【秋葉原の昔、失われた風景】秋葉原がどうして今の姿になったのか、露天商からガード下へ、家電からPC、そしてゲーム、フィギュア、ポップカルチャーの街へ。その歴史を振り返りました。
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- Опубликовано: 4 окт 2024
- ラジオ、家電、パソコン、ゲーム、フィギュア、時代の流行とともにその姿を変え続ける、秋葉原。家電、パソコンの街からポップカルチャーの発信地へ。そんな秋葉原がどうして今の秋葉原になったのか、その成立の歴史をたどってみました。
【訂正のご案内】
(ご指摘ありがとうございますm_ _m)
0:40 「家事」→「火事」
2:07 1980→1890年
13:05「JR総武線」→「中央線」
神田青果市場が有った場所
誤:須田町
正:多町
OJMのツイッター、フォローよろしくお願いします
/ oldjapanesemem1
秋葉原民の声を集めてみました!(サブチャンネル)
• 秋葉原 メイド・ヲタク 狂気の趣都
#秋葉原#昔#懐かしい
ほんと渋沢さんはどこにでも出てくるんだな!
何時までも残して頂きたい電気部品専門店。
自作派には無くてはならない秋葉原の灯は永遠に灯っていて欲しい。
歌舞伎町が規制されたからヤクザまがいなのが来たり
コロナ禍で売上が落ちて撤退しちゃったりと結構大変な状況ですが
いつまでも古き良き電気街で残って欲しいですね
新しい文化を取り入れるつつ古さも残して行ってほしいですね
@@緋山翔 さん
返信有難う御座います。
私の部屋には自作のガラクタがゴロゴロ、「何時も片付けなくては」と思いつつ気持ちは秋葉原の電気街の買い物、「あのコンデンサー、あの真空管」とガラクタを増やす思いを巡らす自分時間。
オウムの最盛期の頃は、街宣右翼VSオウム系PCショップの不毛な争いが見られました。
オウムの連中はマヤ電気の前で派手に活動していたんだよなぁ、,,ソフマップとかツクモから客を奪うのが目的だったのかも。秋月のすぐ近くの、丹青通商の上がマハ-ポ-シャだった。札幌のマハ-もツクモのすぐ近くだったし。(ツクモ札幌は最初札信ビルの地下だった。マハ-はそこから20m程だった)
@@山田太郎-g7x9j さん
返信有難う御座います。
そんな事が有ったのですか。
そのころは多分秋葉原には行っていないのではないかな?オウムの記憶は有りません。
@@ppkt9465
秋月電子
老舗だよね
永遠なり
秋葉原のことよくわかります。 情報が多く、堅苦しくなく、ナレーションに温かみがあります。すごい!質が高くNHK以上です。
よくぞここまで調べ上げたと、情報量が多い動画で驚きました。まさに歴史探求物語ですね。素晴らしい動画だと思います!
秋葉原デパート前の実演販売見るのが楽しかった。
私もです、食材がくっつかない包丁、なんでも汚れが落ちる洗剤、手持ちクリーナ......。
口上とアノ手際の良さ!まさにプロの仕事でしたね。
いつかからくり箱買おうと思ってて気づいたらなくなってたのが後悔です、、
あのからくり箱は個人の職人がひとつひとつ手作りしてて今どこでかえるのやら
誰か、あのムービー上げてくれないかなw
マジック商品の販売で、「不思議な5円」と言うのがありました。矢の形をした木片が5円玉の穴に刺さっていて、穴の前後にある矢じり、矢羽根部分は穴より大きく、刺さるはずがないのに入っている、という代物でした。で、九州の方で「超能力者」を自称する方が、これを「私の超能力でやった」と称して高値で販売してました。詐欺ですね。木片を水に浸して柔らかくなった時に潰すと穴を通って、その後乾かすと元に戻るとか。
口上が上手くてテレビ俳優にデビュー転向した人いたな、突撃晩御飯みせてよのヨネスケか?忘れたけど。
昭和30年頃ラジオ少年でした。並3や五球スーパー手作りして秋葉原は庭でした。懐かしい写真ありがとうございました。各部品屋のおじさん達は小学生お客さんを可愛がってくれました
パーツやジャンクショップ、アングラ的な空間が減少してるのはやっぱり寂しいですね
半導体などの電子コンテンツへの消極的な姿勢が多くなったりIT技術の後進化がかなり痛恨なきがします
何か転機が起こって業界がまた元気になることを願いたいものです
燃えから萌えになったんだな
今、52ですが4、5歳の頃、父親に連れられて横浜から行ったのを今でも覚えてます。家電が壊れると秋葉原に行って部品を購入してたんですね。
