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豊の国🟰台与の国耶馬渓もありますし
実は 北九州や筑豊にあったやもしれませんな邪馬台国
宇佐四拍だったっけ?入り口辺りに白馬が居たのを覚えてる耶馬溪が近いから、アレ?と思った記憶があるな〜
神宮は天皇を祀ると言われましたが鹿島神宮は武御雷命、香取神宮は経津主命を祀っていますので、すべてがそうとは言えません。
江戸以前は神宮と呼ばれるのは伊勢の皇大神宮と鹿島と香取の三社だけ。
御神体は、皇室祖先神、天皇、三種の神器、その他の神ですね。『勅許』が必要で、江戸時代にそこまで減ったという記録もありません。明治以降の新設は天皇だけですし、『勝手名乗り』は禁止されました。
神宮と呼称するのは伊勢だけです。伊勢神宮と呼称あるいは表記するのが慣例ですが本当の名称は「神宮」
ちなみに福岡県北九州市って八幡神(妙見)だらけ白山神社も多く祭神も応神天皇や神功皇后北九州市やはた区 八幡神多いから八幡区福岡県の祭りは殆ど八幡にからむ。岡田宮=神武天皇とかね
岡山にある和気神社は狛犬がイノシシです
第11代比叡山天台座主「義海」は、宇佐神宮大宮司家です!
邪馬台国の台は、タイと読み台与の台は、トと読む不思議
【ヤマト=邪馬薹】の《薹・トゥ》を《臺・タイ》と書き間違えたんじゃないかというのが私の推察だ。《ヤマトゥ》が《ヤマタイ》になっちゃったよ?😦💧まぁ、当時のChinaと日本の発音は両国とも今とは違うだろうけど😅
臺の読みもトウだったことがわかってきているらしい
@@時時雨-o6w 様そうかも知れないね。でも問題は近代の日本語の発音なんだよね。臺は《台》だから日本人は「ヤマタイ」って読んじゃうじゃん。だからこんな事になっているんじゃないかという《可能性》の話☝️😁
確か、初代の卑弥呼と台与ともう一人に壱与と言う人物が居た様な記憶が有ります…そうしたら比売大神が三人の女神だと合致していることに……
卑弥呼さんが眠っているのか?
比売大神=卑弥呼でいいだろ
宇佐神宮信託事件って、なぜ伊勢神宮でないのか。このころは、伊勢神宮よりも宇佐神宮のほうが重要だったということです。というかこのころは伊勢神宮なんて、みんな知らない。それに、宇佐神宮の祭神は比売大神で、市杵島姫命です。そう考えると、源氏も平氏も市杵島姫命をまつっていることになります。
古代において「神宮」とつくのは、伊勢神宮と鹿島神宮、香取神宮の3社だけですよ。それぐらいこの3社が重要だったということ。伊勢神宮が知られてなかったなんてありえないです。
あと宇佐神宮の一の神が応神天皇である八幡神、二の神が比売大神、三の神が神功皇后です。
祭祀されている位置を見たら、真の一の神は比売大神と言われておる
@@Hayato_Takezawa 中央に配置されているのが比売大神ですからね。しかも比売大神は、多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命の三柱とされているので、元々は多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命が祭られていたところに応神天皇と神功皇后が追加されたのでは?と考えられるまあ、源平合戦時に平氏方に味方して焼き討ち、戦国時代に大内氏に味方して大友氏に焼き討ちされているので、元々の配置も曖昧ですけどね・・・
比売大神こそが卑弥呼で、宇佐神宮の場所に卑弥呼が埋葬された。だから和気清麻呂は、宇佐神宮まで神託を聞きに行った。
後半は飛躍し過ぎと思いましたが、銅鏡事件でワケノキヨマロさんの行動力で天皇皇室が守られました。八幡宮の総本宮は分かります
伊勢神宮は、柏手を8回打つことを調べたのですがみあたりません。
「拝礼では再拝二拍手一拝ではなく、八度拝という特殊な作法が用いられる。これは、坐した状態から起ち、さらに伏しながら坐して拝する「起拝」という作法をまず四度行い、続いて拍手を八つ打ち、さらに一つ打って坐したまま一拝するという作法であり、これを二度繰り返す。ただし、これは祭典に奉仕する神職の作法であり、通常の参拝者が板垣や御垣内で拝礼を行う際にはあくまで通常の作法で行う」(wikiより)
俺のひいばあちゃんが宇佐神宮の宮司の娘らしいけど、もしかして俺は卑弥呼の末裔だったりして・・・
宮司家の到津家系統なら宇佐氏の子孫に間違いありませんよ!私のご先祖も到津家池永家系ですので宇佐氏の子孫ですよ!但し、今、到津家は神社庁に乗っ取られ、現在の宮司は宇佐氏と縁もゆかりもない人です。
@@後藤孝博到津氏は正統後継者退陣の仕方がもう擁護のしようがありませんわ…祝氏 宮成氏も離れ、眞上氏も歴史の彼方宇佐氏も北九州方面へ、到津氏には肝心の事は伝えず仕舞い ようやく騒動も収まってきた思えば台風19号で神木が薙ぎ倒され、奥宮の霊峰御許山は荒れに荒れたあの時気づくべきだった令和の川面凡児が現れないものか
到津氏は戦国時代後から来た北九州地方の豪族ですね😅北九州に到津って地名あります。系図見たらわかりますが、、、、宇佐氏、永弘氏が禰宜じゃないですかね?
