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1972年の夏に、当時ディーゼルカーで運行されていた特急「なは」に乗りました。朝の9時台に川内駅から乗車して12時間位かけて大阪に到着したのを覚えています。夜は食堂車で定食を食べました。それが人生最後の食堂車での食事でした。
あかつきとの併結以前のなはが本州区間でEF65形1100に牽かれる姿は昭和60年以前のブルートレインの姿を彷彿させ、痺れるほどカッコよく、あの瀬野八も補機無しで走破した頼もしさも実感させられた列車だった…
なはのヘッドマークが好きでした😊。
「なは」のヘッドマークはゆいレールの博物館に寄贈されました❗
岡山から普通車指定席で大阪まで行ったのは懐かしい思い出。
昭和43年10月に気動車で特急デビュー(キハ82系)昭和45年10月に鹿児島本線全線電化で電車に移行(485系)昭和50年3月に夜行転向(583系)その後ブルートレインに移行(24系25形→14系)気動車、電車、客車と三系統を運行して関西から西鹿児島まで昼も夜も活躍して走行した西の名車
電車化は昭和48年ですね、鹿児島線電化当初も宮崎行の日向を併結していた関係でしばらくは気動車のままでした。
1975年3月改正で昼行列車「なは」は廃止になるも同区間を運行していた夜行列車の「きりしま」のダイヤを受け継ぎ「なは」に改称され1984年2月改正で客車化されるも旧国鉄最後の1986年11月改正で「なは」のダイヤが廃止になり「明星」のダイヤが存続するも愛称は「なは」になりました。2008年3月改正で廃止になりましたが、愛称が続いたのは旧国鉄が沖縄県の事を想って存続させたのだと思います。
貧乏旅行を信条とした当時の私にとって、この「なは」のレガートシートはとても有難い存在だった。シートの色使いも赤と黒を使ったシックなものでカッコよく、フットレスト、深めのリクライニングなど、特急券のみで乗車できる座席としては値段以上の価値がある設備だった。たった一度しか乗車機会がなかったが、九州旅行へのアプローチ列車として私の記憶に深く刻み込まれている😌残念なのは、レガートのもう一つの方「あかつき」との乗り比べができなかったことだ😢(あかつきレガートが未乗の為)
両方乗ったけど大差なかったな😁
自分が唯一みたことのあるブルートレインでした。岡山でサンライズの連結を見た後によくみてました
なはは自分が初めて乗った寝台列車でした。主に開放B寝台やソロを利用していましたが、レガートシートでは旅客機のようなオーディオサービスが行われており、肘掛けにイヤフォンを挿せば各種オーディオが聴けたのも良い思い出です😊
サロンカーなにわをサロンカーなはで鹿児島まで運転して、フェリーで沖縄のツアーがあったらなんて・・・。絶対参加したいですね😊。
九州新幹線・鹿児島開業の直前に「なは」乗ったな。ED76も客車も外板は経年でぼこぼこという、文字通り晩年の姿が印象的だった。単線の鹿児島本線を客レでゴトゴトゆられる旅はもう二度とできない。
なはといえば気動車特急なはが思い出されますが、ヨンゴウトウダイヤ改正で電車化されると思っていたが、電車化されたのはヨンハチトウダイヤ改正で、その半年後に弊結されていた日向が電車化されるという不思議なことが起きた。想像するに485系の不足だったのではないか?すでに新幹線の博多開業をひかえていたので485系を製造するのは得策ではないと思っていたフシがあります。現に食堂車は昭和49年度以降製造されていません。なはのような長距離を走る列車は当時食堂車の連結は、あたりまえの時代でした。なははその後寝台電車から24系になり、最後は熊本止まりになってなはの愛称とはまったく関係ないことになってしまったことは、残念です。
せんだみつおの「なは」も、忘れないでね!
@@樋口浩介-o2j 様。「タケちゃんマン」も!那覇⁉
ED76に牽引されたなはが好きでした。今ブルトレが走れば需要はありそうなんやけどなぁ。
私が生涯初に乗ったブルートレインがこのなはでした。2004年の正月に霧島神宮初詣に行く時で福山から西鹿児島まで乗りました。B寝台で古かったけど寝やすかったですね。😂朝目覚めた時は熊本に着く前でした。そこから東シナ海の風景を堪能しながら西鹿児島まで行った思い出があります。40年間の長い間なはが関西と九州を行き来した記憶はあかつき共々永遠に忘れないでしょう。
「なは」は「はやぶさ」「富士」と異なり、JR化後に投入した個室車やレガートシートを基本編成に連結していたのがポイントでしたね。新幹線開業と車両取替という問題もあって廃止とはなりましたが、晩年の「あかつき」併結では、ブルトレ唯一の異会社・異系列併結(あかつきの西日本14系+なはの九州24系)となり、編成自体は5両になってしまったものの、関西からの最後の九州ブルトレとして輝き続けました。「なは」という愛称がいつの日か復活すると面白そうですね。
2072年の九州新幹線那覇延伸でようやく「なは」復活実現するかも…?
