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国家意志ってなんなん?国会の議決か、閣議の承認か、天皇の詔勅か等々、具体的に答えてほしい
霊夢さん、一つお願いが有ります。昭和45年創価学会が国立戒壇名称不使用を証明し宗門も又不使用を決めました。しかし、顕正会が破門されたのは、昭和49年の学会本部襲撃事件かきっかけでした。学会は襲撃を予測して屈強な男子部を配置し返討ちにすると供に警察へ通報、顕正会員12名逮捕で終結しました。これにより学会からの圧力もあり、猊下が厳しく指導した事に強く反発した事が直接の原因のようです。この事件を調べて欲しいのですが宜しくお願い致します。
三大秘法とは、本門(事)の本尊、題目、戒壇である。大聖人は本尊と題目を表し戒壇(本尊の安置場所)のみ後世の弟子に建立を遺言した。御書には勅撰並に、見教書を申し下して建てるべき戒壇と記されている(現在流の解釈では、国会の議決をへて建てるべき戒壇と成ると思う)。当初宗門もこの戒壇を国立と言っていた。ここで池田は宗門へ国立の名前を捨てる様働きかけ正本堂建立を成し遂げる。ただ宗門は、正本堂を本門の戒壇とは認めなかった。しかし学会では大聖人でさえ成し得なかった事の戒壇を建立したと大騒ぎし、邪魔な、顕正会、正信会を排除しに掛った。顕正会はまんまとその罠にひっかかった様に見える。しかし当時の日顕上人(猊下)は顕正会の言を受け入れなかった。ここに来て猊下を非難し、破門にまで至ってしまった事は残念である。その後、学会は驕り高ぶり猊下を誹謗中傷し、我々は創価学会仏だと言う迄になり破門になる。創価学会正信会顕正会などの問題に取り組まれ富士の清流を守り抜いた猊下のご苦労を思うと心が痛い落涙を禁じ得ない、今の顕正会は宗門への中傷誹謗に学会が言っている事をそのまま借用しているように見える。国立の名前にこだわる事は止め、今までの非礼、誹謗について猊下にお詫びし富士の清流に戻るべきであると思う。
>>国立の名前にこだわる事は止め顕正会は名称にこだわっているわけではありません。それは浅井先生も仰っています。国立戒壇とは、大聖人様が仰せられたとおり国家意思の公式表明を以て立てる戒壇です。今の宗門では、国立にすると大御本尊を国家の手に委ねることになり、もし国家の方針が変われば大御本尊を守れなくなるから絶対に国立にしてはダメだという妙観講の主張や、御書に戒壇を建立すべきものかという疑問形の文章で書かれているから国立戒壇論は堕地獄の論であると関快道という僧侶は言っています。従って、国立の名称を使用しないことにしたのではありません。国立戒壇はあってはならないし、それをいう者は無間地獄に落ちるというのが今の宗門の主張です。しかし、じゃあ近代の貫主上人と戸田会長及び当時の学会員、法華講員はみんな地獄だと言うのですか?おかしな話です。
日蓮正宗は、国立の名称を使用しないと決めた訳ですが国立と言う名称を使っただけで地獄に落ちるとは言っている訳ではありません。日達上人は『未来において更に広布への展開を促進し、正本堂はまさにその達成の実現を象徴するものと云うべし』と訓諭され須弥壇は蔵形式とし公開としていません。しかし、顕正会は猊下を大聖人御遺命を捨てたと非難し、学会は正本堂の破壊者と非難しています。現在、両者とも根も葉も無い誹謗中傷を繰り返し、いたずらに会員を宗門から遠避ける。保身に汲々としている新興宗教に成ってしまったと思いまう。@@kk-kj2cb
本化妙宗式目(明治35年) この大日蓮(大正5年)の方が新しいね。気になる点は、阿部良玄師の前後の文ですね。これを明らかにしてもらえたら良いんですけどね。調べてはいますがね。結局、阿部良玄師が臣民より国家を先に導く(趣意)意を表しているかのような、為にする動画構成であり、鵜呑みにするには禁物である。その流れから、日顕上人が姑息と言って止まない作成者のようだね。田中智学が「臣民」を先に、後に「国家」のような、浅井昭衛と似た順序を言うのに、その点だけなら構成的には問題無いが、この動画では田中智学と日顕上人の論が、真逆かのような印象を付けて表立たせるのが姑息でありこの手のトリックですね。日顕上人は、田中智学の論を挙げて〃大詔が渙発されると言う〃として、田中智学の〃大詔〃が〃渙発〃されるについての論を説明しているのだから、田中智学の『大詔渙発の【時勢を作るには】』と言う事の説明している部分に、明らかに論点の違いが存するのであるのを知らなくてはならない。日顕上人は〃大詔〃渙発〃を作る工程の説明を、ここではしていないではないか。説明されているのは、〃大詔〃渙発〃とは何かと言った内容である。騙すことなかれ。そもそも重きに置くべき論点はそこでは無く、国立戒壇の語句を使用不可の賛否に着眼させていない点ですよね。顕正会も宗門も互いに間違いはあっても、血脈を有する日達上人に誹謗した時点で負けている。
