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今を生ききる。惰性に流されてしまう情けない自分がいます。一期一会を大切に、改めて噛み締めております。私が心に留めているのは、最後まで母が子供のため、孫のために生ききってくれたことです。限られた時の中でその瞬間、その瞬間を生ききってくれたことです。感謝しかありません。そんな事を毎回思い出させて頂ける説法をこれからの人生の糧として、活かして行きたいと思います。ありがとうございます。
三宅様自分はさておき、父のため、子供のため、孫のため、そう人生を生き切った利他のお母様。その利他のお母様の生きる姿を、心に留め、その姿から感謝と学びと決意を気づいておられる三宅様に、私は心から合掌(敬意・感謝・尊敬・学びを込めた)をせずにおれません。三宅様。お母様の「利他」はお母様自身の「自利」でもあったのです。この自利は自分の欲望・得することを満たすという意味ではありません。お母様の「自利」は、お父様を、子供を、孫を、「愛し慈しみ尽くす」ことがお母様自身の「喜び」であり「生き切る」生き方の「自利」だと私は感じています。お母様は…愛すことが(尽くすこと)が、自身の喜びであり生き甲斐であったと。それはそれは深い「愛」それはそれは深い「母性」と言えるものかもしれません。三宅様。三宅様はお母様からすれば「子」です。しかし、お孫様からみれば三宅様は親です。そしてお孫様は「子」です。お母様の利他。お母様の自利。それは三宅様にも備わっているものです。なぜなら…「親」とはそういうものだから。なぜなら…三宅様は利他・自利のお母様の子供だから。どうぞ、お母様の利他・自利を受け継ぎながら生きていかれることを切に願っております。合掌高科修
高科先生のこのユーチューブで知ってから、自分の宗教感が変わりました。知りました。今までは、兎に角墓参に行くことで先祖に対し感謝して生きてきた積りでいました。大きな間違いでした。お寺との事、色々在りまして、紋々の日々をここまで過ごしてまいりました。根底から思いが変わりました。 慈愛を頂きました。 有難うございまはした。
yoshikoよつこ様ご視聴、コメントありがとうございます。自分より先に亡くなられた方々は皆誰一人漏らさず「仏」です。誰一人漏らさず「願い」です。まして、大切で愛した人、大切に愛してくれた人ならばなおさら身近な仏です。願いです。その仏(願い)は、私が思えば「そこ」にいます。間違いなく!yoshikoよつこ様におかれましては、仏(願い)の中に包まれて生きておられることを感じて頂き、生活をされていかれることを、切に願っております。合掌高科修
とても深く有難い法話に出会えたことに感謝します。毎度の法話、有難く拝聴させてもらってます。 南無阿弥陀仏。
カツ様ご視聴、コメントありがとうございます。ますますの精進に努めてまいります。南無阿彌陀仏合掌高科修
高科修様いつも 有難い法話をありがとうございます。 毎日毎日 法話を聴いてはなるほどと 未熟者の私 反省しています。初心忘るべからずという言葉は 若い頃からよく耳に慣れ親しんだ言葉のひとつでございます。日々の生活をしている内に これで間違いないのかと よく自分自答して 人生 結婚 離婚転出 と何度も 涙が出て今 振り返っても 我慢我慢の人生でした。息子達に支えられて支えての毎日ですが今現在が 一番人間らしい充実した生活を送っております。ご先祖様のご加護も充分に有り難く感じております。 今年も高科様の法話を心の支えにして 生活していきます。 どうか お身体に充分お気をつけて下さい。南無阿弥陀仏
とみあさちゃん様ご視聴、コメントありがとうございます。96歳で亡くなった明治生まれの祖母が、よく言っていた言葉があります。修…上、見りゃ キリない、下、見りゃキリない、今、が一番よいのやぞ!と…これは、上を見ることは嫉妬と羨望となり、どんなに望んでも世界の王などにはなれないだろう!下を見ることは、自分より下だとの思いから、差別と蔑視を我が心に目覚めさせる。人の苦しみ辛さ悲しみを自己満足の道具にし、人の心を失わさせてしまう。だから『今』を『うん』と頷いて生きていけ…とういうババの深い知恵でありました。『今現在が一番人間らしい充実した生活』と、とみあさちゃん様がキッパリと言い切れるのは、間違いなく、とみあさちゃん様が積み重ねてこられた人生の時間、経験があればこそであります。とみあさちゃん様。どうぞ、その とみあさちゃん様の仰る『我慢我慢の人生』を辛いものだけにしないでください。『我慢我慢の人生 』あればこその『今 』、そして今を『充実した生活』と感じることが出来るのだと自分の積み重ねた人生を誇って欲しいのです。私は(とみあさちゃん様)自分の人生を、私なりに一生懸命に生きてきた!と。そのことを、どうしても、とみあさちゃん様にお伝えしたく、返信が長文となってしまいました。最後まで読んで頂き、ありがとうございます。合掌高科修
真宗大谷派 高科修様私の拙い文章に ご返信下さいまして 有難うございます。 過ぎ去った人生を 恨む事なく私の生きて来た人生 これは試練だと思って 生きます。苦あれば 楽ありと昔から申します。昔があったから 今が有るそう思って 今年67歳になります。 高科修様の大切な 奥様と末長く お幸せで毎日 健康でお過ごし出来ますようお祈りさせていただきます。有り難うございました。
いつも良いお話し有難う御座いますたしかにその日その日毎日ちがいがあります今日は何か有るかなと思いますね今日も元気で楽しみです本当有難う御座います生きて生活をただただおくるではなく今日は何か少しでも良いあれば感謝を忘れ無いで送りたいですね有難う御座います
教子 細川様ご視聴、コメントありがとうございます。毎日、感謝を忘れずに生きていくと仰る教子 細川様のお言葉に敬いと尊敬を感じます。ありがとうございます。合掌高科修
有り難う御座います。🦿🙏
泥八 正見亭様ご視聴、コメントありがとうございます。南無阿弥陀仏合掌高科修
私達門徒は日々仏様への感謝です❗
MIKAZUKI龍崎様ご視聴、コメントありがとうございます。MIKAZUKI龍崎様の仰る『仏様への感謝』その『仏様』とは…『感謝』とは…その中身は何を指しているのでしょうか?MIKAZUKI龍崎様の仰る、その『仏様』を…その『感謝』を…MIKAZUKI龍崎様ご自身はどう捉えておられるのでしょうか?当派真宗大谷派には、『自己とはなんぞや…これ真宗』という言葉が代々と受け継がれ、その言葉が当派真宗大谷派(東本願寺)の宗教的な『芯』または『軸』になっております。同じ真宗十派の中でも、得に当派大谷派は、『今を生きる』という自分自身への『問いかけ』を徹底的に追及していくことに特化した『派である』と言えます。それ故の、動画でのお話しであります。そして、それ故の、MIKAZUKI龍崎様へのこのようなご返信で御座います。お西(本願寺派)の方とは存じておりますが、このサイトは、同じ真宗でも『大谷派』で御座います。このような返信なりますことご理解の程よろしくお願い申し上げます。合掌高科修
良くわかるお話です。府に落ちるお話、大事に聴かせていただいております、
Masakazu Sato様ご視聴、コメントありがとうございます。南無阿彌陀仏合掌高科修
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏
マツタカエクコ様今を生きる…南無気づけ阿弥陀仏気づきましたの南無阿彌陀仏の生き方であります。南無阿彌陀仏合掌高科修
今回も 素晴らしお話 ありがとうございました。改めて 今の自分を見つめ直そう。と動画を拝見させて頂いた後 思いました。今日と言う日は二度と来ない。今日の自分には二度と会えない。日々 勉強です。1日1日を大切に 今日も元気で1日を終えれた事に感謝し、命ある限り 日々 学び 反省し 感謝し………生きてるって 素晴らしいと思いました。最後の「おまけ」‼️高科ご住職様のお人柄が わかります🤭高科ご住職様の笑顔には 心 温まるものがあります。是非「 NG集」作ってくださいね😊
土畑さおり様「生きてるって 素晴らしいと思いました」このお言葉に、私自身が救われております。そしてこのお言葉に、胸から熱いものが込み上げて参ります。ありがとうございます。 NG集」はもう少しNGが貯まってから…かと(苦笑)大丈夫です(笑)編集担当者はやる気満々ですから(笑)合掌高科修
有り難う御座います今日は透析治療に行きます
仏法を聞く事が今の私にはさいだいのかこころの糧です
3脩 影山様ご視聴、コメントありがとうございます。どうかどうか…お身体、御自愛下さいますようお願い申し上げます。「こころの糧です」この3脩 影山様のお言葉に、襟を正し、ますますの精進を邁進致します。合掌高科修
昨年の5月に配信された「娑婆を生きる。生きていく」という動画と私自身、テーマが重なり遡って拝聴させて頂きました。話される内容や言葉は違っても、根本的な教えは同じでありました。種をまかれ、種をまいていく。これが娑婆を生きていく事である。と。まさに今のこの時を二度とない今を大切に生きていくことが自分の人生を生ききっていく事だと! ありがとうございました。南無阿弥陀仏🙏PS;昨日(24日)メール送らせて頂きました。