@@天王寺発阿倍野橋行きその前に中国に奪い取られて、「(取り返せ)なは」の名称になるかも。
初めて乗ったブルートレインでした。どきどきして車窓を見ていたのが思い出です。途中下関で機関車の交換して関門トンネル抜けて九州に来た時は、嬉しかったです。動画ありがとうございます。
鹿児島の親戚宅に行く時はいつも、なはのソロ個室を利用して仕事終わってから良く乗ったものです☺️。今もなはの車窓の事が1番思い出になってます😊!
沖縄はあくまでも日本領土という、当時の沖縄の方々の想いが込められての命名だったんでしょうね。
一方で、かつて国鉄時代に北海道で「くなしり」なる列車があったらしい。
@@雅夫大場北方領土は、今までもこれからも日本の領土ですよ。
九州新幹線の全線開通で在来線を使って博多から鹿児島中央まで行くにしても日豊本線を使わなければならなくなりましたねえ。
なはのヘッドマークを那覇の博物館で見たことあります。
485系の「なは」見たことがある。
私は、福岡で学生時代を送っていましたが、博多駅から出発する「なは」は、0時過ぎの出発だったから、周遊券を活用するに重要な列車で、普通車指定席のレガートシートもあって、よく乗ってました。もちろん北海道へ行く時も同様。「なは」から「白鳥」「はまなす」「ライラック」「礼文」と乗り継げば2日目のお昼には稚内へ行けたし、名神、東名高速バス、「八甲田」「津軽」とのコラボもあり。しかしよく考えると、南の果ての沖縄県由来の列車に乗って、北の果ての北海道へ旅に行くと言うことしていたのですね。
体力よくもちましたな。案外ケツも痛くなりました?コレもまた、青春‼?
今では新幹線で最速で4時間切るようになりましたね
Nゲージで寝台特急なはを見て走っていた頃を思い出す。
気動車特急の印象が強いです。新幹線岡山開業時は、名古屋始発のこだまに、岡山で特急なは・日向に接続していた。
走行距離も長かったが運行期間も長い列車だったんだなと
電車寝台特急とブルートレインの「なは」、一度ずつ新大阪から西鹿児島まで利用したことがあります。
1994年4月に当時のJR線完乗達成した旅のスタートで乗ったのが「なは」のソロだったな。
最末期の「熊本行きなは」は違和感を感じましたね.....
鹿児島は沖縄と熊本に隣接していますけど、九州新幹線の開業の影響でなはが熊本までに短縮されましたので
昔よくおばあちゃんと乗っていました
なはの列車名の由来は創設当時の1968年米国の支配下に置かれていた沖縄本土の返還を願って命名されたと言われている。1975年の新幹線博多開業後夜行列車となってからの約10年間は改正のたびに削減されていく明星からの振替で生き残っています。1978年10月改正では改正前の京都~西鹿児島間の明星からの振替で新大阪発着から京都発着に変わり1980年10月改正では新大阪~西鹿児島間の583系明星からの振替で再び新大阪発着となり、1984年2月改正で24系化された時はわずか1往復まで減便されてた明星からの振替で明星は新大阪~長崎、佐世保間2往復運転されていたあかつきの内1往復の佐世保編成を明星に振替えて1986年11月の廃止までこの体制でした。
「熊本」に行くのに重宝した。「岡山」まで新幹線で追いかけて、7時すぎに「熊本」着。
最後に乗ったブルートレインが「なは」でした。以前、鹿児島に仕事で住んでいて、2005年1月の冬季休暇の時に、大阪在住の友人を訪ねて東京の実家に行くのに利用しました。鹿児島中央から新八代に出て、新八代から普通電車で熊本に行き、そこから「なは」のソロに乗車して新大阪まで。まさか、これがブルートレイン最後の乗車になるなんて、あの頃は思ってもいませんでした。
座席車は飲んだ帰りの博多→小倉の客が結構乗ってました。
薩摩半島で早春に咲き乱れる「なのはな」から「なは」の列車名になったと勝手に思うようにしておりました😊
1:25 それを言うなら多層建て列車では?
