました。一万石以上の大名でも、陣屋しかないとか、城持ち格に過ぎないとかいうケースもあつたのに、、、と思いました。薩摩藩、長州藩、佐賀藩の説明では、裕福な藩財政により、武器を大量に購入して軍備増強し、幕末を生き抜いたようですけども、松前藩はどうだつたのでしよう? 『?』が心に残りました。
幕末の長州藩はいったいどこから金を出したのだろう。下関の豪商だった尊王篤志家の白石正一郎はその財産を奇兵隊など軍資金に援助して身上潰したとか。志士らの遊興や飲み食いした銭の出どころは案外こんなパトロンからの懇志だったのかな。徳川幕府が失敗したと思うのは、とくに長州藩を関ヶ原の戦以後に防長二州に厳封したこと。結果論だが瀬戸内と山陰の二つの海を持ち、下関で樽廻船の要衝として権益を得る地の利、四白(塩・米・蝋・紙)と言われる特産物にも恵まれた立地条件だ。これがもしも、島根、鳥取あたりで毛利が閉じ込められておればどうだろう。当然石見銀山は幕府直轄地となってるだろうが。列強と攘夷戦争をまじえた長州藩と薩摩藩はお金の余裕もあったんだろうが、やはり軍事力も武力も凄いと思う。
長州は江戸時代に、戦国時代にやっていた海賊の手法を用いて、お金を得ている。簡単に言えば通行料的なもの。
秋田藩も結構裕福だったはずなんだけど、一揆が怖くて商売を潰したからなぁ
長州4白と並ぶ前に元禄から年5万両を幕府討伐のため撫育金として、絶対ばれずに貯めました。薩摩は木曽川改修で40万両の負債を負い、密貿易で稼ぎました古地図で薩摩倉庫があります。唐津の水野が15万石で幕閣になれずン、浜松藩に移り、新宮の備長炭を賄賂で老中になりました。佐賀はフェートン事件で面目潰し、藩士を文武に没頭させ、成績に石高を減らした、松前藩は昆布、北前船で稼げたのでしょう!
庄内藩も裕福では 幕末には 最新鋭の銃をそろえてたとか 奥羽羽越列藩同盟の中では長岡藩と並ぶ最強
なかなか、お詳しいようですね長岡藩のワードが出てきた時点で感銘を受けました
庄内藩は本間家の支援が無ければただの貧弱藩のひとつ
庄内藩かっこいいですよね。鶴岡・酒田に旅行して庄内藩ファンになりました
あれは本間家が金持ちすぎて余った財力で武器を買って提供していたんですよ。
@@赤羽橋12チャンネル さん ホンマゴルフの母屋ですね。
対馬藩が朝鮮貿易中継地として石高以上に富裕だった面影はほぼ残っていない、他の藩でも必ずしも繁栄地が現代まで継続してないことには注視したい流通や経済が代わるとガラリと浮き沈みが生じる
尾張名古屋藩の様に親藩だったり、加賀百万石って言うから加賀藩かと思ったよ。松前藩は気にしてなかった。言われてみればアイヌの人たちと交易して珍しいものたくさん手に入れられる環境だったね。
出来ましたら姫路藩の話題も入れて頂ければ楽しいかもデス、スーパーイオンのお膝元ですし色々話題も有るかと思います。
藩ではないですが、徳島藩に家臣の淡路の稲田家も参勤交代せずけっこう豊かでした。幕末に分藩運動起こった所です。
見かけの石高が少ないほど役務が少ないので金持ち
他の方もいらっしゃいましたが、荘内藩が無いのが残念。検地の際尺度を余計にとり年貢の取り分を農民に還元。天明の飢饉の際死者ゼロ。幕府にはもっと負担させて欲しいと倍近い二十万石に申請して却下。本間家の存在は大きく荘内藩以外に米沢藩の借金も肩替わり。上杉鷹山公の時代の話です。明治維新の件は重複するので避けますが、戦前まで日本一の地主と言われてますからね。実質三十万石以上とも言われてます。
表高と実高で相当違かったんですね。実高の高さはその藩の努力の証しですかねえ。
唐津藩がいないのはおかしい表高6万石なのに実高24万石あったのに
薩長は、ちゃんとベスト5に両方入ってますね😄金持ってるから 幕府 にちゃんと、幕末期たてつきに行けた😄
西国雄藩はそうなる前に商人から借り上げた莫大な借財を踏み倒したりしてます。
@@ひろたかし-w8m そうだったんですか、結構 アコギな事やってたんですね😄 納得の説明ありがとうございます大河ドラマ「せごどん」でそんなようなシーンありましたね😄せごどんでは、「奄美大島 の搾取」の方が、ヤバい感じでしたが
しかも欧米列強と戦争をして賠償金を幕府に支払いさせた薩摩と長州
@@73moto 1963年の将軍家茂の攘夷発令に従ったまでと高杉晋作は交渉。責任者は発令者の『将軍』/幕府と主張。
@@73moto そんな事したら、幕府に金は無いのに明治政府は幕府の金を当てにしていた。
松前藩は近江商人と組んでアイヌを搾取してて、見かねた幕府が取り潰しを考えてたとかなんとか
会津藩もかなり裕福だったはずなんだけどはっきり分からんのよな本領だけで実高40万石以上、交易や幕領を実質的に管理してたりと幕末にすら裕福で余裕があったんで京都守護なんて貧乏くじ引かざるを得なくなったわけで
ペリー来航以降に会津藩は神奈川警備で財政に負担が掛かり、京都守護職や新撰組のパトロンに成って領民は重税に苦しみ戊辰戦争で会津藩は荒廃してしまい戊辰戦争後に会津世直し一揆が発生した。
城下で大火があったり、北海道や江戸湾の警備があったりして大変だったようですよ。
貿易と殖産は重要by珍重
酒田の本間家というとてつもない豪商がついてる庄内藩は?
