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漁夫の利を得た場末の小駅、信号場から新幹線停車駅にまで大出世する事になりました。 一方で不毛な綱引きを繰り返した挙げ句に共倒れしてしまった両隣はというと凋落ぶりが凄まじいものがあります。
なんだかイソップの寓話みたいですね
そして新幹線駅になる
山代民です。小さい頃に乗った記憶があります、最終便の花電車の業務員さんが泣いていたのが子供心に印象的でした。その後はしばらく放置ぎみだった車輌基地や操車場がいい遊び場で、手漕ぎのトロッコは我々の夢のマシンでしたね。その後は名鉄の資本が入ってボーリング場や傘下のタクシー営業所、ゲーセンやスーパーが出来て、やはり遊び場のままでしたW。現在はそれも取り壊され別のスーパーが建っています。
温泉電軌出身の車両のうち一両(モハ3563)は、流転の末浅野川線に落ち着き、架線電圧昇圧後しばらくの間内灘駅の側線に予備車として待機。長生きをしましたね😊❤
北鉄唯一の転換クロスシートと説明がありましたが、後に名鉄瀬戸線の900形をもらって3740形とした車両が1978年から90年まで石川総線→石川線で運行されてましたよ。
山代センターへ行くのに粟津駅から連絡線経由で山代まで乗りました 懐かしい思い出😊
10:15 日清戦争の風刺画をそこで出すとはww
少しだけ状況が似てるかも…w
風刺画がある動画の秒数出すの忘れたんで編集しときます
関西から特急で一本↓東京から新幹線で一本に時代は変わりましたね。
待ってました!今回もたのしめながら、加南線の波乱万丈な経歴が、非常に良く分かりました!さぶ様、実際に人に教えるのが、上手なのでは⁉近いうちに、温泉旅行を兼ねて、「しらさぎ」を見に行こうと思います。
ありがとうございます!よければ行ってみてください〜
大井川鐵道に売却した車両があるのは、同じ名鉄グループで成り立っているからです。
大井川鉄道ではカルダン駆動は整備できなかったのか、結局6000系(くたに→あかいし)の方は付随車両になってしまって小田急の旧型電車に連結されて運用される羽目になったんですよね。
というより加南線600V、大井川鉄道1500Vだからそのまま運用ができなかったんですね。6010系も入線当初は牽引されて使用されてました。6000系は暫定的に他の車両に牽引されていましたけど、専用設計で昇圧改造が困難なことから結局そのままとされ、2両ともクハ6050形になってしまいました。一方の6010系は旧式で昇圧改造が容易だったことから半年弱たって改造を施されて単独運行を再開し、都合20年活躍することになりました。
子供の頃に大聖寺駅に行くと、繊維工場をバックに福井寄りにキラキラした車体の電車が止まっていた。今となってみると「しらさぎ号」だったんだと気付く。当時花形特急だった青森~大阪間の特急白鳥の停車駅が独特。上りと下りで、動橋と大聖寺で停車駅を分け合うという変則的なことをやっていた。それだけ、大聖寺と動橋との競合が激しかったことを物語ります。今、動橋駅に行くと無人駅で寂れている。ただ超大編成の白鳥が停車しただけあって、ホームだけはやたら長い。加南線の足跡を尋ねる時、山代温泉のホテル百万石のそばに大聖寺川にかかる歩道橋があるけれど、そこがかつての鉄道の鉄橋。そこを過ぎると街路樹が並んでいるのが線路跡。また山中温泉に行くと、今はバス乗り場やスーパーになっているところが、かつての山中駅。かすかに乗った記憶がある。今の世にまで残る残っていて欲しかった電車です。くだらない停車駅紛争が招いた悲劇です。それにしても、加賀温泉駅から見える母子の巨大な像が悲しすぎる。
当時を知る方からのエピソードが聞けて、大変参考になりました!ここまで激しい停車駅争奪戦は全国的にも珍しいでしょうね…需要が無かったわけではなさそうですし、うまくすれば現在でも残っていたかもしれませんね。
こちらは、加賀温泉のライバル?である芦原温泉側です。全国的知名度からすると、加賀温泉にかなう訳がない。山中温泉なんかも鶴仙峡=大聖寺川の景観は素晴らしい。あやとり橋やコオロギ橋は有名。子供の頃に、ホテル百万石のプールで遊ぶのが最高の贅沢だったんです。それが、百万石が倒産して閉鎖される寸前に招待券で入浴しました。兵どもが夢の跡って感じでした。再開した後のことは知りません。昔みたいに団体でどーっと押し寄せて、大宴会なんて時代ではなくなったんです。ただ、どうでしょう。北陸新幹線敦賀開業が実現する日が見えてきました。往年の活況が戻るかも。正面衝突事故で廃線された鉄道・・・永平寺線。そこに自動運転の実験が行われています。案外、片山津線の跡がかなり残っているので、実現は可能かもしれません。
動橋駅、柵で封鎖されたホームやサビサビのレールがあって不思議やったけど、そういうことやったのね……。
ハ〜!!!加賀温泉駅はそうやって生まれたのか......県民ですが、「なんであんなハンパな場所に駅を?」「昔は人がたくさん来てたなんて嘘なんじゃ...」って思ってましためちゃくちゃよくわかりました
連休に山中温泉行くっす。
北鉄粟津線、実は俺が生まれ育って今も住んでいる町の中に駅があった。俺が生まれる前に既に無くなっていたが、そんな理由で廃線になったのか。
よし、しらさぎ見に行こう❗
行ってみてください!