最後、ちょっとジーンとしちゃった。阪九間は夜行列車を走らせるにはちょうどいい距離だったんだろうな。
JR常磐線各駅停車地下鉄千代田線直通用に1982年11月の国鉄全国ダイヤ改正で103系1000番台に変わりアルミニウム合金製車体の203系が導入されていきました。
へにゃ?😜
せんだみつおエクスプレス
鉄道がないのにじゃなくて、鹿児島からフェリーに乗り継いで沖縄に行く人用の列車だからだろ。当時は庶民が現実的に選択できる方法の中で一番速いルートが特急なはで鹿児島へ行ってフェリーに乗り継ぐルートだったから。飛行機なんて高嶺の花だった時代。
今でも鹿児島ー那覇を24時間で結ぶフェリーがあるけど関係あるのかな?
しかして関西から沖縄まで、この列車で行来した利用客は、どんだけ居たんぢゃろ…?
春眠、那覇をを覚えず(なんでやねん(゜o゜)\(-_-))
地下鉄千代田線の起点は北千住駅🚉です。
ほにょ?😜
エエ話や(T ^ T)なはの他にも、明星、彗星、あかつき…関西夜行のヘッドマーク、東京っ子には憧れでした。
JR九州の沖縄県進出、九州新幹線の那覇延伸、N700S系なは号運転を日本鉄道200周年、沖縄返還100周年となる2072年までに実現してほしいです。青函トンネルを建設した日本の土木技術なら決して不可能ではないはずです!
列車名称に「なは」が名付けられた歴史を今の沖縄県知事ぱ知っているのだろうか?多分知らないだろう。でなければあんな蛮行はできる訳無い‼️本当に失礼な知事だ‼️
私からの呼び名…特急せんだみつおナハ!ナハ!ナハ!wwwwナハ20とかナハ22なんて形式車輌もせんだみつお20せんだみつお22なんて呼んでた(笑)
しかしながら特急なはに20系客車が充当されることがなかったなんてねぇ...
目的地についたら24系普通車は…「オっハ〜!」みんなで御挨拶⁉
1972年の夏に、当時ディーゼルカーで運行されていた特急「なは」に乗りました。
朝の9時台に川内駅から乗車して12時間位かけて大阪に到着したのを覚えています。
夜は食堂車で定食を食べました。
それが人生最後の食堂車での食事でした。
あかつきとの併結以前のなはが本州区間でEF65形1100に牽かれる姿は昭和60年以前のブルートレインの姿を彷彿させ、痺れるほどカッコよく、あの瀬野八も補機無しで走破した頼もしさも実感させられた列車だった…
なはのヘッドマークが好きでした😊。
「なは」のヘッドマークはゆいレールの博物館に寄贈されました❗
岡山から普通車指定席で大阪まで行ったのは懐かしい思い出。
昭和43年10月に気動車で特急デビュー(キハ82系)
昭和45年10月に鹿児島本線全線電化で電車に移行(485系)
昭和50年3月に夜行転向(583系)
その後ブルートレインに移行(24系25形→14系)
気動車、電車、客車と三系統を運行して関西から西鹿児島まで昼も夜も活躍して走行した西の名車
電車化は昭和48年ですね、鹿児島線電化当初も宮崎行の日向を併結していた関係でしばらくは気動車のままでした。
1975年3月改正で昼行列車「なは」は廃止になるも同区間を運行していた夜行列車の「きりしま」のダイヤを受け継ぎ「なは」に改称され1984年2月改正で客車化されるも旧国鉄最後の1986年11月改正で「なは」のダイヤが廃止になり「明星」のダイヤが存続するも愛称は「なは」になりました。2008年3月改正で廃止になりましたが、愛称が続いたのは旧国鉄が沖縄県の事を想って存続させたのだと思います。
貧乏旅行を信条とした当時の私にとって、この「なは」のレガートシートはとても有難い存在だった。
シートの色使いも赤と黒を使ったシックなものでカッコよく、フットレスト、深めのリクライニングなど、特急券のみで乗車できる座席としては値段以上の価値がある設備だった。
たった一度しか乗車機会がなかったが、九州旅行へのアプローチ列車として私の記憶に深く刻み込まれている😌
残念なのは、レガートのもう一つの方「あかつき」との乗り比べができなかったことだ😢(あかつきレガートが未乗の為)
両方乗ったけど大差なかったな😁
自分が唯一みたことのあるブルートレインでした。岡山でサンライズの連結を見た後によくみてました
なはは自分が初めて乗った寝台列車でした。
