【越智松平家】松平武元 家系徹底解説〜あなたはどこの松平家?松平家が多過ぎる江戸時代
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- Опубликовано: 8 фев 2025
- #べらぼう #松平武元 #松平氏
今回は「べらぼう」で老中首座として登場している
松平武元(たけちか)は一体どこの松平家か徹底解説します!
とにかく松平家は多く、
江戸時代には更に多くの松平家が確立されます!
そして幕末には長州藩との戦いに子孫たちが巻き込まれていきます!
多くの家系の流れを紹介しておりますので、
ご覧いただけますと幸いです。
今回登場する徳川家・松平家
越智松平家
甲府徳川家
石岡松平家
長倉松平家
水戸徳川家
高須松平家
尾張徳川家
高松松平家
⚫︎画像引用
「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」公式HPより引用
Googleマップより引用
⚫︎参考文献
徳川・松平一族の事典 工藤寛正様著
お殿様たちの出世 江戸幕府老中への道 山本博文様著
江戸幕府事典 竹内誠様著
島根県の歴史
江戸大名事典 川口素生様著
※紹介した年号に誤りがございました。
6:06 ×1864年 → ⚪︎1764年
6:22 ×1869年 → ⚪︎1769年
大変失礼いたしました。
歴史大好き人間です。
古きを知って新しきを知る。先人の生き方を多少なりとも知る事で、それが我が心の糧にもなり得ると信じます。
@鈴木幸男-u1u コメントいただきありがとうございます。
私も同じ気持ちです。
ありがとうございました。
素晴らしい解説です。丹念な調査の賜物ですね。有り難うございます。
コメントいただきありがとうございます。
嬉しいお言葉です、励みになります。
こちらこそありがとうございました。
わかりやすい解説ありがとうございます!
定信が継ぐ白河藩の久松松平家の周辺も、解説しがいがありそうです!
コメントいただきありがとうございます。
そうですね!久松系松平家との流れも企画したいと思います!
知りたかったところが説明されていて良く理解できました。
ありがとうございます✨
コメントいただきありがとうございます。
嬉しいお言葉です!
ありがとうございます✨
歴史苦手な人からみれば、マツダイラ…マツダイラ…と悪夢に出てくるでしょうね
「べらぼう」を見ている江戸時代大好き人間である自分からすれば、生年や兄弟の家系図が表記され当時の状況なども解説していただき、とても興味深く見られました。
コメントいただきありがとうございます。
私も小学生の頃はみんな家康の血縁者と思ってました。
嬉しいお言葉です。
ありがとうございます。
いつも、楽しい動画ありがとうございました。
コメントいただきありがとうございます!
嬉しいお言葉です✨
頑張ります✨
大変わかりやすく、面白い解説でした。
ありがとうございます♪
コメントいただきありがとうございます。
嬉しいです!
ありがとうございました✨
3:10 棚倉藩立花宗茂や丹羽長重も一時入っていた藩ですね。
コメントいただきありがとうございます。
棚倉藩はとにかく出入りが多い藩ですね。
@@kotsubach
棚倉藩は江戸時代初期はともかく(立花宗茂や丹羽長重の時代)、なんらかの咎があった譜代大名家の懲罰的移封先になってましたから、入れ替わりが激しくなっていると言われています(確か歌にまで読まれて忌避されています。但し武元は違うと思います)。なぜそうなってしまったのかは残念ながらわからないですが。東北の内陸でかなり寒いし、表高より実高が低かったからでしょうか?
