これぞトスカニーニ!「ヴェルディのレクィエム・1951年ヴェルディ没後50年」Toscanini【ATMヒストリカル解説 Vol.1】解説:徳岡直樹 Naoki Tokuoka
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- Опубликовано: 10 янв 2025
- 1951年1月27日、ヴェルディ没後50年を追悼してトスカニーニが指揮したレクィエムの熱演。同じ日のミラノ・スカラ座ではこれまたレクィエムがデ・サバタの指揮で演奏されている。今なおトスカニーニの傑作、名演として知られるこの白熱の演奏をどう聞くのか?【解説:徳岡直樹】
《徳岡直樹 Naoki Tokuoka》 台湾在住20年の日本人指揮者・作曲家・文筆とニコ生で音楽解説をしています。ネーメ・ヤルヴィ、パーヴォ・ヤルヴィ父子に師事。台南市名誉市民として、現在5つのオーケストラを主に指揮しています。このチャンネルでは「音楽演奏・作曲作品紹介・カミさんのバイオリン演奏・音楽解説/談義」と、自分のすべてのファクターをATM『(A)明るく(T)楽しく(M)マニアックに』紹介しています。特にヒストリカル演奏解説に重点置いてます。作品集CDが昨年リリース、HMV・タワー・アリアCDなどの大手ショップで販売されています。
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「エヴァンゲリオン」のおかげで、すっかり有名曲になりました。
5:15 CDの規格が決まった当初は、録音時間は74分41秒でした。
CDを開発したソニーの会長、大賀典雄氏がカラヤンと直接打ち合わせ、
「第9がt枚で収まる収録時間が欲しい」とのカラヤンの要望を受け入れ
その時間で規格化した、という逸話があります。
付け加えると、カラヤンが逝去する直前に面会していたのは大賀氏。
カラヤンは大賀氏との面会後に体調不良を訴え、逝去。
カラヤンの晩年にカラヤンの映像の発売ははソニーからでした。
コメントありがとうございます。そうでしたね。WIkiなどを見てみると、多少「第九」の件は誇張もあるようですが、当初試作品のフィリップスの試作品DAD(最初はデジタル・オーディオ・デイスクと呼ばれていました)はもう数ミリ大きかったようです。カラヤンが亡くなった時はエリエッテ夫人はシャワーを浴びていて、大賀さんとの会話中に急にぐったりとなった、というのが定説のようです。今ではカラヤンのSony製のDVDソフトはCDよりも価格が落ち、今昔の感を拭えません。
どこで手に入れたのか分からないのですが、ドレスリハーサルのテストプレス盤を持っていまして、盤自体は白レーベルなのですが、間違いなくRCA-Victorのマトリックス番号も振られています。これを聞くとTuba mirum「くすしきラッパの音」のあたり、トスカニーニの吠える声が入っていて、これが正式版にも使われていることが分かります。Liberameの本番ミスもこちらから入れ換えられていると思います。その他色々な発見がありそうですが、フルヴェンファンと違って(?)そこまでの熱意はありません...。
そうでしたか! この動画の公開後に視聴者の方からご指摘をいただき、ソリストの歌い始め、ディ・ステファーノの「キリエ・エレイソン」の第一声も、ブレスなしで歌い切ったのはリハーサルのテイクらしいというのが分かりました。当日の演奏そのものは偶発ステレオ版で聞く(推察する)ことができますし、RCA盤はRCA盤で素晴らしい演奏ですね。
When I listen to the Tuba Mirum what I hear is yelling 'Tutta Forza' or all power.
ヴェルディとワーグナーは対極的な作曲家だと見なされている。それは正しいだろう。
ヴェルディは可視光線のなかを一直線に歩んだ作曲家だった。
一方ワーグナーは、いわば紫外線と赤外線にひびきの源を求めた。
それは意識と無意識、現実と超越の差だといってよいかもしれない。
ところでレクイエムは生者と死者との対話の音楽だ。リアリスト、ヴェルディにとっては苦手の領域のはず。
それにもかかわらず彼は友人の死に衝撃を受けて、レクイエムを作曲することを思い立った。
彼は現実を支配する巨人の力業で死者に声をとどろかせ、その霊を慰めようとする。
だが生と死のあいだには厚い壁がはだかっており、彼はそれを超えることができない。
それでも渾身の力をこめ、生者のあらゆる力を結集して死者の国の壁を叩くなら、その真剣さは死者に通ずるだろう。
いわばその過剰な生命力が、逆説的に死の匂いを焙りだしており、その構図がこの《レクイエム》の核心をなしている。
この曲をこう理解すれば、それはほとんどトスカニーニの演奏を語ったも同じことになる。
彼はヴェルディの化身かと思われるほど、やはり可視光線のなかを一直線に歩んだ指揮者だった。
この《レクイエム》の演奏は、作曲家と一心同体となった、いわば入神の技を示している。
過剰な生が死の影を映し出すこの曲の意味をトスカニーニほど突き詰め、死とはなにかを考えさせる指揮者はいない。