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宇都宮線、結局優等の需要は新幹線に集中してるから快速ですら減便されたり格下げが続いてるのがなんか寂しいよね通勤快速があったのが懐かしい。
昔と違って途中駅も利用者が多いから通過する電車あると逆に迷惑なんですよね。東海道とかも同じ事で
西那須野のあたりに住んでいた時、地元の人に聞いた感じではこれを含めて別不評でなかったというか、全体ひっくるめてなすのは便利だったって話だったなあ
東北本線の仙台や会津若松に行く急行はいつも混んでいたことから那須周辺をターゲットとした列車は貴重だったことと思います。今の新幹線のなすの号にもそのDNAは受け継がれていますね。
115系使用は車両不足の面もあっただろうとは思いますが、一番は、なすの1号の送り込み列車になる普通がラッシュど真ん中を走る為に3扉車の115系を使用したんじゃ?
年々増加する沿線人口に対応するためには165系を使うわけにはいきませんでしたからね。さらには国鉄の財政事情、東海道線や横須賀線や総武快速線などの輸送力増強に追われ東京北管内では車両増備が少なかったこともあるのでしょう。高崎線の上尾暴動の発端となった車両も詰め込みの効かない165系(ビュッフェ付きのものもあり)でした。
そう云った背景か…しかし、'90年代には朝方上野着普通列車に185系による運用を見た気がするが、記憶違いか?
話がそれますが、東北上越新幹線の大宮暫定開業時にて「新幹線リレー号」に1本は115系が使われたと記憶しています。
首都圏でちゃんと車両不足が解消できたのって21世紀入ってしばらくしてからだものね。2005年あたりなら、まだ古い車両を使い続ける必要があった。
1973年に上尾事件が起きてます。高崎線は普通列車でも165系を使っていた時代です(使わざる負えなかった)。車両運用が難しかった過渡期ですね
上尾事件はそれもあるけど、またまた悪いことは重なるものでこの事件の時たまたま順法闘争を労組が決行していたため定員以上の客を乗せなかったために客がブチ切れという言葉が全裸で逃げ出すくらいの大暴動に発展したという要因もある。
なんか急行型電車使い着席整理券の快適通勤できる通勤ライナーに急行型電車をグリーン車付きで準急列車扱いで出来かったのかな
115系の急行列車は遜色そのもの.然し内房線に使用されたキハ17系急行に較べればマシです😅😅
1966年から1968年の繁忙期シーズンに設定されていた臨時の第二・第三なすの号は、横浜駅を発着駅として運行されていました。(横浜~上野間では、途中川崎・品川・東京に停車しました。)なお、1969年以降は上野駅を発着駅として運行されるようになりました。
”なすの”は実質急行のような列車ではあったけど、185系が特急踊り子に使われている関係で、急行では統一がとれないことから、苦肉の策として「新特急」という種別が充てられたらしい。
でも遜色急行ってロマンがあって好き。
もはや、宇都宮線内を走る昼行定期優等列車は東武直通特急のみ。定期夜行優等列車は全滅。栗橋で東武線に転線するため、茨城・栃木県内は優等列車は全滅・・・東北特急全盛時代からは考えられないほど寂しくなってしまいました。
1970年代には、宇都宮での日光線からの「日光」併結の他、小山で両毛線からの「わたらせ」も併結していました。なお、急行「まつしま・ばんだい」に、間々田で水戸線からの「つくばね」併結も。
水戸線に入るつくばね号は気動車時代は両毛線に直通するわたらせ号に連結されましたが、電車になったあとは勝田電車区のときわ号の車両(451系の7両)でした。東北本線の急行と連結はしていませんでした。
違いますよ!急行つくばねが勝田電車区になったのは、ヨンナナサンダイヤ改正からでそれまでは仙台運転所の付属編成の455系か457系6両編成でした。この時には必ず455系か457系限定でした。なぜなら板谷峠で勾配抑速ブレーキを使用するためでした。
@@もりわききくおさまそのようですね。すみません。勝田の車両は47.3からなのですね。ただ、仙台運転所の車両時代でも単独だったのでは?
時間帯的にも早くていいな!しかも終点が宇都宮じゃなく黒磯というのが・・・・・。
母の実家が今の那須塩原だったので、急行なすのは良く利用してました。遜色急行の存在は当時も知られており、時刻表にグリーンマークがないのが識別点でした。横浜に住んでいたウチの家族も、東京発にも関わらず下り1号は避けてました。別件で白河発の上り2号は455系使用で、宇都宮まで各駅停車でした。これは東那須野民にとっては時間帯も良く利便性も高いので、良く利用した思い出があります。
白河発は交流区間に跨るけど455系?
