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日中線はなくなる年の前年の冬に乗りに行きました。上野から455系電車で運転されてた夜行急行ばんだい号で会津若松まで行き、そこから日中線に乗り換えて熱塩まで行きました。乗った客車が背もたれが板張り座席のオハフ61でした。記念に車掌さんから熱塩から会津加納までの車内補充券を買いました。
夜行ばんだいが廃止されたのは、日中線の末期なので、運が悪かった…。と言っても、私は奥羽本線を゙上がっていたので、深夜の郡山から乗るのもしんどそう。冬の日中線。貨物が機関車の次位に連結されたら暖房使えないですよね。どうしてたのでしょうか。
日中線跡に静態保存されてるスイッチャーは、喜多方駅の南側に隣接されてる昭和電工との貨物入換に使われてた車両でしょう。上三宮駅手前の押切川に架橋されてた鉄橋は、今は同じ場所に道路橋へと架替えられてます。会津加納駅の北側にはかつて陸橋(跨線橋)が有り、そこから会津加納駅構内が見渡せられました。日中線のSL最終運転で使われたC11形2両の内の1両が、京都の梅小路に静態保存されてると思ったけど。いやー、にしても懐かしいですね。
@@おりおり-s5s コメントありがとうございます。詳しく情報頂けて、色々わかりました。何しろ古すぎて、記憶も薄れてゆくので動画を゙作りました。
いつも動画ありがとうございます。子供の頃、山陰線旧型客車に乗る機会があると60系のボックス席が極端に狭い事に気がつき、編成の中から35系43系のボックス席へ移動していた事を思い出しました。あと写真から最後尾車両が緩急車ではない事に驚きました。
いつもご視聴ありがとうございます。動画作成にあたり、色々調べてみると最後尾が緩急車でない場合は可運式のテールライトを装着していたみたいですね。また、貨物が連絡された場合は暖房が使えないですよね。五能線とかは、暖房方式を変えて対応していたようですが、日中線は普通に暖房カットしたと推察されます。客車も60系だし…日中線はかなり酷い扱いだったように感じました。
編集も含めてのどかでいいですね^^
コメントありがとうございます。暗いと言われますが・・・。
日中線、82年5月の連休のとき乗り行きました。車両の古さもさることながら軌道状態もかなり劣悪で乗車中居眠りをしていたら、激しく揺れてイヤというほどまどの縁に頭をぶつけたことを覚えています。
@@keihoudenrei01 コメントありがとうございます。線路の状態と、60系の台車を゙考えたら、乗り心地はいいわけありませんよね。本当に、荒れるがままでしたね。夜乗ったら怖かったと思います。
最近まで会津から米沢へ抜ける路線バスがあったそうですが、利用客がいなく廃止されました。仮に米沢まで繋げたとしてもどこかで廃止になってたかもしれません。
コメントありがとうございます。路線バスすら廃止が続きますから…確かに厳しいですね
廃線後、まだ熱塩駅にレールやポイントが残ってる時に行った事ありますが、ホームの部分のみレールの上に銀色のペンキが塗られてて驚きました
コメントありがとうございます。熱塩の記念館ですが、ホームのある場所に線路を残しておいて欲しかったですね。ペンキ塗っていたという事は、そのつもりだったのでしょう。
亡き両親の故郷が新潟県新発田市で、また新発田駅から出てた国鉄赤谷線も日中線と同じ頃廃線となりました。でも新発田と喜多方は近い方なので、廃線前に行っておけば良かったと後悔してます。
@@伸也渡邉-q8x コメントありがとうございます。赤谷線は訪れる事が出来ませんでした。国鉄末期、乗りたかった路線は沢山ありましたが、部活の休みが無かった事、お金も無かったので訪問出来た所は限定的でした。まだ動画化していませんが、新潟交通とか蒲原鉄道に乗れたのは良かったと思います。
@@youegu ありがとうございました。悪名高き赤字国鉄だったころの国鉄日中線は乗車した事がなく、現地に行けば熱塩駅管理人の須田さん?に会えれば当時を教えてもらえるそうです。
米沢まで三セクで延長開業しても早晩廃止になったろうなぁ。廃止後に国道が米沢まで開通したけど交通量はさほど多くは...