Kawaguchi様ご視聴、コメントありがとうございます。追伸に書かれておられるメール。確かに拝読させていただきました。今現在のKawaguchi様の近況とお気持ちを綴られものとして、了解させていただきました。ありがとうございます。親鸞聖人は、「面々の御計らい」と言う言葉を使い、一人一人は皆漏らさず一人一人の人生を生きている。一人一人が一人一人、自らの人生を自ら考え気づいていかねばならない。私(親鸞聖人)自身は師である法然様の生き様から学んだことを胸に生きているだけだから…そうお話をされております。人生を生き切ろうと生きている人に出会い、そう私も生きようと、その生き方を思いおこしながら、私自身の人生を生きていく。私自身の責任で私の人生を生きていく。それは一人一人が、一人一人自身で考えて行かねばならないことであるという主旨のお話であります。私自身の生き切るをお話をして今回のKawaguchi様への返信とさせて頂きます。お寺の行事前、年に4回、阿弥陀如来立像をお祀りしている内陣と呼ばれる場所を掃除します。内陣内の畳を全部外し、中の仏具をすべて外し、吹き掃除をします。一人で始めれば半日はゆうにかかります。その度に「あ~めんどくさい」と思ってしまいます。「ここの場所、こんな隅、角まで埃や汚れ取らなくていいやろ~」とか思ってしまいます。その度に反省です。「あ~衣(僧衣)着てる坊さんなんに、なんておうちゃくなんやろ」と!この「おうちゃくな私」という自覚が大切なのです。人間おうちゃくなのです。でも「自分のおうちゃく」を認めようとしません。まず「自分自身のおうちゃくを認める」ところからすべてが始まります。自分が「おうちゃく」だとわかれば、「キチン」とするようにすれば良いだけです。キチンとできなければ、またおうちゃくやなぁ~と反省します。次はキチンしようと!でもまたキチンと出来ません。だからまたおうちゃくやなぁ~と反省します。次はキチンとしょうと!でも………永遠に続く堂々巡りです。この堂々巡りが大切なのです。堂々巡りがあるから、人は人を許したり、優しくなれるのです。「俺もお前と一緒やわ」と。自分自身をおうちゃくやなぁ~と認められない人は、そこに絶対反省はありません。なぜなら、自身のおうちゃくに必ず別の理由をつけるからです。「~だから出来ん」「~やし出来んし、しない」「だって~やし」「今はそんなこと流行らんし」等々………したくない、もしくはめんどくさいの理由付けならみんな天才的です。だからこそ(私自身もふくめて)「おうちゃく」の自覚がいるのです。私自身の「生き切る」私自身の「三つ初心忘るべからず」は…「おうちゃくの反省」です。合掌高科修
高科様生きる為に努力を続けてあるどんな時も継続しておられるあらゆる人々へ届けと修行のお姿に見えます見つめていました自分の気持ちに格闘何が自分の心なのかをここで腹をくくれました。ありがとうございます🙇♀️信念を貫く高科様ぶれない心身 一体身体が壊れると心がざわついてました。恐怖の日々でした。腹をくくって金曜日手術をうけます。高科様これからもどうぞ 頑張って下さい。応援してます。
美穂 濱田様「人に歴史あり」そう申します。その人の人生。たとえ小学生にも、その「生」を重ねてきた「積み重ね」の分だけ歴史があります。美穂濱田様にも、今を生きているそのことも含めての重ねてきた、いえ、重ねている歴史があります。その歴史とは、楽しいことも嬉しいことも、また辛いことも意にそぐわないことも含めた私自身の人生のことです。存ぜぬこととはいえ、ご病気でおられたこと、心が痛みます。さぞ心重く、恐かったことでしょう。いかなるご病気かはご推察することもかないませんが、いかなるご病気でも、心細くなり不安になるものです。その心細さ不安の心情を察するに、胸が張り裂けそうになります。私は何も力になることができません。ですが応援することは出来ます。祈ることは出来ます。願うことは出来ます。そして…腹をくくって、金曜日手術をうけますという美穂濱田様を尊敬し敬うことはできます。どうぞ勇気をもって手術に…どうぞ堂々と胸を張って手術に…お向かい下さることを切に切に切にお願い申し上げます。合掌高科修
高科様ありがとうございます🙇♀️願ってまで頂ける感謝します。しっかり 心のお守りにします。人生に ながさでなく深さだと高科様が宇宙の中でちりの一つにもならない 今の私に願ってくださる胸を痛めてくださる勝手の良いときばかりで 失礼している私にありがとうございます🙇♀️心にお守りを胸をはって深呼吸 落ち着いて目を閉じます。勇気をありがとうございます💐
高科様今日 背中の痛み止もとれ 自分でトイレ頑張ってます。術後の痛み 熱が下がらないととお水 スポーツ飲料飲んでは厳しいトイレへ日頃できる事に感謝です。高科様お祈りをありがとうございます。おかげ様で頑張ってます。心に灯火🕯️を今も 燃えてます🍀
美穂濱田様無事に手術を終わられたこと。「背中の痛み止もとれ自分でトイレ頑張ってます」とのこと。良かったです!本当に良かったです!安堵いたしました。そして、手術後のご連絡を頂けたことに、感謝致します。ありがとうございます。金曜日の手術。ただ祈ることただ願うことそれしか出来ない私でした。ご連絡を頂けたこと、たいへん有り難く感じております。熱が下がらないお水 スポーツ飲料飲んでは厳しいトイレへとのこと…どうか焦らずゆっくりと体力、体調、ご病気の回復にお努め下さい。けっしてご無理をなさらねように、切にお願い申し上げます。合掌高科修
@@buddhism_japan 高科様ご祈願 ありがとうございます🙇♀️‼️朝方 熱も下がりました。先ほど内診も子宮全摘後綺麗と言って下さいました‼️独占使用してしまいまして大変申し訳ありませんでした🙇♀️生きる‼️にまさに生きる🎵
よくわかりました。私は生きるのに計算してきましたが、生きるのに計算なんていらないですね。初心を忘れないで今を大切に大切に生きたいと思いました。ありがとうございました。同じ過ちを過ごさないように計算して生きるのは間違いでした。
中村友子様ご視聴、コメントありがとうございます。「同じ過ちを過ごさないように」それは人として至極当たり前の感情です。誰もが誰一人漏れなく抱く思いです。私自身も例外ではありません。だからこその「三つの初心忘るべからず」なのです。計算も打算も損得勘定も、どれも計算通り、打算通り、損得勘定通りには、決して成りません。得てして思った通りに成らないことの方が多いのです。だからこその「三つの初心忘るべからず」唯一つに「今を生きる」その姿が自分自身で自分自身に胸を張って生きていける道をだと私は思っています。合掌高科修
「おまけ」で、思わず笑ってしまいました。😅失礼・・・熱心に教えを撮影しているのが好感を持ちます。今回も、ありがとうございました。
とし爺様毎回のご視聴とコメント。誠にありがとうございます。たいへん嬉しく感じております。合掌高科修
世阿弥の言葉、初めて知りました。なるほど、深い言葉だったのですね。「生き切る、今を生きる」それは、常に自分を見つめ直して生きて行け、それを積み重ね続けてゆけ、ですね。過去の法話とも、重なってますね。少なくとも、ご住職の動画を見る度に、その意識を持ち続けなければと、自分に言い聞かせている状況です。故意に斜めから見るような視点ですが、敢えて伺いたい事があります。何故に、そう生きろと説くのですか? 鈴木@新潟 50歳P.S. おまけ、爆笑しました!.
202 BEAM様「何故そう生きろと説くのですか?」それは…そう説かずにはいられない私自身の…それが…「業(ごう)」だから。なぜ「業」なのか。それは…わたしが浄土真宗の「僧侶」だから。なぜ「僧侶」ならばそうそうなのか。それは…浄土真宗の教えを私自身が「そう」了解したから。そして、この生き方が、私の中の「南無(気づけ)阿彌陀仏(はい気づきました)」だから。そしてこの南無阿彌陀仏が、私自身が生きているその生きるを「生き切る」ものにしているから。その事に他ならないからとお答え致します。生まれてからの一年一年…いろいろな出来事に出合い(出会い)生きている。これが「因(種)」その出来事から、様々な事を学んできた。教えられてきた。気づかされてきた。喜び、悲しみ、愛、友情、思いやり、憎しみ、怒り、嫉妬、慢心…これが「縁(水や太陽・等々)」この因(種)と縁(水・太陽・等々)によって、三つの初心わするべからずの生き方に目覚めた。これが「果(花)」この因縁果から、そのことを説かずにはいられない私(業)がいる。そうご理解頂ければ有難いです。合掌高科修
返信、ありがとうございます。哲学的に考えさせられてます。なるほど、ご住職の因縁果なのですね。全く意図せぬ回答に、戸惑いながらも、その内容を考えて、思考を回してました。例えば、 (A)人としての正しい在り方のために、 (B)自分や他人をHappyに出来るから、のように、何かの目的・目標・目指すモノがあるから「(i)そう生きる」のが良い、と理由付けするのかと、想像してました。だけど、法話内に、そんな観点は見あたらない。なぜだろう?私は、何を理解できていないのだろう?「そう生きる」が「果」である、ご住職の言葉を聞いて、考えてました。巧く文章に出来ないのですが、私の思考だと逆ですかね? つまり...(A,B)の目的のための、方法論としての(i)、ではなく、(i)で生きる事により、(A') 人として正しい在り方、(B') 結果的に、自分も他人もHappyな状態になっていく、のでしょうかね。尤も、(A,B)を目的・目標にしてると、いずれは自分が「無理をする」ことになりそうです...
