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再投稿になってしまい申し訳ありませんでした。修正前の動画でグッドボタンを押してくれた130人以上の皆さまと、コメントを頂いた皆さま、昨日のプレミア公開を見てくれた皆さま本当にスイマセン、そしてありがとうございます。こちらの動画は後編になりますのでよければ下記動画を先に見て頂けるとより理解が深まります。「新説・三方ヶ原の戦いの実態(前編)」ruclips.net/video/QrX2fu9_HlE/видео.html
合戦解説系の動画チャンネルのなかで、個人的にはよしふじチャンネルさんが最もクオリティも高く、史料もきちんと読み込んで動画を作っているのがよくわかってだいすきですね、いつも素晴らしい動画をありがとうございます
応援ありがとうございます。史料の読み込みはかなりやっているつもりなので褒められてうれしくあります
三方ヶ原の戦いって教科書だと単純な挑発で徳川軍を釣りだしたように思ってしまうのですが、実際にはハンニバル並みの計略で徳川軍を嵌めたんですね。ありがとうございました。
武田が全軍で南下していたらさすがに家康も出陣しないだろうと信玄と家康の評価をどちらも上げた解釈になります
@@Yoshifuji-Sengoku 三河一向一揆の顛末を見る限り、若い頃の家康はイケイケで合理的なベンチャー起業家のイメージなので、武田が全軍で南下したら浜松城から出てこなかったと思います。歴史って、本当に面白いですね。
よしふじさんの読解力、情報収集力す、すごい
本当、武田信玄の指揮なら生き死に賭けて進んで戦いたくなる。謙信、信長、秀吉、元就、政宗、ここまでの将は他にいない。
近年武田が一方的に裏切って侵攻した論から徳川織田の裏切りから侵攻に踏み切った論に変わって来てるよな。まあ、どっちにしても武田軍の侵攻から三方ヶ原の戦いまでの一連の軍事行動は本当に凄すぎるわ。
徳川織田というか家康のスタンドプレーって感じですね徳川武田で別れる事になった旧今川家臣団からしたら家康の行動には不満が募る気がしますしそれが後の信康事件の遠因の一つになってるんじゃないかとも思ったりします
@@engawanoneko2435 ここの内容でも触れてるけど、本来東美濃の遠山家は両属関係なのに勝手に武田に断りもなく力づくで国境を織田で固めておいて、武田への裏切りと取られないと思ってる織田信長が馬鹿すぎるわ。
今回の動画では家康も悪いを前面にだしてますが、台本シナリオの構成上そうしてるだけで、よしふじちゃんは別に武田信玄の回し者ではありませんw遠山領に関してはまだ決着してない感じで、織田信長が動いたのが武田の徳川領侵攻後なのか侵攻前なのか議論がありますね。武田の回し者から見ると進行中の出来事の方がしっくりきますがw
詳細な解説をありがとうございます。私は三方ヶ原古戦場近くに住む地元民で、本多忠真の息子つまり本多忠勝のいとこが開いた寺の檀家だったりします。「どうする家康」にも描かれていたように、二俣城を落とした武田本隊は浜松城方向に南進した後、いわゆる「信玄街道」を三方原台地に上ると突然北上し、祝田の坂南側一帯に魚鱗の布陣をして徳川軍を待ち伏せていたと、私が読んだどの本にも書かれていました。しかし25,000もの大軍が往復10km以上もV字形に「無駄な遠回り」をするというのはいかにも不自然で、南下した隊は家康をおびき出すための「一万以下のおとり分隊」だと、私は以前から見ていました。肝心な本隊は「休兵坂」から直接三方ヶ原の戦場に近回りし、悠々と布陣して待ち伏せしていたとしか説明が付かないと思っていました(この動画でおとり分隊は14,000と判明)。お陰様でこの動画により、私が長年推測していた「おとり分隊説」が、実際文献にも記されていたということを知り、本当にすっきりしました。ただし犀ヶ崖資料館にて、私の説は説明員から否定されてしまいましたが(笑)。さらには「家康が三方ヶ原から浜松城まで敗走したルート、犀ヶ崖の戦いの実態、武田軍が刑部で長期間停滞した理由(信玄の病状悪化? 正月休み?)等にも興味がありますので、またお時間があれば「三方ヶ原の合戦 PART 3」をお願いしたいと思います。
武田信玄なら 浜松城の補給路を断つ戦略を取ったとする方が自然でしょうね。良い動画有難うございます。
めちゃくちゃ詳しくわかりやすい解説ですね!まさに愛知の三河地方住みなので今度そのルートを現代で再現しながら行こうと思います!
うちの動画を見て、現地に旅行に行ってみようと思ってくれたら本望です
完璧な戦略を見事に表した最高の動画かと
三方ヶ原の戦いの惨敗で武田信玄敬意を示し、武田の旧臣を家臣にして戦だけでなく統治方法も武田流を取り入れたことは徳川家康の学習能力の高さを表しており、その卓越した学習能力が徳川家康を天下人にならしめたと思います。たとえ敵であっても良いものは受け入れるという柔軟さが必要であることを痛感しました。
家康が東国の先進法治国家今川・北条・武田氏と接触があって、遺臣取り込んでったのは大きい。三河者の依怙地なイヤラシサが家康、本多正信は薄いんですよね(ほかは茶屋四郎次郎ぐらいかな)。徳川家が人と資料を残したから、この三家の施政ぶりの評価が上がった、という面もあるでしょうけど。
織田さんとか特に川尻さんとか反面教師でw
ハンニバルに叩かれ鍛えられてその後地中海世界を席巻したローマ軍と同じ匂いを私も感じます。家康の凄さってそういうとこなんだろうなあと。
わかりやすい解説動画は数あれど、詳細な解説という点ではここが断トツではないでしょうか。情報量が多く、構成が非常にハイレベルでとても勉強になります。
マニアック過ぎて一般ウケが悪いんですよねぇ(涙
数が少ない別動隊で釣ってる間に各ルートの部隊を集結させて待ち構えてるの強すぎる
その別動隊も馬場と小山田なんで強かったりします
最高傑作です!
