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近所の造園業者の方は学生時代、国鉄の荷物車の積み下ろしのアルバイトをしていたそうです。ただし一度勤務に入ると2〜3日、長くて4〜5日荷物列車と一緒に全国どこかへ移動したそうです。またアルバイトには、国鉄全線乗り降り自由の専用乗車券(無期限ではなかったそうです)を渡されるそうです。どこに行くかはその日勤務に入らないとわからなかったそうで、大阪から門司あたりはともかく、人によっては青森まで往復した人もいたそうです。それぞれの駅での積み下ろし時間は結構すくなくて、本当に人海戦術で大変だったそうです。ただ、到着先での間合いの時間は結構余裕があったそうで、本当に行った先で観光などをしていたらしいです。聞いた話なので、「そうです」ばかりで本当にすみません。
赤帽の復活はなさそうですね。かつて、時刻表の主要駅のアイコンに「『赤帽』のいる駅」というのがありました。
むかし「鉄道ジャーナル」誌の「列車追跡シリーズ」で、東武浅草駅に赤帽さんがいらっしゃるという記事を読んだことがあったのですが、いまはもういらっしゃらないのですか?
赤帽が由来の運送会社は優秀ですけどね。
赤帽の復活は、荷物車が存在しない現状、見込みなさそうですね。赤帽さんが働いていた鉄道荷物株式株式は現存していますけど。
そういえばみなさんは手荷物を列車に持ち込むときに手荷物切符を買った経験はありますか?むかしよく駅に、大きさの見本のブリキの箱がおいてありましたが、最近では見なくなりましたよね。だいたいが改札口よこに、荷物の大きさや持ち込める個数、持ち込めないものを表示してあったものですが。
国鉄では貨物列車が貨物局が担当、荷物列車(郵政省所有の郵便車を含む)は旅客局が担当、荷物列車の途中区間に客車を連結して普通列車として運行をしてましたね、時刻表にも旅客列車の端に載ってました、ちなみに国鉄自動車局は国鉄バスの他にS58年頃まで国鉄トラックも運行してました。
国鉄荷物列車の時刻表は国鉄時代のものを見ると東海道線に最後の方に8列車くらい載っていますね。汐留発など懐かしいです。貨物局と荷物局って完全に分かれていたのですね。国鉄の中でも縦割りだったのですね
国鉄小荷物は紐をかけなきゃいけなかった。理由は、紐がないと投げにくいから。
相鉄沿線に住んでいた頃、西谷駅に届いた駅止めの荷物を父親と引き取りに行ったことがあります。子供ながらわざわざ指定された駅まで取りに行かないといけないなんて面倒だなと思ったものです。
143系は、シン―ツヌ間で乗務しましたね、旅客がいないので気が楽で乗務してました。
荷物車と言えば例のマニ30・・・いや、何でもない。
鉄道の過去の衰退の歴史と近未来への可能性。ワクワクする動画でした。
鉄道マニアではありませんが、懐かしい写真に見入ってしまいました。トラック運転手不足から、また荷物車両が日の目を見るかもしれませんね。作成ありがとうございました。
ありがとうございます。何よりです
キハユニ16懐かしい。小学生の頃水郡線で見ました。キハ10系の貫通顔ばかりの中に、時々やって来る湘南顔が大好きでした。
国鉄の荷物列車、東海道線でEF58が牽引していた「急行荷物列車」の印象があまりにも強かった。時刻表にも、東海道線の欄の最後に掲載してあったなあ。
確認しますと1977年の時刻表をみますと8本あります。汐留発大阪行、東小倉行、熊本行、鹿児島行とこの時は国鉄の全盛期だったのですね
ゴハチことEF58老朽化の為、後任は何が就くかとおもったら、動軸C-C配置のEF62への交代は驚きだった。でもよくよく考えれば、新性能タイプで直流専用のSG装備のELはあとEF61とかしか思い浮かばなかったが、大抵の系式はお役御免の状態だった。
EF62はEGだけどね。何処かに書いてあったらごめん。
EF64はEG付きとEG無しがあるね。
事業用車っていいよね〜、大好物だよ
国鉄143列車はいいですね。牽引車は今でもありますね。クモハ123に変えられてからはいろんなところで乗りました。中が角張っているので本当に自分が荷物になった雰囲気です。一番よかったのは中央本線大八廻りのミニエコーでした
キハユニは末期には郵便・荷物扱い無しで運用されていて時には編成の中間に組み込まれる事も有り、荷物室の執務席や郵便室の区分け席に座っている人も居ました…
それほど乗客が昔は多かったのですね。今では考えられないですね。キハユニの執務室で座っていれば業務の一部始終を見えることになるので怒号なども聞こえると思います
@@heitetsu4649昔の国鉄の荷物郵便列車の業務て怒号が飛び交ってたんですか?
昔、大阪の梅田貨物駅でバイトしたとき荷物のやり取りでいつもデカい声で怒っていました
福岡の実家が筑豊本線の沿線で14時台の門司港発原田行きがDD51+50系×4+オハニ36の編成で新聞の夕刊を積んでいました。オハニの客室部分は旧客時代は乗車できましたが50系になると締切り扱いになりました。
赤い客車ですね。あの客車は動力分散化の折にできた普通客車だったので運用が限られて短命だったですね。筑豊本線と言えば50系ですね。筑豊本線が電化する2000年くらいまで走っていました。客車の色とJR九州のコーポレートカラーがたまたま一致したからでしょうか。その当時は篠栗線もJR九州のキハ200系でした。私は播但線で乗りました。オハ二36だけは赤色のなかの茶色なので異彩を放っていたと思います。
キハ25型の一般車でも、アコーディオンカーテンで車内を3つに区分できる構造だったのを見ました。荷物車と客車の兼用でも客車よりの仕様だったんですね。もし飯田線にこれがあったらめっちゃ活用されてそうですね。
鉄道各社がコロナ禍で輸送力の落ち込んだ有料特急の代わりに産直便のような農産物の輸送を始めたりもしていますね。また、西濃運輸がのぞみを使用した宅配サービスをやっていたような覚えがあります。
どの動画も非常にボリュームがあり楽しませていただきました!個人的に房総の新聞列車を紹介して下さったのが良かったです。
JR東海(身延線)のクモハ123は飯田線に居たクモユニ147(5両/非貫通)とクモヤ145(2両/貫通)改造ですね。運用で沼津→芝川と言う列車が存在し、東海道本線の沼津→富士間の営業列車として1両単行の列車が走っていました。恐らく、東海道本線での最短編成はこの列車だったかと思います。
気動車のキニ28、58、キユニ28も短命ながら存在しましたね。キロ28、58からの改造でキハ40系並みの車体をしていました。
大阪生まれですが、小学生の頃ひ父親と一緒に「片町駅」まで小包を取りに行った記憶があります。
新幹線レールゴーも取り上げて欲しいなぁ。
あれは助かった。
地元でも小規模ながら、境港で水揚げされた松葉ガニを「やくも&新幹線」で大阪に向け期間限定で行ってますよ。
まだ荷物スペースがあるのですね。新幹線にあるのは知りませんでした
