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山陰本線で運用されていたので馴染みの機関車でしたがそんなに故障の多い機関車とは知りませんでした結局DD51に変わっていっけれどもそういった事情があったことは後で聞いて知った
DMP81ZエンジンはOHC、油圧タペット、クランクシャフト端のベアリングはころ軸受、と技術的に先走り過ぎたせいでメンテナンスに無理があり、それが不調の原因の一つと思います(参考:十数年前まで生産されていたトラック用V型(V6〜V12気筒)ディーゼルエンジンではOHC、油圧タペット、クランクシャフトのころ軸受は使わず、OHV、すき間ゲージを入れてタペット調整、クランクシャフトはプレーンベアリングです)
C54形がC51形に置き換えられたように、DD54形もDD51形に置き換えられたのも偶然だし、山陰地方で生涯を終えたのもこれまた同じ…すごく興味深い。
これでも1両だけでも保存されているのが良かったと思います。
DD51の有能さに感服
DD51という幹線でも亜幹線でも通用する優秀機関車があるのに、なぜDD54が開発されたか不思議
@@北海道牧場主 実はDD54が開発されたのは1、DD51が当時不調で実用化出来るかどうかさえ危ぶまれた。2、当時世界的に同じ出力なら2エンジンより1エンジンの方が保守が容易で製造費も節約出来る。3、SGなども余裕持って設置できる。と言う事情からです。ところがDD54登場の頃にはDD51は戦時中三式戦闘機「飛燕」の液体継手式過給機で苦労した川崎重工が新潟鉄工所を指導する形でトルクコンバータを改良したり、最大牽引トン数や高速性能引き下げと言う性能ダウンで実用化に成功していた事で既に存在価値が薄れていた事が不評の原因です。2、の要素はDD54登場の僅か2年後に起きた棒高跳び事故を始めとした推進軸脱落事故を受けて「DD54置き換え用に開発された」DE50に引き継がれてます。因みに推進軸脱落の根本原因は推進軸強度計算に誤りが有り、強度が不十分だった事以上に軸重軽減の為中間台車を入れた事で原型の西ドイツ機より推進軸が長くその取り回しが複雑になった為推進軸に無理な力が掛かっている事、つまり本来なら函館本線函館口や室蘭本線・千歳線や後の石勝線といった重幹線での高速貨物列車牽引専用機と割り切って製造すべきところ(製造両数もほぼ合致する)運用範囲を広げて二級線に運用出来る様にすると言う、そもそものコンセプトからして間違っていたのが最大の原因。
DD54は天皇陛下の御召し列車を牽引したこともあり、決して悪い機関車ではない。本当に悪い機関車なら御召し列車に抜擢される筈がない。
@@鉄道模型大好きおじさん さんまあ亜幹線機という製造コンセプトが間違いで北海道の重幹線限定で高速貨物列車牽引機として割り切って製造するべきでしたね。それならトラブルの根本原因である中間台車が不要になったのですが。
懐かしいDD54。高校生の時、福知山線で丹波から三田駅まで通学で利用していたときのこと。DD54機関車牽引の下り普通客車で16時台に三田駅を出て広野駅を過ぎて相野駅へ向かうときの出来事です。ゆるい登り勾配が続くところがあり、急にスピードが落ちて止まってしまいました。しばらくして、広野駅へ戻るとの車内放送。最後尾を見ると緑の旗を振って後進の合図をされていました。ゆっくりとバックで進み、広野駅では待避線に入りました。当時の客車は6両ほど連結されていたと思います。駅で乗客は降ろされ、次の下り普通列車のジーゼルカーに乗ることになりました。連結の車両が少なかったため、ホームに溢れてた自分も含めて乗り込むのに相当な時間がかかった記憶があります。おしくらまんじゅうではないけれど、とにかく人と人とが密着していました。当時、機関車を運転されていた方や車掌さんも機関車の故障がいつ起きてもおかしくない状況だったのか、乗っている人は冷静な中、広野駅に戻ることができました。ゆるい勾配で自然に動いたのか、機関車の動力を使って戻ることができたのかは分かりません。もう50年近く前の思い出です。
逆にDD51の優秀さに改めて感心する。
DD51も欠陥機で、スペックダウンして漸く実用化されてます。
関西地区でこの当時、機関士をしていた方(DD54は未経験)が知り合いで話を聞いた事がありますが、機関区での留置の時はエンジンが一旦冷えると再始動にかなり時間がかかるらしくずっとアイドリング状態で待機していたと言っていました(冬季はかなり悲惨らしい)ディーゼルなので複数両あるとかなりうるさかったみたいです。
ご教授頂きありがとうございますm(_ _)m
当時主流の予燃焼室式のディーゼルエンジンは構造上コールドスタートに時間がかかりました。その後直噴ディーゼルが普及し、列式の噴射ポンプが分配式となり予熱プラグの技術が進歩すると冬場でも一発始動が可能になりました。自動車の世界でも消防車などはすぐに出動出来ないため60年代後半から70年台初頭までガソリン車が多用されていました。
大量の煙イギリスHST125「」ソビエトM62機関車「ギク!」
DD54形は、調べていくと沼にはまる迷要素の宝庫です
コメントありがとうございます。私も調べるまでは、このような経緯があった事を知りませんでした…
泥沼ですよね_(^^;)ゞ
DD54 33号機が保存されているのは、旧国鉄の福知山機関区の職員が、欠陥機関車の証拠として、国鉄本部から証拠隠滅のための、全車解体阻止するため、機関庫に保管し続けたという話を、なんかの本で読んだ気がします。真偽のほどはわかりませんが・・・。
DD54は昭和のうちに埋もれたにも関わらず電車でGOのおかげで平成世代でも知っている人が多い謎機関車といえるでしょう
ああ、確か棒高跳びした機関車でしたねこれ。走行中にプロペラシャフトがエンジン負荷に耐えきれずに破損して落下、そして地面にぶっ刺さって棒高跳び。
全く同じシチュエーションの事故が自動車の世界でも同じ頃日産のマイクロバス「エコー」で多発し、欠陥車問題が国会でも取り沙汰されリコール制度が生まれました
昔コイツを模型で見て格好いいなあと思っていたのですが、実際にはとんでもない迷車だったとは。戦前の飛行機エンジンのDB601と言い、ドイツからのライセンス品はロクなことにならない場合が多いですね。まあコイツの場合には、ライセンス元とは違って車体全長を抑えるための軸配置変更による無理な設計によるジョイントの破損などもあり、一概にドイツ側が悪いとも言い難い部分があり、国鉄側の見通しが甘かったとも言えますが
54の番号を付与された機関車は悲運な運命を背負う。
まだ日本の工業力が追い付いてなかったため整備が上手くいかなかったって云う側面も大きかったようですね。ドイツの機械はメンテナンス性をあまり顧慮して呉れてないとか何とか・・
改良が認められても、ソレが不良の解決や、性能の維持に繋がったは不明。やはり「平凡だけど、確実に使える」DD51を量産した事実が歴史なんですよね。