だから川越藩が庄内藩に移封希望していたんだよなぁ
@@ワイルドメーン 庄名藩の領民がブチ切れて移封反対を幕府に訴えて移封取り止めになった。
今回の動画は、すばらしいです。
庄内藩が入ると思いました。
名君とは広く人財を求めることができることだね!
港がある藩が有利だね
松前を除くと西国ばかりなのは考えてみたら面白いかもね
維新で新政府についた薩長肥がいますからね借金で厳しいし、幕府が助けてくれる見込みもないから財政改革を進めたんやろな追い詰められた人間のハングリー精神というか、状況打開のための行動力って凄まじいもんがありますからね
@@雪何すか雪って 西国の地力がある藩は強いですねえ
いつの時代も同じですね。農業より工業、商業の方が儲かります。薩摩藩は昔から琉球を通じて密貿易を行い、そのために琉球を幕府支配とは別の立場にしていた面もあります。
豊作だった時の仙台藩は凄かったと聞きます。豊作時に一気に借金返済したのだとか?
たしか政宗が残した借金返したんでしたっけ?
必ず北海道の中学校は修学旅行先に松前が入るんだけど、1位だったのかは知らないけど相当裕福だった説明を受けるよ(´・ω・`)
伊万里焼は輸出する港が伊万里だっただけで、有田焼と同じものです。伊万里焼という陶磁器は厳密には存在しないと言えます。
伊万里と有田は作ったものの用途が違ったそうですよ。殿様が使うもの(贈答、輸出用)が伊万里と聞きました。
@@sallysallysarah 伊万里焼というか鍋島焼じゃないかな
意外な藩が1位でした!
「松前藩は幕末になると幕府に領地を取り上げられ、東北の不毛の土地を与えられ年金生活者となって明治維新を迎えるのでした。以上松前藩の末路終わり!」風雲児たち幕末編より
松前氏が松前から陸奥梁川に一時転封になった時はさぞかし大変だったでしょうね。
結局幕末には蝦夷地の大半を幕府に取り上げられて、替地を与えられた。
逆に貧乏だった藩ワースト5もやってほしいです。水戸藩、佐倉藩などランキングに入るかな?
みなもと太郎の漫画の風雲児たちで渡辺崋山が家老だった三河田原藩も貧乏藩で天保の大飢饉で田原藩は蘭学者、高野長英のアドバイスでジャガイモを栽培して食糧を確保して田原藩で餓死者は出なかったが、渡辺崋山が領民に「よくぞこの大飢饉に頑張ってくれたと」感涙したが、領民は「飢饉何て起こって居たのか?」と言って他の領民も「いつもと同じだから全然知らなかった」言って周りも「そうだそうだ」と言って渡辺崋山はズッコケてしまい、蘭学者グループの尚歯会で渡辺崋山は「我が藩は飢饉に免疫が出来ましてな」とドヤ顔していた。
@@73moto 貧し過ぎて飢饉に気付かなかった田原が戦後日本一職員の給料が良い自治体になったのは面白いですね
ワースト1は美濃苗木藩かな?破産状態だった為廃藩置県以前に全藩士御役御免にしたので、元藩士たちは士族にもなれず明治以降更に困窮した生活を送ったらしい。
@@73moto みなもと太郎先生の「風雲児たち」 続き見たかったですね😔
薩摩藩は貧乏ワースト1間違いないハングリー精神と武士の多さが強さの秘密
下野黒羽藩は1万8000石の小藩ながらチート級の軍事力。1万石当たりで考えれば幕末最強の軍事力を保有していた。幕末の大活躍につながった財源は・・・・藩の財政は豊かでなかったのにどうやって薩長に勝るとも劣らない最新装備を用意したのだろう。藩主の大関増裕が幕府の陸軍奉行・海軍奉行を歴任するなどして・・・ごにょごにょ・・・軍資金を作ったのだと思う。
黒羽藩は養子で入ってきた藩主や聡明な藩主を家老等上級家臣が押込(軟禁)して新たな藩主を立てるを繰り返してますよね?しかも藩主の実家からもらった金品を家臣達で山分けしたり…江戸中期以降の藩主は実権がほぼなかった印象が個人的にあります。大関増裕も突然亡くなりましたが家臣達からの暗殺説があります。
道民なので、松前藩のアイヌへの無理難題、隷属的な扱いは結構学ぶ機会は多かったです。一時幕府に実権を奪われましたが、結局遠方だったのが好き放題できた理由なのかも。薩摩藩は幕府の冷遇もありましたが、そもそも砂糖関係の収奪は過酷だったようです。こちらもまた、目の届かないところで密貿易なども・・・他は地域性や名産品。米以外の価値をうまく活用できたところが勝ち組になったようですね。今回上げられなかった6位以下で、平均的に見ればもっと裕福だった藩もあるのかも?もっとも250年も続いた江戸時代。藩主も変われば異変も起きるわけで、トータルで平穏無事に過ごせた藩はわずかしかなかったとは思いますが。しかし、初っ端の豊臣、徳川家の検地の際にうまくごまかせた藩は、その子孫にずっと感謝され続けたでしょうね。逆に見栄を張ったり、誤解を訂正しようとしないままに実質的な石高よりも高く査定されてしまった藩は悲惨の極みだったとか。
長州藩優秀。流石、明治維新をおこなった原動力になるわけだ。佐賀藩は直正が最優の見識を持っていた経営者の模範的人物だな。ロシアの登場で松前藩での防衛が厳しくなって確か一回取り上げられたんじゃないかな?
松前藩は一度東北に転封になり、その後旧領に復帰した後は財政が悪化したはず?