@@noname-uk3rm 元々宇佐氏が神官を司ってた記録が到津氏の北九州市到津はアミューズメントパークが昔ありました宇佐神宮内の到津宅は今や荒れ放題美しい水に取り囲まれた敷地でしたが水路自体も淀んでドブ川もいいところいや色々出来事が起こる前に水路が濁り出したのが予兆だったのかもそれから御神木も台風19号で根こそぎ倒され奥宮の夫婦杉も倒れ、嫡男も…神を司るのはやはり畏らしいことです
そもそも神宮大社神社の参拝方式は明治8年(1875年)に考案され昭和23年(1948年)周知された物です。戦後に普及した慣習で古代からの伝承ではないのです。神宮大社神社の祭礼は庶民には無関係なので参拝は拝殿前で心からの一礼するだけで充分なのです。
宇佐神宮は9000年前の初期王朝の兎狭族所縁かな卑弥呼の墳墓は四国辺りに在るのでは?🤔
日本書記の神武記には、是時勅以菟狹津媛賜妻之於侍臣天種子命天種子命 是中臣氏之遠祖也中臣氏の紹介に使われてますよね。古代の発音研究してる動画見てると『は』の発音は倭語?には、無いらしいので、『や』神八井耳の『や』で、『ヤハタ』が、正解なのかも?邪には、湾の意味もありますよね。馬には、南の意味もありますけれど、台の意味もあったりもします。半島に当てた『韓』の文字。魏の周辺にある国なので、魏の周辺にあった韓の人達の物語?なんですかね?馬韓・百済の言語も倭語だったから、大和王権・大和朝廷と関係が深いのかも?倭人自体が、このごろ大陸海岸部に住んでいた人達説多いですし、倭人傳ですから、倭人なんでしょうね。(笑)今の大陸は、アメリカの当て字を『米』から『美』に変更してるので、『め』と『び』の発音の関係は、興味深いですね。弥・鼻・尾・彌・琵『び』の発音群に注目してるんですが、氣長氏は息長氏とも書き、四の文字は、『歯』から略字化されたので、氣長氏・息長氏のトレードマークは4。息長足姫の皇子なので、息を分解して自+心。自は、むかし自分を鼻を指差して私の意味にしたのだとか?だから応神・應神にしたのかな?大陸の魏付近から引越しして、馬韓の卑彌國と記述され、引越して最終地が宇佐だったら、伝承は間違いないのかも?しれません。
吉野の吉水神社の参拝作法は、「2礼、17拍手、1拝」。
9月13日にはじめて訪れました。びっくりしました!下から上まで配置さえた無数の石に、驚くほどの無数の盃状穴がありました。」ヘブライの神社ができるから、九州中の氏族は縄文から崇拝されてきた地域の石もってこい! これからは宮を祀るのだぞって命令が出されたんでしょう。 いやはや農耕文明とその支配者のやる気が伝わってくる盃状穴の数です。 この神社のメイントピックスすよ!