白河発のこの列車だけは455系の運用でした。需要にあった時間帯だったのか、いつも混雑していましたよ。
母方の実家が白河だったので自宅に帰る時はこのなすのに乗ってました。朝出て昼前に上野に着くのでちょうどいいダイヤ設定です。
そうでしたね。宇都宮発白河行の普通列車で折り返し「なすの4号」だったな。455系使用。
急行なすのに使用されていた車両は新前橋電車区所属の165系急行型直流電車🚃で高崎線の急行草津・ゆけむり・はるな・あかぎ号及び東北・両毛線経由の急行わたらせ号と共通運用していました。
昭和50年代前半は遜色急行一杯あって、北海道のキハ22は数え切れず、首都圏ではこのなすのの他、日光、ときわ、ゆけむり、かいじ/かわぐちにも近郊型電車使われた列車ありました。臨時急行だと、たてしなとか実際乗ったこともあります。
1990年に青春18きっぷを利用して北海道を旅した時に急行「そらち」の快速区間(富良野~滝川)に乗車しました。急行と言うからにはキハ56と思っていたら車端部がロングシートのキハ40でした。滝川から先は711系の普通列車で札幌に向かいましたがこちらはかつて急行「さちかぜ」や「かむい」の運用につ就いていた車両で、デビュー当初から車端部がロングシートだったものの俊足急行で評判は良かったと聞いたことがあります。
昭和50年代前半上野駅を8時台に出るゆけむり・あかぎが115系でした。一度試しに乗ってみたのですが、予想以上に混み合っていて立ち客もいる程でした。車両はさすがに急行なので、当時はまだレアだった冷房付きの300番代の新車が使われてました。
車両不足で止むなしと云った事情ですが、幼少のおり、海水浴シーズンで千葉県の保田まで乗車したのが急行「うち房」で恐らくは111あるいは113系かと…また、昭和50年代に高崎線から秩鉄直通の不定期急行「ちちぶ」は多分上記列車と併結か、と…車両は115系。当然ながら急行券は携帯しておりました。現在なら、快速へ格下げでありましょう。
急行や特急用の車両はデッキがあるが一般の通勤型車両はそれがない。これで雰囲気がかなり変わる。昨年JR西日本で急行鷲羽のリバイバル運転を113系を使って行っていたが私は冒頭の理由からデッキもない車両に乗車券以外の余分なお金を払うのか嫌である。2枚扉でも117系の新快速はデッキがない。ところが同じような車両でも185系はデッキがあるので特急券(当時急行は殆どなかった)を支払うのは納得できる。お金をとる場合はそれなりの設備が必要と言いたい。
失礼します。急行も特急も遜色だったんですね😢 😢
@@okamotohidehiro9371 九州には117系や115系3000番台とほぼ同じ車内レイアウトの気動車キハ66があり、筑豊地区の急行の運用についていました。転換クロスシートを高く評価する声もあったようですがデッキはなく戸袋部分はロングシートで洗面台がなかったことを考えると一般型(近郊型)気動車に分類されるのも仕方なかったですね。
東京〜静岡を走ってた急行東海もそうでした。まだ、20年くらい前まで走ってました。特に、東京〜沼津間は「通過駅が多いだけ」で普通と大して所要時間変わらないのにガタボロの車両で急行料金取ってて。
しかも各停車駅で乗車した客を乗務員がしっかり覚えて漏れなく急行券チェックや徴収に来たとか。
なすの号、上りのみ白河始発があり457系が使用されていました。白河市に某有名企業の工場があったので東京へ出張する方々への配慮だったと思われます。ちなみに東北本線&高崎線の遜色急行、他にもありました。車両不足のためでしたがそれを放置した故に起きたのが1973年の「あの事件」ですね。
一時期、新幹線リレー号も115系を使われてたそうで、サボも新幹線リレー号用になっている。それにしても、古河か、久喜止まりでいいから特急を走らせて欲しい久喜に住んでると都心に出るまでが遠く感じる。
こんな遜色列車に乗らざるを得なかったお客の心中やいかに❓🤔
新型車両ばかりになった今の時代に113系•115系を製造もしくは岡山あたりから引っ張ってきて投入したら急行料金取れますね。もう一回だけ乗りたいな。113系•115系。
5:31 「3等車中心となり〜」1966年の話で2等級制運賃時代なので、同じクハ115クモハ115車両であっても2等席車両であり、2等運賃2等急行料金で乗車出来たはずです。ともあれ車両運用もダイヤも上野駅ホーム利用状況も切迫していた当時の国鉄東京北鉄道管理局には、東北本線としては短距離急行に当たるなすの号の、通勤時間帯に食い込む1列車ぐらいは、近郊型直流通勤型車両流用のいわゆる遜色急行とするのもやむを得ないといった所でしょうか?当時は急行料金を別払いで支払っても定期券での急行列車乗車は難しかった筈ですが、東京北局の便宜的措置で定期券に急行料金を支払った乗客は乗せていたのでは?と推察いたします。
特急あかぎも急行時代に115系の遜色運用があったらしい。車両運用の都合なんだろうけど、別料金を徴収するなら見合った車両を充てないと利用者に失礼ですよね。上鰻重の代品を頂いておいて並鰻重を出すようなものです。
特急あかぎ確か上野から群馬の温泉まで走ってない?
1960年代だからこそ115系でも許されたのかも…!
中央本線で運行されていた、急行かいじ・かわぐち号も一部近郊型で運行されていましたね。臨時の急行列車では近郊型の運用がよくありましたね。上野発熊谷から秩父鉄道経由で三峰口まで向かう急行列車があったのですが(列車名忘れました)、115系の運用でした。赤羽から慌てて乗ってきた人が、車内検札で急行券拝見と言われ、この車両で急行料金取るのか、と車掌さんに文句言っていましたね。料金はサービスに対する対価ですけど、急行料金は速達に対する対価であって、車内設備に対するものではないですからね。
不思議なことに伊豆方面では遜色急行はありませんでしたね。臨時と言えど153系や修学旅行の任務から外れた155系や167系でした。定期の伊豆号が踊り子号に格上げの際167系は臨時快速になりましたが、快速アクティーが設定される頃にはなくなっていました。
三峰口行きは「みつみね」だったと思います。「ゆけむり」だか「あかぎ」(あるいは両方?)と併結だったのでは?
@@赤壁輝彦殿。私が乗車した列車は急行「ちちぶ」でした。東武東上線直通の同名列車は、コレと区別する為か「東上ちちぶ」と呼称していたらしい。普通列車ではありましたが、他には「みつみね」「くもとり」、上長瀞止まりの「ながとろ(コレも東上線直通と同名)」もありました。秩鉄線内は熊谷から途中、寄居、野上、長瀞、上長瀞、皆野、秩父、御花畑、浦山口…と記憶します。国鉄高崎線から直通の急行/普通列車共通の停車駅でした。
なすの号というのも結構、歴史が古いんですね。
故・急行つやま「遜色急行と聞いて……………。」
急行つやま、かすがも遜色急行でした。
つやま号はまだしもかすが号はそれまで使われていたキハ58と比較してデッキはなかったものの転換クロスシートで一般の急行のレベルを凌駕していましたからね。ただ、近鉄に対抗する快速のみえ号が同じ車両で料金不要だったのでそれに急行料金と言うのも遜色と言われていたのでしょうね。
@@TSUYOS185かすがは、使用していたキハ58,65は簡易リクライニングシートに換装していたので、キハ75の転換クロスシートに変わったのはどうなんでしょうね。
準急ふたあら、なんかすごい列車名。
宇都宮にある二荒山かな?
1964/07のダイヤだと2509M準急ふたあら 上野18:16→宇都宮19:43(赤羽・小山停車) 2508M準急ふたあら 宇都宮08:12→09:39上野(小山・赤羽停車)この準急、大宮は無停車である
東武には「ふたら」という愛称が今もあるけど、これは「ふたあら」なんですね
@@MN-tw5fqさま。二荒山は日光ですね。宇都宮市内にも二荒神社はありますけど…
スカ色遜色急行「かいじ・かわぐち」(臨時)
沈没の艦隊…!?
鉄ヲタ以外からしたら近郊型か急行型かなんて区別つかねえからなぁ。ただ冷房付いてるか否かとかは違うと思う
急行系は片側2ドアで「デッキ」付きが基本ですけどね。まあ、北海道の711系や54系などは、本州以南とは事情が異なり、デッキ付き…?