鍋島 直正の写真がガーシーに見えた
それな(笑)
たしかに(笑)
政治家として見るなら雲泥の差があるけどね。神となるレベルだし。
岸部シローにも似ている
鍋島様は、天然痘のワクチン接種を実践したり、飢饉の際には贅沢禁止野草を食べよう!と自ら野草粥を食べたり家臣の子供を塾に入れ子供の成績が給金に反映したりと教育にも熱を入れ、アームストロング砲を作ったり、日本初の蒸気戦艦を作ってみたりととなかなか面白い方だったようです。
その土地の民が大変な苦労と思いをしてたんだろうなと良く分かる
私がかつて教わった歴史の授業とは異なり、とても勉強になりました。
幕末に裕福だった藩として 薩摩、長州は知っていたけど、松前藩は、知りませんでした。
やはり米でしか経済的な尺度を持たない藩は衰退し、商業の重要性を認識した藩は飛躍したと言う事でしょうね。当時の儒教的価値観からすると異端な政策だから、何処の藩でも真似出来る代物ではない。開明な藩主がいての結果。
東北諸藩のようにまず食べるものに困難する可能性があるところはまず改革が厳しいですもんね…
国立公文書館に江戸時代に杉田玄白が書いた『後見草』がある。
何もかも食べ尽くした果てに人の屍肉をすすった飢民の話や、犬の肉と偽って人肉が売られたことなど「天明の飢饉」の光景が記録されている。
地獄絵さながらの惨状を紹介する一方で、著者の杉田玄白は領内から1人の餓死者も出さぬよう指導力を発揮した米沢藩主上杉治憲(鷹山ようざん)を「賢君」と称えている。
適切な対策を講じていれば被害はこれほど大きくならずに済んだのではないか。
玄白が「賢君」に言及した背景には、東北だけで30万人の餓死、疫病死の大飢饉を招来した領主たちに対する厳しい批判の目があった。
飢饉は天災であると同時に人災。
前々から米を大阪や江戸へ廻して藩財政を維持してきた東北諸藩の経済構造にも原因があったからだ。
とある。
領主次第だな。
江戸中期を題材にしている時代劇では、後世において経済通とされる人物が悪役とされていることが多い。
例:柳沢吉保、荻原重秀、間部詮房、田沼意次・意知父子
@@Kaito5327 さん、武士たるものが金儲けなどに手を染めるべきではないとの発想からでしょうね。
あっあっあっあっ、伊達騒動
俺は松前の出身だが、今となっては超絶過疎地で江戸期の面影はどこにもないなwJRもろくに通っていなくて、俺がかよった小学校なんかも1学年10人ほどの世界だった。今や松前は人よりも桜の木のほうがはるかに多いなww
松前藩は米は取れないが石高は1万石として存続したが鰯を肥料やボッタクリ状態でアイヌと交易で利益を挙げて居て参勤交代も数年に一回だったから財政は豊かだった。
ボッタクリというのは、安く仕入れて、江戸で高く売ったということですかね。
@@acebfg アイヌ人からは只同然に近い値段で仕入れて、江戸や大坂に売る時は高値で売ったから。
@@73moto ただ同然というのはどういうのですかね。そもそもそんなにお金無くてもよかったとか?ウポポイの前身の施設の博物館で説明聞きましたが、かつては今の貨幣価値で2000万くらいの収入があったらしいですからね。満足してたんじゃないかなあと思ったりしますが、なにせアイヌの記録がないので伝説しかないのであてになりません。
@@acebfg この時代の貿易ってのはそういうもので、北の果てでは価値の無いものが消費地にもってけば巨利を生む、別にアイヌの干鰯に限った話じゃない。ミカン材木だって塩だって藁製品だって石材だってそうさ、この時代はそれを運べるものが主に利を手にする。
いつの時代も資本を持つものが偉いけど、それとともにこの時代は作る事より運べるということに莫大な価値がある。
@@184よっしん-q2b でしょうねえ。今でも商社というのは情報とマネーとコネなどで価値を作ってる。知恵のない者は稼げないということかと。
薩摩藩の石高成立には齟齬があります
元々石高制が引かれていいなかった島津家に石高制を持ち込んだのが豊臣家。九州征伐で薩日隅三ヶ国に閉じ込められた島津家ですがこの時、豊臣家が検地を強行。島津家の石高を56万石と規定します。将来の大陸出兵を見据えた処置で石高で動員兵力を決めていた豊臣政権は島津家に15千人の動員をさせるためにこの架空石高にしたというわけです。その朝鮮出兵における泗川の戦いの褒章5万石加増で61万石へ。島津家の基礎石高は明治維新までこの時の検地が元になっています
その後、江戸時代に入り琉球侵攻で琉球を支配下に置き、この時幕府が琉球の石高を11万石と規定。これで島津家の石高は72万石へ。更にこの琉球分も含めた高直しが数回あり最終的に約90万石へとなった経緯ですね
琉球分の11万石(最終的に17万石)は賦課対象外となったものの格式は外様二番目となり平和な時代ではこの格式維持が重負担になりました
>元々石高制が引かれていいなかった島津家に石高制を持ち込んだのが豊臣家。
秀吉の太閤検地で石高制が採用されるまでは全国的に貫高が主でした。
薩摩に限った話しではありません。
それと奄美は薩摩に編入されて薩摩の石高に加えられてますが琉球は表向きは薩摩の石高になってないのでは。
あと記事で薩摩だけ籾高と言ってますが、石高は米の取れ高ではなく土地の生産力を米に換算したものであって、薩摩だけ籾高ということはありません。
これは石高制を理解してない人が言い出した俗説です。
「番外で松前藩」とやろうとしたら、正当な扱いでしたね。
ただ、松前藩として独立し蝦夷地の支配権を認められたのが1599年。大名となったのは1719年。
その後、ロシア人が南下してアイヌとの交易を行なっていたが藩はこれを幕府に報告しなかったため
