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吉野ヶ里だと大分産の水銀朱を日田経由で持ってくるのが良さそうです。水銀朱は各産地で特徴があるようなので全国的に分析が進めばいいですね。ネットでの情報少ないです。鉄器については鉄器副葬の集団墓は朝倉・甘木で中期後葉から広まり、吉野ヶ里周辺は後期前葉から素環頭鉄刀と後漢鏡が同時に出る事が多いようです。武器としての鉄器に熱心な九州と鉄器を道具に工芸品作ったり農業や宗教に熱心な本州はかなりメンタリティーが異なるように感じます。
おっしゃるように水銀朱の分析が進めばよいですね。いつごろ、どこで採掘されて精製されるようになったのか、など。大型の古墳については、鉄器抜きに築造することは難しいような気がしますね。
ベンガラの動画ありがとうございます。ベンガラや褐鉄鉱。注目されるべき存在なのに、youtubeで取り上げる人が少ないので、重宝です。この時代の遺物として私もベンガラに注目しています。
武田さん、ありがとうございます。魏志倭人伝で「女王国では中国人が白粉を使うように朱丹を身体に塗っている」と書かれていますが、これはどう考えても水銀朱だとは思われません。ですから、山にある「丹」はベンガラでよいと思っています。頑なに水銀朱説を主張される方も多いですが・・・。
@@J-history 水銀朱は貴重なものなので、水銀朱を身体に塗ったというのは魏の使者の誤認かなと私も予想しています。考古学的に当時を予想すれば、水銀朱よりもベンガラの方が一般的と思います。なので、字源的に朱丹を水銀朱のみに決めつけて、ベンガラの可能性を一顧だにしないのは危険と私も思います。
楽しみにしています新説でなくともアップ待ってます🎉
ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします。
ベンガラでしたね!さっそくのアップありがとうございます。帰宅してからゆっくり拝見します。
コメントありがとうございます。ぜひぜひ。ごゆっくり、何度でもご覧いただけますと幸いです。
@@J-history帰宅してからの拝見です。 ベンガラについては妄想にブレーキ効きません。水銀朱は生産地が極めて限定的で貴重な赤色顔料だったはずです。赤が欲しいと求める一方でそれを手軽に入手可能な地域は覇権の上で優位な立場を堅持したと考えます。奈良から和歌山にかけてウロチョロすると点在する丹生の文字…神様であり氏族であり赤色顔料を生業にしていた事に間違いありません。そして神話に登場する丹塗りの矢…赤の特別の意味など妄想します。朱塗りの鳥居など境目を際立たせる演出です。赤は特別です。赤点ばかりの高校時代胸を張っていればよかった。 えへっ…
吉野ヶ里遺跡石棺墓の被葬者は、出雲の国譲り神話に登場する天若日玉ですの父親の天国玉命です。 天国玉命は紀元前238年に生まれ183年に56月で崩御されました。 吉野ヶ里は伊都国の都が置かれていました。 後に魏志倭人伝の委奴国と文字は変わりますが、紀元57年に漢の光武帝から金印を授与された漢委奴国王が治めていました。 漢委奴国王は第3代安寧天皇の皇子の常根津日古命です。 常根津日古命は紀元20年に生まれ66年に崩御され一貴親王銚子塚古墳に葬られました。
@@古屋公夫-s9s このコメントは当方へのコメントと解釈させて頂きます。断定できますか?神話の世界は誰一人決めつける事はままなりません。信仰が関わっているからです。拝殿を前に手を合わす方々を軽視されていると感じます。受け継がれてきたからこそそこにあります。当チャンネルは紀年を確定できるかを考えるチャンネルです。西暦にすると記紀に起こるエピソードはいつなのか?皇統は?それらは正しく記されているのか?出雲の口伝があります。記紀とは違う歴史観です。受け継がれてきたと解釈します。それは全て正しい解釈なのでしょうか?出雲の民が築いた歴史があります。本流と庶流。それぞれに受け継がれてきた歴史があります。全て受け入れる事は出来ません。齟齬があるからです。食い違いはそれぞれの伝承です。考古学的な知見あるいは文献資料のすり合わせが必要です。年号はそう容易く確定できません。
