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紹介される情報もさることながら、背景の写真も素晴らしいと思います。楽しみにしております。
廃止前にはくつるのA個室寝台に乗車できたのは、良い思い出。
仙台から上野は早くから寝られて、それ以遠の盛岡・青森からは仙台駅は通らない貨物線経由(そんな夜行急行をよく利用してた)
上りの急行新星、当時の時刻表でも「寝台を21時30分から使用できます」明記されていたので印象に残ってます。
新星も北星も乗ったことがあります。新星は仙台で北東北各地に向かう急行列車に接続していたので結構使える列車でした。雪の影響でダイヤが乱れていた日、新星を牽引する機関車のやりくりが出来ないという理由で上野の発車が1時間以上遅れたことがありました。しかし、余裕がありすぎるダイヤのおかげで、仙台にはほぼ定刻に着いていました。現在は東北急行バスが東京と仙台の間にニュースター号という高速バスを走らせていますね。私はかつての新星号に思いを馳せながらニュースター号を利用しています。
コメントありがとうございます。なるほど...ニュースター号って新星から来てるんですかね...気づきませんでした。
「新星」に拘らず、20系のB寝台車が残っていた、三重県の旧国民宿舎「関ロッジ」にあったナハネフ23には、何度も御世話なりました。中段の幅53cmベッドが懐かしい。
今はなきトレインホステル北斗星も、他客のいびきで寝入りづらいことが多かったため、早めに入室し他客が少ないうちに寝込むのがベストでした。やはり停車中に静かに寝いれるとはちょいとした乗り得ですね。
寝台特急の北星は私が初めて乗ったブルートレインですねぇ。懐かしいです。
青森夜行の大多数が常磐線経由だったのは確かに勾配回避もありましたが、福島から奥羽本線へ行く列車や貨物もあってダイヤが過密だった理由もありました。
貨物は特に機関車の問題も大きかったかと。常磐線だと高価な交直流機を首都圏に突っ込む必要が(取手より北が交流区間扱い且つ走行中切り替えのため)東北本線は黒磯で直流と交流の付替えだけで済む上EF81の交流区間の制約もあって(EF80はそれより酷い制約あり)交流区間はFD75重連でさばいてたくらいに色んな事情が絡んでた。
1977年3月、鉄研の先輩が松下に入社するさい新星に乗車しました。見送りした記憶あります。
6:49 C寝台って床だったのか、私はC寝台は網棚だと思って網棚に寝ていた。同行していた従妹と一緒に網棚で寝ていたら車掌に見つかり怒られた。網棚はD寝台だったのだな。寝台席を間違えたので車掌が怒ったわけだったのか
それを考えると、新幹線と並行する区間を走っていた「銀河」は客車が24系化されても走ってたのも凄いですね。東京〜大阪と言う利用客も多い場所だったのも有るのでしょうけど。現在でも、上り「サンライズ」を大阪から利用する乗客も多いようですし。それを考えると、サンライズは上手くやってるよなと思う次第。夜行高速バスの方が運賃は安い筈ですが、ノビノビ座席・・・バスのリクライニングを避けたければ、ノビノビ座席を利用する方も居ると思います。「あけぼの」のゴロンとシートでは無いですが、サンライズ同様に新型の寝台車両を作っていれば・・・高速バスに対抗する夜行列車が今でも走っていたのでは?と思いますね。特に「あけぼの」は利用率が悪かった訳では無いんですしね。
留置線との往復でもう一つ。1985年のエキスポドリーム号が頭をよぎりました。筑波万博の来場者に対して会場周辺の宿泊地は足りていなかった対策で、列車ホテルとして運転されました。上野を出たエキスポドリームは土浦駅に停車。同駅で客扱いの後に留置線で一夜を明かし、土浦駅と万博中央駅で客扱いをしたという列車でした。
寝台特急北陸は金沢到着後に車庫に回送後更に1時間寝ることが出来ましたね
❤
コメントありがとうございます。北陸の場合、車庫ではなく東金沢駅ですね。チェックアウトサービス...サンライズ瀬戸でもやってほしいかも...