ちなみに、逆のパターンは浜松藩で、出世コースに乗った大名家の移封先として有名でした。代表例としては、天保の改革で有名な水野忠邦。最初は唐津藩7万石で実高は倍以上の裕福な藩の藩主でしたが、この藩は長崎警護の役目が定期的に回ってくるとかで幕政関与は無理な藩でした。しかし何故か幕政に関わりたいと激しく思っていた彼は各方面に賄賂を送り、表高は同じ7万石ですが実高も同じで、実質的には身入りが半分になってしまった浜松藩に転封することに成功します(家臣は当然大反対だったみたいですが。そこまでやるか?ですよね…)。それから徐々に出世し遂に老中首座まで出世します。ここはやはり東照大権現さまゆかりのお城だったからでしょうね。
松平家ってたくさんあったんですね!周りの大名や旗本は、そういうのを理解してお付き合いしていたのでしょうから、凄いと思いました。それにしてもあの眉毛は、誰の遺伝子なのかぁ。たぶん母方ですよね
コメントいただきありがとうございます。
この家は右近将監家なので、そこは覚えたれても顔と一致させるのは中々ですね、、、
旗本と大名を間違えたら大変な無礼ですし、、
松平家の中には、松平姓を贈られた外様大名の分家が、松平姓を使用して旗本になった家もあるそうです。
@長野業正-j9l コメントいただきありがとうございます。そういった松平家も調べてみたいです!
ありがとうございます。
玉石混交です
松平武元は徳川家宣の弟に当たる松平清武の義孫に当たる。
因みに清武は世が世なら甥に当たる家継の後を受けて8代将軍になれたが、高齢である事や、清武自身にその様な野心が無かった事から、結局吉宗が8代将軍になった。
コメントいただきありがとうございます。
この甲府宰相綱重公の血筋で続いていく時どうなっていたかと想像してしまいます。
と言うことは、松平武元は寺社奉行に就任したが奏者番を兼任していなかった大岡忠相に、江戸城内の詰所の件で「奏者番は大名役。大名でないものは入室罷りならん」と嫌がらせをした一人なんだな。
コメントいただきありがとうございます。
確かに寺社奉行の期間が被ってますね、、、
寺社奉行では無かったので寺社奉行詰間に入れて貰えませんでした。
高松松平家は徳川光圀の同母兄である松平頼重を藩祖とし、彦根井伊家、会津松平家と共に代々の黒書院溜之間に座す名家なのですがどうにも影が薄いですねw
水戸藩、彦根藩と縁戚関係を結んでいたおかげで桜田門外の変後は両家の板挟みになってたとか面白そうな立場ではあるんですが…
コメントいただきありがとうございます。
有数の家格を有しながら、ですね。
1度この家系も企画したいです!
高松松平頼重の2男は水戸綱条、そして3男は頼候。頼候は大名でもなく高松藩内にずっといたかと思うのですが、息子が高松藩を継ぎ、孫が水戸家を継ぎ、そしてその男系子孫は宗家、水戸家、清水家、一橋家、慶喜家、宗家分家、慶喜家分家、松戸家の徳川家の当主となりました。松平ではに越前、会津、高須、浜田。一時は尾張家当主も。頼候本人もびっくりだろうな。
コメントいただきありがとうございます。
そうですね、まさか子孫がそうなっていくとはってやつですね!
十八松平の他に松平郷松平家もありますし、松平郷松平家も分家があります。
越智松平は、双子の一人が捨てられてそれを拾って育てたので、松平使用を許された。
東条、大草の両松平家は、廃絶かな?戸田、大河内も松平
コメントいただきありがとうございます。
江戸時代の十八松平の動きなども動画を企画したいと思います!
松平家多すぎて1回で理解できません😢前の会社で松平さんがいました😮どこの松平家かわかりませんけど、、😂
コメントいただきありがとうございます。
お近くにいらっしゃったんですね✨
本当に大きい家系です✨
館林候松平右近衛将監武元、藤沢周平の小説「闇の傀儡師」でわりと重要な役所で登場する。藤沢周平自身はエッセーで「こりごりした」と書いているが、おもしろい小説なので時代劇好きにはお奨めの一冊ですね。
コメントいただきありがとうございます。
貴重なお話ありがとうございます。
読んでみます✨
家康以前から松平多すぎて何処の松平って感じなのよねw
「越智松平家」です。
コメントいただきありがとうございます。
より多く企画して松平家をできるだけ解説していきたいです!
