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中学歴史では239年、4世紀後半、478年、538年、と飛び飛びでしか学習することがなく、独立した項目を覚えるだけで、流れが見えませんでした。この動画で、①その流れがあったということ、②日本書紀と隋書倭国伝に同じ歴史事項の記述がある、という歴史学的なアプローチの窓を開けてくれていること、に深く感銘を受けました。ありがとうございます。
こちらこそ、コメントありがとうございます。学校でも年号だけじゃなくて、その背景となる流れを教えてくれたら歴史も楽しく学べますよね。
戦後日本はGHQの指示の元、社会科は教えてはいますが歴史は教える事が禁止されていたので教えられていないんですよね。何年に〇〇〇が起きました。としか教えないのが社会科で有り、自分で進んで学びに行かなければ、歴史を学ぶ事が出来ないのですよ。
大部分的中国人都非常讨厌日本人! ほとんどの中国人は日本人を大嫌いです!
@@shika1999???歴史を何から学ぶのでしょうか?正しい日本の歴史は教科書なのですか?日本書紀も古事記もあやしいのに、何が日本の正史なのですか?
喪服が黒になったのは明治以降で明治天皇のお妃の昭憲皇太后が西洋に倣って喪服は黒にしたと聞いたことあります。今でも一部地域では葬式の喪服は白装束ですし、お棺に入れるホトケさんは白装束ですね。武士が切腹する時も白装束で行います。日本で喪服が黒になったのは歴史的にはごく最近の話でしょう。
確か、落合正勝さんという服飾研究家も、昔の喪服は白と言っていたと思います。
純白のウェディングドレス、なんて明治の人たちは驚いたんだろね😂
随分と昔の話だけどうちの田舎では曾祖父さんの葬式の時みんな白いちゃんちゃんこを着てたなぁ。
@@アカバケン-n9c 白無垢は昔から着てたから……
そもそも死が嘆き悲しむべきものではなかったかも知れない。この動画にもあるように、屍の傍らで「歌い、舞った」のだから。そういう価値観は大陸の宗教が入ってきてから、崩れたと思う。地獄と極楽だとかいう概念が入ってきてから。
とても面白かったです。次回作に期待しますので、是非続きをお願いします。
コメントありがとうございます。この続編(日本書紀に記述の裴世清ご一行の来日記事)は、「小野妹子『国書紛失事件』の裏に隠された歴史の真相」ruclips.net/video/E6oFIygWHfA/видео.html の動画になります。よろしければご覧ください!
とても面白かったです!有難う御座いました。
コメントありがとうございます。励みになります!
素晴らしすぎ!!旧唐書 新唐書の倭国伝も聞きたいです急ぐ事はないので 待ってますよろしくお願い
ありがとうございます。リクエストにも機会を見て挑戦したいと思います。
近現代史には興味があったのですが、最近古代史にも興味が出てきました。当方のようなど素人にもわかりやすい解説ありがとうございました。このお話は全く知りませんでしたが、全てを信じられないにしても空白の150年を埋められる貴重な話ですね。これからも楽しみにしています。頑張って下さいね。
嬉しいコメントありがとうございます。頑張ります。
めちゃくちゃ興味深い!!なかなか中国の史文に触れる機会がないので面白いです。
中国側から見た当時の日本ってところが興味深いですよね。
こういうゆっくり解説はわかりやすくて非常に勉強になる。事前に文献勉強してないと作れないし個人じゃないだろうけど大変だろなと思う。
コメントありがとうございます。歴史好きな素人が一人気ままに作ってます。個人的な趣味嗜好で作成してるので、取り上げる時代に偏りが。。。
@@ch7072 申し訳ない、企業ではなく個人なんですか大変だろうけど勉強になるんで応援します、登録しました。
@@kamicop1234 日本人先跟中国的慰安妇道歉!
日本が送った遣隋使や遣唐使より、隋や渤海から来た遣日使の方が数が多かったとの説もあるので、向こうには複数の文献が残ってるかもしれませんね。
そうですよね、残っていたらぜひ読んでみたいですね。
山形県って渤海と貿易が盛んで、その影響で渤海人が多く渡来して混血したとかあるから、あながち嘘でもないかも。
日本人先跟中国的慰安妇道歉!
13:46 柏の葉・・その風俗は皿や膳はなく柏の葉を敷く当方の推測ですが、「柏の葉は食器に使う」でなく神様に御供えする際に使うもので、柏の葉でおもてなしをしたと推測しています。 *徳島県阿南市に賀志波比売神社(かしわひめじんじゃ)があり、724年の 創建で延喜式内社で、現在は津峰(つのみね)山頂の津峰神社(つのみねじ んじゃ)に祀られていて、賀志波比売は天照大御神の幼名と考えられている んですよ。 御神紋は八角形で神様に御供えする三方(さんぼう)のことで、古くは柏の 葉が使用されていたんですよ。現在も皇室では神事には柏の葉が使われてい るんですね。
なるほど!そうなのですね。勉強になります。
10:14 これはまさしく盟神探湯ですよね。中国の記録にも残ってると知ってテンション上がりました。
そうなんです、こういう記述が出てくるとテンションあがりますね。
18:16~ 秦王国が!って5世紀の中ごろに秦氏が大勢で移民してきたというけれど、その集落があったのかなぁ。
その可能性も考えられそうですね。
半島に秦韓(辰韓)という地域は秦の滅亡後に.逃亡して来た避難民が建国した国.そっちの民は秦の原郷の方言を今迄使用したと古藉に書いてあります.一つの例として、今のシンガポール,マラカの華僑は明十五世紀)から入植した華南人・それでも今迄華南の方言が主流.例えば人の苗字の陳はタンと発音・許はコ と発音.劉はラウに、楊はヨウと華南ふうの発音を使う、秦王国の人々も倭人に同化されるまで二、三百年は必要します.大陸の使者が秦王国を通過するときただ簡單に中華と同じと述べたわけです.徐福の時代の人と後ちの秦王国の人々(秦韓)の出発点は違うと思います.后者は半島を中継地として日本に辿りつく秦の后裔らしいです.
16:05 糸魚川とかで取れる翡翠のことじゃないかなあ。。。史記から始まる二十四史は、編纂時期が時代順じゃないですが、前史を継ぐという考え方があり、前史と異なることは書けないんですよね。編纂当時は、様々な資料が残っていて、それらを駆使しつつ、前史を読み解いて前史とオーバーラップする部分を書いていたそうです。隋書は656年編纂ですから、前史とオーバーラップする部分はかなり正確なんだと思います。
なるほど!
@@ch7072 さん後漢書は、魏志倭人伝のある三國志より時代が前ですけど、編纂は後です。三國志の次の時代は、晋書、宋書、南斉書、梁書、南史、北史、隋書と続きますが、晋書の編纂は、隋書の後です。倭人のことを、後漢書ではどう言ってるか、晋書や宋書ではどう言ってるか。魏志倭人伝で不思議な書き方をしている部分も、読み解けるかもです😁
出雲国では今でも青い瑪瑙が取れるので、それが見た目に近いかな。ただ、裴世清の移動経路的には福岡県糸島市の平原古墳にも瑪瑙の出土例があるから、こっちのほうかもしれない
@@さどはらめぐる さん出雲の瑪瑙ですか。なるほど~。平原はかなり高貴な女性のお墓ですよね。怡土郡(伊都國)の。
詳しく教えて頂きありがとうございます!
面白かったです知らないことだらけでしたタリシヒコ…何者なのでしょうね?…あと…金印は、偽物説があるそうで…?
タリシヒコに関しては、中国では女帝がいないので、女だと軽んじられないために男として紹介した説と、実は聖徳太子は即位していたのではないか説があるらしいですね
タリシホコは、九州王朝の王と理解してます。
@@加藤勉-g5p残念ながら違うよ
@@加藤勉-g5p古田武彦信者乙
@@加藤勉-g5p九州に王朝はありません
突厥可汗達頭、つまり聖徳太子は倭王です。
新婦が火を跨いで家に入る風習は、昭和の初期まで残っていました。私の両親が生前見たことがあると言ってました。家の入口に豆幹(まめがら)に火を付けて新婦が跨いで入るらしい。その時に、箕で扇ぐのだとも言ってました。
昭和初期まで残っていたのですか⁉ とても貴重な情報をありがとうございます。ちなみにどの地域でしょう?
@@ch7072 武蔵国(埼玉県)です。30年前くらいですか?古代には、犬を跨いで新婦が家に入ったらしいよ、と両親に私が言うと。「豆柄に火を付けたのを嫁さんが跨いで玄関に入って行くんだ…」と母親が言ってました。父親も聞いていて、箕で火を扇ぐんだよと言ってましたね。近所のAさんが嫁に来た時に火を跨いだのを目撃したらしいです。
埼玉県ですか!私も調べてみたいと思います。教えて頂きありがとうございました。
ずっと後の時代の「元史日本伝」や「明史日本伝」、大枠で日本側史実と一致するも細かいエピソードはかなり脚色されている。盛んに交流があり、直接戦火を交えた時代でもそんな感じなので、古代日本についても、外交関係や国の概要はほぼ正確だが、習俗や指導者に関しては実は結構トンチキに描写されてた…と思っている
天のたらしヒコって、天子の日本語読みとも言えますし天孫もあり得るんですよね。また、天子の子≒聖徳太子(上宮王)でも違和感はないんですよね。女帝も引きこもりで上手く行くし、蘇我馬子と厩戸皇子って馬繋がりもあるのでそもそも蘇我氏が皇族もしくは近い存在なのも自然です。大化の改新前後で蘇我も上宮王家も没落していますので、この時期は記紀にもきちんと記されている(むしろ壬申の乱前後が怪しい箇所が多い)ところも垣間見れて面白かったです。
なるほど!天子や天孫の日本語読み説は納得がいきます。飛鳥時代は面白いですよね。
興味深いお話を有難うございます。秦(しん)をハタと読み、秦以外にも「波田・羽田・旗」などを充てて「ハタ」と読む姓を持つ方たちのご先祖様のようですね。大陸からの渡来人と言われていて、歴史上では秦河勝が広隆寺を建造となっているようです。京都には今も太秦(うずまさ)という地名があり撮影所があります。国というのも今の国の事ではなく、血の繋がった一族が集団で居住し「邑」などを形成し、クニと呼びならわしていたと思われますね。現在も故郷を「クニ」と呼ぶのはその名残でしょうか。隋書をそのまま伝えてくださった処が良いですね。47は古来大仰な表現があるので日本側の記述などとの比較も面白いでしょうね。聖徳太子が隋の煬帝に宛てた書の「日出づる国の天子、書を日の没する国の天子に致す恙無きや」に、煬帝が激怒したという話は如何なのでしょうか?。使者が斬首されたとも伝わっていないようですし。
確かに、秦一族の痕跡は色々なところに残っていて興味深いです。
京都太秦には、秦氏(ユダヤ人12種族の1つ)一族が金銀財宝を持って来た・と?なにかの説明で有りました。秦と言う名前は今でも奈良県には有ります。以上知らんけど?
日出ずる国.....という国書は創作の物だと思います.なぜなら日本人固有の性格とずいぶんかけ離れ違います.日出国の日出は東の漢字を表わすでしょう.今のタイ人は東の事をTawan- Orkと言います. 西の事はTawan-Tok. タイ語に Tawan=太陽(大丸).Ork=出る. Tok= おリる.下がるの意味.それは純粋な古代人の視覚方向の感念、ほかに花嫁がお婿の家に入るとき 火か犬に跨って家に入るのも今大陸人、少数民族にもまだ残っています.犬のかわりに猫を使うのもあります. 厄払いのー種です.角隠しの風習も今では傘をさす.花嫁の頭から赤い頭巾(古代はまだ白い布).毛布で包むような風習.頭に大きなわら笠をかぶて嫁ぐような姿が見れます.インドの花嫁もサリで頭を覆うような格好をする、巫師が花嫁の身辺に火鉢または盆の上に少量の火で清める儀式があります.多分南方的な風習.
遠回しの表現で日本は黎明であなたの国は凋落していると捉えたから激怒したと類推できる。実際に、煬帝の頃に色々な問題があったから思う事あったのだと理解しやすい。あと当時でも外交の使者を切ることは外交慣例違反だったからと理由を考えることもできる。殺すということは現代で例えると大使館の旗を降ろすことと意味は同じ。
@@大阪の男-b4u 「以上知らんけど?」とはどういう意味ですか?