けっこう頑張って考えて作ったのですが、再生数は伸びなかった(涙後日談も含めて、いつか3Dでリメイクしたいですね
仏門に入って信玄と名を変えてからの戦いぶりは天才的。野戦、攻城戦、山岳戦、どれをとっても超一流
確かに、天才的だが、勝頼にそれが受け継がれなかった。天才の後を継いだ不運。
謀略や調略、人望などは父に遥かに劣った。無理をして、武田を滅ぼしてしまった。信玄がもう三年長生きしていれば、武田は大名として残ったかもしれない。
意外にも、三方ヶ原で武田勝頼は武功を挙げている。ただ、どうしても力攻めに頼る所があった。
倍以上の軍勢を用いて、戦力も余力を残していたのに包囲できずに徳川勢に戦線離脱をゆるしてしまった信玄が用兵が優れていたとは思えけど。
ほんとうに解りやすく、いつも楽しみです🎉メンバーシップも良いですけど、もっとこの動画の素晴らしさを広げられるように歴史好きのメンバーにも共有します😂
マニアックなので一般ウケは厳しい感じです
この通りだとすると、武田軍は歴史上なかなか無いレベルの分進合撃を成功させてますね特に山県隊はかなり前から本隊とは別行動なんで、12月22日に三方ヶ原にいること自体がすでに奇跡的なようにも思えます戦い本番は徳川軍を窪地に誘ってからの片翼延伸による半包囲と、徳川軍が壊滅的な被害を出すのもむべなるかなという感想です次回も期待しております
山県はほぼ間違いなく二俣城には来ていたので、信玄と打ち合わせの上で井平にいた山家三方衆を迎えに行った感じですね
プレミアム公開いつもタイミング合わないけど応援してます、これからも応援します! 今回も参考文献をたくさんありがとうございます!
タイミング合わなくてすいません、今度投降時間のアンケートでもやってみますもっとマニアックな参考文献も限定公開でやっていこうかなと思ってます
@@Yoshifuji-Sengoku とんでもない、自分の時間が合わないだけなんでよしふじさんのいいと思うタイミングでやってください! スパチャで応援できない分他の形で応援できるのは嬉しいです。今日も徳川家康と武田信玄、読んでました。参考文献が毎回本当に面白いし合わせて動画読むと地理的な理解も深まって楽しいです!
地図で説明して頂けると武田軍の戦略がとてもわかりやすいです。浜名湖の出入り口を水軍で抑えていたのなら、信玄は最初から浜松城を攻めるつもりはなかったのかもしれませんね。天竜川の東側は既に抑えていて、三方ヶ原を抑えることで浜松城への連絡・補給を絶ち、家康が浜松城を出て追ってくれば迎え撃ち、籠城するならほっといて西進。家康は気賀あたりに城か砦の要所を築いておきたかったところだけど、朝倉・浅井との戦いに駆り出されて作る余裕がなかったのだろうか。三方ヶ原の戦い(徳川軍撤退編)も見てみたいなぁ…(独り言)
本坂峠あたりに織田の援軍が居たようです気賀のあたりは遠州侵攻の時に徳川軍がやり過ぎちゃったので住民感情がw撤退戦から野田城の戦いは再生数が見込めないので限定動画の予定です
三方原の地元民でございます図解を用いながら大変わかりやすい解説、考察ありがとうございます一言坂は仕事で何度も通り、二俣城址も見学しました気賀は母の在所ですもちろん三方原合戦の逸話、御伽噺も子供の頃から何度も聴いておりました改めて自分が今生きている街の成り立ちに思いを馳せました小豆餅辺りで14,000の武田軍の様子を伺っていたとすると、本当に目と鼻の先だったのでしょうよくも戦いを挑んだものだと思います(想像しても恐ろしい)他の動画も拝見させていただきます
地元の方が見て問題なければ地図としては成功かなと思います。応援ありがとうございます
やりなおし乙、せっかくだから書き直すか。岩村城と信州が間に苗木を挟んで攻略不能と思ってたので、岩村から下ったってのが長年の疑問に合点がいった。岩村城おととし観光したんだけど、妙に城下町から遠くて深い山の中だから、もともと極端に独立心強いのだろうなあ。
再投稿になってしまい本当に申し訳ないです武田の岩村城への経路は根羽から中馬脇街道だと思われます上村合戦の経路になるかと思われますが徳川・武田の開戦時期が見直されたので上村合戦の時期も要再検討ですね
素晴らしい動画をありがとうございます!この後の武田信玄の死期を早めたとも言われる、野田城の合戦についても、是非お願いしたいです。
あまりこの動画が再生されなかったので続きはお蔵入りです(涙)メンバーから要望があったら考えますがちょっと先のことになりそうです
佐ぁ久ぅ間ぁぁぁぁぁ!!って感じだなぁ(後の折檻状にもこの戦いのこと書かれてるし佐久間隊・・・ほぼ無事平手隊・・・討死
ま、まあ決戦する方が悪いと佐久間さんは主張するかもw
それを言いそうなのも佐久間クオリティ(朝倉の時もやらかして開き直ったしなぁ、後の折檻状にも(略
退き佐久間を援軍に送る方が悪いと思うのです。艦隊保全主義にしか見えない栗田中将に大和持たせるのが悪いのと同類の話かとw
よしふじさん、お疲れです。歴史が好きだけど、深く調べたことがない自分にとっては、よしふじさんの動画を観てると学生時代に学んだ歴史の教科書がいかに信頼性のないものだと認識されるw ありがとう😜
教科書にまで新しい学説が反映されるのは時間がかかりますからねぇ・・・変なものは何故か反映されるのが早いけどw
本坂峠(ほんざか)です、毎回詳しい解説ありがとうございます
両方の表記があって、経験上その場合は読みにくい方が正しいことが多いので「ほんさか」にしましたが、地元じゃ違ったかー
おんな城主直虎、どうする家康を見てますし、井伊谷、浜松城とかコツコツ城廻行ってますが、まだ全然先生の話についていけてない。自分は、まだまだです😢コメント欄の猛者もすごいですね。歴史って本当に深いです。勉強になります😊動画作成お疲れ様です。ありがとうございました。
うちの動画を見てこの城にも行ってみようとか思ってくれるとありがたいです、歴史は一生の趣味になりますので自分もコツコツやって行こうと思ってます
