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迷いがある時は、六曜に頼っていました。😥今からでも、あまり囚われない生き方にしようと思います。本来の六曜と違って伝わっているなんて、知りませんでした。😰ありがとうございます。😀
とし爺様ご視聴、コメントありがとうございます。六曜が本来の意味と意味が変わっていることには、ビックリされたことと思います。どうでしょうか?(苦笑)この事からも、案外いい加減な占いだと思いませんか?ただ…私たちは人間です。私も含めてそんなに強くもありません。強く弱く迷い恐れ悩む私だからこそ、六曜や占いに「振り回されない」…浄土真宗の教えを「宗(中心)」にしております。合掌高科修
今回も為になる動画 ありがとうございました。私も「六曜」すごく気にしてました。今回のお話をお聞きして 間違いに気づき これは 子供達にも伝えておきゃなきゃ!と思いました。正しいと思っていた事でも 全く違う意味の事もあるんですね。改めて 勉強になりました。最後の 「質問と答え」最近は 良いお話をお聞きした後の 高科ご住職様の 素のお姿を拝見させて頂くのも とても楽しみになりました😊いいですね〜😊高科ご住職様の自然な お姿も🤭まだまだ寒い日が続きますが お体に気をつけて下さいね。
さくら様私たちは人間です。喜怒哀楽を持ち、人を愛することも人を守ることも人を憎むことも人を殺めることもその出会う状況・精神・状態によっておこなってしまう…悲しくて、でも素晴らしい「生き物人間」です。良し悪しや吉凶を願う(占う)ことは「ある」のです。だからこそ、占うことの無意味さ、滑稽さに気づきながら生きて(生活)をしていかねばならないと、自分自身に言い聞かせて生きていくことが大切なことなのだと思うのです。そうでなければ、人は自分自身で自分自身を迷い苦しみの中に落とし込んでしまうから…私もさくら様も、共に気をつけて生活していきましょうね(笑)追伸法話でお話をしている私も私です。法話でお話をしている話は、まぎれもなく私自身が心底そう了解しているお話です。ですので、ついついキツく真剣な眼差しになってしまいます。でも、法話をしていない私は「おまけ」のようにユルい私です(笑)仲間がいないと、何も出来ない60歳の爺です(笑)ですので…さくら様が、楽しみにして頂いておられることは、本当にありがたいことです。感謝致します。ありがとうございます。合掌高科修
今年の6月に浄土真宗大谷派の檀家であった実家の母がなくなり葬儀社の込み具合で式の日取りがどうしても友引になってしました。私達家族は友引を関係ないとわかっていましたが、ご近所の方々にはそれを説明してもわかってはもらえなかったのが悔しかったです。亡くなった母を穏やかに送ってあげたかったのに近所の人の友引に関しての心無い言葉や、母の葬儀の後に近所に不幸があればうちのせいにされるような噂に私の気持ちが波だち息が詰まる日々がしばらく続きました。こんな気持ちも日常が続く中で思い出にかわっていくのですね。
冬晴様心無い言葉の数々…冬晴様のその心中たるや察するに余りあります。悲しく苦しく思いがけな身体中を駆けめぐられておいでであったと…しかしながら…大切なお母様は、やはり『大きな深い願い』になられておいでであると私は実感しております。それは冬晴様に、六曜・友引のある意味デタラメな盲信が、人の死を厳粛に受けとめ礼節を持って通夜葬式を勤めるということを、また大切で愛する方を亡くされたご遺族の方々の心情を、なんと苦しめるのか…その六曜・友引等々の人としての心無い振る舞いを知らせて(気づかせて)くれたのですから。お母様の『冬晴よ。お前も気をつけなさい。六曜などに惑わされていけない。通夜葬式をお参りする本当の意味、亡くなった方を敬うということを分かってね』という『願い』の声。友引の辛い思いは、この声に気づいたとき、辛い思いは、お母様の仏の声へと変わっていきます。浄土真宗の、あらゆる事が自身の生きていく学びになる。その学びは、亡くなられた方から教えていただいているのだ。という意味はここにあります。どうか、お母様の仏の声をお聞きして頂きたく、切に願っております。合掌高科修
高科様いつも大切なお話、ありがとうございます。我々がいつも問題にすることですね。友引に葬儀して亡くなった方は聞いたことがありませんが、風習と恐怖という縄に縛られてしまいます。かつて神教の教義が道徳教育に利用されてからかも知れませんが、火葬場から戻り、還骨法要会場の入口に清め塩が無いと騒ぐ者がいます。昨日まで愛おしかったが人が死んだ途端に穢れとなってしまうのは悲しすぎます。私達の生きる宗(むね)がしっかり定まらないから、いろんな恐れや風習が気になって怯えてしまいのでしょうか。100年後には六曜の事など、気にする人が居なくなることを期待します。南無阿弥陀仏
しろくま様「私達の生きる宗(むね)がしっかり定まらないから、いろんな恐れや風習が気になって怯えてしまいのでしょうか」そうではありません。「宗」の問題ではありません。私たち「人間」が迷う存在だということです。宗があるから迷わない、恐れないのではなく、迷い恐れる「私たち」だから「宗」が必要なのです。六曜など占い等を「頼る」のではなく、六曜など占い等に「迷い・惑わされている私」に気づく事が大切なのだと私は思っています。「宗」は迷い・惑わされ・怯える私を気づかせてくれる大切なものです。合掌高科修
とても身に染みるお話でした。当方、真宗本願寺派に属する身でございますが「六曜は迷信」と西本願寺出版の書籍で学んでおりました。後に拝見いたしました東本願寺出版の書籍においても、六曜に際しては否定的だったのも見ております。なので、真宗大谷派の現職僧侶の高科様がどのような形で、真宗が六曜を迷信と断じているのかを説明してくださるのか、本当に楽しみでこちらの動画を拝見させていただいておりました。ただ、六曜が過去はまったく違うものだったというのは初見でして、とってもビックリしました。勉強になります😌葬式ではないのですが、昔、当方の両親が結婚式を挙げた日が仏滅で、親戚から物議を醸したという話を思い出しておりました。真宗の家庭であるのに、です。しかしそれに対して父は「普段から占いや神仏を信じて生活しているわけでもないのに、こういうときだけそういうのに従うのはおかしい」と切り捨てて断行したと聞いており、父のそういう面を今は誇りに思っております。そもそも「良い」も「悪い」も心の持ち様によって変わります。それを占いに惑わされて決めてしまうなど、とても寂しいことではないかと感じました。
八茸様ご視聴、コメントありがとうございます。『「普段から占いや神仏を信じて生活しているわけでもないのに、こういうときだけそういうのに従うのはおかしい」と切り捨てて断行した』とのお父様のお話し。なんて素敵なお父様でしょう。そして…そのことを『誇り』に思う八茸様も、なんて素敵な方でしょう。私は、八茸様と八茸様のお父様を『誇り』に思います。『そもそも「良い」も「悪い」も心の持ち様によって変わります』との八茸様のお言葉。法話『南無阿彌陀仏』気がつけば世の中すべてが南無阿彌陀仏ruclips.net/video/YFghJVD0v-w/видео.htmlを是非ご視聴下さいませ。『そもそも「良い」も「悪い」も……』の面白いお話しをしております。合掌高科修
本日も 為になるお話 勉強になりました 元々 中国から 来たものとは 承知しておりましたが 明日は 亡き母の1️⃣0️⃣0️⃣日法要と 納骨です ありがとうございました 🙏
みっちゃん様ご視聴、コメントありがとうございます。100日法要(百ヶ日法要)を迎えられる月日を積み重ねられたのですね…そして納骨の日を迎えられたのですね…みっちゃん様におかれましては、この100日の時の積み重ね中、さまざまな思いが胸の中を駆けめぐった100日であられた事とご推察致しております。納骨…大切なお母様のお骨が、納骨をもちまして、自分の身近な所より居なくなってしまいます。多くの方が、寂しくなったと語るのを今まで聞いてまいりました。その時に、いつもこうお話をさせて頂いております。寂しくなった。確かに、本当ですね。目の前からお骨(お母様)が消えるのですから。でも、本当にお母様は消えてしまうのでしょうか。お母様(仏様・願い)との真のお付き合い、この納骨を期に、始まるのではないでしょうか。イエ…始まるのです。お母様(願い)は、いつどこに貴方がおられても、貴方が思えば、イエイエ思わなくても、願いの中で貴方は生きているのです。どうかそのことは、忘れずに生活をして欲しいと願っています。そう言葉をお掛けしております。みっちゃん様。みっちゃん様も、どうかお母様の願いの中で生きていることを感じながら生活されますことを切に願っております。明日の百ヶ日法要ならびに納骨が、無事に執り行われることを願っております。合掌高科修
何時もながら 有難いお言葉 頂き感謝です 毎日 生かされてる事に 感謝して 日々精進して 参ります 南無阿弥陀仏🙏