日本は蒸気機関車もそうだが内燃機関も苦手分野だからな。せいぜい通勤電車と新幹線くらいしか得意分野がなく鉄道技術はむしろ劣ってる
走っているのを見たのは1回だけ梅小路機関区に蒸気機関車を見に行った44年前山陰本線から梅小路貨物駅に回送して入ってきた この機関車のせいで国産重視になった DD51は今も現役の名機 ドイツのエンジンは戦時中の飛燕のエンジンも日本では上手く行かなかったから相性が悪いんだろうね
働く車両が好きな素人です。なんだろ、いつも王子駅を通過する金太郎さんをガード下から頼もしく見てるけどDD54はその始祖のように見えてひたむきさを感じる。動力に技術が追い付いていなかった時代。そこから世界の驚異、奇跡の技術と称賛されるまでに発展した日本の鉄道とその車両。きっとこの時代の口惜しさや前進しようと藻掻く鉄道マンや技術者の血と汗と涙によって今があるんですね。DD54はそのために現れてくれたのかな。
そういう角度から見るならDD54は反面教師として生まれたんでしょう。。
ほかの方も書かれていますが、この機関車を語るうえで「棒高跳び事故」は衝撃度ともに代表的な事故事例だったと思います。
天皇陛下の御召し列車を牽引したことも忘れてはならない。
一番好きな機関車でした。DD51ばかりの中DD54が旧客を引く姿はとても魅力的でしたね。
当機といえば急行「さんべ」牽引中にシャフトがポッキンして棒高跳び事故。
実は開発当時DD51の性能が安定しておらず、また大出力1エンジン主義の利点を確認する為DD54が開発されたのだが、製造後3年で推進軸が折れるトラブルが続出した為、「DD54と同じ1エンジンでDD54と違い純国産で故障が起きにくい機関車」として開発されたのがDE50です。つまり1970年の段階でもう失敗作扱いされて早期廃車対象になってましたね。もしローカル線にも入線できる大型機関車ではなく、室蘭本線や函館本線、千歳線などの重幹線で高速貨物機関車を牽引する目的一本で中間台車もSGも廃止して製造されていれば推進軸構造の無理から生じる脱落、という致命的なトラブルは抑制出来たでしょうね。
コメントありがとうございます。また、詳しいご説明を頂き、ありがとうございます。
DE50は量産されず残念だったけど、もっと残念なのは3000馬力級のディーゼル機関車として計画されたDF51が試作もされずに終わったこと。もしDE50やDF51が実用化されてたら、JR移行後にDF200は登場しなかったかもしれないし、登場したとしても史実より後になっていたかも?
京都梅小路鉄道博物館に展示されているのが、最後まで定期列車を牽引した33号機。竹田駅に夜に定期で通常通りに到着。特にカメラ構えた人ほとんどなく、セレモニーもない最後だったらしいです。その後にある機関区に保存。解体を国鉄のエライさんにストップかけられて逃れて、大阪交通科学博物館に転入、その後に京都にきました。地域的に運用には巡り会えす。何故か興味をそそられ、nゲージ模型で購入。数が少ないらしく、Dマニアの知人から拝み倒されて無料で渡す。代わりにDF50が渡されました。新品だったから彼のレールで走ったのが最初。僕のは総計20メートルくらいですが、DD51はあります。
弁天町の交通科学博物館で初めて見たときは幼いながらすごい印象に残ってるなぁ
変速機はメキドロ式という独特な方式で、トルコンを介しながら後ろにある多段式の遊星歯車式変速機を駆動するやつで、大出力・大トルクのエンジンから来る太いトルクを吸収する仕組みが備わっていました。この装置が未熟で、衝撃に耐えきれずに故障してしまったり…。DD51、DE10ディーゼル機関車では、変速比の異なる3組のトルコンを備え、このトルコンへのオイルの出し入れを切り替えることによって動力伝達するフォイト式です。
ご教授ありがとうございますm(_ _)m
装置が未熟というより、国鉄の技術力が未熟という方が正しいのでは?マイバッハ機関とメキドロ変速機を組み合わせたディーゼル機関車はイギリスや中国などでも走っていたけど、深刻なトラブルは発生しなかったのだから。フォイト式でも万能という訳ではなく、極端に大馬力なエンジンには対応が難しかったと言われる。実際、純国産1エンジン大馬力ディーゼル機関車DE50のトラブルの大半は変速機だったそうだ。
@@鉄道模型大好きおじさん 実はDD51も欠陥機で、能力をデチューンして騙し騙し使ったのが真相。そうなったのはライバル機DD54が酷すぎた為。ちなみにDD51がまあまあ使える程度に成功したのは戦時中川崎が三式戦闘機「飛燕」のエンジンで散々苦労して最初「ぴえん🥺」と呼ばれるぐらい酷い出来だったのを改良して本土防空戦では「P51登場前なら一番活躍した」と言われる位になんとか持っていった経験をこれに注ぎ込んだからでDE50の変速機云々もハー43の過給器でやらかした三菱が首突っ込んだのが原因。ちなみにハー43はDE50と同じ2000馬力で変速機の設計もDE50に援用されてます。但しDE50はトラブルは少なく、DD54置き換え用という当初目的は果たせそうでした。
DD54のスタイル好きだったなぁ走っている線区が遠すぎて仕方なく通信販売で出雲のHM付けた写真を購入しましたいまでもたまにながめています
もしトラブルが頻発しなければ、もっと量産されて東北や九州などにも配置されてたかもね。
元ネタ?のドイツの216形はそれなり以上の成功収めていたのとは対照的とも。
DD54気動機関車は、京都鉄道博物館へを展示をしています!!。
動画にもあるように、当時国鉄離れのデザインで、しかしあまり見かけないから、当時鉄オタで、鉄道趣味誌を読み耽ってい私は何か好きでした。
ギリギリ昭和40年代に、山陰本線のド田舎区間で待ってたら、こんなのが来た記憶がある。
いつどの部位に不具合が発生するかわからなかっただけに、最後までまともに稼働できた最後の2両も戦々恐々していた。
ライセンス生産でも改良できていれば国鉄末期まで走っていたのではと思います。
なんかDD54の生涯って、きかんしゃトーマスに出てくるような単発のディーゼルに似たような終わりですね…
誰?
この機関車は、大阪の交通科学博物館、京都鉄道博物館と両方で見たことがあります。大阪のときは運転席に入れて、じっくりと堪能できたのがいい思い出です。
運転室に乗れたとは羨ましい限りです。
結局の所、自分で開発できないものは維持が出来ないって事だな
これからも頑張ってください宜しくお願いします。
ありがとうございます!
他の方も挙げておられますが、この動画で触れられていないことが割とあるようです。小さなことでは変速ショックがかなり大きいようにも聞いていますし、大きなことでは棒高跳び事故も複数回起こっているようにも聞いています。現場から早くDD51に置き換えてほしいと要望が出されて、すんなりと何の問題もなく置き換えられたようです。できるなら、もう少し突っ込んだ動画を再度あげていただけないでしょうか。
ターミネータージョイント音の伝説の機関車😁
試作機の写真初めて見れました^^*ありがとうございました!