当時、父親に着いて行くのは、今は無いですが交通博物館に連れてってもらう為でした。懐かしいなあ。
交通博物館は懐かしいですよ
情報の集積度が高い動画、ありがとうございます。ある時期、この街と共に過ごした思い出の地でもあり、続編も楽しみにしてお待ち申し上げます。
1970年代初期までの秋葉原は良く覚えています。東京で唯一公然と値段の交渉ができたところでした。良くお調べになりましたね。懐かしいです。それ以降海外在住になり、何年か前に行った時に違う駅で降りてしまったのではないかと思うくらい変わっていてびっくりしました。
そうですね、秋葉で家電買う時は値引き交渉するのが当然で、言い値で買うことはありませんでした。
ただ、我が家は値引きよりアフターサービスというか信用に重きを置いていたので、買うのはもっぱら石丸電気またはオノデンでした。
オノデンはともかく、石丸はあまり引かないんですよねえ。
理由は、この頃の家電業界はメーカーが強く小売価格のをメーカーが支配していたからです。ゆえに、実売価格を表示せず値崩れを防いでいたからです。完全に独禁法違反です。販売員もメーカーから派遣されている人が多かったです。業界では『ヘルパー』さんと呼んでいました。客から見れば社員なのかヘルパーなのか、全く見分けはつきません。
@@akihiroyonekura 松下幸之助とダイエー中内功のアレですね。
弱肉強食に振り切った今の日本と比べると、松下幸之助の”適正価格”の考えのほうが皆が幸せですよね。
@@niitaka1111 だからパパママショップと言われた小規模特約店が成り立った訳ですね。
未だに値段交渉して購入しているよ
あの店がいくらだったから
まけろ言えるよ
1990年頃LAOXでバイトしてました。ちょうどLAOXコンピュータ館がopenした頃で超斬新だった。万世ビルの1Fにあった万世ラーメンに排骨拉麺食べるのが楽しみだった。以来、今でもマメに行ってるので、嬉しい動画です。
1999年あたりからオタク文化みたいなのが入ってきましたよね。
秋葉原のアニメイトは最初、岩本町駅の方にあった記憶があります。
そのころにゲーマーズのビルが思い出されますね。
あの頃はよく、秋葉原でエロゲーを買っていた記憶ありますね。
k-booksとかもね。
バスケコートがった時代が懐かしいです。
15年くらい前か…学校帰りにに秋葉原で終電ギリギリまで友達と遊ぶのが何より楽しかったなぁ。
ラジ館が新しくなった辺りから年々普通の町になっていくようで寂しい。
私もそのころの秋葉原は本当に楽しかったと思います今はほんとうにつまらない街になった
石丸電気のレコード館やラオックスのコンピュータ館がなくなったのが寂しいです。
@@wakuhonchan コンピュータ館の隣はゴルフ屋が入ってます。後ろは電気関連の店だったのが、壁で全滅。
レコード購入は割引券とポスターがもらえた
石丸電気のレコード館。そしてアキハバラ
デパートにあった焼きそば屋で焼きそばと
たこ焼きのセットを食べて帰るのがいつもの
コースでした。
懐かしい!私は四角いお好み焼きでした!
石丸電気は秋葉原
でっかいわ?
四角いお好み焼き150円!
レコード館はよく行ったけれど輸入盤専門だったんでポスターは無かったなあ。
国内版は地元のレコード屋で済ませてました。重いからね。
アキハバラデパートの1階でよくソフトクリーム買って食ってた。
子供の頃は毎週、電子部品とマイコンのために通った秋葉原、いろいろ懐かしかったり、所以がわかって
納得したり…とにかく感激しました。秋葉原の特集を待ちに待っていました。
もう20年以上通っていませんのでずいぶん変わったことでしょうね…
昔は昼食を食べる所が限られ、子供の自分には高額でとてもご飯どころではなく、同時に夢中になれる物が
たくさんあって、昼抜きで一日中いました。ラジオ会館の3階の自動販売機でジュースだけ飲みましたっけ。
これまでの思い出が一気によみがえりました。ありがとうございました。
すごく感激です。
ラジオセンター館
九十九電機。
懐かしい。
5:50の船だまりの痕跡ですが、数年前までその付近が一段下がっていましたよね。少し見ない間に、いつの間に平らできれいになっていてびっくりしました。
私もこの場所だけ低いのを不思議に思っていました。NHKの『ブラタモリ』を見て、船がここで荷下ろしをしていたと知ってビックリしました。