主に開放B寝台やソロを利用していましたが、レガートシートでは旅客機のようなオーディオサービスが行われており、肘掛けにイヤフォンを挿せば各種オーディオが聴けたのも良い思い出です😊
サロンカーなにわをサロンカーなはで鹿児島まで運転して、フェリーで沖縄のツアーがあったらなんて・・・。
絶対参加したいですね😊。
九州新幹線・鹿児島開業の直前に「なは」乗ったな。ED76も客車も外板は経年でぼこぼこという、文字通り晩年の姿が印象的だった。
単線の鹿児島本線を客レでゴトゴトゆられる旅はもう二度とできない。
なはといえば気動車特急なはが思い出されますが、ヨンゴウトウダイヤ改正で電車化されると思っていたが、電車化されたのはヨンハチトウダイヤ改正で、その半年後に弊結されていた日向が電車化されるという不思議なことが起きた。想像するに485系の不足だったのではないか?すでに新幹線の博多開業をひかえていたので485系を製造するのは得策ではないと思っていたフシがあります。現に食堂車は昭和49年度以降製造されていません。なはのような長距離を走る列車は当時食堂車の連結は、あたりまえの時代でした。なははその後寝台電車から24系になり、最後は熊本止まりになってなはの愛称とはまったく関係ないことになってしまったことは、残念です。
せんだみつおの「なは」も、忘れないでね!
@@樋口浩介-o2j 様。
「タケちゃんマン」も!
那覇⁉
ED76に牽引されたなはが好きでした。
今ブルトレが走れば需要はありそうなんやけどなぁ。
私が生涯初に乗ったブルートレインがこのなはでした。2004年の正月に霧島神宮初詣に行く時で福山から西鹿児島まで乗りました。B寝台で古かったけど寝やすかったですね。😂朝目覚めた時は熊本に着く前でした。そこから東シナ海の風景を堪能しながら西鹿児島まで行った思い出があります。40年間の長い間なはが関西と九州を行き来した記憶はあかつき共々永遠に忘れないでしょう。
「なは」は「はやぶさ」「富士」と異なり、JR化後に投入した個室車やレガートシートを基本編成に連結していたのがポイントでしたね。
新幹線開業と車両取替という問題もあって廃止とはなりましたが、晩年の「あかつき」併結では、ブルトレ唯一の異会社・異系列併結(あかつきの西日本14系+なはの九州24系)となり、編成自体は5両になってしまったものの、関西からの最後の九州ブルトレとして輝き続けました。
「なは」という愛称がいつの日か復活すると面白そうですね。
2072年の九州新幹線那覇延伸でようやく「なは」復活実現するかも…?
@@天王寺発阿倍野橋行きその前に中国に奪い取られて、「(取り返せ)なは」の名称になるかも。
初めて乗ったブルートレインでした。どきどきして車窓を見ていたのが思い出です。
途中下関で機関車の交換して関門トンネル抜けて九州に来た時は、嬉しかったです。
動画ありがとうございます。
鹿児島の親戚宅に行く時はいつも、なはのソロ個室を利用して仕事終わってから良く乗ったものです☺️。
今もなはの車窓の事が1番思い出になってます😊!
沖縄はあくまでも日本領土という、当時の沖縄の方々の想いが込められての命名だったんでしょうね。
一方で、かつて国鉄時代に北海道で「くなしり」なる列車があったらしい。
@@雅夫大場北方領土は、今までもこれからも日本の領土ですよ。
九州新幹線の全線開通で在来線を使って博多から鹿児島中央まで行くにしても日豊本線を使わなければならなくなりましたねえ。
なはのヘッドマークを那覇の博物館で見たことあります。
485系の「なは」見たことがある。
私は、福岡で学生時代を送っていましたが、博多駅から出発する「なは」は、0時過ぎの出発だったから、周遊券を活用するに重要な列車で、普通車指定席のレガートシートもあって、よく乗ってました。
もちろん北海道へ行く時も同様。
「なは」から「白鳥」「はまなす」「ライラック」「礼文」と乗り継げば2日目のお昼には稚内へ行けたし、名神、東名高速バス、「八甲田」「津軽」とのコラボもあり。
しかしよく考えると、南の果ての沖縄県由来の列車に乗って、北の果ての北海道へ旅に行くと言うことしていたのですね。
体力よくもちましたな。
案外ケツも痛くなりました?
