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ありがとうございます!
これはまさにロックを根幹に持つ自分と、ロックをやらない友人との付き合い方、価値観の違いについてバチリとハマる内容でした。
今 今たった今この言葉を必要としていました… 私は常々自分の境遇や恵まれた人、世間や周囲の人間などに怒りを覚えていて、いつも何かに焦り、悔しがり、静かに怒っている気がします。攻撃こそしないようにしていますがそれを絵にぶつけます。創作活動をしているときは怒っている時、妬んでいる時ほど創作意欲が湧いてきていい絵が描ける気がするんです。ただ昨日こそ、SNSでただ楽しそうに絵を描いているすごく上手な人を見て悔しくて、「ポジティブな感情でなく怒りに支配されながら描くのは悪いことのかな」と自己嫌悪に陥っていたのですが…私は手塚治虫先生と同じタイプなのかもと納得しました。ありがとうございます…!すごく救われました。
怒りを忘れる自分が不満なタイプでしたが、数年間も忘れられない怒りが存在し、驚いてます
私は生まれてこの方小説読みなのですが、読んでいて「ああこの作家、人間(社会)のことめちゃくちゃ嫌いなんだろうなぁ」と思う作品に出会うことがあります。そういう作品は大抵、どうしようもなく面白いです。社会との摩擦が激しすぎて大火傷をしている人ほど、他人の心に大きな摩擦を残す作品を生むような気がしています。文學は不良(碌でもないやつ)がやるものだ、という誰かの言葉を思い出しました。
この動画がこのチャンネルの中で1番好きーーー
怒りは私を大変疲れさせてきましたが、ともに創作小説の趣味の一端でもあります。悲しみ、寂しさ、歓び、自然愛、希望、輝き、尊敬、大切な目標を小説に詰めたいだけ詰められるそんな場所でもあり、創作は子供時代からの私の救いの場所であり、時に苦しみに向き合う場でもありました。何度もバネにしてきましたが、新しい問題に飲まれ、同じ問題に心曇らされ、嫌になっちゃいますが、またバネにしていきます。成長と学びは一生物ですものね。まだ若輩者ですが、頑張ります。
お遍路で経験したことですが、無作為に襲ってくる気候や自然に自分の行程を延々と邪魔されたときに、湧き上がってくる感情こそが、その人を支配している感情なのだと感じたことがあります。僕の場合は怒りでしたが、人によって悲しみ、あきらめ、笑いの感情が湧き上がってくる人もいるでしょうし、それに応じた創作の表現形態があるのではないかとも思います。
私は最近になって、自分の中の怒りの空虚さに気づいてしまいました。他人に指摘されるほどでは無いですが、常日頃から、悪態をついたり、物に当たる事をしてしまう事がとてもよくあります。しかし、その怒りについて内観をし、怒りの根源を辿っていくと、才能のある先人への憧れであると気づいてしまいました。その憧れから模倣をして、それが習慣化し、感情がそれに同調した結果、怒りという感情が生まれていました。それに気づいた私は、自分の可能性に多少の失望をして、見方によっては良くない意味で大人になる事の実感を感じました。
先日、精神科の心理検査の結果が出ました。私は、「誰かに非があるストレスに対しての適応力はあるが、誰のせいでもないことや仕方がないようなストレスに対しての適応力が弱い」と言われました。たしかに、どこにもぶつけられない意見を持った時に、怒りを感じることがありました。しかし、最近は抑うつ状態にもあるため、怒りを通り越して悲しみや絶望を感じるようになりました。創作のエネルギーがなくなってしまったようで悲しいです。最近先生のRUclipsチャンネルを拝見しております。とても勉強になります。私も自分をうまく理解するためにも体癖論を勉強してみます。
怒りの赴くまま武器を取れば愚かな戦争に向かう。怒りを感じつつも、自分の中で葛藤・格闘し、創作のエネルギーに変換する…ともすれば反感を買うかも知れないが、鮮烈に、或いは気高い美として表出したいと希求する…それが創作の原動力になるのだと思います。自分も仕事の傍ら拙い絵を描いておりますが、創作の根底に怒りがあるというのは、体感的に腑に落ちるところがあります。ベートーヴェン「第九」バリトン冒頭「嗚呼、こんな音ではない、もっと…」を思い起こしました。こうした私の捉え方が正しいかどうか、全く自信はありませんが…。