六曜にも悩まされましたが葬式の花輪や祭壇のしきび灯籠のお供えの順番で色々と悩みました💦
jcm 800様ご視聴、コメントありがとうございます。やはり六曜に悩まされましたか…ご苦労なさったことと御推察致します。お疲れ様で御座いました。『葬式の花輪や祭壇のしきび灯籠のお供えの順番で色々と悩みました』とのお話し。これもまた、大変なご苦労であられたこと、用意に御推察致すところです。お疲れ様で御座いました。ただ…『花輪や祭壇のしきび灯籠のお供えの順番』これは必要な『苦労・悩み』かと考えます。なぜなら、この事がなければ、親戚等々の近い遠い、どの方が叔父で、との方が叔母、そして母方父方、甥等々など、あらためて知ることが出来ないからです。大変でお悩みになられたことは十分に分かります。祭壇の中央の遺影、または本尊より左右に内側より外に向かい親等が遠くなっていく(北陸地方では)など、それが分かっていても、さて?誰がどこに、誰をどこに、と分からなくなっていくものです。だからこそ、その行為をやりきることで、親族全てを把握することが出来るからです。このことは、後から誰かに聞いて知ろうとしてもなかなか困難なことです。イエ、たぶん自ら求めて知ろうとはしないのではないでしょうか。このことも含めて、お葬式は遺された者にとって学びの場であると私はお話ししております。jcm 800様におかれましては、大変ご苦労ではありましたが、貴重な学びあられたことと感じております。南無阿彌陀仏。合掌高科修
私たちの大工まさに、これにこだわります、棟上げの日はできれ大安吉日にこだわります、しかしながら、大安吉日でもある上棟式の日は土砂降りでした、せっかくのたのしみの餅まきもできません、あらかじめテントがったのでそこで簡単にむねあげまつりをします、雨が降って桃振り込みで栄えるといい、縁起が良いといいます、ただ契約や、営業的には 話が円満に行きます、ぶつめつのけいやくは、キャンセルやクレームが意外と多くなる傾向があるようです
MAMORU HIMENO様ご視聴、コメントありがとうございます。大工さんが、古来より吉日にこだわるのは、ある意味伝統です。そして施主が吉日にこだわるのも頷けます。だからこその真宗です。大工さんがこだわるように…真宗も『吉兆にこだわらない』ことにこだわるのです。ただし、そのこだわりは、頑なな融通の利かない戒律ではありません。『私がこだわらない』という自分の生き方です。故に他人強要するものではありません。ただ、紹介、提案はいたします。動画浄土真宗は昔から常識がない「門徒物知らず」ruclips.net/video/H4OieEa9keY/видео.htmlを是非ご視聴下さいませ。浄土真宗が昔からどういうものであったかがご理解いただけると存じます。合掌高科修
わが家も 浄土真宗大谷派ですが お墓には 苗字を彫っています お寺さんのすすめ です
野中千恵子様ご視聴、コメントありがとうございます。お墓に何を彫るのかは、その家の『選び』であります。その『選び』に私と致しましては何も申し上げる必要はなく、お知らせ頂いたことに頷くだけでございます。ただ…浄土真宗では、お墓であれ、御仏壇であれ、合葬墓であれ、その手を合わす『先人』に、その『私を願う願いの人』と位置づけ、その願いの中で生きている私を感じる。そのことが、手を合わすということであるというお参りの仕方でございます。ご理解頂ければ幸いです。合掌高科修
肩ガ綺麗ナ林佑香❤❤❤
レアメタル総轄局様ご視聴、コメントありがとうございます。南無阿弥陀仏合掌高科修
いつもいお話楽しく聞かせて頂いています。家も浄土真宗で初めて高科様を知った時から興味を持って見させていただいております。ひとつ、気になるのが腕輪と数珠のどくろです、パワーストンではなく、アクセサリーですよね?
Tenji Kishi様ご視聴、コメントありがとうございます。やっと私の腕輪(腕輪念珠)とお数珠(お念珠)についてのコメントがはいりました。ありがとうございます。誰か、腕輪念珠とお念珠について聞いてくれないかと密かに期待して待っておりました(笑)腕輪は腕輪念珠と申します。真宗大谷派(東本願寺)の装束作法に乗っ取った正式な持ち物ではありませんが、本山からも、○△□の形を順に繋ぎ合わせた腕輪念珠が御門徒に配られております。○△□の形を丸く繋ぐことで、「バラバラでいっしょ」…差異をみとめる世界の発見という真宗大谷派のスローガンを表しているものです。私の腕輪念珠も、あえてバラバラな石を繋ぎ合わせて「バラバラでいっしょ」を表しています。老若男女・職業・生い立ち等々、みんなバラバラで違うけど、そのバラバラな人間がお互いに影響しあってこの娑婆世界が成り立っている!でも今は、「バラバラでバラバラになってるね」というお話が出来るきっかけとなってくれております。ドクロ(シャレコウベ・お舎利・骨)のお念珠については、浄土真宗の僧侶なら、一度はお念珠として求めたいと思う数珠であります。何故なら…Tenji Kishi様のように、ドクロのお念珠に興味をもって話しかけてこられ方に…みんな、誰一人漏れなく、このドクロ(骨)にならなくてはならないんだよ。さらに、どんなに美男子・美女でも、一皮剥けばみんなこのドクロなんただよ。生きていることを、考えんなんね。それと、見た目だけで人を判断してもみんな中身はドクロだから。外見より内面を見る力を持たんなんね。というお話をするきっかけになっていってくれます。そういう目的もあり、動画で映っております腕輪念珠とお念珠を身につけておる次第でございます。Tenji Kishi様。やっとこのお話が返信で書けました。Tenji Kishi様。感謝致します。ありがとうございます。合掌高科修
高科様ありがとうございます、お守りを信じない浄土真宗のお坊さんがつけているには意味があると思いました。お返事ありがとうございます、納得できました。感謝、合掌 ‼
今日の法話、気楽に聞けてました。内容の薄いコメントになりますが、残しますね(笑)怒ってるおじさんの対処、お疲れ様でした...おまけ、楽しかったです。さすがに、友引の件は知ってたので、父親の葬儀は、全く気にせず、友引でした。占い? わたくし、科学者の端くれ。非科学的な事は、120%、無関心です。金沢、そんなに真宗王国だったのですね!六曜、そんな歴史だったのですね!平成生まれの若者は、気にしてませんね。徐々に変わってきてると思います。【編集担当様】エコーの効いた南無&阿弥陀仏、Good job! 鈴木@新潟 50歳P.S.国政の投票日は、与党ができるだけ大安を選ぶんですってね。
202 BEAM様政(まつりごと)・政治は、遥か卑弥呼の時代から卜占祭祀を拠りどころとしてきました。江戸時代まで…明治になるまで…浄土真宗以外の貴族仏教のある宗派にとって祈祷・卜占は公務でした。祈祷・卜占を執り行う僧侶はある意味公務員でした。なぜなら、国(政府)が加持祈祷を信じていたのですから。故に、この六曜等の吉凶を占ったり、明日を占う行為には根深いものがあります。それこそ卑弥呼の時代からですから…「平成生まれの若者は気にしてませんね」「徐々に変わってきてると思います」確かに表向きはそうです。表向きは…その実は…その平成生まれの若者は、知らないから気にならないのです。気にしていないのではありません。気にしないというのは、キチンとその物事の成り立ち・意味・内容を理解し、さらに自分の中で十分に吟味し、その上で「その事」に囚われないことを「気にしない・気にならない」と表現するのです。それは、今の日本は豊かである。今の日本は平和である。と胸を張って言い切る人たちとかわりません。子供食堂、学校へ行けない子供たち、育児放棄する親、医療問題、介護問題忖度する官僚嘘をつく政治家企業の内部留保問題若者・働き盛りの年代の自殺問題等々これらを知らないから、知ろうとしないから、豊か、平和と言えるのです。この動画も、先の動画…「今を生きる」「同じ法話をなぜ…」「知らないということ…」の最低限3本と繋がっている内容です。「今回の法話、気楽に聞けました」202BEEM様。油断いたしましたね(微笑)合掌高科修
返信、ありがとうございます。>故に、この六曜等の吉凶を占ったり、>明日を占う行為には根深いものがあります。なるほどぉ... 日本人に、脈々と受け継がれた、悪しき(?)慣習・風習でもあるわけですね。私が、占いの類いを、全く気にならないのは、自分が科学者であることもありますが... 「八卦に依らず」20年前、お世話になった住職に教わった1つです。今の自分を形作ってるのだと、改めて感じました。わたしの周りでは、ここ20年くらい、血液型占いが話題になった記憶は無いですね。学生・教員、理系男子ばかりだからですかね?六曜は、とある教え子が、「結婚式を仏滅にして、費用を抑えたっすよ!」と自慢げに言ってたくらいかな。徐々にですが、オワコン化してるとは思います。ですが...気にしない vs 知らない、その通りです!!それこそ、それまで、六曜を知らなかった人が、いざ親の葬儀になって「友を引く」と言う語呂合わせに、結びつけて兼ねないですね。>この動画も、先の動画…>「今を生きる」>「同じ法話をなぜ…」>「知らないということ…」の最低限3本と>繋がっている内容ご住職の返信内容を踏まえた上で、改めて法話を聞き直すと、納得です。いや、油断じゃないですなぁ。「南無:気づけ」の、気づく能力が、全然まだまだ、だと言う証ですね。精進していきたいと思います。知らなかった「恩徳讃」、調べました。まさに、師主知識の恩徳、ですね。感謝もうしあげます。P.S.急な呼び出しに、車での出動を余儀なくされる、そんな僧侶の方々は、お医者さんと同じで、自宅で、お酒を楽しむのもナンギそうですね...研究機器のトラブルで、呼び出しがある私は、下戸なので、問題なしです(^_^;