高架は基本コンクリートで作られているのですが、一部分だけ鉄橋になっていて不思議だと思っていたのですが、その下に川が流れていたことを知って納得しました。
そういえば、公園の端に段差がありましたね。
平日に通ったNEC Bit inn 懐かしいです。あのころの企業の努力、開発力の原点だった気がします。日本再生を秋葉原からまたしてほしい。貴重で素晴らしい動画いつもありがとうございます。
アキバに行くと良く冷やかしに行ったラジオ会館。何と無く見て回って、ふと目にしたものが、「コレは良いのでは?」と気付いた次の瞬間他の人に買われて悔しい思いをした事も有ります。
TTY時代のNIFTYのFDEVICE(パソコン工作フォ-ラム)のUnoさんが、ラジオ会館前で撮った写真が、富士通の社内報の表紙に載って、常連の間で大笑いした想い出が有ります。その建物も新しいモノに建て換わったと聞いております。
秋葉原で働いていますが、長い歴史があって今があることに感慨を覚えました。
秋葉原から程近い所に、億万長者になり損ねたビジコンの事務所がまだ有るそうです。
ビジコンは、コアメモリを採用した高性能電卓で一世を風靡しましたが、Ti製のワンチップマイコンを使った安価な電卓に負けて莫大な負債を負って会社を潰して仕舞った。この会社がインテルと共同でこさえたのが何と、i4004、このストア-ドプログラム電卓の概念をこの時特許申請しておけば、ビジコンは今頃大儲けしていたとも言われて居ます。
駅前にガソリンスタンドがあった頃は雑多で街を歩くだけでワクワクしたなぁ
様変わりして2000年代以降はすっかり行く機会がなくなってしまいました
私の父親(76歳)は、今でも秋葉原に行って部品を買い、自作のパソコンを組んでいます。
秋葉原へは高校の修学旅行でチラりと立ち寄った程度で、当時はまだオタク街になる前で電気街の雰囲気でした。それにしてもよくここまで調べられたものですね・・こんな良質な動画が手軽に視聴できるのだからTVが衰退するのも当然ですね。
ありがとうございます。励みになります。
ホントに本当に貴重な動画ありがとうございます!
自分は70年生まれお父さんなのですが、下町地区生まれで小学生のころからバスで秋葉まで行って目的無くブラブラしていました。
いまも時々ブラブラしてます。歴史がわかってすごーく感慨深く感じます。
素晴らしい出来栄えの動画です。凄く参考になりました。私は月1の割合で秋葉原へ上京していますが、一番古い記憶で駅前の秋葉原デパートと広場まで。
それ以前の目がチカチカする原色看板はTVでしか見た事なかったので、それ以前の古い町並みも含めて凄く新鮮でした。
昨今再開発の進む秋葉原なので、益々古い町並みが消えて分からなくなる状態なので、この動画を見て現在地の様変わりした状態に驚きました。
70年代後半から80年代前半、正月に石丸電気にレコード買いに行った事を思い出します。あのワクワク感が堪らなかったです。
私はレーザーディスクをよく買いにいきました。割引率が高く品数も多くて、地元よりこちらを利用していました。枚数が多いと重いんですね😅
YMOの海賊盤を見つけたときなど、興奮しました!
素晴らしい構成力と取材力です。内容も素晴らしい。
秋葉原デパートが懐かしいよ
今から思えばヒデー粉使ってやがった1Fダニエルの『四角いお好み焼き』が妙に懐かしい♪♫ʅ(‾◡◝)ʃ
肉の万世がヤマギワの元従業員とは。
昔、DOS/Vがブームで多くのメーカーやショップがDOS/Vに参入しはじめた頃のアスキーのエイプリルフールネタで、肉の万世がDOS/V参入ってのがありました。
エイプリルフールで笑ったのはあれが唯一です。
父が「やっちゃ場」の存在を語っている頃からずーっと秋葉原はなじみのある土地でした。
数十年行っていて変わらないのは電車の通っている場所だけ
数年毎に何かしらのチェンジが行われるのも秋葉原の文化とも言えると思います。
なので1回ではとても語れないはずですので、次回の続編も楽しみにしています。
やっちゃばの仲卸の中二階には潜水艦のようなパイプが通っていてね、ホント狭っ苦しかった。
昼休みに表に出て仲間と興ずるキャッチボールが、何よりの気分転換にだったねー!wʅ(‾◡◝)ʃ
やっちゃ場のご飯は安くて美味しかった!
ラジオデパート1Fにあった、ラーメンいすゞが好きだった。あとマハーポーシャ売り子が頭に変なの被って変な踊りしてたのも懐かしい。
@HA INA
古炉奈=グラン時代に行ってました、あの窓ガラスは今のカフェでも残ってるのかな?