アップお疲れ様です! 確かに九州中部以南でも鉄器がたくさん出てくるのは、少し意外な感じがしますよね。もしかして本当に精錬していないとも断言は出来ないと思います。
岡上さん、ありがとうございます。今回、改めて不思議だなと思いました。一般的には不可能とされていますが、何らかの方法があったような気もしてきています。どなたか、専門家の方が深く研究してくれるとよいのですがね。
「赤」という色は、太陽或いは血液を想起させるものであり、古代の人々は特別な意味合いを感じていたと思います。赤色顔料を自給できて豪族の居館などに用いていたとすれば、権威を示すのに有効だったでしょう。この動画の始めの方に、現代人により再現された古代の建物が映し出されていますが、もしかしたらもう少し華やかな色合いだったのかも知れません・・・などなど、いろいろ想像させていただきました。次の動画も楽しみです😊
コメントありがとうございます。ときどき古代の色を再現したような企画を目にすることがありますが、思ったより鮮やかだと感心することが多いです。濁っていないというか・・・。
湯の口石棺は巾32-39㎝×長さ111㎝、これに対し吉野ヶ里謎のエリア石棺は巾36㎝×長さ180㎝。これから類推できるのは、湯の口は王子1人、吉野ヶ里は王子と王女の2人が葬られていたということではないか?だから発掘当初に指摘した通り、吉野ヶ里石棺には、天の彦星と織姫を中心にした夏の夜空が刻まれていたのであろうな・・、
コメントありがとうございます。そうですね。石棺が小さすぎるのが謎ですね。線刻が夜空という説がよく語られていますが、今回の発表で、その夜空を刻んだ板石を4枚に割って、3枚は蓋石にしてもう1枚は側壁に使ったというのがわかったので、ちょっと違和感があります。夜空を刻むのなら、割った後の3枚の蓋石を並べて夜空を再現するような気がするのですが。引き続きよろしくお願いします。
@@J-history 全国あちこちにあると思うが、真新しい茶碗を割って葬送儀礼に使う習慣がある。吉野ヶ里を西の始点として、銅鏡を割り、東へ向かって出陣する将官に、その破鏡を与えた事例もある。それは別れの悲しみを表す。大きな石板に満天の星空と地上を線刻し、それを四つに割って石棺に用いた気持ちもわからぬではない。
@@toshirouhorino なるほどです。ありがとうございます。
荒神谷遺跡の出土物にも✕が彫られてましたね。
コメントありがとうございます。そうですね。出雲は明らかにバツ印です。ただ、吉野ヶ里遺跡石棺の石蓋は、バツ印だけでなく、短い線だけとか、長い線があったりとか、とても法則性があるとは思えないのです。。
石棺墓の石は佐賀県鹿島産じゃないかと聞きました。近くの竜王崎古墳群6号墳には、家屋型線刻がキレイに残っています。何かのヒントにならないかな?と考えています!
@@winlaurels244 ご返信ありがとうございます。龍王埼古墳群、ネットで調べてみました。線刻は興味深いですが、少し新しい時代の古墳群のようですね。引き続きよろしくお願いします。
@@winlaurels244 この古墳群(家屋型線刻)の情報役立ちそうで研究します。竜王崎古墳群の弥生時代の国名は、国宝「翰苑」に記載された邪馬臺国の傍らの斯馬国(シマ)_魏志倭人伝記載の1番目の旁国_です。
初めまして。例えば、王族や貴族、有力者が多数埋葬されている代表的な山が有り、辰砂やベンガラを多く使い山に彩色をしていたら、採掘場所ではなくとも、「その山に丹有り」にはならないのかな?と視聴していて思いました。
コメントありがとうございます。なるほど。そういう読み方もあるかもしれません。が、朱丹と同じだと考えると、身体に塗っていたりしたものですから、やはり丹はベンガラ自体と考えられるので、と思います。引き続きよろしくお願いします。