飯田線でも専用車のクモユニ147形が119系の最後尾に連結されて走っていましたが,需要が少なくなり、クモユニ147形は大垣電車区に転属して、113系の名古屋寄りに連結されて走っていました。その前はクモニ143形が113系に連結されて走っていました。夕方に113系の8両編成の浜松行の最後尾に連結されて、到着後は夜になり、豊橋発20時12分の普通の先頭で113系4両編成を連結した形で名古屋方面に走って行きました。その後は日中も客車による荷物列車が走っており、ホームに目印と列車番号を付けて、係員による停車位置を白旗で,夜はカンテラで合図していました。一番は夜で岐阜発青森行荷物列車の2030列車で豊橋20時21分着,31分発でEF62牽引の4両編成で途中の横浜羽沢貨物駅で増結して、1030列車に列車番号変更をして、走っていました。今でも忘れることがありません。でも飯田線で現在でも新聞輸送が残っており、始発の6時00分の天竜峡行に積み、大嵐駅で地元の新聞配達員に引き渡ししているということがあります。この列車が到着する5分くらい前にホームで待機している感じです。但し休刊日は無しです。これは駅の清掃の担当をしている東海整備の社員が仕訳をしており、駅が開く5時10分に各売店に配布するともに飯田線の始発にも積むことをやっています。東海道線も一時的に最後尾の車両に荷物室を設け、各駅から荷物を回収していましたが,取り止めになっています。以上
鉄道写真家の荒川好夫氏の写真集に盆暮れの帰省列車の荷物車に一般の乗客が乗ってる写真があるんだよね昔は本当におおらかだったんだよね
昭和30年代頃の鹿児島線の折尾駅を発車するの通勤列車(旧客)の荷物車に客が乗ってる写真を見たことあります。荷物を輸送中の車両を開放していたのか、旅客用(混雑緩和のため)かは写真では判別できませんでした。
荷物列車ではないけど成田線の行商専用列車を思い出す。行商の女性たちは 「カラス部隊」と言われていましたね。成田発の一番電車は午前4時46分で車内は 「朝市」のような騒ぎだったらしいです。
行商列車は昭和時代にたくさんありましたね。最後は近鉄の鮮魚列車でしたがなくなりました
@@heitetsu4649 三重県から大阪に配送していましたね。NHKで映像を見たことがあります。
成田線の一番電車の快速上野行きは10両中9両が行商専用車でした。常磐線の『赤電』も早朝の上り列車の最後尾のクハには『出荷組合専用車』のサボが入っていて お客さんは皆カンカラを担いだおば様方でした。京成電車にも 専用電車が走っていて 廃止後は指定された旅客電車の最後尾が『専用車』となり 割と近年まで存在していましたよ。
@@toriri-service 話がズレますけど京成には〇館電車というのもあったみたいですね。沿線の東〇学〇高校のワルが最後尾の車両を独占していたとか? (千葉出身の人から聞いた話だけど)
成田線我孫子支線なら行商列車が走るのは理解てきます。エメラルドグリーンの103系の9両が行商だったのですね
クモユニのNゲージ子供のころ持ってたなぁ
かつて身延線には、クモハユニ44が走っていました。身延線の極小トンネルに対応するため、44800~44802の3両は、車両全体を低屋根にした前パン電車でしたが、44803だけはパンタを後ろに移設して、その部分だけを低屋根にした変わりダネでした。
キハユニ16は急行きのくにの先頭車で、旅客扱いせずに使用されていました。今でも名鉄は新聞輸送をやってますね。
動画の冒頭ででている新聞輸送は名鉄です。
クモニ83が現役の頃に、年末の繁忙期、中間にクモハ73+サハ78を荷物車代用とした2輛を挟んだ臨時の荷物列車が運行されていました。私が知っているのは上越線だけですが、他でも運行されていたかも?
ちなみに私の場合は国鉄型荷物車は撮影しなかったかなただし2011年頃横川鉄道文化村でキニ58型を初撮影したかなかな😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊
8:22~ 逆ですが...てゆうかキハユニ26が内地向けキハユニ25は北海道向けといった感じでしょうか...
一昔前まではブルートレインなど客車列車が走っていて、小規模ながら荷物輸送もやっていたが、姿を消した現在では旅客会社による荷物輸送は廃れてしまったそこでJR貨物が小荷物輸送のために製造したのがM250というのはあまり知られていない
M250はスーパーレールカーゴで東海道線に導入された動力分散方式の貨物ですね
@@heitetsu4649 まあ、現状で旅客会社による荷物輸送は、所轄地域の管内でしか行えませんからねスーパーレールカーゴは佐川急便との提携で誕生してますし
少し前だとコロナの影響で新幹線の需要が減ってた頃に手荷物サービス的なのをやってたような……
新幹線では今でも小荷物輸送をしているようです。スーツケースは指定席をとるときに大型荷物の登録がありますね。
貨物と荷物の違い、理解してなかったです。宅急便が荷物という例えはわかりやすかったです。事業用と個人用ということなんですかね。宅急便が出てきたときは確かに衝撃的でしたので、ポンコツ経営の国鉄はあっという間にシェアを奪われてしまうと思います。むしろ鉄道は長距離輸送に適しているのでそれをとことん磨き上げるとあるいは生き残れたのかな。
荷物は旅客局扱いで、貨物は貨物局(だったかな)ヾヾヾ
いけね。なので、荷物列車は時刻表にもダイヤが載ってました。
キハユニ16合造型、奈良県内(桜井線・和歌山線)で昭和50年前後に乗車しました。王寺駅基準で奈良・和歌山側先頭に連結されていました。当時は大和路線と呼ばれている区間も非電化で、主にキハ35型が亀山を越え名古屋まで走っていた時代で、関西本線にはDD51牽引で3~5両程度の配給列車が運転されていたので、ひょっとすると奈良線もキハユニ16が走っていたのかも知れません。
動画は加古川線の野村駅なのでキハユニ16は当時天王寺鉄道管理局、大阪鉄道管理局両方配置されていたと思います。関西本線に客車が走っていたのは1960年代前半くらいで後半からは無煙化で電化の予算がなくキハ35が導入されました。
@@heitetsu4649 1960年代後半、昭和42年4月~44年3月まで近鉄奈良線油阪駅を利用していましたが毎朝、C57牽引の夜行「やまと」に踏み切りで止められていました。良い思い出です。
1978年まで、奈良運転所に、3輛のキハユニ16、1輛のキハユ15が配置されていたと思います。私は、王寺駅でキハ35系に併結されたキハユ15しか、実見していませんが。
気動車のものは10系気動車(20系気動車登場前のもの)の改造車などもあった。車体が一回り小さい(狭小車体)のが特徴(8:50~9:15あたり)。8:50は常磐線かも? 9:05のすごいのは四国か能登半島あたりだったか。
『湘南顔』のキハユニは 17系以前の『電気式気動車』の改造でしたね。