北部九州には活火山が四箇所あり、加具土命(溶岩)で火傷した伊邪那岐の神生みの左目が日出生(天照)、鼻が櫛生(素戔嗚)、右目が海人生(月読)となっています。日出生は由布・鶴見岳、櫛生は玖珠・くじゅう、海人生は阿蘇、雲仙が蛭子。由布鶴見岳の神様は火売(ほのめ)=「ヒメ・比売・姫」だと思います。別府に火売神社があります。又、この三柱は「日」「星」「月」で日田に日隈、星隈、月隈があります。筑紫・筑後平野にも日隈(佐賀神埼)、干隈(福岡)月隈(福岡)があり、それぞれが日本、魏、大月氏を表していると思います。宇佐(安心院)はその日出生の名の通り天皇家の奥の院(子育ての場)だったのだと思います。
巫女の霊夢が魔女の魔理沙から神宮神社大社の違いの解説を受けるのが(魔理沙が突っ込みを入れてますが)私自身も不思議に感じましたわ(σ・ω・)σ⁉️(お蔭様で再確認する為に)日にちを置いて2回閲覧した私(苦笑)❗️
いよいよ、この説がRUclipsで出てきましたね🎉松久正氏の書籍『菊理姫神降臨なり』で菊理姫神とされる高次元の神様が同様のことを話しておられるので参考になると思います。
「神道」でも大神様は一損二礼四拍手
私の先祖が焼き討ちした際に神息の太刀を奪い源義経に献上するも逆に義経から拝領された後巡りめぐって宇佐神宮に戻ってるらしい機会があれば太刀を見てみたい。
比売大神は、歴史から消された女神、瀬織津姫だという説を自分は押しています。
宇佐八幡宮にお参りした時は上宮よりも下宮の方が威厳を感じた。卑弥呼が埋葬されているとしたら下宮かな。
柏手は古式では2回より多くたたいていたと聞いたが、明治に各神社統一させられたと聞く。
宇佐神宮に皇族がお忍びで参拝してるらしい😊
道鏡事件は聖徳太子 蘇我氏ラインの仏教推進派への、神道側からの鮮やかな反撃と見ることも出来る八尾にある物部守屋の墳が有って、その玉垣には太宰府天満宮宮司西高辻氏などの名前が見えるよほど神道派に尊崇されていたのだろう。そんな神道派の会心の巻き返しが道鏡事件での和気清麻呂公の活躍とにかく八幡神は触れない方が良いです本当に
卑弥呼=日御子(太陽神)=天照大御神=比売大神!
宇佐神宮に祀られてるのが卑弥呼としたらなぜ天皇家から皇祖扱いされたんだろ?
神功皇后だからですね
御神体は、皇室祖先神、天皇、三種の神器、その他の神ですね。明治以降は天皇だけだったかな?まあ『勅許』が出された正式な神宮だけでも色々ある。
出雲、宇佐 の四拍は「死」を意味しているのです。
新潟の彌彦神社も四拍手。
@@kakkazan2008 その神社のことは知りませんでしたから、まだ調べていないのですが、そこも何か「祟り」「穢れ」を恐れる原因があるのかもしれませんね(法隆寺の聖徳太子も)。「4」を過去の人たちはそのように使っています。
調べようがまだ足りないようですが、この弥彦からは共通点がないのかも?梅原猛先生も井沢元彦氏からも発見できません。余談ですが、何年か前に井沢氏にお会いしたけど、なんか失望して氏の本を読まなくなりましたよ。
@@toshisaitoh1868 返信ありがとうございます🙇♂これは飽くまで私見ですが、彌彦は恐らく大和朝廷に鎮められた大有力者と関係しているように思います。同じく四拍手の出雲大社も同様のルーツ(國譲り)を持っているようですし…
@@toshisaitoh1868 井沢氏は、回を追うに従い化けの皮が剥がれて来ている感じがしますね😅
気づいている方が少ないような気がしますが、日本が二度危機に陥った時に何故宇佐神宮まで神託を受けにきたのでしょうか?京が都なら、近くに凄い神社が多くあります。それなのに九州まで来たのでしょう。おかしいと思われない方が多いと思いました。また、宇佐神宮はあまり周りにアピールしないように思えます。地元でも、うちの神宮は凄いんだぞ!ってアピールは聞きません。どちらかと言うと隠しているように思っています。卑弥呼の直系なのかはわかりませんが、シャーマン的な方が代々いるのではないかと思っています。そちらを、八幡系列がお守りしているのかと思っております。
宇佐神宮から鹿児島神宮に八幡神社なら傘下に入れと言われて断ったら、社に火をつけて逃げたので追いかけて全員打ち倒した。って親父から聞いたけどなー。宇佐神宮に行くとわかるけど宇佐ん臭すぎだぜ?