コメントありがとうございます。もし、野岩羽線として、早い時代に米沢まで開通していたら、奥羽本線の代わりに幹線になっていたかもしれませんね。ただし、鬼怒川からは今市は、東武と重複するし、日光線もスイッチバックになるから、こっちを使うかどうかは微妙ですね。
未だに日中線の敷地跡に「工」の杭が残ってる場所がありますね。
コメントありがとうございます。よく見ると、遺構は残っている感じでした。敷地跡が桜並木になっているので、意外とわかりやすかったです。全くわからない所もありましたが…
日中線の最終日の乗車券だけ記念に買いました。
@@hmuraddojp 最後の列車の記事を゙読んだことありますが、大勢の人が訪れたいる写真に、あの寂れた雰囲気とリンクしませんでした。
小学低学年の頃に実業之日本社の国鉄全線全駅全百科という本を亡父に買って貰って、読み漁ってました。日中走らない日中線というのもこの本に有った表題でした。その後、JTB系列の会社に入り、JTB時刻表やその他JRや関東私鉄時刻表、旅行ガイドブックや国内外パンフに携わってました。全百科で得た知識は圧倒的で、JTB九州の方と話した時は何でそんなに知ってるのと。JR貨物時刻表に携わった時も有難いことに知識流用させていただきました。友人がSL撮影にハマり、磐越に毎週行くのに便乗して会津、喜多方も毎週のように訪れてました。一人旅で熱塩温泉も行きました。旧客体験は昭和50年前後に高崎方面に向かうデッキ付きのEF57系列の機関車に引っ張られた列車のみ。乗った車両はハダカ電球がぶら下がる陸らインニング不可の客車でした。鴻巣まで乗ったと思います。形式は違えど、この時代の客車が残ってるんですね… 会社は吸収されて社風が変わってしまったので退職しましたが、いつか行ってみたいです。
コメントありがとうございます。私のバイブルは「国鉄全線全駅 読み乗り2万キロ総ガイド/主婦と生活社」ですね。1979年に発刊されましたが、全駅の乗降客数と貨物取り扱量が記載されていました。当時、ローカル線の駅でも貨物の取り扱いがあった事がわかりました。 旧型客車ですが、FE57にけん引された列車に乗られたのですね。うらやましいです。私が初めて乗車したのは、本当に子どもの頃、急行高千穂に、熱海から小田原間に乗ったような気がします。と、いうのも、急行列車が来るというので、乗ったら、あまりにボロだったので急行券を買ったのに! と両親が怒っていた事発車の際にガクンと衝撃があった事があったのを記憶しています。となりのボックスの人に冷凍ミカンをごちそうになった事もついでに覚えています。その次に乗ったのが、福知山線の宝塚から大阪まので、どこか・・・西宮市の母親の実家に行った時に、近所の電車に乗っていたらディーゼル機関車にけん引された旧型客車が来ました。電化したばかりで、新しい103系に交じって走っていました。
郡山在住です。日中線は、最終日に乗りに行きました。動画と同じ、会津若松始発の熱塩行きです。会津若松までは「ばんだい51号」で、多分、運転日だったのでしょう。たしか、最終日は客車を4両に増結+前後にDE10の編成だったため、熱塩駅での機回しはありませんでした。乗客はさすがに多かったのですが、車内はギュウギュウになるほでではなかったと記憶しています。現在では仕事で熱塩温泉に月1回訪れるので、日中線記念館にはたまに寄ったりしています。
コメントありがとうございます。最終日の様子はネット上で見る事ができますね。当時も雑誌に記事が出ていました。あの閑散とした路線に多くの人が集まったのが信じられないと思って記事を見ていました。それにしても、バスもなくなり、沿線も寂しくなりましたよね。喜多方駅付近は新しい家が増えたような気がしますが・・・。いつまでも記念館が整備されて、訪れる事ができる事を祈っています。
そんな状態で日中線乗っても当時はほんとしんどかっただけでしょ😣😣😣
確かに…。この日、1週間の旅を゙終えて家に帰ったら、家族に、あまりのやつれぶりに驚かれました。後半は意識朦朧で、乗り継ぎミスもありました。でも、ブラック(昭和なら当たり前)な運動部に所属していたので。どんな状態でも部活を゙気にせず、旅が出来た事が幸せでした。
みんな駅ネして日中線に乗ってたんだなるほどねえ
寝袋もなく、新聞紙の上で寝てました。若い頃だから出来ましたが、1週間も続くとさすがに消耗してました。
オラが高校生の頃は上野発の夜行と接続してました。
あるものだと思って旅程を゙組んだのが失敗でした。