@@TohokuRailwayMovies好きな時間に起きて接続する普通列車に乗車していくやつですね。乗った事無かったですが、面白い列車だと思い乗ってみたかった列車の一つでしたね。
八戸駅から昼特急はつかりよりも寝台特急のほうが楽ちんで快適でしたよ。でもそれ考えると今ははやぶさで東京行きは天国ですね。😂
グリーン車は別格でした。現在はグランクラスになるね。
北星は使いませんでしたが、北斗星の上野⇒仙台は良く利用しました、
ホームに2時間停車で既に寝てる客、しかも当時は解放寝台。となれば、貴重品狙いの輩も出没してたんだろうな。
@@kutakichi 鉄道公安官が巡回してたのでは
当時は携帯やパソコンはなかった時代で貴重品といえば財布だけでした。布団の下に入れて手荷物は寝台の足元に置きました。
1980年の冬に存在した長野発大阪行き急行「ちくま」も1時間以上前に寝台に乗り込めました。ホームの掲示は回送でしたが大阪行きちくまと書いたサボが側面に刺さっていて,駅員に聞いたら乗っても良いとのことでした。
>大阪行きちくま大阪行「きちくま」と読んでしまった^^;;;吉熊?
当時、ビジネスで東京と仙台を往復する比較的金のある人が下りに利用していたのはゆうづる1号・3号のグリーン車でした。20時ごろ上野を出て0時30分ごろ仙台着。揺れて狭い客車急行よりも人気でした。これもJ〇Bが上級用に抑えていましたが。
東北新幹線のおかげで、便利にはなったが、「あけぼの」はなくなるし、東北本線が直接新青森に行くので「浅虫温泉」などが廃れてしまった。いまは「青い森鉄道」を使わないといけない。「はくつる」で無いと九戸駅にはいかない。
ずん子さんとの掛け合いがないのは珍しいですね。仮に上野方で21:30着・21:40発留置線行が走っていたら、それはそれで面白そうでした。東北新幹線建設工事のために上野東京間の線路が剥がされていなかったら、品川客車区まで動かして尾久客車区〜上野までの推進運転を解消できたかも。やはり新幹線は旅行のスタイルを変えました。狭くて揺れる夜行列車より、前乗りしてホテルに泊まった方が身体が休まります。シャワーすらない夜行列車は敵わなかったでしょう(当初は未開業だった青森や秋田への利用者に夜行列車は支持されて残りましたが)。
甲子園の話やったかな?何処かの駅で乗客乗せて、ほんのお隣の車両区で一泊翌朝、乗車した駅に戻る!的なのは聞いた事あるなw今回も物凄い知識力で、お疲れ様でした!(^o^)/
1991年から93年までJR西日本が583系を使用して新大阪~甲子園口まで運行した、ナインドリーム甲子園号でしょうか?夜10時過ぎくらいに新大阪を出発して、数分で大阪駅に着いた後、日付の変わる前まで客扱いして、そのまま0時にドアを施錠、朝6時過ぎまで停車、その後出発して7時前位に甲子園口駅に到着だったかな?到着後もしばらくは車内で休憩出来たそうで、列車ホテルのようなものだったようですね。
全線走破の一般列車は「はつかり」だけ?連絡線が生きてた頃、1本だけ東京発着だった
ウェストエクスプレスがやたらと抜かれまくるダイヤなのも似たような理由ですね・・・
今は同じ様に流行らそうとすると寝台だけじゃなくて観光も込みでないと新幹線や飛行機にシフトしちゃうんですよね( ̄▽ ̄;)だからトワイライトエクスプレス銀河とかも観光込みになってるんですよね
ほんと......急いては事を仕損じる。とはいいますが、これほど急いで月日が巡って......今の人口減少ですか?という。人口減少に拍車を掛けるための高速化。とも見えてしまいます。関東のほうがなんでもあるから。ゆっくりいくことがボトルネックになり、人口流出を押し止められていた。と言っても過言じゃない気もしますし......急ぐ代わりに時間的余裕の建て方を忘れた。とも見えますし......