あまり期待しないで下さい。整備の手が入ってないので汚れまみれコケまみれで状態は悪いです(T_T)
栗津線が廃止になっていなければ、また変わっていたかも知れないですね...
道の駅湯けむり健康村、一昨年行きました、静岡市在住の者です。突然のコメント失礼します。 静態保存のしらさぎの中に入ったら、運転席の行き先板が大井川鐵道の昔のままになっており、なぜここに金谷↔️千頭が?と、思っていましたが、この動画をたまたま見つけ、謎は解氷しました。なぜ4つの名湯が別々なのに、名古屋→特急681系しらさぎ→加賀温泉駅という駅名の疑問も。 大井川鐵道の社員さんが知り合いにいますので、外観と中で撮影した家族写真とこの動画を見せたいと思います。 ありがとうございました。因みに、道の駅の露天風呂は、夏に入浴したので?44℃と熱かったです。
金名線の動画作ってください!
加賀温泉駅ができた経緯(動橋と大聖寺の綱引き)は知ってましたが、それ以前にこんなチマチマした私鉄がチマチマやってたのは知りませんでした。だけど戦時中に不要不急線扱いされなかったのは戦時中でも結構需要があったってことなんでしょうなあ。
この頃の私鉄はなかなか面白いんですよね
1コメとられた…加賀温泉駅って加賀市駅でも違和感がないんですよね… (自治体名も加賀市ですし)観光需要って恐ろしいですね()
旧国名+市の駅名って意外とありますよね
旧国名だけの駅名って紀伊駅以外に事例あったかなあ?他は町なり市なりがくっついてる印象があるかつては名鉄に美濃駅があったけど長良川鉄道は美濃市駅
加賀市って自治体名も合併で妥協してできた名前ですからね。最近だと白山市とか能美市、かほく市とか能登町とか。
6000系も6010系も路線規格が低いから軽く作る必要があったんだよな…。でも、アルミ車体を載っけるだけで済んだ6010系はともかく、何から何まで意欲的に設計された6000系のその後がああなるとは誰が想像したんだろうか。
6000系を熊電にあげれば01系が入るまで活躍できたと思う。
石川県の鉄道の歴史が何かとアメリカのインターバーンに共通する。
片山津線を立体交差させたら直通できたのに当時は技術なかったのですかね?でもできないわけではなかったはず、同じく北陸鉄道の能登線なんか羽咋から盛土で高架して七尾線を跨いでいたし、富山地方鉄道になるが射水線も新富山から八ヶ山まで北陸線を跨ぐため その区間は盛土だったし。ところで、北陸鉄道に今もある浅野川線の北鉄金沢駅は昔金沢駅西口にあったが、今は地下化されて東口付近にある。離れたところにある金沢駅に接続ない石川線の野町駅へ延伸する構想あるらしいから実現したらいいですね。
山代~動橋線は8号線を立体交差してましたよ。陸橋で8号線が登る形で。現在でも不自然な形で残ってますが、4車線化工事に伴い取り壊しになりそうです。
その加賀温泉駅に新幹線駅が併設されるので両隣の動橋駅と大聖寺駅は過去にも未来にも寂れたまま?その小駅・作見駅から出世した加賀温泉駅に新幹線駅が置かれる。
動橋にお寺があって良く行きましたが…何か閑散としてましたね ( ゜ρ゜ )
残るはずじゃなかった石川線浅野川線というのはどうでしょう当初からこの路線を残すつもりならばここを連絡する市内軌道だけは何とか存続させようと もがいたのではないでしょうか恐ろしいほどバッサリと切り捨てましたよね
1コメ だと思う さぶらいんさんの動画面白いです。頑張ってください。
ありがとうございます!