何で私が今こういう社会状況に置かれて、こういう事に、構造になっているんだろう、という存在論的な怒りや疑問について考えるのは、確かに重要な気がする
どうしようもなく湧き上がる怒りに、自己卑下をしかけていました。万人に優しく思いやりを持って。を突き詰めて、我が身を律しても、のおのおと生きる家族の姿を喜べない私の心は穢れが深すぎる… と。人は思いやりを持ち合える暮らしができるのではないか、と希望を持っていましたが、限界でした。怒りを止められない人もいるのですね。私は写真を撮る仕事ですが、不思議と、止められない怒りをなだめるかのように出掛けていった先に出会う美しい自然の景色が、売れたりしていました。そういう事なのですね。浅はかで個人的で違っていたら申し訳ありません。
創作の真似事をしてますが、創る側も受け取る側もエネルギーとなるのは怒りも含めた“負の感情”なのだと思っています。恐れ、嫉妬、敗北感、喪失感、専有願望など。人という生き物は、生存競争に残るためにそういった負の情報には敏感に反応するそうですね。
仮面ライダーは「自分はなぜ生まれたのか」という怒りや苦しみを描いた石ノ森作品ですよね。仮面ライダー555の主題歌の「悲しみをくり返し 僕らは何処へ行くのだろう」「今ひとりひとりの胸の中 目を覚ませ」が頭をよぎりました。ライダーシリーズが今も続き、受け入れられている理由の1つが分かりました!
絵を描いている者です。できることなら心穏やかに制作を続けたいと願いながらも、漠然とした“怒り”を感じることがあります。恥ずかしながら名越先生のお話を聞くまで、「怒り」の種類について考えたことがありませんでした。怒りという感情がまずあり、原因を考えてもつい身近な問題(自分に対して・他人に対して)のせいだと思考が止まっていたのだと気付かされました。わかりやすいそのような些細な怒りの後ろに隠れている“世界平和を祈るような怒り”に意識を向けられるようになり、制作に活用していきたいと強く思いました。動画の趣旨から外れた見当違いな事を申しているかもしれませんが、だとしてもこちらの動画が私にとって大きなヒントになったと感じています。公開していただき、本当にありがとうございました。
タイトルがいま必要な言葉でした。動画を見終わる前にコメントしてしまいます。
一次創作でアニメを作ってはひっそりと公開しています。公開してる作品以外にも今まで様々なものを作ってきましたが、それら全てが「こんな自分大嫌い」「自分は落伍者、何をやっても上手くいかないダメ人間」「普通になれなくてごめんなさい」などといった嘆きの気持ちを出発点にしてきたように思います。いつまでたっても自己肯定感を高める事が出来ないんです。そのせいなのか、私は【今現在の日常】を元にした作品は作れないです。どうやってもストーリーもキャラクターも思い浮かびません。現在と現実の自分を否定しているから当然なのかもしれません。子供の頃からずっと異世界や超常の物語を作ってました。嘆きの現実から逃げるためにノートを汚してきましたが、もしかしたら自分では認めたくないだけで「何で私がこんな目に遭わなきゃいけないんだ!こんな気持ちにならなきゃいけないんだ!何で他のみんなは恵まれてて自分には何もないんだ!」といった怒りが隠れているのかもしれないと、この動画を観て考えました。きっとコインの裏表みたいに、嘆き悲しみ諦観と怒り恨み妬みがセットになってるのかもしれません。幸か不幸か私は小心者なので怒りの面が出て「人も社会もぶっ壊してやる!」みたいな怒りマックスにはなりませんが。ですが、それら含めて制作の元になってると思うとありがたく、これからはマイナス感情の見方を変えていけるかなと思います。結局その苦しみも自分の中のものだから、辛くても排除しないであげたいです。長文失礼しました。
