幻想の富雄丸山古墳〈発掘再開!〉【古墳の界隈008】

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  • Опубликовано: 26 янв 2025

Комментарии • 79

  • @kojikasan6505
    @kojikasan6505 10 месяцев назад +3

    旅費も浮きましたので せめてうどん代だけでも支払わせてください ありがとうございました。

    • @J-history
      @J-history  10 месяцев назад +1

      kojikasanいつもありがとうございます!
      そういえばうどん、けっこうな値段していました(笑)。
      本当にうれしいですが、無理はなさらないでくださいね。
      今後ともよろしくお願いします。

    • @kojikasan6505
      @kojikasan6505 10 месяцев назад +2

      @@J-history さま。伊藤先生、ほんの気持ちですのでどうかお気になさらないでくださいお願いします。

    • @J-history
      @J-history  10 месяцев назад +1

      @@kojikasan6505 ありがとうございます!

  • @Mocha0630cha
    @Mocha0630cha 10 месяцев назад +3

    武内宿禰の子孫という人が、武内宿禰は歌舞伎役者の様に、名前を世襲するもの、役職だそうですよ。

    • @J-history
      @J-history  10 месяцев назад +2

      コメントありがとうございます。
      そのような説があることは承知しております。
      おそらく、『日本書紀』の記事をそのまま読めば、武内宿禰の寿命が300歳ほどになるので、それを合理的に説明するために生まれた説だと思われます。
      ですが、『日本書紀』が紀年延長されていることは明らかで、それを復元すると、(たとえばこのチャンネルの方法などで復元すると)武内宿禰をひとりの人間として見ることができるようになります。
      引き続きよろしくお願いします。

    • @Mocha0630cha
      @Mocha0630cha 10 месяцев назад +2

      @@J-history ご返信ありがとうございました😊知識豊富なチャンネルですのでご存知だろうなとは思いつつご参考までにコメントしてしまいました。オオナムチやスクナビコナ、天照大神なども職業名だったという説があり納得していました。1人と捉える説も面白いですね。他動画も拝見します。

    • @J-history
      @J-history  10 месяцев назад +1

      @@Mocha0630cha ご返信ありがとうございます。
      このチャンネルは基本的に、「無事績年削除短縮法」という独自の方法で復元した紀年をもとにいろいろと仮説を立てています。
      引き続きよろしくお願いします。

  • @地球平和-t2g
    @地球平和-t2g 10 месяцев назад +1

    錆び方、地層、勝者日本政府の先祖の作り話に合わせて埋めた感が。

    • @J-history
      @J-history  10 месяцев назад

      コメントありがとうございます。
      後世に埋めたという説でしょうか?
      ただ、造出しの埋葬施設は墳丘の2段目より先に出来ていたという見解もあります。いろいろな埋め方はあると思いますが。
      引き続きよろしくお願いします。

    • @地球平和-t2g
      @地球平和-t2g 9 месяцев назад

      @@J-history
      丸山古墳の今回の剣と鏡 の錆び方が違う、
      何故か鏡が綺麗すぎていました。発掘されたニュースで、勿論サビを取る前、なのに鏡の割れた部分が異常に
      最近割った感じに見えましたので。
      年代は特に改ざんしてると思います。徳川江戸時代も。

    • @J-history
      @J-history  9 месяцев назад +1

      @@地球平和-t2g ご返信ありがとうございます。
      蛇行剣は鉄剣ですが、盾形銅鏡は青銅製ですから、鉄のようには錆びないと思います。引き続きよろしくお願いします。

  • @古屋公夫-s9s
    @古屋公夫-s9s 3 месяца назад +1

    富雄丸山古墳の被葬者は武内宿禰ではありません。
     武内宿禰は紀元266年に生まれ371年に106歳で崩御され馬見狐井城山古墳に葬られました。

    • @J-history
      @J-history  3 месяца назад

      コメントありがとうございました。
      狐井城山古墳は築造年代が5世紀末から6世紀初頭ごろと推定されていますから、年代が合わないと思います。

  • @takedaharuki
    @takedaharuki Год назад +3

    詳しい解説ありがとうございます。わくわく感がさらに高まりました。これだけ大きいのに、なぜか形は円墳。不思議です。武内宿禰。時代的にはありの気がします。私自身は被葬者を全く予想できずです。