罰として支配権を取り上げられました。
1821年に支配を戻されるのですが、1855年に箱館が開港されるとほとんどの地域がまた幕府の直轄地へ。
1864年にごく一部が松前藩に戻されますが、最後は非常に厳しい状態でした。
松前藩は羽振りのいい中小企業といったところですかね。北海道には今でも一次産業でそこそこの小金持ちがいます。
共通しているのは「貿易・交易できる環境かどうか?」でもありますね。
内4藩は海上貿易も出来ますし。
どの様な組織でも、単一産業(スキル)は限界がある。現場一本槍だけではなく、他の産業(技術職等)も考えさせられる。
松前藩と新宮藩は意外でした。石高が少ないのに実は裕福だったって、なんかカッコイイ🙁
松前は貿易立国、新宮は資源立国ですね。経済の肝を抑えた国は古今東西、必ず強いです。
@@kato-takehito 新宮って確かになんかやらたお城が綺麗で立派でしたわ
土佐藩も初期は20万石だったが
幕末では実高49万石。
阿波は表高25万石だが藍玉の製造で実高35万石。
庄内藩は本間を登用して改革を行い幕末では最新装備で戊辰戦争を最後まで戦い負け無し。
戦後は本間が新政府に30万両献金したので処分は緩やかだった。
備中藩は藩主板倉勝静が農民の山田方谷を家老に抜擢して藩政改革を行い4年で財政黒字となった。
藩政改革の成功を見て勝清は幕府からスカウトされて老中に
賄賂無しで就任できた。
方谷には大久保利通から新政府の
財務大臣のスカウトがあったが
高齢を理由に断った。
河井継之助は方谷に1年間弟子入りした後に
長岡藩で藩政改革を行なった。
尾張は表高60万石だが木曽の檜木地帯が付属していたので実質100万石。
薩摩藩が大坂で売却する砂糖の売上は、米の約40倍だったそうで…。
奄美などでどれだけ搾取していたか、そのことからもうかがい知れますね(^^;)
松前藩のアイヌに対するそれもしかりで、シャクシャインの乱などが起こる。
やはり商業をとりこんだ藩が裕福だったんですねぇ。下剋上を止め儒教を基本とし他の藩を疲弊させて商業ではなく米価を基本とした社会を作っても幕府は時限付きだったんだなあ、と。
幕府の目が届かない地方の藩とか自由に出来る裏庭がある藩は強いね
斬新な切り口での歴史 大変興味深く拝見しました。 動画配信ありがとうございました。
七日市藩は、飢饉になると前田本家から毎回五百両、大飢饉だと千両貰ってました。
藩侯の誕生日、大阪城加番の折には五百両と名刀を贈られてます。
参勤交代でも前田本家は、七日市に宿泊してますので落ちるお金も莫大でした。
家老、守役、代官、番頭、小姓は全て前田本家からの出向でした。
信長の野望で松前はいつも金が余りまくってるから納得です。(笑)
1位の藩は、領地が遠隔地のため参勤交代の頻度が少なかったのも裕福だった要因だと思います。
当初は3~6年に1回の出府、1727年以降は5年に1回で定着。頻度が少なければ当然旅費も少なく済むし、江戸の屋敷も最低限の造りで済む・物価高の江戸で屋敷の運営費が少なく済む、といったメリットがあります。
一方で貧乏藩として有名だったのが御三家の一つ・水戸藩。表高が実高より少ない稀有な藩である上に、藩主が参勤交代なしの原則江戸定府のため江戸屋敷の運営費が多額になったり、藩をあげての大事業である「大日本史」の編纂で多額の出費があったことによります。
唐津藩が石高の倍近い収入があったけど、水野忠邦の代に「これ以上出世できないののであれば領地替えする!」と言い出して浜松へ。ってのを風雲児たちで読みました。
「食いぶちは自分で稼げ」でも、税を取られず作り取りできるんなら悪くないんやで
佐賀藩では、俸禄が食費に満たない下級武士でも、農業すればその分課税される……帯刀その他の最低限の見栄が不要な分、普通の農民の方が楽なおそれも
そして幕末期はともかく、基本的に貧乏なイメージしかないでござる
江戸時代、米価が下がり続けたから農業立国の藩は時代が下るに連れて財政が厳しくなっていく。
特産品の販売、運送、倉庫業に進出した藩が経済力を強化した。
豊かになるには農業ではなく商工業の発達が必要。
薩摩・長州など長崎近辺の藩は密貿易をしていたはずである。
唐津藩6万石 実高25万石
そこを捨てててまで浜松6万石に入った水野忠邦
唐津藩は長崎警備の役目があるので老中になれないから
どうしても老中になりたい水野忠邦は唐津藩から浜松藩に移封希望した。
もちろん反対派の家老は切腹して抗議したが
浜松に行ってみると参勤交代費用や長崎警備費用が節減出来た。
また米も近くの消費地で売り捌けたので手数料が節減出来た。
結果寧ろ藩財政は好転したが、
老中になるのは巨額賄賂が必要で、そちらで財政は大変だった。
水野はサイコパスだから
そういえば浜松って規模の割には世界的な企業が本社を構える奇跡の町だよな。
そのああおりを受けたのが井上正甫。農家の奥さんを手ごめにしようとした事件を引っ張り出されて棚倉へ。
興味深く勉強になりました、しかし信長の野望では瞬殺されていた松前藩が裕福な大名だったとは、江戸幕府から遠いことで好き放題できたのかもしれませんね。(でも冬は厳しい、熊は出るし)
熊が出るから、熊の肝(熊の脾臓。高級医薬品)&熊皮(高級皮革)でなおさら儲かるわけで。
蠣崎家も雑魚すぎた
@@中段チェリ王
蠣崎は松前の前身ですから同じ家です。
大変わかりやすい解説でした。
長州藩は帰農する藩士に毛利家に似た家紋を与え武士の誇りを忘れさせないようにしたとか…。薩摩 松前は琉球 北海道でえげつない悪政をしいていたことはご存知の通り。
鹿児島県では奄美群島のおかげで幕末の資金源の一つ黒糖を得ていたのに