何故この世に生まれたのかという根源的な怒り、わかります。他者とか政治とかそんなことへの怒りとは全然違います。ものすごいエネルギーというか、自分という個人をこえたところからくるもの、という感じ。その扱いというか、どう向き合えばいいのかと苦しくなる時があります。芸術などで表に表現できる方はある意味で羨ましいです(すごい苦しみがあると思いますが)。
浄化の空間である銭湯と、我々が無意識に感じ取る偏見を極限まで取り除いた状態、つまり裸であるからこそ感じられた癒しなのかもしれませんね。
優秀な映画監督や音楽家、アーティスト最近ならエヴァを創った庵野監督とか…モノを作り出せる人って圧倒的なコンプレックスというか先生の言う「怒り」ネガティヴな感情から創り出されてる事が多い気がします。とういかそれが無いと創作活動は出来ないのだろうなと私も思います。これってある意味、力学的な気もする…私も感覚的に捉えているだけなので言葉で表現するのは難しいですね
大切なのは難しい事ではなく先生の様に柔軟な事なんだと思います。カッコイイとは、こういうことか。
宮沢賢治のよだかの星が思い浮かびました。
個人的な喜怒哀楽だけではなくて、社会的な怒りや哀しみの情動を大事にして生きたいですね
今回の動画はいつもにもましてすごく感覚的に刺さりました。何回も見たい動画です。先生は元々クリエイティブカタギな方と推察しておりますが、更に近々こういうテーマに沢山触れた(刺激)のかな?とふとよぎりました。
イラストを趣味にしているのですが、これも創作に入るのならば・・・創作とは、人を楽しませるためのものだとばかり思っていました。もちろんそういう面も大きいと思います。が、その根本にあるのは、どうしようもない、やるせない、人間という生に対する根源的な「怒り」なのですね。人生経験が創作を深めるのはこういったことが関係しているのかもしれませんね。
アレサ・フランクリンの映画リスペクトを見たところです。まさに心の叫びから生まれたソウルミュージックでした😭✨
とてもよくわかる気がします。
漫画のキャラクター解説などをされた先生の(体癖関連の)本を読んだことがあるのですが(今も自宅にあります)、漫画家を目指されていたことを今まで全く存じ上げていなかったので(手塚治虫さんに憧れていらっしゃったことも。)、この動画で、ザッと先生のルーツを教えていただけ、良かったです。
ちがっていたらすみません、つまり「こんちきしょう❗今に見てろよ😠」と行動し糧にする精神が新たな自分を創造させる。ってことですね。
分かる!クソ映画に出合った時の方がやる気が出るんだよね!
深い
ありがとうございます!
これはまさにロックを根幹に持つ自分と、ロックをやらない友人との付き合い方、価値観の違いについてバチリとハマる内容でした。
今 今たった今この言葉を必要としていました… 私は常々自分の境遇や恵まれた人、世間や周囲の人間などに怒りを覚えていて、いつも何かに焦り、悔しがり、静かに怒っている気がします。攻撃こそしないようにしていますがそれを絵にぶつけます。創作活動をしているときは怒っている時、妬んでいる時ほど創作意欲が湧いてきていい絵が描ける気がするんです。ただ昨日こそ、SNSでただ楽しそうに絵を描いているすごく上手な人を見て悔しくて、「ポジティブな感情でなく怒りに支配されながら描くのは悪いことのかな」と自己嫌悪に陥っていたのですが…私は手塚治虫先生と同じタイプなのかもと納得しました。ありがとうございます…!すごく救われました。
怒りを忘れる自分が不満なタイプでしたが、数年間も忘れられない怒りが存在し、驚いてます
私は生まれてこの方小説読みなのですが、読んでいて「ああこの作家、人間(社会)のことめちゃくちゃ嫌いなんだろうなぁ」と思う作品に出会うことがあります。そういう作品は大抵、どうしようもなく面白いです。
社会との摩擦が激しすぎて大火傷をしている人ほど、他人の心に大きな摩擦を残す作品を生むような気がしています。文學は不良(碌でもないやつ)がやるものだ、という誰かの言葉を思い出しました。
この動画がこのチャンネルの中で1番好きーーー