    • @J-history
      @J-history  Год назад +3

      武田さん、コメントありがとうございます。
      わたしも特に立証できるわけではなく、「時代的にはありの気がする」という程度の妄想でした。
      なかなか専門家の先生方から個人名が出てこないので、「面白くない」ですね。
      特定するといろいろと問題があるのだろうとは思いますが。

    • @takedaharuki
      @takedaharuki Год назад +2

      @@J-history 時代は前期と中期の狭間くらい。巨大だけど円墳。場所は生駒近く。かなり予想が難解な代物です。全くの直感ですが、日本武尊の頃の将軍の一人のような気もします。

    • @J-history
      @J-history  Год назад +1

      @@takedaharuki ご返信ありがとうございます。
      日本武尊ですか。武内宿禰と双璧をなす古代のヒーローですね。
      武田さんはいつ頃の人物とお考えでしょうか?
      わたしは日本武尊を318年~357年の人物と考えているので、ちょっと時代が早いような気がしています。
      武内宿禰が饒速日命・可美真手命につながる物部氏系であればですが、このあたりに墓があってもよいかなあと思っています。

    • @takedaharuki
      @takedaharuki Год назад +1

      @@J-history 実は違うロジックではありますが、伊藤さんと同じく私も復元年表を持ってます。日本武尊は304~346年の人物と考えています。私の方が富雄丸山古墳を少し前期寄りに考えている感じになりますね。実は場所が場所だけに、私も物部系については頭を過っています。

    • @J-history
      @J-history  Год назад +1

      @@takedaharuki
      そうですよね。成否はともかく古代の一貫した復元年表がなければ、自説を語ることはむずかしいですよね。
      すると紀年復元は喫緊の課題だと思われるのですが、今の古代史学界では紀年論は放置された状態に見えます。とても残念に思います。

  • @あむ-g9x
    @あむ-g9x Год назад +4

    私もこのチャンネルの紀年論から、富雄丸山古墳の被葬者は武内宿禰だろうなぁと思っていたので、投稿者さんと全く同じで嬉しく思いました!
    再現可能な紀年論があると、新発見があってもずれの無い共通認識が出来て非常に便利ですね。

    • @J-history
      @J-history  Год назад +1

      コメントありがとうございます。
      おっしゃるように、私の場合、(可否は別として)信じている復元紀年があるので、それらしく語ることができると思っています。
      本来なら歴史学・文献史学の先生方が、万人の納得できる紀年論の結論を出してくだされば、みんなが共通認識のもとで議論できるようになると思うのですが。その気配がなく、残念です。

  • @ancientJapanesehistorywithMAP
    @ancientJapanesehistorywithMAP Год назад +6

    素晴らしい!古墳でこれだけ深く広く根拠のあるイマジネーションを展開できるのは、豊潤な知識を土台にした想像力の賜物ですね!
    いやあ感動モノでした!

    • @J-history
      @J-history  Год назад +2

      古荘さん、コメントありがとうございます。
      古墳についての考古学的知識はとても浅いのですが、『日本書紀』の紀年復元をもとに語ることができるので、それっぽくまとめることができるのだと思っています。そこだけは(根拠のない)自信があります。

  • @岡上佑の古代史研究室
    @岡上佑の古代史研究室 Год назад +6

    アップお疲れ様です! いやー楽しみですね! 何が出てくるのか、想像もつきません。どうも国津神的(ヤマト豪族)な存在のような気がしていますけど。。。 それにしても古墳造成完了前に埋葬されていたというのは、凄いですね、もっと私も勉強して予習しておきたいなと思いました!