平成初期まで県庁の役人が大島支庁に赴任した時に島差別をして
地元のマスコミが問題にしました。
西郷隆盛も奄美群島の
住民を下に見ていました。
@@宗岡亮博-u5s
そうですね
西郷隆盛は奄美に島流しされた時、現地の女性と子供を作っておきながら、その女性は奄美に置き去りにし、子供は引き取りましたが母親のことと奄美の血が入っていることは口にするなと厳命していましたね
@@宗岡亮博-u5s 奄美の黒糖地獄は黒人奴隷のサトウキビプランテーションのようですな
甘み(奄美)って響きなのに全然甘くない
松前藩、意外でした。ありがとうございます
河内木綿を育成する時、綿の根元に金肥の身欠きにしんを一本ずつ差し込んでいたそうです。
どれ程の量が移送されたか想像ができます。
日本からの木綿は、南北戦争終戦後の混乱期に輸出され大いに利を得た記録が残ります。
幕末で借財が無かった大野藩(4万石) 福井県が出てないのでは? 「大野屋」、そして「大野丸」の運営、蝦夷地の開拓で藩の財政の好転で尽力した内山兄弟は有名だと思う。
明治4年(1871年)廃藩置県時、明治幕府は各藩の借金を肩代わりした。 この時に大野藩には借金が無かった。
なお、明治政府は各藩が外国から借りた金は返済したが、鴻池屋などで有名な大名貸し=国内での借金は明治政府は踏み倒した・・・正確には1844年より前(27年より前)の借金はチャラ(現在の金額で1兆円以上 当時の経済規模は小さいからね 年貢で言えば3年分ぐらいだった)、1844年以降のは公債証書(4,000億円ぐらい)なる紙切れを発行して支払いは・・・
松前藩で一番有名な人物が永倉新八さんの件
徳島藩は25万石ほどでしたが、藍(染料)の独占で相当儲かっていたらしく、40万石以上の利益があったらしいですよ。
1650年代の福山藩
水野家時代の福山藩は一度も一揆が無かった
面白かったです
佐賀藩は全ての武士が藩主の城下に集住する、という一般的な江戸時代の諸藩のイメージと違って、藩主鍋島家の旧主の龍造寺家系や鍋島家の親族系の重臣が事実上半独立の藩を設けているような状況でしたね。あたかも戦国時代の戦国大名のような家中のありさまでした。藩としての中央財政が確立しにくかった藩だったと言えるんじゃないでしょうか。それでも逆に、武雄鍋島家など重臣家中の陪臣層に自主独立の気風があったためにそこでうまれたインテリジェンスを中央に回収して富国強兵殖産興業に生かすことができた、という側面もあったようです。
神代鍋島藩の家臣の末裔です。かなりゆとりがあったようです。
ですが、神代鍋島藩の資料を収集するところが無いようです。
長崎県(雲仙市含む)も佐賀県も自分のところがやることじゃないってことだそう。
鍋島さんの顔が印象的すぎるのですが
うーん
色々と兵器の開発をしていたのは聞き及んでいたかもしれません
まあどうでもいいですけどね
経済的な観点での歴史は面白い切り口ですね。
室町・戦国時代は海外との通商で潤っていたところもあったのですが江戸時代はほとんどが農業が背景になっていてやはり鎖国の時代なんだなと感じました。
いやいや、やはりそれを利用していた藩があったのだよ。
薩摩藩、鍋島藩は出て来ていたが、長州(萩)藩も35万石しかない筈なのになぜ、幕府と戦えたか、
それは、中国と陸奥貿易をしていたからなのです。
室町幕府の割符を密に持っていて、勝手に国際貿易をしていたからだし、
3白を奨励して、米以上の売上を出していたからなのです。
なぜか情報に出てきてないが。
松前藩は商売などでお金は儲けていたでしょうが領内で主食である米が穫れないのでは困りますよね。お金に物言わせて本州の各藩から購入していたのでしょうか。しかし近くの青森など東北地方は飢饉が多かったからそこに頼るのはリスクが高いですね。西国の藩からそれこそ北前舟で運んでもらったか。
財政改革とは言うもののその内容は借金踏み倒しというw
天の刻は地の利にしかズ地の利は人の和に如かず。知恵と工夫ですね…
寒々しいイメージの松前藩が凄い裕福だつた。オットセイ将軍家斉公もご愛用でした。❗️
ルソンと密貿易を行い、土佐124万石と云われた山内家。
天領と藩領の違いも書いてほしいなー。天領に住む百姓と、藩領に住む百姓、生活はどうだったのか。
ぶっちゃけ、藩領に住む人間とか外様大名が、協調性があって商売上手。
外様大名は経済の失敗は藩が全て背負う。譜代大名は幕府も背負うから、最悪失敗しても何とかなった。
藩領の税収とその額と天領はどうことなっていたのか?
薩摩藩や長州藩にも天領はあったと思うがどの程度でどのくらいだったのか?とかも知りたいですね。
弘前藩だけでなく南部藩、会津藩、仙台藩など東北の藩は表石より実石はかなり高かったみたいです。
これら東北の藩に共通するのは他国の藩とくらべ石高のわりに領地が広いことです。
つまり冷害の心配がある稲作よりその心配が少ない漁業や林業や鉱山業などが大規模に行えたわけです
当時の税は米なので非課税の産業で丸々もうけをだしてたわけです
しかも幕末にはロシアが津軽海峡までやってきたことでこれらの藩には補助金と最新の武器も援助してもらえました
それだけの国力があったからのちに奥羽列藩同盟で新政府と戦うこともできたわけです
毛利藩のはじめのころの実態は重税で弾き出した表高ですよ。毛利家が元々領民に重税かけていたんでまあさもありなんだなと思います
結局幕末の倒幕明治維新を実現するにしても金が必要なんだな。主導した薩長土肥はどこも金あったからできたんだな。
榎本武揚は捕虜に金銭持たせて帰してあげてたらしいから、北海道は結構資源に恵まれてたのかな?