めっちゃ面白かったです。「秦王国」ってもしかして「秦氏(はたうじ)」の領地の事かも知れませんね。裴世清は筑紫から瀬戸内ルートでやって来たんですかね?
ありがとうございます。日本書紀では難波に到着と記述があるので瀬戸内海ルートだと思うのですが、隋書倭国伝の記述はちょっと曖昧なんですよね。。
ロマンだなや 想像が膨らんでたのしい 脚色はあるかもだけどノンフィクションなのが良い
ロマンですよね~!
15:25 これって、長崎でも今も残ってる精霊流しの風習に似てますね。もし関係があったら面白い。
精霊流しですか!なるほど、似てますね。当時の風習の名残かもしれませんね。
@@ch7072精霊船は、今もありますよ。私の地元も、藁の船に供物を載せて川や海に流しました。さすがに遺体は乗せませんが。
盟神探湯のことも記載されてるのが信憑性あるな
そうなのです。日本書紀の内容と合致する部分が多々あるので、余計に謎が深まります。
魏志倭人伝はけっこう取り上げられるけど、他のはそこまでって感じする。その中での、他の正史から見た倭国っておもしろいですね。
隋の煬帝が、聖徳太子からの国書に激怒した経緯が載っているのが、この隋書倭国伝です。
宋書倭国伝もあります。続編をやって下さい。
リクエストありがとうございます。また動画にしていきたいと思います。
隋書。これ、昔読んで不思議だったんだぁ。懐かしいです。「秦王国」のくだりなんて特に。(倭國じゃなくて「俀」國表記も)私見ですけど、瀬戸内沿岸から京都太秦にかけて、秦氏の足跡が多いんですよね。(九州瀬戸内側の豊前宇佐八幡宮をはじめとする八幡信仰や、播磨に多い太子信仰も。)秦氏といえば例えば赤穂の北の「坂越」。その周囲、播磨、備前、備中、備後の各地に秦(幡多・服部さんなど)の氏や地名、さらに言えば、加百(かど)さんのような、不思議な日ユ同祖論に繋がりそうな難読姓。(私は秦王国は吉備王国の構成国の1つだったと思いますけど。)ともかく随所にワクワクしたものですww歴史ロマンです。
日ユ同祖論など、色々な説を読むと本当にワクワクします。まさに歴史ロマンですね。
秦王国は、素直に周防国(山口県西部)と読んだ方が良いと思います。勿論、渡来系の人々も多く住んでいたと思われます。
@@rengesouh176 さんありがとうございます。「素直に」が少しわかりませんがw、周防も含めて瀬戸内の沿岸上に秦氏にちなむ地域があるのは間違いないようですね。もし行かれたことがないようでしたら、秦河勝にちなむ播磨の坂越に参られるといいと思います。古い神社や町並み、伝建地区と海の風景が美しいですよ。ともかく古代吉備の勢力圏(加古川以西)には不思議な氏族が幾つかいたようです。
@@masaf2717 他の地名は音読みするのに、秦王国だけ訓読みの「はた」や渡来系「秦氏」を強調して、周防説や沖ノ島航路などに触れないのは、完成度的に勿体無いかなと思われました。
このイ妥という文字は タイと発音します.大昔、長江流域の南側は今のタイ人の祖先の発祥地.中国人がこのタイ人を禪(Shan)人.百夷(白夷). 越裳人(裳は禪と同音)..タイ人は中国史に暹羅と呼ぶのは暹人とLavo人の混居している国を総括して呼ぶのです.タイ人にとって タイは自称に使うのですが・ShanとSiamは他称だそうです.二十世紀の四十年代初頭日本が当時の独裁車人披鑾に協力し泛タイ主義の国家タイ国(泰国)と改名しました.タイ人が大挙東南アジアに遷徒したのは宋の十世紀頃、北方遊牧民の南下による時期に当リます.のちのモンゴール人の流入の時期それはタイ人の南下のピークです.モンゴール人が中国を治める時.中国に四つの階級の民族に分けて統治する.ー番下は南人. タイ語に南の発音はタイ.ちょうど南人の意味.昔倭という国に皆が大夫と自称したそうです.実際夫はタイ語のPeopleの意味です.なぜ当時の日本をイ妥国と呼ぶですか.
隋書って色々と謎を増やしてくれるよね🤔💭
多利思比狐もそうですが、秦王国、如意宝珠と謎だらけですね。
朝貢、冊封と言う言葉の意味も解釈の仕方がいろいろだとか聞く。主従関係と言うより現代の交易安全保証みたいな物だった説に信憑性を感じる。そして焚き書が当たり前にあったら…寧ろ行間を読むくらいが適当なのかも。
ためになるな~。
ありがとうございます。励みになります。
私は隋書と共に魏志倭人伝を比較したりします。書かれている年代が違い、魏志倭人伝の方が古いのですが。興味深い部分があるからです。隋書だと、日本には文字がないと書かれており、百済を通して学んだとあります。しかし魏志倭人伝には、日本には漢字に似た文字が使われていると記載があるのですよね。ここで、気になるのは。日本語はカナの読みに、漢音だけでなく呉音があり、呉音の方が古い発音です。また仏教でも中国仏教では少ない呉音で発音するお経が日本にはそれなりにあるという事実があります。これらから、漢字伝来はもっと古く、既に日本は万葉仮名で漢字を利用していた事。また仏教もそれより前に、隋や唐の仏教文化が百済経由でくる前に、中国仏教より原初に少し近い仏教が日本に来ていた事が伺えます。このルートは南方の黒潮交易ルートで、日本は中国大陸の東南部からの文化が来ていたと考えられます。実際、教科書で習う漢字伝来時期より前に漢字の使われた遺物が考古学的に発見されていますしね。ただ、隋や唐は中国北方の発音中心に持つ国家です。隋や唐では中国南部の発音は下に見ており、それ使う日本を「北方の言葉を知らない」というのでそう書いたのでは?と考えています。それと同時に、日本も交易で対等に立つために、北方の中国語発音を必要として、中国北方と交易していた百済に教師やそれに為の書籍を求めたのではないでしょうかね。また朝鮮の新羅伝には、新羅に日本から僧が来て色々教えたという事が記載されています。これ仏教伝来より前の時代の話ですね。
所謂1次資料の発見目的で)日本の古墳を片っ端から発掘調査してみたらどうなるか??とか考えたりしてます!!
それ、いいですね!歴史をひっくり返すほどの「何か」が出てきそう。
中華の地でも白い着物が喪服だったけど、春秋五覇の文公が亡くなった時に隣国の秦が攻め込んできた。葬儀の真っ最中だった息子の襄公が「喪服のままだと縁起が悪い」と墨に漬け込んで黒くして出陣。見事秦を返り討ちにしたこの吉例以降中華でも喪服に黒い着物が浸透していったみたいです
貴重な情報ありがとうございます。そういう逸話があったのですねぇ。
大化の改新の時に消されたことも多いだろうから海外にこういう文章残ってるのはありがたい
本当にそう思います。
@daisuke5755 偽情報の可能性でいうなら、自国で編纂した書物の方が圧倒的にその可能性が高いと思いますが・・・自分の国の歴史は、その時の権力者の都合のいいように歪曲しがち。一方、外野の他国は客観的に記述すると思います。
@@ayabe9036 自国の歴史を歪曲したのではなく恣意的な表現をしたというのが正しいと思う。一方で現在の中国大陸にある記録については漢人だけでなく、それ以外の民族が代わる代わる当時の日本についての記録を残してることはあるけど、一部は一致するけど間違いも多い。間違いとは土地の距離感や名前とかね。一例としてタリシヒコだけでなく足利義満とかも勝手に王を名乗って勝手に交易してこれが記録に残っているだけと判断したほうがいいと思う。日本に記録はないけど当時の中国にはあったから日本が歪曲したと判断するのは早計じゃないかな?
@@papiyaspapiyas6265 割と当たり前のコメントをしたと思ったけど、そんなに気にいらなかったですか。
まあ、中華政権は中華思想がありますからね。。。とは言え日本の資料も国策文書なので、「資料としての事実」は示せますが、「真実」等は分からなくて当然ですよね。これらを突き合わせて「真実」とやらを推察していくしか無いのでしょう。十二身分制度が怪しいですが、やはり邪馬台国が属する北九州の「倭国」系統と、畿内の「大和王権」系統が別物であると考えた方がしっくり来ますが。。。
16:00夜光虫のことかな 唐津の辺りで見れますよね
なるほど夜光虫!夜になると青く光るとか、魚眼の精霊とか、それっぽいですね。
皆んな自分の国の成り立ちを知りたがるから、倭人伝解説動画は伸びますね
その様ですね。動画を作った私が一番驚いてます。
九州で発掘作業してるボランティアの人たちが言ってた。「基本的に掘ればいくらでも何かしら出てくるよ。」九州に限らず掘ってないだけで、日本中掘れば色んなものが出てくるんだろうね。それこそ不動産屋とかは戸建やマンション建設にあたって掘って何か出てきたけど、公表すると大損するから黙ってるってケースはおそらく腐るほどありそう。
確かに、そういうケース多そうですね~。
あの論理なき考古学と馬鹿にされる邪馬台国論争も、ペラペラのメモ書きみたいな魏志倭人伝は使うけど隋書とか本当にシカトしますよね面白かったし勉強になりました!
コメントありがとうございます。
ネットと同じで、自分の考えに合うソースは信頼し、不都合なソースは無視するかガセ扱い。
😮😮
魏志倭人伝のみが正書であるようですが(ほかは認めない)その論拠は何?だろうね
@@abeleuler1 他の史書には、日本国民に知られたくない、文部科学省にとって不都合なことが書かれているのだと推定。(書かれていることの真偽は別問題。文科省にとって都合がいいかどうかが問題。)
12:50 卜筮(ぼくぜい)でなく巫覡(ふげき)を用いていた。の表記は「占いではなく神託を使っていた。」の意ではないでしょうか?それとも翻訳の影響や時代考証的に巫覡という言葉や神事に男の巫女が使われるのが一般的だったのでしょうか?
ご指摘頂いた通り巫覡=神託の意味かもしれません。動画作成時は、魏志倭人伝に記述の「持衰」が男性ということから、巫覡も男性という認識でしたが、よくよく考えると当時は巫女=女性、巫覡=男性といった区分は無かったかもしれないと思うようになりました。
入れ墨は少し前まで船乗りも入れて居たらしい。というのも落水して行方不明になったとき、体の一部が発見されたら入れ墨で個人を特定できるからだそうな。
当時の九州北部の人は刺青をする習慣があるけど、大和の人はその習慣がないんじゃなかったっけ?日本書紀にあったような。神功の頃の話しで。
古代はどうしても,例え大陸に文書が残っているものでさえ,日本の教科書的に恐らく有力(最新研究で明らかに誤りと分かるものもあるそうだが)とされるものが飛び飛びで教えられるので,「結局分かんないんでしょ? 」で終わらせてしまうことが大半… 今回は,取り敢えず隋書から分かる部分ともっと謎の部分は良く分かりました.
新羅が女王を戴いていたことに対し「女を頭に戴くのは野蛮」と改めさせた、というのが当時の中国側の感覚なので推古女帝ではなく聖徳太子が国王・タラシヒコとして対応したのかもしれませんね。
その可能性は大きいと思います。聖徳太子は国外の情報をかなり正確に把握していたと思うので、対外的に男帝として対応したのかもしれませんね。
王(女王)を戴く(いただく)って言いません?