宇佐神宮の祖宮、元宮とされる神社はいくつかありますがそちらを調べれば答えは出ると思います表面的な存在である宇佐宮に答えはまずありません
宇佐神宮が邪馬台国の訳がないですよ、どうやって七万戸の説明をするのですか?また三国志での鬼道とは初期の道教の事です。その辺り説明がつかないですからね。
どうやら邪馬台国は沖縄のようだ。当時の日本は広かったからね。太平洋から南シベリヤ、南北アメリカ大陸が敷地だったからね。沖縄位を日本と思いたかったんだろうね。
・・天之御中主神=瀬織津姫=龍神=英彦山の中心の女神=鷹羽の神=織姫=豊受比売=比売大神・・【大物主(大穴牟遅・八十 ):多紀理姫命】⇒17代以上後が「大国主」・・第2部 記紀はなぜ鷹羽神々を隠したか----壬申の大乱との関わり 講師 福永晋三・・ruclips.net/video/dmDtui1Klg8/видео.html
卑弥呼と天照大神は、全く関係がないよ。天照大御神は、本来的には男性だと言われている。又、神武天皇の神武東征は、実は無かったのではないかとも言われている。古事記、日本書紀が編纂された時代の政治情勢が、神武東征を作り上げたと言われている。当時、隼人簇の勢力がかなり強く、大和朝廷も、かなり苦労をしていて、隼人族を、押さえるために、大和朝廷と隼人族は、元々は、兄弟だったとしたのではないか。とも言われている。又天照大神は、当時の女帝に合わせて女神に成ったとも言われている。卑弥呼を、大和朝廷の祖先だと言う事になると、日本の天皇は、中国の属国のうちの一つと言う事になる。そして、卑弥呼の時代より遥か以前から大和の地には、かなり大きな集落の遺跡も見つかっている。唐古遺跡の説明がつかなくなる。古事記や日本書紀にも、巻向遺跡は、ちゃんと、天皇の都だったことも述べられている。卑弥呼が大和朝廷とは全く別であることは明らかな気がする。
《ヒミコ》の本義は《陽の神子》なのではないだろうか?男性(覡=オカンナギ=男巫)と別けて女性(巫=カンナギ)に《巫女》の字を当てたものだと推察する。ヒミコとは《日巫》=日巫女だ。《卑弥呼》は大陸王朝お定まりの侮蔑的音訳だと思われる。私は神州の特定の勢力内にいた「お抱えシャーマン」だと考える。託宣を受ける、政(マツリゴト)担当だ。その託宣を更に受け治世する者が王(キミ)であり、ヒミコと王、二人で《政治》となる体制だったのだと思う。日巫女は王と表裏であり一心同体だったと思う。所謂《卑弥呼》や《台与》は巫女が王を兼任した治世だったのだと、私は推定している。
天照大御神は男性神、それが何故女性神に擦り替わったのか……、興味深いですよね。そこにヒミコが関わっているのだと思いますよ?ヒミコは《日巫女》、託宣を得る女性です。天皇は天照大御神の子孫です。天皇になる為には天照大御神の子孫でなくてはなりません。そこで「日巫女こそ天照大御神だ」という事にしなければならない事情があったらどうでしょうか?天照大御神は女性神になります。
いや、邪馬台国が七万戸だとすると弥生時代末期に大規模な遺跡が複数存在する規模の国じゃないとおかしいのですよ。少なくとも魏志東夷伝の記述ではそういう事になります。なので考古学的に見て畿内辺りには弥生時代中期以降は複数の大規模遺跡が集中しますので、邪馬台国の可能性が高いという事です。また三世紀以降に大規模古墳が集中するのも、倭で最大の国が邪馬台国という裏付けになるのですよ。多くの邪馬台国を語る人々は一番肝心な事を無視しています。
@@トミヤマサキオ 様八萬戸(ヤマト)じゃないかな?それが八萬人(ヤマト)の意も包含し国名に【大和】とし「やまと」の読みを当てた。『《本気》と書いて「マジ」と読む』みたいなノリだね。
豊の国🟰台与の国
耶馬渓もありますし
実は 北九州や筑豊にあったやもしれませんな
邪馬台国
宇佐四拍だったっけ?入り口辺りに白馬が居たのを覚えてる
耶馬溪が近いから、アレ?と思った記憶があるな〜
神宮は天皇を祀ると言われましたが鹿島神宮は武御雷命、香取神宮は経津主命を祀っていますので、すべてがそうとは言えません。
江戸以前は神宮と呼ばれるのは伊勢の皇大神宮と鹿島と香取の三社だけ。
御神体は、皇室祖先神、天皇、三種の神器、その他の神ですね。
『勅許』が必要で、江戸時代にそこまで減ったという記録もありません。
明治以降の新設は天皇だけですし、『勝手名乗り』は禁止されました。
神宮と呼称するのは伊勢だけです。
伊勢神宮と呼称あるいは表記するのが慣例
ですが
本当の名称は
「神宮」
ちなみに福岡県北九州市って八幡神(妙見)だらけ
白山神社も多く祭神も応神天皇や神功皇后
北九州市やはた区 八幡神多いから八幡区
福岡県の祭りは殆ど八幡にからむ。
岡田宮=神武天皇とかね
岡山にある和気神社は狛犬がイノシシです
第11代比叡山天台座主「義海」は、宇佐神宮大宮司家です!