怒りは私を大変疲れさせてきましたが、ともに創作小説の趣味の一端でもあります。悲しみ、寂しさ、歓び、自然愛、希望、輝き、尊敬、大切な目標を小説に詰めたいだけ詰められるそんな場所でもあり、創作は子供時代からの私の救いの場所であり、時に苦しみに向き合う場でもありました。何度もバネにしてきましたが、新しい問題に飲まれ、同じ問題に心曇らされ、嫌になっちゃいますが、またバネにしていきます。成長と学びは一生物ですものね。まだ若輩者ですが、頑張ります。
お遍路で経験したことですが、無作為に襲ってくる気候や自然に自分の行程を延々と邪魔されたときに、湧き上がってくる感情こそが、その人を支配している感情なのだと感じたことがあります。僕の場合は怒りでしたが、人によって悲しみ、あきらめ、笑いの感情が湧き上がってくる人もいるでしょうし、それに応じた創作の表現形態があるのではないかとも思います。
私は最近になって、自分の中の怒りの空虚さに気づいてしまいました。
他人に指摘されるほどでは無いですが、常日頃から、悪態をついたり、物に当たる事をしてしまう事がとてもよくあります。
しかし、その怒りについて内観をし、怒りの根源を辿っていくと、才能のある先人への憧れであると気づいてしまいました。
その憧れから模倣をして、それが習慣化し、感情がそれに同調した結果、怒りという感情が生まれていました。
それに気づいた私は、自分の可能性に多少の失望をして、見方によっては良くない意味で大人になる事の実感を感じました。
先日、精神科の心理検査の結果が出ました。私は、「誰かに非があるストレスに対しての適応力はあるが、誰のせいでもないことや仕方がないようなストレスに対しての適応力が弱い」と言われました。たしかに、どこにもぶつけられない意見を持った時に、怒りを感じることがありました。しかし、最近は抑うつ状態にもあるため、怒りを通り越して悲しみや絶望を感じるようになりました。
創作のエネルギーがなくなってしまったようで悲しいです。
最近先生のRUclipsチャンネルを拝見しております。とても勉強になります。私も自分をうまく理解するためにも体癖論を勉強してみます。
怒りの赴くまま武器を取れば愚かな戦争に向かう。怒りを感じつつも、自分の中で葛藤・格闘し、創作のエネルギーに変換する…ともすれば反感を買うかも知れないが、鮮烈に、或いは気高い美として表出したいと希求する…それが創作の原動力になるのだと思います。自分も仕事の傍ら拙い絵を描いておりますが、創作の根底に怒りがあるというのは、体感的に腑に落ちるところがあります。ベートーヴェン「第九」バリトン冒頭「嗚呼、こんな音ではない、もっと…」を思い起こしました。こうした私の捉え方が正しいかどうか、全く自信はありませんが…。
何で私が今こういう社会状況に置かれて、こういう事に、構造になっているんだろう、という存在論的な怒りや疑問について考えるのは、確かに重要な気がする
どうしようもなく湧き上がる怒りに、自己卑下をしかけていました。万人に優しく思いやりを持って。を突き詰めて、我が身を律しても、のおのおと生きる家族の姿を喜べない私の心は穢れが深すぎる… と。人は思いやりを持ち合える暮らしができるのではないか、と希望を持っていましたが、限界でした。怒りを止められない人もいるのですね。私は写真を撮る仕事ですが、不思議と、止められない怒りをなだめるかのように出掛けていった先に出会う美しい自然の景色が、売れたりしていました。
そういう事なのですね。
浅はかで個人的で違っていたら申し訳ありません。
創作の真似事をしてますが、創る側も受け取る側もエネルギーとなるのは怒りも含めた“負の感情”なのだと思っています。恐れ、嫉妬、敗北感、喪失感、専有願望など。
人という生き物は、生存競争に残るためにそういった負の情報には敏感に反応するそうですね。
仮面ライダーは「自分はなぜ生まれたのか」という怒りや苦しみを描いた石ノ森作品ですよね。
仮面ライダー555の主題歌の「悲しみをくり返し 僕らは何処へ行くのだろう」「今ひとりひとりの胸の中 目を覚ませ」が頭をよぎりました。
ライダーシリーズが今も続き、受け入れられている理由の1つが分かりました!