新唐書では「日本側の使者曰く、タリシホコは用明天皇の事らしい」日本書記では用明天皇はずっと近畿にいた。もちろん阿蘇山の近くで暮らした記録もない
@@ak3799 ありがとうございます、誤字ってましたね😅
基本的に我々が知っている天皇名は崩御後のおくり名ですので、在位中は別の呼ばれ方かと。
ペルーの古代文明の遺物展を見に行った時、ひもの結び目で文字を代わりにしていたとあった。共通点にびっくりする。〇やひもって、日本のペトログリフは〇が多いですよね。秦の始皇帝の時代、徐福がお供3000人を引き連れて、蓬莱国(多分日本)に来てますよね。まだ、当時は中国の村だったのですね。 富士王朝なんかも本当に存在してるかと思う。大変楽しい動画でした。
ペルーの古代文明との共通点!貴重な情報をありがとうございます。富士王朝は気になりますよね~。
無茶苦茶調べていてすごい!こういうのはどこで学べるのでしょうか??よくよくみると「倭」という漢字はにんべんなので、蔑称ではなさそうですね蔑称だと狗や鮮卑など動物や卑しい意味の字が当てられてますもんね😊
1文字だしね
こういう事に興味が出始めると、歴史が好きになりそう。正直、学校で習う歴史の授業は、年号とか人物の名前を覚えるのが主だったので、ちっとも興味が持てなかった。でもこういう内容ならば、苦にならずに聞けて良い。
コメントありがとうございます。授業って年号や人物名の詰め込みだけでしたね。先生の力量で、こういった資料や小ネタを紹介してくれると歴史に興味持つ生徒が増えるのになぁ、と思います。
日本の本当の歴史に興味を持たないように、日本史の授業は意図されているとしか思えない。
@@アカバケン-n9c 日本史の教科書はほぼ全部パヨ学者が書いているからね、なるべく日本をディスりたい。
いう程年代や人名覚えるのが主ではない筈。自分が歴史の意義や因果関係に興味中無かったから印象にないだけではないかな
私の中学の先生は、通常は板書の量が多く、定期試験の解答欄が(100点満点なのに)130か所あったりして、受験対策はしっかりしてくれたのですが、スピードアップして時間を余らせた時間で色々な話をしてくれました。日本海海戦の東郷平八郎の戦略とか、226事件のクーデター失敗はNHKを押さえられなかったからだとかを物語として語ってくれました。手が痛くなるほど書き続ける授業が多かったのですが、単元ごとのお話の時間を楽しみにしていたクラスメイトは多かったです。ちなみに生徒が協力的でなく授業が停滞するとお話の時間は無くなるので私のクラスは必死についていきました^^
あ とかひらがなって、知らない人には紐の結び目を描いて文字としてコミュニケーションを取ってるように見える気がする
確かに、そう見える気がします。
中国で他国人の名は、その発音に近い漢字を当てます。たとえばタリシヒコを漢字でどう書いているか、当時の隋でその漢字はどう発音されていたか、それが本当の名前になると思います。卑弥呼だって当時の魏の発音で読むのが正しいと思います。つまり正しい名前は「ヒミコ」ではなさそうです。
確かに。小野妹子の「妹子」は「因高」と記録が残っているそうです。
多利思北孤ですね。タリシホクコまたはタリシホッコに近い発音になると思います。「北」を「ヒ」と発音することは無いようです。「彦」と読ませたくて「タリシヒコ」にしたのではないでしょうか。歴史学者のご都合主義です。
意外といろいろなことが書いてあるんですね。謎が多い邪馬台国についても、その頃の空白期間についてもいろいろわかりそう。でもあまり知られていないのはなぜでしょうね。
日本書紀に記載されてないことが多くて面白いですよね。あまり知られていない理由は、タリシヒコの存在を受け入れると推古天皇の存在を否定することになるからでしょうか??
@@ch7072 横から失礼。古代史を研究している者です。天垂彦は和邇氏の祖押人のことだと思います。宇那比姫の元夫。そこから王朝が続いているという意味。中国で神とか天皇とか言っても通じません。支配している王は誰かが全て。
稲荷山古墳の鉄剣は知ってましたが江田船山古墳のは初めて知りましたこれはいつ頃の年代と推定されてるんでしょうね🤔
江田船山古墳の築造は5世紀〜6世紀初頭だそうです。ここの鉄剣にも稲荷山古墳の鉄剣と同様にワカタケルの文字が刻まれています。
漢字文化で本当に良かったよな歴史の面では。
喪服の話で思い出したのが香典袋と一緒で普段着は濃紺、喪服は薄い紺で『涙で色が抜けました』って事を表すのを聞いたことがある。明治…以前の平民の服だったような…地域的なものもあるかも?
表現が美しいですね〜。
このお話で吉野ヶ里公園が出てきましたが、今度はそばにある徐福金立公園もお願いいたします!
はい!いつか徐福伝説についても動画にしたいと思います。
倭国伝(中国正史に描かれた日本)講談社学術文庫 久しぶりに読み返してしまった。後漢書・魏書 以外は紹介がほとんどない 倭国伝・日本伝 だけどどれもおもしろい。短期間に視聴数が激増していますが、じっくりと続編を待ってます。
この歴史的番組動画、なんか見てる人のレベルが高そうですね。回答、コメントが凄いですね。
『土地は肥沃で、水や沢地が多く陸が少ない』の箇所は平野部が少ないってことかな?日本は国土の7割が山で平野部以外だと盆地に人が集中しているのは今も変わらない、動画でも言っているけどこの当時は内陸まで海が入り込んでるから余計平野部が少なかったのを陸が少ないと表現したのかな?それと『気候は温暖で、草木は冬も青い』の箇所は縄文時代に九州の喜界カルデラの大噴火で降り積もった火山灰が西日本の植生に大きな影響を与えたそうだから、この当時はその影響が続いて落葉樹ではなく針葉樹などの常緑樹が主流だったのかなとか色々想像が広がって面白いです(^-^)。
こんなに色々想像して楽しめるって隋書倭国伝最高ですね。
列島に平野が少ないのは動かぬ事実です。黄河流域の中原なんて山なんかどこにもない。列島で山が全く見えない場所なんてどこにもありませんよね黄河流域からくれば日本はなんて緑が多いのだろうと思うでしょうね。今だって落葉樹ばかりじゃない。というか西日本はもともと常緑広葉樹が優勢です。あまりに寒冷だと稲作の浸透が厳しくなります喜界カルデラの噴火は7300年も前。飛鳥時代はたかだか1500年前。土壌の性質は現代とほぼ同じと考えてよいでしょう。弥生時代の前から北九州では稲作が浸透しています。影響なんて無いも同然でしょう
有難うございます。聖徳太子6世紀=大阪四天王寺・奈良法隆寺=遣隋使の時代。ここは隋書と一致してますね。一方国内に卑弥呼(3世紀)・邪馬台国の痕跡がなく、神功皇后(3世紀)は証拠により実在したとされるので、関係が気になります。が、人物像は違いますね。ヤマトタケル(2世紀?)、仁徳天皇(4世紀)、雄略天皇(5世紀倭の五王の1人)謎多いです。
「邪馬台国の痕跡がなく」「邪馬台国」をヤマタイ国と読むのが間違いです。ヤマト国と読めば今も連綿と続いています。そもそも漢字には一つの文字に一つの読み方しかありません。それは今も当時も変わりないと思います。卑弥呼の後継者の台与をトヨと読みながら、邪馬台国をヤマタイ国と読む日本の歴史家の意図は何なのでしょうか?邪馬台国を大和朝廷と結びつけたくないという悪意しか感じないのですが。
「邪馬台国の痕跡がなく」「邪馬台国」をヤマタイ国と読むのが間違いです。ヤマト国と読めば今も連綿と続いています。そもそも漢字は一つの文字に一つの音が原則です。卑弥呼の後継者の台与をトヨと読みながら、邪馬台国をヤマト国と読まない日本の歴史家達の意図は何なのでしょうか?邪馬台国と大和朝廷を結びつけたくないという悪意しか感じないのですが。
タリシヒコ・・・後の蘇我氏の専横を考えると蘇我馬子じゃないかな。女帝って考えは当時の中華にはないし、唐代に則天武后が初めて女帝として登場して中華人が驚愕したんだから、推古天皇をタリシヒコ(蘇我馬子)の妻と考えても不思議はないな。
その説はあり得るかもしれませんね。
ところで、件の金印は年代測定されたのでしょうか? 以前、ブルーバックの本で 「金印は年代測定されていない。」 というのを読んだことがあるのですが。
ウィキペディアによると「贋作というには不都合な点が多すぎるため真印の可能性が高い」そうです。真相は分かりませんが、実物を見るとテンションは上がります。
@@ch7072 金印は、すでに説明したが、「漢王朝の土産物用のレプリカ」でホボ確定されてるな。
いねぎは、稲置のことなのかな。秦国というのは、中国からの渡来人である秦(はた)氏が支配していた地域のことかも。「青く光るもの」って信号機しか知らないけど(笑)、なかなか興味深い内容にびっくりしました。
青く光る如意宝珠の正体は一体何だったのでしょう。。
ヒスイでしょうね。北陸の糸魚川流域は縄文時代からヒスイの産地として著名で、そこで取れたものが全国、さらには半島にまで流通していた事が成分分析で判明しています。倭国の特産品ですよ。ちなみに弥生時代を通じて質の良い一級品は北九州に集約されて出土します。その後はもちろん畿内です
@@ch7072 私見ですが「ブルーフローライト」なんかがそれっぽいんじゃないかと。採掘されたフローライトのごく一部はレアアースを不純物として含み、そのせいで太陽光に含まれる紫外線を吸収して日没後に1時間ほど青緑色の蛍光発色するものがあり大昔は珍重されたそうです。現在の日本では鉱脈が枯渇してしまいましたが、かつては全国の150か所近い場所で採れました。
興味深い。
タリシヒコは「阿毎多利思比孤」アメタリシヒコとネット上にあったのを見て思ったのは、「アマテラス」を中国語で当時聞き取った当て字の可能性です。「天照国照彦」で「照彦」を「テラスヒコ」と呼んでいた可能性は無いですかね。
興味深い説だと思います。
全ての事物を見聞き出来たわけでは無いだろうから、隋の使者が参内した時に見ることが出来たものの記録ということなのでしょうけど、今教えられている歴史が必ずしも正解ではないということは覚えておいて欲しいものです。
同感です。
雅楽は、東大寺の大仏開眼節会の際に西域の賓客が連れてきていた楽団が演奏した祝賀演奏を見た当時の若い貴族たちがハマって真似し始めたのが起こり、とされているので、それ以前の音楽がどのようであったかを再建する試みは、ほとんどない?し、うまくいったこともなかったのでは。
雅楽の成り立ちについては分らない事だらけですね。古事記には仲哀天皇が琴を演奏したり、日本書紀では612年に聖徳太子が伎楽を奨励している記述はありますが、「雅楽」がどのように発展してきのか興味深いです。
@@ch7072 おそらく、アジア大陸の各地からさまざまな人々(民族や集団)によってさまざまな楽器と共に少しずつ入ってきたのでしょうね。もちろん文献史料があればいちばん間違いないのですが、楽器という物の性質に規定される面もあるのかもしれません。時代はかなり降りますが、たとえば平家物語のような「琵琶法師の語り物」における平家琵琶のように、何か大きな事件を伝えるためのメディアであったり、その当事者のアイデンティティとして重視されたりすることによって特徴づけられることもあるかもしれませんよね。私が述べた「雅楽の起源」についても、実は出所は不確かなまま伝聞で書いてしまいましたが、何らかの「公式見解」かそれに近い扱いを受けている説だったように思います。が、「公式」でなくても、人が流入すればそれに連れて楽器も入ってくるのは全世界共通なので、琴にせよ箏にせよ琵琶や笙、篳篥…その他の楽器はいろんな時代に少しずつ入ってきた、というのが実は最も実態に近いのかもしれません。
日本雅樂會によれば>雅楽は1200年以上の歴史を持ち、日本の古典音楽として、また世界の古典音楽として外国でも非常に高く評価されてきています。雅楽は、日本古来の儀式音楽や舞踊などと、仏教伝来の飛鳥時代から平安時代初めにかけての400年間あまりの間に、中国大陸や朝鮮半島から伝えられた音楽や舞、そして平安時代に日本独自の様式に整えられた音楽などです。とのことでした。必ずしも「東大寺大仏殿開眼節会の時に…」というだけではなかったのですね。(その話は多分「琵琶」の伝来についての説話だったのかもしれません)
「あめ たりしひこ」じゃなくて「あま たらしひこ」すなわち「天垂らし彦(天からやってきた男子)」言い換えると「天孫」、役職名なんじゃないか?って説があるみたい。
なるほど、説得力のある説ですね。
日本は日本の都合の良いように歴史を綴るし、中国は中国で都合の良いように歴史を綴る。色んな国の視点で考察するのが良き。
同感です!色々な国の視点で考察すると、点と点が繋がることがありますね。
木の刻んだ形と縄の結び目の形、てカタカナとひらがなですよね。
なるほど!そう見えますね。
魏志倭人伝は知ってましたが、隋書倭国伝は知りませんでした。検索したら、色々とあるのですね……教科書に載ってないのは何故なんでしょう。今回の動画でちょっと取り上げた、宋書倭国伝の動画は作るんでしょうか?
教科書に「こんな文献もありますよ」的な紹介があってもいいのになと思いますよね。宋書倭国伝も後々動画にしようと思ってます。
おもしろい!