@@Yoshifuji-Sengoku ですですぅ~ ここは一度行ったのに 知らなかったお城沢山出てきています💦 また、時間が出来たらこちらで学んだことを思い出しながら、 めぐってみたいです!詳しすぎて、もう数回見ています。それでも頭に入らない。よしふじ先生、本当に毎回詳しくありがとうです!神~ 動画作成、無理しないでくださいですけど、毎回期待しています
楽しみすぎる
修正に失敗して再投稿になってしまい申し訳ないです
詳しくて、面白いですね
喜んで頂けて嬉しくあります
当日、見るの忘れてた脱糞ものの失態や相変わらず、頭おかしいくらい詳しいっすスゴいっす
後日でも見てくれて応援コメントくれてありがたいです
コッペパン中割ったらあんぱーん♪ 勘助良かったな~♡ 堀江城は遊園地パルパルだし、青崩峠は難所中の難所だし、車と人馬(今昔)の違いで交通の要衝がこんなにも変わるのは感慨深いですね。信玄発病が、月夜の笛の音による誘いの毒矢(忍者)だと 歴史ロマン溢れるのですが・・・次の動画も楽しみにしております。
次は長篠になると思われます。撤退戦と野田城だと再生数とれないのでやっても限定動画ですね
家康を引きずり出すために何重にも準備している信玄に脱帽
外交はアレですが戦略戦術はかなりのものと評価いたしました
動画のQualityが高すぎるね…
最初の甲斐信濃の地図見たら武田信玄の真の力がわかる
この時期の平野は水浸しなんでまだマシなほうではありますが山多すぎですよねぇ
今回も面白かった。ほとんど実際行った事がある所だからテンション上がる。ところでよしふじさんはTwitterなんかはやらないんですかね?You TubeのAI任せでは限界があると思うし他のプラットフォームでも宣伝拡散すると良いと思いますよ。何人かの有志が拡散しようとはしてくれているけど、本人の方が拡散力があるし、動画を作るよりも労力が少なくて済むと思います。差し出がましいけど、良いチャンネルには伸びて欲しいのよ。
ツイッターするよりもコミュニティ投稿をやろうと思ってツイッターは休止した感じです
詳細な三方ヶ原の戦い、ありがとうございます。これを大河で見たかった! 無理なのは分かってるけどw地元民の感覚からしても都田は動画内の解釈でよいと思います。台地の上は真っ平らですが、新都田のあたりは台地の上からは一段下なので(都田川沿いよりは大分上)。テクノロードのローソンあたりから緩やかな下り坂です。「ほんざかとうげ」の指摘がされてましたけど、峠は「ほんざか」以外は聞いたことがありませんが、通りは「ほんさか」でいいんじゃないかと思います。どのみち、地元民は姫街道としか言いませんがw
姫街道が使えれば楽なんですが明らかに江戸期からなんで本坂道を使ってたりします
何でも、最近では武田の西上作戦に対する織田家の援軍は三千ではなく、もっと多かったという新説が出てきましたよね。特に歴史学者の磯田道史先生は織田からの援軍「2万」だと主張してます。織田の援軍がそんなに多かったとなるとかなり様相が変わるのではないですか?
織田の援軍の「本隊」は本坂と白須賀に居たのではないかと考えております。三方ヶ原の動画が伸びなかったのでお蔵入しちゃった完結編で言及する予定でした
面白い!映画化すべき!!
やっぱり看板娘は大事だよね。
よしふじちゃんのファンになってくれて感謝です
歴史が少しでも変わっていれば今の日本は全く違う日本になってたとか、時々、考えることがある。
武田が徳川を潰せる最大にして唯一のチャンスだったかな
冒頭の仏坂の戦い、あれかな、大事な観音菩薩像を避難させようと、井伊直虎が山県昌景と交渉したっていう話がありますが、あの仏坂ですかね?
その仏坂ですが、まあ井伊直虎さんはいろいろ見直しが入りそうな感じですねぇ
元々徳川軍だけでは武田を野戦で撃退するのは無理。信長は本願寺・長島など一向宗相手で手一杯。籠城すれば負けることはないと、わずかな手勢と兵糧を買う軍資金を送った。浜松城の海岸線を守れば兵糧の確保はできる、実際にそのような結果になった。
しっかりと一当てして壊滅せずに退けたのがのち繋げた感じですね
21:00 「勝負の是非も知らぬ暗君が」 家康って後の家光に神君と言われて神格化されるけど、(本多忠勝、榊原康政、井伊直政らはともかく)、鳥居兄弟や渡辺守綱のような古強者、酒井忠次や石川数正のような宿老クラスからは、公式の場以外は明らかにタメ口で話しかけられている形跡がありますね。このときも、「ウチの大将馬鹿だから今回負けるぞ」とか言ってそう。
家康は部下にまで〇〇殿と敬称付けて呼んでいたりしたというし他家に比べると部下との距離感少なそうですね
堀江城(宇津山城や三河の田原・吉田城も?)攻撃やその牽制や後詰めの意図なんかも考えられて詳細はわからない。織田の援兵も浜松まで行かず三河・尾張に備えてあった兵数が想像以上に多かったかもしれない。いずれにせよ武田と徳川の兵数差は大きく、油断しない武田は鈍重さこそあれ隙が小さい。
二俣城を攻略する時のBGMってわかります?
向井らが徳川に仕えるのはもう少し先のようですがこの頃の家康に従う水軍ってどうなっていたのでしょうか?戸田さん?
幡豆小笠原とかでしょうが規模は小さいと思われます
間に合わなんだか‥
ああ申し訳ない・・・今度、投稿の曜日とか時間帯のアンケートでもやってみますね。昨日もご支援感謝でありました
自分の領土じゃないのにここまで地理を知って行動を読んで誘引するって天才かよ。
COMIC RAN誌の宮下英樹氏の連載読みつつ、「東照大権現神話」には、関ケ原合戦の描写は瞬殺、それとも通説の昼まで一進一退、のどちらが効果的だったろうか、なんて考えてます。私としては三成が、七将襲撃事件の折と関ヶ原戦後捕縛されたときに、家康とあるべき政権像を論じあって欲しいんですが、どーかなあ。
昔お正月にやったドラマの松方弘樹家康が、言い募る敗将真田広之三成にただ一言、「敗者に理はない」とだけ言うと、三成がなにも言えなくなったシーンも好きです。家康の、幼い頃からひたすらに生き残ってここまで来た人生を一言で表した、ホント重い演技でした
まだ未読ですが面白そうですよね
自分の知識が古いので最近の研究による新説を知って驚くばかりでした。岩村城を落としたのが秋山虎繁(信友)でないなら女城主を妻にした逸話は俗説なの?