邪馬台国の台は、タイと読み
台与の台は、トと読む不思議
【ヤマト=邪馬薹】の
《薹・トゥ》を《臺・タイ》と
書き間違えたんじゃないかという
のが私の推察だ。
《ヤマトゥ》が《ヤマタイ》に
なっちゃったよ?😦💧
まぁ、当時のChinaと日本の発音は両国とも今とは違うだろうけど😅
臺の読みもトウだったことがわかってきているらしい
@@時時雨-o6w 様
そうかも知れないね。
でも問題は近代の日本語の発音なん
だよね。臺は《台》だから日本人は
「ヤマタイ」って読んじゃうじゃん。
だからこんな事になっているんじゃ
ないかという《可能性》の話☝️😁
確か、初代の卑弥呼と台与ともう一人に壱与と言う人物が居た様な記憶が有ります…そうしたら比売大神が三人の女神だと合致していることに……
卑弥呼さんが眠っているのか?
比売大神=卑弥呼でいいだろ
宇佐神宮信託事件って、なぜ伊勢神宮でないのか。このころは、伊勢神宮よりも宇佐神宮のほうが重要だったということです。というかこのころは伊勢神宮なんて、みんな知らない。それに、宇佐神宮の祭神は比売大神で、市杵島姫命です。そう考えると、源氏も平氏も市杵島姫命をまつっていることになります。
古代において「神宮」とつくのは、伊勢神宮と鹿島神宮、香取神宮の3社だけですよ。
それぐらいこの3社が重要だったということ。
伊勢神宮が知られてなかったなんてありえないです。
あと宇佐神宮の一の神が応神天皇である八幡神、二の神が比売大神、三の神が神功皇后です。
祭祀されている位置を見たら、真の一の神は比売大神と言われておる
@@Hayato_Takezawa 中央に配置されているのが比売大神ですからね。
しかも比売大神は、多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命の三柱とされているので、
元々は多岐津姫命・市杵島姫命・多紀理姫命が祭られていたところに応神天皇と神功皇后が追加されたのでは?と考えられる
まあ、源平合戦時に平氏方に味方して焼き討ち、戦国時代に大内氏に味方して大友氏に焼き討ちされているので、
元々の配置も曖昧ですけどね・・・
比売大神こそが卑弥呼で、宇佐神宮の場所に卑弥呼が埋葬された。だから和気清麻呂は、宇佐神宮まで神託を聞きに行った。
後半は飛躍し過ぎと思いましたが、銅鏡事件でワケノキヨマロさんの行動力で天皇皇室が守られました。八幡宮の総本宮は分かります
伊勢神宮は、柏手を8回打つことを調べたのですがみあたりません。
「拝礼では再拝二拍手一拝ではなく、八度拝という特殊な作法が用いられる。これは、坐した状態から起ち、さらに伏しながら坐して拝する「起拝」という作法をまず四度行い、続いて拍手を八つ打ち、さらに一つ打って坐したまま一拝するという作法であり、これを二度繰り返す。ただし、これは祭典に奉仕する神職の作法であり、通常の参拝者が板垣や御垣内で拝礼を行う際にはあくまで通常の作法で行う」(wikiより)
俺のひいばあちゃんが宇佐神宮の宮司の娘らしいけど、もしかして俺は卑弥呼の末裔だったりして・・・
宮司家の到津家系統なら宇佐氏の子孫に間違いありませんよ!