信康さん死ななかったら息子が生まれて直系は安泰二代目江戸将軍秀忠さんはその将軍家子孫の呼び扱いなんだろうね
元々家康の元祖は三河安祥松平家が始まりだと記憶しています。
その頃から家臣として仕えていたのが、本多、酒井、大久保、土井などで、後に徳川の譜代大名になるお歴々です。
家康が江戸に幕府を開いた後、跡継ぎの無かった藩に自分の養子を跡継ぎとして跡目をを継がせ、性を松平と名乗らせたようです。
このような形や方法で藩を取り潰すのではなく、自らの一族で幕府を周りから固めたのではないでしょうか。
結局、松平家は最終的には18松平家が、普通に知られているところではないですか。
なので普通に考えると松平18家は、徳川家にとっては親藩に該当すると思います。
元を辿ると、松平家の祖先は室町幕府の二代将軍の頃から出て来たようです。
分かりずらくてすいません。🙇♀️
コメントいただきありがとうございます。
とんでもないです、ありがたいです。
以前18松平の簡易的な動画は出したのですが江戸時代までは引っ張って来なかったのでそこも是非企画したいと思います!
6:00 世代的に見ると叔父さんなのに「じい」
コメントいただきありがとうございます。
その要素がやはりあったのかもしれないですね。
棚倉藩は江戸初期には出世の登竜門的な位置づけでしたが、この時期には懲罰的転封の場所にまで落ちていますね。元禄期後半から寒冷期に入り奥州の実質石高が減少したのも大きそうです
この動画の越智松平家が浜田藩に転封になって居ますがそれまでいたのが松井松平家。当主康任は老中首座になって居ましたが水野忠邦と権力争いをします。その中で幕府密偵として名高い間宮林蔵が浜田藩の密貿易を探知。大坂奉行の矢部定謙と協力して浜田藩の揺るがぬ証拠を掴みます。更に仙石騒動で賄賂を受け取って居た事も発覚。康任は老中辞任の上当主も退き棚倉藩へ懲罰転封となりました
ただ幕末にまたも老中を輩出し加増の上、奥州白河藩に転封されることに。ところが白河藩の転封準備が整わず一時的に川越藩に移封へと変更。川越藩も越前(結城)松平家が居を構えて居ましたが、前年に復旧出来た前橋城に戻ることが出来川越城が空城となったので入る事が出来ました。川越転封がなければ二年後の戊辰戦争で危うく奥羽列藩同盟に強制加入されることになり激しい戦闘と戦後の懲罰減封を受けるところでした。妙なところで運のいい家です
市村正親さんのファミリー・ヒストリーでも、松井松平家(市村さんの家はそこの家臣)のことは触れられていた。棚倉でかなりの家臣が亡くなったそうだ。(浜田からの移動による疲れと棚倉での生活が苛酷だったので)
出羽上ノ山藩もそうだ。
コメントいただきありがとうございます。
松井松平家は近々出させていただきます。個人的には松井忠次公がお気に入りの徳川家臣です。
矢部定謙というと若様侍で中村梅之助がやっていた矢部駿河守ですね。そうですか史実はそのような働きをしていたのですか。
松平武元のご先祖様は水戸藩祖徳川頼房、養父の松平武雅のご先祖様は尾張藩祖徳川義直、そして主君は紀州藩祖徳川頼宣と御三家コンプリート!!
コメントいただきありがとうございます。
越智松平家はコンプリートですね!
他にも探っていきます!