    • @J-history
      @J-history  Год назад +4

      岡上さん、コメントありがとうございます。
      私も古墳についてはまったくの素人ですが、富雄丸山古墳の造出しはとても特殊な造りのようです。
      また日本中を驚かせるような発見があるといいですね。

    • @古屋公夫-s9s
      @古屋公夫-s9s 5 месяцев назад

      富雄丸山古墳の被葬者は、孝霊天皇の妃の千千速真若毘売命です。
       千千速真若毘売命は紀元99年に生まれ138年に40年に崩御されました。
       千千速眞若毘売命は邪馬台国の女王であり、正式な名前を倭母母曽毘売命の母親の立場に当たります。

  • @りゅ-d7l
    @りゅ-d7l Год назад +6

    個人的には今回の動画は一番の神回です。妄想が正しいかどうかはわかりませんが結果発表前に予想するとは素晴らしい。私には予想すらできません。大鏡、横刀の記述まで言及していて面白かったです
    ただ文字でも無い限り被葬者を特定するのは難しい時代でしょうね

    • @J-history
      @J-history  Год назад

      コメント&お楽しみいただきありがとうございます。
      日本の場合、古墳から墓誌などの文字史料が出土しないのは本当に不思議ですね。
      富雄丸山古墳の造出しの埋葬施設は、逆に主体部ではないので、何かそのようなものが副葬されていると面白いのですが。
      引き続きよろしくお願いします。

  • @may23k68
    @may23k68 Год назад +2

    どうもです。
    纏向消滅期あたりですかね?
    どこまで細かい伝承等が
    記紀再編時まで残っているか
    不明な点ですね。

    • @J-history
      @J-history  Год назад +1

      コメントありがとうございます。
      纒向遺跡は4世紀に入ると急激に縮小するようなので、消滅期をいつとみるかですが、4世紀半ばごろとみれば重なる可能性はあると思います。
      報告書などを読んだ個人的な感想では、少し遅め(動画内でも述べましたが460、70年~5世紀初頭あたり)かなと思っています。
      どこまで細かい伝承が残っていたかはおっしゃるように不明ですが、現状では『日本書紀』以外にその時代の出来事に迫れる史料(編年体の史料)がない以上、『日本書紀』の記事から考えるしかないのではと思います。
      引き続きよろしくお願いします。

    • @may23k68
      @may23k68 Год назад +1

      ありがとうございます。
      出土物によって年が
      修正される可能性がありますね。
      記紀編纂時から近い年代は、信憑性が高いと思いますが
      政権側の文献なのでという疑問符もつきます。良いお年をお迎えください。

    • @J-history
      @J-history  Год назад +1

      @@may23k68 ご返信ありがとうございます。
      もちろん『日本書紀』には王族(皇族)はじめ有力氏族の要請が反映されていることは間違いないと思っています。
      良いお年を。

  • @かかしやまだの
    @かかしやまだの 11 месяцев назад +1

    盾形銅鏡も蛇行剣も神武東征に出てくる金色の鳶の正体であろう。蛇行剣を空に向けて掲げれば乱反射して広い角度からみえる。

    • @J-history
      @J-history  11 месяцев назад

      コメントありがとうございます。
      伝世していたら、そういう可能性もあるかもしれませんね。
      引き続きよろしくお願いします。

  • @kojikasan6505
    @kojikasan6505 Год назад +3

    伊藤先生はじめまして。
    いつも楽しませていただいております。まったくの古代史初心者で申し訳ございませんが一つ質問があります。
    卑弥呼=神功皇后といわれる説があるようですが、年代が違うし、卑弥呼はひとり身、本当に前方後円墳に埋葬されたのかがわかりません。初心者にわかりやすい範囲でよろしいので教えてくださいませ。
    お礼と言っては失礼かもしれませんが伊藤先生の書籍『邪馬台国は熊本にあった!』を購入します。