自分自身が秋葉原に行く様に成ったのは、高校が上野駅前(名前を出さなくても分かる筈)だったので、レコードを買いに行ったのが最初です。当時の秋葉原は家電製品だけで無く国内や海外のオーディオ製品が確実に見られる街でした。高校生なので買える訳では有りませんので、ひたすらカタログを集めて、大人達が聴いている所に紛れ混んで音楽を聴いていました。オーディオ製品は高額なので買える様に成ったのは、自分自身で働いて収入を得る様に成ってからでした。その後はオーディオだけで無く映像も普及し始めて、ビデオからLDそしてDVDへと変遷して行きます。画質が向上すると大画面テレビやプロジェクターが展示される様に成りましたが、郊外の大型店が増加して来て秋葉原の衰退が始まります。廣瀬が廃業し石丸が消えて、ヤマギワが新規店舗を建設中に廃業し駅前のラジオ会館が老朽化の為に建て替えが決まった時点でオーディオの街では無くなります。現在ではソフトウェアを買いに行くだけなので、ヨドバシカメラマルチメディア館内のタワーレコードに行くだけに成りました。建物がみんな新しく成る度々に思い出が消えて行きます。
肉の万世の歴史が面白かった。
まさか元は電気屋だったとは!
これはすごい、楽しませていただきました。青果市場がまだある頃に上京してから後、表通りも裏通りもさんざん歩いてますが、まだまだ知らないことが多いです。ありがとうございます。
わかりやすく、とても見応えのある動画でした。面白かったです。
昔の映画を絡めるとは凄いわかりやすかったし、ワクワクして見れました。素晴らしい動画!
90年代の秋葉原はよく遊びに行っていました。
UDXの辺りにあったバスケのコートや、秋葉原デパートの雰囲気がアングラで好きでした。
今は奇麗になって、街の様子もだいぶ変わりましたね。
あったよね
覚えているよ
市場がなくなった跡地だったよ
今やロータリーやUDXなどのビルに
自分の生きてきた街、アキバのことがよーく分かり、大変ありがたい。
ここ20年でこんなに変わってしまったのはここくらいだよな
the Japanese subtitles really helped. i don't know the names of Japanese places, so it is easier to know what you're talking about since I've never been to japan. excellent documentary 👍
とても面白かったです。
ありがとうございました。
実に興味深い動画でした。次回の秋葉原回も大いに期待しております。
私が秋葉原に初めて遊びに行ったのは1980年の初頭でした。その後、
定期的に通い詰め、学生時代は秋葉原まで徒歩20分程で行ける学校で
過ごしました。こちらの動画の古写真の場所は8割方わかりました。昔
懐かしい風景を沢山見れて嬉しかったです。ありがとうございました。
凄い動画。よく調べたと感心。
小学生の時、離れた高架線や秋葉原構内にエル特急とか中距離電車が留置されてて強く印象に残ったものです。
大人になり貨物駅跡と知ってなるほどと思いました。
中学生になり、当時は電器店がほとんどなくわざわざアキバまでお年玉でヘッドホンステレオ:いわゆるウォークマンだけどパナと決めて買いに行ったり、
高校生になって無線機やそのパーツを買いに行ってたけど、
今はだいぶ変わったのに日常になってしまったので、当時を振り返るキッカケとなりました。
ありがとうございます。
最初の勤め先が秋葉原でしたので、いつもお昼は青果市場のやっちゃ場の食堂街で食べてましたね。懐かしかったです
「1993年にはソフマップが出店」と言われておりますが、ソフマップは1985年頃には既に秋葉原にありました。但し、当時はパソコン用ソフトウェアの会員制レンタル店でした。その後、ソフトレンタル取り締まりの機運が高まると、ソフトの中古販売・買取に移行し(中古価格ー買取価格=レンタル料?)、徐々にソフト販売・ハード販売/買取と拡大を続け、1993年頃に複数の小規模店舗を統合して大規模店舗になって行った感じでした。
80年代に電子工作のパーツを漁りに通っていた頃と比べたら、今はすっかり綺麗になった秋葉原。
「あきばはらでも良いんだよ」って言われた事があったんですが理由がやっとわかりました。
70年代から電子部品を購入していたよ
ほとんど戦後の闇市場と変わらない
そんな感じだったよ
秋葉原を変えてしまった元凶は東京都の再開発なんですよね。
秋葉原の地価は再開発で上昇しましたが、テナント料が爆上げされたせいで、多くの店が閉店しました。
地価の上昇は古い建物を駆逐し、土地は統合されて大きなビルが建つようになり、どこでもあるような町になってしまいました。
秋葉原は取り残されてガラパゴス化したほうがよかったのかもしれません。
石原都政ですね。
もともと戦後のどさくさでできたバラックみたいな部品売りが、
地域政策でラジオデパートやラジオ何ちゃらに集まったり、店舗として借地したり間借りして電気屋を継続してきた街。当初の契約もすっごく曖昧だった。
地代が上がり、土地オーナーが欲を出し、契約更新時にふっかける、店の経営者の代替わりの際に再契約しないなどのトラブルが続出していた。
中小規模店が無くなったのはこの理由による所が大きい。
なんでアキバにパチンコ屋ができるンダ、なんでビデオ屋ができるンダ、と思ったが、
洋服屋ができた時点で行く末が見えてきた感がある。
大阪の日本橋化しない様に祈るばかり。
@@比嘉司そううん さん サラ金屋とパチンコ屋ができたときがっかりしました。
13:05 多分総武線ではなく、中央線の高架ですね。奥が須田町だとなると南北が逆だと思われます。
ってことはともかく、いろいろな映像を駆使し、時代の流れをわかりやすく解説してくれて勉強になりました。
ご指摘の通りです。総武線は撮影者の背後に高架が走ります・・・汗
1989年8月に訪れた記憶があります。 当時はカセットラジオの全盛期と見どころがすごく多かったです。
凄いわかりやすいです。
素晴らしい取材力
民放のドキュメンタリー番組並み
秋葉原😆好きな街です。特に石丸電気ですね。万世橋の交差点に有ったレコード専門的に足しげく通いました。それから、お茶の水まで歩いて。思い出深い街ですね。
石丸のレコード館、私も大好きでよく行きました。フロアがジャンル毎に分かれているのがよかった。一番の思い出はブラリと予定もなく中に入ったら来日中のスティーブ・ガッドがサイン会をしていたことがありました(笑)
小川町 おがわちょう→おがわまち
洲崎 すざき→すさき
です!!!