徳川将軍家に仕えた譜代の家臣である大名家や旗本家等の子孫の親睦会である『柳営会』の会員に松平姓の方は、3年くらい前は3人おられましたが、現在はお1人のみです。旗本の末裔です。松平姓の大名家・旗本家は結構多いのに残念な現状です。
コメントいただきありがとうございます。
そうなのですね、家が残るということの難しさを感じます。
平安時代の藤原と一緒か…
元々三河からの松平からさらに松平を名乗ってもいい外様大名もいるからさらに…
コメントいただきありがとうございます。
家康公の血筋を引く松平、引かない松平、さらにと考えると大量です、、、
棚倉藩って聞いてあっ…(察し)と思ったわ。完全に懲罰人事で送られる場所やん。でもそこから老中まで返り咲いてるんだから相当な苦労人ね
棚倉藩と聞いて、懲罰人事てピンと来る人が居て嬉しいですね。何ヤラカシタのやら。
コメントいただきありがとうございます。
太田資晴が若年寄就任に伴い、棚倉から館林に入っているので、幼い武元を置いておく地が無かったのかもしれないですね、、
家康男系で御三家は現在でもギリギリ保持している。
ただ維新後の徳川九家のうち、次世代まで男系で繋げるのは四家しかない。
尾張徳川家は確か堀田氏より養子をとったのではなかったでしょうか?血筋としては鍋島氏のはず。
@公三木元 ごめんなさい。「男系子孫が残っている」と言いたかったんですが、
ご指摘で文が拙く伝わらないことに今気づきました。
ありがとうございます。
因みに徳川慶勝は尾張徳川家の分家の高須松平家の出。
宗家家広さんは子供がいないが、男系のいとこ付近と思われる方が次らしい。
田安家は宗英さん息子さんがいるのだろうか?いなくても4人兄弟なので繋いでそう。
一橋家清水家は明治になって水戸の弟が継いだはず
尾張家は男系ではないが吉通公の直系子孫⇒三千⇒二条家⇒鍋島⇒堀田⇒尾張
紀伊家は現当主(女性)の母上が男系の最後の方
慶喜家は慶朝さんの息子さんは継いでいない
宗家分家、慶喜家分家、尾張家分家は良くわからない
松戸家は昭武さんは娘のみだった。
8代将軍吉宗の終わりでは 新進気鋭の若手の幕閣という扱いだったのに
今作の大河では老害 扱いされちゃってるのは悲しい
コメントいただきありがとうございます。
香川さんの時ですね。
年号が100年先になってる箇所がありました。
見つけてくださりありがとうございます。
後ほど訂正入れておきます。
ありがとうございました。
越智松平家は養子相続が多かったのでかなり複雑になっていますね。
コメントいただきありがとうございます。
はい、本当に多くの徳川•松平家が関連してます。
9:21 もったいぶりすぎwww
失礼いたしました、。
少しシンプルを心がけます!
我が家の家系は浜田藩の武士で、石見口の戦いで敗れた松平武聡に付き従って飛び地の鶴田(たづた)まで落ち延びたと祖母から口伝で教えられました。大村益次郎にわずか半時で城まで攻められたそうです。小船に乗って2-3日日本海を漂流した後、中国山地を越えて鶴田に命からがら逃げたそうです。途中、鳥取池田藩にお世話になったことは今日始めて知りました。旭川のダム湖の近くにある鶴田城に1年に1回訪れて往時を偲んでおります。
コメントいただきありがとうございます。
今回後半に紹介した部分に、ご先祖が時を過ごされてたのですね。
そういった代々伝わっているお話を直にお伺いできる機会が何よりも貴重です。
コメントくださり、ありがとうございました。
私も足を運んで当時を感じたいと思いました。
松平義行、松平武雅…95年大河『八代将軍吉宗』に出ている((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
現在、NHKオンデマンドで『八代将軍吉宗』が配信されているので、『べらぼう』と合わせて観ると面白いかもですね。(●´ω`●)
6代将軍徳川家宣の側近役の間部詮房を石坂浩二さんが、演じているので興味深い。でも、30年前、時の流れは早いです。
コメントいただきありがとうございます。
まだ「吉宗」見たことがなかったので、見てみたいです✨
はい、気づいたら時が経っていますね。
「八代将軍吉宗」で松平武元を演じたのは香川照之でした😊
吉宗で青年期の武元を香川照之さんが演じました。べらぼうと同時代を舞台とした風光る研では、武元役は丹波哲郎さんでした。
@higashi_ariake さん
そうですね。(●´ω`●)
個人的には、おそらく『べらぼう』後半に若き徳川家斉、もう一人の篤姫こと広大院、広大院の父重爺こと島津重豪の登場に期待します。
『八代将軍吉宗』で出てきた竹姫(森口瑤子さん)の因縁が(●´ω`●)
@nozomu6 コメントいただきありがとうございます。風光る剣!見てみます!