電車のものは、特に実際の印象の強いのは、旧性能電車(釣り掛け車)の改造車による荷物電車や郵便電車であった。これらの車両が115系や113系の編成の先頭、末端などにつながれていて協調運転がなされていた。115系や113系の編成に無理に押されたりしてこの改造車だけ「猛烈な独特の轟音を立てて」走っていた。釣り掛け車とは言いつつもイメージが全く違うという感じだった。場合によってはその性能の違い過ぎるものを混結させたところから、ぶっ壊れるんじゃないのだろうか!?という心配さえあった。サイボーグに改造された釣り掛け車、まるで新性能電車の編成を牽引する機関車のようにも一瞬見えたりもした。これが旧性能電車の改造車の実際に走っているときの走りの印象である(新性能電車からの改造車等はこのような無理な音はしない。)。私以外の多くの人達も異口同音に同じことを言っていたけれども、当時の新性能電車や旧性能電車の間にあって、異質なものを感じていた。
現役の車両で「荷物の車両」がわかるのは、JR西日本の関空特急はるか281系ですね。
手荷物と小荷物は違います。国鉄の荷物は、列車指定(100円)すればほぼ翌日に到着します。(近いと当日)ヤマト運輸は、速度違反・労基法違反で利益と効率を上げて、国鉄の小荷物を潰しました。分割民営化に向けて、小荷物は廃止の予定だったので、効率化は考えて無いですね。
新聞輸送の荷物電車併結は[大垣夜行][中央東線][山陰線京都夜行]等で経験しました。
新聞輸送にはやっぱり鉄道は不可欠ですね。
東北本線の荷物列車の発着は、常磐線南千住に隣接の隅田川駅では無かったか?
5:37 今は亡き迷列車形式編さん...
クモユ143の短命は有名ですが70年代に製造されたスユやマニも10年前後で廃車された悲運の車両が有りました
クモユ143は郵政省所有の列車なので4年という短命でした。70年代に製造された客車は短命ですね。80年代には動力分散型に変えられました。客車がのこったのは赤色の客車で筑豊本線などで最後まで走っておりました
東北新幹線で魚を運んで東京の寿司屋に配送してるみたいだし、近鉄だってアーバンライナーを使って福山通運が代行で小荷物を運んでいる。だから1車両は難しいが半分くらいは小荷物を扱う列車がでてくるかもよ。
近鉄名古屋線の急行を利用した新聞輸送を見たことがあります
クモハユニに限らず貨客混載車は、小さい頃には「ぼくのかんがえたさいきょうのでんしゃ」感があったし、レア感がたまらなかった。
私はやっぱり貨客混合はキハユニがいいですね。Nゲージ模型で一番きにいっておりました。自分があれに当たれば車両を変えますね。外から撮影するのはいいのですが実際には乗りたくありません。
やはりクモロハネシユニでないと・・・
(⌒▽⌒) クモロハネシユニだと一等車の座席+食堂車+寝台車+乗客の小荷物+郵便+制御モーター車。いたせり尽せりですね。テスラのマスク氏やアリババのディックマー氏が車両セットメーカーに特注でしょうか?🤣
貨客混載車ではなく、普通座席郵便荷物合造車じゃないか。
オロハネ10の例からすると、A寝台とB寝台の組み合わせとも考えられますな。(・ε・` )
チッキを書いたことも、荷物確認のための駅への日参も経験ありますよ。
21世紀に入った頃なのに、当時地元から遠く離れた場所で勤務していた時、ヤマト運輸に荷物発送を頼む事の話で、亡きお袋(昭和17年生まれ)が唐突に「昔はチッキだった」と発言した事があったけど、郵便小包の上限が5kgだった事も知らなかった…故に鉄道の荷物輸送しか存在しなかったのね。
2024年問題で運送業界のドライバー不足が懸念される中、貨物の横持ち輸送を考えたら貨客混載輸送は見直し復活されても良い様に思われます。但し駅ターミナル改修や荷揚用エレベーター増設は必須で鉄道会社単独で出費するのは無理がありますから国と地方自治体の補助が必要となります。地方での鉄道を維持する場合、旅客輸送の収入は望めないので、横持ち輸送に活路を見出すのは一つの選択肢だと思います。
その通りですね。今後は貨客混合が増えればドライバーの超激務労働から解放されまた環境的にも負荷軽減となります。横持運送の仕組みを構築するのに国も補助すべきだと思います。
動画にもありましたが 東海道線の普通電車には大概クモユニ74が付いていましたね。千鉄局の113系ローカルにも付いてる電車があり 駅到着時はクモユニだけ鋳鉄制輪子の擦れる『シュー』という音 発車時は吊り掛け音がしてまさに旧国と新性能電車の併結そのものでした。その千鉄局には 珍車『クモハユ74』もありました。キハユニ26は 会津線で乗ったことがありましたが 車内からだと室内長の短いキハ25という感じでしたよ。常磐線には交直流の荷物電車が無かったので 気動車のキニ55・キニ58が活躍していました。国鉄は少なくとも車体は新製したものが多かったですが 東武・西武・小田急・東急・相鉄にあった荷物電車は皆 旧型電車をそのまま改造したものでした。珍しいところでは秩鉄の100系にも『クハニ』がありました。関鉄常総線では 荷物気動車はありませんでしたが 一般のキハを荷物車代用で繋げていて その代用荷物車が出たばかりのキハ310形で お客が乗るのがオンボロのキハ610だった時は「なんで〜!?」と思いました
ありがとうございます。東京口ではクモユニがほとんどついていました。関西ではあまり見る機会がなかったのですが、単独で走っていた気がします。
かつての飯田線の電車にもクハニ67などがありました。秩父鉄道のものはオリジナルみたいですね。制御車に荷物をおくのは運転士さんが荷物の取り扱いもやっていたのでしょうか。今のワンマン業務の走りですね
@@heitetsu4649 さんいや 秩鉄も関鉄も荷物番の車掌さんが乗務していました。国鉄の『ニレチ』とは違い 旅客列車の車掌と兼務だったと思います。私が他にフォローさせていただいている方が 前に秩鉄『クハニ』の走行風景を上げられてましたので貼り付けておきます。夏の暑い時期なので 荷物室の扉を開け放っています。ruclips.net/video/0BH3Gx61DgY/видео.html
見させていただきました。武州荒木駅近くの1985年の踏切。先頭車が窓全開でした。先頭はドア全開のように見えましたが乗務員は荷物を守っているのですね。小田急の中古ぽいですが。1985年は地方鉄道も冷房化はされていたなったですね。秩父鉄道の歴史をみると1985年にダイヤが増発されていますが
静岡でオデコに急のクモユニを見た覚えが。あれは急行東海か富士川か、はたまた覚え違いか。
荷物と貨物の違いは一言で言えば、荷物輸送・荷物車・荷物列車は旅客輸送・旅客車・旅客列車扱いであるってこと。ただ、素人目は元より手練れの[鉄]でも瞬時に見分けるのは難しいスニ40・スユ44・ワキ8000は部内では明確に区別され工事等に伴う速度制限などで旅客列車と貨物列車で速度制限が変わる場合はワキ8000が混ざると貨物列車扱いの速度制限がある由。
荷物は人間が手で運べる物だよ。
JR中央線やJR常磐線などは「列車と電車」、京王電鉄線は「鉄道と軌道」、国鉄時代の物を運ぶ業務は「貨物と荷物」。JR旅客会社のルールブックに「荷物」輸送に関する記述が残っていたとは………
クモユニ74も72系改造車という事が語られていませんが?