市場側の出口横に有ったラーメンいすずによく行ったなあ。
食券買って並ぶと店主が「そちらは?」て聞いてきて、食券見せながら並か大盛って答えるのがお約束だった。
水曜日は安くなるので、必ず大盛たのんでたのを思い出した。
伊集院光氏が探した店
昔ながらラーメン屋さん
だんだんと減っているよ
今の電気街口だと思うよ
昭和通り口ならまだ
ラーメン屋さんあるよ
懐かしぃ 朝作ってるオヤジが愛想悪くてねぇ 化学調味料ガンガン入れてるスープだったけど、旨かった
『ミスター珍』かな?たまに入ったけど、やっぱワシはデパ1Fのダニエルの『四角いお好み焼き』だ!ʅ(‾◡◝)ʃ
キッチンジローの相席いいですか? 毎回聴く言葉ではある。
東京生まれ育ちの50代だけどラジオデパートがこんなに昔からあったなんて知らなかった!
電機部品街のアキバがいまのアキバになった経緯をここまで詳細にやってくれて感激ですね!
伯父曰く戦前からあるよ
闇市場が早くからあったよ
戦後彷徨いていたらしい
芸大生時代に
生きることがやっとだったそうですよ
@@藤原啓介ケイちゃん そうだったんですね、
ありがとうございます!
Windowsブレイク前夜の90~93年あたりの秋葉原が好きでした ぼちぼちPC/AT互換機も普及し始め、国内メーカーより安い海外バルク品PCパーツをバクチのように買って楽しんでました あの頃は中央通り沿いにバイクを停めて一日中歩きまわれましたね 今は取り締まりがキチンとされてるので、UDXに停めますが、駐車場代を考えるとあまり安くはならないのでAmazonでポチることが増えました それでもやっぱり足を運んで手に取ってお宝を入手する醍醐味が忘れられなくて通ってしまいます
お宅系のさきがけとしては、海洋堂がショップを出したのが大きかったかもしれない。
それまでは渋谷、新宿、上野、池袋というようにかなり散らばっていたのだけど、海洋堂が店を置いてからはアニメマンガ、模型関連のショップが集まり出したという印象があるなあ。
小学生の頃に科学クラブで電子工作するのに同級生と一緒に秋葉原に部品を買いに行きました。トランジスタやコンデンサや抵抗…部品屋のおじさんが怖かったけど、あれから四十数年経った今では店のオッサンと同等に会話ができるオッサンになりました。
こんなに良く調べられている秋葉原についての動画は初めて見ました
今度秋葉原に行ったときは良く店名を見たいと思います
今回もとてもおもしろかったです。
電気街当時の秋葉も色々思い出ありますが、肉の万世の歴史は初耳で勉強になりました。
ビルになる前、我が家のちょっと背伸びした外食は万世で、階段での順番待ちが子供だけに苦痛で苦痛で。。、
ただ美味しく頂いた帰りに飴の入った小さなおみやげ貰うのが嬉しかったです。
神田市場でもアルバイトしましたが、やっちゃ場は体力的にキツかったですね。
まだ金髪に染めてる人が奇異の目で見られた時代、ここには結構な数の金髪肉体労働者がターレ引いてました。
彼はバンドマンでしたが、金髪のまま働ける職場はこういうとこくらいだったですからね。
貴重なご記憶をありがとうございます!