7代将軍徳川家継が亡くなった際、松平清武は既に50歳を超え、8代将軍にふさわしく無いとされたというのが通説だが、その子清方は当時20歳(28歳で無子のまま死亡)であり、年回りもこれ以上なくふさわしい訳で、何故清武だけが将軍候補となり、清方が将軍になれなかったのか不可解です。
『松平清武が越智家の養子になったから』という理由は、新見家の養子となった6代将軍徳川家宣が存在する以上理由にはならず、家宣の同母弟であれば母の身分の低さも理由にはなりません。また、清武の汚点とされている館林騒動も、8代吉宗が将軍就任後の話です。
大した理由もなく、3代家光の直系が外されたにもかかわらず、後の歴史家が重要視していないのも不可解でしかありません。
コメントいただきありがとうございます。
個人的には大奥の動きも関連が大きいと思っており、そこも今後継続で調べて行きたいと思います!
紀州家は恐らく家じまい、尾張家は他家からの養子で入られており御三家で唯一男系で家康の血を引く水戸家ですね。
コメントいただきありがとうございます。
長く繋いでいく難しさですね。
紀州家は吉宗の父方の叔父である、西条松平家・松平頼純の家系に代わりました。頼純の嫡男徳川宗直の系統が現在まで続いています。
水戸家のすごいところは、分家の水戸松平各家も含めて、家祖である徳川頼房の男系子孫で血統を維持したことです。
現代から見ると必要がある様には思えない江戸幕府の家譜編纂事業や典礼関係の役職ですが、専門家がいないと当事者ですら理解出来るものではなく、血筋が正当性につながる時代であることを差し引いても本当に重要なことだったんですね。
コメントいただきありがとうございます。
そうですね、結果的に諸説ある家系図が出来上がってはいますが、もしかしたら諸説も現代で言うとただの事務処理ミスなのかなと思ってしまいます。
水戸の家老家だよね。かなりの名門。尾張にも紀州にもどちらにも属さない点で登用されたのかな。
コメントいただきありがとうございます。
長倉松平家ですね、ここはさらに深掘りして調べたいです。
ありがとうございます。
松平武元が養子に入り、当主を務めた甲府徳川家連枝の越智松平家(越智松平子爵家)の末裔に、松平武龍(まつだいら ぶりゅう)がいます。松平武龍は交楽龍弾(まずら りゅうだん)の名で画家・書家・歌手として活躍しました。武龍(交楽龍弾)はサイケデリックな前衛画家であり、歌手としては 「ボケ・ボケ」 や 「まんずら節」 を発表しています。
また、松平武元の実父・松平頼明が当主を務めた水戸徳川家連枝の石岡松平家(石岡松平子爵家)の末裔には、松平頼則(まつだいら よりつね)・松平頼暁(まつだいら よりあき)がいます。松平頼則・頼暁父子は二代に亘り、日本の現代音楽の作曲家として活躍しました。
コメントいただきありがとうございます。
現代のご子孫は、文化人としても多くの方がご活躍されているのですね。
ご教示くださりありがとうございます。
平安期の藤原姓、江戸期の松平姓、やたらといますよねwww 中臣鎌足一族、徳川家康親戚関係者、その時代の天下人の親戚がやたら、国の中枢にいるって、いつの時代も日本人らしいですよね😅
コメントいただきありがとうございます✨
元を辿れば德川四家に連なる越智松平家。19C始め保科正之の血統が断絶し秀忠系も途絶える。高須松平家の義行は越後家松平光長養子や5代将軍候補の一人。
紀伊家(頼宣)や水戸家(頼房)は同母でその子孫である家斉、家慶(子の殆どが成年未達)、頼房、斉昭は子沢山。
一方、尾張家(義直)の子孫も系図を見る限り子沢山が多いが早世が多く、秀忠男系血統が途絶えたのと同じ頃、紀伊家(一橋家)に乗っ取られている形。
より古い時代の平清盛や源義朝の兄弟や子等は系図上は皆成年に達していて、早世した人物は系図記載がないのでしょうか?藤原一族にも同じことが言えますが。
コメントいただきありがとうございます。
結果は知ってても秀忠、家光の将軍家の血筋がより長く続いて欲しいという目線で家系図を見てしまいます。
高須松平家のポジションも別動画で出したいです。
0:50 本来なら将軍家でもおかしくなかった越智系でしょ?