202BEEM様「南無:気づけの、気づく能力が、全然まだまだ、だという証しです」という、その202BEEM様ご自身の「気づき!」こそ…それこそが「南無阿彌陀仏:南無気づけ=阿弥陀仏気づきました」そのものです!そして、その「気づき」は、間違いなく202BEEM様を「大きな人」に導いてくれます。返信の主旨を深く汲み取って頂けたこと…たいへん嬉しく感じております。ありがとうございます。合掌高科修追伸お酒が大好きなお坊さんは…たぶん晩酌はしております。枕経が出れば、奥様またはタクシーが活躍します。お酒が入った状態で枕経に行くことは、私は自分が好まないので、自宅では一滴もお酒は飲みません。202BEEM様。お酒は嗜まれないとのこと。大丈夫です。お酒を飲まなくても、金沢には美味しい物がたくさんあります。金沢においでの際は、美味しい食事とじっくりと会話を楽しみましょう。
今朝は、立春の朝。至る所に... 昨夜、撒きすぎました(^_^;ジョギングしながら考えてました。嬉しい お言葉を、ありがとうございます。なるほど、コレがソレなんですね。少し、理解度が上がってきた気がします。整理して文字化し、自分の言葉で、文章として残させて下さい。私が気づいた内容は、小さなことでしょうし、ご住職が意図したモノとは異なるかも、です。だけど、大切なのは、その中身より、そのプロセスなんでしょうね。私の「願い」は、まさに先の(A,B)ですが、願いと言うのは、人によって様々なんでしょう。でも「生ききる」と言う姿勢は、人それぞれのいろんな「願い」に適合していくのですね。(適合;なんか良い言葉が見あたりませんでした)各法話では、多くを学ばせて頂き、感動・納得します。ただ、それを一生忘れずに実践していくのは、簡単ではありません。(故に、何度も聞く必要があるのでしょう)ですが「南無:気づけ、阿弥陀仏:気づきました」は、他人に言われた、与えられた、教えて頂いた、ではなく、自分自身が、導き出した回答なので、その重要性や、実践の難度も想像できます。自分の言葉・思考なので、説得力は甚大・強烈です。なおかつ、自分自身が足りてない点を、映し出す、時には炙り出すので、自分への最適解でもあるはず。その積み重ねは、確実に、そして無限に人を大きくしますね。逆に、謙虚さを失って、傲慢さが出てこようものなら、その解は、絶対に見えて来るはずが無い。謙遜できる人って、大きいと思ってました。ちょっと違うんですね。大きい人って言うのは、意図的に、故意に、頑張って、無理をしてでも、謙遜してるんじゃなくって、傲慢さが抜けて、謙虚に成れてるだけなんですね。少しずつ、大きくなっていきたいと思います。 鈴木@長岡 50歳P.S. 来年度、是非に!!
おじさんを説得して何とか妥協させても、その後、親類縁者に悪い事が起きると、「だから俺の言ったとおりじゃないか!」って、鬼の首を取ったように勝ち誇るんでしょうね。
加藤真理様良いのです(笑)この叔父さんが勝ち誇っても。この叔父さんが勝ち誇るということは、このお話が、この叔父さんには、心底府に落ちなかった。ということです。ならば、私の力不足と反省し、私が更なる精進に励めばよいだけのことです。しかしながら、この叔父さんにお話をしに出向きお話をしたことは、決して無駄なことではありません。お話は、何もこの叔父さんだけが聞いていたわけではないからです。このお宅に、その時その場においでるすべての人がこの「六曜のお話」を聞いているのです。「聞いてくれている人がいる」「法話を話せる場がある」この事が最大に重要なことなのです。「全力で人生を生き切る」そう生きていこうと生きていく。そう生きていって欲しいと願い法話をする。…このお坊さんの小話の中の動画の内容はすべてそのための内容です…そのために全力で言葉を尽くしてお話をする。し続ける!それが私の浄土真宗の僧侶としての法務なのですから。加藤真理様。その叔父さんが、私のお話を心底府に落ちなくて、あとで「ほう~らぁ~…」と言われ、私が「ガックシくる」のではないかと心配して頂いて、ありがとうございます。加藤真理様は、優しい方ですね。ありがとうございます。合掌高科修
いつも拝聴させて頂き、学ばせて頂いております。ありがとうございます。家も大谷派の門徒ですが、お寺さんは友引の日はお休みです。地方により異なるのでしょうか?
ちゃんペコ様ご視聴、コメントありがとうございます。私たち浄土真宗の僧侶は浄土真宗の教えを宗とし、教えを軸として生きると名のりを上げた者であります。故に、24時間365日浄土真宗の僧侶です。お寺も24時間365日浄土真宗のお寺です。しかしながら、人間は24時間365日ずっと働き続けることはできません。ですので、睡眠をとり体を休め、時には気分転換もします。そうでなければ、24時間365日浄土真宗の僧侶を続ける事はできません。深夜の枕経の電話。毎日の月参り、お通夜、お葬式、49日や1周忌などの法要・法事を生きている限りやり続ける。生ききる決意と覚悟をしているのが我々僧侶でございます。ちゃんペコ様のお手次のお寺様が「友引の日はお休み」とのことですが、何をもってお休みと仰っておいでなのかが、私には、はかりかねます。ですので、「地方により異なるのでしょうか?」とお尋ねになられましても、なんともお答えを致すことが出来ません。申し訳ございません。さて、ちゃんペコ様。なぜ、ちゃんペコ様は、お寺のお休みの事を気にして私にコメントしてきたのでしょうか…ちゃんペコ様の思うお休みとはどういう事でしょうか?私は、そのことの方が気にかかります。南無阿弥陀仏合掌高科修
占い(六曜、星占い、手相、おみくじ等など)を信じるっていうことは、自分を信じれず他人に振り回されて惑わされる人じゃないかな?と思いました。そういう私自身も、念仏に出遇うまでは、それなりに振り回された1人でした。今は、おみくじも買いませんし、期限限定で無料で運勢みます!と誘惑されても全く気にならなくなりましたね〜(*´-`) けれど、信じる人はそこに(占い)心の拠り所を求めているのでしょうか💦今日もおまけも含めてありがとうございました。南無阿弥陀仏🙏
Kawaguchi様人には「拠り所」は必要です。その拠り所は…家族であったり、友人であったり、師であったり、誰かの言葉であったり、それこそ人それぞれです。だからこそ、その拠り所は「人を迷わすもの」ではイケないのです。自分自身を迷わさない「拠り所」でなければならないのです。私たちは人間です。神様や仏様ではありません。喜怒哀楽も持ち、愛したり憎んだりして生きている人間です。だから、良し悪しや吉凶を占うことは「ある」のです。だからこそ、占うことの無意味さ、滑稽さに気づきながら生きて(生活)をしていかねばならないと、自分自身に言い聞かせて生きていくことが大切なことなのだと思うのです。合掌高科修
親が生きている間に今の話聞いてきたけど人間弱いもので何かに頼らんと自分に自信が無いにで解っていても頼って仕舞うのだと
川田冬生様ご視聴、コメントありがとうございます。弱いから…迷うから…自信がないから…頼らないのです。頼るから…弱くなり迷い自信がなくなるのです。例えば『占い』すぐに占いを気にしてしまう。ならば…占いなど見なければ良い!ただのそれだけのことです。南無阿弥陀仏合掌高科修
高科和尚様、おはようございます。浄土真宗での迷信を否定する(友引でも通夜葬儀をする)お教え。浄土真宗のお家なら当然のら、ことどうするして、他宗の考え方を分けて考える必要があるのでしょうね。
北畑宏道様蓮如上人の書かれた『お文』の中で『他宗の人、他の宗派を信仰している人、また真宗でない人たちの行動を誹謗中傷してはイケない。真宗門徒はあくまで自分自身の「生き方」を見つめ問うていく宗派なのだから』と、私たちに説かれております。今回のこの動画は、この法話を聞いて…自分自身が『心底府に落ちるかどうか…』府に落ちたなら…自分はどう生きていくか…その問いかけの動画で御座います。真宗の考え方で、北畑宏道様は…北畑宏道様が…府に落ちたのかどうか?他宗の考え方で、北畑宏道様は…北畑宏道様が…府に落ちたかどうか?北畑宏道様。貴方は…どう思われますか…どう考えて生きていきますか…という問いかけの動画です。合掌高科修
歎異抄5章に「親鸞は父母の孝養のためとて念仏、いっぺんにても申したる事いまだそうらわず」とありますが、そもそも、何故お葬式をする必要が有るのでしょうか?