おや、全て辰砂かと思ったらベンガラとの併用でしたか同時期で同形式の北九州市小倉の城野遺跡の小型石棺内は辰砂の朱が多量に使われてたので、吉野ヶ里も全て辰砂かと思ってました城野遺跡の石棺には殷の方相氏の線刻画も描かれており、当時は北九州市の方が鬼道の祭祀に熱心だったのでしょうかねどちらも小型石棺なので、男王ではなく子供の巫女が被葬者ではないかと思います
コメントありがとうございます。(何かの本で読んだ記憶なので断言できませんが)弥生時代の水銀朱の大部分は輸入されたものだというような認識でいました。石棺が小さいのは謎ですね。
褐鉄鉱からの製錬は極めて蓋然性高いと思います。大阪府立弥生文化博物館図録58「鉄の弥生時代 : 鉄器は社会を変えたのか? 」には弥生製錬に肯定的な見解が書かれていましたよ。
コメント&貴重な情報をありがとうございます。わたしの調べた範囲では、けっこう否定的な見解ばかりだったのですが、コメント欄で肯定的な情報をいくつかいただき、かなりの可能性があるのではと思い始めています。
遺体と共に辰砂を入れる理由は防腐目的ですが、このようなベンガラとの混合物のケースは特殊ですね。もしかすると埋葬時にインチキ行為が行われたのかもしれません。本来ならば100%辰砂を詰めるべき所をベンガラを混ぜて使用する辰砂の量をケチったのかもしれませんよ。どちらも赤色の顔料ですので素人目には区別が難しいと思いますし‥。
コメントありがとうございます。辰砂本来の目的はそうだったかもしれませんが、弥生時代九州では純粋に「赤」に意味を見出していたのかもしれません。九州では、弥生中期ぐらいに丹塗磨研土器という主にベンガラで赤く塗った土器が流行しています。
こんにちは!ついに判明しましたね😚埋葬されてたと言うことが分かっただけでも興奮しますね😚鉄王国熊本‥どのように精錬されてたか気になりますね🙄なお戦国時代も種子島が伝わった薩摩国から鉄砲生産が始まったハズで、蛇行剣など南九州の古代人は高い製鉄技術を持っていた可能性あり、とても興味深いですね( ・ิω・ิ)
コメントありがとうございます。たしかに、誰かが埋葬されていたことがわかっただけでもすごいことだと思います。製錬については、今回の動画をまとめて改めて重要性に気がつきました。
こんにちは。今回も興味深く拝見しました。私もリモナイトから製錬出来れば万事解決だと期待しているんですが、今のところ難しそうですね。景行天皇の九州巡行紀に何か書いてくれてればなぁ なんて思います。
コメントありがとうございます。阿蘇に鉄素材が集まっていることは状況証拠っぽいのですが、決定的な証拠品が出土しない限り認められそうにないですね。
ご制作の動画に一言申し上げます。吉野ケ里の石棺内のベンガラが阿蘇産と推定/断定するのは非論理的で正しいとは言えない。(論理的、具体的な動画作成を乞う。)「紅殻」「紅柄」とも書かれるベンガラの材料である鉄は地球上に多く存在 している元素で、赤鉄鉱や褐鉄鉱などの酸化鉄としてごく普通に存在する(あるサイトからの引用)。更に、阿蘇地方の弥生末期の産物が北部九州で結構発見されており、この地方(狗奴国)が必ずしも邪馬臺国(北部九州)と常に敵対していたわけではないことは認知されていると思います。
コメントありがとうございます。100%阿蘇産だと断定しているわけではありません。阿蘇が当時のベンガラの一大生産地であることは明白で、吉野ヶ里との位置もそれほど遠いわけではありませんから、そうである可能性が非常に高いと申し上げているわけです。ほかの産地案があれば、どんどん提示していただければよいのだと思っています。また、女王国と狗奴国は以前から不仲で激しく争っていたという説が有力視されていますが、そうであれば弥生末期の産物が北部九州で多く発見されるのは矛盾しているような気がします。
@@J-history 返信有り難うございます。5:43 - 5:56 に「もちろんベンガラは阿蘇から供給されていました」と言い、阿蘇から吉野ケ里への移動を示している。「もちろん」は断定の意味しか取れませんが。また、魏志は「素より不仲」と言っており、常に激しく戦っていたとは言っていないことに留意されたい。貴殿が言うような矛盾はありません。