@ 想像する事しか出来ませんが急行型デッキ付きの非冷房車って夏場は地獄だったのでしょうね
同区間、快速フェアーウェイなんてのもありましたね⁉️(新宿発着でしたけど😅笑)
栗橋停車でしたね。
フェアーウエイ懐かしい。485系の6連でしたね。仕事で宇都宮行くときに使ってたけどいつもガラガラでした。
「ムーンライト」の間に合い使用でしたね。私が乗車したんは165系でした。
今度は臨時急行草津52号も取り上げてみては如何でしょう。急行なのに急行に3回追い抜かれます。車両も115系です。
中央本線(西線)全線電化が完成した1973年頃から(?)数年、長野県内の上諏訪―長野間の下り急行「天竜1号(だったと思う)」211Mは神領電車区(名シン)のモハ80系4輌編成で運行されていた。モハ80系は当時でも急行としては旧型(ディーゼル車で言えばキハ28・58系とキハ26・55系の違い)であったが、時には両端の先頭車に旧1等サロ85格下げのクハ85が連結されている場合があり、その車輌なら普通車指定席料金を払っても惜しくないと思ったものであった。しかし1978年に長野地方の普通列車近代化のため115系1000番代が投入され、その急行も115系1000番代に置き換えられた。座席は当時の急行165・169系並みに改善されてはいたものの、やはり急行には相応しくなかった。ましてこの動画の当時の115系急行は300番代以前の座席幅も間隔も狭いタイプであり、折り返しで普通列車に使うためとはいえ、如何にも急行料金を取るのには値しなかったといえるだろう。
新幹線開業前の上越線、上野ー水上 急行ゆけむりに115系代走が多かった。すでに300番台が登場していたが冷房準備車だった。上野ー直江津 急行よねやまにも115系が代走したことがあったそうだ。急行料金どうだったのか気になる。
急行は設備はともかく早く行くことだけが目的だったので急行料金は徴収していたものと思います。新潟電化直後には80系が足りず戦前製のかつての横須賀線の電車が連結、さらには昭和50年頃にも新潟から上野の臨時急行にも115系が使われたことがありました。
「よねやま」は「佐渡」と共通運用だったし、グリーン/ビュッフェ連結だったから、この件がいつ頃の事か知らんが、115系が来たら愕然としたんぢゃne?「なすの」での運用があったか判らぬが、157系は東海道「ひびき」「こだま」「とき 」「そよかぜ」等の特急に使用されたが微妙に遜色感が…車内設備は特急としては問題無いかもだが、設定当初は非冷房で食堂車もなし。なんでも当時の坊っちゃん/嬢ちゃんが落胆したと云うエピソードも…やはり食堂車非連結が原因か?モハ156に売店らしき設備は有ったらしいが、せめてビュッフェに…?
新特急になって停車駅が増えましたよね
特急なすの号 おはようとちぎ号復活させてくれないかな。仕事で東京~宇都宮頻繁に行くけど新幹線自由席 プラス2500円で52分 普通電車なら1時間50分 1時間のために2500円払うなら上野東京ラインに乗りますよね。あとグリーン車も倍近く値上げして宇都宮から普通電車の席は混んでます。
遜色急行の話は興味深いですが利用した人はたまったもんじゃなかったでしょうね。当時の115系は非冷房でシートピッチは狭かっただろうし、運賃5割増しの上でもしもこんな急行を走らせたら上尾事件の再来になっていたかも?
逆に乗り得電車もありましたね。東北・上越新幹線の開業後、上野開業のあたりまでは高崎線や今の宇都宮線のエリアには急行型車両を使用した普通電車があり、グリーン車が普通車扱いでした。ラッシュには対応できなくてもそれ以外の時間であれば快適だったことと思います。私も間合い運用で大宮→上野でリレー号代わりに使ったことがあります。
@TSUYOS185 私の父方の故郷が熊本県の鹿児島本線沿線にあり、子供の頃祖父母に会いに帰省した上で親戚回りで熊本市内まで出掛けた際、朝の普通列車を待っていたら一般型のキハ20、キハ47から急行型のキハ58、キハ65、さらにはキロ(こちらは自由席グリーン券が別途必要)まで連結された12両編成がやって来て選り取り見取り。普段国鉄京阪神の103系の普通電車ばかり乗っていた私としては物珍しさと豪華さを感じましたね。40年以上前の話で申し訳ありませんが😅
@TSUYOS185 JR化後は特急「北越」の一部に長岡~新潟が快速になるものがあったり、急行「きたぐに」の新津→新潟が快速扱いとか、北陸新幹線金沢延伸前には特急用車両を使用した普通「妙高」や快速「くびき野」がありましたね。
遜色の反対語は「乗り得」、てな…国鉄時代の北陸本線は、かつては特急街道で、485系を使用した快速列車も有った。しかもグリーン/食堂車連結!しかし詳細失念。グリーンは料金徴収か、普通車扱いか、はたまた締め切りかは不明。食堂は当然非営業。
最近はリバイバルごり押し鷲羽と言うものがあってだな…
0:59 この快速にはシートピッチが少し広いだけのボッタクリ2等車(キロハ18)が連結されていた
キロハ18の頃の客車の準急や普通列車の2等車はシートピッチが少し広いだけのボックスシートは当たり前でした。良くて回転クロスシート。リクライニングシートの特別2等車は特急と急行だけでした。
新特急なすの号を何度か利用させてもらいましたが覚えてる記憶が車内自販機で買った大清水ブランドの缶入りミネラルウォーターを飲んだことぐらいしかね-や;。。;
車内販売で、『おビール!』と言っていたベテランの女性販売員さんがいました。今、お元気なのだろうか…
私は大宮在住ですが、確かに新特急になってからのなすのはどの列車もガラガラだったように記憶しています。更に言わせていただければやはり東北新幹線開業後は急行として増発したにもかかわらず、どの列車もガラガラでしたね。やはり現宇都宮線の東北本線は長距離の優等列車を走らせることがメインの路線でしたから 久喜や古河などの沿線の方々は短距離で優等列車を使うという考えが無かったのかもしれませんね。
久喜市民にしたら特急乗車は、もはや「りょうもう」1択か…あ、そう云や、東武鉄道1800系って185系に似てるって、誰か言ってた。
九州だと食パン急行走ってたww
583系の「成れの果て」…?