オハ35とオハフ61の2両編成。片道はオハが後ろになるはずですが、規則上それは問題なかったのでしょうかね。つまらないことですが、ちょっと気になってしまいました。
コメントありがとうございます。オハ35には、可運式のテールライトを装着を装着していたようですね。真岡鉄道の50系も、片側はオハなので、必ずしも緩急車である必要はないのかと思われます。
日中線はなくなる年の前年の冬に乗りに行きました。
上野から455系電車で運転されてた夜行急行ばんだい号で会津若松まで行き、そこから日中線に乗り換えて熱塩まで行きました。
乗った客車が背もたれが板張り座席のオハフ61でした。
記念に車掌さんから熱塩から会津加納までの車内補充券を買いました。
夜行ばんだいが廃止されたのは、日中線の末期なので、運が悪かった…。と言っても、私は奥羽本線を゙上がっていたので、深夜の郡山から乗るのもしんどそう。
冬の日中線。貨物が機関車の次位に連結されたら暖房使えないですよね。どうしてたのでしょうか。
日中線跡に静態保存されてるスイッチャーは、喜多方駅の南側に隣接されてる昭和電工との貨物入換に使われてた車両でしょう。
上三宮駅手前の押切川に架橋されてた鉄橋は、今は同じ場所に道路橋へと架替えられてます。
会津加納駅の北側にはかつて陸橋(跨線橋)が有り、そこから会津加納駅構内が見渡せられました。
日中線のSL最終運転で使われたC11形2両の内の1両が、京都の梅小路に静態保存されてると思ったけど。
いやー、にしても懐かしいですね。
@@おりおり-s5s コメントありがとうございます。詳しく情報頂けて、色々わかりました。
何しろ古すぎて、記憶も薄れてゆくので動画を゙作りました。
いつも動画ありがとうございます。
子供の頃、山陰線旧型客車に乗る機会があると60系のボックス席が極端に狭い事に気がつき、編成の中から35系43系のボックス席へ移動していた事を思い出しました。あと写真から最後尾車両が緩急車ではない事に驚きました。
いつもご視聴ありがとうございます。
動画作成にあたり、色々調べてみると最後尾が緩急車でない場合は可運式のテールライトを装着していたみたいですね。
また、貨物が連絡された場合は暖房が使えないですよね。五能線とかは、暖房方式を変えて対応していたようですが、日中線は普通に暖房カットしたと推察されます。
客車も60系だし…日中線はかなり酷い扱いだったように感じました。
編集も含めてのどかでいいですね^^
コメントありがとうございます。暗いと言われますが・・・。
日中線、82年5月の連休のとき乗り行きました。車両の古さもさることながら軌道状態もかなり劣悪で乗車中居眠りをしていたら、激しく揺れてイヤというほどまどの縁に頭をぶつけたことを覚えています。
@@keihoudenrei01 コメントありがとうございます。線路の状態と、60系の台車を゙考えたら、乗り心地はいいわけありませんよね。
本当に、荒れるがままでしたね。夜乗ったら怖かったと思います。
最近まで会津から米沢へ抜ける路線バスがあったそうですが、利用客がいなく廃止されました。
仮に米沢まで繋げたとしてもどこかで廃止になってたかもしれません。
コメントありがとうございます。路線バスすら廃止が続きますから…確かに厳しいですね
廃線後、まだ熱塩駅にレールやポイントが残ってる時に行った事ありますが、ホームの部分のみレールの上に銀色のペンキが塗られてて驚きました
コメントありがとうございます。
熱塩の記念館ですが、ホームのある場所に線路を残しておいて欲しかったですね。
ペンキ塗っていたという事は、そのつもりだったのでしょう。
亡き両親の故郷が新潟県新発田市で、また新発田駅から出てた国鉄赤谷線も
日中線と同じ頃廃線となりました。でも新発田と喜多方は近い方なので、
廃線前に行っておけば良かったと後悔してます。
@@伸也渡邉-q8x コメントありがとうございます。
赤谷線は訪れる事が出来ませんでした。国鉄末期、乗りたかった路線は沢山ありましたが、部活の休みが無かった事、お金も無かったので訪問出来た所は限定的でした。
まだ動画化していませんが、新潟交通とか蒲原鉄道に乗れたのは良かったと思います。
@@youegu ありがとうございました。
悪名高き赤字国鉄だったころの
国鉄日中線は乗車した事がなく、
現地に行けば熱塩駅管理人の
須田さん?に会えれば当時を
教えてもらえるそうです。
米沢まで三セクで延長開業しても早晩廃止になったろうなぁ。廃止後に国道が米沢まで開通したけど交通量はさほど多くは...