@@eijisakai9878 ご返信ありがとうございます。「吉野ヶ里石棺のベンガラは阿蘇産では」という推論の上での話ですから、そのように述べました。が、誤解を招いたのであればすみません。「素より不仲」を以前からずっと戦っていたように捉えている方が多いと思いますが(私見)、eijisakai9878さんのように常に激しく戦っていなかったと考える方がいらっしゃってもよいと思っています。
石棺の線刻は 隋書倭国伝「文字なく刻み目をつけたり縄に結び目をつくり文字のかわりにしていた」でしょうか。弥生時代の鉄器・九州の県別出土分布によると福岡2011(37.3%)熊本1884(35%)大分629(11.7%)佐賀447(8.3%)武器に限定すると福岡1784(39.6%)熊本1519(33.7%)大分505(11.2%)佐賀382(8.5%)参考奈良出土武器鉄器7点『川越哲氏2000年』大分の遺跡は竹田や大野郡と阿蘇から近い地域です。福岡、佐賀、熊本 、大分?としたら強すぎませんか?僕も阿蘇近辺に製鉄所があったはずだと思ってます。熊本住みですが 巨石群、ペトログリフ、竹田市にはロストテクノロジーの紫草の染色技術があったり 宇土から東に向かい点在しています。(土蜘蛛として討伐か?)ペトログリフではΧで奉るという意味とか。次回も楽しみにしております。
コメントありがとうございます。どこも強すぎて、どこか一国が突出できなかったから、30国で卑弥呼を共立したのだと思います。阿蘇の製錬はロマンですね。今回改めて思いました。
@@J-history さん。 阿蘇黄土(リモナイト水酸化鉄)を熱して冷ますと赤いベンガラ(酸化鉄)となり ベンガラを炭と一緒に熱すると二酸化炭素と砂鉄に。朝鮮戦争まで『黄色いダイヤ』硫化鉄鉱を用いて熊本小国町で操業されてましたし玉名市の小岱山製鉄跡群、西原製鉄遺跡では飛鳥時代に操業していた可能性もあるとか。※硫化鉄は阿蘇黄土に硫化水素を加え作れます韓国国立大の教授だった新井宏氏は遺跡別鉄器出土数日本一の熊本県大津町 西弥護免遺跡の鉄遺物について韓国の鉄遺物との相違点があり充分国産の可能性がある。と述べられています。火山性鉱物の宝庫故に 隋書に『阿蘇山有り』なのですね。ただ古代の製鉄は一操業毎に鉄塊を取り出す為に炉体を取り壊すので残らない。残念です^_^;
吉野ヶ里だと大分産の水銀朱を日田経由で持ってくるのが良さそうです。水銀朱は各産地で特徴があるようなので全国的に分析が進めばいいですね。ネットでの情報少ないです。鉄器については鉄器副葬の集団墓は朝倉・甘木で中期後葉から広まり、吉野ヶ里周辺は後期前葉から素環頭鉄刀と後漢鏡が同時に出る事が多いようです。武器としての鉄器に熱心な九州と鉄器を道具に工芸品作ったり農業や宗教に熱心な本州はかなりメンタリティーが異なるように感じます。
おっしゃるように水銀朱の分析が進めばよいですね。いつごろ、どこで採掘されて精製されるようになったのか、など。
大型の古墳については、鉄器抜きに築造することは難しいような気がしますね。
ベンガラの動画ありがとうございます。ベンガラや褐鉄鉱。注目されるべき存在なのに、youtubeで取り上げる人が少ないので、重宝です。この時代の遺物として私もベンガラに注目しています。
武田さん、ありがとうございます。
魏志倭人伝で「女王国では中国人が白粉を使うように朱丹を身体に塗っている」と書かれていますが、これはどう考えても水銀朱だとは思われません。
ですから、山にある「丹」はベンガラでよいと思っています。
頑なに水銀朱説を主張される方も多いですが・・・。
@@J-history 水銀朱は貴重なものなので、水銀朱を身体に塗ったというのは魏の使者の誤認かなと私も予想しています。考古学的に当時を予想すれば、水銀朱よりもベンガラの方が一般的と思います。なので、字源的に朱丹を水銀朱のみに決めつけて、ベンガラの可能性を一顧だにしないのは危険と私も思います。
楽しみにしています
新説でなくともアップ待ってます🎉
ありがとうございます。
今後ともよろしくお願いします。
ベンガラでしたね!