ネタばれになりますがw秋山とおつやの方の婚姻は1573年の2月下旬ですので、秋山の岩村進駐は野田城の戦いの前後と考えれば矛盾はないものと思われます
あくまで自分の考えですが、2年前の関東侵攻とやってることが似てるなぁと思います鉢形をスルー、滝山城途中で中止、小田原城包囲のみ、帰り際に北条撃破とするとこの遠征も上洛目的ではなく尾張三河を荒らしに行っただけ?そう思えてしまいます
当初は東遠江を獲りにいったんだと理解してます途中から信長がブチ切れて戦線拡大するしかなくなった感じですかねぇ
これはおもろい視点ですね。たしかに。
知ってる地名がうじゃうじゃ出てきて楽しい。信玄が二俣街道を南下して小松に陣を張ったのか。確実に我が家の近所を通ってるわ。あとどうでもいいけど小松は「こ」にアクセントね。ゆるキャン△でもこの辺の地名のイントネーションがおかしかったな。まあ多分ここらの訛りが独特なのが原因なんだろうけど。
ボイロなんでイントネーションには限界がありまして(涙
どうする大河での山県見附を西進してましたね〜武田重臣の配役不足なのでむりくりフィクションにしちゃう
一言坂に山県隊を入れちゃった江戸期の編纂物もあったりしますが、山県は居なかったと思います
っぱ信玄なんやなって
あ、皆さんの前コメみての付け足しです。 「強運の家康」 武田方の行程が早く、開戦が半日繰り上がっていたら、闇に紛れて逃げるわけにいかない徳川方の損害はさらに増大、浜松城までいかほどたどり着けたか...信玄の選択肢としては、西上を取りやめて浜松城を包囲、織田の出方をうかがう、という戦略も浮かぶでしょう。 さすれば、史実通り来春に信玄が逝去しても、家康は遠江全部と北三河を取り落とす羽目に陥ったかと考えます。 しかるに史実では、三方ヶ原合戦は真冬の夕方に生起。 権現様ご運強し。
メンバーシップ期待
昔からのご支援感謝です。新作の限定動画を作成中でそれに合わせてメンバーシップも始めますのでもう少しお待ちください
この説だと秋山虎繁とおつやの方の関係はどうなるんだろうか
今宵はここまでにいたしとうござりますは、大河の武田信玄のエンディングですね。ウプ主は50くらいと予想!
よしふちゃんはピチピチギャルなので中井貴一・柴田恭兵が最高の大河ドラマなんて見たことないんだからね
@@Yoshifuji-Sengoku 僕も最強大河だと思ってます! 三方ヶ原の中井貴一「山津波のごとく、一気に潰せ!」はシビれますね!
敵に兵力を誤認させる戦術は後の長篠の戦で逆に織田徳川が使ってますねその辺意識して動画作りました?
うん、ネタばれだwまあ良いんですけど
@@Yoshifuji-Sengokuやっちゃったごめんなさい
1:24 名越 なこえ⤴︎
ボイロなんでアクセントには限界がありまする(涙
武田が戦上手すぎるw 戦場だけでなく、そこに至る進軍まで巧妙で狡猾 やべーな、さすが信濃攻略からほぼ休みなく戦い続けた連中だ部隊を小分けにして進軍させたのは当然で、ロシアがウクライナ侵攻初期で道路で大渋滞をおこしているのを見れば理解できるただ合流地点と時間が的確すぎてホントやべーわ
武田信玄を課題評価し過ぎな感じはありますが今回の動画のラスボスなんで贔屓しまくりですw
@@Yoshifuji-Sengoku ぶっちゃけ武田信玄の軍事行動は自国内の情勢、経済が行き詰って矛先を自国外へ向ける為に仕掛けているのが大半だから実は行き当たりばったりというのが正しい認識だったりするw 殆どの歩兵が山岳出身なので補給の現地調達も山岳の迂回も平野部の連中よりはるかに巧い。中華の歴史でいう北方の騎馬民族みたいなもので、特殊な条件において桁違いに強かったりする。少々上品な山賊という認識でいい。
鳥居忠広は元忠の弟では?
人質生活のなかった家康→信康、忠輝、忠直、忠長。なんて考える昨今。結城秀康は人質で、秀忠もほんのちょっと秀吉の元へ行ってます。大名の子供が他所の飯を食べるのは、人間形成の点で大事なことなのかな?
なるほど。浜名湖の制海権を奪って兵站を断つ作戦もあったのね。ってか、むしろコッチが主だね多分。城攻めって費用も時間も掛かるし。武田からすれば弱点は最初から分かってるから、三河、岐阜からの補給線と援軍を断とうと。普通は浜松城で籠城するのが一般的な戦術だけどそれも無理。いずれにせよ徳川軍は既に負けていたのね。で、更に囮に完全に釣られクマー‼️になっちまった訳か。こりゃ勝てんわな。
やっぱ佐久間信盛って使えんよなぁ
小山田投石隊は、またしても参謀本部発のデマだったんかーw😂
投石は身分の低い者らと書いてあって、直後に小山田隊が弓撃ってるので混ざったのかと
美少女がかわいい
チャンネルのイメージキャラで「よしふじちゃん」になります
歴史を論ずるなら その時の人々の考え、常識が如何に現代と違っていたかをもっと明示すべき。他のユーチューバーも だよね?
新たな歴史ユーチューバーの飯の種は 歴史上その時代の人々の考えが如何に現代とかけ離れていたかを 現代人に面白おかしく解説する。如何が?