ありがとうございます。
「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや。」それなりに政情を把握していたから礼儀を弁えてるのに、「お元気ですか?」って追い撃ちするのが最高に面白くて大好き。我慢出来ず「無礼者」と言ってしまう皇帝もかわいい。この時代の日本は大和政権の他に王国があったと考えるのが自然かもしれない。蘇我氏がその他王国の最有力者だとしたら亡き者にしてしまうとめでたしめでたしという事になるね。
「お元気ですか?」の追い打ちセリフ最高ですね!
倭国❌倭皇⚪・らしいですよ。知らんけど?
@@ch7072 いきなり、607年の書簡を記述していますが、本当は2回目の書簡。「つつがなきや」は、お変わりございませんかの意味。藤原不比等は、614年の書簡と前後逆にしたのです。つまり、蘇我王家が煬帝を怒らせたことを強調した。「蘇ノ因高」も、蘇我妹子を小野妹子に氏を変えているが蘇我氏。妹子を派遣した聖徳太子も蘇我氏。蘇我氏を滅ぼす大義名分を創作したということ。
@@くまのとおるおっとお前の妄想はそこまでだ
時代を遡る度に事実より神話の割合が高くなるから読み解くの難しいよね
おっしゃる通り、そうなんですよね。
風俗に関しては、金閣寺を見て日本人が全員金で出来た家に住んでる って判定したりの例があるので、柏の件などはその類な気がしますね。
確かに、それは一理ありそうですね。
クガタチ(探湯)!? これと時衰システムが子供の頃に読んだ歴史マンガに描写されてて、変なシステムとして心にめっちゃ刻まれたんだよね
盟神探湯(くがたち)。
時に埋もれそうなほど昔だけど、日本書紀の時代にはすでに確固たる文化が定着して豊かな生活を送っていたんだなあ。如意宝珠は何だろう。暗闇で青く光るのは黄燐が思い浮かぶけど、普段は青くないし
なるほど黄燐ですか。如意宝珠の正体、気になりますよね。
色んな推測が出来ますね!面白い
同感です!
タリシヒコは敬称なのかもしれませんね足りている男性→完璧な男性→王様かな?呪術的な意味合いで真名を明かさなかったのではとか妄想してしまいます。臣下が名前を呼ぶとは思えませんし。
この頃の関東地方って謎だらけなんだよなぁ。いつか解明されますように。
少なくともヤマト王権の勢力下にあったのは事実
@@conspiracy_shine 様『ヤマト王権の勢力下にあった』かのように装ったのは事実
@@takashiumeda6276 何言ってんだ?考古学的にも証明されてる歴史学はお前の妄想をぶつける場所じゃねえんだぞバカが
犬は安産であり、戌の日参りや、犬帯の風習があるので、新婦が犬を跨ぐのもあるかもしれませんね🤔
新婦だし、出産祈願の意味になりそうですよね。
年齢的には蘇我馬子が兄で妻が推古天皇で弟が聖徳太子ということか。つまり天皇は推古天皇だが馬子は王配殿下ということなのか。
その説も考えられますよね。
陰陽五行で死を考えると、白は肉体の終わり、黒は魂(精神)の終わりだから、どちらも意に適ってる。まぁ、近年の黒の方が何かと便利👍✨
陰陽五行説の考え方って、しきたりとか昔ながらの風習に入り込んでますよね。
おもしろい。紀記が言及していない個所は時の政権が隠したかったことなのか?他国の史書の日本に関する記述を全て洗うと古代のこともっと分かると思う。どうしてやらないのかな?
中国の記録を全て洗うと豊臣秀吉は福建人の奴婢であり、加藤清正は元々、秀吉より身分が上で反抗的(明代の記録)、江戸幕府の綱吉は中国人を雇って中国侵攻を企ててる(雍正帝時代の官僚の上奏文)ことが発覚してしまうため。
日本側で紀記が編纂されたのはもっと後になってからですので、口伝では失われてしまっていることも多いと思いますよ。一方、隋は比較的短命な帝国だったため、次の唐の時点でまだホットな話題を正史に記述することが可能でした。629年は大化の改新より前ですからね。ただ、魏志倭人伝もそうですが、当時は行き来が大変だったため又聞きの情報が多く、外国側の記述には誇張や誤解が結構あると考えられます。検証できないので、誤記を校正できなかったケースもあるでしょうしね。それらの矛盾を調査して、誤記や誤解がどちらかを明らかにすることに挑んでいる学者もいるでしょうが、確度の高い結論が出揃うまでにはまだまだ時間がかかるんじゃないでしょうかね。
讃:仁徳と履中に跨るので、仁徳=大讃岐、履中:伊讃別、という論理で一人に回る。珍:讃の弟=反正。済:允恭。興:木梨輕太子。安康(四年)では短すぎる。古事記では雄略の崩御年=四八九、日本書紀のままなら10年余る。つまり、以後仁賢まで全帝紀年を10年ずれる。
倭の五王も謎が深いですね。。
大変興味深く面白い題材ですね支配(為政)者三人体制、男女男ツクヨミ、アマテラス、スサノオが、頭に浮かんだ本当は2だけど1つ架空の存在を加えて3にし、安定を計る(宗教的)意味があったとかなんとか雑学で聞いた覚えが…確か、ツクヨミが本当は不在なので記述が少ないとかなんとか
陰陽道ね。
チョットだけ出てくる双六、バックギャモンです。正倉院に当時の双六盤が保存されています。
バックギャモンですか!正倉院展で当時のサイコロは見たことありましたが、双六盤もぜひ見てみたい。
南米の方でも結び目を情報伝達に使ってなかったっけ?
南米でも結び目を文字として使ってたのですか?南米との繋がりも気になりますね。
@@ch7072 調べたら数を記録するのにインカで使われてたみたいですね。その他にも中国とかアフリカとかでも使われてたみたいです。文字が出来るまでは結構オーソドックスな記録方法だったのかも
色々な説がありますが情報は沢山ある方が良いので今後とも情報発信をお願い致します。学校では絶対に教えてくれないですねw
コメントありがとうございます。励みになります。
旧唐書の方も宜しくお願いします。
いつかチャレンジしてみたいと思います。
面白い〰️ッ😊
ありがとうございます!
隋とか宋にも倭人伝があったのか知らなかった
他にもまだまだありますよ。でたらめすぎて抱腹絶倒モノだってあります。ある史書によると日本列島には牛をも飲み込む巨大な大蛇がいて剣でも切れない。ひたいに三つめの目がピカピカ光っていて、そこを突くと退治できるそうです。あまり中国史書を真面目に読みすぎるとファンタジーワールドの住人になりますよ。隋書はかなり上質ではありますけれど。ちなみに倭人伝ではなく、隋書は倭国伝ですね
@@toshiyam2853 ヤマタノオロチかな?
契丹古伝に、漢字以前の文字を天字といい、天字以前をト字、ト字というのは殷字であり、殷は元これ倭国なり)
おお!そうなのですね。契丹古伝はじっくりと読んでみたいと思ってます。
偽書だから読まなくていいよ
@@conspiracy_shine 偽書だという根拠は。それとあなたは、捨て垢ですが何か理由でも。
詳しい紹介ありがとうございます。魏志倭人伝だけ、あんなにこだわるのに、旧唐書もそうですが、隋書をほとんど日本人に紹介しない日本史学って、へんですね。幕末や明治期も、英文その他の外国の史料を使わずに、日本語だけで、外交を語る風習は変わっていませんね。
「魏志倭人伝」以外の書物も、もっと多くの人に知ってもらいたいですね。
ぶっちゃけると魏志倭人伝「だけ」にこだわるのは在野の一部の邪馬台国九州説ファンくらいです。まともな古代史ファンなら隋書倭国伝も当然読みます。「日いずるところの天子より日没するところの天子へ書をいたす。つつがなきや」のフレーズでも有名ですしね
九州王朝説が 気に なる 感じ ですね。
タリシヒコというのはやはり聖徳太子なのでは?仏教について熱く語る文書からして仏教に思い入れが強そうだし
なるほど。「仏教に対する思い入れ」という視点は重要かも!
魏志倭人伝の動画から来ましたチャンネル登録しますとても面白かったです話はかわりますが先日ツイッターで介護職の若い方が天照大神をてんしょうだいじんと読み90過ぎの入居者の方が怒ったと言うのを読みましたで、いろいろ書いてありまして指導する立場の上の方が宗教にかんしてどこまでふみこんで関わっていいのかって悩んでいらっしゃったのですが宗教って言うのに違和感がありましたもちろんおじいさんにとっては宗教なんだろうと思いますが神道の一柱でもあるわけですが(一柱っていうか最高神だったはず(汗))大学を卒業した期待の(その介護職の方の施設で)新人と言うなら歴史や理知的好奇心として読み方くらい知っててほしかったなとこのチャンネルを聞いて思いました仏壇神棚などない家が増えているなか消えてしまうのかとさみしい気がしますね宗教としても神道は面白いなあと思うし歴史としても面白いのにな読み物としても面白いのにもったいない広くあさーく記憶力の残念な私ですがこのチャンネル楽しみにしてます
コメントありがとうございます。確かにそうですね。私もこのチャンネルでは、歴史に興味がない方にも楽しんで頂けるような動画を作っていきたいです。
お~~~これ程の史書を解説付きで無料で聞けるとは・有難すぎて南無阿弥陀仏と平身低頭して聞いたぞよ!!
そのお言葉、有難き幸せにございまする。
9:30 弩なんてあったのか!
そうなのです!驚きです。
533年には阿蘇山という名前が確定していたというのは初めて知りました。やはり地名、山名、川名など自然に名前をつける権は大王(おおきみ)以来の天皇大権だったのだということが伺えますね。話は変わりますが織田さんが岐阜を命名したことで地名についてのみ、その原則が破れちゃいました。そのため危ない土地の名前をきれい名前に変えて売り出して多くの人が地震や増水などの被害にあっています。やはり天皇大権は犯すべからずなのですね。
確かにそうですね。その土地の由来、成り立ちが分かる昔ながらの地名は、むやみに変えてはいけませんね。
今のタイ王国にかご目の六芒星のような紋様は家の先.お寺によく飾っています.多分魔よけと招福のシンボール、猶太教と関係とはない. 秦氏ー族も六芒星(かもめ)をよく鳥居や建築に刻みます.秦と泰もよく似ている漢字.秦始皇帝も自ら泰山の上に封禪の儀式を行なったんです.この禪は古代中国にタイ民族の別の呼び名です.
今のタイ王国は中国の事を ジンと呼びます.日本人はそれは清王朝に因んで呼んだのだと思います. 実際は秦の音です.なぜなら廣東省と福建省の人が秦の癸音はJing.真実の真の発音もJing. 清の発音のチンとは全く違う発音、始皇帝が不死不老の薬を捜せたときの童男童女が西南夷.百夷の子供が専ら.ちょうど戰国から統一したばかりTなので若者は当然生産力と労働力の大きな元にもなる.漢民族もその後の匈奴の南下に防ぐため カを保存しなければなません.その童男童女は充分当時の大陸語が話すわけがない.、だから当時の言葉をそのまま島国に たつさわって来なかった.もしかして日本語は人工造語の一種..しかし秦王国は秦が減亡して逃亡した団体、その言葉も秦の方言に近い葉を話すはずだ(辰韓の民も秦の方言をしゃべる記載があります.
何で古墳についてふれていないのだろうね?
あ、確かにそうですよね。。
帰化して違う言葉を使っていても、些細な仕草や訛りとかで同じ文化を体験してる同国人なら何となく判る。隋の国史が衝撃を受けて記録したのかな。夢を広げるなら徐福の子孫とかなのかも…
秦王国の存在に驚いてる描写が興味深いですよね。徐福の子孫説はあり得るかも。
火(浄化)でも犬(多産)でも嫁入りの儀式ではありうるよなあ
なるほど。どちらもあり得そう。
ドチャクソ面白い!
如意宝珠…翡翠?夜になると青く光る魚眼の精霊…ホタルイカかな?
なるほど!ホタルイカ!
中学歴史では239年、4世紀後半、478年、538年、と飛び飛びでしか学習することがなく、独立した項目を覚えるだけで、流れが見えませんでした。この動画で、①その流れがあったということ、②日本書紀と隋書倭国伝に同じ歴史事項の記述がある、という歴史学的なアプローチの窓を開けてくれていること、に深く感銘を受けました。ありがとうございます。
こちらこそ、コメントありがとうございます。学校でも年号だけじゃなくて、その背景となる流れを教えてくれたら歴史も楽しく学べますよね。
戦後日本はGHQの指示の元、社会科は教えてはいますが歴史は教える事が禁止されていたので教えられていないんですよね。
何年に〇〇〇が起きました。としか教えないのが社会科で有り、自分で進んで学びに行かなければ、歴史を学ぶ事が出来ないのですよ。
大部分的中国人都非常讨厌日本人!