202BEEM様(A) 人としての正しい在りかたのために。(B) 自分や他人をHappyに出来るから。だから「三つの初心忘るべからず」と説く。至極当然で理屈に合う理由です。しかし…人として正しい在り方。突き詰めて考えていくならば、私たちは正しく在り続けれるでしょうか。正しい在り方とは…嘘は正しくありません。けれど優しい嘘もあります。人を殴ることは暴力で正しくありません。しかし殴らなければならないこともあります。怒りからでも、愛からでも。自分や他人をHappyに出来る。けれどそれも突き詰めて考えれば、それは自己満足に陥ったり、自己犠牲を美徳とすることにつながりかねません。くわえて…202BEEM様もご自身で仰っておられる通り「いずれは自分が無理をすること」になるのです。AもBも目標・目的にすることは良いことです。素晴らしいことだと思います。必要です。ですが、実はAもBも「感じる」ことなのです。自分自身が。結局は自分自身の「生き方」に戻って来るのです。三つの初心忘るべからずの生き方は、自身自身の人生を、今を生きる・生き切る人生にしてくれます。三つの初心忘るべからずの生き方は、どんな困難なことが私自身に起ころとも、それを腐らず諦めず投げ出さずに対処していける力になります。喜びはさらに喜びとなり、感謝はさらに深い感謝へとかわり、慈しみはより愛のこもった慈しみとなります。三つの初心忘るべからずから導き出される、今を生きる・生き切るという生き方は、死という別れさえも凌駕します。故に、この生き方に目覚めた者は…故に、この生き方を生き方として生きている者は…この素晴らしい生き方を伝えずにはいられなくなるのです。それこそ、自分ではどうすることも出来ないほど伝えずにはいられなくなるのです。まさしく「業」です。その伝え方は様々です。言葉であったり、文章であったり、そして自身の生き方・生き方を見てせいくことであったり。自分自身の生き方が、この三つの初心忘るべからずの生き方をするなら、心得て生きていこうとするなら、必ずその生き方は伝染していきます。その伝染こそが伝灯なのです。業こそが伝灯です。202BEEM様は、もうすでに伝灯を受け継ぎ、伝灯を受け渡す人なられていると思います。自分が無理をする必要は微塵もありません。202BEEM様が、三つの初心忘るべからずの生き方を心得て生きていけばよいのです。さすれば、AもBも、202BEEM様が求めるものは自ずと付いてまいります。202BEEM様様がA・Bを202BEEM様の「願い」(あえて目標・目的の言葉は使いません)とされておられるよに、私・高科修自身の「願い」はあります。愛別離苦を…このどうすることも出来ない「死」という別れ。そして自分自身も死んでいかねばならないという事実を…真摯に受け止めて…自分自身(私も含めた皆)の人生を死ぬまで生きて欲しい。これが私の「願い」です。なぜそう願うのか?それは私が僧侶で、24時間365日死という別れで泣き悲しみ苦しみを抱いている人が目の前にいるからです。そして私自身が死という別れを受け入れ、そして自分の人生を生き切ると生きていこうとしているからです。伝えずにはいられません。そして、この死という別れを真摯に受け入れた生き方は、今より確実に世の中を優しくしていきます。人にも、動物にも、自然にも…厳しさも優しさです。辛さや苦しみを経験することも優しさにつながります。もちろん喜びも慈しみも優しさにつながります。世の中を作っているのは個々の人間一人一人です。一人一人が、自分が関わるすべての「死」から学び気づかなければ、一人一人が、自分の人生を自分の責任で生きていくと自覚できません。結局は最後は人間一人一人の自分自身の「生き方」を問うことになるのです。この問うは、考える・学ぶ・気づいていくという意味です。「人生を生き切る」と生きている人と出会って、今を生きるとはどういうことか、生き切る人生とはどういうことかを、学ばせてもらった。そしてこの師とも、私が先か老僧が先かはわからないけれど「死」という別れは必ず来る。だからこそ、「生き切る」と学んだ生き方を思いおこしながら、そう生きたいと願っている。しかしながら、師事した老僧のように、私は生きられません。何故なら、私は老僧ではないからです。何故なら、私は高科修という一人の人間だからです。何故なら私は、私においての責任で、私の人生を生きようと学んだからです。ある意味、このお坊さんの小話の動画は「説いて」いるのではないのです。生き方に触れ、死に触れ、その生き方が伝わってきた!様々な出来事に合いそこから、南無・気づけ、阿弥陀仏・はい気づきましたと受けて、すべてを南無阿彌陀仏として生きている。そういうお話をしているのです。故に法(生き切るが伝わる)の話(自分自身に伝わった)。だから法話なのです。説教でもハウツーでもなく、講義でも講演でもなく、法話なのです。だからこそ、動画での姿も、NGの姿も、有りのままを見てもらい、その事が伝われば、私の生き方から何かを感じ取って頂けたならと思っているのです。親鸞聖人は、「面々の御計らい」と言う言葉を使い、一人一人は皆漏らさず一人一人の人生を生きている。一人一人が一人一人、自らの人生を自ら考え気づいていかねばならない。私(親鸞聖人)自身は師である法然様の生き様から学んだことを胸に生きているだけだから…そうお話をされております。「死を真摯に受け止める」ということは、あらゆることの基礎となるものです。「一人一人の人間が、お互いにお互いを大切に大事にしながら生きていく」このことに繋がっていくことだと思っています。202BEEM様の「何故、そう生きろと説くのですか」の問は…私自身に、私自身を問う大切な時間を頂きました。あらためて自分自身を問う機会を頂きましたことに、感謝いたします。ありがとうございます。合掌高科修
長文の返信、本当に、感謝申し上げます。(携帯でのボタン入力なんですよね… 絶句です。 Siriでの音声入力を、ご検討下さいね)>(この)生き方は、どんな困難なことが私自身に>起ころうとも、それを腐らず諦めず投げ出さずに>対処していける力になります。>喜びはさらに喜びとなり、感謝はさらに深い感謝へ>とかわり、慈しみはより愛のこもった慈しみとなります。明確なこの文章に、心を打たれました。はい、感動と共に、同感している自分が居てます。(A,B) は、確かに、自分が感じるコトですね。万人が共通して定義できる事象でもなく、自分自身が判断していくことであるし、時には、判断の是非さえ、自問自答する必要がある。つまり「見つめていく」必要がありますね。結局「生き方」に戻ってくる、納得です。この生き方、これが全てのベースなのですね。1番下、根本なので、理由も何も無くて当然ですね。故に、私の問い「何故に、そう生きろと説くのですか?」は、非常に難しい問いであった、と分かりました。ですが、ご住職は、それが、皆に伝えれずには居られない「業」だと答えられた…その感覚、少し分かる気がします。自分の生き方が、他人に好影響を及ぼすなら、私自身、まさしく、願っても無いことです。ですが、ますます自分を律すると言うか、自分を見つめ直す事が大切になりそうです。一方、後半の哀別離苦。コレに関しては、理解度が、なかなか上がりません。両親の死でさえ、そのまま受け入れることができて、「哀・苦」にはならなかった私です。要は、哀・苦の経験が無いのです。決して、凌駕してた訳では、無いと思いますが…(笑)妻・息子・娘の死には出会いたくないですが、(統計的確率としては、あまり高くないでしょう)必ず訪れる自分の死に関しては、避けずに、見つめる必要があるのでしょうね。結局、死(一大事)を自分自身に問うことが、上記の「生き方を考える」に直結するのですね。両者の関連性を、私は見いだすことが出来てません。今の私には、あまりにも大きな命題です。子供達が成人して社会に出たり、自分が定年退官になったら考えるのかな?(まだ15年も先ですが… )ただ、焦らず、考え始めてみよう、漠然と、そう感じている次第です。順番として、親の次は、自分なのですから。来年度(雪が無くなって)のどこかで、金沢にお伺いしたい、そう願うようになってきました。P.S. 長文故に、コメントが消える等の事態になったら、mailで再送信させていただきますね。
たぶんそういうことばかりですね☆サンクス☆
ジンナマ様たぶん…何が…そういうことばかりなのでしょう……南無阿彌陀仏合掌高科修
高科様、私は何故産まれてきたのですか?