山陰本線で牽引していたDD54型デイゼール機関車。
撮り鉄にいざなってくれた機関車。伯備線時代を撮れてないのが心残り。
マイバッハとのライセンス契約をしてまで、外国製エンジンを使用しなければいけなかった理由が、説明になかった。
子供の頃福知山線の中山寺近くに住んでいたから乗った事が何度もあります。伊丹 川西池田 中山寺沿線は名に見なくいちじく畑が広がっていたなあ.黒い煙を吐きながら武田尾駅で行き違いのため30分以上止まっていた。 懐かしい。
DD54のエンジンは、ドイツ(旧西ドイツ)の、マン社製品でしたか…。性能は高いけど、整備性が悪く、故障連発で低評価というのを、1970年代の雑誌「鉄道ジャーナル」で見ました。新幹線をはじめとする「電車」の高評価と違い、ディーゼル機関車とディーゼル気動車(キハ80系とか181系)は「エンジンが最低」でした。JR東海が「特急ひだ」にイギリスのカミンズエンジンを使って、なんとか世界水準にたどり着きましたね。
日本の内燃機関使用プラント、特に大型のもの全てに共通する欠陥ですね。
エンジンの生産国はどこだったんですか? ドイツ?
異端児の割に、結構色んなメーカーが模型化しているという・・・。(笑)
DD54を語るにあたっては、是非ともドライブシャフト棒高跳び事故を取り上げてほしかったです。(^▽^)
戦時中のDB601エンジンと同じ運命をたどったのですね
1968年は小樽~滝川間が電化開業の上711系が登場した頃ですね…
だいたい市場寡占を狙った某重電が主犯
播但線のイメージがありますね。
EF66形と似ている所もあるなと感じた。
まぁ同世代ですから。
DF50よりだいぶ力強い加速力だったがなんせ変速ショックが酷かった、
ドイツ系繋がりで500系はきっとdd54の転生車
ドイツ・マイバッハ社といえば、フェルディナント・ポルシェ博士が設計した重駆逐戦車〝象〟の製造元です‼️⤴️⤴️エンジン不調と過重(65㌧)で稼働不良が多かったとか・・・。DD54形と重駆逐戦車エレファントが同じようにおもえてなりません・・・。(涙)😢
コメントありがとうございます。エンジンもただ大きければ良いという訳ではないと、開発者達が気付くのは少し後でしたからね…
エレファントについてだけど、近年の資料では足廻りと大重量に悩まされるも駆動系は何とかなっていたそうだぞ
ドイツの戦車は訳がわからん。巨大戦車マウスなんて誰が作らせたんだよ。
上手く言えないけれど戦闘車輌と鉄道車輌の関係性って表裏一体?東芝 日立 三菱 川崎のマークがちらつくかな。
国鉄が54使うと迷機関車が生まれる。
幼い頃、図鑑で見てカッコいい機関車だなぁと思ってました。どんなエンジンの音がしたのでしょう悲運の機関車で短命に終わったのは、残念ですね。
DD54のエンジン音、どこの車両基地だったか、横を通った時に始動するのを数回聞いただけですが、DD51の音よりもう少し低くてふっくらとしたような音だったと記憶しています。走行音、どこかに動画が上がってないでしょうか。
1820psあるのに変速機辺りの不調で蒸気機関車に置き換えられるって言う
コメントありがとうございます。不憫ですよね…
播但線の客レが、懐かしい❗
和田山からの始発列車に姫路迄乗り通しましたよ!( ≧∀≦)ノ定期運用は播但線が最後でしたから。
@@中西正治-w6u 私は、姫路から叔母のいる新井までよく乗りました。帰りはいつも叔母が急行券を買ってくれるので、キハ58の但馬でしたが…。
DD54は1966年~1971年までに40両製造され、DD51、DF50に次ぐ亜幹線の主力機として期待されたが、度重なる故障や事故が続発した為製造が打ち切られ、1978年に全機廃車と短命に終わり、結局は置き換えられる予定だったDD51が長く活躍する様になったんですよね。
終末期には、2両しかまともに稼働できず、いつどの部位に不具合が発生するかわからないだけに戦々恐々としていました。
奇跡的に解体せず1両残してくれた当時の国鉄に感謝します。今だに播但線当時を思い出します。
本当は全機解体される予定だったけど、組合が黒歴史機関車を証拠隠滅するなと圧力をかけて1両だけ残されたと聞いたことがある。国鉄は失敗作の黒歴史機関車はさっさと解体して闇に葬る体質があったからね。C54やED54、ED90、ED74などなど。
@@鉄道模型大好きおじさん さん実際には国鉄の医療に関わっていた高名な医学博士が保存を持ちかけたのがきっかけ
大好きなDL機です❤️中学の時福知山から大阪駅へ帰る途中塚口で空の客車付けて2番線に止まっていて、私の乗っていた列車が3番線で追い抜いたので変だと思っていたら大阪駅にDD51 に引かれて来たのを覚えています😭故障だったのですね‥‥
試作車DD91は海外製の機器を使用していても良好だったことからDD54で一部を国産のものにしたのが良くなかったような。
DB601エンジンと同じですね。
Great video!
三○重工とドイツ代理店だった伊藤○との癒着は各所で指摘されてますね。機関車利権では乱造された交流電機でも東○との癒着とか。
やっぱ!51だな!
ベンツの最上級グレードは「マイバッハSクラス」ですが、「マイバッハ」と聞くとDD54を連想してしまうようなヘタに鉄道に詳しい向きからは印象が悪そうですねw
WW2ドイツの戦車のエンジン名で生きてました。ダイムラーに協力してたし噴霧式キャブレターを完成させた人だから
国鉄54のジンクスそのものという生涯
国鉄がすでに赤字体質となっていたのに、10年未満で廃車したら問題化されるわな。
Somehow I miss this DL. I saw them at work around Kyoto area, hauling commuter coaches in the mornings in early 70's.
今のメルセデス・マイバッハも壊れやすいらしい
おっ…大阪で剥製にされて敷地の道っ端に晒し者にされてるDD54、久しぶりに見るな…(゜ロ゜)
コメントありがとうございます。私は実車を見た事がないので、いずれ京都鉄道博物館に見に行きます。
中には入れなくなってたよ
@@motokinisimura9325 そいつは残念…通りすがりに見た時は、あそこ交差点の近くだったから、見とれて思わず信号無視して焦ったんで、いつかじっくりと穴が空くまで見てやろうと思ってたんだが…💧
@@用宗.東田子ノ浦 曲がっていきなり正面やから、僕はただただ驚いた…播但線とかの真夜中にT2状態の単機での継目音で闇から迫ってくるのを見てみたかったですw
SDA12V170をこの時代に使えればねえ…
DD51の更新車用(ひいてはDF200のSDA12V採用の元にもなった)にSA12V170-1採用して、コマツのは故障もなく優秀な機関だとJR貨物北海道支社で褒められてたって鉄道ジャーナルの記事にありましたね
1970年代前半、福知山線の鈍行は、DD54+旧型客車だった。最後尾の本来、幌がある部分は鎖が貼ってあるだけ。そこに座って三田界隈~大阪までの流れていく線路や景色を見るのが楽しみだったのが懐かしい。急行は58系、特急は80系だったっけ。あの頃はのんびりだったね。くるはずの鈍行が来ないので途方に暮れてたら急行の運転士が通過駅なのに止まって乗務員ドアを開けて乗せてくれたっけ(乗客は自分ひとり)。それってDD54が立ち往生してダイヤが乱れてたからかな?それが定時運行であんな事故を起こすようになったんだからね。
京都鉄道博物館にて、静態保存します!\(^o^)/
どんな内容かと見てみたら、黒バックに字幕だけとか、些細なことにいらすとやとか、何なん?ついついWikipediaを調べてしまいましたが、当時の国鉄がいかにダメダメだったのかを垣間見た感がありますね。良い材料(エンジン+変速機)があれば良いモノができるじゃろ?みたいな現場を知らない社長がものづくりに手を出した、的な。故障どころか事故まで起こして国の金を無駄にしていれば、国会で問題にされても仕方ないですよね...