今なら上野駅地平ホーム余裕だから早い時間からホームで待機できる
しらいし…×しろいし…Ο
確か下りもアレはまだ北星時代だったか?仙台止まりの編成を切り離して朝7時ごろまで留置するなんて芸当をしていたとか。またJR西日本では[北陸]の金沢到着後東金沢駅に回送、しばらく停めてゆっくり降りられるチェックアウトサービスってのを一時期やっていたが告知が弱くてあまり知られないまま終わった由。東海道方面でも早朝に東京に着く列車、[瀬戸][出雲2号・紀伊][銀河]など、一旦品川駅に引き上げさせてチェックアウトサービスとかやってみれば面白かったのにね(^^);
ナインドリーム甲子園号のようにはいかなかった
7:49 深夜帯に蒸機牽引で青森へ向かって走っていたのか。特に仙台 〜 一ノ関 〜 盛岡の表定速度は70km/hを超えていたので、道中ほぼフルスロットルで疾走していたのが分かります。趣味的に昭和40(1965)年から昭和43(1968)年10月の白紙改正前までが一番楽しかったと聞いた事がありますね。
確かその期間の平機関区ゆうづる牽引指名のC62を(状態抜群選抜状態で)かき集めて牽引機専用の石炭を仙台と平に集積させてまでやってなお余裕時間ゼロで特に北行は船の時間もあるから仙台以北で回復運転が常用されるという地獄ぶり…
1:49 カ シ オ ペ アまあこいつまだ一応団体専用で走ってるし東北新幹線より北海道新幹線の影響だろうけど
昨今のJRを見ていると1日限定でカシオペアの客車を使って復活するかも?しかし運転時間は遅い特急になるとは思います。
ヨンナナサンダイヤ改正までは、急行ばんだい上り6号が会津若松駅でやはり2時間ほど前から入線していました。しかしヨンナナトウダイヤ改正までの急行天の川がなぜ新潟駅でこういった処置をしなかったのか?新潟駅も仙台駅もほぼ同じ規模だと思いますが?
紹介される情報もさることながら、背景の写真も素晴らしいと思います。楽しみにしております。
廃止前にはくつるのA個室寝台に乗車できたのは、良い思い出。
仙台から上野は早くから寝られて、それ以遠の盛岡・青森からは仙台駅は通らない貨物線経由(そんな夜行急行をよく利用してた)
上りの急行新星、当時の時刻表でも「寝台を21時30分から使用できます」明記されていたので印象に残ってます。
新星も北星も乗ったことがあります。新星は仙台で北東北各地に向かう急行列車に接続していたので結構使える列車でした。
雪の影響でダイヤが乱れていた日、新星を牽引する機関車のやりくりが出来ないという理由で上野の発車が1時間以上遅れたことがありました。しかし、余裕がありすぎるダイヤのおかげで、仙台にはほぼ定刻に着いていました。
現在は東北急行バスが東京と仙台の間にニュースター号という高速バスを走らせていますね。私はかつての新星号に思いを馳せながらニュースター号を利用しています。
コメントありがとうございます。
なるほど...ニュースター号って新星から来てるんですかね...気づきませんでした。
「新星」に拘らず、20系のB寝台車が残っていた、三重県の旧国民宿舎「関ロッジ」にあったナハネフ23には、何度も御世話なりました。中段の幅53cmベッドが懐かしい。
今はなきトレインホステル北斗星も、他客のいびきで寝入りづらいことが多かったため、早めに入室し他客が少ないうちに寝込むのがベストでした。
やはり停車中に静かに寝いれるとはちょいとした乗り得ですね。
寝台特急の北星は私が初めて乗ったブルートレインですねぇ。懐かしいです。
青森夜行の大多数が常磐線経由だったのは確かに勾配回避もありましたが、
福島から奥羽本線へ行く列車や貨物もあってダイヤが過密だった理由もありました。
貨物は特に機関車の問題も大きかったかと。
常磐線だと高価な交直流機を首都圏に突っ込む必要が(取手より北が交流区間扱い且つ走行中切り替えのため)
東北本線は黒磯で直流と交流の付替えだけで済む上EF81の交流区間の制約もあって(EF80はそれより酷い制約あり)交流区間はFD75重連でさばいてたくらいに色んな事情が絡んでた。