私の荷物電車、車両と言ったらワキ8000であってこれは貨車のワキ10000の改造型でスニ40とスユ44とよく見間違えていた記憶があります。
ワキ8000の全部がワキ10000からの改造ではなくて、初めからワキ8000として製造されたのもあるんだな。
現金輸送車両はあったようですが、一部の国鉄幹部しか知らされておらず、「なかったこと」にされたトップシークレットだったようでしたが、鉄道関連の雑誌に図解入りで詳細情報が公表されたため、担当者が後日呼び出しを受け、かなり怒られたことを川島令三氏の著書で知りました。『マニ』という車両ですが、「現金=マネー」なので『マニ』というわけではないそうです。(現在は廃止。)
そりゃ現金輸送車専用の記号を付けてしまうと「おカネ💰を運んでますよ〜。」と言いながら走ってるようなものですからね。他の荷物車と同じ『マニ』としたのでしょう。地方では 普通の荷物車に現金を混載する例もあり『函館駅5000万円持ち逃げ事件』の当該車両もキハユニ25でした。
カネ というお金が寝ていますよ。というのもいいかもしれません。カニはありますが。いずれ平和な日本だからできるものですよね。海外なら現金輸送車にはかならず銃砲を持っている人が同乗します。法律的に護衛する人は銃砲をもつことが法律的に許されております。
実際に強奪事件があったのですね。今のように電子マネーがなかった時は大変でしたですね
あれはたまたまそうなっただけ。[マ]は積車重量42.5t以上47.5t未満、[二]は荷物車。即ち積車重量45t(換算4.5両)の荷物車ということで[マニ]。初代はマニ34、その後マニ30と形式変更。当初マニ341~6、後年形式変更並びに電気暖房併設化でマニ302001~マニ302006、戦後間もない頃に生まれた同車の老朽化に伴い昭和50年代に後継車としてマニ302007~マニ302012が登場。尚数字の30は全長20m級鋼製車体を意味しその空き版を利用したもの。マニ34がマニ30に形式変更された理由はあくまで推測だけど…大正末期~昭和初期に生まれたスニ30=オハ31系統の17m級鋼製荷物車=が引退して[30]が空いた為では?実物系の鉄道誌では殆ど触れられなかったけれど鉄道模型誌ではしばしば登場し模型制作記事まで投稿されたこともありました。
@@heitetsu4649 [カ]は積車重量47.5t以上、[ネ]は寝台車、然し寝台車だと等級(A・B寝台)を表す記号が必須なので[カネ]には出来ず[カロネ][カハネ]になってしまうので無理です(^^);
昔の飯田線の旧型国電時代は車内を幕で仕切って郵便荷物の運搬していました。今でも名鉄は新聞の輸送やっているんじゃないかな。「名鉄名古屋」の2.3番ホームに設備があったし。
その通りです。動画の冒頭では名鉄の特急列車に新聞を積み込む写真があります
近鉄名古屋駅にも準急や普通列車ホームに地上からの滑り台みたいな設備があって、昼過ぎからは新聞の積込してますよね。
飯田線の旧型国電を見ていたら、スカ色塗装で側面のヨロイ窓の車両が来るとワクワクしました。往年の湘南電車80系に置き換わりましたが。
12:45 嵐電は「さいいん」ではなく「さい」ですよ。ruclips.net/video/ytOm8F277JI/видео.html
新幹線の「レイルゴー」サービス終了したのかな?
キハユニ萌
東北・北陸新幹線にも、鮮魚の荷物輸送してますね!鉄道荷物輸送の復活の予感します。
その通りですね。貨客共同列車で復活が期待できますね
レールゴーサービス早くて便利だったんですけど、復活して欲しいです。
15年ほど前(2008年3月改正)までJR東日本では、EL(田端のEF65かEF81)・マニ50の編成が平日昼間に細々と上野と高崎を往復していた。尾久or高崎所属の客車の大宮総合車セへの入出場回送と出場試運転を兼ねた列車(試6991レ・試6992レ)で、大宮入出場客車のほかに、控車に転用されたマニ50が併結されていた。入出場車両の有無に関係なく平日は毎日運転されていたので、ELがマニ50だけを牽いて往復する場合が圧倒的に多く、さながら荷物列車が定期設定されているような感じだった。
マニ50は1977年に旧荷物車置き換えのため230両近く製造されたものですね。荷物車廃止以降もMotoトレインや電源車に改造されて今でも残っているものもあります。15年前に試験車として使われていたのですね
荷物が受け取り駅に着いたら電話で知らせてくれたのでしょうか。でなければ、毎日駅に行ってチェックし続けるハメに。
電話だと思います。当時はメールはないしFAXだってそんなに普及しておりません。おそらく国鉄らしく「荷物着いたから速くとりにきなさい」と横柄な態度だったと思いますね。
駅に日通がいる駅だったら届けてもらえた様な気がする。大昔実家に日通の三輪が持ってきてました。
小荷物全盛期であたる昭和40年代初頭の田舎だと、そもそも電話からしてまだ各家には普及しきっていなかったので、原則ははがきだったんじゃないかと思います。家や近所に電話があるんだったら連絡用の電話番号を書いておくみたいな。一方で都会なら日通による配達もあったはずなんで、地域差も大きいと思います。国鉄全盛の時代から衰退が決定的になるまでの時間差は10年ぐらいしかなく、しかも、そのあいだに社会自体が大きく変わりましたから、いまからだと想像しにくい部分が多いですよね。
昭和47年の電話加入率3割。加入権も数万円で買って、売り買いされていたんですよね。
面白すぎ鉄道ビジネスカジュアル最高
近所の造園業者の方は学生時代、国鉄の荷物車の積み下ろしのアルバイトをしていたそうです。
ただし一度勤務に入ると2〜3日、長くて4〜5日荷物列車と一緒に全国どこかへ移動したそうです。
またアルバイトには、国鉄全線乗り降り自由の専用乗車券(無期限ではなかったそうです)を渡されるそうです。どこに行くかはその日勤務に入らないとわからなかったそうで、大阪から門司あたりはともかく、人によっては青森まで往復した人もいたそうです。それぞれの駅での積み下ろし時間は結構すくなくて、本当に人海戦術で大変だったそうです。
ただ、到着先での間合いの時間は結構余裕があったそうで、本当に行った先で観光などをしていたらしいです。
聞いた話なので、「そうです」ばかりで本当にすみません。
赤帽の復活はなさそうですね。かつて、時刻表の主要駅のアイコンに「『赤帽』のいる駅」というのがありました。
むかし「鉄道ジャーナル」誌の「列車追跡シリーズ」で、東武浅草駅に赤帽さんがいらっしゃるという記事を読んだことがあったのですが、いまはもういらっしゃらないのですか?