私のご先祖も到津家池永家系ですので宇佐氏の子孫ですよ!
但し、今、到津家は神社庁に乗っ取られ、現在の宮司は宇佐氏と縁もゆかりもない人です。
@@後藤孝博到津氏は正統後継者退陣の仕方がもう擁護のしようがありませんわ…
祝氏 宮成氏も離れ、眞上氏も歴史の彼方
宇佐氏も北九州方面へ、到津氏には肝心の事は伝えず仕舞い
ようやく騒動も収まってきた
思えば台風19号で神木が薙ぎ倒され、奥宮の霊峰御許山は荒れに荒れた
あの時気づくべきだった
令和の川面凡児が現れないものか
到津氏は戦国時代後から来た北九州地方の豪族ですね😅
北九州に到津って地名あります。
系図見たらわかりますが、、、、
宇佐氏、永弘氏が禰宜じゃないですかね?
@@noname-uk3rm 元々宇佐氏が神官を司ってた記録が
到津氏の北九州市到津はアミューズメントパークが昔ありました
宇佐神宮内の到津宅は今や荒れ放題
美しい水に取り囲まれた敷地でしたが水路自体も淀んでドブ川もいいところ
いや色々出来事が起こる前に水路が濁り出したのが予兆だったのかも
それから御神木も台風19号で根こそぎ倒され奥宮の夫婦杉も倒れ、嫡男も…
神を司るのはやはり畏らしいことです
そもそも神宮大社神社の参拝方式は明治8年(1875年)に考案され昭和23年(1948年)周知された物です。戦後に普及した慣習で古代からの伝承ではないのです。神宮大社神社の祭礼は庶民には無関係なので参拝は拝殿前で心からの一礼するだけで充分なのです。
宇佐神宮は9000年前の初期王朝の兎狭族所縁かな
卑弥呼の墳墓は四国辺りに在るのでは?🤔
日本書記の神武記には、
是時勅以菟狹津媛賜妻之於侍臣天種子命天種子命 是中臣氏之遠祖也
中臣氏の紹介に使われてますよね。
古代の発音研究してる動画見てると『は』の発音は倭語?には、無いらしいので、『や』神八井耳の『や』で、『ヤハタ』が、正解なのかも?
邪には、湾の意味もありますよね。馬には、南の意味もありますけれど、台の意味もあったりもします。
半島に当てた『韓』の文字。魏の周辺にある国なので、魏の周辺にあった韓の人達の物語?なんですかね?
馬韓・百済の言語も倭語だったから、大和王権・大和朝廷と関係が深いのかも?
倭人自体が、このごろ大陸海岸部に住んでいた人達説多いですし、倭人傳ですから、倭人なんでしょうね。(笑)
今の大陸は、アメリカの当て字を『米』から『美』に変更してるので、『め』と『び』の発音の関係は、興味深いですね。
弥・鼻・尾・彌・琵『び』の発音群に注目してるんですが、氣長氏は息長氏とも書き、四の文字は、『歯』から略字化されたので、氣長氏・息長氏のトレードマークは4。息長足姫の皇子なので、息を分解して自+心。自は、むかし自分を鼻を指差して私の意味にしたのだとか?だから応神・應神にしたのかな?
大陸の魏付近から引越しして、馬韓の卑彌國と記述され、引越して最終地が宇佐だったら、伝承は間違いないのかも?しれません。
吉野の吉水神社の参拝作法は、「2礼、17拍手、1拝」。
9月13日にはじめて訪れました。びっくりしました!
下から上まで配置さえた無数の石に、驚くほどの無数の盃状穴がありました。
」ヘブライの神社ができるから、九州中の氏族は縄文から崇拝されてきた地域の石もってこい!
これからは宮を祀るのだぞって命令が出されたんでしょう。
いやはや農耕文明とその支配者のやる気が伝わってくる盃状穴の数です。
この神社のメイントピックスすよ!