ロングシート指定席のおまけ付き。
@@Yoshin-Sashizume さま。ソレで思い出しました。かつて東武鉄道日光/鬼怒川線の急行「だいや(東武日光発着)」/「おじか(鬼怒川温泉発着)」。6000系は片側2ドアのセミクロでしたが、「あの座席」でも急行料金必須でした。しかも非冷房。余談ですが、'70年代初頭まで快速も一部指定制(料金一律100円)。
急行つやまの先輩みたい
特急運用が低迷したのは当然ですよね、新型185系投入と言うと聞こえはいいけど体のいい新幹線リレー号車輛の流用だって関東圏の利用客にはミエミエでしたでしょうし、ましてや新幹線との並走区間でわざわざ遅くて居住性の劣る車輛に同じ(区間次第ではむしろ割高?)料金支払いたくないのも当然かと。
50キロまでは急行時代と同じ価格(消費税施行前で500円)だったものの、その先はB料金でしたからね。
更に関西では同じシートなのに特別料金なしで乗れる新快速(と間合い運用の快速)がありましたからね、マニアならずとも「ボッタクリ」と感じてた訳で。
一応新特急シリーズの売りは「定期券でも乗れる」だったかと。
高崎線と違って、栃木県内完結の急行を多数走らせても東北本線の線路容量は逼迫しなかったのか。
りあり~?ワイが昭和51年に乗った際は115系で、同じ「なすの」名乗ってたが「快速」だった😉
所謂ぼったくり急行ですね。
サロ165-14をスカ色に塗り替えてまで115系に組み込んだ急行「かいじ」も出色ではないでしょうか?
首都圏の遜色急行誕生の理由は上尾事件がきっかけだと聞いたことがありますが...
この動画のとおり上尾事件の前からあったようですが、急速な人口増加、さらには東海道線などの他線でも通勤輸送対策に追われ、115系の大量増備がなされなかったことから引き続き急行の間合い運用も行われていたようです。
サムネカボチャと通常呼ばれてる電車もう高崎小山間走ってねえ。
115系のボックス席部は165系と同じだったりします。
座席幅が狭いですよ。
誰が記憶に留めるかよwwwwwwそんな暇あるなら勉強してるわwwwwww
新幹線のイメージも強いなすのは急行時代は黒磯止まりだったのね🙄しかし通勤型車両で急行料金取られたら乗客の人達もガッカリ感が半端ないだろうなあ💦
直流電車を使うと、黒磯までになります。
@tita6818 黒磯以北って交流なんですね🙄
昔は特急「くろいそ」(181系)も有ったらしい。
@@雅夫大場 何か気になって調べてみたら50年チョイ程前にわずか2年だけ走ってた季節の臨時特急みたいですね🙄
たしかこの前にも急行かいじで同じことをいっていましたよね!今度はなすのですか!まさかあかぎや、ときわも動画にするのではないでしょうね!その他にもうち房や、ゆけむりもありましたよ!北海道にはキハ22型を使用した急行や、いなわしろなんかも一般型気動車急行でした。不思議と中部以西にはあまりなかったですが、唯一急行ぎんなんと定期番号を持った急行ゆのかがあったくらいではないか?
急行「砂丘」の南半分を受け継いだ急行列車と北陸のとある半島を行く急行列車も追加で。
@Yoshin-Sashizume 急行つやまはキハ47型で急行能登路片道1本は415系800番台でしたが、いずれもJR化後のことでした。つやまは後に快速ことぶきに格下げされていて一部指定席もありました。
@@もりわききくお 承知の上でコメントしました。JR化後も遜色急行が存在していたと言う意味で。ただし、あなたにとって的はずれで気に入らないコメントでありましたら申し訳ございません。
まあ165系だと遜色じゃ無いと言いきれるほど設備がダンチって訳でも無いしなあどうせボックスシート
シートピッチが違うのは結構でかいと思いますが確かなすのも末期の頃はシートピッチ改善車が入っていたはず
それでもデッキのあるなしの差は大きいものでした。JRではなく東武の8000系で経験がありますが、長時間停車する駅では各車両1ヵ所だけドアを開けていたものの、北関東の冬の風は首都圏と比べて冷たく、駅に停車する度に寒風が入り込んできました。
@@TSUYOS185さん 真冬の長時間停車の場合、デッキの偉大さが良く分かりましたね。中央線の上諏訪夜行も115系でしたが、真冬の甲府駅での長時間停車で誰かがドアを開けてしまうと、115系のドアの構造上、手で最後までキッチリと閉まらなかったので寒かったな。
遜色特急なら185系踊り子が超有名だよな…俺は2017年頃に乗ったけど特急料金取るのに転換クロス…せめて少し倒れるリクライニングシートじゃないと現代の特急列車として不合格。湘南ライナーなどそこそこの追加料金で乗れる列車ならともかく…
さすがに21世紀初頭には185系はリクライニングシートでしたね。2003年以降はまかいじで20回以上乗りましたが、いつもリクライニングシートでした。
@@TSUYOS185 リクライニングシートだっけ?じゃあ遜色特急じゃないはず…
@@Shochan.Gさまリニューアルは2002年に全て完了したそうです。倒れ具合は今の特急に比べて少し劣りますがね。
185系登場は転換クロスシートでデッキがあるなしの違いで関西地区と中京地区の117系と変わらなかった。最も東海道新幹線だって0系は転換クロスシートでしたが!リクライニングシートになったのはゴウゴウトウダイヤ改正頃からで3列側は半分は進行方向と必ず逆向きでしたが、100系からはすべて回転リクライニングシートになっています。
@ 俺が小さい時は東海道新幹線に300系がかろうじでこだまで走ってた時代だったな。当時新型だったN700→N700aより加速遅くて時代を感じる新幹線だった。
まぁ、でも、サービスの概念皆無でヒトをモノのごとく運ぶ輸送列車 珍幹線もぼったくり料金という意味では遜色特急だけど。
西那須野停車は、旧西那須野町育ちの政治家・渡辺美智雄氏の、明らかな我田引鉄ですね。
大田原に近いからじゃあないの?