ほとんどの中国人は日本人を大嫌いです!
@@shika1999
???歴史を何から学ぶのでしょうか?正しい日本の歴史は教科書なのですか?
日本書紀も古事記もあやしいのに、何が日本の正史なのですか?
喪服が黒になったのは明治以降で明治天皇のお妃の昭憲皇太后が西洋に倣って喪服は黒にしたと聞いたことあります。今でも一部地域では葬式の喪服は白装束ですし、お棺に入れるホトケさんは白装束ですね。武士が切腹する時も白装束で行います。日本で喪服が黒になったのは歴史的にはごく最近の話でしょう。
確か、落合正勝さんという服飾研究家も、昔の喪服は白と言っていたと思います。
純白のウェディングドレス、なんて明治の人たちは驚いたんだろね😂
随分と昔の話だけどうちの田舎では曾祖父さんの葬式の時みんな白いちゃんちゃんこを着てたなぁ。
@@アカバケン-n9c 白無垢は昔から着てたから……
そもそも死が嘆き悲しむべきものではなかったかも知れない。この動画にもあるように、屍の傍らで「歌い、舞った」のだから。
そういう価値観は大陸の宗教が入ってきてから、崩れたと思う。地獄と極楽だとかいう概念が入ってきてから。
とても面白かったです。次回作に期待しますので、是非続きをお願いします。
コメントありがとうございます。この続編(日本書紀に記述の裴世清ご一行の来日記事)は、「小野妹子『国書紛失事件』の裏に隠された歴史の真相」ruclips.net/video/E6oFIygWHfA/видео.html の動画になります。
よろしければご覧ください!
とても面白かったです!有難う御座いました。
コメントありがとうございます。励みになります!
素晴らしすぎ!!
旧唐書 新唐書
の倭国伝も聞きたいです
急ぐ事はないので 待ってます
よろしくお願い
ありがとうございます。リクエストにも機会を見て挑戦したいと思います。
近現代史には興味があったのですが、最近古代史にも興味が出てきました。当方のようなど素人にもわかりやすい解説ありがとうございました。このお話は全く知りませんでしたが、全てを信じられないにしても空白の150年を埋められる貴重な話ですね。これからも楽しみにしています。頑張って下さいね。
嬉しいコメントありがとうございます。頑張ります。
大部分的中国人都非常讨厌日本人!
ほとんどの中国人は日本人を大嫌いです!
めちゃくちゃ興味深い!!
なかなか中国の史文に触れる機会がないので面白いです。
中国側から見た当時の日本ってところが興味深いですよね。
大部分的中国人都非常讨厌日本人!
ほとんどの中国人は日本人を大嫌いです!
こういうゆっくり解説はわかりやすくて非常に勉強になる。
事前に文献勉強してないと作れないし個人じゃないだろうけど大変だろなと思う。
コメントありがとうございます。歴史好きな素人が一人気ままに作ってます。個人的な趣味嗜好で作成してるので、取り上げる時代に偏りが。。。
@@ch7072 申し訳ない、企業ではなく個人なんですか
大変だろうけど勉強になるんで
応援します、登録しました。
@@kamicop1234 日本人先跟中国的慰安妇道歉!
大部分的中国人都非常讨厌日本人!
ほとんどの中国人は日本人を大嫌いです!
日本が送った遣隋使や遣唐使より、隋や渤海から来た遣日使の方が数が多かったとの説もあるので、向こうには複数の文献が残ってるかもしれませんね。
そうですよね、残っていたらぜひ読んでみたいですね。
山形県って渤海と貿易が盛んで、その影響で渤海人が多く渡来して混血したとかあるから、あながち嘘でもないかも。
日本人先跟中国的慰安妇道歉!
13:46 柏の葉・・その風俗は皿や膳はなく柏の葉を敷く
当方の推測ですが、「柏の葉は食器に使う」でなく神様に御供えする際に使うもの
で、柏の葉でおもてなしをしたと推測しています。
*徳島県阿南市に賀志波比売神社(かしわひめじんじゃ)があり、724年の
創建で延喜式内社で、現在は津峰(つのみね)山頂の津峰神社(つのみねじ
んじゃ)に祀られていて、賀志波比売は天照大御神の幼名と考えられている
んですよ。
御神紋は八角形で神様に御供えする三方(さんぼう)のことで、古くは柏の
葉が使用されていたんですよ。現在も皇室では神事には柏の葉が使われてい
るんですね。
なるほど!そうなのですね。勉強になります。
10:14 これはまさしく盟神探湯ですよね。中国の記録にも残ってると知ってテンション上がりました。
そうなんです、こういう記述が出てくるとテンションあがりますね。
18:16~ 秦王国が!って5世紀の中ごろに秦氏が大勢で移民してきたというけれど、その集落があったのかなぁ。
その可能性も考えられそうですね。
半島に秦韓(辰韓)という地域は秦の滅亡後に.逃亡して来た避難民が建国した国.そっちの民は秦の原郷の方言を今迄使用したと古藉に書いてあります.一つの例として、今のシンガポール,マラカの華僑は明十五世紀)から入植した華南人・それでも今迄華南の方言が主流.例えば人の苗字の陳はタンと発音・許はコ と発音.劉はラウに、楊はヨウと華南ふうの発音を使う、秦王国の人々も倭人に同化されるまで二、三百年は必要します.大陸の使者が秦王国を通過するときただ簡單に中華と同じと述べたわけです.徐福の時代の人と後ちの秦王国の人々(秦韓)の出発点は違うと思います.后者は半島を中継地として日本に辿りつく秦の后裔らしいです.
16:05 糸魚川とかで取れる翡翠のことじゃないかなあ。。。
史記から始まる二十四史は、編纂時期が時代順じゃないですが、
前史を継ぐという考え方があり、前史と異なることは書けないんですよね。
編纂当時は、様々な資料が残っていて、それらを駆使しつつ、前史を読み解いて
前史とオーバーラップする部分を書いていたそうです。
隋書は656年編纂ですから、前史とオーバーラップする部分はかなり正確なんだと思います。
なるほど!
@@ch7072 さん
後漢書は、魏志倭人伝のある三國志より時代が前ですけど、編纂は後です。
三國志の次の時代は、晋書、宋書、南斉書、梁書、南史、北史、隋書と続きますが、
晋書の編纂は、隋書の後です。
倭人のことを、後漢書ではどう言ってるか、晋書や宋書ではどう言ってるか。
魏志倭人伝で不思議な書き方をしている部分も、読み解けるかもです😁
出雲国では今でも青い瑪瑙が取れるので、それが見た目に近いかな。
ただ、裴世清の移動経路的には福岡県糸島市の平原古墳にも瑪瑙の出土例があるから、
こっちのほうかもしれない
@@さどはらめぐる さん
出雲の瑪瑙ですか。なるほど~。
平原はかなり高貴な女性のお墓ですよね。怡土郡(伊都國)の。
詳しく教えて頂きありがとうございます!
面白かったです
知らないことだらけでした
タリシヒコ…何者なのでしょうね?
…あと…金印は、偽物説があるそうで…?
タリシヒコに関しては、中国では女帝がいないので、女だと軽んじられないために男として紹介した説と、
実は聖徳太子は即位していたのではないか説があるらしいですね
タリシホコは、九州王朝の王と理解してます。
@@加藤勉-g5p残念ながら違うよ
@@加藤勉-g5p古田武彦信者乙
@@加藤勉-g5p
九州に王朝はありません
突厥可汗達頭、つまり聖徳太子は倭王です。
新婦が火を跨いで家に入る風習は、昭和の初期まで残っていました。私の両親が生前見たことがあると言ってました。家の入口に豆幹(まめがら)に火を付けて新婦が跨いで入るらしい。その時に、箕で扇ぐのだとも言ってました。
昭和初期まで残っていたのですか⁉ とても貴重な情報をありがとうございます。ちなみにどの地域でしょう?
@@ch7072 武蔵国(埼玉県)です。30年前くらいですか?古代には、犬を跨いで新婦が家に入ったらしいよ、と両親に私が言うと。「豆柄に火を付けたのを嫁さんが跨いで玄関に入って行くんだ…」と母親が言ってました。父親も聞いていて、箕で火を扇ぐんだよと言ってましたね。近所のAさんが嫁に来た時に火を跨いだのを目撃したらしいです。
埼玉県ですか!私も調べてみたいと思います。教えて頂きありがとうございました。
ずっと後の時代の「元史日本伝」や「明史日本伝」、大枠で日本側史実と一致するも細かいエピソードはかなり脚色されている。盛んに交流があり、直接戦火を交えた時代でもそんな感じなので、古代日本についても、外交関係や国の概要はほぼ正確だが、習俗や指導者に関しては実は結構トンチキに描写されてた…と思っている
日本人先跟中国的慰安妇道歉!
天のたらしヒコって、天子の日本語読みとも言えますし天孫もあり得るんですよね。また、天子の子≒聖徳太子(上宮王)でも違和感はないんですよね。
女帝も引きこもりで上手く行くし、蘇我馬子と厩戸皇子って馬繋がりもあるのでそもそも蘇我氏が皇族もしくは近い存在なのも自然です。
大化の改新前後で蘇我も上宮王家も没落していますので、この時期は記紀にもきちんと記されている(むしろ壬申の乱前後が怪しい箇所が多い)ところも垣間見れて面白かったです。
なるほど!天子や天孫の日本語読み説は納得がいきます。飛鳥時代は面白いですよね。
興味深いお話を有難うございます。秦(しん)をハタと読み、秦以外にも「波田・羽田・旗」などを充てて「ハタ」と読む姓を持つ方たちのご先祖様のようですね。大陸からの渡来人と言われていて、歴史上では秦河勝が広隆寺を建造となっているようです。京都には今も太秦(うずまさ)という地名があり撮影所があります。国というのも今の国の事ではなく、血の繋がった一族が集団で居住し「邑」などを形成し、クニと呼びならわしていたと思われますね。現在も故郷を「クニ」と呼ぶのはその名残でしょうか。隋書をそのまま伝えてくださった処が良いですね。47は古来大仰な表現があるので日本側の記述などとの比較も面白いでしょうね。聖徳太子が隋の煬帝に宛てた書の「日出づる国の天子、書を日の没する国の天子に致す恙無きや」に、煬帝が激怒したという話は如何なのでしょうか?。使者が斬首されたとも伝わっていないようですし。
確かに、秦一族の痕跡は色々なところに残っていて興味深いです。
京都太秦には、秦氏(ユダヤ人12種族の1つ)一族が金銀財宝を持って来た・と?なにかの説明で有りました。秦と言う名前は今でも奈良県には有ります。以上知らんけど?
日出ずる国.....という国書は創作の物だと思います.なぜなら日本人固有の性格とずいぶんかけ離れ違います.日出国の日出は東の漢字を表わすでしょう.今のタイ人は東の事をTawan- Orkと言います. 西の事はTawan-Tok. タイ語に Tawan=太陽(大丸).Ork=出る. Tok= おリる.下がるの意味.それは純粋な古代人の視覚方向の感念、ほかに花嫁がお婿の家に入るとき 火か犬に跨って家に入るのも今大陸人、少数民族にもまだ残っています.犬のかわりに猫を使うのもあります. 厄払いのー種です.角隠しの風習も今では傘をさす.花嫁の頭から赤い頭巾(古代はまだ白い布).毛布で包むような風習.頭に大きなわら笠をかぶて嫁ぐような姿が見れます.インドの花嫁もサリで頭を覆うような格好をする、巫師が花嫁の身辺に火鉢または盆の上に少量の火で清める儀式があります.多分南方的な風習.
遠回しの表現で日本は黎明であなたの国は凋落していると捉えたから激怒したと類推できる。実際に、煬帝の頃に色々な問題があったから思う事あったのだと理解しやすい。
あと当時でも外交の使者を切ることは外交慣例違反だったからと理由を考えることもできる。殺すということは現代で例えると大使館の旗を降ろすことと意味は同じ。
@@大阪の男-b4u 「以上知らんけど?」とはどういう意味ですか?