さっそくのアップありがとうございます。
帰宅してからゆっくり拝見します。
コメントありがとうございます。
ぜひぜひ。ごゆっくり、何度でもご覧いただけますと幸いです。
@@J-history
帰宅してからの拝見です。
ベンガラについては妄想にブレーキ効きません。
水銀朱は生産地が極めて限定的で貴重な赤色顔料だったはずです。
赤が欲しいと求める一方でそれを手軽に入手可能な地域は覇権の上で優位な立場を堅持したと考えます。
奈良から和歌山にかけてウロチョロすると点在する丹生の文字…
神様であり氏族であり赤色顔料を生業にしていた事に間違いありません。
そして神話に登場する丹塗りの矢…
赤の特別の意味など妄想します。
朱塗りの鳥居など境目を際立たせる演出です。
赤は特別です。
赤点ばかりの高校時代胸を張っていればよかった。 えへっ…
吉野ヶ里遺跡石棺墓の被葬者は、出雲の国譲り神話に登場する天若日玉ですの父親の天国玉命です。
天国玉命は紀元前238年に生まれ183年に56月で崩御されました。
吉野ヶ里は伊都国の都が置かれていました。
後に魏志倭人伝の委奴国と文字は変わりますが、紀元57年に漢の光武帝から金印を授与された漢委奴国王が治めていました。
漢委奴国王は第3代安寧天皇の皇子の常根津日古命です。
常根津日古命は紀元20年に生まれ66年に崩御され一貴親王銚子塚古墳に葬られました。
@@古屋公夫-s9s
このコメントは当方へのコメントと解釈させて頂きます。
断定できますか?
神話の世界は誰一人決めつける事はままなりません。信仰が関わっているからです。拝殿を前に手を合わす方々を軽視されていると感じます。受け継がれてきたからこそそこにあります。
当チャンネルは紀年を確定できるかを考えるチャンネルです。
西暦にすると記紀に起こるエピソードはいつなのか?皇統は?それらは正しく記されているのか?
出雲の口伝があります。記紀とは違う歴史観です。受け継がれてきたと解釈します。それは全て正しい解釈なのでしょうか?出雲の民が築いた歴史があります。本流と庶流。それぞれに受け継がれてきた歴史があります。全て受け入れる事は出来ません。齟齬があるからです。食い違いはそれぞれの伝承です。考古学的な知見あるいは文献資料のすり合わせが必要です。
年号はそう容易く確定できません。
アップお疲れ様です! 確かに九州中部以南でも鉄器がたくさん出てくるのは、少し意外な感じがしますよね。もしかして本当に精錬していないとも断言は出来ないと思います。
岡上さん、ありがとうございます。
今回、改めて不思議だなと思いました。
一般的には不可能とされていますが、何らかの方法があったような気もしてきています。どなたか、専門家の方が深く研究してくれるとよいのですがね。
「赤」という色は、太陽或いは血液を想起させるものであり、古代の人々は特別な意味合いを感じていたと思います。赤色顔料を自給できて豪族の居館などに用いていたとすれば、権威を示すのに有効だったでしょう。この動画の始めの方に、現代人により再現された古代の建物が映し出されていますが、もしかしたらもう少し華やかな色合いだったのかも知れません・・・などなど、いろいろ想像させていただきました。次の動画も楽しみです😊
コメントありがとうございます。
ときどき古代の色を再現したような企画を目にすることがありますが、思ったより鮮やかだと感心することが多いです。濁っていないというか・・・。
湯の口石棺は巾32-39㎝×長さ111㎝、これに対し吉野ヶ里謎のエリア石棺は巾36㎝×長さ180㎝。
これから類推できるのは、湯の口は王子1人、吉野ヶ里は王子と王女の2人が葬られていたということではないか?
だから発掘当初に指摘した通り、吉野ヶ里石棺には、天の彦星と織姫を中心にした夏の夜空が刻まれていたのであろうな・・、
コメントありがとうございます。
そうですね。石棺が小さすぎるのが謎ですね。
線刻が夜空という説がよく語られていますが、今回の発表で、その夜空を刻んだ板石を4枚に割って、3枚は蓋石にしてもう1枚は側壁に使ったというのがわかったので、ちょっと違和感があります。
夜空を刻むのなら、割った後の3枚の蓋石を並べて夜空を再現するような気がするのですが。
引き続きよろしくお願いします。
@@J-history 全国あちこちにあると思うが、真新しい茶碗を割って葬送儀礼に使う習慣がある。
吉野ヶ里を西の始点として、銅鏡を割り、東へ向かって出陣する将官に、その破鏡を与えた事例もある。
それは別れの悲しみを表す。
大きな石板に満天の星空と地上を線刻し、それを四つに割って石棺に用いた気持ちもわからぬではない。
@@toshirouhorino
なるほどです。ありがとうございます。
荒神谷遺跡の出土物にも✕が彫られてましたね。
コメントありがとうございます。
そうですね。出雲は明らかにバツ印です。
ただ、吉野ヶ里遺跡石棺の石蓋は、バツ印だけでなく、短い線だけとか、長い線があったりとか、とても法則性があるとは思えないのです。。
石棺墓の石は佐賀県鹿島産じゃないかと聞きました。
近くの竜王崎古墳群6号墳には、家屋型線刻がキレイに残っています。
何かのヒントにならないかな?と考えています!