国家意志ってなんなん?国会の議決か、閣議の承認か、天皇の詔勅か等々、具体的に答えてほしい
霊夢さん、一つお願いが有ります。昭和45年創価学会が国立戒壇名称不使用を証明し宗門も又不使用を決めました。しかし、顕正会が破門されたのは、昭和49年の学会本部襲撃事件かきっかけでした。学会は襲撃を予測して屈強な男子部を配置し返討ちにすると供に警察へ通報、顕正会員12名逮捕で終結しました。これにより学会からの圧力もあり、猊下が厳しく指導した事に強く反発した事が直接の原因のようです。この事件を調べて欲しいのですが宜しくお願い致します。
三大秘法とは、本門(事)の本尊、題目、戒壇である。大聖人は本尊と題目を表し戒壇(本尊の安置場所)のみ後世の弟子に建立を遺言した。御書には勅撰並に、見教書を申し下して建てるべき戒壇と記されている(現在流の解釈では、国会の議決をへて建てるべき戒壇と成ると思う)。当初宗門もこの戒壇を国立と言っていた。ここで池田は宗門へ国立の名前を捨てる様働きかけ正本堂建立を成し遂げる。ただ宗門は、正本堂を本門の戒壇とは認めなかった。しかし学会では大聖人でさえ成し得なかった事の戒壇を建立したと大騒ぎし、邪魔な、顕正会、正信会を排除しに掛った。顕正会はまんまとその罠にひっかかった様に見える。しかし当時の日顕上人(猊下)は顕正会の言を受け入れなかった。ここに来て猊下を非難し、破門にまで至ってしまった事は残念である。その後、学会は驕り高ぶり猊下を誹謗中傷し、我々は創価学会仏だと言う迄になり破門になる。創価学会正信会顕正会などの問題に取り組まれ富士の清流を守り抜いた猊下のご苦労を思うと心が痛い落涙を禁じ得ない、今の顕正会は宗門への中傷誹謗に学会が言っている事をそのまま借用しているように見える。国立の名前にこだわる事は止め、今までの非礼、誹謗について猊下にお詫びし富士の清流に戻るべきであると思う。
>>国立の名前にこだわる事は止め
顕正会は名称にこだわっているわけではありません。それは浅井先生も仰っています。
国立戒壇とは、大聖人様が仰せられたとおり国家意思の公式表明を以て立てる戒壇です。
今の宗門では、国立にすると大御本尊を国家の手に委ねることになり、もし国家の方針が変われば大御本尊を
守れなくなるから絶対に国立にしてはダメだという妙観講の主張や、御書に戒壇を建立すべきものかという疑問形の
文章で書かれているから国立戒壇論は堕地獄の論であると関快道という僧侶は言っています。
従って、国立の名称を使用しないことにしたのではありません。国立戒壇はあってはならないし、それをいう者は
無間地獄に落ちるというのが今の宗門の主張です。
しかし、じゃあ近代の貫主上人と戸田会長及び当時の学会員、法華講員はみんな地獄だと言うのですか?
おかしな話です。
日蓮正宗は、国立の名称を使用しないと決めた訳ですが国立と言う名称を使っただけで地獄に落ちるとは言っている訳ではありません。日達上人は『未来において更に広布への展開を促進し、正本堂はまさにその達成の実現を象徴するものと云うべし』と訓諭され須弥壇は蔵形式とし公開としていません。しかし、顕正会は猊下を大聖人御遺命を捨てたと非難し、学会は正本堂の破壊者と非難しています。現在、両者とも根も葉も無い誹謗中傷を繰り返し、いたずらに会員を宗門から遠避ける。保身に汲々としている新興宗教に成ってしまったと思いまう。@@kk-kj2cb
本化妙宗式目(明治35年) この大日蓮(大正5年)の方が新しいね。気になる点は、阿部良玄師の前後の文ですね。
これを明らかにしてもらえたら良いんですけどね。調べてはいますがね。
結局、阿部良玄師が臣民より国家を先に導く(趣意)意を表しているかのような、為にする動画構成であり、鵜呑みにするには禁物である。
その流れから、日顕上人が姑息と言って止まない作成者のようだね。
田中智学が「臣民」を先に、後に「国家」のような、浅井昭衛と似た順序を言うのに、その点だけなら構成的には問題無いが、この動画では田中智学と日顕上人の論が、真逆かのような印象を付けて表立たせるのが姑息でありこの手のトリックですね。
日顕上人は、田中智学の論を挙げて〃大詔が渙発されると言う〃として、田中智学の〃大詔〃が〃渙発〃されるについての論を説明しているのだから、田中智学の『大詔渙発の【時勢を作るには】』と言う事の説明している部分に、明らかに論点の違いが存するのであるのを知らなくてはならない。
日顕上人は〃大詔〃渙発〃を作る工程の説明を、ここではしていないではないか。
説明されているのは、〃大詔〃渙発〃とは何かと言った内容である。
騙すことなかれ。
そもそも重きに置くべき論点はそこでは無く、国立戒壇の語句を使用不可の賛否に着眼させていない点ですよね。
顕正会も宗門も互いに間違いはあっても、血脈を有する日達上人に誹謗した時点で負けている。