    • @kojikasan6505
      @kojikasan6505 Год назад +2

      すみません。五社神古墳についても少しお話が聞けたらと思います。

    • @J-history
      @J-history  Год назад +2

      コメントありがとうございます。
      卑弥呼と神功皇后についてはじつにさまざまな方々(著名な先学も含めて)がさまざまな説を述べられていますので、一般論として語るのはむずかしいです。
      以下は、私の勝手な解釈だとご理解いただいた上でお読みください。
      (また、卑弥呼は文献上のいろんな人に比定されています。神功皇后以外にも天照大神、倭迹迹日百襲姫命、倭姫命などの説があります。ちなみにこのチャンネルは天照大神説です)
      ・『日本書紀』の年代設定によると、神功皇后の摂政期間は201年~269年とされているので、卑弥呼(および壹与)の魏への遣使朝貢時期に重なる。
      ・『日本書紀』の神功皇后摂政紀に、魏との交渉に関する魏志倭人伝からの引用(3つ)と晋起居注からの引用(おそらく壹与に関するもの1つ)がある。
      ・明治の那珂通世らによる紀年論で120年繰り下げると実年代が求められるという説が有力視されており、ちょうど神功皇后52年に百済王が七枝刀を献上した記事があるが、それを372年とみれば369年の「太和四年」と七支刀銘文の「泰□四年」が合致するように見える。(このチャンネルでは「太和四年」説は否定していますが)
      以上のような根拠で、卑弥呼=神功皇后説が語られていると思います。
      箸墓古墳を卑弥呼の墓とみる人は、倭迹迹日百襲姫命説の方が多いと思います。
      拙著『邪馬台国は熊本にあった!』はもう8年も前の本ですので、わざわざご購入いただかなくてもよいですよ。このチャンネルの方が情報的に新しいとも言えます。
      もし、ご購入いただけるのでしたら『魏志倭人伝の全文を読み解く』の方が内容的には充実しているかもしれません。
      今年もよろしくお願いします。

    • @kojikasan6505
      @kojikasan6505 Год назад +3

      @@J-history さま。
      伊藤先生。わたしのような初心者にも懇切丁寧に教えてくださり誠にありがとうございます。
      私も天照大神説と感じてはいるものの正直何もわかっていないです。
      これからも古代史新設チャンネルで勉強していきたいと思っております。
      『魏志倭人伝の全文を読み解く』新品で1,320円とお手頃価格でしたのでポチリました。
      これからも応援しておりますので宜しくお願いします。

    • @J-history
      @J-history  Год назад +2

      @@kojikasan6505 ご返信&拙著ご購入ありがとうございます。
      五社神古墳についてもご質問いただいていたのですね。
      私は考古学については素人ですので、残念ながらお答えできる知識がありません。
      考古学系の先生にお聞きされたら良いと思いますが、五社神古墳は宮内庁から神功皇后陵と治定されて管理下にありますので、詳細な発掘調査ができません。ですから、発掘調査報告自体あまりないのではないかと思います。
      築造時期は、おおむね4世紀末ぐらいだろうと考えられているようです。
      私は神功皇后非実在説ですので、どなたの陵墓かは決めかねています。
      引き続きよろしくお願いします。

    • @kojikasan6505
      @kojikasan6505 Год назад +3

      @@J-history さま。伊藤先生「五社神古墳」についてもご解説ありがとうございます(恐縮です)。
      古代史の本をたくさん読んでたくさんの動画を観て鋭い質問が出来る様になれればいいな~と思ってます。
      古代史に興味を持ち出してから良いことが多くなりましたありがとうございます。返信不要です(笑)。

  • @kyupytarou
    @kyupytarou Год назад +4

    遅れて拝見しました。
    うなりました。
    武内宿禰が被葬者である可能性は大ですね!
    古事記による年代の参照は無視してよろしいかと思います。事象の物語化と捉えています。比喩的表現のオンパレードの古事記の年代は繋ぎ合わせるため都合良くされています。  そこが一番好きなところです。
    生駒周辺をあれだけウロチョロしてますが…実はまだ富雄丸山古墳に行ってません。 もっと言うと箸墓古墳も行ってません。 
    調査がある程度行われて全貌が解明される事を先に望んでいます。
    なんたってお墓ですから…
    こんな罰当たりが物見遊山で行くには憚られます。
    正月3日楽しみにしております。

    • @J-history
      @J-history  Год назад +1

      コメントありがとうございます。
      そうですね。『古事記』の年代観には問題があると思います。
      ともあれ、今回の発掘調査でなにか画期的なものが出土することを願っています。
      引き続きよろしくお願いします。

  • @ch-ub3cp
    @ch-ub3cp Год назад +5

    動画の配信ありがとうございました。2分48秒あたりで460年ないし470年頃~5世紀初頭となっています。もしかして360年ないし370年頃~5世紀初頭?