毎年参勤交代で潤ってた喜連川藩が、一番の金持ちでしょ。徳川家からは客分として扱われてたから、上屋敷与えられなかったのね。江戸での住まいに苦慮した御所様は上野不忍池隣に三千坪の土地を現金で買い取り上屋敷を建てた。毎年参勤交代で、伊達家が、喜連川宿に泊まる時に支払う金額は三百両。今の貨幣価値にすると軽く3億円。一晩で3億円。他にも南部氏、丹羽氏、津軽氏、等も泊まるので莫大な金が喜連川宿に落ちてました。しかも喜連川御所様は参勤交代無し、所役無し、でしたからね。五島家は徳川幕府三百年の中で参勤交代したのは僅か十年間のみ。
外国船監視役を与えられてたので参勤交代も免除されてました。初めは勇魚漁で潤ったが、後に勇魚漁の漁場を分家の富江藩に分けた為に藩財政は赤字になってゆきます。
因みに富江藩には、徳川将軍家の孫が婿入りしてたりして
、巡検使、大目付、お側役等もこなしてたのでお金持ちでした。
とても面白かったです。
表の石高と、実高があったのですね。
昔から経済・経営感覚がとても重要だったのですね。
大変勉強になりました!
松江藩が無いようですが。商人や領民や武士に貸付をするほど豊かで、茶の湯の振興などで隆盛を誇ったそうです。石見銀山は原資として大きかったようです。
石見銀山は天領では無いのか?
佐渡や生野など金山や銀山はみんな幕府領だった
@@ワイルドメーン 銀座所属のはずだよね。
松江藩は雲州松平家の入封時点で18万6千石 、実高は幕末時点で25万8千石程度で特段裕福でもない。
飢饉対策もなっておらず、幕末の隠岐騒動で農民に反逆される遠因となっている。
雲州松平家が入封した時点では財政は火の車で、寛永、つまり江戸時代初期から数々の専売制をしく改革を行う必要に迫られていた
他の方がおっしゃる通り、石見銀山は天領ですから、松江藩の財政には寄与しません。
松江藩の財政に寄与したのはたたら製鉄。
特に天秤鞴が実用化されるようになると、大きな成果を上げるようになる
一時期、朝日茂保の藩政改革で成果を上げたのですが、
それに気を良くした藩主・松平治郷(通称・不昧公)が茶の湯などに大散財してしまい元の木阿弥
幕末も財政難・人材難でろくに身動きが取れず新政府の不信を買っていたりもする
@@ワイルドメーン
出雲は鉄が沢山取れるからそれの収入はあったはず
佐渡の金山も鉱床がいくつかあって、収入の良いのは幕府持ちでそれ以外は他藩の所有だったし
もしかしたら小規模な銀山もいくつか所有権あったかもね
庄内藩も裕福でしたよ!米所に加え、北前船での貿易が盛んでしたし、日本一の大地主・本間家が財政を支えていました。領民との関係も良好で、酒井家の領地替えの際にはお殿様にいてほしいからと前代未聞の阻止運動が起きたほどです。
これは面白い。大学の授業でも使えるレベルだよな
めいかじゃなくて、めいけね。
一位は薩摩と長州と佐賀と互角に争って、近代化に発展した熊本藩だと思いましたがまさか、松前藩だと分かりました。
鍋島直正の逸話はカエサルにも似たような話がありますね
カエサルと違うのは
前当主の龍蔵寺を最も慕ってたのが
鍋島氏だからね・・・。
@@455jj3
カエサルの出陣パレードに借金取りが押しかけて
クラッススが債務保証してくれるまで出発できなかったことを言ってるんだけど
13:48
陶器じゃなくて磁器。
薩摩、長州がなぜ倒幕を主導できたかがわかったわ
備後福山藩は藩主が水野氏だった頃は表石高10万石に対して15万~30万石相当の豊かさだった
阿部氏の時は水野氏の7割ぐらいの領地で同じ10万石なので
百姓一揆が多かった
@@ワイルドメーン それでよく老中首座が出たな(阿部正弘)
@@提督オルタ 交際費とか諸々の経費がかさみ藩の財政に
重い負担となるので 家臣や 領民に取っては ありがた迷惑だったりする。
薩摩藩には大変お世話になりました。感謝しています。岐阜より。
やはり 殖産興業と 優れた財政家 の存在は
国家の発展には必須だね
桂小五郎 桂 太郎 長州
@@松平一郎-q8e 長州は維新後に銭でやらかすやつ多すぎる
関ヶ原の戦いの後に、会津120万石から米沢30万石に減封されても領土の開墾を勧めて家臣をリストラしなかった景勝公、兼続公が好き。
その至誠の精神が上杉鷹山公(1751~1822)に受け継がれ、鷹山公の事績は米国のジョン・Fケネディ(1917~1963)も感動させたという。
会津120万石では?