マツタカエクコ様『生まれた』から生まれてきました。そこに、『なぜ』は要りません。生まれてしまっているのです。すでに!重大で大切で、気にしなければならないことは…なぜ?生まれてきたのか!ではなく、どう生きて行くか!であります。南無阿彌陀仏合掌高科修
今日も ありがとうございます。また一生懸命に私達に教えて下さろうとしてくださり ありがとうございます。私は ここ何週間か 悩んでおりますよく 自分に合わない人とは無理をして居なくてもいいと読んだり聞いたりしますがその 相手が高齢で病気がある母の場合 無理なので とおもいます母とは …子どもが嫌いだったらしく私の上に姉 下には弟がお腹にいたそうですがどうしても産みたくないと産まなかったそうで私だけ父が産んで欲しいと頼んで頼んで産んでもらったとそんなこんなで 母が私を遠ざけていましたので家に居ても父が居ないときは自分の部屋からは出ず高校を卒業してからは 直ぐに家を出ました結婚しても ほとんど帰りませんでしたが父の要望もあり 一緒に暮らす事にしてから母のあからさまな言動で 自立神経を壊し救急車で何回も運ばれたり 部屋からも出られなくなり子どもの面倒も見られなくなり別居をすることに成りましたそれ以来 父が痴呆になるまでは疎遠でした また一緒に暮らすように成りましたが父もなくなり母も食事なども作れないので頑張って私が母に合わせて暮らすよう努力してましたが食べ物の好き嫌いも激しくいろいろ作ってみても 食事になるとあらさらさまに 嫌な顔をしておかずをみたりため息をつきながら食べたりと特に また最近は酷く成ってきましてでも 母を一人にも出来ずデイサービスにも わがままな性格のせいで 周りの人と合わず何回もサービス先を変わったり休んだりとでどうしよう と前のように病気には成りたくないし悩んでいましたがこのお話しが また聞きなさいと言うように 飛び込んで来てくれました時々の初心忘れるべからずそぅですね一日 半日 十分 その時その時間 母に新しく合うと思えば何とかなりそうですずっとずっと隣に座っているわけでは無いので母は昼前まで寝て昼ご飯を食べたら また夕方まで寝ますので起こさないように 静かにして用事や家事をしたりすれば子どもや主人が帰って来ると気分もホッとしたりしますのでその時々が 今日が初めて と気分を立て直してなにか有っても まただ、とか思わないでこれは 今日が初めての出来事ですよ と自分に話かけていきますほんとうに 自分の感じかたも良いのか悪いのかも母の毎回の感情ですら 毎回毎回同じでは無いですしいろいろ 教えて頂いて 考えさせて頂いて導いて頂きほんとうに いつもありがとうございます。その時々の出来事が初めて
恵 船本様先ず一番に大切なことは…先ず一番に重要なことは…恵船本様ご自身が病気にならないことです!恵船本様が心身ともに元気でいることです!そのための手段は、何をどうしようとも最優先です。お母様のお世話よりもです。なぜなら、恵船本様が病気になり、心身ともに落ち込んだなら、誰もお母様のお世話をする人が居なくなるからです。その一点だけをみても、貴女が…貴女の…生活、精神状態、身体状態が良好であるように努めることが、どんなことよりも最優先です。子としは、合わない人とも居なくてはなりません。たとえ親子でも、合わない人とは合いません。それはイケないことでも、悪いことでもありません。そういうものです。それが人間同士の関係です。故に…お母様のお世話を…誠心誠意でする必要はありません。子として、しなければならないことを淡々と行えば良いだけです。そこに嫌気があっても…そこに恨みがあっても…そこに怒りがあっても…その感情を押し殺したり、無くしたりの努力はいりません。あるがままの心情のまま…子としてしなければならないことをすれば良いのです。『あなたは…あなたのままで良い』とは、そういう事です。次にお母様のこと…自分が殺そうとした(殺した)我が子に、今自分が世話をしてもらっている(生かしてもらっている)……なんと恐ろく深いお母様ご自身の『業』でしょうか。食事に文句を言い怒り…ため息をついてしか食事も出来ず…まわりの人を嫌い、文句を言う…毎日が文句と怒りと憎しみと妬み嫉みの心中で暮らしているのだと思います。ある意味…地獄!そして自分が地獄に居ることすら気づいていない。それがまた地獄なのです。その地獄から、脱出する道は目の前にあります。簡単なことです。『自分が殺そうとした(殺した)我が子に、今自分が世話をしてもらっている(生かしてもらっている)』この事実(業)に心底頷くことです。心底頷けたなら…あとは…『ありがとう』と『ごめんなさい』しか、口から出てこないはずなのです。お母様が、このことに、気づくか気づかないかは、お母様ご自身の問題です。一生気づかなくても、それはお母様の一生です。どうすることもできません。ただ、出来るならば、ご自身の『業』に気づき、ありがとうとごめんなさいの言える一生であって欲しいとは願っておりますが…恵船本様。今、目の前にいるお母様は、気づかずに生きている人の姿です。業を背負わずに生きている人の姿です。気づける人。業を背負って生きている人。その人からは、ありがとうとごめんなさいが出てきます。恵船本様。恵船本様こそ、気づきを知り業を背負って生きておられる人であります。その方には、ただただ敬意と尊敬を致すしかございません。人の真摯に愚直に生きる姿を見させて頂きました。ありがとうございます。追伸重ねて申し上げます。恵船本様ご自身の、心身の万全を、最優先にお考え下さいませ。このことは、切に切に切にお願い申し上げます。追伸の追伸本来この言葉は、膝を突き合わせて相手の目を見てお話しをする言葉であります。なぜなら、そうしなければなかなか真意が伝わらないからです。しかしながら、あえて、この言葉を『今』恵船本様にお掛けしたいのです。ご了承下さいませ。恵船本様。貴女は…『今!生きて、ここに存在している!』この『事実』に胸を張り背筋を伸ばし堂々生きて下さい。合掌高科修
@@buddhism_japan 深いお話しをありがとうございます。確かに母はありがとう ごめなさいが殆ど言えない人です他人の方にも親戚の方にも上辺のつくろいの言葉だけで可哀想にと母の事をおもいます亡くなる前には心底 幸せだったと感じてもらいたいのですがでも言われる様にそういう付き合い方も 決して無理をしないしなやかに生きて行けるように心を持って行かせて頂きたいと思いました。いつもいつもありがたいお言葉と気付き導き心より感謝しております毎回毎回コメントをすればお忙しい中 時間を取らせ申し訳ないとは思っていますが … これからも 宜しくお願いします。ほんとうにありがとうございます。🙏
@@buddhism_japan 先ずは 深くお礼申し上げます。と言いますのも お坊さんからのお返事を貰いましてとてもとても不思議ではありますが母の言動が変わりましてご飯を食べてああ、美味しかった、と言いましてあまりにもびっくりして え…?! と思うばかりで声も出ませでしたどうしたんだろう と思うばかりでしたがそれから どう言ったら良いのか下から睨むように人を見ていたのが無くなりため息を付くのも無くなりました、ありがとうございます。お坊さんにお話しをして良かったです。それまでは 言えば悪口になるし愚痴にもなるしと言わずにおりましたので不思議ですお坊さんにも たまりかねて書き込みをいたしましたがあとから お坊さんに嫌な思いをかけたと後悔したり迷惑をかけました、とお祈りしたしましたがありがとうございます。ほんとうに お話しをさせて頂き良かったですちなみに 今日はお昼に主人が帰ってきたらお帰り、と言ってくれました。ほんとうにありがとうございました。お陰で不思議な事がおきました。🙏
恵 船本様お知らを頂き、ありがとうございます。本当に不思議ですね…不思議なことはこの世の中に確かにあります。でも…それは…たぶん…恵船本様のお母様への接し方、話し方が、恵船本様が意識しない意識下で、変わったからだと思います。恵船本様ご自身が発する雰囲気…恵船本様ご自身が発する、意識すら出来ない言葉の響き…それらが変わったからだと思います。言えば悪口になる、愚痴になると、我が心の内に積もらせ積もらせ積もらせて積み重ねられたモノは、黒く深い闇になり、いつしか全身から発せられます。それは、本人も気づくことはなく意識することも出来ないモノであります。自身の闇を吐き出されての恵船本様。闇を認めて、その上でお母様に接していこうと覚悟を成された恵船本様。その貴女様の『姿』がお母様をそうさせたのだと思います。このことも、お母様をそうさせた一因でもあります。恵船本様。貴方様は、素敵な方であります。合掌高科修
@@buddhism_japan 心より感謝きたします。自分が気が付かない所まで気付きを教えて頂きありがとうございます。🙏
有り難うございました。ははははっ先生の(今を生きる)今度の傘寿会のお礼の挨拶にパクらせて頂きます。もちろん先生の小話からとはっきりと申し上げてのことで御座いますがお許しください。実はですね,寺の総代でございまして,なんとか考えてお参りの方にこれからの人生を意義のあるよう勇気づけたいと大胆なことを思うておりましたんで
泥八 正見亭様ご視聴、コメントありがとうございます。お坊さんの小話をご紹介いただけること、大変うれしく思っております。ただ、お気をつけください。お寺の総代をされておるということなので、ご年配の方だとご推察いたします。この小話(法話)を聞いて腑に落ちていただいたのだと思います。しかし、このお話しの肝は、まず自分自身を見つめなおすということです。よく法話をしていてお聞きになった方から「あ~いい話聞いた」「あ~ありがたい話聞いた」と言われます。それだけだと、それで終わりです。浄土真宗の場合は、そこから自分自身を見つめ直し、自分自身「今日も一日、一生懸命生きたか?」と反省しながら、毎日を生ききっていくという事です。なぜ、こういうかと申しますと、泥八 正見亭様のコメントからは…・三つの初心忘るべからずをご自身が理解しているのならば・ご年配の方であるなら・みんなにこの話を聞いて分かって欲しいと思ったならばそのコメントからは、最低限の礼節や、ご自身の反省を感じられるはずだからです。泥八 正見亭様ご自身のコメントを会ったこともない方から、自分宛てに初めて書かれた物として、お話しに感銘を受けたのでこの話を紹介したいと書かれたコメントとして、どうぞ読み返してみてください。「あ~いい話聞いた、みんなに言ってやろう」という思いが伝わってきませんか?ご紹介いただくのは、有難いですし大変嬉しいことです。『お参りの方にこれからの人生を意義のあるよう勇気づけたい』というお気持ちも素敵だと思います。ですが、泥八 正見亭様ご自身が、まず、三つの初心忘るべからずを忘れることのないよう切に切に願います。コチラの動画もぜひご覧ください。法話「自分のふり見て我がふり直せ」ruclips.net/video/iZQ8MkqH0CQ/видео.html南無阿弥陀合掌高科修
ありがとうございます。ちょっと文面を読み返してみました、舌足らずすぎの文面で申し訳ない思いです。なんと、もうしますかあまりにも三つの初心のおはなしに感激し、その興奮のまま,返信してしまいました。お恥ずかしい次第です。先生からの叱咤の言葉心に刻んでお参りの皆さんに挨拶をさせて頂きます。重ね重ね有り難うございます。合掌
こんにちわ 和尚様 私はこの師走にお掃除しながら和尚様のお話を聞いております 何故かそうじが捗るのです そして嫌じゃないのです ありがとうございます
ご視聴、コメントありがとうございます。私の「お話」が、そんな風に役立っているとは…大変恐縮致しております。ありがとうございます。南無阿彌陀仏合掌高科修
@@buddhism_japan 明けましておめでとう🌅ございます
いろいろの人生を味わってありがたいと思ってます 自分の人生に感謝しかないです 後は自分を解放するから始めます🤗私に関わって頂いた方々に感謝いたします
感謝したいですが正解
お金持ちでもない 凄い幸せと思ってもいないのですが穏やかな一日一日を過ごせることが幸せなのかしらと思っております
今を生ききる。
惰性に流されてしまう情けない自分がいます。
一期一会を大切に、改めて噛み締めております。
私が心に留めているのは、最後まで母が子供のため、孫のために生ききってくれたことです。
限られた時の中でその瞬間、その瞬間を生ききってくれたことです。
感謝しかありません。
そんな事を毎回思い出させて頂ける説法をこれからの人生の糧として、活かして行きたいと思います。
ありがとうございます。
三宅様
自分はさておき、父のため、子供のため、孫のため、そう人生を生き切った利他のお母様。
その利他のお母様の生きる姿を、心に留め、その姿から感謝と学びと決意を気づいておられる三宅様に、私は心から合掌(敬意・感謝・尊敬・学びを込めた)をせずにおれません。
三宅様。
お母様の「利他」は
お母様自身の「自利」でもあったのです。
この自利は自分の欲望・得することを満たすという意味ではありません。
お母様の「自利」は、お父様を、子供を、孫を、「愛し慈しみ尽くす」ことがお母様自身の「喜び」であり「生き切る」生き方の「自利」だと私は感じています。
お母様は…
愛すことが(尽くすこと)が、自身の喜びであり生き甲斐であったと。
それはそれは深い「愛」
それはそれは深い「母性」と言えるものかもしれません。
三宅様。
三宅様はお母様からすれば「子」です。
しかし、お孫様からみれば三宅様は親です。
そしてお孫様は「子」です。
お母様の利他。
お母様の自利。
それは三宅様にも備わっているものです。
なぜなら…「親」とはそういうものだから。
なぜなら…三宅様は利他・自利のお母様の子供だから。
どうぞ、お母様の利他・自利を受け継ぎながら生きていかれることを切に願っております。
合掌
高科修
高科先生のこのユーチューブで知ってから、自分の宗教感が変わりました。
知りました。
今までは、兎に角墓参に行くことで先祖に対し感謝して生きてきた積りでいました。
大きな間違いでした。お寺との事、色々在りまして、紋々の日々をここまで過ごしてまいりました。
根底から思いが変わりました。 慈愛を頂きました。 有難うございまはした。
yoshikoよつこ様
ご視聴、コメントありがとうございます。
自分より先に亡くなられた方々は皆誰一人漏らさず「仏」です。
誰一人漏らさず「願い」です。
まして、大切で愛した人、大切に愛してくれた人ならばなおさら身近な仏です。
願いです。
その仏(願い)は、私が思えば「そこ」にいます。
間違いなく!