まさかここで地元鉄道の名前がチラッと出るとは(@ ̄□ ̄@;)!!
社長がハトは草
画像がなかったのでw
馬鹿な政治駅を作ったお陰で、折角の鉄道網を活かせず、廃線とは。残っていれば、観光客を呼び込む貴重な観光資源になっていたのに。勿体ない!
国の政治方針がいい加減でせっかくの重要資源・重要都市をダメにしてしまう事例って万国共通ですよね。ほら、ソ連とか......おっと誰か来たようだ
加南線が廃線になった大元は、温泉駅招致に力入れすぎた挙げ句に、客のニーズに気付かず和倉温泉他に客を取られた&バブル崩壊による客離れによる利用者減少のせい。あと車社会になったせい。「馬鹿な政治駅」を作ったから廃線になったのではなくて、本業そっちのけで駅招致で行政マヒまでやらかした温泉旅館協会主体の対立が原因です。
あれ!しらさぎだった!
sp
過大サムネイル
動画の中で大聖寺、動橋が当時特急の停車駅として書いてあるが、当時、どちらも特急の停車駅ではなかった。白鳥の停車駅は、福井、金沢間に途中停車駅はない。北陸線に白鳥以外の特急が出来たのは、東海道新幹線開業で雷鳥としらさぎが出来てからです。それでも、特急停車駅ではなかったですよ。特急停車駅のためにできたのが加賀温泉駅です。急行停車駅ならどちらもそうでした。嘘で炎上アクセス数アップですか(笑)
以前、当駅は加賀温泉郷への玄関口として、大聖寺駅と動橋駅とともに特急が手分けして停まっていた[1]。1960年代末期には特急「雷鳥」「しらさぎ」が大聖寺駅と動橋駅の両駅に停車するダイヤとされていたことが特急の格やスピードアップの観点から問題視されたことから、1970年(昭和45年)10月1日に両駅の中間に位置する作見駅が加賀温泉駅と改称され加賀温泉郷の玄関口として一本化されたja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%81%96%E5%AF%BA%E9%A7%85大聖寺駅のページより
漁夫の利を得た場末の小駅、信号場から新幹線停車駅にまで大出世する事になりました。
一方で不毛な綱引きを繰り返した挙げ句に共倒れしてしまった両隣はというと凋落ぶりが凄まじいものがあります。
なんだかイソップの寓話みたいですね
そして
新幹線駅になる
山代民です。小さい頃に乗った記憶があります、
最終便の花電車の業務員さんが泣いていたのが子供心に印象的でした。
その後はしばらく放置ぎみだった車輌基地や操車場がいい遊び場で、
手漕ぎのトロッコは我々の夢のマシンでしたね。
その後は名鉄の資本が入ってボーリング場や傘下のタクシー営業所、
ゲーセンやスーパーが出来て、やはり遊び場のままでしたW。
現在はそれも取り壊され別のスーパーが建っています。
温泉電軌出身の車両のうち一両(モハ3563)は、流転の末浅野川線に落ち着き、架線電圧昇圧後しばらくの間内灘駅の側線に予備車として待機。長生きをしましたね😊❤
北鉄唯一の転換クロスシートと説明がありましたが、後に名鉄瀬戸線の900形をもらって3740形とした車両が1978年から90年まで石川総線→石川線で運行されてましたよ。
山代センターへ行くのに粟津駅から連絡線経由で山代まで乗りました 懐かしい思い出😊
10:15 日清戦争の風刺画をそこで出すとはww
少しだけ状況が似てるかも…w
風刺画がある動画の秒数出すの忘れたんで編集しときます
関西から特急で一本
↓
東京から新幹線で一本
に時代は変わりましたね。
待ってました!今回もたのしめながら、加南線の波乱万丈な経歴が、非常に良く分かりました!
さぶ様、実際に人に教えるのが、上手なのでは⁉
近いうちに、温泉旅行を兼ねて、「しらさぎ」を見に行こうと思います。
ありがとうございます!