めっちゃ面白かったです。
「秦王国」ってもしかして「秦氏(はたうじ)」の領地の事かも知れませんね。
裴世清は筑紫から瀬戸内ルートでやって来たんですかね?
ありがとうございます。日本書紀では難波に到着と記述があるので瀬戸内海ルートだと思うのですが、隋書倭国伝の記述はちょっと曖昧なんですよね。。
ロマンだなや 想像が膨らんでたのしい 脚色はあるかもだけどノンフィクションなのが良い
ロマンですよね~!
15:25 これって、長崎でも今も残ってる精霊流しの風習に似てますね。もし関係があったら面白い。
精霊流しですか!なるほど、似てますね。当時の風習の名残かもしれませんね。
@@ch7072精霊船は、今もありますよ。私の地元も、藁の船に供物を載せて川や海に流しました。さすがに遺体は乗せませんが。
盟神探湯のことも記載されてるのが信憑性あるな
そうなのです。日本書紀の内容と合致する部分が多々あるので、余計に謎が深まります。
魏志倭人伝はけっこう取り上げられるけど、他のはそこまでって感じする。
その中での、他の正史から見た倭国っておもしろいですね。
隋の煬帝が、聖徳太子からの国書に激怒した経緯が載っているのが、この隋書倭国伝です。
宋書倭国伝もあります。
続編をやって下さい。
リクエストありがとうございます。また動画にしていきたいと思います。
隋書。これ、昔読んで不思議だったんだぁ。懐かしいです。
「秦王国」のくだりなんて特に。(倭國じゃなくて「俀」國表記も)
私見ですけど、瀬戸内沿岸から京都太秦にかけて、秦氏の足跡が多いんですよね。(九州瀬戸内側の豊前宇佐八幡宮をはじめとする八幡信仰や、播磨に多い太子信仰も。)
秦氏といえば例えば赤穂の北の「坂越」。その周囲、播磨、備前、備中、備後の各地に秦(幡多・服部さんなど)の氏や地名、さらに言えば、加百(かど)さんのような、不思議な日ユ同祖論に繋がりそうな難読姓。(私は秦王国は吉備王国の構成国の1つだったと思いますけど。)
ともかく随所にワクワクしたものですww
歴史ロマンです。
日ユ同祖論など、色々な説を読むと本当にワクワクします。まさに歴史ロマンですね。
秦王国は、素直に周防国(山口県西部)と読んだ方が良いと思います。
勿論、渡来系の人々も多く住んでいたと思われます。
@@rengesouh176 さん
ありがとうございます。
「素直に」が少しわかりませんがw、周防も含めて瀬戸内の沿岸上に秦氏にちなむ地域があるのは間違いないようですね。
もし行かれたことがないようでしたら、秦河勝にちなむ播磨の坂越に参られるといいと思います。古い神社や町並み、伝建地区と海の風景が美しいですよ。
ともかく古代吉備の勢力圏(加古川以西)には不思議な氏族が幾つかいたようです。
@@masaf2717 他の地名は音読みするのに、秦王国だけ訓読みの「はた」や渡来系「秦氏」を強調して、周防説や沖ノ島航路などに触れないのは、完成度的に勿体無いかなと思われました。
このイ妥という文字は タイと発音します.大昔、長江流域の南側は今のタイ人の祖先の発祥地.中国人がこのタイ人を禪(Shan)人.百夷(白夷). 越裳人(裳は禪と同音)..タイ人は中国史に暹羅と呼ぶのは暹人とLavo人の混居している国を総括して呼ぶのです.タイ人にとって タイは自称に使うのですが・ShanとSiamは他称だそうです.二十世紀の四十年代初頭日本が当時の独裁車人披鑾に協力し泛タイ主義の国家タイ国(泰国)と改名しました.タイ人が大挙東南アジアに遷徒したのは宋の十世紀頃、北方遊牧民の南下による時期に当リます.のちのモンゴール人の流入の時期それはタイ人の南下のピークです.モンゴール人が中国を治める時.中国に四つの階級の民族に分けて統治する.ー番下は南人. タイ語に南の発音はタイ.ちょうど南人の意味.昔倭という国に皆が大夫と自称したそうです.実際夫はタイ語のPeopleの意味です.なぜ当時の日本をイ妥国と呼ぶですか.
隋書って色々と謎を増やしてくれるよね🤔💭
多利思比狐もそうですが、秦王国、如意宝珠と謎だらけですね。
朝貢、冊封と言う言葉の意味も解釈の仕方がいろいろだとか聞く。
主従関係と言うより現代の交易安全保証みたいな物だった説に信憑性を感じる。そして焚き書が当たり前にあったら…寧ろ行間を読むくらいが適当なのかも。
ためになるな~。
ありがとうございます。励みになります。
私は隋書と共に魏志倭人伝を比較したりします。
書かれている年代が違い、魏志倭人伝の方が古いのですが。興味深い部分があるからです。
隋書だと、日本には文字がないと書かれており、百済を通して学んだとあります。
しかし魏志倭人伝には、日本には漢字に似た文字が使われていると記載があるのですよね。
ここで、気になるのは。日本語はカナの読みに、漢音だけでなく呉音があり、呉音の方が古い発音です。また仏教でも中国仏教では少ない呉音で発音するお経が日本にはそれなりにあるという事実があります。
これらから、漢字伝来はもっと古く、既に日本は万葉仮名で漢字を利用していた事。また仏教もそれより前に、隋や唐の仏教文化が百済経由でくる前に、中国仏教より原初に少し近い仏教が日本に来ていた事が伺えます。
このルートは南方の黒潮交易ルートで、日本は中国大陸の東南部からの文化が来ていたと考えられます。実際、教科書で習う漢字伝来時期より前に漢字の使われた遺物が考古学的に発見されていますしね。
ただ、隋や唐は中国北方の発音中心に持つ国家です。隋や唐では中国南部の発音は下に見ており、それ使う日本を「北方の言葉を知らない」というのでそう書いたのでは?と考えています。
それと同時に、日本も交易で対等に立つために、北方の中国語発音を必要として、中国北方と交易していた百済に教師やそれに為の書籍を求めたのではないでしょうかね。
また朝鮮の新羅伝には、新羅に日本から僧が来て色々教えたという事が記載されています。これ仏教伝来より前の時代の話ですね。
所謂1次資料の発見目的で)日本の古墳を片っ端から発掘調査してみたらどうなるか??とか考えたりしてます!!
それ、いいですね!歴史をひっくり返すほどの「何か」が出てきそう。
中華の地でも白い着物が喪服だったけど、春秋五覇の文公が亡くなった時に隣国の秦が攻め込んできた。葬儀の真っ最中だった息子の襄公が「喪服のままだと縁起が悪い」と墨に漬け込んで黒くして出陣。見事秦を返り討ちにした
この吉例以降中華でも喪服に黒い着物が浸透していったみたいです
貴重な情報ありがとうございます。そういう逸話があったのですねぇ。
大化の改新の時に消されたことも多いだろうから海外にこういう文章残ってるのはありがたい
本当にそう思います。
@daisuke5755 偽情報の可能性でいうなら、自国で編纂した書物の方が圧倒的にその可能性が高いと思いますが・・・
自分の国の歴史は、その時の権力者の都合のいいように歪曲しがち。一方、外野の他国は客観的に記述すると思います。
@@ayabe9036 自国の歴史を歪曲したのではなく恣意的な表現をしたというのが正しいと思う。一方で現在の中国大陸にある記録については漢人だけでなく、それ以外の民族が代わる代わる当時の日本についての記録を残してることはあるけど、一部は一致するけど間違いも多い。間違いとは土地の距離感や名前とかね。一例としてタリシヒコだけでなく足利義満とかも勝手に王を名乗って勝手に交易してこれが記録に残っているだけと判断したほうがいいと思う。日本に記録はないけど当時の中国にはあったから日本が歪曲したと判断するのは早計じゃないかな?
@@papiyaspapiyas6265 割と当たり前のコメントをしたと思ったけど、そんなに気にいらなかったですか。
まあ、中華政権は中華思想がありますからね。。。
とは言え日本の資料も国策文書なので、「資料としての事実」は示せますが、「真実」等は分からなくて当然ですよね。
これらを突き合わせて「真実」とやらを推察していくしか無いのでしょう。
十二身分制度が怪しいですが、やはり邪馬台国が属する北九州の「倭国」系統と、畿内の「大和王権」系統が別物であると考えた方がしっくり来ますが。。。
16:00夜光虫のことかな 唐津の辺りで見れますよね
なるほど夜光虫!夜になると青く光るとか、魚眼の精霊とか、それっぽいですね。
皆んな自分の国の成り立ちを知りたがるから、倭人伝解説動画は伸びますね
その様ですね。動画を作った私が一番驚いてます。
大部分的中国人都非常讨厌日本人!
ほとんどの中国人は日本人を大嫌いです!
九州で発掘作業してるボランティアの人たちが言ってた。
「基本的に掘ればいくらでも何かしら出てくるよ。」
九州に限らず掘ってないだけで、日本中掘れば色んなものが出てくるんだろうね。それこそ不動産屋とかは戸建やマンション建設にあたって掘って何か出てきたけど、公表すると大損するから黙ってるってケースはおそらく腐るほどありそう。
確かに、そういうケース多そうですね~。
あの論理なき考古学と馬鹿にされる邪馬台国論争も、ペラペラのメモ書きみたいな魏志倭人伝は使うけど隋書とか本当にシカトしますよね
面白かったし勉強になりました!
コメントありがとうございます。
ネットと同じで、自分の考えに合うソースは信頼し、不都合なソースは無視するかガセ扱い。
😮😮
魏志倭人伝のみが正書であるようですが(ほかは認めない)その論拠は何?
だろうね
@@abeleuler1
他の史書には、日本国民に知られたくない、文部科学省にとって不都合なことが書かれているのだと推定。
(書かれていることの真偽は別問題。文科省にとって都合がいいかどうかが問題。)
12:50 卜筮(ぼくぜい)でなく巫覡(ふげき)を用いていた。の表記は「占いではなく神託を使っていた。」の意ではないでしょうか?
それとも翻訳の影響や時代考証的に巫覡という言葉や神事に男の巫女が使われるのが一般的だったのでしょうか?
ご指摘頂いた通り巫覡=神託の意味かもしれません。
動画作成時は、魏志倭人伝に記述の「持衰」が男性ということから、巫覡も男性という認識でしたが、よくよく考えると当時は巫女=女性、巫覡=男性といった区分は無かったかもしれないと思うようになりました。
入れ墨は少し前まで船乗りも入れて居たらしい。
というのも落水して行方不明になったとき、体の一部が発見されたら入れ墨で個人を特定できるからだそうな。
当時の九州北部の人は刺青をする習慣があるけど、
大和の人はその習慣がないんじゃなかったっけ?
日本書紀にあったような。神功の頃の話しで。
古代はどうしても,例え大陸に文書が残っているものでさえ,
日本の教科書的に恐らく有力(最新研究で明らかに誤りと分かるものもあるそうだが)とされるものが飛び飛びで教えられるので,
「結局分かんないんでしょ? 」で終わらせてしまうことが大半…
今回は,取り敢えず隋書から分かる部分ともっと謎の部分は良く分かりました.
新羅が女王を戴いていたことに対し「女を頭に戴くのは野蛮」と改めさせた、というのが当時の中国側の感覚なので推古女帝ではなく聖徳太子が国王・タラシヒコとして対応したのかもしれませんね。
その可能性は大きいと思います。聖徳太子は国外の情報をかなり正確に把握していたと思うので、対外的に男帝として対応したのかもしれませんね。
王(女王)を戴く(いただく)って言いません?
新唐書では「日本側の使者曰く、タリシホコは用明天皇の事らしい」
日本書記では用明天皇はずっと近畿にいた。もちろん阿蘇山の近くで暮らした記録もない
@@ak3799 ありがとうございます、誤字ってましたね😅
基本的に我々が知っている天皇名は崩御後のおくり名ですので、在位中は別の呼ばれ方かと。
ペルーの古代文明の遺物展を見に行った時、ひもの結び目で文字を代わりにしていたとあった。共通点にびっくりする。〇やひもって、日本のペトログリフは〇が多いですよね。
秦の始皇帝の時代、徐福がお供3000人を引き連れて、蓬莱国(多分日本)に来てますよね。
まだ、当時は中国の村だったのですね。 富士王朝なんかも本当に存在してるかと思う。
大変楽しい動画でした。
ペルーの古代文明との共通点!貴重な情報をありがとうございます。富士王朝は気になりますよね~。
無茶苦茶調べていてすごい!