最新の説を取り入れて分かり易い解説なんだけど、元の最新の説が粗の多い出鱈目な説なんだよね、海上封鎖なんて当時の武田水軍には不可能だし、それを家康が恐れるとか荒唐無稽すぎる。史実から見える家康は多くの小説映画ドラマのような理知的な人物じゃなくて狂犬のような戦闘狂、初冬の夕暮れ月あかりの頼りにならない旧暦の22日に大規模野戦を選択するのは家康も信玄も頭がおかしい、結果こそ徳川軍の完敗だが普通に逆もあり得た、というかむしろ武田は引き分けでも負けになるんだから徳川側が有利な合戦だった。
武田水軍が接収した今川水軍は桶狭間の頃まで伊勢湾に進出してるぐらい力が有ったので十分可能だと思いますよ(桶狭間の少し前に三河衆を送って蟹江城落としてます)三方ヶ原当時に信長傘下となってる伊勢の九鬼水軍は長島一向一揆等の対応で伊勢湾から容易に離れられないですし北条とも手を組んでいる武田水軍を止める水軍は当時の遠江三河沿岸には存在しないと思います(だから動画に有るように沿岸部が焼き討ちされてます)とは言え不可能と言う根拠に興味があるので是非教えて下さい
兵力や状況に勝る武田からしたら引き分けが負けみたいになるでしょうが家康側が有利という根拠は何でしょうか?興味があるので是非教えてください開戦が夕暮れ時になったのは後ろから追いかけてる形の家康が負けても逃げやすくなるからという後ろ向きの都合が有ったんじゃないかと考えられるぐらい不利な状況だと思うんですけどね
再投稿になってしまい申し訳ありませんでした。
修正前の動画でグッドボタンを押してくれた130人以上の皆さまと、コメントを頂いた皆さま、
昨日のプレミア公開を見てくれた皆さま本当にスイマセン、そしてありがとうございます。
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ruclips.net/video/QrX2fu9_HlE/видео.html
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いつも素晴らしい動画をありがとうございます
応援ありがとうございます。史料の読み込みはかなりやっているつもりなので褒められてうれしくあります
三方ヶ原の戦いって教科書だと単純な挑発で徳川軍を釣りだしたように思ってしまうのですが、実際にはハンニバル並みの計略で徳川軍を嵌めたんですね。
ありがとうございました。
武田が全軍で南下していたらさすがに家康も出陣しないだろうと
信玄と家康の評価をどちらも上げた解釈になります
@@Yoshifuji-Sengoku
三河一向一揆の顛末を見る限り、若い頃の家康はイケイケで合理的なベンチャー起業家のイメージなので、武田が全軍で南下したら浜松城から出てこなかったと思います。
歴史って、本当に面白いですね。
よしふじさんの読解力、情報収集力す、すごい
本当、武田信玄の指揮なら生き死に賭けて進んで戦いたくなる。謙信、信長、秀吉、元就、政宗、ここまでの将は他にいない。
近年武田が一方的に裏切って侵攻した論から徳川織田の裏切りから侵攻に踏み切った論に変わって来てるよな。
まあ、どっちにしても武田軍の侵攻から三方ヶ原の戦いまでの一連の軍事行動は本当に凄すぎるわ。
徳川織田というか家康のスタンドプレーって感じですね
徳川武田で別れる事になった旧今川家臣団からしたら家康の行動には不満が募る気がしますし
それが後の信康事件の遠因の一つになってるんじゃないかとも思ったりします
@@engawanoneko2435
ここの内容でも触れてるけど、本来東美濃の遠山家は両属関係なのに勝手に武田に断りもなく力づくで国境を織田で固めておいて、武田への裏切りと取られないと思ってる織田信長が馬鹿すぎるわ。
今回の動画では家康も悪いを前面にだしてますが、台本シナリオの構成上そうしてるだけで、よしふじちゃんは別に武田信玄の回し者ではありませんw
遠山領に関してはまだ決着してない感じで、織田信長が動いたのが武田の徳川領侵攻後なのか侵攻前なのか議論がありますね。武田の回し者から見ると進行中の出来事の方がしっくりきますがw
詳細な解説をありがとうございます。私は三方ヶ原古戦場近くに住む地元民で、本多忠真の息子つまり本多忠勝のいとこが開いた寺の檀家だったりします。
「どうする家康」にも描かれていたように、二俣城を落とした武田本隊は浜松城方向に南進した後、いわゆる「信玄街道」を三方原台地に上ると突然北上し、祝田の坂南側一帯に魚鱗の布陣をして徳川軍を待ち伏せていたと、私が読んだどの本にも書かれていました。
しかし25,000もの大軍が往復10km以上もV字形に「無駄な遠回り」をするというのはいかにも不自然で、南下した隊は家康をおびき出すための「一万以下のおとり分隊」だと、私は以前から見ていました。肝心な本隊は「休兵坂」から直接三方ヶ原の戦場に近回りし、悠々と布陣して待ち伏せしていたとしか説明が付かないと思っていました(この動画でおとり分隊は14,000と判明)。お陰様でこの動画により、私が長年推測していた「おとり分隊説」が、実際文献にも記されていたということを知り、本当にすっきりしました。ただし犀ヶ崖資料館にて、私の説は説明員から否定されてしまいましたが(笑)。
さらには「家康が三方ヶ原から浜松城まで敗走したルート、犀ヶ崖の戦いの実態、武田軍が刑部で長期間停滞した理由(信玄の病状悪化? 正月休み?)等にも興味がありますので、またお時間があれば「三方ヶ原の合戦 PART 3」をお願いしたいと思います。
武田信玄なら 浜松城の補給路を断つ戦略を取ったとする方が自然でしょうね。良い動画有難うございます。
めちゃくちゃ詳しくわかりやすい解説ですね!まさに愛知の三河地方住みなので今度そのルートを現代で再現しながら行こうと思います!
うちの動画を見て、現地に旅行に行ってみようと思ってくれたら本望です
完璧な戦略を見事に表した最高の動画かと
三方ヶ原の戦いの惨敗で武田信玄敬意を示し、武田の旧臣を家臣にして戦だけでなく統治方法も武田流を取り入れたことは徳川家康の学習能力の高さを表しており、その卓越した学習能力が徳川家康を天下人にならしめたと思います。たとえ敵であっても良いものは受け入れるという柔軟さが必要であることを痛感しました。
家康が東国の先進法治国家今川・北条・武田氏と接触があって、遺臣取り込んでったのは大きい。三河者の依怙地なイヤラシサが家康、本多正信は薄いんですよね(ほかは茶屋四郎次郎ぐらいかな)。
徳川家が人と資料を残したから、この三家の施政ぶりの評価が上がった、という面もあるでしょうけど。
織田さんとか特に川尻さんとか反面教師でw
ハンニバルに叩かれ鍛えられてその後地中海世界を席巻したローマ軍と同じ匂いを私も感じます。家康の凄さってそういうとこなんだろうなあと。
わかりやすい解説動画は数あれど、詳細な解説という点ではここが断トツではないでしょうか。
情報量が多く、構成が非常にハイレベルでとても勉強になります。
マニアック過ぎて一般ウケが悪いんですよねぇ(涙
数が少ない別動隊で釣ってる間に各ルートの部隊を集結させて待ち構えてるの強すぎる
その別動隊も馬場と小山田なんで強かったりします
最高傑作です!