養子でアウトだっただけで。
コメントいただきありがとうございます。
徳川綱重が長く生きていた世界線を想像してしまいます。
そうそう、越智松平家。
兄が将軍なのに越智松平家家祖の清武はたった5万石どまり(館林は要地とはいえ)。家光弟保科正之の会津松平家23万石、家綱弟の徳川綱重や綱吉の25万石などなどとはえらい違い。お兄ちゃんに好かれてなかったのかなあ?などと思ってしまう。あ、お兄ちゃんの将軍家宣も実は父の綱重がいったん家臣の新見さんに養子にあげてるから出戻りですけどね。なにがなんだかわからないです😅
ただ、石高が低いせいか、通常は親藩大名家は幕政には関われないのにこの家は何名も老中を排出しています(保科正之や、幕末の松平春嶽、松平容保、松平定敬などは例外)。
余談: 私は岡山県の津山市にある高校の出身ですが、その時にこの越智松平家の家臣の子孫が友人にいました(越智松平家が幕末浜田藩時代に長州に攻撃された時、津山市近くの久米郡にあった田鶴という飛地領に家臣共々避難したため)。だからか越智松平家には何となく親近感があります。
@@hirohiro1770 家宣の治世はわずか3年ですからね。彼の治世がもっと長く続けば違ったかもしれませんね。
この家は雁の間詰めの譜代大名という扱いですね。官位も初官五位で従四位下侍従止まり。これは榊原や酒井等の上層譜代、松山の松平家と同じですね。6万1000石で15万石の大名と同じ官位なので優遇されているという見方もできます。
4代家綱の晩年にはかなり幕府財政が苦しくなり、更に大名のお取潰しも減って来たので新規に割ける直轄地が無くなってきたのが大きいかと。綱吉の館林藩も家宣の甲府藩も幕府がその領地を収公するほど幕府財政が逼迫して居ました
ただ、今度は両藩の藩士を総て幕臣としたことで今度は幕臣増加による役職不足が発生します。以前は有能な旗本の次男坊以下を新規旗本として取り立てて居ましたが、それどころではなくなります
吉宗が紀州藩から将軍職を継ぐときに紀州藩の存続と紀州藩士の連れ出しを制限されたのもそういう経緯があっての事でした
@hirohiro1770 コメントいただきありがとうございます。
今回越智松平家の幕末までの流れを紹介させていただきましたが、岸静江の話などは是非現地に足を運んで幕末浜田藩を巡ってみたくなりました。
5代将軍から8代将軍までの間、大奥などもかなり関係しているので、謎は深まる時代ですね、、、
マツケンサンバ系
コメントいただきありがとうございます。
松平と言っても外様系の松平家もあるから余計分かりにくい。
コメントいただきありがとうございます。
そうですね、、できるだけ多くの松平家に触れたいです!
伊達政宗は長女の五郎八姫が徳川家康の6男の松平忠輝に嫁いだ事から、松平姓を名乗る事を許されている。
江戸時代は徳川と松平だらけで養子も多くて家系図とか複雑で平和で戦もないから歴史好きとしてはクソつまらないのに複雑な時代なんですよね
何もないから結局大奥や幕府の権力闘争くらいしかドラマとしてやることがない
コメントいただきありがとうございます。
そうですね、1つの家系図で諸家が繋がってしまうくらい養子縁組が多いですね。
あなたの松平はどこから?
世が世なら八代将軍の家柄。徳川家光の三男綱重、彼の次男松平清武。六代将軍の弟が藩祖。
コメントいただきありがとうございます。
甲府宰相綱重公が兄弟で1番長命であれば、その後の一橋家も無かったかもしれないですね。