よくまとまっていて、すばらしい
この辺家賃が高いから外国人でもなんでもとにかく人が集まらないとやってけないからこの先つらいでしょうね
コロナ禍で知ってるお店も随分と無くなってしまいました
東京23区内は差はあるけど地方に比べたら家賃や地価がべらぼうに高い。たしかに地主以外はつらいっす。
電気街アキバ最後の砦オノデンには頑張ってほしい。
秋葉原の紹介動画を有難う御座います。秋場原のもとの名前は秋葉ヶ原だと思います。私の子供時代には両者が混在して使われていました。秋葉原は都電の便も良かったです。路線が縮小される中で、昭和45年ごろまで残っていました。大学で研究機器の急速な電子化が進むと細々した部品が必要になり駅前のラジオデパートなどにお世話になりました。当時の秋葉原では飲食が出来ないと言われていましたが、ラジオデパートの二階の隅にラーメン屋がひっそり営業していました。動画の中の真空管露天商から高架下への移転はGHQ令が穏やかだったので長期間かけて進みました。そして真空管屋さんはジャンク屋さんに変貌し、米軍闇放出品を安価に売りさばく様になりました。土曜日の午後(当時の土曜日は休日ではなかった)になると、こそこそ米軍トラックがジャンク街に入ってきて、店主がどうやって手に入れたか100ドル紙幣入り茶封筒を渡すと大きな荷物を置いて行きました。すると軍手やくぎ抜きを手にしたお客達が群がり協力して荷物の木製外枠をばらすと開梱し、中身を分類してジャンクや店舗に運び込んでいました。コリンズやドレークの軍用通信機などもそのまま入っていて、それを買い取ってアマチュア無線機の作り方や改造方法をみんなが研究していました。軍用真空管も多数含まれていましたが、当時の国産最高級品・東芝の通信規格品より遥かにローノイズで、私はステレオアンプに今でも使っています。米軍電子機器のソリッド化は急速に進み、ついに米国で発明されたばかりのオペアンプまでジャンク店は扱う様になりました。もう店主の知識では扱えないので、電通大の優秀な院生を奨学金代わりの高給でアルバイトに雇っていました。ジャンク屋がパソコン用のデジタルパーツを扱うのはもっとずっと後の時代ですね。ちなみに秋月電子は信越電気が元で、私達の時代には世田谷区瀬田に店舗が有りました。とにかく安いし最新デバイスを扱っているので、時々大学から自転車で買い物に行きました。もう私は40年位秋葉原から足が遠のき、今は高齢で歩けないので本動画は本当に興味深かったです。
初代の "電車でGo!" の京浜東北線には、青果市場が描かれているのよね。
あのゲームも古いんだなぁって思う。
ここで生い立ちを語っても意味がない須田2住民
約60年の生き字引。
いいものを見せてもらえた。
ありがとうございました。
駅名も本来は「あきばはら」の予定だったのが誤植で「あきはばら」になってしまったのが、そのまま使われ定着したそうです。
AKB48?
「ごはん処あだち」の店主が「昔、このあたりは青果市場だったんだよ。」と話していたのを覚えています。
秋葉原と言えば、「家電製品や電子部品」のイメージですが、ここ10年~20年の間に変な街に変わってしまいましたね。
やはり昭和初期を生き残った企業は強いな
サトームセンとかオノデンのCMが一番懐かしい
ヒロセ無線
倒産した。
いつもありがとうございます
東京出身者でも分からなかったことだらけです
亡き父親が、秋葉原と言ってた理由が、分かりました
確か、交通博物館もありましたよね~
私の亡き父はいつも秋葉と言ってました。どうしてそう呼ぶのか子供心に不思議に思ってました(笑)
PC98シリーズとか夢のまた夢で、少ないバイト代で買ったのは中古の単車・・・
当時は欲しいものが沢山あった幸せな時代でした。秋葉や上野バイク通りも単車がたくさん路上に斜め止めされても
駐禁されない大らかな時代、逆にメイドや電車男が流行る頃には行く気になれなくなりました。
昔からよくパソコンなど
購入しているよ
PCがまだTKだった頃から通ってましたね。
ラジオ会館7階の「bit inn」では良くして貰いました。
そうは言っても当時は「ハンドアセンブル」はかなりハードルが高く、手を焼いていた事が思い出されます。🙄🙄🙄
NEC PC-98 は仕事になくてはならないパソコン。MACやNEWSは自分で使う為のパソコンってことで、
結局、NEWSまで買っちまいましたネ。当時約180万円、どこにそんなカネがあったことやら?wʅ(‾◡◝)ʃ
@@sidewest3452 Z80の裏レジスター使いの方ですか? さすがに4000番台には食指は動きませんでしたがwʅ(‾◡◝)ʃ
@@sysop.google さん
コメントのTKというのはTK-80Eの事で、CPUはプラスチックパッケージのµPD8080でした。
従って裏レジスターは存在しません。😀
綺麗なビルと高級な照明・インテリアで、モダンなイメージのヤマギワが、実は石丸や万世の創業者が勤めていたぐらい昔からとは知らなかった。LAOXが朝日無線は知っていたけどその前もあったのですね。ありがとうございます。力作です。
ラジオセンター館
九十九電機
懐かしい!