ちょっと古くても信頼できて特許の切れた技術を導入するのがいちばん効率的では?環境問題も、機器の製造廃棄にかかる環境負担を考えれば、少しぐらい煙を出しても、それがセクシー(死語)。
54形は失敗作の形式が多い。偶然なのか意図的なのか謎だね。
クモハ54とスロ54とキハ54「ちょっと待て、オレ達もか?」EF54「オレはEF14になったが失敗作なのか?」
54型機関車は(蒸気、電機、ディーゼル)何故か祟られとる😱なんでかな~(汗)
客車だとスロ54とか名車があるのにね。
電車なら54系、気動車ならキハ54があるね。
@@鉄道模型大好きおじさん さん厳密にはキハ54も0番台はロングシートでトイレがなく、長距離運用に耐えられない500番台は昭和61年登場にも関わらず冷房、それどころかクールファンさえ無いという欠陥車ですけどね。
道北道東でしか年間数日しか無い夏日のためにクーラー設置なんて重要ではないよ窓が開閉出来る一般車で窓を開けるだけで十分涼しいのだから酷寒地では冬季における保温と高い稼働率維持が重要
国会まで行くとかどこまで迷なんだよww
かつてはC53も国会に行ったらしい^^*
やばしww
「ライセンス生産だけど、独自改良はダメ」と聞くと、アドアターボファンを思い出す…
しかし、エンジンはマイバッハのエンジン見た目もヨーロッパ型
54は呪われてますね…(^^;
みや!?さん、1960年国鉄がディーゼル特急はつかり号上野〜青森キハ81系がエンジン故障起し立ち往生した事を小さな頃新聞に掲載されていました。
DD54天皇陛下の御召し列車牽引に抜擢されたこともあるので、決して悪い機関車ではなかったようだ。C54やED54、EF54には御召し列車を牽引させるなど眼中にも無かったそうだから。
ふるさと納税
DD 51 はその後貨物で2020年になっても一部現役なのにDD 54とは一体()
役に立てただけキハ285よりはマシ
デルティックのにのまい
山陰の王者!
うぽつです
こんな機関車でもお召列車を重連で牽引した実績もある…(京都?で機関車交換した際に引き上げ線で車軸が焼けたそうですが)
こいつのHOの模型購入を「模索中」です(個人的にはDF50派なんですが…じわじわと「するめ」のような存在です😅)因みに、ガキの頃、福知山線での実車走行を一度だけ見た身…です
コメントありがとうございます。私は平成生まれですので、実車は見たことないです(汗)でも個性的で好きな機関車でもあります。
平成生まれの方はEF210とかEF510がスタンダード?かなぁ?むしろ、DD51とかDD54とか?DE10とかDF50とか電気釜のEF58とかEF65 500とかEF65 1000とかEF66とかEF81とか…どんな感じで映ってるんやろうか🤔(EF66やEF65 1000は現役だが😅)ジェネレーションギャップっう意味で、興味をそそります😅実車は、確か?京都鉄博で展示しているので…是非😉
w.なんかね、ぶさカッコ良い様な味わい深いです。
DD54を置き換えたDD51も、貨物列車と客車列車の削減に次ぐ削減で民営化を前に大量廃車が出るんだよな。なので仮に故障修理を自由にやれたとしても、どのみちDD54は平成を迎えることは出来なかったろう。それにしても、出雲のヘッドマークをかざして20系の先頭に立った彼らのカッコいいことカッコいいこと。いっぺんでいいから、松が枯れる前の五十猛とかで撮影してみたかった。
棒高跳び機関車
コメントありがとうございます。棒高跳び…というのは…?
推進軸が外れて棒高跳びして脱線
@@kagami1239 折れた推進軸が線路に刺さり、その勢いで車体が脱線したというネタがありますちなみに、似たような事故は石勝線で火災事故起こしたディーゼル特急でもありました
山陰線湖山駅での推進軸折損事故ですね。
それを公の場で訊ねるレベルですか。自分でネットででも調べればすぐわかるのに。(そもそもネット公開するなら、ネット以外のちゃんとした資料でウラをとったものでないと意味がないと思いますが)他にも突っ込みどころはあるし、この動画は恥なだけだからいっぺん引っ込めたほうがいいと思いますよ。
出雲?
DD54はDD51のエンジンの倍の出力のエンジンを搭載していて、それを受け止める液体変速機も倍の容量を持つ物が採用されていたが、それを保守できる力量が山陰地区の保守陣が持っていなかっただけなんじゃないかな。JR北海道のキハ283系の推進軸脱落事故に重なるな。
故障が多いことで有名だったらしいね。コイツ,,,,
これ、碓氷の鉄道文化村で見た…
現存のDD54は33号機のみが京都鉄道博物館に収蔵されているので、碓氷峠鉄道文化村のはDD53です。
直接ベンツに作らせて、修理させろ。ヤナセはないのか?
横川に保存されてるよ
コメントはありません、
このネタもう10年も前に投稿されていますよwww.nicovideo.jp/watch/sm12902579
何か問題でも?…
@@渡部有吉 二番煎じに意味はあるのだろうか?二番煎じなら別の目線での動画などにしないとただの後出しのコピーでしょ。コピーならコピーで先人へのリスペクトを示すべきでは?
@@竜星-s1b いや、そんな事を言ったら迷列車で行こうシリーズは誰も作れなくなりますし、別の観点から論説しようとしても同じ車両なのだから内容が似てしまうのは常識的に考えて当たり前じゃないですか。それに『先人へのリスペクト』を動画だけでどう表現するのか些か疑問ですね。
@@竜星-s1b あと一つ言い忘れてましたが、あなたが例に挙げていた東日本編の作者様の動画にも小田急編の動画とネタが被った物がありますけど、それに対しても上記のような意見を発言なされたのですか?あなたの理論からすれば、その動画も『二番煎じ』ですが。
@@渡部有吉 せめて、参考資料に提示するくらいはしたらどうなんですかね?また、全く内容が同じ動画の存在意義ってどうなんですかね。別の視点での動画すら作ることができなければ作らなければいいだけでは?