けっこう頑張って考えて作ったのですが、再生数は伸びなかった(涙
後日談も含めて、いつか3Dでリメイクしたいですね
仏門に入って信玄と名を変えてからの戦いぶりは天才的。野戦、攻城戦、山岳戦、どれをとっても超一流
確かに、天才的だが、勝頼にそれが受け継がれなかった。天才の後を継いだ不運。
謀略や調略、人望などは父に遥かに劣った。無理をして、武田を滅ぼしてしまった。信玄がもう三年長生きしていれば、武田は大名として残ったかもしれない。
意外にも、三方ヶ原で武田勝頼は武功を挙げている。ただ、どうしても力攻めに頼る所があった。
倍以上の軍勢を用いて、戦力も余力を残していたのに包囲できずに徳川勢に戦線離脱をゆるしてしまった
信玄が用兵が優れていたとは思えけど。
ほんとうに解りやすく、いつも楽しみです🎉
メンバーシップも良いですけど、もっとこの動画の素晴らしさを広げられるように歴史好きのメンバーにも共有します😂
マニアックなので一般ウケは厳しい感じです
この通りだとすると、武田軍は歴史上なかなか無いレベルの分進合撃を成功させてますね
特に山県隊はかなり前から本隊とは別行動なんで、12月22日に三方ヶ原にいること自体がすでに奇跡的なようにも思えます
戦い本番は徳川軍を窪地に誘ってからの片翼延伸による半包囲と、徳川軍が壊滅的な被害を出すのもむべなるかなという感想です
次回も期待しております
山県はほぼ間違いなく二俣城には来ていたので、信玄と打ち合わせの上で井平にいた山家三方衆を迎えに行った感じですね
プレミアム公開いつもタイミング合わないけど応援してます、これからも応援します! 今回も参考文献をたくさんありがとうございます!
タイミング合わなくてすいません、今度投降時間のアンケートでもやってみます
もっとマニアックな参考文献も限定公開でやっていこうかなと思ってます
@@Yoshifuji-Sengoku とんでもない、自分の時間が合わないだけなんでよしふじさんのいいと思うタイミングでやってください! スパチャで応援できない分他の形で応援できるのは嬉しいです。今日も徳川家康と武田信玄、読んでました。参考文献が毎回本当に面白いし合わせて動画読むと地理的な理解も深まって楽しいです!
地図で説明して頂けると武田軍の戦略がとてもわかりやすいです。
浜名湖の出入り口を水軍で抑えていたのなら、信玄は最初から浜松城を攻めるつもりはなかったのかもしれませんね。
天竜川の東側は既に抑えていて、三方ヶ原を抑えることで浜松城への連絡・補給を絶ち、家康が浜松城を出て追ってくれば迎え撃ち、籠城するならほっといて西進。
家康は気賀あたりに城か砦の要所を築いておきたかったところだけど、朝倉・浅井との戦いに駆り出されて作る余裕がなかったのだろうか。
三方ヶ原の戦い(徳川軍撤退編)も見てみたいなぁ…(独り言)
本坂峠あたりに織田の援軍が居たようです
気賀のあたりは遠州侵攻の時に徳川軍がやり過ぎちゃったので住民感情がw
撤退戦から野田城の戦いは再生数が見込めないので限定動画の予定です
三方原の地元民でございます
図解を用いながら大変わかりやすい解説、考察ありがとうございます
一言坂は仕事で何度も通り、二俣城址も見学しました
気賀は母の在所です
もちろん三方原合戦の逸話、御伽噺も子供の頃から何度も聴いておりました
改めて自分が今生きている街の成り立ちに思いを馳せました
小豆餅辺りで14,000の武田軍の様子を伺っていたとすると、本当に目と鼻の先だったのでしょう
よくも戦いを挑んだものだと思います(想像しても恐ろしい)
他の動画も拝見させていただきます
地元の方が見て問題なければ地図としては成功かなと思います。応援ありがとうございます
やりなおし乙、せっかくだから書き直すか。
岩村城と信州が間に苗木を挟んで攻略不能と思ってたので、岩村から下ったってのが長年の疑問に合点がいった。
岩村城おととし観光したんだけど、妙に城下町から遠くて深い山の中だから、もともと極端に独立心強いのだろうなあ。
再投稿になってしまい本当に申し訳ないです
武田の岩村城への経路は根羽から中馬脇街道だと思われます
上村合戦の経路になるかと思われますが
徳川・武田の開戦時期が見直されたので上村合戦の時期も要再検討ですね
素晴らしい動画をありがとうございます!
この後の武田信玄の死期を早めたとも言われる、野田城の合戦についても、是非お願いしたいです。
あまりこの動画が再生されなかったので続きはお蔵入りです(涙)メンバーから要望があったら考えますがちょっと先のことになりそうです
佐ぁ久ぅ間ぁぁぁぁぁ!!って感じだなぁ(後の折檻状にもこの戦いのこと書かれてるし
佐久間隊・・・ほぼ無事
平手隊・・・討死
ま、まあ決戦する方が悪いと佐久間さんは主張するかもw
それを言いそうなのも佐久間クオリティ
(朝倉の時もやらかして開き直ったしなぁ、後の折檻状にも(略
退き佐久間を援軍に送る方が悪いと思うのです。艦隊保全主義にしか見えない栗田中将に大和持たせるのが悪いのと同類の話かとw
よしふじさん、お疲れです。歴史が好きだけど、深く調べたことがない自分にとっては、よしふじさんの動画を観てると学生時代に学んだ歴史の教科書がいかに信頼性のないものだと認識されるw ありがとう😜
教科書にまで新しい学説が反映されるのは時間がかかりますからねぇ・・・変なものは何故か反映されるのが早いけどw
本坂峠(ほんざか)です、毎回詳しい解説ありがとうございます
両方の表記があって、経験上その場合は読みにくい方が正しいことが多いので「ほんさか」にしましたが、地元じゃ違ったかー
おんな城主直虎、どうする家康を見てますし、井伊谷、浜松城とかコツコツ城廻行ってますが、
まだ全然先生の話についていけてない。
自分は、まだまだです😢
コメント欄の猛者もすごいですね。
歴史って本当に深いです。
勉強になります😊
動画作成お疲れ様です。ありがとうございました。
うちの動画を見てこの城にも行ってみようとか思ってくれるとありがたいです、歴史は一生の趣味になりますので自分もコツコツやって行こうと思ってます
@@Yoshifuji-Sengoku ですですぅ~ ここは一度行ったのに 知らなかったお城沢山出てきています💦 また、時間が出来たらこちらで学んだことを思い出しながら、 めぐってみたいです!