赤帽が由来の運送会社は優秀ですけどね。
赤帽の復活は、荷物車が存在しない現状、見込みなさそうですね。赤帽さんが働いていた鉄道荷物株式株式は現存していますけど。
そういえばみなさんは手荷物を列車に持ち込むときに手荷物切符を買った経験はありますか?
むかしよく駅に、大きさの見本のブリキの箱がおいてありましたが、最近では見なくなりましたよね。
だいたいが改札口よこに、荷物の大きさや持ち込める個数、持ち込めないものを表示してあったものですが。
国鉄では貨物列車が貨物局が担当、荷物列車(郵政省所有の郵便車を含む)は旅客局が担当、荷物列車の途中区間に客車を連結して普通列車として運行をしてましたね、時刻表にも旅客列車の端に載ってました、
ちなみに国鉄自動車局は国鉄バスの他にS58年頃まで国鉄トラックも運行してました。
国鉄荷物列車の時刻表は国鉄時代のものを見ると東海道線に最後の方に8列車くらい載っていますね。汐留発など懐かしいです。貨物局と荷物局って完全に分かれていたのですね。国鉄の中でも縦割りだったのですね
国鉄小荷物は紐をかけなきゃいけなかった。理由は、紐がないと投げにくいから。
相鉄沿線に住んでいた頃、西谷駅に届いた駅止めの荷物を父親と引き取りに行ったことがあります。子供ながらわざわざ指定された駅まで取りに行かないといけないなんて面倒だなと
思ったものです。
143系は、シン―ツヌ間で乗務しましたね、旅客がいないので気が楽で乗務してました。
荷物車と言えば例のマニ30・・・いや、何でもない。
鉄道の過去の衰退の歴史と近未来への可能性。ワクワクする動画でした。
鉄道マニアではありませんが、懐かしい写真に見入ってしまいました。
トラック運転手不足から、また荷物車両が日の目を見るかもしれませんね。作成ありがとうございました。
ありがとうございます。何よりです
キハユニ16懐かしい。
小学生の頃水郡線で見ました。
キハ10系の貫通顔ばかりの中に、時々やって来る湘南顔が大好きでした。
国鉄の荷物列車、東海道線でEF58が牽引していた「急行荷物列車」の印象があまりにも強かった。
時刻表にも、東海道線の欄の最後に掲載してあったなあ。
確認しますと1977年の時刻表をみますと8本あります。汐留発大阪行、東小倉行、熊本行、鹿児島行とこの時は国鉄の全盛期だったのですね
ゴハチことEF58老朽化の為、後任は何が就くかとおもったら、動軸C-C配置のEF62への交代は驚きだった。でもよくよく考えれば、新性能タイプで直流専用のSG装備のELはあとEF61とかしか思い浮かばなかったが、大抵の系式はお役御免の状態だった。
EF62はEGだけどね。
何処かに書いてあったらごめん。
EF64はEG付きとEG無しがあるね。
事業用車っていいよね〜、大好物だよ
国鉄143列車はいいですね。牽引車は今でもありますね。クモハ123に変えられてからはいろんなところで乗りました。中が角張っているので本当に自分が荷物になった雰囲気です。一番よかったのは中央本線大八廻りのミニエコーでした
キハユニは末期には郵便・荷物扱い無しで運用されていて時には編成の中間に組み込まれる事も有り、荷物室の執務席や郵便室の区分け席に座っている人も居ました…
それほど乗客が昔は多かったのですね。今では考えられないですね。キハユニの執務室で座っていれば業務の一部始終を見えることになるので怒号なども聞こえると思います
@@heitetsu4649昔の国鉄の荷物郵便列車の業務て怒号が飛び交ってたんですか?
昔、大阪の梅田貨物駅でバイトしたとき荷物のやり取りでいつもデカい声で怒っていました
福岡の実家が筑豊本線の沿線で14時台の門司港発原田行きがDD51+50系×4+オハニ36の編成で新聞の夕刊を積んでいました。
オハニの客室部分は旧客時代は乗車できましたが50系になると締切り扱いになりました。
赤い客車ですね。あの客車は動力分散化の折にできた普通客車だったので運用が限られて短命だったですね。筑豊本線と言えば50系ですね。筑豊本線が電化する2000年くらいまで走っていました。客車の色とJR九州のコーポレートカラーがたまたま一致したからでしょうか。その当時は篠栗線もJR九州のキハ200系でした。私は播但線で乗りました。オハ二36だけは赤色のなかの茶色なので異彩を放っていたと思います。
キハ25型の一般車でも、アコーディオンカーテンで車内を3つに区分できる構造だったのを見ました。荷物車と客車の兼用でも客車よりの仕様だったんですね。もし飯田線にこれがあったらめっちゃ活用されてそうですね。
鉄道各社がコロナ禍で輸送力の落ち込んだ有料特急の代わりに産直便のような
農産物の輸送を始めたりもしていますね。
また、西濃運輸がのぞみを使用した宅配サービスをやっていたような覚えがあります。
どの動画も非常にボリュームがあり楽しませていただきました!