山陰本線で運用されていたので馴染みの機関車でしたがそんなに故障の多い機関車とは知りませんでした
結局DD51に変わっていっけれどもそういった事情があったことは後で聞いて知った
DMP81ZエンジンはOHC、油圧タペット、クランクシャフト端のベアリングはころ軸受、と技術的に先走り過ぎたせいでメンテナンスに無理があり、それが不調の原因の一つと思います(参考:十数年前まで生産されていたトラック用V型(V6〜V12気筒)ディーゼルエンジンではOHC、油圧タペット、クランクシャフトのころ軸受は使わず、OHV、すき間ゲージを入れてタペット調整、クランクシャフトはプレーンベアリングです)
C54形がC51形に置き換えられたように、DD54形もDD51形に置き換えられたのも偶然だし、
山陰地方で生涯を終えたのもこれまた同じ…
すごく興味深い。
これでも1両だけでも保存されているのが良かったと思います。
DD51の有能さに感服
DD51という幹線でも亜幹線でも通用する優秀機関車があるのに、なぜDD54が開発されたか不思議
@@北海道牧場主
実はDD54が開発されたのは
1、DD51が当時不調で実用化出来るかどうかさえ危ぶまれた。
2、当時世界的に同じ出力なら2エンジンより1エンジンの方が保守が容易で製造費も節約出来る。
3、SGなども余裕持って設置できる。
と言う事情からです。
ところがDD54登場の頃にはDD51は戦時中三式戦闘機「飛燕」の液体継手式過給機で苦労した川崎重工が新潟鉄工所を指導する形でトルクコンバータを改良したり、最大牽引トン数や高速性能引き下げと言う性能ダウンで実用化に成功していた事で既に存在価値が薄れていた事が不評の原因です。
2、の要素はDD54登場の僅か2年後に起きた棒高跳び事故を始めとした推進軸脱落事故を受けて「DD54置き換え用に開発された」DE50に引き継がれてます。
因みに推進軸脱落の根本原因は推進軸強度計算に誤りが有り、強度が不十分だった事以上に軸重軽減の為中間台車を入れた事で原型の西ドイツ機より推進軸が長くその取り回しが複雑になった為推進軸に無理な力が掛かっている事、つまり本来なら函館本線函館口や室蘭本線・千歳線や後の石勝線といった重幹線での高速貨物列車牽引専用機と割り切って製造すべきところ(製造両数もほぼ合致する)運用範囲を広げて二級線に運用出来る様にすると言う、そもそものコンセプトからして間違っていたのが最大の原因。
DD54は天皇陛下の御召し列車を牽引したこともあり、決して悪い機関車ではない。
本当に悪い機関車なら御召し列車に抜擢される筈がない。
@@鉄道模型大好きおじさん さん
まあ亜幹線機という製造コンセプトが間違いで
北海道の重幹線限定で高速貨物列車牽引機として割り切って製造するべきでしたね。
それならトラブルの根本原因である中間台車が不要になったのですが。
懐かしいDD54。高校生の時、福知山線で丹波から三田駅まで通学で利用していたときのこと。DD54機関車牽引の下り普通客車で16時台に三田駅を出て広野駅を過ぎて相野駅へ向かうときの出来事です。ゆるい登り勾配が続くところがあり、急にスピードが落ちて止まってしまいました。しばらくして、広野駅へ戻るとの車内放送。最後尾を見ると緑の旗を振って後進の合図をされていました。ゆっくりとバックで進み、広野駅では待避線に入りました。当時の客車は6両ほど連結されていたと思います。駅で乗客は降ろされ、次の下り普通列車のジーゼルカーに乗ることになりました。連結の車両が少なかったため、ホームに溢れてた自分も含めて乗り込むのに相当な時間がかかった記憶があります。おしくらまんじゅうではないけれど、とにかく人と人とが密着していました。当時、機関車を運転されていた方や車掌さんも機関車の故障がいつ起きてもおかしくない状況だったのか、乗っている人は冷静な中、広野駅に戻ることができました。ゆるい勾配で自然に動いたのか、機関車の動力を使って戻ることができたのかは分かりません。もう50年近く前の思い出です。
逆にDD51の優秀さに改めて感心する。
DD51も欠陥機で、スペックダウンして漸く実用化されてます。
関西地区でこの当時、機関士をしていた方(DD54は未経験)が知り合いで話を聞いた事がありますが、機関区での留置の時はエンジンが一旦冷えると再始動にかなり時間がかかるらしくずっとアイドリング状態で待機していたと言っていました(冬季はかなり悲惨らしい)
ディーゼルなので複数両あるとかなりうるさかったみたいです。
ご教授頂きありがとうございますm(_ _)m
当時主流の予燃焼室式のディーゼルエンジンは構造上コールドスタートに時間がかかりました。その後直噴ディーゼルが普及し、列式の噴射ポンプが分配式となり予熱プラグの技術が進歩すると冬場でも一発始動が可能になりました。自動車の世界でも消防車などはすぐに出動出来ないため60年代後半から70年台初頭までガソリン車が多用されていました。
大量の煙
イギリスHST125
「」
ソビエトM62機関車
「ギク!」
DD54形は、調べていくと沼にはまる迷要素の宝庫です
コメントありがとうございます。私も調べるまでは、このような経緯があった事を知りませんでした…
泥沼ですよね_(^^;)ゞ
DD54 33号機が保存されているのは、
旧国鉄の福知山機関区の職員が、
欠陥機関車の証拠として、
国鉄本部から証拠隠滅のための、
全車解体阻止するため、
機関庫に保管し続けたという話を、
なんかの本で読んだ気がします。
真偽のほどはわかりませんが・・・。
DD54は昭和のうちに埋もれたにも関わらず電車でGOのおかげで平成世代でも知っている人が多い謎機関車といえるでしょう
ああ、確か棒高跳びした機関車でしたねこれ。
走行中にプロペラシャフトがエンジン負荷に耐えきれずに破損して落下、そして地面にぶっ刺さって棒高跳び。
全く同じシチュエーションの事故が自動車の世界でも同じ頃日産のマイクロバス「エコー」で多発し、欠陥車問題が国会でも取り沙汰されリコール制度が生まれました
昔コイツを模型で見て格好いいなあと思っていたのですが、実際にはとんでもない迷車だったとは。戦前の飛行機エンジンのDB601と言い、ドイツからのライセンス品はロクなことにならない場合が多いですね。まあコイツの場合には、ライセンス元とは違って車体全長を抑えるための軸配置変更による無理な設計によるジョイントの破損などもあり、一概にドイツ側が悪いとも言い難い部分があり、国鉄側の見通しが甘かったとも言えますが
54の番号を付与された機関車は悲運な運命を背負う。
まだ日本の工業力が追い付いてなかったため整備が上手くいかなかったって云う側面も大きかったようですね。
ドイツの機械はメンテナンス性をあまり顧慮して呉れてないとか何とか・・
改良が認められても、ソレが不良の解決や、性能の維持に繋がったは不明。
やはり「平凡だけど、確実に使える」DD51を量産した事実が歴史なんですよね。
日本は蒸気機関車もそうだが内燃機関も苦手分野だからな。