こういうのはどこで学べるのでしょうか??
よくよくみると「倭」という漢字はにんべんなので、蔑称ではなさそうですね
蔑称だと狗や鮮卑など動物や卑しい意味の字が当てられてますもんね😊
1文字だしね
こういう事に興味が出始めると、歴史が好きになりそう。
正直、学校で習う歴史の授業は、年号とか人物の名前を覚えるのが主だったので、
ちっとも興味が持てなかった。でもこういう内容ならば、苦にならずに聞けて良い。
コメントありがとうございます。
授業って年号や人物名の詰め込みだけでしたね。先生の力量で、こういった資料や小ネタを紹介してくれると歴史に興味持つ生徒が増えるのになぁ、と思います。
日本の本当の歴史に興味を持たないように、日本史の授業は意図されているとしか思えない。
@@アカバケン-n9c 日本史の教科書はほぼ全部パヨ学者が書いているからね、なるべく日本をディスりたい。
いう程年代や人名覚えるのが主ではない筈。自分が歴史の意義や因果関係に興味中無かったから印象にないだけではないかな
私の中学の先生は、通常は板書の量が多く、定期試験の解答欄が(100点満点なのに)130か所あったりして、受験対策はしっかりしてくれたのですが、スピードアップして時間を余らせた時間で色々な話をしてくれました。
日本海海戦の東郷平八郎の戦略とか、226事件のクーデター失敗はNHKを押さえられなかったからだとかを物語として語ってくれました。
手が痛くなるほど書き続ける授業が多かったのですが、単元ごとのお話の時間を楽しみにしていたクラスメイトは多かったです。
ちなみに生徒が協力的でなく授業が停滞するとお話の時間は無くなるので私のクラスは必死についていきました^^
あ とかひらがなって、知らない人には紐の結び目を描いて文字としてコミュニケーションを取ってるように見える気がする
確かに、そう見える気がします。
中国で他国人の名は、その発音に近い漢字を当てます。
たとえばタリシヒコを漢字でどう書いているか、当時の隋でその漢字はどう発音されていたか、それが本当の名前になると思います。
卑弥呼だって当時の魏の発音で読むのが正しいと思います。つまり正しい名前は「ヒミコ」ではなさそうです。
確かに。小野妹子の「妹子」は「因高」と記録が残っているそうです。
多利思北孤ですね。タリシホクコまたはタリシホッコに近い発音になると思います。
「北」を「ヒ」と発音することは無いようです。
「彦」と読ませたくて「タリシヒコ」にしたのではないでしょうか。
歴史学者のご都合主義です。
意外といろいろなことが書いてあるんですね。謎が多い邪馬台国についても、その頃の空白期間についてもいろいろわかりそう。でもあまり知られていないのはなぜでしょうね。
日本書紀に記載されてないことが多くて面白いですよね。あまり知られていない理由は、タリシヒコの存在を受け入れると推古天皇の存在を否定することになるからでしょうか??
@@ch7072 横から失礼。古代史を研究している者です。
天垂彦は和邇氏の祖押人のことだと思います。宇那比姫の元夫。そこから王朝が続いているという意味。
中国で神とか天皇とか言っても通じません。支配している王は誰かが全て。
稲荷山古墳の鉄剣は知ってましたが江田船山古墳のは初めて知りました
これはいつ頃の年代と推定されてるんでしょうね🤔
江田船山古墳の築造は5世紀〜6世紀初頭だそうです。ここの鉄剣にも稲荷山古墳の鉄剣と同様にワカタケルの文字が刻まれています。
漢字文化で本当に良かったよな歴史の面では。
喪服の話で思い出したのが香典袋と一緒で普段着は濃紺、喪服は薄い紺で『涙で色が抜けました』って事を表すのを聞いたことがある。明治…以前の平民の服だったような…地域的なものもあるかも?
表現が美しいですね〜。
このお話で吉野ヶ里公園が出てきましたが、今度はそばにある徐福金立公園もお願いいたします!
はい!いつか徐福伝説についても動画にしたいと思います。
倭国伝(中国正史に描かれた日本)講談社学術文庫 久しぶりに読み返してしまった。
後漢書・魏書 以外は紹介がほとんどない 倭国伝・日本伝 だけどどれもおもしろい。
短期間に視聴数が激増していますが、じっくりと続編を待ってます。
日本人先跟中国的慰安妇道歉!
この歴史的番組動画、なんか見てる人のレベルが高そうですね。
回答、コメントが凄いですね。
『土地は肥沃で、水や沢地が多く陸が少ない』の箇所は平野部が少ないってことかな?
日本は国土の7割が山で平野部以外だと盆地に人が集中しているのは今も変わらない、動画でも言っているけどこの当時は内陸まで海が入り込んでるから余計平野部が少なかったのを陸が少ないと表現したのかな?
それと『気候は温暖で、草木は冬も青い』の箇所は縄文時代に九州の喜界カルデラの大噴火で降り積もった火山灰が西日本の植生に大きな影響を与えたそうだから、この当時はその影響が続いて落葉樹ではなく針葉樹などの常緑樹が主流だったのかなとか色々想像が広がって面白いです(^-^)。
こんなに色々想像して楽しめるって隋書倭国伝最高ですね。
列島に平野が少ないのは動かぬ事実です。黄河流域の中原なんて山なんかどこにもない。列島で山が全く見えない場所なんてどこにもありませんよね
黄河流域からくれば日本はなんて緑が多いのだろうと思うでしょうね。今だって落葉樹ばかりじゃない。というか西日本はもともと常緑広葉樹が優勢です。あまりに寒冷だと稲作の浸透が厳しくなります
喜界カルデラの噴火は7300年も前。飛鳥時代はたかだか1500年前。土壌の性質は現代とほぼ同じと考えてよいでしょう。弥生時代の前から北九州では稲作が浸透しています。影響なんて無いも同然でしょう
有難うございます。聖徳太子6世紀=大阪四天王寺・奈良法隆寺=遣隋使の時代。ここは隋書と一致してますね。一方国内に卑弥呼(3世紀)・邪馬台国の痕跡がなく、神功皇后(3世紀)は証拠により実在したとされるので、関係が気になります。が、人物像は違いますね。ヤマトタケル(2世紀?)、仁徳天皇(4世紀)、雄略天皇(5世紀倭の五王の1人)謎多いです。
「邪馬台国の痕跡がなく」
「邪馬台国」をヤマタイ国と読むのが間違いです。ヤマト国と読めば今も連綿と続いています。
そもそも漢字には一つの文字に一つの読み方しかありません。それは今も当時も変わりないと思います。卑弥呼の後継者の台与をトヨと読みながら、邪馬台国をヤマタイ国と読む日本の歴史家の意図は何なのでしょうか?邪馬台国を大和朝廷と結びつけたくないという悪意しか感じないのですが。
「邪馬台国の痕跡がなく」
「邪馬台国」をヤマタイ国と読むのが間違いです。ヤマト国と読めば今も連綿と続いています。
そもそも漢字は一つの文字に一つの音が原則です。卑弥呼の後継者の台与をトヨと読みながら、邪馬台国をヤマト国と読まない日本の歴史家達の意図は何なのでしょうか?邪馬台国と大和朝廷を結びつけたくないという悪意しか感じないのですが。
タリシヒコ・・・後の蘇我氏の専横を考えると蘇我馬子じゃないかな。
女帝って考えは当時の中華にはないし、唐代に則天武后が初めて女帝として登場して
中華人が驚愕したんだから、推古天皇をタリシヒコ(蘇我馬子)の妻と考えても不思議はないな。
その説はあり得るかもしれませんね。
ところで、件の金印は年代測定されたのでしょうか? 以前、ブルーバックの本で 「金印は年代測定されていない。」 というのを読んだことがあるのですが。
ウィキペディアによると「贋作というには不都合な点が多すぎるため真印の可能性が高い」そうです。真相は分かりませんが、実物を見るとテンションは上がります。
@@ch7072
金印は、すでに説明したが、「漢王朝の土産物用のレプリカ」でホボ確定されてるな。
いねぎは、稲置のことなのかな。
秦国というのは、中国からの渡来人である秦(はた)氏が支配していた地域のことかも。
「青く光るもの」って信号機しか知らないけど(笑)、なかなか興味深い内容にびっくりしました。
青く光る如意宝珠の正体は一体何だったのでしょう。。
ヒスイでしょうね。北陸の糸魚川流域は縄文時代からヒスイの産地として著名で、そこで取れたものが全国、さらには半島にまで流通していた事が成分分析で判明しています。倭国の特産品ですよ。ちなみに弥生時代を通じて質の良い一級品は北九州に集約されて出土します。その後はもちろん畿内です
@@ch7072
私見ですが「ブルーフローライト」なんかがそれっぽいんじゃないかと。
採掘されたフローライトのごく一部はレアアースを不純物として含み、そのせいで太陽光に含まれる紫外線を吸収して日没後に1時間ほど青緑色の蛍光発色するものがあり大昔は珍重されたそうです。
現在の日本では鉱脈が枯渇してしまいましたが、かつては全国の150か所近い場所で採れました。
興味深い。
タリシヒコは「阿毎多利思比孤」アメタリシヒコとネット上にあったのを見て思ったのは、「アマテラス」を中国語で当時聞き取った当て字の可能性です。「天照国照彦」で「照彦」を「テラスヒコ」と呼んでいた可能性は無いですかね。
興味深い説だと思います。
全ての事物を見聞き出来たわけでは無いだろうから、隋の使者が参内した時に見ることが出来たものの記録ということなのでしょうけど、今教えられている歴史が必ずしも正解ではないということは覚えておいて欲しいものです。
同感です。
雅楽は、東大寺の大仏開眼節会の際に西域の賓客が連れてきていた楽団が演奏した祝賀演奏を見た当時の若い貴族たちがハマって真似し始めたのが起こり、とされているので、それ以前の音楽がどのようであったかを再建する試みは、ほとんどない?し、うまくいったこともなかったのでは。
雅楽の成り立ちについては分らない事だらけですね。古事記には仲哀天皇が琴を演奏したり、日本書紀では612年に聖徳太子が伎楽を奨励している記述はありますが、「雅楽」がどのように発展してきのか興味深いです。
@@ch7072 おそらく、アジア大陸の各地からさまざまな人々(民族や集団)によってさまざまな楽器と共に少しずつ入ってきたのでしょうね。もちろん文献史料があればいちばん間違いないのですが、楽器という物の性質に規定される面もあるのかもしれません。
時代はかなり降りますが、たとえば平家物語のような「琵琶法師の語り物」における平家琵琶のように、何か大きな事件を伝えるためのメディアであったり、その当事者のアイデンティティとして重視されたりすることによって特徴づけられることもあるかもしれませんよね。
私が述べた「雅楽の起源」についても、実は出所は不確かなまま伝聞で書いてしまいましたが、何らかの「公式見解」かそれに近い扱いを受けている説だったように思います。
が、「公式」でなくても、人が流入すればそれに連れて楽器も入ってくるのは全世界共通なので、琴にせよ箏にせよ琵琶や笙、篳篥…その他の楽器はいろんな時代に少しずつ入ってきた、というのが実は最も実態に近いのかもしれません。
日本雅樂會によれば
>雅楽は1200年以上の歴史を持ち、日本の古典音楽として、また世界の古典音楽として外国でも非常に高く評価されてきています。
雅楽は、日本古来の儀式音楽や舞踊などと、仏教伝来の飛鳥時代から平安時代初めにかけての400年間あまりの間に、中国大陸や朝鮮半島から伝えられた音楽や舞、そして平安時代に日本独自の様式に整えられた音楽などです。
とのことでした。
必ずしも「東大寺大仏殿開眼節会の時に…」というだけではなかったのですね。(その話は多分「琵琶」の伝来についての説話だったのかもしれません)
「あめ たりしひこ」じゃなくて「あま たらしひこ」すなわち「天垂らし彦(天からやってきた男子)」言い換えると「天孫」、役職名なんじゃないか?って説があるみたい。
なるほど、説得力のある説ですね。
日本は日本の都合の良いように歴史を綴るし、中国は中国で都合の良いように歴史を綴る。色んな国の視点で考察するのが良き。
同感です!色々な国の視点で考察すると、点と点が繋がることがありますね。
木の刻んだ形と縄の結び目の形、てカタカナとひらがなですよね。
なるほど!そう見えますね。
魏志倭人伝は知ってましたが、隋書倭国伝は知りませんでした。
検索したら、色々とあるのですね……教科書に載ってないのは何故なんでしょう。
今回の動画でちょっと取り上げた、宋書倭国伝の動画は作るんでしょうか?