1977年3月、鉄研の先輩が松下に入社するさい新星に乗車しました。見送りした記憶あります。
6:49 C寝台って床だったのか、私はC寝台は網棚だと思って網棚に寝ていた。同行していた従妹と一緒に網棚で寝ていたら車掌に見つかり怒られた。
網棚はD寝台だったのだな。寝台席を間違えたので車掌が怒ったわけだったのか
それを考えると、新幹線と並行する区間を走っていた「銀河」は客車が24系化されても走ってたのも凄いですね。
東京〜大阪と言う利用客も多い場所だったのも有るのでしょうけど。
現在でも、上り「サンライズ」を大阪から利用する乗客も多いようですし。
それを考えると、サンライズは上手くやってるよなと思う次第。
夜行高速バスの方が運賃は安い筈ですが、ノビノビ座席・・・バスのリクライニングを避けたければ、ノビノビ座席を利用する方も居ると思います。
「あけぼの」のゴロンとシートでは無いですが、サンライズ同様に新型の寝台車両を作っていれば・・・高速バスに対抗する夜行列車が今でも走っていたのでは?と思いますね。
特に「あけぼの」は利用率が悪かった訳では無いんですしね。
留置線との往復でもう一つ。1985年のエキスポドリーム号が頭をよぎりました。筑波万博の来場者に対して会場周辺の宿泊地は足りていなかった対策で、列車ホテルとして運転されました。
上野を出たエキスポドリームは土浦駅に停車。同駅で客扱いの後に留置線で一夜を明かし、土浦駅と万博中央駅で客扱いをしたという列車でした。
寝台特急北陸は金沢到着後に車庫に回送後更に1時間寝ることが出来ましたね
❤
コメントありがとうございます。
北陸の場合、車庫ではなく東金沢駅ですね。
チェックアウトサービス...サンライズ瀬戸でもやってほしいかも...
@@TohokuRailwayMovies好きな時間に起きて接続する普通列車に乗車していくやつですね。
乗った事無かったですが、面白い列車だと思い乗ってみたかった列車の一つでしたね。
八戸駅から昼特急はつかりよりも寝台特急のほうが楽ちんで快適でしたよ。でもそれ考えると今は
はやぶさで東京行きは天国ですね。😂
グリーン車は別格でした。現在はグランクラスになるね。
北星は使いませんでしたが、北斗星の上野⇒仙台は良く利用しました、
ホームに2時間停車で既に寝てる客、しかも当時は解放寝台。
となれば、貴重品狙いの輩も出没してたんだろうな。
@@kutakichi 鉄道公安官が巡回してたのでは
当時は携帯やパソコンはなかった時代で貴重品といえば財布だけでした。布団の下に入れて手荷物は寝台の足元に置きました。
1980年の冬に存在した長野発大阪行き急行「ちくま」も1時間以上前に寝台に乗り込めました。
ホームの掲示は回送でしたが大阪行きちくまと書いたサボが側面に刺さっていて,
駅員に聞いたら乗っても良いとのことでした。
>大阪行きちくま
大阪行「きちくま」と読んでしまった^^;;;
吉熊?
当時、ビジネスで東京と仙台を往復する比較的金のある人が下りに利用していたのはゆうづる1号・3号のグリーン車でした。20時ごろ上野を出て0時30分ごろ仙台着。揺れて狭い客車急行よりも人気でした。これもJ〇Bが上級用に抑えていましたが。
東北新幹線のおかげで、便利にはなったが、「あけぼの」はなくなるし、東北本線が直接新青森に行くので「浅虫温泉」などが廃れてしまった。いまは「青い森鉄道」を使わないといけない。「はくつる」で無いと九戸駅にはいかない。
ずん子さんとの掛け合いがないのは珍しいですね。
仮に上野方で21:30着・21:40発留置線行が走っていたら、それはそれで面白そうでした。東北新幹線建設工事のために上野東京間の線路が剥がされていなかったら、品川客車区まで動かして尾久客車区〜上野までの推進運転を解消できたかも。
やはり新幹線は旅行のスタイルを変えました。狭くて揺れる夜行列車より、前乗りしてホテルに泊まった方が身体が休まります。シャワーすらない夜行列車は敵わなかったでしょう(当初は未開業だった青森や秋田への利用者に夜行列車は支持されて残りましたが)。
甲子園の話やったかな?