詳しすぎて、もう数回見ています。それでも頭に入らない。
よしふじ先生、本当に毎回詳しくありがとうです!神~ 動画作成、無理しないでくださいですけど、毎回期待しています
楽しみすぎる
修正に失敗して再投稿になってしまい申し訳ないです
詳しくて、面白いですね
喜んで頂けて嬉しくあります
当日、見るの忘れてた
脱糞ものの失態や
相変わらず、頭おかしいくらい詳しいっす
スゴいっす
後日でも見てくれて応援コメントくれてありがたいです
コッペパン中割ったらあんぱーん♪ 勘助良かったな~♡ 堀江城は遊園地パルパルだし、青崩峠は難所中の難所だし、車と人馬(今昔)の違いで交通の要衝がこんなにも変わるのは感慨深いですね。信玄発病が、月夜の笛の音による誘いの毒矢(忍者)だと 歴史ロマン溢れるのですが・・・次の動画も楽しみにしております。
次は長篠になると思われます。撤退戦と野田城だと再生数とれないのでやっても限定動画ですね
家康を引きずり出すために何重にも準備している信玄に脱帽
外交はアレですが戦略戦術はかなりのものと評価いたしました
動画のQualityが高すぎるね…
最初の甲斐信濃の地図見たら
武田信玄の真の力がわかる
この時期の平野は水浸しなんでまだマシなほうではありますが山多すぎですよねぇ
今回も面白かった。ほとんど実際行った事がある所だからテンション上がる。
ところでよしふじさんはTwitterなんかはやらないんですかね?You TubeのAI任せでは限界があると思うし他のプラットフォームでも宣伝拡散すると良いと思いますよ。何人かの有志が拡散しようとはしてくれているけど、本人の方が拡散力があるし、動画を作るよりも労力が少なくて済むと思います。
差し出がましいけど、良いチャンネルには伸びて欲しいのよ。
ツイッターするよりもコミュニティ投稿をやろうと思ってツイッターは休止した感じです
詳細な三方ヶ原の戦い、ありがとうございます。これを大河で見たかった! 無理なのは分かってるけどw
地元民の感覚からしても都田は動画内の解釈でよいと思います。台地の上は真っ平らですが、新都田のあたりは台地の上からは一段下なので(都田川沿いよりは大分上)。テクノロードのローソンあたりから緩やかな下り坂です。
「ほんざかとうげ」の指摘がされてましたけど、峠は「ほんざか」以外は聞いたことがありませんが、通りは「ほんさか」でいいんじゃないかと思います。どのみち、地元民は姫街道としか言いませんがw
姫街道が使えれば楽なんですが明らかに江戸期からなんで本坂道を使ってたりします
何でも、最近では武田の西上作戦に対する織田家の援軍は三千ではなく、もっと多かったという新説が出てきましたよね。
特に歴史学者の磯田道史先生は織田からの援軍「2万」だと主張してます。
織田の援軍がそんなに多かったとなるとかなり様相が変わるのではないですか?
織田の援軍の「本隊」は本坂と白須賀に居たのではないかと考えております。三方ヶ原の動画が伸びなかったのでお蔵入しちゃった完結編で言及する予定でした
面白い!
映画化すべき!!
やっぱり看板娘は大事だよね。
よしふじちゃんのファンになってくれて感謝です
歴史が少しでも変わっていれば今の日本は全く違う日本になってたとか、時々、考えることがある。
武田が徳川を潰せる最大にして唯一のチャンスだったかな
冒頭の仏坂の戦い、あれかな、大事な観音菩薩像を避難させようと、井伊直虎が山県昌景と交渉したっていう話がありますが、あの仏坂ですかね?
その仏坂ですが、まあ井伊直虎さんはいろいろ見直しが入りそうな感じですねぇ
元々徳川軍だけでは武田を野戦で撃退するのは無理。
信長は本願寺・長島など一向宗相手で手一杯。
籠城すれば負けることはないと、わずかな手勢と兵糧を買う軍資金を送った。
浜松城の海岸線を守れば兵糧の確保はできる、実際にそのような結果になった。
しっかりと一当てして壊滅せずに退けたのがのち繋げた感じですね
21:00 「勝負の是非も知らぬ暗君が」
家康って後の家光に神君と言われて神格化されるけど、(本多忠勝、榊原康政、井伊直政らはともかく)、鳥居兄弟や渡辺守綱のような古強者、酒井忠次や石川数正のような宿老クラスからは、公式の場以外は明らかにタメ口で話しかけられている形跡がありますね。このときも、「ウチの大将馬鹿だから今回負けるぞ」とか言ってそう。
家康は部下にまで〇〇殿と敬称付けて呼んでいたりしたというし他家に比べると部下との距離感少なそうですね
堀江城(宇津山城や三河の田原・吉田城も?)攻撃やその牽制や後詰めの意図なんかも考えられて詳細はわからない。
織田の援兵も浜松まで行かず三河・尾張に備えてあった兵数が想像以上に多かったかもしれない。
いずれにせよ武田と徳川の兵数差は大きく、油断しない武田は鈍重さこそあれ隙が小さい。
二俣城を攻略する時のBGMってわかります?
向井らが徳川に仕えるのはもう少し先のようですが
この頃の家康に従う水軍ってどうなっていたのでしょうか?
戸田さん?
幡豆小笠原とかでしょうが規模は小さいと思われます
間に合わなんだか‥
ああ申し訳ない・・・今度、投稿の曜日とか時間帯のアンケートでもやってみますね。昨日もご支援感謝でありました
自分の領土じゃないのにここまで地理を知って行動を読んで誘引するって天才かよ。
COMIC RAN誌の宮下英樹氏の連載読みつつ、「東照大権現神話」には、関ケ原合戦の描写は瞬殺、それとも通説の昼まで一進一退、のどちらが効果的だったろうか、なんて考えてます。
私としては三成が、七将襲撃事件の折と関ヶ原戦後捕縛されたときに、家康とあるべき政権像を論じあって欲しいんですが、どーかなあ。
昔お正月にやったドラマの松方弘樹家康が、言い募る敗将真田広之三成にただ一言、
「敗者に理はない」
とだけ言うと、三成がなにも言えなくなったシーンも好きです。
家康の、幼い頃からひたすらに生き残ってここまで来た人生を一言で表した、ホント重い演技でした
まだ未読ですが面白そうですよね
自分の知識が古いので最近の研究による新説を知って驚くばかりでした。
岩村城を落としたのが秋山虎繁(信友)でないなら女城主を妻にした逸話は俗説なの?
ネタばれになりますがw秋山とおつやの方の婚姻は1573年の2月下旬ですので、秋山の岩村進駐は野田城の戦いの前後と考えれば矛盾はないものと思われます
あくまで自分の考えですが、2年前の関東侵攻とやってることが似てるなぁと思います
鉢形をスルー、滝山城途中で中止、小田原城包囲のみ、帰り際に北条撃破
とするとこの遠征も上洛目的ではなく尾張三河を荒らしに行っただけ?