教科書に「こんな文献もありますよ」的な紹介があってもいいのになと思いますよね。宋書倭国伝も後々動画にしようと思ってます。
おもしろい!
ありがとうございます。
「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや。」
それなりに政情を把握していたから礼儀を弁えてるのに、
「お元気ですか?」って追い撃ちするのが最高に面白くて大好き。
我慢出来ず「無礼者」と言ってしまう皇帝もかわいい。
この時代の日本は大和政権の他に王国があったと考えるのが自然かもしれない。
蘇我氏がその他王国の最有力者だとしたら亡き者にしてしまうと
めでたしめでたしという事になるね。
「お元気ですか?」の追い打ちセリフ最高ですね!
倭国❌倭皇⚪・らしいですよ。知らんけど?
@@ch7072 いきなり、607年の書簡を記述していますが、本当は2回目の書簡。
「つつがなきや」は、お変わりございませんかの意味。
藤原不比等は、614年の書簡と前後逆にしたのです。
つまり、蘇我王家が煬帝を怒らせたことを強調した。「蘇ノ因高」も、蘇我妹子を小野妹子に氏を変えているが蘇我氏。妹子を派遣した聖徳太子も蘇我氏。蘇我氏を滅ぼす大義名分を創作したということ。
@@くまのとおるおっとお前の妄想はそこまでだ
時代を遡る度に事実より神話の割合が高くなるから読み解くの難しいよね
おっしゃる通り、そうなんですよね。
風俗に関しては、金閣寺を見て日本人が全員金で出来た家に住んでる って判定したりの例があるので、柏の件などはその類な気がしますね。
確かに、それは一理ありそうですね。
クガタチ(探湯)!? これと時衰システムが子供の頃に読んだ歴史マンガに描写されてて、変なシステムとして心にめっちゃ刻まれたんだよね
盟神探湯(くがたち)。
時に埋もれそうなほど昔だけど、日本書紀の時代にはすでに確固たる文化が定着して豊かな生活を送っていたんだなあ。
如意宝珠は何だろう。暗闇で青く光るのは黄燐が思い浮かぶけど、普段は青くないし
なるほど黄燐ですか。如意宝珠の正体、気になりますよね。
色んな推測が出来ますね!面白い
同感です!
タリシヒコは敬称なのかもしれませんね
足りている男性→完璧な男性→王様かな?
呪術的な意味合いで真名を明かさなかったのではとか妄想してしまいます。臣下が名前を呼ぶとは思えませんし。
この頃の関東地方って謎だらけなんだよなぁ。いつか解明されますように。
少なくともヤマト王権の勢力下にあったのは事実
@@conspiracy_shine 様
『ヤマト王権の勢力下にあった』かのように装ったのは事実
@@takashiumeda6276 何言ってんだ?考古学的にも証明されてる
歴史学はお前の妄想をぶつける場所じゃねえんだぞバカが
犬は安産であり、戌の日参りや、犬帯の風習があるので、新婦が犬を跨ぐのもあるかもしれませんね🤔
新婦だし、出産祈願の意味になりそうですよね。
年齢的には蘇我馬子が兄で妻が推古天皇で弟が聖徳太子ということか。つまり天皇は推古天皇だが馬子は王配殿下ということなのか。
その説も考えられますよね。
陰陽五行で死を考えると、白は肉体の終わり、黒は魂(精神)の終わりだから、どちらも意に適ってる。まぁ、近年の黒の方が何かと便利👍✨
陰陽五行説の考え方って、しきたりとか昔ながらの風習に入り込んでますよね。
おもしろい。紀記が言及していない個所は時の政権が隠したかったことなのか?
他国の史書の日本に関する記述を全て洗うと古代のこともっと分かると思う。どうしてやらないのかな?
中国の記録を全て洗うと豊臣秀吉は福建人の奴婢であり、加藤清正は元々、秀吉より身分が上で反抗的(明代の記録)、江戸幕府の綱吉は中国人を雇って中国侵攻を企ててる(雍正帝時代の官僚の上奏文)ことが発覚してしまうため。
日本側で紀記が編纂されたのはもっと後になってからですので、口伝では失われてしまっていることも多いと思いますよ。
一方、隋は比較的短命な帝国だったため、次の唐の時点でまだホットな話題を正史に記述することが可能でした。629年は大化の改新より前ですからね。
ただ、魏志倭人伝もそうですが、当時は行き来が大変だったため又聞きの情報が多く、外国側の記述には誇張や誤解が結構あると考えられます。検証できないので、誤記を校正できなかったケースもあるでしょうしね。それらの矛盾を調査して、誤記や誤解がどちらかを明らかにすることに挑んでいる学者もいるでしょうが、確度の高い結論が出揃うまでにはまだまだ時間がかかるんじゃないでしょうかね。
讃:仁徳と履中に跨るので、仁徳=大讃岐、履中:伊讃別、という論理で一人に回る。珍:讃の弟=反正。
済:允恭。興:木梨輕太子。安康(四年)では短すぎる。古事記では雄略の崩御年=四八九、日本書紀のままなら10年余る。つまり、以後仁賢まで全帝紀年を10年ずれる。
倭の五王も謎が深いですね。。
大変興味深く面白い題材ですね
支配(為政)者三人体制、男女男
ツクヨミ、アマテラス、スサノオが、頭に浮かんだ
本当は2だけど1つ架空の存在を加えて3にし、安定を計る(宗教的)意味があったとかなんとか雑学で聞いた覚えが…
確か、ツクヨミが本当は不在なので記述が少ないとかなんとか
陰陽道ね。
チョットだけ出てくる双六、バックギャモンです。正倉院に当時の双六盤が保存されています。
バックギャモンですか!正倉院展で当時のサイコロは見たことありましたが、双六盤もぜひ見てみたい。
南米の方でも結び目を情報伝達に使ってなかったっけ?
南米でも結び目を文字として使ってたのですか?南米との繋がりも気になりますね。
@@ch7072 調べたら数を記録するのにインカで使われてたみたいですね。
その他にも中国とかアフリカとかでも使われてたみたいです。
文字が出来るまでは結構オーソドックスな記録方法だったのかも
色々な説がありますが情報は沢山ある方が良いので今後とも情報発信をお願い致します。学校では絶対に教えてくれないですねw
コメントありがとうございます。励みになります。
旧唐書の方も宜しくお願いします。
いつかチャレンジしてみたいと思います。
面白い〰️ッ😊
ありがとうございます!
隋とか宋にも倭人伝があったのか
知らなかった
他にもまだまだありますよ。でたらめすぎて抱腹絶倒モノだってあります。ある史書によると日本列島には牛をも飲み込む巨大な大蛇がいて剣でも切れない。ひたいに三つめの目がピカピカ光っていて、そこを突くと退治できるそうです。
あまり中国史書を真面目に読みすぎるとファンタジーワールドの住人になりますよ。隋書はかなり上質ではありますけれど。ちなみに倭人伝ではなく、隋書は倭国伝ですね
@@toshiyam2853 ヤマタノオロチかな?
契丹古伝に、漢字以前の文字を天字といい、天字以前をト字、ト字というのは殷字であり、殷は元これ倭国なり)
おお!そうなのですね。契丹古伝はじっくりと読んでみたいと思ってます。
偽書だから読まなくていいよ
@@conspiracy_shine 偽書だという根拠は。それとあなたは、捨て垢ですが何か理由でも。
詳しい紹介ありがとうございます。
魏志倭人伝だけ、あんなにこだわるのに、旧唐書もそうですが、隋書をほとんど日本人に紹介しない日本史学って、へんですね。
幕末や明治期も、英文その他の外国の史料を使わずに、日本語だけで、外交を語る風習は変わっていませんね。
「魏志倭人伝」以外の書物も、もっと多くの人に知ってもらいたいですね。
ぶっちゃけると魏志倭人伝「だけ」にこだわるのは在野の一部の邪馬台国九州説ファンくらいです。まともな古代史ファンなら隋書倭国伝も当然読みます。「日いずるところの天子より日没するところの天子へ書をいたす。つつがなきや」のフレーズでも有名ですしね
九州王朝説が 気に なる 感じ ですね。
タリシヒコというのはやはり聖徳太子なのでは?
仏教について熱く語る文書からして仏教に思い入れが強そうだし
なるほど。「仏教に対する思い入れ」という視点は重要かも!
魏志倭人伝の動画から来ました
チャンネル登録します
とても面白かったです
話はかわりますが先日ツイッターで介護職の若い方が天照大神をてんしょうだいじんと読み90過ぎの入居者の方が怒ったと言うのを読みました
で、いろいろ書いてありまして指導する立場の上の方が宗教にかんしてどこまでふみこんで関わっていいのかって悩んでいらっしゃったのですが宗教って言うのに違和感がありました
もちろんおじいさんにとっては宗教なんだろうと思いますが神道の一柱でもあるわけですが(一柱っていうか最高神だったはず(汗))大学を卒業した期待の(その介護職の方の施設で)新人と言うなら歴史や理知的好奇心として読み方くらい知っててほしかったなとこのチャンネルを聞いて思いました
仏壇神棚などない家が増えているなか消えてしまうのかとさみしい気がしますね
宗教としても神道は面白いなあと思うし歴史としても面白いのにな読み物としても面白いのにもったいない
広くあさーく記憶力の残念な私ですがこのチャンネル楽しみにしてます
コメントありがとうございます。確かにそうですね。私もこのチャンネルでは、歴史に興味がない方にも楽しんで頂けるような動画を作っていきたいです。
お~~~これ程の史書を解説付きで無料で聞けるとは・有難すぎて南無阿弥陀仏と平身低頭して聞いたぞよ!!
そのお言葉、有難き幸せにございまする。
9:30 弩なんてあったのか!
そうなのです!驚きです。
533年には阿蘇山という名前が確定していたというのは初めて知りました。
やはり地名、山名、川名など自然に名前をつける権は大王(おおきみ)以来の天皇大権だったのだということが伺えますね。
話は変わりますが織田さんが岐阜を命名したことで地名についてのみ、その原則が破れちゃいました。
そのため危ない土地の名前をきれい名前に変えて売り出して多くの人が地震や増水などの被害にあっています。
やはり天皇大権は犯すべからずなのですね。
確かにそうですね。その土地の由来、成り立ちが分かる昔ながらの地名は、むやみに変えてはいけませんね。
今のタイ王国にかご目の六芒星のような紋様は家の先.お寺によく飾っています.多分魔よけと招福のシンボール、猶太教と関係とはない. 秦氏ー族も六芒星(かもめ)をよく鳥居や建築に刻みます.秦と泰もよく似ている漢字.秦始皇帝も自ら泰山の上に封禪の儀式を行なったんです.この禪は古代中国にタイ民族の別の呼び名です.
今のタイ王国は中国の事を ジンと呼びます.日本人はそれは清王朝に因んで呼んだのだと思います. 実際は秦の音です.なぜなら廣東省と福建省の人が秦の癸音はJing.真実の真の発音もJing. 清の発音のチンとは全く違う発音、始皇帝が不死不老の薬を捜せたときの童男童女が西南夷.百夷の子供が専ら.ちょうど戰国から統一したばかりTなので若者は当然生産力と労働力の大きな元にもなる.漢民族もその後の匈奴の南下に防ぐため カを保存しなければなません.その童男童女は充分当時の大陸語が話すわけがない.、だから当時の言葉をそのまま島国に たつさわって来なかった.もしかして日本語は人工造語の一種..しかし秦王国は秦が減亡して逃亡した団体、その言葉も秦の方言に近い葉を話すはずだ(辰韓の民も秦の方言をしゃべる記載があります.
何で古墳についてふれていないのだろうね?
あ、確かにそうですよね。。
帰化して違う言葉を使っていても、些細な仕草や訛りとかで同じ文化を体験してる同国人なら何となく判る。
隋の国史が衝撃を受けて記録したのかな。夢を広げるなら徐福の子孫とかなのかも…
秦王国の存在に驚いてる描写が興味深いですよね。徐福の子孫説はあり得るかも。
火(浄化)でも犬(多産)でも嫁入りの儀式ではありうるよなあ
なるほど。どちらもあり得そう。
ドチャクソ面白い!
ありがとうございます。
如意宝珠…翡翠?
夜になると青く光る魚眼の精霊…ホタルイカかな?
なるほど!ホタルイカ!