@@winlaurels244 ご返信ありがとうございます。
龍王埼古墳群、ネットで調べてみました。線刻は興味深いですが、少し新しい時代の古墳群のようですね。
引き続きよろしくお願いします。
@@winlaurels244 この古墳群(家屋型線刻)の情報役立ちそうで研究します。竜王崎古墳群の弥生時代の国名は、国宝「翰苑」に記載された邪馬臺国の傍らの斯馬国(シマ)_魏志倭人伝記載の1番目の旁国_です。
初めまして。
例えば、王族や貴族、有力者が多数埋葬されている代表的な山が有り、辰砂やベンガラを多く使い山に彩色をしていたら、採掘場所ではなくとも、「その山に丹有り」にはならないのかな?と視聴していて思いました。
コメントありがとうございます。
なるほど。そういう読み方もあるかもしれません。が、朱丹と同じだと考えると、身体に塗っていたりしたものですから、やはり丹はベンガラ自体と考えられるので、と思います。
引き続きよろしくお願いします。
おや、全て辰砂かと思ったらベンガラとの併用でしたか
同時期で同形式の北九州市小倉の城野遺跡の小型石棺内は辰砂の朱が多量に使われてたので、吉野ヶ里も全て辰砂かと思ってました
城野遺跡の石棺には殷の方相氏の線刻画も描かれており、当時は北九州市の方が鬼道の祭祀に熱心だったのでしょうかね
どちらも小型石棺なので、男王ではなく子供の巫女が被葬者ではないかと思います
コメントありがとうございます。
(何かの本で読んだ記憶なので断言できませんが)弥生時代の水銀朱の大部分は輸入されたものだというような認識でいました。
石棺が小さいのは謎ですね。
褐鉄鉱からの製錬は極めて蓋然性高いと思います。
大阪府立弥生文化博物館図録58「鉄の弥生時代 : 鉄器は社会を変えたのか? 」には弥生製錬に肯定的な見解が書かれていましたよ。
コメント&貴重な情報をありがとうございます。
わたしの調べた範囲では、けっこう否定的な見解ばかりだったのですが、コメント欄で肯定的な情報をいくつかいただき、かなりの可能性があるのではと思い始めています。
遺体と共に辰砂を入れる理由は防腐目的ですが、このようなベンガラとの混合物のケースは特殊ですね。
もしかすると埋葬時にインチキ行為が行われたのかもしれません。本来ならば100%辰砂を詰めるべき所をベンガラを混ぜて使用する辰砂の量をケチったのかもしれませんよ。
どちらも赤色の顔料ですので素人目には区別が難しいと思いますし‥。
コメントありがとうございます。
辰砂本来の目的はそうだったかもしれませんが、弥生時代九州では純粋に「赤」に意味を見出していたのかもしれません。
九州では、弥生中期ぐらいに丹塗磨研土器という主にベンガラで赤く塗った土器が流行しています。
こんにちは!ついに判明しましたね😚埋葬されてたと言うことが分かっただけでも興奮しますね😚鉄王国熊本‥どのように精錬されてたか気になりますね🙄なお戦国時代も種子島が伝わった薩摩国から鉄砲生産が始まったハズで、蛇行剣など南九州の古代人は高い製鉄技術を持っていた可能性あり、とても興味深いですね( ・ิω・ิ)
コメントありがとうございます。
たしかに、誰かが埋葬されていたことがわかっただけでもすごいことだと思います。
製錬については、今回の動画をまとめて改めて重要性に気がつきました。
こんにちは。今回も興味深く拝見しました。
私もリモナイトから製錬出来れば万事解決だと期待しているんですが、今のところ難しそうですね。
景行天皇の九州巡行紀に何か書いてくれてればなぁ なんて思います。
コメントありがとうございます。
阿蘇に鉄素材が集まっていることは状況証拠っぽいのですが、決定的な証拠品が出土しない限り認められそうにないですね。
ご制作の動画に一言申し上げます。吉野ケ里の石棺内のベンガラが阿蘇産と推定/断定するのは非論理的で正しいとは言えない。(論理的、具体的な動画作成を乞う。)