ラジオセンター館???
ラジオセンター?
ラジオ会館?
ラジオデパートも有るな。🙄
@@sidewest3452
みんな
ラジオ
無線て意味
毎回大変勉強になります。とても興味深い内容です。肉の万世の成り立ちにはびっくりしました。
秋葉原と言えば、サテライトスタジオがあつたのお覚えています。
ロイ・ジエ-ムス(故人)さんが、ラジオのナマ放送を、70年ころやつていた。
(平日の、夕方)
ロイ・ジエ-ムスさんの、サテライトスタジオは、ニツポン放送の、「シントクサテライトアワ-」かも知れません。
秋葉原には、中学時代の、友人が、電気に詳しく、夜店のような所によくいつたものです。
ロイさんは、82年に53歳の、若さで亡くなられました。
外人さんが、日本語を流ちように話すのが、珍しかつた時代、
人気のある人でした。
久しぶりに、秋葉原に、いつて見ようか。
シントク電気は、まだあるのかな?
ハ-トマ-ク、ありがとうございます。
20年位前は良く行ってました
あきばおーとか良く覗いたもんです
今でも車で時折通るけど雰囲気全然違いますね・・・
マキバオー
その昔、中学くらいの頃でしょうか?部品屋のおやじから、怒鳴られて、涙をながしながら部品を買った覚えが、ありますよ!でも、その後、いろいろ、教えてくれて、これで、工業学校に入る前に基礎知識が、得られたので、いまだに、感謝してます。今の若人は、どうかな?
それはどう言ったことなんですか?宜しければ、ご教示ください。m(_ _)m
@@-m3431 ハハハ 遠い昔の話ですが、例えば、抵抗のカラーコード、色で表示されてる意味とか、コンデンサの表示の意味とか、種類とか、トランジスタの種類、CからEへの電流の流れ方とか、常識的な話ですが、まだ、子供だったので、仕方なかったですね。今は、何年か前は、秋葉に行って、細かい部品を買いに行ったけど、大昔のようなパターンは、ないような気がしますよ!
@@synkun9796 なるほど、私は昔の事がとても好きで、こう言った動画を観ているんですが、また、現在の70才代以上の世代の方達の仕事の身に付け方にも、かなり興味がありまして、お伺いした次第です。なるほど、学校へ上がる前から、部品屋さんでそう言う風に教わったりしてたんですね。すごいですね(^.^)
私も学生の頃、S-RAM チップ買おうとしてアクセスタイムの確認したら「規格書くらい読めよ!」と罵倒され凄い目つきで睨まれたことがあります (^^;
数年前に電子工作に復帰したのですが、その後某パーツ屋さんで、中学生くらいの客が「この部品って何に使うんですか?」などと私の感覚からしてもふざけたことを店員に尋ねる場面に遭遇し血の気が引いたのですが、なんと聞かれた店員さんが懇切丁寧に説明していて驚愕しました。
秋葉原、色々な意味で変わった様です (^^)
@@synkun9796
カラーコード
あれは 解らんねー
UDXが建設されるまでの広場はストリートスポーツのメッカでしたね。
私もよくスケートしに行きました。
ずーと、駐車場だったらよかったのに と思う。
昭和55年頃の秋葉原でラジオ部品を買っては自作してました
今はパソコン自作ですけど。
ラジオ会館7FNECショップで98の部品買っていました毎週出かけていました
アマチュア無線家、
ラジオセンター館
昭和40年代後半からの秋葉原が様子が同じようで、驚きました。
自分にとっては部品やキットを買う街だったのですが、無線機器も充実していて
昭和60年代からは幾つもの無線機、アンテナ等買ったことも、また、今も現役で
動いてるのもある。日本のメーカーの確かさは、今も欧米で好評を得ています。
つくばエスクプレスの歴史にも興味が持てました。
数本拝見しました。大変な取材力で感服しました。声もいいよ~~~。
電気街時代にオーディオパーツを買いに行った頃の思い入れが強いです。店先でよく森高千里の
「見て」が流されていました。
4:25 右下の自転車辺りに現在のストビュー見ると寝てる人が・・・ 95年後ここで寝てる人が居だって思うとなんか面白い。。。
1960年代前半から父に連れられてときおり行っていましたし、その後もラジオ部品いろいろ(ラジオ会館、ラジオ・デパート)、ステレオ、PC9801、DOS/V、秋月のおもちゃ、PCオーディオ関連などを買い求めに行っていたので、その変遷をある程度体感しています。そんなこともあって興味深く拝見させていただきました。
しっかりとた取材がベースになっている点が素晴らしいですし、その取材力に関心されられました。
ありがとうございます。励みになります!