yoshikoよつこ様におかれましては、仏(願い)の中に包まれて生きておられることを感じて頂き、生活をされていかれることを、切に願っております。
合掌
高科修
とても深く有難い法話に出会えたことに感謝します。毎度の法話、有難く拝聴させてもらってます。 南無阿弥陀仏。
カツ様
ご視聴、コメントありがとうございます。
ますますの精進に努めてまいります。
南無阿彌陀仏
合掌
高科修
高科修様
いつも 有難い法話を
ありがとうございます。
毎日毎日 法話を聴いてはなるほどと 未熟者の私 反省しています。
初心忘るべからずという
言葉は 若い頃から
よく耳に慣れ親しんだ
言葉のひとつでございます。日々の生活をしている内に これで間違いないのかと よく自分自答して 人生 結婚 離婚
転出 と何度も 涙が出て
今 振り返っても 我慢我慢の人生でした。
息子達に支えられて
支えての毎日ですが
今現在が 一番人間らしい充実した生活を送っております。
ご先祖様のご加護も充分に有り難く感じております。
今年も高科様の法話を
心の支えにして 生活していきます。
どうか お身体に充分
お気をつけて下さい。
南無阿弥陀仏
とみあさちゃん様
ご視聴、コメントありがとうございます。
96歳で亡くなった明治生まれの祖母が、よく言っていた言葉があります。
修…
上、見りゃ キリない、
下、見りゃキリない、
今、が一番よいのやぞ!
と…
これは、上を見ることは嫉妬と羨望となり、どんなに望んでも世界の王などにはなれないだろう!
下を見ることは、自分より下だとの思いから、差別と蔑視を我が心に目覚めさせる。人の苦しみ辛さ悲しみを自己満足の道具にし、人の心を失わさせてしまう。
だから『今』を『うん』と頷いて生きていけ…
とういうババの深い知恵でありました。
『今現在が一番人間らしい充実した生活』と、
とみあさちゃん様がキッパリと言い切れるのは、間違いなく、
とみあさちゃん様が積み重ねてこられた人生の時間、経験があればこそであります。
とみあさちゃん様。
どうぞ、その とみあさちゃん様の仰る『我慢我慢の人生』を辛いものだけにしないでください。
『我慢我慢の人生 』あればこその『今 』、そして今を『充実した生活』と感じることが出来るのだと自分の積み重ねた人生を誇って欲しいのです。
私は(とみあさちゃん様)自分の人生を、私なりに一生懸命に生きてきた!と。
そのことを、どうしても、とみあさちゃん様にお伝えしたく、返信が長文となってしまいました。
最後まで読んで頂き、ありがとうございます。
合掌
高科修
真宗大谷派 高科修様
私の拙い文章に ご返信下さいまして 有難うございます。
過ぎ去った人生を 恨む事なく
私の生きて来た人生 これは
試練だと思って 生きます。
苦あれば 楽ありと昔から申します。昔があったから 今が有る
そう思って 今年67歳になります。
高科修様の大切な 奥様と
末長く お幸せで毎日 健康で
お過ごし出来ますよう
お祈りさせていただきます。
有り難うございました。
いつも良いお話し有難う御座います
たしかにその日その日
毎日ちがいがあります
今日は何か有るかなと
思いますね今日も
元気で楽しみです本当有難う御座います生きて生活をただただおくるではなく
今日は何か少しでも
良いあれば
感謝を忘れ無いで送りたいですね
有難う御座います
教子 細川様
ご視聴、コメントありがとうございます。
毎日、感謝を忘れずに生きていくと仰る教子 細川様のお言葉に敬いと尊敬を感じます。
ありがとうございます。
合掌
高科修
有り難う御座います。🦿🙏
泥八 正見亭様
ご視聴、コメントありがとうございます。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
私達門徒は日々仏様への感謝です❗
MIKAZUKI龍崎様
ご視聴、コメントありがとうございます。
MIKAZUKI龍崎様の仰る『仏様への感謝』
その
『仏様』とは…
『感謝』とは…
その中身は何を指しているのでしょうか?
MIKAZUKI龍崎様の仰る、
その『仏様』を…
その『感謝』を…
MIKAZUKI龍崎様ご自身はどう捉えておられるのでしょうか?
当派真宗大谷派には、
『自己とはなんぞや…
これ真宗』
という言葉が代々と受け継がれ、その言葉が当派真宗大谷派(東本願寺)の宗教的な『芯』または『軸』になっております。
同じ真宗十派の中でも、得に当派大谷派は、『今を生きる』という自分自身への『問いかけ』を徹底的に追及していくことに特化した『派である』と言えます。
それ故の、動画でのお話しであります。
そして、それ故の、MIKAZUKI龍崎様へのこのようなご返信で御座います。
お西(本願寺派)の方とは存じておりますが、このサイトは、同じ真宗でも『大谷派』で御座います。
このような返信なりますことご理解の程よろしくお願い申し上げます。
合掌
高科修
良くわかるお話です。
府に落ちるお話、大事に聴かせていただいております、
Masakazu Sato様
ご視聴、コメントありがとうございます。
南無阿彌陀仏
合掌
高科修
南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏
マツタカエクコ様
今を生きる…
南無気づけ
阿弥陀仏気づきました
の南無阿彌陀仏の生き方であります。
南無阿彌陀仏
合掌
高科修
今回も 素晴らしお話 ありがとうございました。
改めて 今の自分を見つめ直そう。と動画を拝見させて頂いた後 思いました。
今日と言う日は二度と来ない。
今日の自分には二度と会えない。
日々 勉強です。
1日1日を大切に 今日も元気で1日を終えれた事に感謝し、命ある限り 日々 学び 反省し 感謝し………
生きてるって 素晴らしいと思いました。
最後の「おまけ」‼️
高科ご住職様のお人柄が わかります🤭
高科ご住職様の笑顔には 心 温まるものがあります。
是非「 NG集」作ってくださいね😊
土畑さおり様
「生きてるって 素晴らしいと思いました」
このお言葉に、私自身が救われております。
そしてこのお言葉に、胸から熱いものが込み上げて参ります。
ありがとうございます。
NG集」はもう少しNGが貯まってから…かと(苦笑)
大丈夫です(笑)
編集担当者はやる気満々ですから(笑)
合掌
高科修
有り難う御座います今日は透析治療に行きます
仏法を聞く事が今の私にはさいだいのかこころの糧です
3脩 影山様
ご視聴、コメントありがとうございます。
どうかどうか…
お身体、御自愛下さいますようお願い申し上げます。
「こころの糧です」
この3脩 影山様のお言葉に、襟を正し、ますますの精進を邁進致します。
合掌
高科修
昨年の5月に配信された「娑婆を生きる。生きていく」という動画と私自身、テーマが重なり遡って拝聴させて頂きました。話される内容や言葉は違っても、根本的な教えは同じでありました。種をまかれ、種をまいていく。これが娑婆を生きていく事である。と。
まさに今のこの時を二度とない今を大切に生きていくことが自分の人生を生ききっていく事だと!
ありがとうございました。南無阿弥陀仏🙏
PS;昨日(24日)メール送らせて頂きました。
Kawaguchi様
ご視聴、コメントありがとうございます。
追伸に書かれておられるメール。
確かに拝読させていただきました。
今現在のKawaguchi様の近況とお気持ちを綴られものとして、了解させていただきました。
ありがとうございます。
親鸞聖人は、
「面々の御計らい」
と言う言葉を使い、一人一人は皆漏らさず一人一人の人生を生きている。
一人一人が一人一人、自らの人生を自ら考え気づいていかねばならない。私(親鸞聖人)自身は師である法然様の生き様から学んだことを胸に生きているだけだから…
そうお話をされております。
人生を生き切ろうと生きている人に出会い、そう私も生きようと、その生き方を思いおこしながら、私自身の人生を生きていく。
私自身の責任で私の人生を生きていく。
それは一人一人が、一人一人自身で考えて行かねばならないことであるという主旨のお話であります。
私自身の生き切るをお話をして今回のKawaguchi様への返信とさせて頂きます。
お寺の行事前、年に4回、阿弥陀如来立像をお祀りしている内陣と呼ばれる場所を掃除します。
内陣内の畳を全部外し、中の仏具をすべて外し、吹き掃除をします。
一人で始めれば半日はゆうにかかります。
その度に「あ~めんどくさい」と思ってしまいます。
「ここの場所、こんな隅、角まで埃や汚れ取らなくていいやろ~」とか思ってしまいます。
その度に反省です。
「あ~衣(僧衣)着てる坊さんなんに、なんておうちゃくなんやろ」と!