よければ行ってみてください〜
大井川鐵道に売却した車両があるのは、同じ名鉄グループで成り立っているからです。
大井川鉄道ではカルダン駆動は整備できなかったのか、結局6000系(くたに→あかいし)の方は付随車両になってしまって小田急の旧型電車に連結されて運用される羽目になったんですよね。
というより加南線600V、大井川鉄道1500Vだからそのまま運用ができなかったんですね。6010系も入線当初は牽引されて使用されてました。
6000系は暫定的に他の車両に牽引されていましたけど、専用設計で昇圧改造が困難なことから結局そのままとされ、2両ともクハ6050形になってしまいました。
一方の6010系は旧式で昇圧改造が容易だったことから半年弱たって改造を施されて単独運行を再開し、都合20年活躍することになりました。
子供の頃に大聖寺駅に行くと、繊維工場をバックに福井寄りにキラキラした車体の電車が止まっていた。今となってみると「しらさぎ号」だったんだと気付く。当時花形特急だった青森~大阪間の特急白鳥の停車駅が独特。上りと下りで、動橋と大聖寺で停車駅を分け合うという変則的なことをやっていた。それだけ、大聖寺と動橋との競合が激しかったことを物語ります。今、動橋駅に行くと無人駅で寂れている。ただ超大編成の白鳥が停車しただけあって、ホームだけはやたら長い。加南線の足跡を尋ねる時、山代温泉のホテル百万石のそばに大聖寺川にかかる歩道橋があるけれど、そこがかつての鉄道の鉄橋。そこを過ぎると街路樹が並んでいるのが線路跡。また山中温泉に行くと、今はバス乗り場やスーパーになっているところが、かつての山中駅。かすかに乗った記憶がある。今の世にまで残る残っていて欲しかった電車です。くだらない停車駅紛争が招いた悲劇です。それにしても、加賀温泉駅から見える母子の巨大な像が悲しすぎる。
当時を知る方からのエピソードが聞けて、大変参考になりました!
ここまで激しい停車駅争奪戦は全国的にも珍しいでしょうね…
需要が無かったわけではなさそうですし、うまくすれば現在でも残っていたかもしれませんね。
こちらは、加賀温泉のライバル?である芦原温泉側です。全国的知名度からすると、加賀温泉にかなう訳がない。山中温泉なんかも鶴仙峡=大聖寺川の景観は素晴らしい。あやとり橋やコオロギ橋は有名。子供の頃に、ホテル百万石のプールで遊ぶのが最高の贅沢だったんです。それが、百万石が倒産して閉鎖される寸前に招待券で入浴しました。兵どもが夢の跡って感じでした。再開した後のことは知りません。昔みたいに団体でどーっと押し寄せて、大宴会なんて時代ではなくなったんです。ただ、どうでしょう。北陸新幹線敦賀開業が実現する日が見えてきました。往年の活況が戻るかも。正面衝突事故で廃線された鉄道・・・永平寺線。そこに自動運転の実験が行われています。案外、片山津線の跡がかなり残っているので、実現は可能かもしれません。
動橋駅、柵で封鎖されたホームやサビサビのレールがあって不思議やったけど、そういうことやったのね……。
ハ〜!!!加賀温泉駅はそうやって生まれたのか......
県民ですが、「なんであんなハンパな場所に駅を?」「昔は人がたくさん来てたなんて嘘なんじゃ...」って思ってました
めちゃくちゃよくわかりました
連休に山中温泉行くっす。
北鉄粟津線、実は俺が生まれ育って今も住んでいる町の中に駅があった。俺が生まれる前に既に無くなっていたが、そんな理由で廃線になったのか。
よし、しらさぎ見に行こう❗
行ってみてください!
あまり期待しないで下さい。整備の手が入ってないので汚れまみれコケまみれで状態は悪いです(T_T)
栗津線が廃止になっていなければ、また変わっていたかも知れないですね...
道の駅湯けむり健康村、一昨年行きました、静岡市在住の者です。突然のコメント失礼します。
静態保存のしらさぎの中に入ったら、運転席の行き先板が大井川鐵道の昔のままになっており、なぜここに金谷↔️千頭が?と、思っていましたが、この動画をたまたま見つけ、謎は解氷しました。なぜ4つの名湯が別々なのに、名古屋→特急681系しらさぎ→加賀温泉駅という駅名の疑問も。
大井川鐵道の社員さんが知り合いにいますので、外観と中で撮影した家族写真とこの動画を見せたいと思います。
ありがとうございました。因みに、道の駅の露天風呂は、夏に入浴したので?44℃と熱かったです。
金名線の動画作ってください!
加賀温泉駅ができた経緯(動橋と大聖寺の綱引き)は知ってましたが、それ以前にこんなチマチマした私鉄がチマチマやってたのは知りませんでした。
だけど戦時中に不要不急線扱いされなかったのは戦時中でも結構需要があったってことなんでしょうなあ。
この頃の私鉄はなかなか面白いんですよね
1コメとられた…
加賀温泉駅って加賀市駅でも違和感がないんですよね… (自治体名も加賀市ですし)
観光需要って恐ろしいですね()
旧国名+市の駅名って意外とありますよね
旧国名だけの駅名って紀伊駅以外に事例あったかなあ?