三条あゆむ様ご視聴、コメントありがとうございます。まず…「親鸞は父母の孝養のためとて、一辺にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」についてお話をさせて頂きます。「孝養」とは現代の言葉で表しますと「供養」と言う言葉になります。そしてその供養と言う言葉の持つ意味。「亡くなった人を成仏させる」「亡くなった人が迷わないように、または妖怪や化け物にならないように」とお経や供物を上げるというのが供養という言葉の意味です。この供養のために念仏を申しているのではない。というのが 親鸞聖人のこのお言葉の真意であります。詳しくは動画「供養する心とは?」ruclips.net/video/bF5NVt4d0KA/видео.html「南無阿彌陀仏」ruclips.net/video/YFghJVD0v-w/видео.htmlを是非ご覧ください。三条あゆむ様の疑問にお答え出来ると思います。それを踏まえた上で…お葬式はなぜする必要があるのでしょうか?についてですが…ご覧くださいとお知らせ致しました動画をご視聴いただけたなら、もうすでに、その疑問は解消しているかもしれませんが…一般的に皆様が仰っている「お葬式」そのお葬式が必要かどうかの議論。そのお葬式に対する必要か否かは、すべてお葬式という「式」の執り行うやり方について、方法、手順、費用、労力、時間等々…「式そのもの」に一切関係のないところでの必要か否かの議論です。三条あゆむ様にお聞き致します。三条あゆむ様の愛する人、大切な人、かけがえのない人が、もし亡くなられたら…死んでしまったら…その人をほったらかしに出来でしょうか?すぐに火葬に…すぐにお骨に…すぐに別れれるでしょうか…やはり別れの時間は必要です。やはり覚悟、受け入れる時間は必要です。たとえ受け入れることが困難でも、その困難なことが自覚できる時間がひつようです。故に、亡くなった方としばらく過ごす時間が必要なのです。その時間のことを「式」と呼び、亡くなった人を送る式のことを通夜式葬式と呼ぶのです。亡くなった方が生まれ育った自宅に、亡くなった方を安置し、亡くなった方が生きておられた時に、その方が繋がっておられた方々が、「ありがとうございました、お世話になりました、そして亡くなられたこれからも、またお世話になります」と亡くなられた方に敬意と尊敬と感謝の念で合掌する(手を合わす)それが式、通夜式葬式です。そして、生老病死の、どうすることも出来ない私たちの人生を、あらためて頷いていく。そのお話をするために僧侶がいるということにすぎません。ここまでお話をいたしますと、どうでしょうか?葬式する必要があるか?ないか?そんな議論など、それこそ必要ないのです。残った者が、残った者の思いで、また関わった人が関わった人の思いで、送るのが式ですので、それがあるならば、棺があり、お灯明、香炉、お花があればそれで良いのです。式とは亡くなった方と生きている私との関わり合いの気持ちなのですから。式はいる!それが私のお答えになります。でも、本当に、真に、自分の大切な人が、愛する人が亡くなったなら…三条あゆむ様自身が自ら、すぐに、答えが自らの内に芽生えると思います。間違いなく!どうぞ、それまでは、このお坊さんの小話の動画をご視聴ください。どの動画も、今回のコメントのお答えをお話している動画です。表面上は違うお話でも、根っ子の部分では、すべて一緒なのですから。合掌高科修
はじめまして高科様、なまんだぶ🙏時々動画拝見しておりますが、初めてコメントします。六曜については迷信だと既に有名になってるのに、未だに仰る方が居られます。みんながどうでもいいと思ってるけど、それを言い出すことが難しいのは日本人独特の同調圧力なのかな〜と思ってます。加えて、不安を煽って商売にしている人が減らないからかな?
てんてん様ご視聴、コメントありがとうございます。「悪貨は良貨を駆逐する(あっかはりょうかをくちくする)」という諺があります。これは…良い習慣を身につけるには数ヶ月の努力が必要だが、悪い習慣は一瞬にして良い習慣を壊してはびこってしまう。または…悪いものほど世の中に流通し、良いものを失くなってしまう。という意味の諺です。ある意味これがすべてです。六曜にとどまらず、今では全国に広がっている「恵方巻き」もともとは関西地域の習慣です。全国的に広まらなくても良いものです。その地域の習慣なのですから。「土用の丑の日」これもそうです。鰻の旬は初秋から冬です。真夏は鰻の旬ではありません。平賀源内が旬でなく鰻が売れない夏に、なんとか鰻を売りたいという業者に頼まれて「土用の丑の日に鰻を!」とのキャッチコピーを考えたと言われています。バレンタインデー・ホワイトデー・クリスマス・ハロウィーン等々も、本来の意味を無視してのイベントとして広がっています。世の中には、このような例をあげればきりがありません。「悪貨は良貨を駆逐する」というある意味人間の愚かで悲しい本質。「何よりもまず経済を最優先する(時には人の命よりも…)今の日本人」この2つのことが今日の日本には根深くはびこっているように私は感じてなりません。てんてん様の仰る同調圧力も…不安を煽って商売にするも…この2つのはびこる社会では、むしろ当然のごとく行われて行くことでしょう。だからこそ。自分自身の中に、揺るぎ無い「軸」が「宗(中心)」が必要なのです。自分が自分で在り続けるために。これは私自身がいつも思っていることです。合掌高科修
私は、お西の門徒です。初めて、コメントさせて頂きます。この度の六曜占い説は参考に成りました。また、曜日説って言うのも伺った事が有ります。なので、諸説は様々有り気にする必要は無いと私も思います。ただ、親戚縁者間で、わざわざ軋轢を生みながら仏事を行う事が良い事とは思えません。師も言われてます様に他地方では気にする地域も多い。私、個人的な思いですが、もう少し柔軟な発想も必要なのではと思いますが?
齋藤敏満様ご視聴、コメントありがとうございます。軋轢を生まないためのこの動画です。柔軟な発想も必要だからこそのこの動画です。この動画の主旨は、家族親族の間の軋轢、凝り固まり柔軟な考え方が出来なくなった方々に、気にするところはソコではないですよ!大事なところはソコではないですよ!とお話しをしておる動画で御座います。ご理解頂ければ幸いです。合掌高科修
アルツハイマにんちしような、んですけど、ちじんがひどいん、ですけど、とうしたらいいんですか?
tiara Kansai様ご視聴、コメントありがとうございます。tiara Kansai様のそのお友達の方。その方には、お医者様の正しく的確な医師としての診断・治療が必要です。tiara Kansai様が、そのお友達に出来ることは、その方をお医者様にお連れすること、または親身に患者に寄り添う医師を紹介してあげることだと思います。すでにお医者様にかかっておられるのであれば、tiara Kansai様は、tiara Kansai様が無理をなさらない範囲で、そのお友達に寄り添うことしか出来ないのではないでしょうか。認知症というご病気のそのお友達を「そのままに受け入れて」お付き合いすることが一番だと思います。合掌高科修
六曜のせいで義母と夫がけんかしたばかりです。
りっちりっち様ご視聴、コメントありがとうございます。人間は…通説にそぐわない新事実を拒絶する傾向があります。そぐわない事実…そぐわなくても…その事を、先ず考え理解し、その上で、自分自身が頷けるか?どうか?この作業をしない限り、争うことになります。まず、お互い、相手の話をとことん聞く!それが一番のケンカをしない方法です。南無阿弥陀仏合掌高科修
そうなんですか。占い🔮六曜なのに何故?仏教と結び付けたのでしょうね
松下佐知子様ご視聴、コメントありがとうございます。仏教と結び付く前に…人の生活と結び付いてしまいました。日常生活と。朝起きる。食事をする。寝る。何か行動を起こす。行事を計画する。等々の日々の生活することの判断基準と結び付いてしまったのです。当然といえば当然です。だって占いなんだから。「占った!」ということです。仏教行事・宗教的行事(法事や通夜、お葬式)さえ占ったということです。合掌高科修
@@buddhism_japan 今晩は、為になる説法ありがとう御座いました。🙏😊
私は六曜意味がないと思っています。
pole les様ご視聴、コメントありがとうございます。「意味」ある物(物体やシステムなど)が存在する必要性または理由のこと。と辞書にあります。「六曜」も、六曜が考え出された時代には意味のあるものでした。また当時の政治をする人たちにも意味あるものでした。大切なのは意味があるか無いかではなく、その意味するものが、自分自身の人生を生きるのに、「軸」と成るかなら無いかだと。浄土真宗を「軸」としたなら、「六曜」は軸にならない。そういう動画で御座います。合掌高科修
なに
ジンナマ様南無阿弥陀仏合掌高科修
迷いがある時は、六曜に頼っていました。😥
今からでも、あまり囚われない生き方にしようと思います。
本来の六曜と違って伝わっているなんて、知りませんでした。😰
ありがとうございます。😀
とし爺様
ご視聴、コメントありがとうございます。
六曜が本来の意味と意味が変わっていることには、ビックリされたことと思います。
どうでしょうか?(苦笑)
この事からも、案外いい加減な占いだと思いませんか?