この「おうちゃくな私」という自覚が大切なのです。
人間おうちゃくなのです。
でも「自分のおうちゃく」を認めようとしません。
まず「自分自身のおうちゃくを認める」ところからすべてが始まります。
自分が「おうちゃく」だとわかれば、「キチン」とするようにすれば良いだけです。
キチンとできなければ、またおうちゃくやなぁ~と反省します。
次はキチンしようと!
でもまたキチンと出来ません。
だからまたおうちゃくやなぁ~と反省します。
次はキチンとしょうと!でも………永遠に続く堂々巡りです。
この堂々巡りが大切なのです。
堂々巡りがあるから、人は人を許したり、優しくなれるのです。
「俺もお前と一緒やわ」と。
自分自身をおうちゃくやなぁ~と認められない人は、そこに絶対反省はありません。
なぜなら、自身のおうちゃくに必ず別の理由をつけるからです。
「~だから出来ん」
「~やし出来んし、しない」
「だって~やし」
「今はそんなこと流行らんし」等々………
したくない、もしくはめんどくさいの理由付けならみんな天才的です。
だからこそ(私自身もふくめて)「おうちゃく」の自覚がいるのです。
私自身の「生き切る」
私自身の「三つ初心忘るべからず」は…
「おうちゃくの反省」
です。
合掌
高科修
高科様
生きる為に
努力を続けてある
どんな時も継続しておられる
あらゆる人々へ
届けと
修行のお姿に見えます
見つめていました
自分の気持ちに格闘
何が自分の心なのかを
ここで腹をくくれました。
ありがとうございます🙇♀️
信念を貫く高科様
ぶれない
心身 一体
身体が壊れると
心がざわついてました。
恐怖の日々でした。
腹をくくって
金曜日
手術をうけます。
高科様
これからも
どうぞ 頑張って下さい。
応援してます。
美穂 濱田様
「人に歴史あり」
そう申します。
その人の人生。
たとえ小学生にも、その「生」を重ねてきた「積み重ね」の分だけ歴史があります。
美穂濱田様にも、今を生きているそのことも含めての重ねてきた、いえ、重ねている歴史があります。
その歴史とは、楽しいことも嬉しいことも、また辛いことも意にそぐわないことも含めた私自身の人生のことです。
存ぜぬこととはいえ、ご病気でおられたこと、心が痛みます。
さぞ心重く、恐かったことでしょう。
いかなるご病気かはご推察することもかないませんが、いかなるご病気でも、心細くなり不安になるものです。
その心細さ不安の心情を察するに、胸が張り裂けそうになります。
私は何も力になることができません。
ですが応援することは出来ます。
祈ることは出来ます。
願うことは出来ます。
そして…
腹をくくって、
金曜日
手術をうけます
という美穂濱田様を
尊敬し敬うことはできます。
どうぞ勇気をもって手術に…
どうぞ堂々と胸を張って手術に…
お向かい下さることを切に切に切にお願い申し上げます。
合掌
高科修
高科様
ありがとうございます🙇♀️
願ってまで頂ける
感謝します。
しっかり 心の
お守りにします。
人生に ながさでなく
深さだと
高科様が
宇宙の中で
ちりの一つにもならない 今の私に
願ってくださる
胸を痛めてくださる
勝手の良いときばかりで 失礼している
私に
ありがとうございます🙇♀️
心にお守りを
胸をはって
深呼吸 落ち着いて
目を閉じます。
勇気をありがとうございます💐
高科様
今日 背中の痛み止もとれ 自分で
トイレ頑張ってます。
術後の痛み
熱が下がらないとと
お水 スポーツ飲料飲んでは
厳しいトイレへ
日頃できる事に
感謝です。
高科様
お祈りをありがとうございます。
おかげ様で
頑張ってます。
心に灯火🕯️を
今も 燃えてます🍀
美穂濱田様
無事に手術を終わられたこと。
「背中の痛み止もとれ自分でトイレ頑張ってます」とのこと。
良かったです!
本当に良かったです!
安堵いたしました。
そして、手術後のご連絡を頂けたことに、感謝致します。
ありがとうございます。
金曜日の手術。
ただ祈ること
ただ願うこと
それしか出来ない私でした。
ご連絡を頂けたこと、たいへん有り難く感じております。
熱が下がらない
お水
スポーツ飲料飲んでは
厳しいトイレへ
とのこと…
どうか焦らずゆっくりと体力、体調、ご病気の回復にお努め下さい。
けっしてご無理をなさらねように、切にお願い申し上げます。
合掌
高科修
@@buddhism_japan 高科様
ご祈願 ありがとうございます🙇♀️‼️
朝方 熱も下がりました。
先ほど
内診も
子宮全摘後
綺麗と言って下さいました‼️
独占使用してしまいまして
大変申し訳ありませんでした🙇♀️
生きる‼️に
まさに生きる🎵
よくわかりました。私は生きるのに計算してきましたが、生きるのに計算なんていらないですね。初心を忘れないで今を大切に大切に生きたいと思いました。ありがとうございました。同じ過ちを過ごさないように計算して生きるのは間違いでした。
中村友子様
ご視聴、コメントありがとうございます。
「同じ過ちを過ごさないように」
それは人として至極当たり前の感情です。
誰もが誰一人漏れなく抱く思いです。
私自身も例外ではありません。
だからこその「三つの初心忘るべからず」なのです。
計算も打算も損得勘定も、どれも計算通り、打算通り、損得勘定通りには、決して成りません。
得てして思った通りに成らないことの方が多いのです。
だからこその「三つの初心忘るべからず」
唯一つに「今を生きる」
その姿が自分自身で自分自身に胸を張って生きていける道をだと私は思っています。
合掌
高科修
「おまけ」で、思わず笑ってしまいました。😅
失礼・・・熱心に教えを撮影しているのが好感を持ちます。
今回も、ありがとうございました。
とし爺様
毎回のご視聴とコメント。
誠にありがとうございます。
たいへん嬉しく感じております。
合掌
高科修
世阿弥の言葉、初めて知りました。
なるほど、深い言葉だったのですね。
「生き切る、今を生きる」それは、
常に自分を見つめ直して生きて行け、
それを積み重ね続けてゆけ、ですね。
過去の法話とも、重なってますね。
少なくとも、ご住職の動画を見る度に、
その意識を持ち続けなければと、
自分に言い聞かせている状況です。
故意に斜めから見るような視点ですが、
敢えて伺いたい事があります。
何故に、そう生きろと説くのですか?
鈴木@新潟 50歳
P.S. おまけ、爆笑しました!
.
202 BEAM様
「何故そう生きろと説くのですか?」
それは…
そう説かずにはいられない私自身の…
それが…
「業(ごう)」
だから。
なぜ「業」なのか。
それは…
わたしが浄土真宗の
「僧侶」
だから。
なぜ「僧侶」ならばそうそうなのか。
それは…
浄土真宗の教えを私自身が「そう」了解したから。
そして、この生き方が、私の中の
「南無(気づけ)阿彌陀仏(はい気づきました)」
だから。
そしてこの
南無阿彌陀仏が、私自身が生きているその生きるを「生き切る」ものにしているから。
その事に他ならないからとお答え致します。
生まれてからの一年一年…いろいろな出来事に出合い(出会い)生きている。
これが「因(種)」
その出来事から、様々な事を学んできた。
教えられてきた。
気づかされてきた。
喜び、悲しみ、愛、友情、思いやり、憎しみ、怒り、嫉妬、慢心…
これが「縁(水や太陽・等々)」
この因(種)と縁(水・太陽・等々)によって、三つの初心わするべからずの生き方に目覚めた。
これが「果(花)」
この因縁果から、そのことを説かずにはいられない私(業)がいる。
そうご理解頂ければ有難いです。
合掌
高科修
返信、ありがとうございます。
哲学的に考えさせられてます。
なるほど、ご住職の因縁果なのですね。
全く意図せぬ回答に、戸惑いながらも、
その内容を考えて、思考を回してました。
例えば、
(A)人としての正しい在り方のために、
(B)自分や他人をHappyに出来るから、
のように、何かの目的・目標・目指すモノがあるから
「(i)そう生きる」のが良い、
と理由付けするのかと、想像してました。
だけど、法話内に、そんな観点は見あたらない。
なぜだろう?
私は、何を理解できていないのだろう?
「そう生きる」が「果」である、
ご住職の言葉を聞いて、考えてました。
巧く文章に出来ないのですが、
私の思考だと逆ですかね?
つまり...
(A,B)の目的のための、方法論としての(i)、
ではなく、
(i)で生きる事により、
(A') 人として正しい在り方、
(B') 結果的に、自分も他人もHappy
な状態になっていく、のでしょうかね。
尤も、(A,B)を目的・目標にしてると、
いずれは自分が「無理をする」ことになりそうです...