他は町なり市なりがくっついてる印象がある
かつては名鉄に美濃駅があったけど長良川鉄道は美濃市駅
加賀市って自治体名も合併で妥協してできた名前ですからね。最近だと白山市とか能美市、かほく市とか能登町とか。
6000系も6010系も路線規格が低いから軽く作る必要があったんだよな…。
でも、アルミ車体を載っけるだけで済んだ6010系はともかく、何から何まで意欲的に設計された6000系のその後がああなるとは誰が想像したんだろうか。
6000系を熊電にあげれば01系が入るまで活躍できたと思う。
石川県の鉄道の歴史が何かとアメリカのインターバーンに共通する。
片山津線を立体交差させたら直通できたのに当時は技術なかったのですかね?
でもできないわけではなかったはず、同じく北陸鉄道の能登線なんか羽咋から盛土で高架して七尾線を跨いでいたし、富山地方鉄道になるが射水線も新富山から八ヶ山まで北陸線を跨ぐため その区間は盛土だったし。
ところで、北陸鉄道に今もある浅野川線の北鉄金沢駅は昔金沢駅西口にあったが、今は地下化されて東口付近にある。離れたところにある金沢駅に接続ない石川線の野町駅へ延伸する構想あるらしいから実現したらいいですね。
山代~動橋線は8号線を立体交差してましたよ。陸橋で8号線が登る形で。現在でも不自然な形で残ってますが、4車線化工事に伴い取り壊しになりそうです。
その加賀温泉駅に新幹線駅が併設されるので両隣の動橋駅と大聖寺駅は過去にも未来にも寂れたまま?
その小駅・作見駅から出世した加賀温泉駅に新幹線駅が置かれる。
動橋にお寺があって良く行きましたが…
何か閑散としてましたね ( ゜ρ゜ )
残るはずじゃなかった石川線浅野川線というのはどうでしょう
当初からこの路線を残すつもりならばここを連絡する市内軌道だけは何とか存続させようと もがいたのではないでしょうか
恐ろしいほどバッサリと切り捨てましたよね
1コメ だと思う さぶらいんさんの動画面白いです。頑張ってください。
ありがとうございます!
まさかここで地元鉄道の名前がチラッと出るとは(@ ̄□ ̄@;)!!
社長がハトは草
画像がなかったのでw
馬鹿な政治駅を作ったお陰で、折角の鉄道網を活かせず、廃線とは。
残っていれば、観光客を呼び込む貴重な観光資源になっていたのに。勿体ない!
国の政治方針がいい加減でせっかくの重要資源・重要都市をダメにしてしまう事例って万国共通ですよね。ほら、ソ連とか......
おっと誰か来たようだ
加南線が廃線になった大元は、温泉駅招致に力入れすぎた挙げ句に、客のニーズに気付かず和倉温泉他に客を取られた&バブル崩壊による客離れによる利用者減少のせい。あと車社会になったせい。
「馬鹿な政治駅」を作ったから廃線になったのではなくて、本業そっちのけで駅招致で行政マヒまでやらかした温泉旅館協会主体の対立が原因です。
あれ!しらさぎだった!
sp
過大サムネイル
動画の中で大聖寺、動橋が当時特急の停車駅として書いてあるが、当時、どちらも特急の停車駅ではなかった。白鳥の停車駅は、福井、金沢間に途中停車駅はない。北陸線に白鳥以外の特急が出来たのは、東海道新幹線開業で雷鳥としらさぎが出来てからです。それでも、特急停車駅ではなかったですよ。特急停車駅のためにできたのが加賀温泉駅です。急行停車駅ならどちらもそうでした。嘘で炎上アクセス数アップですか(笑)
以前、当駅は加賀温泉郷への玄関口として、大聖寺駅と動橋駅とともに特急が手分けして停まっていた[1]。1960年代末期には特急「雷鳥」「しらさぎ」が大聖寺駅と動橋駅の両駅に停車するダイヤとされていたことが特急の格やスピードアップの観点から問題視されたことから、1970年(昭和45年)10月1日に両駅の中間に位置する作見駅が加賀温泉駅と改称され加賀温泉郷の玄関口として一本化された
ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E8%81%96%E5%AF%BA%E9%A7%85
大聖寺駅のページより