個人的に房総の新聞列車を紹介して下さったのが良かったです。
JR東海(身延線)のクモハ123は飯田線に居たクモユニ147(5両/非貫通)とクモヤ145(2両/貫通)改造ですね。
運用で沼津→芝川と言う列車が存在し、東海道本線の沼津→富士間の営業列車として1両単行の列車が走っていました。
恐らく、東海道本線での最短編成はこの列車だったかと思います。
気動車のキニ28、58、キユニ28も短命ながら存在しましたね。キロ28、58からの改造でキハ40系並みの車体をしていました。
大阪生まれですが、小学生の頃ひ父親と一緒に「片町駅」まで小包を取りに行った記憶があります。
新幹線レールゴーも取り上げて欲しいなぁ。
あれは助かった。
地元でも小規模ながら、境港で水揚げされた松葉ガニを「やくも&新幹線」で大阪に向け期間限定で行ってますよ。
まだ荷物スペースがあるのですね。新幹線にあるのは知りませんでした
飯田線でも専用車のクモユニ147形が119系の最後尾に連結されて走っていましたが,需要が少なくなり、クモユニ147形は大垣電車区に転属して、113系の名古屋寄りに連結されて走っていました。その前はクモニ143形が113系に連結されて走っていました。夕方に113系の8両編成の浜松行の最後尾に連結されて、到着後は夜になり、豊橋発20時12分の普通の先頭で113系4両編成を連結した形で名古屋方面に走って行きました。その後は日中も客車による荷物列車が走っており、ホームに目印と列車番号を付けて、係員による停車位置を白旗で,夜はカンテラで合図していました。一番は夜で岐阜発青森行荷物列車の2030列車で豊橋20時21分着,31分発でEF62牽引の4両編成で途中の横浜羽沢貨物駅で増結して、1030列車に列車番号変更をして、走っていました。今でも忘れることがありません。でも飯田線で現在でも新聞輸送が残っており、始発の6時00分の天竜峡行に積み、大嵐駅で地元の新聞配達員に引き渡ししているということがあります。この列車が到着する5分くらい前にホームで待機している感じです。但し休刊日は無しです。これは駅の清掃の担当をしている東海整備の社員が仕訳をしており、駅が開く5時10分に各売店に配布するともに飯田線の始発にも積むことをやっています。東海道線も一時的に最後尾の車両に荷物室を設け、各駅から荷物を回収していましたが,取り止めになっています。以上
鉄道写真家の荒川好夫氏の写真集に
盆暮れの帰省列車の荷物車に一般の乗客が乗ってる写真があるんだよね
昔は本当におおらかだったんだよね
昭和30年代頃の鹿児島線の折尾駅を発車するの通勤列車(旧客)の荷物車に客が乗ってる写真を見たことあります。荷物を輸送中の車両を開放していたのか、旅客用(混雑緩和のため)かは写真では判別できませんでした。
荷物列車ではないけど成田線の行商専用列車を思い出す。
行商の女性たちは 「カラス部隊」と言われていましたね。
成田発の一番電車は午前4時46分で車内は 「朝市」のような騒ぎだったらしいです。
行商列車は昭和時代にたくさんありましたね。最後は近鉄の鮮魚列車でしたがなくなりました
@@heitetsu4649
三重県から大阪に配送していましたね。NHKで映像を見たことがあります。
成田線の一番電車の快速上野行きは10両中9両が行商専用車でした。
常磐線の『赤電』も早朝の上り列車の最後尾のクハには『出荷組合専用車』のサボが入っていて お客さんは皆カンカラを担いだおば様方でした。
京成電車にも 専用電車が走っていて 廃止後は指定された旅客電車の最後尾が『専用車』となり 割と近年まで存在していましたよ。
@@toriri-service
話がズレますけど京成には〇館電車というのもあったみたいですね。
沿線の東〇学〇高校のワルが最後尾の車両を独占していたとか? (千葉出身の人から聞いた話だけど)
成田線我孫子支線なら行商列車が走るのは理解てきます。エメラルドグリーンの103系の9両が行商だったのですね
クモユニのNゲージ子供のころ持ってたなぁ
かつて身延線には、クモハユニ44が走っていました。
身延線の極小トンネルに対応するため、
44800~44802の3両は、車両全体を低屋根にした前パン電車でしたが、
44803だけはパンタを後ろに移設して、
その部分だけを低屋根にした変わりダネでした。
キハユニ16は急行きのくにの先頭車で、旅客扱いせずに使用されていました。今でも名鉄は新聞輸送をやってますね。
動画の冒頭ででている新聞輸送は名鉄です。
クモニ83が現役の頃に、年末の繁忙期、中間にクモハ73+サハ78を荷物車代用とした2輛を挟んだ臨時の荷物列車が運行されていました。私が知っているのは上越線だけですが、他でも運行されていたかも?
ちなみに私の場合は国鉄型荷物車は撮影しなかったかなただし2011年頃横川鉄道文化村でキニ58型を初撮影したかなかな😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊😊
8:22~ 逆ですが...
てゆうか
キハユニ26が内地向け
キハユニ25は北海道向け
といった感じでしょうか...
一昔前まではブルートレインなど客車列車が走っていて、小規模ながら荷物輸送もやっていたが、姿を消した現在では旅客会社による荷物輸送は廃れてしまった
そこでJR貨物が小荷物輸送のために製造したのがM250というのはあまり知られていない
M250はスーパーレールカーゴで東海道線に導入された動力分散方式の貨物ですね
@@heitetsu4649 まあ、現状で旅客会社による荷物輸送は、所轄地域の管内でしか行えませんからね
スーパーレールカーゴは佐川急便との提携で誕生してますし
少し前だとコロナの影響で
新幹線の需要が減ってた頃に
手荷物サービス的なのを
やってたような……
新幹線では今でも小荷物輸送をしているようです。スーツケースは指定席をとるときに大型荷物の登録がありますね。
貨物と荷物の違い、理解してなかったです。宅急便が荷物という例えはわかりやすかったです。事業用と個人用ということなんですかね。宅急便が出てきたときは確かに衝撃的でしたので、ポンコツ経営の国鉄はあっという間にシェアを奪われてしまうと思います。むしろ鉄道は長距離輸送に適しているのでそれをとことん磨き上げるとあるいは生き残れたのかな。
荷物は旅客局扱いで、貨物は貨物局(だったかな)ヾヾヾ
いけね。なので、荷物列車は時刻表にもダイヤが載ってました。
キハユニ16合造型、奈良県内(桜井線・和歌山線)で昭和50年前後に乗車しました。王寺駅基準で奈良・和歌山側先頭に連結されていました。当時は大和路線と呼ばれている区間も非電化で、主にキハ35型が亀山を越え名古屋まで走っていた時代で、関西本線にはDD51牽引で3~5両程度の配給列車が運転されていたので、ひょっとすると奈良線もキハユニ16が走っていたのかも知れません。
動画は加古川線の野村駅なのでキハユニ16は当時天王寺鉄道管理局、大阪鉄道管理局両方配置されていたと思います。関西本線に客車が走っていたのは1960年代前半くらいで後半からは無煙化で電化の予算がなくキハ35が導入されました。
@@heitetsu4649 1960年代後半、昭和42年4月~44年3月まで近鉄奈良線油阪駅を利用していましたが毎朝、C57牽引の夜行「やまと」に踏み切りで止められていました。良い思い出です。
1978年まで、奈良運転所に、3輛のキハユニ16、1輛のキハユ15が配置されていたと思います。
私は、王寺駅でキハ35系に併結されたキハユ15しか、実見していませんが。