    • @J-history
      @J-history  Год назад +4

      コメント&ご指摘ありがとうございます。
      おっしゃる通り、360年ないし370年頃の間違いです。
      一応、動画アップ前にチェックはしているのですが、思いこんでしまっているとまったく気が付きません。。。
      そういうことも多々あるかも、、、と思いながら、今後ともお付き合いお願いします。

    • @chihiro3
      @chihiro3 Год назад +2

      @@J-history ちょっと辛辣すぎるコメントをしてしまい申し訳ございません。世紀と年代の勘違いは私もよくします。歴史への幻想はロマンであり、学術とは切り離しても良いと思いなおしました。これからも斬新な動画配信を楽しみに期待しております。

    • @J-history
      @J-history  Год назад +1

      @@chihiro3
      いえいえ、ご指摘いただけるとありがたいです。
      早めに発覚すると、多くの方々にご覧いただく前に、概要欄に訂正文を載せることができますので。
      引き続きよろしくお願いします。

  • @dry301
    @dry301 Год назад +3

    神功皇后の二番目の亭主が竹内宿禰で応神天皇の父と考えるとこの古墳には2人が丸く納まってますね!

    • @J-history
      @J-history  Год назад +2

      コメントありがとうございます。
      神功皇后実在説なのですね。
      引き続きよろしくお願いします。

  • @志津-z6c
    @志津-z6c Год назад +2

    動画ありがとうございます。武内宿禰の名がでるとは思いませんでしたので興味深く拝聴させていただきました。被葬者が武内宿禰だとしてなぜ富雄なのか?という疑問はあります。奥方が紀伊や葛城ですし、葛城襲津彦など、そちらの方に縁のある方なのかなと。でもなるほど剣や盾に見合う方かもしれません。因みに私個人は建振熊命かな~と。中央か造出しかは迷ってますが😀

    • @J-history
      @J-history  Год назад

      コメントありがとうございます。
      (これは何の根拠もない仮定ですが)武内宿禰が物部氏系の人物だったら、饒速日命・可美真手命につながるので富雄あたりでもよいように思っています。
      建振熊も年代的に可能性はありますね。私としては、主体部は武内宿禰で、造出しが建振熊という方がぴったりきますが。
      引き続きよろしくお願いします。

  • @hisak4689
    @hisak4689 Год назад +3

    西暦460年は5世紀の後半ですよー

    • @J-history
      @J-history  Год назад +1

      コメントありがとうございます。
      動画アップ前に見直しても、なかなか気が付きません。。。
      ご指摘ありがとうございました。引き続きよろしくお願いします。

  • @YO-high
    @YO-high Год назад +2

    なるほど、武内宿禰ってのはあり得ますね。ただ、この頃の古事記日本書紀の「年代:紀年操作」が問題になりそう。
    あと、円墳であるから「臣下」だとは思えないんですよね。出土したモノがモノだけに大王家の誰かの可能性もあるかなぁと。
    ここら辺の時代の「解釈」って難しいですよね。まるでパズルの様。
    今後も見逃せない古墳の一つですね。面白かったです。

    • @J-history
      @J-history  Год назад +2

      コメントありがとうございます。
      応神天皇の治世が『古事記』と『日本書紀』で大きく異なることは問題ですね。
      ただこのチャンネルは基本的に『日本書紀』を信用しています。『古事記』は編年体史書ではありませんので。
      動画の中でも触れましたが、この年代は神功皇后の創出によって大きく攪乱されている可能性があると考えています。
      (今回の妄想はどうでもよいので)何か画期的な発見があるとよいですね。
      引き続きよろしくお願いします。

  • @なかち-i2j
    @なかち-i2j 11 месяцев назад +1

    まず世紀の数え方覚えようか!
    考察はそれからだ!