せいぜい通勤電車と新幹線くらいしか得意分野がなく鉄道技術はむしろ劣ってる
走っているのを見たのは1回だけ梅小路機関区に蒸気機関車を見に行った44年前山陰本線から梅小路貨物駅に回送して入ってきた この機関車のせいで国産重視になった DD51は今も現役の名機 ドイツのエンジンは戦時中の飛燕のエンジンも日本では上手く行かなかったから相性が悪いんだろうね
働く車両が好きな素人です。
なんだろ、いつも王子駅を通過する金太郎さんをガード下から頼もしく見てるけどDD54はその始祖のように見えてひたむきさを感じる。
動力に技術が追い付いていなかった時代。そこから世界の驚異、奇跡の技術と称賛されるまでに発展した日本の鉄道とその車両。
きっとこの時代の口惜しさや前進しようと藻掻く鉄道マンや技術者の血と汗と涙によって今があるんですね。DD54はそのために現れてくれたのかな。
そういう角度から見るならDD54は反面教師として生まれたんでしょう。。
ほかの方も書かれていますが、この機関車を語るうえで「棒高跳び事故」は衝撃度ともに代表的な事故事例だったと思います。
天皇陛下の御召し列車を牽引したことも忘れてはならない。
一番好きな機関車でした。DD51ばかりの中DD54が旧客を引く姿はとても魅力的でしたね。
当機といえば急行「さんべ」牽引中にシャフトがポッキンして棒高跳び事故。
実は開発当時DD51の性能が安定しておらず、また大出力1エンジン主義の利点を確認する為DD54が開発されたのだが、製造後3年で推進軸が折れるトラブルが続出した為、「DD54と同じ1エンジンでDD54と違い純国産で故障が起きにくい機関車」として開発されたのがDE50です。
つまり1970年の段階でもう失敗作扱いされて早期廃車対象になってましたね。
もしローカル線にも入線できる大型機関車ではなく、
室蘭本線や函館本線、千歳線などの重幹線で高速貨物機関車を牽引する目的一本で中間台車もSGも廃止して製造されていれば推進軸構造の無理から生じる脱落、という致命的なトラブルは抑制出来たでしょうね。
コメントありがとうございます。また、詳しいご説明を頂き、ありがとうございます。
DE50は量産されず残念だったけど、もっと残念なのは3000馬力級のディーゼル機関車として計画されたDF51が試作もされずに終わったこと。
もしDE50やDF51が実用化されてたら、JR移行後にDF200は登場しなかったかもしれないし、登場したとしても史実より後になっていたかも?
京都梅小路鉄道博物館に展示されているのが、最後まで定期列車を牽引した33号機。竹田駅に夜に定期で通常通りに到着。特にカメラ構えた人ほとんどなく、セレモニーもない最後だったらしいです。その後にある機関区に保存。解体を国鉄のエライさんにストップかけられて逃れて、大阪交通科学博物館に転入、その後に京都にきました。地域的に運用には巡り会えす。何故か興味をそそられ、nゲージ模型で購入。数が少ないらしく、Dマニアの知人から拝み倒されて無料で渡す。代わりにDF50が渡されました。新品だったから彼のレールで走ったのが最初。僕のは総計20メートルくらいですが、DD51はあります。
弁天町の交通科学博物館で初めて見たときは幼いながらすごい印象に残ってるなぁ
変速機はメキドロ式という独特な方式で、トルコンを介しながら後ろにある多段式の遊星歯車式変速機を駆動するやつで、
大出力・大トルクのエンジンから来る太いトルクを吸収する仕組みが備わっていました。この装置が未熟で、衝撃に耐えきれずに故障してしまったり…。
DD51、DE10ディーゼル機関車では、変速比の異なる3組のトルコンを備え、このトルコンへのオイルの出し入れを切り替えることによって動力伝達するフォイト式です。
ご教授ありがとうございますm(_ _)m
装置が未熟というより、国鉄の技術力が未熟という方が正しいのでは?
マイバッハ機関とメキドロ変速機を組み合わせたディーゼル機関車はイギリスや中国などでも走っていたけど、深刻なトラブルは発生しなかったのだから。
フォイト式でも万能という訳ではなく、極端に大馬力なエンジンには対応が難しかったと言われる。
実際、純国産1エンジン大馬力ディーゼル機関車DE50のトラブルの大半は変速機だったそうだ。
@@鉄道模型大好きおじさん
実はDD51も欠陥機で、能力をデチューンして騙し騙し使ったのが真相。
そうなったのはライバル機DD54が酷すぎた為。
ちなみにDD51がまあまあ使える程度に成功したのは
戦時中川崎が三式戦闘機「飛燕」のエンジンで散々苦労して最初「ぴえん🥺」と呼ばれるぐらい酷い出来だったのを改良して本土防空戦では「P51登場前なら一番活躍した」と言われる位になんとか持っていった経験をこれに注ぎ込んだからで
DE50の変速機云々も
ハー43の過給器でやらかした三菱が首突っ込んだのが原因。
ちなみにハー43はDE50と同じ2000馬力で変速機の設計もDE50に援用されてます。
但しDE50はトラブルは少なく、
DD54置き換え用
という当初目的は果たせそうでした。
DD54のスタイル好きだったなぁ
走っている線区が遠すぎて仕方なく通信販売で出雲のHM付けた写真を購入しました
いまでもたまにながめています
もしトラブルが頻発しなければ、もっと量産されて東北や九州などにも配置されてたかもね。
元ネタ?のドイツの216形はそれなり以上の成功収めていたのとは対照的とも。
DD54気動機関車は、京都鉄道博物館へを展示をしています!!。
動画にもあるように、当時国鉄離れのデザインで、しかしあまり見かけないから、当時鉄オタで、鉄道趣味誌を読み耽ってい私は何か好きでした。
ギリギリ昭和40年代に、山陰本線のド田舎区間で待ってたら、こんなのが来た記憶がある。
いつどの部位に不具合が発生するかわからなかっただけに、最後までまともに稼働できた最後の2両も戦々恐々していた。
ライセンス生産でも改良できていれば国鉄末期まで走っていたのではと思います。
なんかDD54の生涯って、きかんしゃトーマスに出てくるような単発のディーゼルに似たような終わりですね…
誰?
この機関車は、大阪の交通科学博物館、京都鉄道博物館と両方で見たことがあります。大阪のときは運転席に入れて、じっくりと堪能できたのがいい思い出です。
運転室に乗れたとは羨ましい限りです。
結局の所、自分で開発できないものは維持が出来ないって事だな
これからも頑張ってください宜しくお願いします。
ありがとうございます!
他の方も挙げておられますが、この動画で触れられていないことが割とあるようです。小さなことでは変速ショックがかなり大きいようにも聞いていますし、大きなことでは棒高跳び事故も複数回起こっているようにも聞いています。
現場から早くDD51に置き換えてほしいと要望が出されて、すんなりと何の問題もなく置き換えられたようです。
できるなら、もう少し突っ込んだ動画を再度あげていただけないでしょうか。
ターミネータージョイント音の
伝説の機関車😁
試作機の写真初めて見れました^^*ありがとうございました!