気動車のものは10系気動車(20系気動車登場前のもの)の改造車などもあった。車体が一回り小さい(狭小車体)のが特徴(8:50~9:15あたり)。8:50は常磐線かも? 9:05のすごいのは四国か能登半島あたりだったか。
『湘南顔』のキハユニは 17系以前の『電気式気動車』の改造でしたね。
電車のものは、特に実際の印象の強いのは、旧性能電車(釣り掛け車)の改造車による荷物電車や郵便電車であった。これらの車両が115系や113系の編成の先頭、末端などにつながれていて協調運転がなされていた。115系や113系の編成に無理に押されたりしてこの改造車だけ「猛烈な独特の轟音を立てて」走っていた。釣り掛け車とは言いつつもイメージが全く違うという感じだった。場合によってはその性能の違い過ぎるものを混結させたところから、ぶっ壊れるんじゃないのだろうか!?という心配さえあった。サイボーグに改造された釣り掛け車、まるで新性能電車の編成を牽引する機関車のようにも一瞬見えたりもした。これが旧性能電車の改造車の実際に走っているときの走りの印象である(新性能電車からの改造車等はこのような無理な音はしない。)。私以外の多くの人達も異口同音に同じことを言っていたけれども、当時の新性能電車や旧性能電車の間にあって、異質なものを感じていた。
現役の車両で「荷物の車両」がわかるのは、JR西日本の関空特急はるか281系ですね。
手荷物と小荷物は違います。国鉄の荷物は、列車指定(100円)すればほぼ翌日に到着します。(近いと当日)ヤマト運輸は、速度違反・労基法違反で利益と効率を上げて、国鉄の小荷物を潰しました。分割民営化に向けて、小荷物は廃止の予定だったので、効率化は考えて無いですね。
新聞輸送の荷物電車併結は
[大垣夜行][中央東線][山陰線
京都夜行]等で経験しました。
新聞輸送にはやっぱり鉄道は不可欠ですね。
東北本線の荷物列車の発着は、常磐線南千住に隣接の隅田川駅では無かったか?
5:37 今は亡き迷列車形式編さん...
クモユ143の短命は有名ですが
70年代に製造されたスユやマニも10年前後で廃車された悲運の車両が有りました
クモユ143は郵政省所有の列車なので4年という短命でした。70年代に製造された客車は短命ですね。80年代には動力分散型に変えられました。客車がのこったのは赤色の客車で筑豊本線などで最後まで走っておりました
東北新幹線で魚を運んで東京の寿司屋に配送してるみたいだし、
近鉄だってアーバンライナーを使って福山通運が代行で小荷物を
運んでいる。だから1車両は難しいが半分くらいは小荷物を扱う
列車がでてくるかもよ。
近鉄名古屋線の急行を利用した新聞輸送を見たことがあります
クモハユニに限らず貨客混載車は、小さい頃には「ぼくのかんがえたさいきょうのでんしゃ」感があったし、レア感がたまらなかった。
私はやっぱり貨客混合はキハユニがいいですね。Nゲージ模型で一番きにいっておりました。自分があれに当たれば車両を変えますね。外から撮影するのはいいのですが実際には乗りたくありません。
やはりクモロハネシユニでないと・・・
(⌒▽⌒) クモロハネシユニだと一等車の座席+食堂車+寝台車+乗客の小荷物+郵便+制御モーター車。いたせり尽せりですね。テスラのマスク氏やアリババのディックマー氏が車両セットメーカーに特注でしょうか?🤣
貨客混載車ではなく、普通座席郵便荷物合造車じゃないか。
オロハネ10の例からすると、A寝台とB寝台の組み合わせとも考えられますな。(・ε・` )
チッキを書いたことも、荷物確認のための駅への日参も経験ありますよ。
21世紀に入った頃なのに、当時地元から遠く離れた場所で勤務していた時、ヤマト運輸に荷物発送を頼む事の話で、亡きお袋(昭和17年生まれ)が唐突に「昔はチッキだった」と発言した事があったけど、郵便小包の上限が5kgだった事も知らなかった…故に鉄道の荷物輸送しか存在しなかったのね。
2024年問題で運送業界のドライバー不足が懸念される中、貨物の横持ち輸送を考えたら貨客混載輸送は見直し復活されても良い様に思われます。但し駅ターミナル改修や荷揚用エレベーター増設は必須で鉄道会社単独で出費するのは無理がありますから国と地方自治体の補助が必要となります。
地方での鉄道を維持する場合、旅客輸送の収入は望めないので、横持ち輸送に活路を見出すのは一つの選択肢だと思います。
その通りですね。今後は貨客混合が増えればドライバーの超激務労働から解放されまた環境的にも負荷軽減となります。横持運送の仕組みを構築するのに国も補助すべきだと思います。
動画にもありましたが 東海道線の普通電車には大概クモユニ74が付いていましたね。
千鉄局の113系ローカルにも付いてる電車があり 駅到着時はクモユニだけ鋳鉄制輪子の擦れる『シュー』という音 発車時は吊り掛け音がしてまさに旧国と新性能電車の併結そのものでした。
その千鉄局には 珍車『クモハユ74』もありました。
キハユニ26は 会津線で乗ったことがありましたが 車内からだと室内長の短いキハ25という感じでしたよ。
常磐線には交直流の荷物電車が無かったので 気動車のキニ55・キニ58が活躍していました。
国鉄は少なくとも車体は新製したものが多かったですが 東武・西武・小田急・東急・相鉄にあった荷物電車は皆 旧型電車をそのまま改造したものでした。
珍しいところでは秩鉄の100系にも『クハニ』がありました。
関鉄常総線では 荷物気動車はありませんでしたが 一般のキハを荷物車代用で繋げていて その代用荷物車が出たばかりのキハ310形で お客が乗るのがオンボロのキハ610だった時は「なんで〜!?」と思いました
ありがとうございます。東京口ではクモユニがほとんどついていました。関西ではあまり見る機会がなかったのですが、単独で走っていた気がします。
かつての飯田線の電車にもクハニ67などがありました。秩父鉄道のものはオリジナルみたいですね。制御車に荷物をおくのは運転士さんが荷物の取り扱いもやっていたのでしょうか。今のワンマン業務の走りですね
@@heitetsu4649 さん
いや 秩鉄も関鉄も荷物番の車掌さんが乗務していました。国鉄の『ニレチ』とは違い 旅客列車の車掌と兼務だったと思います。
私が他にフォローさせていただいている方が 前に秩鉄『クハニ』の走行風景を上げられてましたので貼り付けておきます。
夏の暑い時期なので 荷物室の扉を開け放っています。ruclips.net/video/0BH3Gx61DgY/видео.html
見させていただきました。武州荒木駅近くの1985年の踏切。先頭車が窓全開でした。先頭はドア全開のように見えましたが乗務員は荷物を守っているのですね。小田急の中古ぽいですが。1985年は地方鉄道も冷房化はされていたなったですね。秩父鉄道の歴史をみると1985年にダイヤが増発されていますが
静岡でオデコに急のクモユニを見た覚えが。あれは急行東海か富士川か、はたまた覚え違いか。
荷物と貨物の違いは一言で言えば、荷物輸送・荷物車・荷物列車は旅客輸送・旅客車・旅客列車扱いであるってこと。ただ、素人目は元より手練れの[鉄]でも瞬時に見分けるのは難しいスニ40・スユ44・ワキ8000は部内では明確に区別され工事等に伴う速度制限などで旅客列車と貨物列車で速度制限が変わる場合はワキ8000が混ざると貨物列車扱いの速度制限がある由。
荷物は人間が手で運べる物だよ。
JR中央線やJR常磐線などは「列車と電車」、
京王電鉄線は「鉄道と軌道」、
国鉄時代の物を運ぶ業務は「貨物と荷物」。
JR旅客会社のルールブックに「荷物」輸送に関する記述が残っていたとは………
クモユニ74も72系改造車という事が語られていませんが?