絵を描いている者です。できることなら心穏やかに制作を続けたいと願いながらも、漠然とした“怒り”を感じることがあります。
恥ずかしながら名越先生のお話を聞くまで、「怒り」の種類について考えたことがありませんでした。怒りという感情がまずあり、原因を考えてもつい身近な問題(自分に対して・他人に対して)のせいだと思考が止まっていたのだと気付かされました。わかりやすいそのような些細な怒りの後ろに隠れている“世界平和を祈るような怒り”に意識を向けられるようになり、制作に活用していきたいと強く思いました。
動画の趣旨から外れた見当違いな事を申しているかもしれませんが、だとしてもこちらの動画が私にとって大きなヒントになったと感じています。
公開していただき、本当にありがとうございました。
タイトルがいま必要な言葉でした。
動画を見終わる前にコメントしてしまいます。
一次創作でアニメを作ってはひっそりと公開しています。公開してる作品以外にも今まで様々なものを作ってきましたが、それら全てが「こんな自分大嫌い」「自分は落伍者、何をやっても上手くいかないダメ人間」「普通になれなくてごめんなさい」などといった嘆きの気持ちを出発点にしてきたように思います。
いつまでたっても自己肯定感を高める事が出来ないんです。
そのせいなのか、私は【今現在の日常】を元にした作品は作れないです。どうやってもストーリーもキャラクターも思い浮かびません。
現在と現実の自分を否定しているから当然なのかもしれません。
子供の頃からずっと異世界や超常の物語を作ってました。
嘆きの現実から逃げるためにノートを汚してきましたが、もしかしたら自分では認めたくないだけで「何で私がこんな目に遭わなきゃいけないんだ!こんな気持ちにならなきゃいけないんだ!何で他のみんなは恵まれてて自分には何もないんだ!」といった怒りが隠れているのかもしれないと、この動画を観て考えました。
きっとコインの裏表みたいに、嘆き悲しみ諦観と怒り恨み妬みがセットになってるのかもしれません。
幸か不幸か私は小心者なので怒りの面が出て「人も社会もぶっ壊してやる!」みたいな怒りマックスにはなりませんが。
ですが、それら含めて制作の元になってると思うとありがたく、これからはマイナス感情の見方を変えていけるかなと思います。
結局その苦しみも自分の中のものだから、辛くても排除しないであげたいです。
長文失礼しました。
何故この世に生まれたのかという根源的な怒り、わかります。他者とか政治とかそんなことへの怒りとは全然違います。ものすごいエネルギーというか、自分という個人をこえたところからくるもの、という感じ。その扱いというか、どう向き合えばいいのかと苦しくなる時があります。芸術などで表に表現できる方はある意味で羨ましいです(すごい苦しみがあると思いますが)。
浄化の空間である銭湯と、我々が無意識に感じ取る偏見を極限まで取り除いた状態、つまり裸であるからこそ感じられた癒しなのかもしれませんね。
優秀な映画監督や音楽家、アーティスト最近ならエヴァを創った庵野監督とか…モノを作り出せる人って圧倒的なコンプレックスというか先生の言う「怒り」ネガティヴな感情から創り出されてる事が多い気がします。とういかそれが無いと創作活動は出来ないのだろうなと私も思います。
これってある意味、力学的な気もする…私も感覚的に捉えているだけなので言葉で表現するのは難しいですね
大切なのは難しい事ではなく
先生の様に柔軟な事なんだと思います。
カッコイイとは、こういうことか。
宮沢賢治のよだかの星が思い浮かびました。
個人的な喜怒哀楽だけではなくて、社会的な怒りや哀しみの情動を大事にして生きたいですね
今回の動画はいつもにもましてすごく感覚的に刺さりました。何回も見たい動画です。
先生は元々クリエイティブカタギな方と推察しておりますが、更に近々こういうテーマに沢山触れた(刺激)のかな?とふとよぎりました。
イラストを趣味にしているのですが、これも創作に入るのならば・・・創作とは、人を楽しませるためのものだとばかり思っていました。もちろんそういう面も大きいと思います。が、その根本にあるのは、どうしようもない、やるせない、人間という生に対する根源的な「怒り」なのですね。人生経験が創作を深めるのはこういったことが関係しているのかもしれませんね。
アレサ・フランクリンの映画リスペクトを見たところです。まさに心の叫びから生まれたソウルミュージックでした😭✨
とてもよくわかる気がします。
漫画のキャラクター解説などをされた先生の(体癖関連の)本を読んだことがあるのですが(今も自宅にあります)、漫画家を目指されていたことを今まで全く存じ上げていなかったので(手塚治虫さんに憧れていらっしゃったことも。)、この動画で、ザッと先生のルーツを教えていただけ、良かったです。
ちがっていたらすみません、つまり「こんちきしょう❗今に見てろよ😠」と行動し糧にする精神が新たな自分を創造させる。ってことですね。
分かる!クソ映画に出合った時の方がやる気が出るんだよね!
深い