単一業種で街並みを形成したら、凄く個性的で楽しい街が出来た、しかもそれが歴史の中で自然発生的に出来上がったなんて、世界に類を見ない文化です。台湾、香港等にもアキバをモデルにした街があると聞きます。
いくらでもあるでしょ?近場では合羽橋の調理器具専門店の集中とか、自然発生的に生まれたアメ横とか。
神田古書街もそうですし。イギリスロンドンのアンティーク街なんてアキバより古いですし・・・。wʅ(‾◡◝)ʃ
秋葉原といえば駅高架下にあったラーメンみすずが懐かしい。シンプルな中華そばでホントに美味しかった。
メニューは普通のラーメンと大盛と2つだけ。おやじは愛想悪く、湯切りは雑で、お冷やはぬるかった。生姜が効いていて本当においしかった。
いすずね
昭和の頃その界隈には石丸電気だけでオーディオやレコード売り場が三か所も在ったのでよく買いに行ったもんでした。いまリサイクルショップでその名残を懐かしんでいます。しかしよく調べたものですね。ナレーションを上手ですばらしい。
大昔の高校時代にガード脇の丸善無線で日曜日にアルバイトをしていた時がありました。
思わず懐かしくなって拝見させて頂きました。
第2弾も拝見させていただきます。
70年代はオーディオ関係の製品が幅を効かせていた。アンプ、スピーカー、プレーヤーにカセットとオープンリールの録音機。今で言うサラウンドに相当する4チャンネルのサウンド・システムもあった。
若くしてなくなったナガオカの御曹司のオーディオ評論家先生が、やたら、2ch原音再生至上で、
4CHのような音場再生は「アコースティック」な輪郭のボヤケと叩いている間は、結局あまり流行らなかったけどね。
ただ、YAMAHAなぞは、当時から相当研究していて製品化もしたので、悔しかったんじゃないかなー。とwʅ(‾◡◝)ʃ
すごく詳しく解り易い動画有り難う御座います!
懐かしい映像ありがとうごさいます
生まれる前の映像も😅
30年前以上にオノデンの当時の社長か会長❓の後ろでCMで流れていた歌を替えて🎵オノデン坊やが商品流す、東南アジアへひとっ飛び~、って歌ったたら嫌な顔😅されたの覚えてます🎉 ヤッチャ場に車を止めて仕事に行ってました‼️ 駐禁にならなかったんだよね 洲崎パラダイスの洲崎のイントネーション違いますよ‼️ まぁ、今は豊洲も皆さんイントネーション違いますけどね
オタクの言葉誕生前は、マニアと呼ばれてましたね。
両立してるよね
発電所「はつでんしょ」
君は記述用に作られた文と、ナレーション用に作られた文の違いが分かれば、もっといいね。
UDXが建てられる直前は時間貸しの駐車場でしたね
凄いです、、、ここまで調べられているとは!素晴らしい動画をありがとうございます!
1986年、大学進学で上京した後、よくオーディオを見に行ったり買いに行ったりしたなぁ。駅ビルにあったどんぶり屋さんのカツ丼が好きだった。そのあと大手町で働くようになったときには蛍光灯をケース買いしにもよく行ったよな。ここ10年はめっきり用がなくなって行くこともなくなった。
8:31 うわ、ラジオガァデンだ。こんなに賑わってたんだねぇ。2018年店じまい直前まで、秋葉原に来たらほぼ必ず寄っていた。ファンモーターが多かったな。
電灯の最もな初期型であるアーク灯は、秋葉原で発祥したのですね…。
色々な要素が、ここから始まったのですね。
秋葉原と言うと、1988年夏の仙台旅行の帰りの途中で、この界隈の店でファミコンを買った思い出があります。
パソコン関連とゲーム関連が主流だった頃が一番好きだった
ややアニメやフィギュアなど、萌えを強調し始めた頃には足は遠のき
今や没個性の街、と言った印象となった(自分的)
今でもパソコンのあの機械臭を嗅いだりすると、無性にあの頃を思い出して
たまらなくなる・・・
そのパソコンの台頭のせいでしょうね。
パソコンが並ぶ。→ソフトも並ぶ。→エロソフトも並ぶ。
指向性(嗜好性)の高い街ですから、そっち方面も盛んになる。
しかし、地下アイドルやアダルトグッズ店まで出店してくるのは予想外でした。
@@1960katsu
後者は歌舞伎町崩れが多いようですね。