何処かの駅で乗客乗せて、
ほんのお隣の車両区で一泊
翌朝、乗車した駅に戻る!
的なのは聞いた事あるなw
今回も物凄い知識力で、
お疲れ様でした!(^o^)/
1991年から93年までJR西日本が583系を使用して新大阪~甲子園口まで運行した、ナインドリーム甲子園号でしょうか?
夜10時過ぎくらいに新大阪を出発して、数分で大阪駅に着いた後、日付の変わる前まで客扱いして、そのまま0時にドアを施錠、朝6時過ぎまで停車、その後出発して7時前位に甲子園口駅に到着だったかな?
到着後もしばらくは車内で休憩出来たそうで、列車ホテルのようなものだったようですね。
全線走破の一般列車は「はつかり」だけ?連絡線が生きてた頃、1本だけ東京発着だった
ウェストエクスプレスがやたらと抜かれまくるダイヤなのも似たような理由ですね・・・
今は同じ様に流行らそうとすると寝台だけじゃなくて観光も込みでないと新幹線や飛行機にシフトしちゃうんですよね( ̄▽ ̄;)
だからトワイライトエクスプレス銀河とかも観光込みになってるんですよね
ほんと......
急いては事を仕損じる。
とはいいますが、これほど急いで月日が巡って......
今の人口減少ですか?という。
人口減少に拍車を掛けるための高速化。とも見えてしまいます。
関東のほうがなんでもあるから。ゆっくりいくことがボトルネックになり、
人口流出を押し止められていた。と言っても過言じゃない気もしますし......
急ぐ代わりに時間的余裕の建て方を忘れた。
とも見えますし......
今なら上野駅地平ホーム余裕だから早い時間からホームで待機できる
しらいし…×
しろいし…Ο
確か下りもアレはまだ北星時代だったか?仙台止まりの編成を切り離して朝7時ごろまで留置するなんて芸当をしていたとか。
またJR西日本では[北陸]の金沢到着後東金沢駅に回送、しばらく停めてゆっくり降りられるチェックアウトサービスってのを一時期やっていたが告知が弱くてあまり知られないまま終わった由。
東海道方面でも早朝に東京に着く列車、[瀬戸][出雲2号・紀伊][銀河]など、一旦品川駅に引き上げさせてチェックアウトサービスとかやってみれば面白かったのにね(^^);
ナインドリーム甲子園号のようにはいかなかった
7:49 深夜帯に蒸機牽引で青森へ向かって走っていたのか。特に仙台 〜 一ノ関 〜 盛岡の表定速度は70km/hを超えていたので、道中ほぼフルスロットルで疾走していたのが分かります。趣味的に昭和40(1965)年から昭和43(1968)年10月の白紙改正前までが一番楽しかったと聞いた事がありますね。
確かその期間の平機関区ゆうづる牽引指名のC62を(状態抜群選抜状態で)かき集めて牽引機専用の石炭を仙台と平に集積させてまでやってなお余裕時間ゼロで特に北行は船の時間もあるから仙台以北で回復運転が常用されるという地獄ぶり…
1:49 カ シ オ ペ ア
まあこいつまだ一応団体専用で走ってるし東北新幹線より北海道新幹線の影響だろうけど
昨今のJRを見ていると1日限定でカシオペアの客車を使って復活するかも?しかし運転時間は遅い特急になるとは思います。
ヨンナナサンダイヤ改正までは、急行ばんだい上り6号が会津若松駅でやはり2時間ほど前から入線していました。しかしヨンナナトウダイヤ改正までの急行天の川がなぜ新潟駅でこういった処置をしなかったのか?新潟駅も仙台駅もほぼ同じ規模だと思いますが?