西那須野駅は東北新幹線開業迄は那須地区の主だった主要駅だし特急ひばりも数本停車していました、昭和43年迄東野交通と言う私鉄が大田原迄走っていた事も有りその名残だと思いますが。
国鉄バスが塩原温泉までの路線を持っていたからですかねぇ?那須温泉には、黒磯駅から東野バスですし。
今ではモータリゼーションで役目が落ちたけど、大田原と塩原に行くバスの分岐点なんだから止まるほうが自然だったよ政治的って言うのはちょっと無理
元から那須アクセス用の駅だけど
宇都宮線、結局優等の需要は新幹線に集中してるから快速ですら減便されたり格下げが続いてるのがなんか寂しいよね
通勤快速があったのが懐かしい。
昔と違って途中駅も利用者が多いから通過する電車あると逆に迷惑なんですよね。東海道とかも同じ事で
西那須野のあたりに住んでいた時、地元の人に聞いた感じではこれを含めて別不評でなかったというか、全体ひっくるめてなすのは便利だったって話だったなあ
東北本線の仙台や会津若松に行く急行はいつも混んでいたことから那須周辺をターゲットとした列車は貴重だったことと思います。
今の新幹線のなすの号にもそのDNAは受け継がれていますね。
115系使用は車両不足の面もあっただろうとは思いますが、一番は、なすの1号の送り込み列車になる普通がラッシュど真ん中を走る為に3扉車の115系を使用したんじゃ?
年々増加する沿線人口に対応するためには165系を使うわけにはいきませんでしたからね。さらには国鉄の財政事情、東海道線や横須賀線や総武快速線などの輸送力増強に追われ東京北管内では車両増備が少なかったこともあるのでしょう。
高崎線の上尾暴動の発端となった車両も詰め込みの効かない165系(ビュッフェ付きのものもあり)でした。
そう云った背景か…
しかし、'90年代には朝方上野着普通列車に185系による運用を見た気がするが、記憶違いか?
話がそれますが、東北上越新幹線の大宮暫定開業時にて「新幹線リレー号」に1本は115系が使われたと記憶しています。
首都圏でちゃんと車両不足が解消できたのって21世紀入ってしばらくしてからだものね。2005年あたりなら、まだ古い車両を使い続ける必要があった。
1973年に上尾事件が起きてます。高崎線は普通列車でも165系を使っていた時代です(使わざる負えなかった)。車両運用が難しかった過渡期ですね
上尾事件はそれもあるけど、またまた悪いことは重なるものでこの事件の時たまたま順法闘争を労組が決行していたため定員以上の客を乗せなかったために客がブチ切れという言葉が全裸で逃げ出すくらいの大暴動に発展したという要因もある。
なんか急行型電車使い
着席整理券の快適通勤できる
通勤ライナーに急行型電車をグリーン車付きで準急列車扱いで出来かったのかな
115系の急行列車は遜色そのもの.然し内房線に使用されたキハ17系急行に較べればマシです😅😅
1966年から1968年の繁忙期シーズンに設定されていた臨時の第二・第三なすの号は、横浜駅を発着駅として運行されていました。(横浜~上野間では、途中川崎・品川・東京に停車しました。)なお、1969年以降は上野駅を発着駅として運行されるようになりました。
”なすの”は実質急行のような列車ではあったけど、185系が特急踊り子に使われている関係で、急行では統一がとれないことから、苦肉の策として「新特急」という種別が充てられたらしい。
でも遜色急行ってロマンがあって好き。
もはや、宇都宮線内を走る昼行定期優等列車は東武直通特急のみ。定期夜行優等列車は全滅。栗橋で東武線に転線するため、茨城・栃木県内は優等列車は全滅・・・
東北特急全盛時代からは考えられないほど寂しくなってしまいました。
1970年代には、宇都宮での日光線からの「日光」併結の他、小山で両毛線からの「わたらせ」も併結していました。
なお、急行「まつしま・ばんだい」に、間々田で水戸線からの「つくばね」併結も。
水戸線に入るつくばね号は気動車時代は両毛線に直通するわたらせ号に連結されましたが、電車になったあとは勝田電車区のときわ号の車両(451系の7両)でした。
東北本線の急行と連結はしていませんでした。
違いますよ!急行つくばねが勝田電車区になったのは、ヨンナナサンダイヤ改正からでそれまでは仙台運転所の付属編成の455系か457系6両編成でした。この時には必ず455系か457系限定でした。なぜなら板谷峠で勾配抑速ブレーキを使用するためでした。
@@もりわききくおさま
そのようですね。すみません。勝田の車両は47.3からなのですね。
ただ、仙台運転所の車両時代でも単独だったのでは?
時間帯的にも早くていいな!
しかも終点が宇都宮じゃなく黒磯というのが・・・・・。
母の実家が今の那須塩原だったので、急行なすのは良く利用してました。
遜色急行の存在は当時も知られており、時刻表にグリーンマークがないのが識別点でした。
横浜に住んでいたウチの家族も、東京発にも関わらず下り1号は避けてました。
別件で白河発の上り2号は455系使用で、宇都宮まで各駅停車でした。
これは東那須野民にとっては時間帯も良く利便性も高いので、良く利用した思い出があります。
白河発は交流区間に跨るけど455系?
白河発のこの列車だけは455系の運用でした。需要にあった時間帯だったのか、いつも混雑していましたよ。
母方の実家が白河だったので自宅に帰る時はこのなすのに乗ってました。
朝出て昼前に上野に着くのでちょうどいいダイヤ設定です。
そうでしたね。宇都宮発白河行の普通列車で折り返し「なすの4号」だったな。455系使用。
急行なすのに使用されていた車両は新前橋電車区所属の165系急行型直流電車🚃で高崎線の急行草津・ゆけむり・はるな・あかぎ号及び東北・両毛線経由の急行わたらせ号と共通運用していました。
昭和50年代前半は遜色急行一杯あって、北海道のキハ22は数え切れず、首都圏ではこのなすのの他、日光、ときわ、ゆけむり、かいじ/かわぐちにも近郊型電車使われた列車ありました。
臨時急行だと、たてしなとか実際乗ったこともあります。
1990年に青春18きっぷを利用して北海道を旅した時に急行「そらち」の快速区間(富良野~滝川)に乗車しました。
急行と言うからにはキハ56と思っていたら車端部がロングシートのキハ40でした。
滝川から先は711系の普通列車で札幌に向かいましたがこちらはかつて急行「さちかぜ」や「かむい」の運用につ就いていた車両で、デビュー当初から車端部がロングシートだったものの俊足急行で評判は良かったと聞いたことがあります。
昭和50年代前半上野駅を8時台に出るゆけむり・あかぎが115系でした。一度試しに乗ってみたのですが、予想以上に混み合っていて立ち客もいる程でした。車両はさすがに急行なので、当時はまだレアだった冷房付きの300番代の新車が使われてました。