ただ…
私たちは人間です。
私も含めてそんなに強くもありません。
強く弱く迷い恐れ悩む私だからこそ、六曜や占いに「振り回されない」…浄土真宗の教えを「宗(中心)」にしております。
合掌
高科修
今回も為になる動画 ありがとうございました。
私も「六曜」すごく気にしてました。今回のお話をお聞きして 間違いに気づき これは 子供達にも伝えておきゃなきゃ!と思いました。
正しいと思っていた事でも 全く違う意味の事もあるんですね。改めて 勉強になりました。
最後の 「質問と答え」
最近は 良いお話をお聞きした後の 高科ご住職様の 素のお姿を拝見させて頂くのも とても楽しみになりました😊
いいですね〜😊高科ご住職様の自然な お姿も🤭
まだまだ寒い日が続きますが お体に気をつけて下さいね。
さくら様
私たちは人間です。
喜怒哀楽を持ち、
人を愛することも
人を守ることも
人を憎むことも
人を殺めることも
その出会う状況・精神・状態によっておこなってしまう…悲しくて、でも素晴らしい「生き物人間」です。
良し悪しや吉凶を願う(占う)ことは「ある」のです。
だからこそ、占うことの無意味さ、滑稽さに気づきながら生きて(生活)をしていかねばならないと、自分自身に言い聞かせて生きていくことが大切なことなのだと思うのです。
そうでなければ、人は自分自身で自分自身を迷い苦しみの中に落とし込んでしまうから…
私もさくら様も、共に気をつけて生活していきましょうね(笑)
追伸
法話でお話をしている私も私です。
法話でお話をしている話は、まぎれもなく私自身が心底そう了解しているお話です。
ですので、ついついキツく真剣な眼差しになってしまいます。
でも、法話をしていない私は「おまけ」のようにユルい私です(笑)
仲間がいないと、何も出来ない60歳の爺です(笑)
ですので…
さくら様が、楽しみにして頂いておられることは、本当にありがたいことです。
感謝致します。
ありがとうございます。
合掌
高科修
今年の6月に浄土真宗大谷派の檀家であった実家の母がなくなり葬儀社の込み具合で式の日取りがどうしても友引になってしました。私達家族は友引を関係ないとわかっていましたが、ご近所の方々にはそれを説明してもわかってはもらえなかったのが悔しかったです。亡くなった母を穏やかに送ってあげたかったのに近所の人の友引に関しての心無い言葉や、母の葬儀の後に近所に不幸があればうちのせいにされるような噂に私の気持ちが波だち息が詰まる日々がしばらく続きました。こんな気持ちも日常が続く中で思い出にかわっていくのですね。
冬晴様
心無い言葉の数々…
冬晴様のその心中たるや察するに余りあります。
悲しく苦しく思いがけな身体中を駆けめぐられておいでであったと…
しかしながら…
大切なお母様は、やはり『大きな深い願い』になられておいでであると私は実感しております。
それは冬晴様に、六曜・友引のある意味デタラメな盲信が、人の死を厳粛に受けとめ礼節を持って通夜葬式を勤めるということを、また大切で愛する方を亡くされたご遺族の方々の心情を、なんと苦しめるのか…その六曜・友引等々の人としての心無い振る舞いを知らせて(気づかせて)くれたのですから。
お母様の
『冬晴よ。お前も気をつけなさい。六曜などに惑わされていけない。通夜葬式をお参りする本当の意味、亡くなった方を敬うということを分かってね』
という『願い』の声。
友引の辛い思いは、この声に気づいたとき、辛い思いは、お母様の仏の声へと変わっていきます。
浄土真宗の、あらゆる事が自身の生きていく学びになる。その学びは、亡くなられた方から教えていただいているのだ。
という意味はここにあります。
どうか、お母様の仏の声をお聞きして頂きたく、切に願っております。
合掌
高科修
高科様
いつも大切なお話、ありがとうございます。
我々がいつも問題にすることですね。
友引に葬儀して亡くなった方は聞いたことがありませんが、
風習と恐怖という縄に縛られてしまいます。
かつて神教の教義が道徳教育に利用されてからかも知れませんが、
火葬場から戻り、還骨法要会場の入口に清め塩が無いと騒ぐ者がいます。
昨日まで愛おしかったが人が死んだ途端に穢れとなってしまうのは悲しすぎます。
私達の生きる宗(むね)がしっかり定まらないから、いろんな恐れや風習が
気になって怯えてしまいのでしょうか。
100年後には六曜の事など、気にする人が居なくなることを期待します。
南無阿弥陀仏
しろくま様
「私達の生きる宗(むね)がしっかり定まらないから、いろんな恐れや風習が気になって怯えてしまいのでしょうか」
そうではありません。
「宗」の問題ではありません。
私たち「人間」が迷う存在だということです。
宗があるから迷わない、恐れないのではなく、
迷い恐れる「私たち」だから「宗」が必要なのです。
六曜など占い等を「頼る」のではなく、
六曜など占い等に「迷い・惑わされている私」に気づく事が大切なのだと私は思っています。
「宗」は迷い・惑わされ・怯える私を気づかせてくれる大切なものです。
合掌
高科修
とても身に染みるお話でした。
当方、真宗本願寺派に属する身でございますが「六曜は迷信」と西本願寺出版の書籍で学んでおりました。後に拝見いたしました東本願寺出版の書籍においても、六曜に際しては否定的だったのも見ております。
なので、真宗大谷派の現職僧侶の高科様がどのような形で、真宗が六曜を迷信と断じているのかを説明してくださるのか、本当に楽しみでこちらの動画を拝見させていただいておりました。
ただ、六曜が過去はまったく違うものだったというのは初見でして、とってもビックリしました。勉強になります😌
葬式ではないのですが、昔、当方の両親が結婚式を挙げた日が仏滅で、親戚から物議を醸したという話を思い出しておりました。真宗の家庭であるのに、です。
しかしそれに対して父は「普段から占いや神仏を信じて生活しているわけでもないのに、こういうときだけそういうのに従うのはおかしい」と切り捨てて断行したと聞いており、父のそういう面を今は誇りに思っております。
そもそも「良い」も「悪い」も心の持ち様によって変わります。それを占いに惑わされて決めてしまうなど、とても寂しいことではないかと感じました。
八茸様
ご視聴、コメントありがとうございます。
『「普段から占いや神仏を信じて生活しているわけでもないのに、こういうときだけそういうのに従うのはおかしい」と切り捨てて断行した』
とのお父様のお話し。
なんて素敵なお父様でしょう。
そして…
そのことを『誇り』に思う八茸様も、なんて素敵な方でしょう。
私は、八茸様と八茸様のお父様を『誇り』に思います。
『そもそも「良い」も「悪い」も心の持ち様によって変わります』
との八茸様のお言葉。
法話『南無阿彌陀仏』
気がつけば世の中すべてが南無阿彌陀仏
ruclips.net/video/YFghJVD0v-w/видео.html
を是非ご視聴下さいませ。
『そもそも「良い」も「悪い」も……』の面白いお話しをしております。
合掌
高科修
本日も 為になる
お話 勉強になりました
元々 中国から 来たものとは 承知しておりましたが
明日は 亡き母の1️⃣0️⃣0️⃣日法要と 納骨です
ありがとうございました 🙏
みっちゃん様
ご視聴、コメントありがとうございます。
100日法要(百ヶ日法要)を迎えられる月日を積み重ねられたのですね…
そして納骨の日を迎えられたのですね…
みっちゃん様におかれましては、この100日の時の積み重ね中、さまざまな思いが胸の中を駆けめぐった100日であられた事とご推察致しております。
納骨…
大切なお母様のお骨が、納骨をもちまして、自分の身近な所より居なくなってしまいます。
多くの方が、寂しくなったと語るのを今まで聞いてまいりました。
その時に、いつもこうお話をさせて頂いております。
寂しくなった。
確かに、本当ですね。
目の前からお骨(お母様)が消えるのですから。
でも、本当にお母様は消えてしまうのでしょうか。
お母様(仏様・願い)との真のお付き合い、この納骨を期に、始まるのではないでしょうか。
イエ…始まるのです。
お母様(願い)は、いつどこに貴方がおられても、貴方が思えば、イエイエ思わなくても、願いの中で貴方は生きているのです。
どうかそのことは、忘れずに生活をして欲しいと願っています。
そう言葉をお掛けしております。
みっちゃん様。
みっちゃん様も、どうかお母様の願いの中で生きていることを感じながら生活されますことを切に願っております。
明日の百ヶ日法要ならびに納骨が、無事に執り行われることを願っております。
合掌
高科修
何時もながら 有難いお言葉 頂き感謝です
毎日 生かされてる事に 感謝して 日々精進して 参ります
南無阿弥陀仏🙏
六曜にも悩まされましたが葬式の花輪や祭壇のしきび灯籠のお供えの順番で色々と悩みました💦
jcm 800様
ご視聴、コメントありがとうございます。
やはり六曜に悩まされましたか…
ご苦労なさったことと御推察致します。
お疲れ様で御座いました。
『葬式の花輪や祭壇のしきび灯籠のお供えの順番で色々と悩みました』
とのお話し。
これもまた、大変なご苦労であられたこと、用意に御推察致すところです。
お疲れ様で御座いました。
ただ…『花輪や祭壇のしきび灯籠のお供えの順番』これは必要な『苦労・悩み』かと考えます。