山陰本線で牽引していたDD54型デイゼール機関車。
撮り鉄にいざなってくれた機関車。伯備線時代を撮れてないのが心残り。
マイバッハとのライセンス契約をしてまで、外国製エンジンを使用しなければいけなかった理由が、説明になかった。
子供の頃福知山線の中山寺近くに住んでいたから乗った事が何度もあります。伊丹 川西池田 中山寺沿線は名に見なくいちじく畑が広がっていたなあ.黒い煙を吐きながら武田尾駅で行き違いのため30分以上止まっていた。 懐かしい。
DD54のエンジンは、ドイツ(旧西ドイツ)の、マン社製品でしたか…。性能は高いけど、整備性が悪く、故障連発で低評価というのを、1970年代の雑誌「鉄道ジャーナル」で見ました。新幹線をはじめとする「電車」の高評価と違い、ディーゼル機関車とディーゼル気動車(キハ80系とか181系)は「エンジンが最低」でした。JR東海が「特急ひだ」にイギリスのカミンズエンジンを使って、なんとか世界水準にたどり着きましたね。
日本の内燃機関使用プラント、特に大型のもの全てに共通する欠陥ですね。
エンジンの生産国はどこだったんですか? ドイツ?
異端児の割に、結構色んなメーカーが模型化しているという・・・。(笑)
DD54を語るにあたっては、是非ともドライブシャフト棒高跳び事故を取り上げてほしかったです。(^▽^)
戦時中のDB601エンジンと同じ運命をたどったのですね
1968年は小樽~滝川間が電化開業の上711系が登場した頃ですね…
だいたい市場寡占を狙った某重電が主犯
播但線のイメージがありますね。
EF66形と似ている所もあるなと感じた。
まぁ同世代ですから。
DF50よりだいぶ力強い加速力だったがなんせ変速ショックが酷かった、
ドイツ系繋がりで500系はきっとdd54の転生車
ドイツ・マイバッハ社といえば、フェルディナント・ポルシェ博士が設計した重駆逐戦車〝象〟の製造元です‼️⤴️⤴️
エンジン不調と過重(65㌧)で稼働不良が多かったとか・・・。
DD54形と重駆逐戦車エレファントが同じようにおもえてなりません・・・。(涙)😢
コメントありがとうございます。
エンジンもただ大きければ良いという訳ではないと、開発者達が気付くのは少し後でしたからね…
エレファントについてだけど、近年の資料では足廻りと大重量に悩まされるも駆動系は何とかなっていたそうだぞ
ドイツの戦車は訳がわからん。
巨大戦車マウスなんて誰が作らせたんだよ。
上手く言えないけれど
戦闘車輌と鉄道車輌の
関係性って表裏一体?
東芝 日立 三菱 川崎の
マークがちらつくかな。
国鉄が54使うと迷機関車が生まれる。
幼い頃、図鑑で見てカッコいい機関車だなぁと思ってました。
どんなエンジンの音がしたのでしょう
悲運の機関車で短命に終わったのは、残念ですね。
DD54のエンジン音、どこの車両基地だったか、横を通った時に始動するのを数回聞いただけですが、DD51の音よりもう少し低くてふっくらとしたような音だったと記憶しています。走行音、どこかに動画が上がってないでしょうか。
1820psあるのに変速機辺りの不調で蒸気機関車に置き換えられるって言う
コメントありがとうございます。
不憫ですよね…
播但線の客レが、懐かしい❗
和田山からの始発列車に姫路迄乗り通しましたよ!
( ≧∀≦)ノ
定期運用は播但線が最後でしたから。
@@中西正治-w6u 私は、姫路から叔母のいる新井までよく乗りました。
帰りはいつも叔母が急行券を買ってくれるので、キハ58の但馬でしたが…。
DD54は1966年~1971年までに40両製造され、DD51、DF50に次ぐ亜幹線の主力機として期待されたが、度重なる故障や事故が続発した為製造が打ち切られ、1978年に全機廃車と短命に終わり、結局は置き換えられる予定だったDD51が長く活躍する様になったんですよね。
終末期には、2両しかまともに稼働できず、いつどの部位に不具合が発生するかわからないだけに戦々恐々としていました。
奇跡的に解体せず1両残してくれた当時の国鉄に感謝します。今だに播但線当時を思い出します。
本当は全機解体される予定だったけど、組合が黒歴史機関車を証拠隠滅するなと圧力をかけて1両だけ残されたと聞いたことがある。
国鉄は失敗作の黒歴史機関車はさっさと解体して闇に葬る体質があったからね。
C54やED54、ED90、ED74などなど。
@@鉄道模型大好きおじさん さん
実際には国鉄の医療に関わっていた高名な医学博士が保存を持ちかけたのがきっかけ
大好きなDL機です❤️中学の時福知山から大阪駅へ帰る途中塚口で空の客車付けて2番線に止まっていて、私の乗っていた列車が3番線で追い抜いたので変だと思っていたら大阪駅にDD51 に引かれて来たのを覚えています😭故障だったのですね‥‥
試作車DD91は海外製の機器を使用していても良好だったことからDD54で一部を国産のものにしたのが良くなかったような。
DB601エンジンと同じですね。
Great video!
三○重工とドイツ代理店だった伊藤○との癒着は各所で指摘されてますね。
機関車利権では乱造された交流電機でも東○との癒着とか。
やっぱ!51だな!
ベンツの最上級グレードは「マイバッハSクラス」ですが、「マイバッハ」と聞くとDD54を連想してしまうようなヘタに鉄道に詳しい向きからは印象が悪そうですねw
WW2ドイツの戦車のエンジン名で生きてました。ダイムラーに協力してたし噴霧式キャブレターを完成させた人だから
国鉄54のジンクスそのものという生涯
国鉄がすでに赤字体質となっていたのに、10年未満で廃車したら問題化されるわな。
Somehow I miss this DL. I saw them at work around Kyoto area, hauling commuter coaches in the mornings in early 70's.
今のメルセデス・マイバッハも壊れやすいらしい
おっ…大阪で剥製にされて敷地の道っ端に晒し者にされてるDD54、久しぶりに見るな…(゜ロ゜)
コメントありがとうございます。
私は実車を見た事がないので、いずれ京都鉄道博物館に見に行きます。
中には入れなくなってたよ
@@motokinisimura9325 そいつは残念…
通りすがりに見た時は、あそこ交差点の近くだったから、見とれて思わず信号無視して焦ったんで、いつかじっくりと穴が空くまで見てやろうと思ってたんだが…💧
@@用宗.東田子ノ浦 曲がっていきなり正面やから、僕はただただ驚いた…播但線とかの真夜中にT2状態の単機での継目音で闇から迫ってくるのを見てみたかったですw
SDA12V170をこの時代に使えればねえ…
DD51の更新車用(ひいてはDF200のSDA12V採用の元にもなった)にSA12V170-1採用して、
コマツのは故障もなく優秀な機関だとJR貨物北海道支社で褒められてたって
鉄道ジャーナルの記事にありましたね
1970年代前半、福知山線の鈍行は、DD54+旧型客車だった。最後尾の本来、幌がある部分は鎖が貼ってあるだけ。そこに座って三田界隈~大阪までの流れていく線路や景色を見るのが楽しみだったのが懐かしい。急行は58系、特急は80系だったっけ。あの頃はのんびりだったね。くるはずの鈍行が来ないので途方に暮れてたら急行の運転士が通過駅なのに止まって乗務員ドアを開けて乗せてくれたっけ(乗客は自分ひとり)。それってDD54が立ち往生してダイヤが乱れてたからかな?それが定時運行であんな事故を起こすようになったんだからね。
京都鉄道博物館にて、静態保存します!\(^o^)/
どんな内容かと見てみたら、黒バックに字幕だけとか、些細なことにいらすとやとか、何なん?