車両不足で止むなしと云った事情ですが、幼少のおり、海水浴シーズンで千葉県の保田まで乗車したのが急行「うち房」で恐らくは111あるいは113系かと…
また、昭和50年代に高崎線から秩鉄直通の不定期急行「ちちぶ」は多分上記列車と併結か、と…車両は115系。当然ながら急行券は携帯しておりました。
現在なら、快速へ格下げでありましょう。
急行や特急用の車両はデッキがあるが一般の通勤型車両はそれがない。これで雰囲気がかなり変わる。昨年JR西日本で急行鷲羽のリバイバル運転を113系を使って行っていたが私は冒頭の理由からデッキもない車両に乗車券以外の余分なお金を払うのか嫌である。2枚扉でも117系の新快速はデッキがない。ところが同じような車両でも185系はデッキがあるので特急券(当時急行は殆どなかった)を支払うのは納得できる。お金をとる場合はそれなりの設備が必要と言いたい。
失礼します。急行も特急も遜色だったんですね😢 😢
@@okamotohidehiro9371
九州には117系や115系3000番台とほぼ同じ車内レイアウトの気動車キハ66があり、筑豊地区の急行の運用についていました。
転換クロスシートを高く評価する声もあったようですがデッキはなく戸袋部分はロングシートで洗面台がなかったことを考えると一般型(近郊型)気動車に分類されるのも仕方なかったですね。
東京〜静岡を走ってた急行東海もそうでした。
まだ、20年くらい前まで走ってました。
特に、東京〜沼津間は「通過駅が多いだけ」で普通と大して所要時間変わらないのにガタボロの車両で急行料金取ってて。
しかも各停車駅で乗車した客を乗務員がしっかり覚えて漏れなく急行券チェックや徴収に来たとか。
なすの号、上りのみ白河始発があり457系が使用されていました。白河市に某有名企業の工場があったので東京へ出張する方々への配慮だったと思われます。ちなみに東北本線&高崎線の遜色急行、他にもありました。車両不足のためでしたがそれを放置した故に起きたのが1973年の「あの事件」ですね。
一時期、新幹線リレー号も115系を使われてたそうで、サボも新幹線リレー号用になっている。
それにしても、古河か、久喜止まりでいいから特急を走らせて欲しい久喜に住んでると都心に出るまでが遠く感じる。
こんな遜色列車に乗らざるを得なかったお客の心中やいかに❓🤔
新型車両ばかりになった今の時代に113系•115系を製造もしくは岡山あたりから引っ張ってきて投入したら急行料金取れますね。
もう一回だけ乗りたいな。113系•115系。
5:31 「3等車中心となり〜」1966年の話で2等級制運賃時代なので、同じクハ115クモハ115車両であっても2等席車両であり、2等運賃2等急行料金で乗車出来たはずです。
ともあれ車両運用もダイヤも上野駅ホーム利用状況も切迫していた当時の国鉄東京北鉄道管理局には、東北本線としては短距離急行に当たるなすの号の、通勤時間帯に食い込む1列車ぐらいは、近郊型直流通勤型車両流用のいわゆる遜色急行とするのもやむを得ないといった所でしょうか?当時は急行料金を別払いで支払っても定期券での急行列車乗車は難しかった筈ですが、東京北局の便宜的措置で定期券に急行料金を支払った乗客は乗せていたのでは?と推察いたします。
特急あかぎも急行時代に115系の遜色運用があったらしい。
車両運用の都合なんだろうけど、別料金を徴収するなら見合った車両を充てないと利用者に失礼ですよね。
上鰻重の代品を頂いておいて並鰻重を出すようなものです。
特急あかぎ確か上野から群馬の温泉まで走ってない?
1960年代だからこそ115系でも許されたのかも…!
中央本線で運行されていた、急行かいじ・かわぐち号も一部近郊型で
運行されていましたね。臨時の急行列車では近郊型の運用がよくありましたね。
上野発熊谷から秩父鉄道経由で三峰口まで向かう急行列車があったのですが
(列車名忘れました)、115系の運用でした。赤羽から慌てて乗ってきた人が、
車内検札で急行券拝見と言われ、この車両で急行料金取るのか、と車掌さんに
文句言っていましたね。料金はサービスに対する対価ですけど、急行料金は
速達に対する対価であって、車内設備に対するものではないですからね。
不思議なことに伊豆方面では遜色急行はありませんでしたね。
臨時と言えど153系や修学旅行の任務から外れた155系や167系でした。
定期の伊豆号が踊り子号に格上げの際167系は臨時快速になりましたが、快速アクティーが設定される頃にはなくなっていました。
三峰口行きは「みつみね」だったと思います。「ゆけむり」だか「あかぎ」(あるいは両方?)と併結だったのでは?
@@赤壁輝彦殿。
私が乗車した列車は急行「ちちぶ」でした。
東武東上線直通の同名列車は、コレと区別する為か「東上ちちぶ」と呼称していたらしい。
普通列車ではありましたが、他には「みつみね」「くもとり」、
上長瀞止まりの「ながとろ(コレも東上線直通と同名)」もありました。
秩鉄線内は熊谷から途中、寄居、野上、長瀞、上長瀞、皆野、秩父、御花畑、浦山口…と記憶します。国鉄高崎線から直通の急行/普通列車共通の停車駅でした。
なすの号というのも結構、歴史が古いんですね。
故・急行つやま「遜色急行と聞いて……………。」
急行つやま、かすがも遜色急行でした。
つやま号はまだしもかすが号はそれまで使われていたキハ58と比較してデッキはなかったものの転換クロスシートで一般の急行のレベルを凌駕していましたからね。
ただ、近鉄に対抗する快速のみえ号が同じ車両で料金不要だったのでそれに急行料金と言うのも遜色と言われていたのでしょうね。
@@TSUYOS185
かすがは、使用していたキハ58,65は簡易リクライニングシートに換装していたので、キハ75の転換クロスシートに変わったのはどうなんでしょうね。
準急ふたあら、なんかすごい列車名。
宇都宮にある二荒山かな?
1964/07のダイヤだと2509M準急ふたあら 上野18:16→宇都宮19:43(赤羽・小山停車) 2508M準急ふたあら 宇都宮08:12→09:39上野(小山・赤羽停車)
この準急、大宮は無停車である
東武には「ふたら」という愛称が今もあるけど、これは「ふたあら」なんですね
@@MN-tw5fqさま。
二荒山は日光ですね。
宇都宮市内にも二荒神社はありますけど…
スカ色遜色急行「かいじ・かわぐち」(臨時)
沈没の艦隊…!?
鉄ヲタ以外からしたら近郊型か急行型かなんて区別つかねえからなぁ。ただ冷房付いてるか否かとかは違うと思う
急行系は片側2ドアで「デッキ」付きが基本ですけどね。
まあ、北海道の711系や54系などは、本州以南とは事情が異なり、デッキ付き…?