202BEEM様
(A) 人としての正しい在りかたのために。
(B) 自分や他人をHappyに出来るから。
だから「三つの初心忘るべからず」と説く。
至極当然で理屈に合う理由です。
しかし…
人として正しい在り方。
突き詰めて考えていくならば、私たちは正しく在り続けれるでしょうか。
正しい在り方とは…
嘘は正しくありません。
けれど優しい嘘もあります。
人を殴ることは暴力で正しくありません。
しかし殴らなければならないこともあります。
怒りからでも、愛からでも。
自分や他人をHappyに出来る。
けれどそれも突き詰めて考えれば、それは自己満足に陥ったり、自己犠牲を美徳とすることにつながりかねません。
くわえて…
202BEEM様もご自身で仰っておられる通り「いずれは自分が無理をすること」になるのです。
AもBも目標・目的にすることは良いことです。
素晴らしいことだと思います。
必要です。
ですが、実はAもBも「感じる」ことなのです。
自分自身が。
結局は自分自身の「生き方」に戻って来るのです。
三つの初心忘るべからずの生き方は、自身自身の人生を、今を生きる・生き切る人生にしてくれます。
三つの初心忘るべからずの生き方は、どんな困難なことが私自身に起ころとも、それを腐らず諦めず投げ出さずに対処していける力になります。
喜びはさらに喜びとなり、感謝はさらに深い感謝へとかわり、慈しみはより愛のこもった慈しみとなります。
三つの初心忘るべからずから導き出される、今を生きる・生き切るという生き方は、死という別れさえも凌駕します。
故に、この生き方に目覚めた者は…
故に、この生き方を生き方として生きている者は…
この素晴らしい生き方を伝えずにはいられなくなるのです。
それこそ、自分ではどうすることも出来ないほど伝えずにはいられなくなるのです。
まさしく「業」です。
その伝え方は様々です。
言葉であったり、文章であったり、そして自身の生き方・生き方を見てせいくことであったり。
自分自身の生き方が、この三つの初心忘るべからずの生き方をするなら、心得て生きていこうとするなら、必ずその生き方は伝染していきます。
その伝染こそが伝灯なのです。
業こそが伝灯です。
202BEEM様は、もうすでに伝灯を受け継ぎ、伝灯を受け渡す人なられていると思います。
自分が無理をする必要は微塵もありません。
202BEEM様が、三つの初心忘るべからずの生き方を心得て生きていけばよいのです。
さすれば、AもBも、202BEEM様が求めるものは自ずと付いてまいります。
202BEEM様様がA・Bを202BEEM様の「願い」(あえて目標・目的の言葉は使いません)とされておられるよに、私・高科修自身の「願い」はあります。
愛別離苦を…
このどうすることも出来ない「死」という別れ。
そして自分自身も死んでいかねばならないという事実を…真摯に受け止めて…自分自身(私も含めた皆)の人生を死ぬまで生きて欲しい。
これが私の「願い」です。
なぜそう願うのか?
それは私が僧侶で、24時間365日死という別れで泣き悲しみ苦しみを抱いている人が目の前にいるからです。
そして私自身が死という別れを受け入れ、そして自分の人生を生き切ると生きていこうとしているからです。
伝えずにはいられません。
そして、この死という別れを真摯に受け入れた生き方は、
今より確実に世の中を優しくしていきます。
人にも、動物にも、自然にも…
厳しさも優しさです。
辛さや苦しみを経験することも優しさにつながります。
もちろん喜びも慈しみも優しさにつながります。
世の中を作っているのは個々の人間一人一人です。
一人一人が、自分が関わるすべての「死」から学び気づかなければ、一人一人が、自分の人生を自分の責任で生きていくと自覚できません。
結局は最後は人間一人一人の自分自身の「生き方」を問うことになるのです。
この問うは、考える・学ぶ・気づいていくという意味です。
「人生を生き切る」
と生きている人と出会って、今を生きるとはどういうことか、生き切る人生とはどういうことかを、学ばせてもらった。
そしてこの師とも、私が先か老僧が先かはわからないけれど「死」という別れは必ず来る。
だからこそ、「生き切る」と学んだ生き方を思いおこしながら、そう生きたいと願っている。
しかしながら、
師事した老僧のように、私は生きられません。
何故なら、私は老僧ではないからです。
何故なら、私は高科修という一人の人間だからです。
何故なら私は、私においての責任で、私の人生を生きようと学んだからです。
ある意味、このお坊さんの小話の動画は「説いて」いるのではないのです。
生き方に触れ、死に触れ、
その生き方が伝わってきた!
様々な出来事に合いそこから、南無・気づけ、阿弥陀仏・はい気づきましたと受けて、すべてを南無阿彌陀仏として生きている。
そういうお話をしているのです。
故に法(生き切るが伝わる)の話(自分自身に伝わった)。
だから法話なのです。
説教でもハウツーでもなく、
講義でも講演でもなく、法話なのです。
だからこそ、動画での姿も、NGの姿も、有りのままを見てもらい、その事が伝われば、私の生き方から何かを感じ取って頂けたならと思っているのです。
親鸞聖人は、
「面々の御計らい」
と言う言葉を使い、一人一人は皆漏らさず一人一人の人生を生きている。
一人一人が一人一人、自らの人生を自ら考え気づいていかねばならない。私(親鸞聖人)自身は師である法然様の生き様から学んだことを胸に生きているだけだから…
そうお話をされております。
「死を真摯に受け止める」
ということは、あらゆることの基礎となるものです。
「一人一人の人間が、お互いにお互いを大切に大事にしながら生きていく」
このことに繋がっていくことだと思っています。
202BEEM様の
「何故、そう生きろと説くのですか」
の問は…
私自身に、私自身を問う大切な時間を頂きました。
あらためて自分自身を問う機会を頂きましたことに、感謝いたします。
ありがとうございます。
合掌
高科修
長文の返信、本当に、感謝申し上げます。
(携帯でのボタン入力なんですよね… 絶句です。
Siriでの音声入力を、ご検討下さいね)
>(この)生き方は、どんな困難なことが私自身に
>起ころうとも、それを腐らず諦めず投げ出さずに
>対処していける力になります。
>喜びはさらに喜びとなり、感謝はさらに深い感謝へ
>とかわり、慈しみはより愛のこもった慈しみとなります。
明確なこの文章に、心を打たれました。
はい、感動と共に、同感している自分が居てます。
(A,B) は、確かに、自分が感じるコトですね。
万人が共通して定義できる事象でもなく、
自分自身が判断していくことであるし、
時には、判断の是非さえ、自問自答する必要がある。
つまり「見つめていく」必要がありますね。
結局「生き方」に戻ってくる、納得です。
この生き方、これが全てのベースなのですね。
1番下、根本なので、理由も何も無くて当然ですね。
故に、私の問い「何故に、そう生きろと説くのですか?」は、
非常に難しい問いであった、と分かりました。
ですが、ご住職は、それが、
皆に伝えれずには居られない「業」だと答えられた…
その感覚、少し分かる気がします。
自分の生き方が、他人に好影響を及ぼすなら、
私自身、まさしく、願っても無いことです。
ですが、ますます自分を律すると言うか、
自分を見つめ直す事が大切になりそうです。
一方、後半の哀別離苦。
コレに関しては、理解度が、なかなか上がりません。
両親の死でさえ、そのまま受け入れることができて、
「哀・苦」にはならなかった私です。
要は、哀・苦の経験が無いのです。
決して、凌駕してた訳では、無いと思いますが…(笑)
妻・息子・娘の死には出会いたくないですが、
(統計的確率としては、あまり高くないでしょう)
必ず訪れる自分の死に関しては、
避けずに、見つめる必要があるのでしょうね。
結局、死(一大事)を自分自身に問うことが、
上記の「生き方を考える」に直結するのですね。
両者の関連性を、私は見いだすことが出来てません。
今の私には、あまりにも大きな命題です。
子供達が成人して社会に出たり、
自分が定年退官になったら考えるのかな?
(まだ15年も先ですが… )
ただ、焦らず、考え始めてみよう、
漠然と、そう感じている次第です。
順番として、親の次は、自分なのですから。
来年度(雪が無くなって)のどこかで、
金沢にお伺いしたい、そう願うようになってきました。
P.S. 長文故に、コメントが消える等の事態になったら、
mailで再送信させていただきますね。
たぶんそういうことばかりですね☆サンクス☆
ジンナマ様
たぶん…
何が…
そういうことばかりなのでしょう……
南無阿彌陀仏
合掌
高科修
高科様、私は何故産まれてきたのですか?
マツタカエクコ様
『生まれた』
から
生まれてきました。
そこに、『なぜ』は要りません。
生まれてしまっているのです。
すでに!
重大で大切で、気にしなければならないことは…
なぜ?生まれてきたのか!
ではなく、
どう生きて行くか!
であります。
南無阿彌陀仏
合掌
高科修
今日も ありがとうございます。
また一生懸命に私達に教えて下さろうとしてくださり ありがとうございます。
私は ここ何週間か 悩んでおります
よく 自分に合わない人とは無理をして居なくてもいい
と読んだり聞いたりしますが
その 相手が高齢で病気がある母の場合 無理なので とおもいます
母とは …
子どもが嫌いだったらしく
私の上に姉 下には弟がお腹にいたそうですが
どうしても産みたくないと産まなかったそうで
私だけ父が産んで欲しいと頼んで頼んで産んでもらったと
そんなこんなで 母が私を遠ざけていましたので
家に居ても父が居ないときは自分の部屋からは出ず
高校を卒業してからは 直ぐに家を出ました
結婚しても ほとんど帰りませんでしたが
父の要望もあり 一緒に暮らす事にしてから
母のあからさまな言動で 自立神経を壊し
救急車で何回も運ばれたり 部屋からも出られなくなり
子どもの面倒も見られなくなり
別居をすることに成りました
それ以来 父が痴呆になるまでは疎遠でした
また一緒に暮らすように成りましたが
父もなくなり
母も食事なども作れないので
頑張って私が母に合わせて暮らすよう努力してましたが
食べ物の好き嫌いも激しく
いろいろ作ってみても 食事になると
あらさらさまに 嫌な顔をしておかずをみたり
ため息をつきながら食べたりと
特に また最近は酷く成ってきまして
でも 母を一人にも出来ず
デイサービスにも わがままな性格のせいで 周りの人と合わず
何回もサービス先を変わったり休んだりとで
どうしよう と
前のように病気には成りたくないし
悩んでいましたが
このお話しが また聞きなさいと言うように 飛び込んで来てくれました
時々の初心忘れるべからず
そぅですね
一日 半日 十分 その時その時間 母に新しく合うと思えば
何とかなりそうです
ずっとずっと隣に座っているわけでは無いので
母は昼前まで寝て昼ご飯を食べたら また夕方まで寝ますので
起こさないように 静かにして用事や家事をしたりすれば
子どもや主人が帰って来ると気分もホッとしたりしますので
その時々が 今日が初めて と
気分を立て直して
なにか有っても まただ、とか思わないで
これは 今日が初めての出来事ですよ と自分に話かけていきます
ほんとうに 自分の感じかたも良いのか悪いのかも
母の毎回の感情ですら 毎回毎回
同じでは無いですし
いろいろ 教えて頂いて 考えさせて頂いて導いて頂き
ほんとうに いつもありがとうございます。
その時々の出来事が初めて
恵 船本様
先ず一番に大切なことは…
先ず一番に重要なことは…
恵船本様ご自身が病気にならないことです!