    • @J-history
      @J-history  11 месяцев назад +1

      コメントありがとうございます。
      すでの多くの方からご指摘いただき・・・。
      お恥ずかしい限りです。
      引き続きよろしくお願いします。

  • @やまびこ-l3l
    @やまびこ-l3l Год назад +3

    卑弥呼神社なるものが、存在しないことを理由にして、卑弥呼は存在しない。という考えの大学教授が、いらっしゃいます。ただし、梅原先生と同様に、歴史が専門のかたではないです。プレミアムに参加していないので、もちろん、広告が入るのですが、なんと、その先生。○○には、秘密が、有るそうですね。ミステリーの世界です。

    • @J-history
      @J-history  Год назад +2

      コメントありがとうございます。
      卑弥呼の非実在説はときどき耳にすることがありますね。ちょっと理解できておりませんが。

  • @隆一西
    @隆一西 Год назад +2

    動画楽しく拝見させて頂きました( ・ิω・ิ)✨出土品や竹内宿禰が被葬者の可能性大と、なかなか興味深い古墳ですよね✨国内最大規模の円墳ですが、なんとなく帆立貝式前方後円墳にも見えなくもないですよね〜(¯―¯٥)笑

    • @J-history
      @J-history  Год назад

      コメントありがとうございます。
      確かに帆立貝形古墳にも見えそうな形ですね。
      報告書によりますと、造出しも三段築成になっているという特殊な造りのようです。
      そんな特殊な造出しの、また珍しい埋葬施設ですから、何か驚きの発見があることを願っています。
      引き続きよろしくお願いします。

    • @隆一西
      @隆一西 Год назад +1

      そうなんですね〜🙄さらなる驚きの発見があるかもなので目が離せませんね( ・ิω・ิ)なお、年始の合同企画の倭国大乱も🍶しながら楽しませて頂きますヽ(´エ`)ノ

    • @J-history
      @J-history  Год назад

      @@隆一西 ご返信ありがとうございます。
      「倭国大乱」お楽しみください。
      もう動画アップされている方もおられるようですが、このチャンネルはまだ制作中です。3日6時アップを目指しています。

  • @hideanazawa2155
    @hideanazawa2155 Год назад +2

    興味深い。マア、(「妄想」と名付けた理由なのだろうが…)奈良・葛城地域の室宮山古墳に対する反論などがあればもっとよかった。例えば、葛城で酒宴を行っていた玉田宿禰が逃げ込んだという武内宿禰の墓が、同じ葛城地域の室宮山古墳でなく、約30km北に離れた富雄丸山古墳だとどのように説明するのかなどは興味深い。

    • @J-history
      @J-history  Год назад

      コメントありがとうございます。
      (古墳については素人レベルの意見ですが)もともとは室宮山古墳が武内宿禰の墓かと考えていましたが、それにしては少し築造年代が新しいのかなと思うようになりました。葛城襲津彦ならありうるかもと思います(二代続けての奉仕が認められて前方後円墳を許可されたとか・・・)。
      玉田宿禰の件は発覚から殺されるまでどれほどの時間が経過しているのか不明ですが、いったん允恭天皇の宮から遠く離れたところへ逃げたと考えてもよいのではと思います(安易な発想ですが)。
      引き続きよろしくお願いします。

  • @freemakpc-1048
    @freemakpc-1048 Год назад +3

    何で神功皇后が、架空の人物なんだ?もしそうだと、日本書紀の神功皇后の章丸ごと一冊が嘘になる!
    それでいて、日本書紀を参照して話をしているのは、かなり矛盾する話!それに、これ等の時代は、春秋歴で計算しないとつじつまが合わない

    • @J-history
      @J-history  Год назад

      コメントありがとうございます。