@ 想像する事しか出来ませんが急行型デッキ付きの非冷房車って夏場は地獄だったのでしょうね
同区間、快速フェアーウェイなんてのもありましたね⁉️(新宿発着でしたけど😅笑)
栗橋停車でしたね。
フェアーウエイ懐かしい。485系の6連でしたね。仕事で宇都宮行くときに使ってたけどいつもガラガラでした。
「ムーンライト」の間に合い使用でしたね。
私が乗車したんは165系でした。
今度は臨時急行草津52号も取り上げてみては如何でしょう。急行なのに急行に3回追い抜かれます。車両も115系です。
中央本線(西線)全線電化が完成した1973年頃から(?)数年、長野県内の上諏訪―長野間の下り急行「天竜1号(だったと思う)」211Mは神領電車区(名シン)のモハ80系4輌編成で運行されていた。モハ80系は当時でも急行としては旧型(ディーゼル車で言えばキハ28・58系とキハ26・55系の違い)であったが、時には両端の先頭車に旧1等サロ85格下げのクハ85が連結されている場合があり、その車輌なら普通車指定席料金を払っても惜しくないと思ったものであった。
しかし1978年に長野地方の普通列車近代化のため115系1000番代が投入され、その急行も115系1000番代に置き換えられた。座席は当時の急行165・169系並みに改善されてはいたものの、やはり急行には相応しくなかった。
ましてこの動画の当時の115系急行は300番代以前の座席幅も間隔も狭いタイプであり、折り返しで普通列車に使うためとはいえ、如何にも急行料金を取るのには値しなかったといえるだろう。
新幹線開業前の上越線、上野ー水上 急行ゆけむりに115系代走が多かった。すでに300番台が登場していたが冷房準備車だった。
上野ー直江津 急行よねやまにも115系が代走したことがあったそうだ。急行料金どうだったのか気になる。
急行は設備はともかく早く行くことだけが目的だったので急行料金は徴収していたものと思います。
新潟電化直後には80系が足りず戦前製のかつての横須賀線の電車が連結、さらには昭和50年頃にも新潟から上野の臨時急行にも115系が使われたことがありました。
「よねやま」は「佐渡」と共通運用だったし、グリーン/ビュッフェ連結だったから、この件がいつ頃の事か知らんが、115系が来たら愕然としたんぢゃne?
「なすの」での運用があったか判らぬが、157系は東海道「ひびき」「こだま」「とき 」「そよかぜ」等の特急に使用されたが微妙に遜色感が…
車内設備は特急としては問題無いかもだが、設定当初は非冷房で食堂車もなし。
なんでも当時の坊っちゃん/嬢ちゃんが落胆したと云うエピソードも…
やはり食堂車非連結が原因か?
モハ156に売店らしき設備は有ったらしいが、せめてビュッフェに…?
新特急になって停車駅が増えましたよね
特急なすの号 おはようとちぎ号復活させてくれないかな。仕事で東京~宇都宮頻繁に行くけど
新幹線自由席 プラス2500円で52分 普通電車なら1時間50分 1時間のために2500円払うなら上野東京ラインに乗りますよね。
あとグリーン車も倍近く値上げして宇都宮から普通電車の席は混んでます。
遜色急行の話は興味深いですが利用した人はたまったもんじゃなかったでしょうね。当時の115系は非冷房でシートピッチは狭かっただろうし、運賃5割増しの上でもしもこんな急行を走らせたら上尾事件の再来になっていたかも?
逆に乗り得電車もありましたね。
東北・上越新幹線の開業後、上野開業のあたりまでは高崎線や今の宇都宮線のエリアには急行型車両を使用した普通電車があり、グリーン車が普通車扱いでした。
ラッシュには対応できなくてもそれ以外の時間であれば快適だったことと思います。私も間合い運用で大宮→上野でリレー号代わりに使ったことがあります。
@TSUYOS185
私の父方の故郷が熊本県の鹿児島本線沿線にあり、子供の頃祖父母に会いに帰省した上で親戚回りで熊本市内まで出掛けた際、朝の普通列車を待っていたら一般型のキハ20、キハ47から急行型のキハ58、キハ65、さらにはキロ(こちらは自由席グリーン券が別途必要)まで連結された12両編成がやって来て選り取り見取り。普段国鉄京阪神の103系の普通電車ばかり乗っていた私としては物珍しさと豪華さを感じましたね。
40年以上前の話で申し訳ありませんが😅
@TSUYOS185
JR化後は特急「北越」の一部に長岡~新潟が快速になるものがあったり、急行「きたぐに」の新津→新潟が快速扱いとか、北陸新幹線金沢延伸前には特急用車両を使用した普通「妙高」や快速「くびき野」がありましたね。
遜色の反対語は「乗り得」、てな…
国鉄時代の北陸本線は、かつては特急街道で、485系を使用した快速列車も有った。
しかもグリーン/食堂車連結!
しかし詳細失念。グリーンは料金徴収か、普通車扱いか、はたまた締め切りかは不明。食堂は当然非営業。
最近はリバイバルごり押し鷲羽と言うものがあってだな…
0:59 この快速にはシートピッチが少し広いだけのボッタクリ2等車(キロハ18)が連結されていた
キロハ18の頃の客車の準急や普通列車の2等車はシートピッチが少し広いだけのボックスシートは当たり前でした。良くて回転クロスシート。
リクライニングシートの特別2等車は特急と急行だけでした。
新特急なすの号を何度か利用させてもらいましたが覚えてる記憶が車内自販機で買った大清水ブランドの缶入りミネラルウォーターを飲んだことぐらいしかね-や;。。;
車内販売で、『おビール!』と言っていたベテランの女性販売員さんがいました。
今、お元気なのだろうか…
私は大宮在住ですが、確かに新特急になってからのなすのはどの列車もガラガラだったように記憶しています。更に言わせていただければやはり東北新幹線開業後は急行として増発したにもかかわらず、どの列車もガラガラでしたね。やはり現宇都宮線の東北本線は長距離の優等列車を走らせることがメインの路線でしたから 久喜や古河などの沿線の方々は短距離で優等列車を使うという考えが無かったのかもしれませんね。
久喜市民にしたら特急乗車は、もはや「りょうもう」1択か…
あ、そう云や、東武鉄道1800系って185系に似てるって、誰か言ってた。
九州だと食パン急行走ってたww
583系の「成れの果て」…?