恵船本様が心身ともに元気でいることです!
そのための手段は、何をどうしようとも最優先です。
お母様のお世話よりもです。
なぜなら、恵船本様が病気になり、心身ともに落ち込んだなら、誰もお母様のお世話をする人が居なくなるからです。
その一点だけをみても、貴女が…
貴女の…
生活、精神状態、身体状態が良好であるように努めることが、どんなことよりも最優先です。
子としは、合わない人とも居なくてはなりません。
たとえ親子でも、合わない人とは合いません。
それはイケないことでも、悪いことでもありません。
そういうものです。
それが人間同士の関係です。
故に…お母様のお世話を…誠心誠意でする必要はありません。
子として、しなければならないことを淡々と行えば良いだけです。
そこに嫌気があっても…
そこに恨みがあっても…
そこに怒りがあっても…
その感情を押し殺したり、無くしたりの努力はいりません。
あるがままの心情のまま…子としてしなければならないことをすれば良いのです。
『あなたは…
あなたのままで良い』
とは、そういう事です。
次にお母様のこと…
自分が殺そうとした(殺した)我が子に、今自分が世話をしてもらっている(生かしてもらっている)……
なんと恐ろく深いお母様ご自身の『業』でしょうか。
食事に文句を言い怒り…
ため息をついてしか食事も出来ず…
まわりの人を嫌い、文句を言う…
毎日が文句と怒りと憎しみと妬み嫉みの心中で暮らしているのだと思います。
ある意味…地獄!
そして自分が地獄に居ることすら気づいていない。
それがまた地獄なのです。
その地獄から、脱出する道は目の前にあります。
簡単なことです。
『自分が殺そうとした(殺した)我が子に、今自分が世話をしてもらっている(生かしてもらっている)』
この事実(業)に心底頷くことです。
心底頷けたなら…
あとは…
『ありがとう』
と
『ごめんなさい』
しか、口から出てこないはずなのです。
お母様が、このことに、気づくか気づかないかは、お母様ご自身の問題です。
一生気づかなくても、それはお母様の一生です。
どうすることもできません。
ただ、出来るならば、ご自身の『業』に気づき、
ありがとう
と
ごめんなさい
の
言える一生であって欲しいとは願っておりますが…
恵船本様。
今、目の前にいるお母様は、気づかずに生きている人の姿です。
業を背負わずに生きている人の姿です。
気づける人。
業を背負って生きている人。
その人からは、
ありがとう
と
ごめんなさい
が出てきます。
恵船本様。
恵船本様こそ、気づきを知り業を背負って生きておられる人であります。
その方には、
ただただ敬意と尊敬を致すしかございません。
人の真摯に愚直に生きる姿を見させて頂きました。
ありがとうございます。
追伸
重ねて申し上げます。
恵船本様ご自身の、心身の万全を、最優先にお考え下さいませ。
このことは、切に切に切にお願い申し上げます。
追伸の追伸
本来この言葉は、膝を突き合わせて相手の目を見てお話しをする言葉であります。
なぜなら、そうしなければなかなか真意が伝わらないからです。
しかしながら、あえて、この言葉を『今』恵船本様にお掛けしたいのです。
ご了承下さいませ。
恵船本様。
貴女は…
『今!生きて、ここに存在している!』
この『事実』に胸を張り背筋を伸ばし堂々生きて下さい。
合掌
高科修
@@buddhism_japan 深いお話しを
ありがとうございます。
確かに
母はありがとう ごめなさい
が殆ど言えない人です
他人の方にも親戚の方にも
上辺のつくろいの言葉だけで
可哀想にと母の事をおもいます
亡くなる前には心底 幸せだったと感じてもらいたいのですが
でも言われる様に
そういう付き合い方も 決して無理をしない
しなやかに生きて行けるように
心を持って行かせて頂きたいと思いました。
いつもいつも
ありがたいお言葉と気付き導き
心より感謝しております
毎回毎回コメントをすればお忙しい中 時間を取らせ申し訳ないとは思っていますが …
これからも 宜しくお願いします。
ほんとうにありがとうございます。🙏
@@buddhism_japan 先ずは 深くお礼申し上げます。
と
言いますのも お坊さんからのお返事を貰いまして
とてもとても不思議ではありますが
母の言動が変わりまして
ご飯を食べて
ああ、美味しかった、と言いまして
あまりにもびっくりして
え…?! と思うばかりで
声も出ませでした
どうしたんだろう と思うばかりでしたが
それから どう言ったら良いのか
下から睨むように人を見ていたのが無くなり
ため息を付くのも無くなりました、
ありがとうございます。
お坊さんにお話しをして良かったです。
それまでは 言えば悪口になるし愚痴にもなるしと
言わずにおりましたので
不思議です
お坊さんにも たまりかねて書き込みをいたしましたが
あとから お坊さんに嫌な思いをかけたと後悔したり
迷惑をかけました、とお祈りしたしましたが
ありがとうございます。
ほんとうに お話しをさせて頂き良かったです
ちなみに 今日はお昼に主人が帰ってきたら
お帰り、
と言ってくれました。
ほんとうにありがとうございました。
お陰で不思議な事がおきました。🙏
恵 船本様
お知らを頂き、ありがとうございます。
本当に不思議ですね…
不思議なことはこの世の中に確かにあります。
でも…
それは…
たぶん…
恵船本様のお母様への接し方、話し方が、恵船本様が意識しない意識下で、変わったからだと思います。
恵船本様ご自身が発する雰囲気…
恵船本様ご自身が発する、意識すら出来ない言葉の響き…
それらが変わったからだと思います。
言えば悪口になる、愚痴になると、我が心の内に積もらせ積もらせ積もらせて積み重ねられたモノは、黒く深い闇になり、いつしか全身から発せられます。
それは、本人も気づくことはなく意識することも出来ないモノであります。
自身の闇を吐き出されての恵船本様。
闇を認めて、その上でお母様に接していこうと覚悟を成された恵船本様。
その貴女様の『姿』がお母様をそうさせたのだと思います。
このことも、お母様をそうさせた一因でもあります。
恵船本様。
貴方様は、素敵な方であります。
合掌
高科修
@@buddhism_japan 心より感謝きたします。
自分が気が付かない所まで気付きを教えて頂き
ありがとうございます。🙏
有り難うございました。ははははっ先生の(今を生きる)今度の傘寿会のお礼の挨拶にパクらせて頂きます。もちろん
先生の小話からとはっきりと申し上げてのことで御座いますがお許しください。実はですね,寺の総代でございまして,なんとか考えてお参りの方にこれからの人生を意義のあるよう勇気づけたいと大胆なことを思うておりましたんで
泥八 正見亭様
ご視聴、コメントありがとうございます。
お坊さんの小話をご紹介いただけること、大変うれしく思っております。
ただ、お気をつけください。
お寺の総代をされておるということなので、ご年配の方だとご推察いたします。
この小話(法話)を聞いて腑に落ちていただいたのだと思います。
しかし、このお話しの肝は、まず自分自身を見つめなおすということです。
よく法話をしていてお聞きになった方から
「あ~いい話聞いた」「あ~ありがたい話聞いた」と言われます。
それだけだと、それで終わりです。
浄土真宗の場合は、そこから自分自身を見つめ直し、自分自身「今日も一日、一生懸命生きたか?」と反省しながら、毎日を生ききっていくという事です。
なぜ、こういうかと申しますと、
泥八 正見亭様のコメントからは…
・三つの初心忘るべからずをご自身が理解しているのならば
・ご年配の方であるなら
・みんなにこの話を聞いて分かって欲しいと思ったならば
そのコメントからは、最低限の礼節や、ご自身の反省を感じられるはずだからです。
泥八 正見亭様ご自身のコメントを
会ったこともない方から、自分宛てに初めて書かれた物として、お話しに感銘を受けたのでこの話を紹介したいと書かれたコメントとして、どうぞ読み返してみてください。
「あ~いい話聞いた、みんなに言ってやろう」という思いが伝わってきませんか?
ご紹介いただくのは、有難いですし大変嬉しいことです。
『お参りの方にこれからの人生を意義のあるよう勇気づけたい』
というお気持ちも素敵だと思います。
ですが、泥八 正見亭様ご自身が、
まず、三つの初心忘るべからずを忘れることのないよう切に切に願います。
コチラの動画もぜひご覧ください。
法話「自分のふり見て我がふり直せ」
ruclips.net/video/iZQ8MkqH0CQ/видео.html
南無阿弥陀
合掌
高科修
ありがとうございます。ちょっと文面を読み返してみました、舌足らずすぎの文面で申し訳ない思いです。
なんと、もうしますかあまりにも三つの初心のおはなしに感激し、その興奮のまま,返信してしまいました。お恥ずかしい次第です。先生からの叱咤の言葉心に刻んでお参りの皆さんに挨拶をさせて頂きます。重ね重ね有り難うございます。合掌
こんにちわ 和尚様 私はこの師走にお掃除しながら和尚様のお話を聞いております 何故かそうじが捗るのです そして嫌じゃないのです ありがとうございます
ご視聴、コメントありがとうございます。
私の「お話」が、そんな風に役立っているとは…
大変恐縮致しております。
ありがとうございます。
南無阿彌陀仏
合掌
高科修
@@buddhism_japan 明けましておめでとう🌅ございます
いろいろの人生を味わってありがたいと思ってます 自分の人生に感謝しかないです 後は自分を解放するから始めます🤗私に関わって頂いた方々に感謝いたします
感謝したいですが正解
お金持ちでもない 凄い幸せと思ってもいないのですが穏やかな一日一日を過ごせることが幸せなのかしらと思っております