そう思えてしまいます
当初は東遠江を獲りにいったんだと理解してます
途中から信長がブチ切れて戦線拡大するしかなくなった感じですかねぇ
これはおもろい視点ですね。たしかに。
知ってる地名がうじゃうじゃ出てきて楽しい。
信玄が二俣街道を南下して小松に陣を張ったのか。
確実に我が家の近所を通ってるわ。
あとどうでもいいけど小松は「こ」にアクセントね。
ゆるキャン△でもこの辺の地名のイントネーションがおかしかったな。
まあ多分ここらの訛りが独特なのが原因なんだろうけど。
ボイロなんでイントネーションには限界がありまして(涙
どうする大河での山県
見附を西進してましたね〜
武田重臣の配役不足なので
むりくりフィクションにしちゃう
一言坂に山県隊を入れちゃった江戸期の編纂物もあったりしますが、山県は居なかったと思います
っぱ信玄なんやなって
あ、皆さんの前コメみての付け足しです。
「強運の家康」
武田方の行程が早く、開戦が半日繰り上がっていたら、闇に紛れて逃げるわけにいかない徳川方の損害はさらに増大、浜松城までいかほどたどり着けたか...
信玄の選択肢としては、西上を取りやめて浜松城を包囲、織田の出方をうかがう、という戦略も浮かぶでしょう。
さすれば、史実通り来春に信玄が逝去しても、家康は遠江全部と北三河を取り落とす羽目に陥ったかと考えます。
しかるに史実では、三方ヶ原合戦は真冬の夕方に生起。
権現様ご運強し。
メンバーシップ期待
昔からのご支援感謝です。新作の限定動画を作成中でそれに合わせてメンバーシップも始めますのでもう少しお待ちください
この説だと秋山虎繁とおつやの方の関係はどうなるんだろうか
ネタばれになりますがw秋山とおつやの方の婚姻は1573年の2月下旬ですので、秋山の岩村進駐は野田城の戦いの前後と考えれば矛盾はないものと思われます
今宵はここまでにいたしとうござりますは、大河の武田信玄のエンディングですね。ウプ主は50くらいと予想!
よしふちゃんはピチピチギャルなので中井貴一・柴田恭兵が最高の大河ドラマなんて見たことないんだからね
@@Yoshifuji-Sengoku 僕も最強大河だと思ってます! 三方ヶ原の中井貴一「山津波のごとく、一気に潰せ!」はシビれますね!
敵に兵力を誤認させる戦術は後の長篠の戦で逆に織田徳川が使ってますね
その辺意識して動画作りました?
うん、ネタばれだwまあ良いんですけど
@@Yoshifuji-Sengoku
やっちゃった
ごめんなさい
1:24 名越 なこえ⤴︎
ボイロなんでアクセントには限界がありまする(涙
武田が戦上手すぎるw 戦場だけでなく、そこに至る進軍まで巧妙で狡猾 やべーな、さすが信濃攻略からほぼ休みなく戦い続けた連中だ
部隊を小分けにして進軍させたのは当然で、ロシアがウクライナ侵攻初期で道路で大渋滞をおこしているのを見れば理解できる
ただ合流地点と時間が的確すぎてホントやべーわ
武田信玄を課題評価し過ぎな感じはありますが今回の動画のラスボスなんで贔屓しまくりですw
@@Yoshifuji-Sengoku ぶっちゃけ武田信玄の軍事行動は自国内の情勢、経済が行き詰って矛先を自国外へ向ける為に仕掛けているのが大半だから実は行き当たりばったりというのが正しい認識だったりするw 殆どの歩兵が山岳出身なので補給の現地調達も山岳の迂回も平野部の連中よりはるかに巧い。中華の歴史でいう北方の騎馬民族みたいなもので、特殊な条件において桁違いに強かったりする。少々上品な山賊という認識でいい。
鳥居忠広は元忠の弟では?
人質生活のなかった家康→信康、忠輝、忠直、忠長。なんて考える昨今。
結城秀康は人質で、秀忠もほんのちょっと秀吉の元へ行ってます。大名の子供が他所の飯を食べるのは、人間形成の点で大事なことなのかな?
なるほど。浜名湖の制海権を奪って兵站を断つ作戦もあったのね。ってか、むしろコッチが主だね多分。
城攻めって費用も時間も掛かるし。武田からすれば弱点は最初から分かってるから、三河、岐阜からの補給線と援軍を断とうと。
普通は浜松城で籠城するのが一般的な戦術だけどそれも無理。いずれにせよ徳川軍は既に負けていたのね。
で、更に囮に完全に釣られクマー‼️になっちまった訳か。こりゃ勝てんわな。
やっぱ佐久間信盛って使えんよなぁ
小山田投石隊は、またしても参謀本部発のデマだったんかーw😂
投石は身分の低い者らと書いてあって、直後に小山田隊が弓撃ってるので混ざったのかと
美少女がかわいい
チャンネルのイメージキャラで「よしふじちゃん」になります
歴史を論ずるなら その時の人々の考え、常識が如何に現代と違っていたかをもっと明示すべき。他のユーチューバーも だよね?
新たな歴史ユーチューバーの飯の種は 歴史上その時代の人々の考えが如何に現代とかけ離れていたかを 現代人に面白おかしく解説する。
如何が?
最新の説を取り入れて分かり易い解説なんだけど、元の最新の説が粗の多い出鱈目な説なんだよね、海上封鎖なんて当時の武田水軍には不可能だし、それを家康が恐れるとか荒唐無稽すぎる。史実から見える家康は多くの小説映画ドラマのような理知的な人物じゃなくて狂犬のような戦闘狂、初冬の夕暮れ月あかりの頼りにならない旧暦の22日に大規模野戦を選択するのは家康も信玄も頭がおかしい、結果こそ徳川軍の完敗だが普通に逆もあり得た、というかむしろ武田は引き分けでも負けになるんだから徳川側が有利な合戦だった。
武田水軍が接収した今川水軍は桶狭間の頃まで伊勢湾に進出してるぐらい力が有ったので十分可能だと思いますよ
(桶狭間の少し前に三河衆を送って蟹江城落としてます)
三方ヶ原当時に信長傘下となってる伊勢の九鬼水軍は長島一向一揆等の対応で伊勢湾から容易に離れられないですし
北条とも手を組んでいる武田水軍を止める水軍は当時の遠江三河沿岸には存在しないと思います
(だから動画に有るように沿岸部が焼き討ちされてます)
とは言え不可能と言う根拠に興味があるので是非教えて下さい
兵力や状況に勝る武田からしたら引き分けが負けみたいになるでしょうが
家康側が有利という根拠は何でしょうか?興味があるので是非教えてください
開戦が夕暮れ時になったのは
後ろから追いかけてる形の家康が負けても逃げやすくなるからという後ろ向きの都合が有ったんじゃないか
と考えられるぐらい不利な状況だと思うんですけどね