ロングシート指定席のおまけ付き。
@@Yoshin-Sashizume さま。
ソレで思い出しました。
かつて東武鉄道日光/鬼怒川線の急行「だいや(東武日光発着)」/「おじか(鬼怒川温泉発着)」。
6000系は片側2ドアのセミクロでしたが、「あの座席」でも急行料金必須でした。しかも非冷房。
余談ですが、'70年代初頭まで快速も一部指定制(料金一律100円)。
急行つやまの先輩みたい
特急運用が低迷したのは当然ですよね、新型185系投入と言うと聞こえはいいけど体のいい新幹線リレー号車輛の流用だって関東圏の利用客にはミエミエでしたでしょうし、
ましてや新幹線との並走区間でわざわざ遅くて居住性の劣る車輛に同じ(区間次第ではむしろ割高?)料金支払いたくないのも当然かと。
50キロまでは急行時代と同じ価格(消費税施行前で500円)だったものの、その先はB料金でしたからね。
更に関西では同じシートなのに特別料金なしで乗れる新快速(と間合い運用の快速)がありましたからね、マニアならずとも「ボッタクリ」と感じてた訳で。
一応新特急シリーズの売りは
「定期券でも乗れる」だったかと。
高崎線と違って、栃木県内完結の急行を多数走らせても東北本線の線路容量は逼迫しなかったのか。
りあり~?ワイが昭和51年に乗った際は115系で、同じ「なすの」名乗ってたが「快速」だった😉
所謂ぼったくり急行ですね。
サロ165-14をスカ色に塗り替えてまで115系に組み込んだ急行「かいじ」も出色ではないでしょうか?
首都圏の遜色急行誕生の理由は上尾事件がきっかけだと聞いたことがありますが...
この動画のとおり上尾事件の前からあったようですが、急速な人口増加、さらには東海道線などの他線でも通勤輸送対策に追われ、115系の大量増備がなされなかったことから引き続き急行の間合い運用も行われていたようです。
サムネカボチャと通常呼ばれてる電車もう高崎小山間走ってねえ。
115系のボックス席部は165系と同じだったりします。
座席幅が狭いですよ。
誰が記憶に留めるかよwwwwwwそんな暇あるなら勉強してるわwwwwww
新幹線のイメージも強いなすのは急行時代は黒磯止まりだったのね🙄
しかし通勤型車両で急行料金取られたら乗客の人達もガッカリ感が半端ないだろうなあ💦
直流電車を使うと、黒磯までになります。
@tita6818 黒磯以北って交流なんですね🙄
昔は特急「くろいそ」(181系)も有ったらしい。
@@雅夫大場 何か気になって調べてみたら50年チョイ程前にわずか2年だけ走ってた季節の臨時特急みたいですね🙄
たしかこの前にも急行かいじで同じことをいっていましたよね!今度はなすのですか!まさかあかぎや、ときわも動画にするのではないでしょうね!その他にもうち房や、ゆけむりもありましたよ!北海道にはキハ22型を使用した急行や、いなわしろなんかも一般型気動車急行でした。不思議と中部以西にはあまりなかったですが、唯一急行ぎんなんと定期番号を持った急行ゆのかがあったくらいではないか?
急行「砂丘」の南半分を受け継いだ急行列車と北陸のとある半島を行く急行列車も追加で。
@Yoshin-Sashizume 急行つやまはキハ47型で急行能登路片道1本は415系800番台でしたが、いずれもJR化後のことでした。つやまは後に快速ことぶきに格下げされていて一部指定席もありました。
@@もりわききくお
承知の上でコメントしました。
JR化後も遜色急行が存在していたと言う意味で。
ただし、あなたにとって的はずれで気に入らないコメントでありましたら申し訳ございません。
まあ165系だと遜色じゃ無いと言いきれるほど設備がダンチって訳でも無いしなあどうせボックスシート
シートピッチが違うのは結構でかいと思いますが
確かなすのも末期の頃はシートピッチ改善車が入っていたはず
それでもデッキのあるなしの差は大きいものでした。
JRではなく東武の8000系で経験がありますが、長時間停車する駅では各車両1ヵ所だけドアを開けていたものの、北関東の冬の風は首都圏と比べて冷たく、駅に停車する度に寒風が入り込んできました。
@@TSUYOS185さん 真冬の長時間停車の場合、デッキの偉大さが良く分かりましたね。中央線の上諏訪夜行も115系でしたが、真冬の甲府駅での長時間停車で誰かがドアを開けてしまうと、115系のドアの構造上、手で最後までキッチリと閉まらなかったので寒かったな。
遜色特急なら185系踊り子が超有名だよな…
俺は2017年頃に乗ったけど特急料金取るのに転換クロス…
せめて少し倒れるリクライニングシートじゃないと現代の特急列車として不合格。湘南ライナーなどそこそこの追加料金で乗れる列車ならともかく…
さすがに21世紀初頭には185系はリクライニングシートでしたね。
2003年以降はまかいじで20回以上乗りましたが、いつもリクライニングシートでした。
@@TSUYOS185 リクライニングシートだっけ?じゃあ遜色特急じゃないはず…
@@Shochan.Gさま
リニューアルは2002年に全て完了したそうです。
倒れ具合は今の特急に比べて少し劣りますがね。
185系登場は転換クロスシートでデッキがあるなしの違いで関西地区と中京地区の117系と変わらなかった。最も東海道新幹線だって0系は転換クロスシートでしたが!リクライニングシートになったのはゴウゴウトウダイヤ改正頃からで3列側は半分は進行方向と必ず逆向きでしたが、100系からはすべて回転リクライニングシートになっています。
@ 俺が小さい時は東海道新幹線に300系がかろうじでこだまで走ってた時代だったな。当時新型だったN700→N700aより加速遅くて時代を感じる新幹線だった。
まぁ、でも、サービスの概念皆無でヒトをモノのごとく運ぶ輸送列車 珍幹線もぼったくり料金という意味では遜色特急だけど。
西那須野停車は、旧西那須野町育ちの政治家・渡辺美智雄氏の、明らかな我田引鉄ですね。
大田原に近いからじゃあないの?
西那須野駅は東北新幹線開業迄は那須地区の主だった主要駅だし特急ひばりも数本停車していました、昭和43年迄東野交通と言う私鉄が大田原迄走っていた事も有りその名残だと思いますが。
国鉄バスが塩原温泉までの路線を持っていたからですかねぇ?
那須温泉には、黒磯駅から東野バスですし。
今ではモータリゼーションで役目が落ちたけど、大田原と塩原に行くバスの分岐点なんだから止まるほうが自然だったよ
政治的って言うのはちょっと無理
元から那須アクセス用の駅だけど