私の荷物電車、車両と言ったらワキ8000であってこれは貨車のワキ10000の改造型でスニ40とスユ44とよく見間違えていた記憶があります。
ワキ8000の全部がワキ10000からの改造ではなくて、初めからワキ8000として製造されたのもあるんだな。
現金輸送車両はあったようですが、一部の国鉄幹部しか知らされておらず、「なかったこと」にされたトップシークレットだったようでしたが、鉄道関連の雑誌に図解入りで詳細情報が公表されたため、担当者が後日呼び出しを受け、かなり怒られたことを川島令三氏の著書で知りました。『マニ』という車両ですが、「現金=マネー」なので『マニ』というわけではないそうです。(現在は廃止。)
そりゃ現金輸送車専用の記号を付けてしまうと「おカネ💰を運んでますよ〜。」と言いながら走ってるようなものですからね。
他の荷物車と同じ『マニ』としたのでしょう。
地方では 普通の荷物車に現金を混載する例もあり『函館駅5000万円持ち逃げ事件』の当該車両もキハユニ25でした。
カネ というお金が寝ていますよ。というのもいいかもしれません。カニはありますが。いずれ平和な日本だからできるものですよね。海外なら現金輸送車にはかならず銃砲を持っている人が同乗します。法律的に護衛する人は銃砲をもつことが法律的に許されております。
実際に強奪事件があったのですね。今のように電子マネーがなかった時は大変でしたですね
あれはたまたまそうなっただけ。[マ]は積車重量42.5t以上47.5t未満、[二]は荷物車。即ち積車重量45t(換算4.5両)の荷物車ということで[マニ]。初代はマニ34、その後マニ30と形式変更。当初マニ341~6、後年形式変更並びに電気暖房併設化でマニ302001~マニ302006、戦後間もない頃に生まれた同車の老朽化に伴い昭和50年代に後継車としてマニ302007~マニ302012が登場。尚数字の30は全長20m級鋼製車体を意味しその空き版を利用したもの。マニ34がマニ30に形式変更された理由はあくまで推測だけど…大正末期~昭和初期に生まれたスニ30=オハ31系統の17m級鋼製荷物車=が引退して[30]が空いた為では?
実物系の鉄道誌では殆ど触れられなかったけれど鉄道模型誌ではしばしば登場し模型制作記事まで投稿されたこともありました。
@@heitetsu4649 [カ]は積車重量47.5t以上、[ネ]は寝台車、然し寝台車だと等級(A・B寝台)を表す記号が必須なので[カネ]には出来ず[カロネ][カハネ]になってしまうので無理です(^^);
昔の飯田線の旧型国電時代は車内を幕で仕切って郵便荷物の運搬していました。今でも名鉄は新聞の輸送やっているんじゃないかな。「名鉄名古屋」の2.3番ホームに設備があったし。
その通りです。動画の冒頭では名鉄の特急列車に新聞を積み込む写真があります
近鉄名古屋駅にも準急や普通列車ホームに地上からの滑り台みたいな設備があって、昼過ぎからは新聞の積込してますよね。
飯田線の旧型国電を見ていたら、スカ色塗装で側面のヨロイ窓の車両が来るとワクワクしました。往年の湘南電車80系に置き換わりましたが。
12:45 嵐電は「さいいん」ではなく「さい」ですよ。ruclips.net/video/ytOm8F277JI/видео.html
新幹線の「レイルゴー」サービス終了したのかな?
キハユニ萌
東北・北陸新幹線にも、鮮魚の荷物輸送してますね!鉄道荷物輸送の復活の予感します。
その通りですね。貨客共同列車で復活が期待できますね
レールゴーサービス早くて便利だったんですけど、復活して欲しいです。
15年ほど前(2008年3月改正)までJR東日本では、EL(田端のEF65かEF81)・マニ50の編成が
平日昼間に細々と上野と高崎を往復していた。
尾久or高崎所属の客車の大宮総合車セへの入出場回送と出場試運転を兼ねた列車(試6991レ・試6992レ)で、
大宮入出場客車のほかに、控車に転用されたマニ50が併結されていた。
入出場車両の有無に関係なく平日は毎日運転されていたので、ELがマニ50だけを牽いて往復する場合が
圧倒的に多く、さながら荷物列車が定期設定されているような感じだった。
マニ50は1977年に旧荷物車置き換えのため230両近く製造されたものですね。荷物車廃止以降もMotoトレインや電源車に改造されて今でも残っているものもあります。15年前に試験車として使われていたのですね
荷物が受け取り駅に着いたら電話で知らせてくれたのでしょうか。でなければ、毎日駅に行ってチェックし続けるハメに。
電話だと思います。当時はメールはないしFAXだってそんなに普及しておりません。おそらく国鉄らしく「荷物着いたから速くとりにきなさい」と横柄な態度だったと思いますね。
駅に日通がいる駅だったら届けてもらえた様な気がする。大昔実家に日通の三輪が持ってきてました。
小荷物全盛期であたる昭和40年代初頭の田舎だと、そもそも電話からしてまだ各家には普及しきっていなかったので、原則ははがきだったんじゃないかと思います。家や近所に電話があるんだったら連絡用の電話番号を書いておくみたいな。一方で都会なら日通による配達もあったはずなんで、地域差も大きいと思います。
国鉄全盛の時代から衰退が決定的になるまでの時間差は10年ぐらいしかなく、しかも、そのあいだに社会自体が大きく変わりましたから、いまからだと想像しにくい部分が多いですよね。
昭和47年の電話加入率3割。
加入権も数万円で買って、売り買いされていたんですよね。
面白すぎ
鉄道ビジネスカジュアル最高