コレもまた、青春‼?
今では新幹線で最速で4時間切るようになりましたね
Nゲージで寝台特急なはを見て走っていた頃を思い出す。
気動車特急の印象が強いです。
新幹線岡山開業時は、名古屋始発のこだまに、岡山で特急なは・日向に接続していた。
走行距離も長かったが運行期間も長い列車だったんだなと
電車寝台特急とブルートレインの「なは」、一度ずつ新大阪から西鹿児島まで利用したことがあります。
1994年4月に当時のJR線完乗達成した旅のスタートで乗ったのが「なは」のソロだったな。
最末期の「熊本行きなは」は違和感を感じましたね.....
鹿児島は沖縄と熊本に隣接していますけど、九州新幹線の開業の影響でなはが熊本までに短縮されましたので
昔よくおばあちゃんと乗っていました
なはの列車名の由来は創設当時の1968年米国の支配下に置かれていた沖縄本土の返還を願って命名されたと言われている。1975年の新幹線博多開業後夜行列車となってからの約10年間は改正のたびに削減されていく明星からの振替で生き残っています。1978年10月改正では改正前の京都~西鹿児島間の明星からの振替で新大阪発着から京都発着に変わり1980年10月改正では新大阪~西鹿児島間の583系明星からの振替で再び新大阪発着となり、1984年2月改正で24系化された時はわずか1往復まで減便されてた明星からの振替で明星は新大阪~長崎、佐世保間2往復運転されていたあかつきの内1往復の佐世保編成を明星に振替えて1986年11月の廃止までこの体制でした。
「熊本」に行くのに重宝した。「岡山」まで新幹線で追いかけて、7時すぎに「熊本」着。
最後に乗ったブルートレインが「なは」でした。
以前、鹿児島に仕事で住んでいて、2005年1月の冬季休暇の時に、大阪在住の友人を訪ねて東京の実家に行くのに利用しました。
鹿児島中央から新八代に出て、新八代から普通電車で熊本に行き、そこから「なは」のソロに乗車して新大阪まで。
まさか、これがブルートレイン最後の乗車になるなんて、あの頃は思ってもいませんでした。
座席車は飲んだ帰りの博多→小倉の客が結構乗ってました。
薩摩半島で早春に咲き乱れる「なのはな」から「なは」の列車名になったと勝手に思うようにしておりました😊
1:25 それを言うなら多層建て列車では?
最後、ちょっとジーンとしちゃった。阪九間は夜行列車を走らせるにはちょうどいい距離だったんだろうな。
JR常磐線各駅停車地下鉄千代田線直通用に1982年11月の国鉄全国ダイヤ改正で103系1000番台に変わりアルミニウム合金製車体の203系が導入されていきました。
へにゃ?😜
せんだみつおエクスプレス
鉄道がないのにじゃなくて、鹿児島からフェリーに乗り継いで沖縄に行く人用の列車だからだろ。
当時は庶民が現実的に選択できる方法の中で一番速いルートが
特急なはで鹿児島へ行ってフェリーに乗り継ぐルートだったから。
飛行機なんて高嶺の花だった時代。
今でも鹿児島ー那覇を24時間で結ぶフェリーがあるけど関係あるのかな?
しかして関西から沖縄まで、この列車で行来した利用客は、どんだけ居たんぢゃろ…?
春眠、那覇をを覚えず
(なんでやねん(゜o゜)\(-_-))
地下鉄千代田線の起点は北千住駅🚉です。
ほにょ?😜
エエ話や(T ^ T)
なはの他にも、明星、彗星、あかつき…関西夜行のヘッドマーク、東京っ子には憧れでした。
JR九州の沖縄県進出、九州新幹線の那覇延伸、N700S系なは号運転を日本鉄道200周年、沖縄返還100周年となる2072年までに実現してほしいです。青函トンネルを建設した日本の土木技術なら決して不可能ではないはずです!
列車名称に「なは」が名付けられた歴史を今の沖縄県知事ぱ知っているのだろうか?
多分知らないだろう。
でなければあんな蛮行はできる訳無い‼️
本当に失礼な知事だ‼️
私からの呼び名…
特急せんだみつお
ナハ!ナハ!ナハ!wwww
ナハ20とかナハ22なんて形式車輌も
せんだみつお20せんだみつお22なんて呼んでた(笑)
しかしながら特急なはに20系客車が充当されることがなかったなんてねぇ...
目的地についたら24系普通車は…
「オっハ〜!」
みんなで御挨拶⁉