なぜなら、この事がなければ、親戚等々の近い遠い、どの方が叔父で、との方が叔母、そして母方父方、甥等々など、あらためて知ることが出来ないからです。
大変でお悩みになられたことは十分に分かります。
祭壇の中央の遺影、または本尊より左右に内側より外に向かい親等が遠くなっていく(北陸地方では)など、それが分かっていても、さて?誰がどこに、誰をどこに、と分からなくなっていくものです。
だからこそ、その行為をやりきることで、親族全てを把握することが出来るからです。
このことは、後から誰かに聞いて知ろうとしてもなかなか困難なことです。
イエ、たぶん自ら求めて知ろうとはしないのではないでしょうか。
このことも含めて、お葬式は遺された者にとって学びの場であると私はお話ししております。
jcm 800様におかれましては、大変ご苦労ではありましたが、貴重な学びあられたことと感じております。
南無阿彌陀仏。
合掌
高科修
私たちの大工まさに、これにこだわります、棟上げの日はできれ大安吉日にこだわります、しかしながら、大安吉日でもある上棟式の日は土砂降りでした、せっかくのたのしみの餅まきもできません、あらかじめテントがったのでそこで簡単にむねあげまつりをします、雨が降って桃振り込みで栄えるといい、縁起が良いといいます、ただ契約や、営業的には 話が円満に行きます、ぶつめつのけいやくは、キャンセルやクレームが意外と多くなる傾向があるようです
MAMORU HIMENO様
ご視聴、コメントありがとうございます。
大工さんが、古来より吉日にこだわるのは、ある意味伝統です。
そして施主が吉日にこだわるのも頷けます。
だからこその真宗です。
大工さんがこだわるように…
真宗も『吉兆にこだわらない』ことにこだわるのです。
ただし、そのこだわりは、頑なな融通の利かない戒律ではありません。
『私がこだわらない』という自分の生き方です。
故に他人強要するものではありません。
ただ、紹介、提案はいたします。
動画
浄土真宗は昔から常識がない「門徒物知らず」
ruclips.net/video/H4OieEa9keY/видео.html
を是非ご視聴下さいませ。
浄土真宗が昔からどういうものであったかがご理解いただけると存じます。
合掌
高科修
わが家も 浄土真宗大谷派ですが お墓には 苗字を彫っています お寺さんのすすめ です
野中千恵子様
ご視聴、コメントありがとうございます。
お墓に何を彫るのかは、その家の『選び』であります
。
その『選び』に私と致しましては何も申し上げる必要はなく、お知らせ頂いたことに頷くだけでございます。
ただ…浄土真宗では、お墓であれ、御仏壇であれ、合葬墓であれ、その手を合わす『先人』に、その『私を願う願いの人』と位置づけ、その願いの中で生きている私を感じる。そのことが、手を合わすということであるというお参りの仕方でございます。
ご理解頂ければ幸いです。
合掌
高科修
肩ガ綺麗ナ林佑香❤❤❤
レアメタル総轄局様
ご視聴、コメントありがとうございます。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
いつもいお話楽しく聞かせて頂いています。家も浄土真宗で初めて高科様を知った時から興味を持って
見させていただいております。
ひとつ、気になるのが腕輪と数珠のどくろです、パワーストンではなく、アクセサリーですよね?
Tenji Kishi様
ご視聴、コメントありがとうございます。
やっと私の腕輪(腕輪念珠)とお数珠(お念珠)についてのコメントがはいりました。
ありがとうございます。
誰か、腕輪念珠とお念珠について聞いてくれないかと密かに期待して待っておりました(笑)
腕輪は腕輪念珠と申します。真宗大谷派(東本願寺)の装束作法に乗っ取った正式な持ち物ではありませんが、本山からも、○△□の形を順に繋ぎ合わせた腕輪念珠が御門徒に配られております。
○△□の形を丸く繋ぐことで、「バラバラでいっしょ」…差異をみとめる世界の発見という真宗大谷派のスローガンを表しているものです。
私の腕輪念珠も、あえてバラバラな石を繋ぎ合わせて「バラバラでいっしょ」を表しています。
老若男女・職業・生い立ち等々、みんなバラバラで違うけど、そのバラバラな人間がお互いに影響しあってこの娑婆世界が成り立っている!
でも今は、「バラバラでバラバラになってるね」というお話が出来るきっかけとなってくれております。
ドクロ(シャレコウベ・お舎利・骨)のお念珠については、浄土真宗の僧侶なら、一度はお念珠として求めたいと思う数珠であります。
何故なら…
Tenji Kishi様のように、ドクロのお念珠に興味をもって話しかけてこられ方に…
みんな、誰一人漏れなく、このドクロ(骨)にならなくてはならないんだよ。
さらに、どんなに美男子・美女でも、一皮剥けばみんなこのドクロなんただよ。
生きていることを、考えんなんね。
それと、見た目だけで人を判断してもみんな中身はドクロだから。
外見より内面を見る力を持たんなんね。
というお話をするきっかけになっていってくれます。
そういう目的もあり、動画で映っております腕輪念珠とお念珠を身につけておる次第でございます。
Tenji Kishi様。
やっとこのお話が返信で書けました。
Tenji Kishi様。
感謝致します。
ありがとうございます。
合掌
高科修
高科様
ありがとうございます、お守りを信じない浄土真宗のお坊さんがつけているには意味があると思いました。
お返事ありがとうございます、納得できました。感謝、合掌 ‼
今日の法話、気楽に聞けてました。
内容の薄いコメントになりますが、残しますね(笑)
怒ってるおじさんの対処、お疲れ様でした...
おまけ、楽しかったです。
さすがに、友引の件は知ってたので、
父親の葬儀は、全く気にせず、友引でした。
占い? わたくし、科学者の端くれ。
非科学的な事は、120%、無関心です。
金沢、そんなに真宗王国だったのですね!
六曜、そんな歴史だったのですね!
平成生まれの若者は、気にしてませんね。
徐々に変わってきてると思います。
【編集担当様】
エコーの効いた南無&阿弥陀仏、Good job!
鈴木@新潟 50歳
P.S.
国政の投票日は、与党ができるだけ
大安を選ぶんですってね。
202 BEAM様
政(まつりごと)・政治は、遥か卑弥呼の時代から卜占祭祀を拠りどころとしてきました。
江戸時代まで…
明治になるまで…
浄土真宗以外の貴族仏教のある宗派にとって祈祷・卜占は公務でした。
祈祷・卜占を執り行う僧侶はある意味公務員でした。
なぜなら、国(政府)が加持祈祷を信じていたのですから。
故に、この六曜等の吉凶を占ったり、明日を占う行為には根深いものがあります。
それこそ卑弥呼の時代からですから…
「平成生まれの若者は気にしてませんね」
「徐々に変わってきてると思います」
確かに表向きはそうです。
表向きは…
その実は…
その平成生まれの若者は、知らないから気にならないのです。
気にしていないのではありません。
気にしないというのは、
キチンとその物事の成り立ち・意味・内容を理解し、さらに自分の中で十分に吟味し、その上で「その事」に囚われないことを「気にしない・気にならない」と表現するのです。
それは、
今の日本は豊かである。
今の日本は平和である。
と胸を張って言い切る人たちとかわりません。
子供食堂、
学校へ行けない子供たち、
育児放棄する親、
医療問題、
介護問題
忖度する官僚
嘘をつく政治家
企業の内部留保問題
若者・働き盛りの年代の自殺問題
等々
これらを知らないから、知ろうとしないから、
豊か、平和と言えるのです。
この動画も、先の動画…
「今を生きる」
「同じ法話をなぜ…」
「知らないということ…」の最低限3本と繋がっている内容です。
「今回の法話、気楽に聞けました」
202BEEM様。
油断いたしましたね(微笑)
合掌
高科修
返信、ありがとうございます。
>故に、この六曜等の吉凶を占ったり、
>明日を占う行為には根深いものがあります。
なるほどぉ...
日本人に、脈々と受け継がれた、
悪しき(?)慣習・風習でもあるわけですね。
私が、占いの類いを、全く気にならないのは、
自分が科学者であることもありますが...
「八卦に依らず」
20年前、お世話になった住職に教わった1つです。
今の自分を形作ってるのだと、改めて感じました。
わたしの周りでは、ここ20年くらい、
血液型占いが話題になった記憶は無いですね。
学生・教員、理系男子ばかりだからですかね?
六曜は、とある教え子が、
「結婚式を仏滅にして、費用を抑えたっすよ!」
と自慢げに言ってたくらいかな。
徐々にですが、オワコン化してるとは思います。
ですが...
気にしない vs 知らない、その通りです!!
それこそ、それまで、六曜を知らなかった人が、
いざ親の葬儀になって「友を引く」と言う
語呂合わせに、結びつけて兼ねないですね。
>この動画も、先の動画…
>「今を生きる」
>「同じ法話をなぜ…」
>「知らないということ…」の最低限3本と
>繋がっている内容
ご住職の返信内容を踏まえた上で、
改めて法話を聞き直すと、納得です。
いや、油断じゃないですなぁ。
「南無:気づけ」の、気づく能力が、
全然まだまだ、だと言う証ですね。
精進していきたいと思います。
知らなかった「恩徳讃」、調べました。
まさに、師主知識の恩徳、ですね。
感謝もうしあげます。
P.S.