北部九州には活火山が四箇所あり、加具土命(溶岩)で火傷した伊邪那岐の神生みの左目が日出生(天照)、鼻が櫛生(素戔嗚)、右目が海人生(月読)となっています。
日出生は由布・鶴見岳、櫛生は玖珠・くじゅう、海人生は阿蘇、雲仙が蛭子。由布鶴見岳の神様は火売(ほのめ)=「ヒメ・比売・姫」だと思います。別府に火売神社があります。
又、この三柱は「日」「星」「月」で日田に日隈、星隈、月隈があります。筑紫・筑後平野にも日隈(佐賀神埼)、干隈(福岡)月隈(福岡)があり、それぞれが日本、魏、大月氏を表していると思います。宇佐(安心院)はその日出生の名の通り天皇家の奥の院(子育ての場)だったのだと思います。
巫女の霊夢が魔女の魔理沙から神宮神社大社の違いの解説を受けるのが(魔理沙が突っ込みを入れてますが)私自身も不思議に感じましたわ(σ・ω・)σ⁉️
(お蔭様で再確認する為に)日にちを置いて2回閲覧した私(苦笑)❗️
いよいよ、この説がRUclipsで出てきましたね🎉松久正氏の書籍『菊理姫神降臨なり』で菊理姫神とされる高次元の神様が同様のことを話しておられるので参考になると思います。
「神道」でも大神様は一損二礼四拍手
私の先祖が焼き討ちした際に神息の太刀を奪い源義経に献上するも逆に義経から拝領された後巡りめぐって宇佐神宮に戻ってるらしい機会があれば太刀を見てみたい。
比売大神は、歴史から消された女神、瀬織津姫だという説を自分は押しています。
宇佐八幡宮にお参りした時は上宮よりも下宮の方が威厳を感じた。卑弥呼が埋葬されているとしたら下宮かな。
柏手は古式では2回より多くたたいていたと聞いたが、明治に各神社統一させられたと聞く。
宇佐神宮に皇族がお忍びで参拝してるらしい😊
道鏡事件は聖徳太子 蘇我氏ラインの仏教推進派への、神道側からの鮮やかな反撃と見ることも出来る
八尾にある物部守屋の墳が有って、その玉垣には太宰府天満宮宮司西高辻氏などの名前が見える
よほど神道派に尊崇されていたのだろう。そんな神道派の会心の巻き返しが道鏡事件での和気清麻呂公の活躍
とにかく八幡神は触れない方が良いです本当に
卑弥呼=日御子(太陽神)=天照大御神=比売大神!
宇佐神宮に祀られてるのが卑弥呼としたらなぜ天皇家から皇祖扱いされたんだろ?
神功皇后だからですね
御神体は、皇室祖先神、天皇、三種の神器、その他の神ですね。
明治以降は天皇だけだったかな?
まあ『勅許』が出された正式な神宮だけでも色々ある。
出雲、宇佐 の四拍は「死」を意味しているのです。
新潟の彌彦神社も四拍手。
@@kakkazan2008 その神社のことは知りませんでしたから、まだ調べていないのですが、そこも何か「祟り」「穢れ」を恐れる原因があるのかもしれませんね(法隆寺の聖徳太子も)。「4」を過去の人たちはそのように使っています。
調べようがまだ足りないようですが、この弥彦からは共通点がないのかも?
梅原猛先生も井沢元彦氏からも発見できません。余談ですが、何年か前に井沢氏にお会いしたけど、なんか失望して氏の本を読まなくなりましたよ。
@@toshisaitoh1868 返信ありがとうございます🙇♂
これは飽くまで私見ですが、彌彦は恐らく大和朝廷に鎮められた大有力者と関係しているように思います。
同じく四拍手の出雲大社も同様のルーツ(國譲り)を持っているようですし…
@@toshisaitoh1868 井沢氏は、回を追うに従い化けの皮が剥がれて来ている感じがしますね😅
気づいている方が少ないような気がしますが、日本が二度危機に陥った時に何故宇佐神宮まで神託を受けにきたのでしょうか?京が都なら、近くに凄い神社が多くあります。それなのに九州まで来たのでしょう。おかしいと思われない方が多いと思いました。また、宇佐神宮はあまり周りにアピールしないように思えます。地元でも、うちの神宮は凄いんだぞ!ってアピールは聞きません。どちらかと言うと隠しているように思っています。卑弥呼の直系なのかはわかりませんが、シャーマン的な方が代々いるのではないかと思っています。そちらを、八幡系列がお守りしているのかと思っております。
宇佐神宮から鹿児島神宮に八幡神社なら傘下に入れと言われて断ったら、社に火をつけて逃げたので追いかけて全員打ち倒した。って親父から聞いたけどなー。
宇佐神宮に行くとわかるけど宇佐ん臭すぎだぜ?