@@サトウり
そうですね。間違えたので訂正させて頂きます。
上杉鷹山と言えば、
為せば成る 為さねば成らぬ なにごとも
成らぬは人の 為さぬなりけり
ですね。
要は、てめーらごちゃごちゃ口ばっか文句垂れてねーで、頭と体動かして働けや!ということ。今に通じるわ。
でも、その景勝公の考え方に縛られ、結局民に負担がかかったのでは😅
まあ、尚武思想が強すぎて、土地が痩せてるのに郷士が多く、重税を課していた薩摩も似たようなもんですが。
ちなみに、私も上杉鷹山のことは尊敬しています。
もともと、宮崎の高鍋藩出身ということもあって、一度は行ってみたいですね。
新宮藩はどうなんだろう 和歌山からも三重からも中間地点で普通ならなんもない場所なんだけど、すごく栄えていて街も綺麗なんだよね
ゼロ石の「藩」を迷わず1位にするのは流石ですね😃👍✨
薩摩藩は治水工事の時に当時の勘定奉行がかなり無茶したんだよ。勘定奉行として商人に認識されていたから藩の名前出さずに、自分の名前で追加融資受けて、全部終わってから割腹してチャラにしたんだ。まあ、商人の方もある程度読んだようで、勘定奉行が割腹したら追加融資分を香典扱いで処理したそうです。
薩摩藩は幕府に警戒され、土木工事にかりだされてしまいます。
それの名残が千本松原です。
これは興味深かった
松前藩は、『無高』というのでしようか。豊臣政権時代から大名扱いであつたにしても、それにしても、無高であつても、一国一城制が始まった中で、城の破却はせずに、城持大名であつたのですね(?!)。どういう特例なのか、江戸初期の藩主の政治手腕の賜物なのだろうかと思いました。一万石以上の大名でも、陣屋しかないとか、城持ち格に過ぎないとかいうケースもあつたのに、、、と思いました。
薩摩藩、長州藩、佐賀藩の説明では、裕福な藩財政により、武器を大量に購入して軍備増強し、幕末を生き抜いたようですけども、松前藩はどうだつたのでしよう? 『?』が心に残りました。
幕末の長州藩はいったいどこから金を出したのだろう。下関の豪商だった尊王篤志家の白石正一郎はその財産を奇兵隊など軍資金に援助して
身上潰したとか。志士らの遊興や飲み食いした銭の出どころは案外こんなパトロンからの懇志だったのかな。
徳川幕府が失敗したと思うのは、とくに長州藩を関ヶ原の戦以後に防長二州に厳封したこと。結果論だが瀬戸内と山陰の二つの海を持ち、下関で樽廻船の要衝として権益を得る地の利、四白(塩・米・蝋・紙)と言われる特産物にも恵まれた立地条件だ。これがもしも、島根、鳥取あたりで毛利が閉じ込められておればどうだろう。当然石見銀山は幕府直轄地となってるだろうが。
列強と攘夷戦争をまじえた長州藩と薩摩藩はお金の余裕もあったんだろうが、やはり軍事力も武力も凄いと思う。
長州は江戸時代に、戦国時代にやっていた海賊の手法を用いて、お金を得ている。簡単に言えば通行料的なもの。
秋田藩も結構裕福だったはずなんだけど、一揆が怖くて商売を潰したからなぁ
長州4白と並ぶ前に元禄から年5万両を幕府討伐のため撫育金として、絶対ばれずに貯めました。
薩摩は木曽川改修で40万両の負債を負い、密貿易で稼ぎました古地図で薩摩倉庫があります。
唐津の水野が15万石で幕閣になれずン、浜松藩に移り、新宮の備長炭を賄賂で老中になりました。
佐賀はフェートン事件で面目潰し、藩士を文武に没頭させ、成績に石高を減らした、
松前藩は昆布、北前船で稼げたのでしょう!
庄内藩も裕福では 幕末には 最新鋭の銃をそろえてたとか 奥羽羽越列藩同盟の中では長岡藩と並ぶ最強
なかなか、お詳しいようですね
長岡藩のワードが出てきた時点で感銘を受けました
庄内藩は本間家の支援が無ければただの貧弱藩のひとつ
庄内藩かっこいいですよね。鶴岡・酒田に旅行して庄内藩ファンになりました
あれは本間家が金持ちすぎて余った財力で武器を買って提供していたんですよ。
@@赤羽橋12チャンネル さん ホンマゴルフの母屋ですね。
対馬藩が朝鮮貿易中継地として石高以上に富裕だった面影はほぼ残っていない、他の藩でも必ずしも繁栄地が現代まで継続してないことには注視したい
流通や経済が代わるとガラリと浮き沈みが生じる
尾張名古屋藩の様に親藩だったり、加賀百万石って言うから加賀藩かと思ったよ。松前藩は気にしてなかった。言われてみればアイヌの人たちと交易して珍しいものたくさん手に入れられる環境だったね。
出来ましたら姫路藩の話題も入れて頂ければ楽しいかもデス、スーパーイオンのお膝元ですし
色々話題も有るかと思います。
藩ではないですが、徳島藩に家臣の淡路の稲田家も参勤交代せずけっこう豊かでした。
幕末に分藩運動起こった所です。
見かけの石高が少ないほど役務が少ないので金持ち
他の方もいらっしゃいましたが、荘内藩が無いのが残念。検地の際尺度を余計にとり年貢の取り分を農民に還元。天明の飢饉の際死者ゼロ。幕府にはもっと負担させて欲しいと倍近い二十万石に申請して却下。本間家の存在は大きく荘内藩以外に米沢藩の借金も肩替わり。上杉鷹山公の時代の話です。明治維新の件は重複するので避けますが、戦前まで日本一の地主と言われてますからね。実質三十万石以上とも言われてます。
表高と実高で相当違かったんですね。実高の高さはその藩の努力の証しですかねえ。
唐津藩がいないのはおかしい
表高6万石なのに実高24万石あったのに
薩長は、ちゃんとベスト5に両方入ってますね😄
金持ってるから 幕府 にちゃんと、幕末期たてつきに行けた😄
西国雄藩はそうなる前に商人から借り上げた莫大な借財を踏み倒したりしてます。
@@ひろたかし-w8m
そうだったんですか、結構 アコギな事やってたんですね😄 納得の説明ありがとうございます
大河ドラマ「せごどん」でそんなようなシーンありましたね😄
せごどんでは、「奄美大島 の搾取」の方が、ヤバい感じでしたが
しかも欧米列強と戦争をして賠償金を幕府に支払いさせた薩摩と長州
@@73moto 1963年の将軍家茂の攘夷発令に従ったまでと高杉晋作は交渉。責任者は発令者の『将軍』/幕府と主張。
@@73moto そんな事したら、幕府に金は無いのに明治政府は幕府の金を当てにしていた。
松前藩は近江商人と組んでアイヌを搾取してて、見かねた幕府が取り潰しを考えてたとかなんとか
会津藩もかなり裕福だったはずなんだけどはっきり分からんのよな
本領だけで実高40万石以上、交易や幕領を実質的に管理してたりと
幕末にすら裕福で余裕があったんで京都守護なんて貧乏くじ引かざるを得なくなったわけで
ペリー来航以降に会津藩は神奈川警備で財政に負担が掛かり、京都守護職や新撰組のパトロンに成って領民は重税に苦しみ戊辰戦争で会津藩は荒廃してしまい戊辰戦争後に会津世直し一揆が発生した。
城下で大火があったり、北海道や江戸湾の警備があったりして大変だったようですよ。
貿易と殖産は重要by珍重
酒田の本間家というとてつもない豪商がついてる庄内藩は?