急な呼び出しに、車での出動を余儀なくされる、
そんな僧侶の方々は、お医者さんと同じで、
自宅で、お酒を楽しむのもナンギそうですね...
研究機器のトラブルで、呼び出しがある私は、
下戸なので、問題なしです(^_^;
202BEEM様
「南無:気づけの、気づく能力が、全然まだまだ、だという証しです」
という、その202BEEM様ご自身の「気づき!」こそ…
それこそが「南無阿彌陀仏:南無気づけ=阿弥陀仏気づきました」
そのものです!
そして、その「気づき」は、間違いなく202BEEM様を「大きな人」に導いてくれます。
返信の主旨を深く汲み取って頂けたこと…
たいへん嬉しく感じております。
ありがとうございます。
合掌
高科修
追伸
お酒が大好きなお坊さんは…たぶん晩酌はしております。
枕経が出れば、奥様またはタクシーが活躍します。
お酒が入った状態で枕経に行くことは、私は自分が好まないので、自宅では一滴もお酒は飲みません。
202BEEM様。
お酒は嗜まれないとのこと。
大丈夫です。
お酒を飲まなくても、金沢には美味しい物がたくさんあります。
金沢においでの際は、美味しい食事とじっくりと会話を楽しみましょう。
今朝は、立春の朝。
至る所に... 昨夜、撒きすぎました(^_^;
ジョギングしながら考えてました。
嬉しい お言葉を、ありがとうございます。
なるほど、コレがソレなんですね。
少し、理解度が上がってきた気がします。
整理して文字化し、自分の言葉で、
文章として残させて下さい。
私が気づいた内容は、小さなことでしょうし、
ご住職が意図したモノとは異なるかも、です。
だけど、大切なのは、その中身より、
そのプロセスなんでしょうね。
私の「願い」は、まさに先の(A,B)ですが、
願いと言うのは、人によって様々なんでしょう。
でも「生ききる」と言う姿勢は、人それぞれの
いろんな「願い」に適合していくのですね。
(適合;なんか良い言葉が見あたりませんでした)
各法話では、多くを学ばせて頂き、感動・納得します。
ただ、それを一生忘れずに実践していくのは、
簡単ではありません。
(故に、何度も聞く必要があるのでしょう)
ですが「南無:気づけ、阿弥陀仏:気づきました」は、
他人に言われた、与えられた、教えて頂いた、
ではなく、自分自身が、導き出した回答なので、
その重要性や、実践の難度も想像できます。
自分の言葉・思考なので、説得力は甚大・強烈です。
なおかつ、自分自身が足りてない点を、映し出す、
時には炙り出すので、自分への最適解でもあるはず。
その積み重ねは、確実に、そして無限に人を大きくしますね。
逆に、謙虚さを失って、傲慢さが出てこようものなら、
その解は、絶対に見えて来るはずが無い。
謙遜できる人って、大きいと思ってました。
ちょっと違うんですね。
大きい人って言うのは、
意図的に、故意に、頑張って、無理をしてでも、
謙遜してるんじゃなくって、
傲慢さが抜けて、謙虚に成れてるだけなんですね。
少しずつ、大きくなっていきたいと思います。
鈴木@長岡 50歳
P.S. 来年度、是非に!!
おじさんを説得して何とか妥協させても、
その後、親類縁者に悪い事が起きると、
「だから俺の言ったとおりじゃないか!」
って、鬼の首を取ったように勝ち誇るんでしょうね。
加藤真理様
良いのです(笑)
この叔父さんが勝ち誇っても。
この叔父さんが勝ち誇るということは、このお話が、この叔父さんには、心底府に落ちなかった。ということです。
ならば、私の力不足と反省し、私が更なる精進に励めばよいだけのことです。
しかしながら、この叔父さんにお話をしに出向きお話をしたことは、決して無駄なことではありません。
お話は、何もこの叔父さんだけが聞いていたわけではないからです。
このお宅に、その時その場においでるすべての人がこの「六曜のお話」を聞いているのです。
「聞いてくれている人がいる」
「法話を話せる場がある」
この事が最大に重要なことなのです。
「全力で人生を生き切る」
そう生きていこうと生きていく。
そう生きていって欲しいと願い法話をする。
…このお坊さんの小話の中の動画の内容はすべてそのための内容です…
そのために全力で言葉を尽くしてお話をする。
し続ける!
それが私の浄土真宗の僧侶としての法務なのですから。
加藤真理様。
その叔父さんが、私のお話を心底府に落ちなくて、あとで「ほう~らぁ~…」と言われ、私が「ガックシくる」のではないかと心配して頂いて、ありがとうございます。
加藤真理様は、優しい方ですね。
ありがとうございます。
合掌
高科修
いつも拝聴させて頂き、学ばせて頂いております。ありがとうございます。
家も大谷派の門徒ですが、お寺さんは友引の日はお休みです。
地方により異なるのでしょうか?
ちゃんペコ様
ご視聴、コメントありがとうございます。
私たち浄土真宗の僧侶は浄土真宗の教えを宗とし、教えを軸として生きると名のりを上げた者であります。
故に、24時間365日浄土真宗の僧侶です。
お寺も24時間365日浄土真宗のお寺です。
しかしながら、人間は24時間365日ずっと働き続けることはできません。ですので、睡眠をとり体を休め、時には気分転換もします。
そうでなければ、24時間365日浄土真宗の僧侶を続ける事はできません。
深夜の枕経の電話。毎日の月参り、お通夜、お葬式、49日や1周忌などの法要・法事を生きている限りやり続ける。
生ききる決意と覚悟をしているのが我々僧侶でございます。
ちゃんペコ様のお手次のお寺様が「友引の日はお休み」とのことですが、何をもってお休みと仰っておいでなのかが、私には、はかりかねます。
ですので、「地方により異なるのでしょうか?」とお尋ねになられましても、なんともお答えを致すことが出来ません。
申し訳ございません。
さて、ちゃんペコ様。
なぜ、ちゃんペコ様は、お寺のお休みの事を気にして私にコメントしてきたのでしょうか…
ちゃんペコ様の思うお休みとはどういう事でしょうか?
私は、そのことの方が気にかかります。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
占い(六曜、星占い、手相、おみくじ等など)を信じるっていうことは、自分を信じれず他人に振り回されて惑わされる人じゃないかな?と思いました。
そういう私自身も、念仏に出遇うまでは、それなりに振り回された1人でした。
今は、おみくじも買いませんし、期限限定で無料で運勢みます!と誘惑されても全く気にならなくなりましたね〜(*´-`)
けれど、信じる人はそこに(占い)心の拠り所を求めているのでしょうか💦
今日もおまけも含めてありがとうございました。南無阿弥陀仏🙏
Kawaguchi様
人には「拠り所」は必要です。
その拠り所は…
家族であったり、
友人であったり、
師であったり、
誰かの言葉であったり、
それこそ人それぞれです。
だからこそ、その拠り所は「人を迷わすもの」ではイケないのです。
自分自身を迷わさない「拠り所」でなければならないのです。
私たちは人間です。
神様や仏様ではありません。
喜怒哀楽も持ち、愛したり憎んだりして生きている人間です。
だから、良し悪しや吉凶を占うことは「ある」のです。
だからこそ、占うことの無意味さ、滑稽さに気づきながら生きて(生活)をしていかねばならないと、自分自身に言い聞かせて生きていくことが大切なことなのだと思うのです。
合掌
高科修
親が生きている間に今の話聞いてきたけど人間弱いもので何かに頼らんと自分に自信が無いにで解っていても頼って仕舞うのだと
川田冬生様
ご視聴、コメントありがとうございます。
弱いから…
迷うから…
自信がないから…
頼らないのです。
頼るから…
弱くなり
迷い
自信がなくなるのです。
例えば『占い』
すぐに占いを気にしてしまう。
ならば…占いなど見なければ良い!
ただのそれだけのことです。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
高科和尚様、おはようございます。浄土真宗での迷信を否定する(友引でも通夜葬儀をする)お教え。浄土真宗のお家なら当然のら、ことどうするして、他宗の考え方を分けて考える必要があるのでしょうね。
北畑宏道様
蓮如上人の書かれた『お文』の中で『他宗の人、他の宗派を信仰している人、また真宗でない人たちの行動を誹謗中傷してはイケない。真宗門徒はあくまで自分自身の「生き方」を見つめ問うていく宗派なのだから』
と、私たちに説かれております。
今回のこの動画は、
この法話を聞いて…
自分自身が『心底府に落ちるかどうか…』
府に落ちたなら…自分はどう生きていくか…
その問いかけの動画で御座います。
真宗の考え方で、
北畑宏道様は…
北畑宏道様が…
府に落ちたのかどうか?
他宗の考え方で、
北畑宏道様は…
北畑宏道様が…
府に落ちたかどうか?