ついついWikipediaを調べてしまいましたが、当時の国鉄がいかにダメダメだったのかを垣間見た感がありますね。良い材料(エンジン+変速機)があれば良いモノができるじゃろ?みたいな現場を知らない社長がものづくりに手を出した、的な。故障どころか事故まで起こして国の金を無駄にしていれば、国会で問題にされても仕方ないですよね...
ちょっと古くても信頼できて特許の切れた技術を導入するのがいちばん効率的では?
環境問題も、機器の製造廃棄にかかる環境負担を考えれば、少しぐらい煙を出しても、それがセクシー(死語)。
54形は失敗作の形式が多い。
偶然なのか意図的なのか謎だね。
クモハ54とスロ54とキハ54「ちょっと待て、オレ達もか?」
EF54「オレはEF14になったが失敗作なのか?」
54型機関車は(蒸気、電機、ディーゼル)何故か祟られとる😱なんでかな~(汗)
客車だとスロ54とか名車があるのにね。
電車なら54系、気動車ならキハ54があるね。
@@鉄道模型大好きおじさん さん
厳密にはキハ54も
0番台はロングシートでトイレがなく、長距離運用に耐えられない
500番台は昭和61年登場にも関わらず冷房、それどころかクールファンさえ無い
という欠陥車ですけどね。
道北道東でしか年間数日しか無い夏日のためにクーラー設置なんて重要ではないよ
窓が開閉出来る一般車で窓を開けるだけで十分涼しいのだから
酷寒地では冬季における保温と高い稼働率維持が重要
国会まで行くとかどこまで迷なんだよww
かつてはC53も国会に行ったらしい^^*
やばしww
「ライセンス生産だけど、独自改良はダメ」と聞くと、アドアターボファンを思い出す…
しかし、エンジンはマイバッハのエンジン
見た目もヨーロッパ型
54は呪われてますね…(^^;
みや!?さん、1960年国鉄がディーゼル特急はつかり号上野〜青森キハ81系がエンジン故障起し立ち往生した事を小さな頃新聞に掲載されていました。
DD54
天皇陛下の御召し列車牽引に抜擢されたこともあるので、決して悪い機関車ではなかったようだ。
C54やED54、EF54には御召し列車を牽引させるなど眼中にも無かったそうだから。
ふるさと納税
DD 51 はその後貨物で2020年になっても一部現役なのにDD 54とは一体()
役に立てただけキハ285よりはマシ
デルティックのにのまい
山陰の王者!
うぽつです
ありがとうございます!
こんな機関車でもお召列車を重連で牽引した実績もある…
(京都?で機関車交換した際に引き上げ線で車軸が焼けたそうですが)
こいつのHOの模型購入を「模索中」です
(個人的にはDF50派なんですが…じわじわと「するめ」のような存在です😅)
因みに、ガキの頃、福知山線での実車走行を一度だけ見た身…です
コメントありがとうございます。
私は平成生まれですので、実車は見たことないです(汗)
でも個性的で好きな機関車でもあります。
平成生まれの方は
EF210とかEF510がスタンダード?かなぁ?
むしろ、DD51とかDD54とか?DE10とかDF50とか
電気釜のEF58とかEF65 500とかEF65 1000とかEF66とかEF81とか…
どんな感じで映ってるんやろうか🤔(EF66やEF65 1000は現役だが😅)
ジェネレーションギャップっう意味で、興味をそそります😅
実車は、確か?
京都鉄博で展示しているので…是非😉
w.なんかね、ぶさカッコ良い様な味わい深いです。
DD54を置き換えたDD51も、貨物列車と客車列車の削減に次ぐ削減で民営化を前に大量廃車が出るんだよな。なので仮に故障修理を自由にやれたとしても、どのみちDD54は平成を迎えることは出来なかったろう。
それにしても、出雲のヘッドマークをかざして20系の先頭に立った彼らのカッコいいことカッコいいこと。いっぺんでいいから、松が枯れる前の五十猛とかで撮影してみたかった。
棒高跳び機関車
コメントありがとうございます。
棒高跳び…というのは…?
推進軸が外れて棒高跳びして脱線
@@kagami1239 折れた推進軸が線路に刺さり、その勢いで車体が脱線したというネタがあります
ちなみに、似たような事故は石勝線で火災事故起こしたディーゼル特急でもありました
山陰線湖山駅での推進軸折損事故ですね。
それを公の場で訊ねるレベルですか。自分でネットででも調べればすぐわかるのに。
(そもそもネット公開するなら、ネット以外のちゃんとした資料でウラをとったものでないと意味がないと思いますが)
他にも突っ込みどころはあるし、この動画は恥なだけだからいっぺん引っ込めたほうがいいと思いますよ。
出雲?
DD54はDD51のエンジンの倍の出力のエンジンを搭載していて、それを受け止める液体変速機も倍の容量を持つ物が採用されていたが、それを保守できる力量が山陰地区の保守陣が持っていなかっただけなんじゃないかな。JR北海道のキハ283系の推進軸脱落事故に重なるな。
故障が多いことで有名だったらしいね。コイツ,,,,
これ、碓氷の鉄道文化村で見た…
現存のDD54は33号機のみが京都鉄道博物館に収蔵されているので、碓氷峠鉄道文化村のはDD53です。
直接ベンツに作らせて、修理させろ。ヤナセはないのか?
横川に保存されてるよ
コメントはありません、
このネタもう10年も前に投稿されていますよ
www.nicovideo.jp/watch/sm12902579
何か問題でも?…
@@渡部有吉
二番煎じに意味はあるのだろうか?
二番煎じなら別の目線での動画などにしないとただの後出しのコピーでしょ。
コピーならコピーで先人へのリスペクトを示すべきでは?
@@竜星-s1b いや、そんな事を言ったら迷列車で行こうシリーズは誰も作れなくなりますし、別の観点から論説しようとしても同じ車両なのだから内容が似てしまうのは常識的に考えて当たり前じゃないですか。
それに『先人へのリスペクト』を動画だけでどう表現するのか些か疑問ですね。
@@竜星-s1b あと一つ言い忘れてましたが、あなたが例に挙げていた東日本編の作者様の動画にも小田急編の動画とネタが被った物がありますけど、それに対しても上記のような意見を発言なされたのですか?
あなたの理論からすれば、その動画も『二番煎じ』ですが。
@@渡部有吉
せめて、参考資料に提示するくらいはしたらどうなんですかね?
また、全く内容が同じ動画の存在意義って
どうなんですかね。
別の視点での動画すら作ることができなければ作らなければいいだけでは?