「紅殻」「紅柄」とも書かれるベンガラの材料である鉄は地球上に多く存在 している元素で、赤鉄鉱や褐鉄鉱などの酸化鉄としてごく普通に存在する(あるサイトからの引用)。
更に、阿蘇地方の弥生末期の産物が北部九州で結構発見されており、この地方(狗奴国)が必ずしも邪馬臺国(北部九州)と常に敵対していたわけではないことは認知されていると思います。
コメントありがとうございます。
100%阿蘇産だと断定しているわけではありません。
阿蘇が当時のベンガラの一大生産地であることは明白で、吉野ヶ里との位置もそれほど遠いわけではありませんから、そうである可能性が非常に高いと申し上げているわけです。
ほかの産地案があれば、どんどん提示していただければよいのだと思っています。
また、女王国と狗奴国は以前から不仲で激しく争っていたという説が有力視されていますが、そうであれば弥生末期の産物が北部九州で多く発見されるのは矛盾しているような気がします。
@@J-history 返信有り難うございます。
5:43 - 5:56 に「もちろんベンガラは阿蘇から供給されていました」と言い、阿蘇から吉野ケ里への移動を示している。「もちろん」は断定の意味しか取れませんが。また、魏志は「素より不仲」と言っており、常に激しく戦っていたとは言っていないことに留意されたい。貴殿が言うような矛盾はありません。
@@eijisakai9878 ご返信ありがとうございます。
「吉野ヶ里石棺のベンガラは阿蘇産では」という推論の上での話ですから、そのように述べました。が、誤解を招いたのであればすみません。
「素より不仲」を以前からずっと戦っていたように捉えている方が多いと思いますが(私見)、eijisakai9878さんのように常に激しく戦っていなかったと考える方がいらっしゃってもよいと思っています。
石棺の線刻は 隋書倭国伝「文字なく刻み目をつけたり縄に結び目をつくり文字のかわりにしていた」でしょうか。
弥生時代の鉄器・九州の県別出土分布によると
福岡2011(37.3%)熊本1884(35%)大分629(11.7%)佐賀447(8.3%)
武器に限定すると
福岡1784(39.6%)熊本1519(33.7%)大分505(11.2%)佐賀382(8.5%)参考奈良出土武器鉄器7点
『川越哲氏2000年』
大分の遺跡は竹田や大野郡と阿蘇から近い地域です。
福岡、佐賀、熊本 、大分?としたら
強すぎませんか?
僕も阿蘇近辺に製鉄所があったはずだと思ってます。
熊本住みですが 巨石群、ペトログリフ、竹田市にはロストテクノロジーの紫草の染色技術があったり 宇土から東に向かい点在しています。(土蜘蛛として討伐か?)
ペトログリフではΧで奉るという意味とか。
次回も楽しみにしております。
コメントありがとうございます。
どこも強すぎて、どこか一国が突出できなかったから、30国で卑弥呼を共立したのだと思います。
阿蘇の製錬はロマンですね。今回改めて思いました。
@@J-history さん。 阿蘇黄土(リモナイト水酸化鉄)を熱して冷ますと赤いベンガラ(酸化鉄)となり ベンガラを炭と一緒に熱すると二酸化炭素と砂鉄に。
朝鮮戦争まで『黄色いダイヤ』硫化鉄鉱を用いて熊本小国町で操業されてましたし玉名市の小岱山製鉄跡群、西原製鉄遺跡では飛鳥時代に操業していた可能性もあるとか。
※硫化鉄は阿蘇黄土に硫化水素を加え作れます
韓国国立大の教授だった新井宏氏は遺跡別鉄器出土数日本一の熊本県大津町 西弥護免遺跡の鉄遺物について韓国の鉄遺物との相違点があり充分国産の可能性がある。と述べられています。
火山性鉱物の宝庫故に 隋書に『阿蘇山有り』なのですね。
ただ古代の製鉄は一操業毎に鉄塊を取り出す為に炉体を取り壊すので残らない。
残念です^_^;