北畑宏道様。
貴方は…
どう思われますか…
どう考えて生きていきますか…
という問いかけの動画です。
合掌
高科修
歎異抄5章に「親鸞は父母の孝養のためとて念仏、いっぺんにても申したる事いまだそうらわず」とありますが、
そもそも、何故お葬式をする必要が有るのでしょうか?
三条あゆむ様
ご視聴、コメントありがとうございます。
まず…
「親鸞は父母の孝養のためとて、一辺にても念仏もうしたること、いまだそうらわず」
についてお話をさせて頂きます。
「孝養」とは現代の言葉で表しますと「供養」と言う言葉になります。
そしてその供養と言う言葉の持つ意味。
「亡くなった人を成仏させる」
「亡くなった人が迷わないように、または妖怪や化け物にならないように」とお経や供物を上げるというのが供養という言葉の意味です。
この供養のために念仏を申しているのではない。
というのが 親鸞聖人のこのお言葉の真意であります。
詳しくは
動画
「供養する心とは?」
ruclips.net/video/bF5NVt4d0KA/видео.html
「南無阿彌陀仏」
ruclips.net/video/YFghJVD0v-w/видео.html
を是非ご覧ください。
三条あゆむ様の疑問にお答え出来ると思います。
それを踏まえた上で…
お葬式はなぜする必要があるのでしょうか?
についてですが…
ご覧くださいとお知らせ致しました動画をご視聴いただけたなら、もうすでに、その疑問は解消しているかもしれませんが…
一般的に皆様が仰っている「お葬式」
そのお葬式が必要かどうかの議論。
そのお葬式に対する必要か否かは、すべてお葬式という「式」の執り行うやり方について、方法、手順、費用、労力、時間等々…「式そのもの」に一切関係のないところでの必要か否かの議論です。
三条あゆむ様にお聞き致します。
三条あゆむ様の愛する人、大切な人、かけがえのない人が、もし亡くなられたら…
死んでしまったら…
その人をほったらかしに出来でしょうか?
すぐに火葬に…
すぐにお骨に…
すぐに別れれるでしょうか…
やはり別れの時間は必要です。
やはり覚悟、受け入れる時間は必要です。
たとえ受け入れることが困難でも、その困難なことが自覚できる時間がひつようです。
故に、亡くなった方としばらく過ごす時間が必要なのです。
その時間のことを「式」と呼び、亡くなった人を送る式のことを通夜式葬式と呼ぶのです。
亡くなった方が生まれ育った自宅に、亡くなった方を安置し、亡くなった方が生きておられた時に、その方が繋がっておられた方々が、「ありがとうございました、お世話になりました、そして亡くなられたこれからも、またお世話になります」と亡くなられた方に敬意と尊敬と感謝の念で合掌する(手を合わす)
それが式、通夜式葬式です。
そして、生老病死の、どうすることも出来ない私たちの人生を、あらためて頷いていく。
そのお話をするために僧侶がいるということにすぎません。
ここまでお話をいたしますと、どうでしょうか?
葬式する必要があるか?ないか?
そんな議論など、それこそ必要ないのです。
残った者が、残った者の思いで、また関わった人が関わった人の思いで、送るのが式ですので、それがあるならば、棺があり、お灯明、香炉、お花があればそれで良いのです。
式とは亡くなった方と生きている私との関わり合いの気持ちなのですから。
式はいる!
それが私のお答えになります。
でも、本当に、真に、自分の大切な人が、愛する人が亡くなったなら…
三条あゆむ様自身が自ら、すぐに、答えが自らの内に芽生えると思います。
間違いなく!
どうぞ、それまでは、このお坊さんの小話の動画をご視聴ください。
どの動画も、今回のコメントのお答えをお話している動画です。
表面上は違うお話でも、根っ子の部分では、すべて一緒なのですから。
合掌
高科修
はじめまして高科様、なまんだぶ🙏
時々動画拝見しておりますが、初めてコメントします。
六曜については迷信だと既に有名になってるのに、未だに仰る方が居られます。みんながどうでもいいと思ってるけど、それを言い出すことが難しいのは日本人独特の同調圧力なのかな〜と思ってます。
加えて、不安を煽って商売にしている人が減らないからかな?
てんてん様
ご視聴、コメントありがとうございます。
「悪貨は良貨を駆逐する(あっかはりょうかをくちくする)」
という諺があります。
これは…
良い習慣を身につけるには数ヶ月の努力が必要だが、悪い習慣は一瞬にして良い習慣を壊してはびこってしまう。
または…
悪いものほど世の中に流通し、良いものを失くなってしまう。
という意味の諺です。
ある意味これがすべてです。
六曜にとどまらず、今では全国に広がっている「恵方巻き」
もともとは関西地域の習慣です。
全国的に広まらなくても良いものです。
その地域の習慣なのですから。
「土用の丑の日」
これもそうです。
鰻の旬は初秋から冬です。真夏は鰻の旬ではありません。平賀源内が旬でなく鰻が売れない夏に、なんとか鰻を売りたいという業者に頼まれて「土用の丑の日に鰻を!」とのキャッチコピーを考えたと言われています。
バレンタインデー・ホワイトデー・クリスマス・ハロウィーン等々も、本来の意味を無視してのイベントとして広がっています。
世の中には、このような例をあげればきりがありません。
「悪貨は良貨を駆逐する」というある意味人間の愚かで悲しい本質。
「何よりもまず経済を最優先する(時には人の命よりも…)今の日本人」
この2つのことが今日の日本には根深くはびこっているように私は感じてなりません。
てんてん様の仰る同調圧力も…
不安を煽って商売にするも…
この2つのはびこる社会では、むしろ当然のごとく行われて行くことでしょう。
だからこそ。
自分自身の中に、揺るぎ無い「軸」が「宗(中心)」が必要なのです。
自分が自分で在り続けるために。
これは私自身がいつも思っていることです。
合掌
高科修
私は、お西の門徒です。初めて、コメントさせて頂きます。この度の六曜占い説は参考に成りました。また、曜日説って言うのも伺った事が有ります。なので、諸説は様々有り気にする必要は無いと私も思います。ただ、親戚縁者間で、わざわざ軋轢を生みながら仏事を行う事が良い事とは思えません。師も言われてます様に他地方では気にする地域も多い。私、個人的な思いですが、もう少し柔軟な発想も必要なのではと思いますが?
齋藤敏満様
ご視聴、コメントありがとうございます。
軋轢を生まないためのこの動画です。
柔軟な発想も必要だからこそのこの動画です。
この動画の主旨は、家族親族の間の軋轢、凝り固まり柔軟な考え方が出来なくなった方々に、気にするところはソコではないですよ!
大事なところはソコではないですよ!
とお話しをしておる動画で御座います。
ご理解頂ければ幸いです。
合掌
高科修
アルツハイマにんちしような、んですけど、ちじんがひどいん、ですけど、とうしたらいいんですか?
tiara Kansai様
ご視聴、コメントありがとうございます。
tiara Kansai様のそのお友達の方。
その方には、お医者様の正しく的確な医師としての診断・治療が必要です。
tiara Kansai様が、そのお友達に出来ることは、その方をお医者様にお連れすること、または親身に患者に寄り添う医師を紹介してあげることだと思います。
すでにお医者様にかかっておられるのであれば、
tiara Kansai様は、tiara Kansai様が無理をなさらない範囲で、そのお友達に寄り添うことしか出来ないのではないでしょうか。
認知症というご病気の
そのお友達を「そのままに受け入れて」お付き合いすることが一番だと思います。
合掌
高科修
六曜のせいで義母と夫がけんかしたばかりです。
りっちりっち様
ご視聴、コメントありがとうございます。
人間は…
通説にそぐわない新事実を拒絶する傾向があります。
そぐわない事実…
そぐわなくても…
その事を、先ず考え理解し、その上で、自分自身が頷けるか?どうか?
この作業をしない限り、争うことになります。
まず、お互い、相手の話をとことん聞く!
それが一番のケンカをしない方法です。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
そうなんですか。占い🔮
六曜なのに何故?仏教と結び付けたのでしょうね
松下佐知子様
ご視聴、コメントありがとうございます。
仏教と結び付く前に…
人の生活と結び付いてしまいました。
日常生活と。
朝起きる。
食事をする。
寝る。
何か行動を起こす。
行事を計画する。
等々の日々の生活することの判断基準と結び付いてしまったのです。
当然といえば当然です。
だって占いなんだから。
「占った!」
ということです。
仏教行事・宗教的行事(法事や通夜、お葬式)さえ占ったということです。
合掌
高科修
@@buddhism_japan
今晩は、
為になる説法ありがとう御座いました。🙏😊
私は六曜意味がないと思っています。
pole les様
ご視聴、コメントありがとうございます。
「意味」
ある物(物体やシステムなど)が存在する必要性または理由のこと。
と辞書にあります。
「六曜」も、六曜が考え出された時代には意味のあるものでした。
また当時の政治をする人たちにも意味あるものでした。
大切なのは意味があるか無いかではなく、その意味するものが、自分自身の人生を生きるのに、「軸」と成るかなら無いかだと。
浄土真宗を「軸」としたなら、「六曜」は軸にならない。
そういう動画で御座います。
合掌
高科修
なに
ジンナマ様
南無阿弥陀仏
合掌
高科修