だから川越藩が庄内藩に移封希望していたんだよなぁ
@@ワイルドメーン 庄名藩の領民がブチ切れて移封反対を幕府に訴えて移封取り止めになった。
今回の動画は、すばらしいです。
庄内藩が入ると思いました。
名君とは広く人財を求めることができることだね!
港がある藩が有利だね
松前を除くと西国ばかりなのは考えてみたら面白いかもね
維新で新政府についた薩長肥がいますからね
借金で厳しいし、幕府が助けてくれる見込みもないから財政改革を進めたんやろな
追い詰められた人間のハングリー精神というか、状況打開のための行動力って凄まじいもんがありますからね
@@雪何すか雪って 西国の地力がある藩は強いですねえ
いつの時代も同じですね。
農業より工業、商業の方が儲かります。
薩摩藩は昔から琉球を通じて密貿易を行い、そのために琉球を幕府支配とは別の立場にしていた面もあります。
豊作だった時の仙台藩は凄かったと聞きます。豊作時に一気に借金返済したのだとか?
たしか政宗が残した借金返したんでしたっけ?
必ず北海道の中学校は修学旅行先に松前が入るんだけど、1位だったのかは知らないけど相当裕福だった説明を受けるよ(´・ω・`)
伊万里焼は輸出する港が伊万里だっただけで、有田焼と同じものです。伊万里焼という陶磁器は厳密には存在しないと言えます。
伊万里と有田は作ったものの用途が違ったそうですよ。殿様が使うもの(贈答、輸出用)が伊万里と聞きました。
@@sallysallysarah 伊万里焼というか鍋島焼じゃないかな
意外な藩が1位でした!
「松前藩は幕末になると幕府に領地を取り上げられ、東北の不毛の土地を与えられ年金生活者となって明治維新を迎えるのでした。以上松前藩の末路終わり!」
風雲児たち幕末編より
松前氏が松前から陸奥梁川に一時転封になった時はさぞかし大変だったでしょうね。
結局幕末には蝦夷地の大半を幕府に取り上げられて、替地を与えられた。
逆に貧乏だった藩ワースト5もやってほしいです。水戸藩、佐倉藩などランキングに入るかな?
みなもと太郎の漫画の風雲児たちで渡辺崋山が家老だった三河田原藩も貧乏藩で天保の大飢饉で田原藩は蘭学者、高野長英のアドバイスでジャガイモを栽培して食糧を確保して田原藩で餓死者は出なかったが、渡辺崋山が領民に「よくぞこの大飢饉に頑張ってくれたと」感涙したが、領民は「飢饉何て起こって居たのか?」と言って他の領民も「いつもと同じだから全然知らなかった」言って周りも「そうだそうだ」と言って渡辺崋山はズッコケてしまい、蘭学者グループの尚歯会で渡辺崋山は「我が藩は飢饉に免疫が出来ましてな」とドヤ顔していた。
@@73moto
貧し過ぎて飢饉に気付かなかった田原が
戦後日本一職員の給料が良い自治体になったのは面白いですね
ワースト1は美濃苗木藩かな?
破産状態だった為廃藩置県以前に全藩士御役御免にしたので、元藩士たちは士族にもなれず明治以降更に困窮した生活を送ったらしい。
@@73moto みなもと太郎先生の「風雲児たち」 続き見たかったですね😔
薩摩藩は貧乏ワースト1
間違いない
ハングリー精神と武士の多さ
が強さの秘密
下野黒羽藩は1万8000石の小藩ながらチート級の軍事力。1万石当たりで考えれば幕末最強の軍事力を保有していた。
幕末の大活躍につながった財源は・・・・藩の財政は豊かでなかったのにどうやって薩長に勝るとも劣らない最新装備を用意したのだろう。
藩主の大関増裕が幕府の陸軍奉行・海軍奉行を歴任するなどして・・・ごにょごにょ・・・軍資金を作ったのだと思う。
黒羽藩は養子で入ってきた藩主や聡明な藩主を家老等上級家臣が押込(軟禁)して新たな藩主を立てるを繰り返してますよね?しかも藩主の実家からもらった金品を家臣達で山分けしたり…江戸中期以降の藩主は実権がほぼなかった印象が個人的にあります。
大関増裕も突然亡くなりましたが家臣達からの暗殺説があります。
道民なので、松前藩のアイヌへの無理難題、隷属的な扱いは結構学ぶ機会は多かったです。一時幕府に実権を奪われましたが、結局遠方だったのが好き放題できた理由なのかも。
薩摩藩は幕府の冷遇もありましたが、そもそも砂糖関係の収奪は過酷だったようです。こちらもまた、目の届かないところで密貿易なども・・・
他は地域性や名産品。米以外の価値をうまく活用できたところが勝ち組になったようですね。今回上げられなかった6位以下で、平均的に見ればもっと裕福だった藩もあるのかも?
もっとも250年も続いた江戸時代。藩主も変われば異変も起きるわけで、トータルで平穏無事に過ごせた藩はわずかしかなかったとは思いますが。
しかし、初っ端の豊臣、徳川家の検地の際にうまくごまかせた藩は、その子孫にずっと感謝され続けたでしょうね。
逆に見栄を張ったり、誤解を訂正しようとしないままに実質的な石高よりも高く査定されてしまった藩は悲惨の極みだったとか。
長州藩優秀。流石、明治維新をおこなった原動力になるわけだ。佐賀藩は直正が最優の見識を持っていた経営者の模範的人物だな。ロシアの登場で松前藩での防衛が厳しくなって確か一回取り上げられたんじゃないかな?
松前藩は一度東北に転封になり、その後旧領に復帰した後は財政が悪化したはず?
鍋島 直正の写真がガーシーに見えた
それな(笑)
たしかに(笑)
政治家として見るなら雲泥の差があるけどね。神となるレベルだし。
岸部シローにも似ている