宇佐神宮の祖宮、元宮とされる神社はいくつかありますがそちらを調べれば答えは出ると思います
表面的な存在である宇佐宮に答えはまずありません
宇佐神宮が邪馬台国の訳がないですよ、どうやって七万戸の説明をするのですか?また三国志での鬼道とは初期の道教の事です。その辺り説明がつかないですからね。
どうやら邪馬台国は沖縄のようだ。当時の日本は広かったからね。太平洋から南シベリヤ、南北アメリカ大陸が敷地だったからね。沖縄位を日本と思いたかったんだろうね。
・・天之御中主神=瀬織津姫=龍神=英彦山の中心の女神=鷹羽の神=織姫=豊受比売=比売大神
・・【大物主(大穴牟遅・八十 ):多紀理姫命】⇒17代以上後が「大国主」
・・第2部 記紀はなぜ鷹羽神々を隠したか----壬申の大乱との関わり 講師 福永晋三
・・ruclips.net/video/dmDtui1Klg8/видео.html
卑弥呼と天照大神は、全く関係がないよ。
天照大御神は、本来的には男性だと言われている。
又、神武天皇の神武東征は、実は無かったのではないかとも言われている。古事記、日本書紀が編纂された時代の政治情勢が、神武東征を作り上げたと言われている。当時、隼人簇の勢力がかなり強く、大和朝廷も、かなり苦労をしていて、隼人族を、押さえるために、大和朝廷と隼人族は、元々は、兄弟だったとしたのではないか。とも言われている。
又天照大神は、当時の女帝に合わせて女神に成ったとも言われている。
卑弥呼を、大和朝廷の祖先だと言う事になると、日本の天皇は、中国の属国のうちの一つと言う事になる。
そして、卑弥呼の時代より遥か以前から大和の地には、かなり大きな集落の遺跡も見つかっている。
唐古遺跡の説明がつかなくなる。
古事記や日本書紀にも、巻向遺跡は、ちゃんと、天皇の都だったことも述べられている。
卑弥呼が大和朝廷とは全く別であることは明らかな気がする。
《ヒミコ》の本義は《陽の神子》
なのではないだろうか?
男性(覡=オカンナギ=男巫)と別けて
女性(巫=カンナギ)に《巫女》の字を
当てたものだと推察する。
ヒミコとは《日巫》=日巫女だ。
《卑弥呼》は大陸王朝お定まりの
侮蔑的音訳だと思われる。
私は神州の特定の勢力内にいた
「お抱えシャーマン」だと考える。
託宣を受ける、政(マツリゴト)担当だ。
その託宣を更に受け治世する者が
王(キミ)であり、ヒミコと王、二人で
《政治》となる体制だったのだと
思う。
日巫女は王と表裏であり一心同体
だったと思う。
所謂《卑弥呼》や《台与》は
巫女が王を兼任した治世だったの
だと、私は推定している。
天照大御神は男性神、それが何故
女性神に擦り替わったのか……、
興味深いですよね。
そこにヒミコが関わっているのだ
と思いますよ?
ヒミコは《日巫女》、託宣を得る
女性です。
天皇は天照大御神の子孫です。
天皇になる為には天照大御神の
子孫でなくてはなりません。
そこで「日巫女こそ天照大御神だ」
という事にしなければならない
事情があったらどうでしょうか?
天照大御神は女性神になります。
いや、邪馬台国が七万戸だとすると弥生時代末期に大規模な遺跡が複数存在する規模の国じゃないとおかしいのですよ。少なくとも魏志東夷伝の記述ではそういう事になります。
なので考古学的に見て畿内辺りには弥生時代中期以降は複数の大規模遺跡が集中しますので、邪馬台国の可能性が高いという事です。
また三世紀以降に大規模古墳が集中するのも、倭で最大の国が邪馬台国という裏付けになるのですよ。多くの邪馬台国を語る人々は一番肝心な事を無視しています。
@@トミヤマサキオ 様
八萬戸(ヤマト)じゃないかな?
それが八萬人(ヤマト)の意も包含し
国名に【大和】とし「やまと」の
読みを当てた。
『《本気》と書いて「マジ」と読む』
みたいなノリだね。