コメントありがとうございます。もし、野岩羽線として、早い時代に米沢まで開通していたら、奥羽本線の代わりに幹線になっていたかもしれませんね。
ただし、鬼怒川からは今市は、東武と重複するし、日光線もスイッチバックになるから、こっちを使うかどうかは微妙ですね。
未だに日中線の敷地跡に「工」の杭が残ってる場所がありますね。
コメントありがとうございます。
よく見ると、遺構は残っている感じでした。敷地跡が桜並木になっているので、意外とわかりやすかったです。
全くわからない所もありましたが…
日中線の最終日の乗車券だけ記念に買いました。
@@hmuraddojp 最後の列車の記事を゙読んだことありますが、大勢の人が訪れたいる写真に、あの寂れた雰囲気とリンクしませんでした。
小学低学年の頃に実業之日本社の国鉄全線全駅全百科という本を亡父に買って貰って、読み漁ってました。日中走らない日中線というのもこの本に有った表題でした。その後、JTB系列の会社に入り、JTB時刻表やその他JRや関東私鉄時刻表、旅行ガイドブックや国内外パンフに携わってました。全百科で得た知識は圧倒的で、JTB九州の方と話した時は何でそんなに知ってるのと。JR貨物時刻表に携わった時も有難いことに知識流用させていただきました。友人がSL撮影にハマり、磐越に毎週行くのに便乗して会津、喜多方も毎週のように訪れてました。一人旅で熱塩温泉も行きました。旧客体験は昭和50年前後に高崎方面に向かうデッキ付きのEF57系列の機関車に引っ張られた列車のみ。乗った車両はハダカ電球がぶら下がる陸らインニング不可の客車でした。鴻巣まで乗ったと思います。形式は違えど、この時代の客車が残ってるんですね… 会社は吸収されて社風が変わってしまったので退職しましたが、いつか行ってみたいです。
コメントありがとうございます。
私のバイブルは「国鉄全線全駅 読み乗り2万キロ総ガイド/主婦と生活社」ですね。
1979年に発刊されましたが、全駅の乗降客数と貨物取り扱量が記載されていました。
当時、ローカル線の駅でも貨物の取り扱いがあった事がわかりました。
旧型客車ですが、FE57にけん引された列車に乗られたのですね。うらやましいです。
私が初めて乗車したのは、本当に子どもの頃、急行高千穂に、熱海から小田原間に乗ったような気がします。
と、いうのも、急行列車が来るというので、乗ったら、あまりにボロだったので
急行券を買ったのに! と両親が怒っていた事発車の際にガクンと衝撃があった事があったのを記憶しています。
となりのボックスの人に冷凍ミカンをごちそうになった事もついでに覚えています。
その次に乗ったのが、福知山線の宝塚から大阪まので、どこか・・・
西宮市の母親の実家に行った時に、近所の電車に乗っていたらディーゼル機関車にけん引された旧型客車が来ました。電化したばかりで、新しい103系に交じって走っていました。
郡山在住です。
日中線は、最終日に乗りに行きました。
動画と同じ、会津若松始発の熱塩行きです。
会津若松までは「ばんだい51号」で、多分、運転日だったのでしょう。
たしか、最終日は客車を4両に増結+前後にDE10の編成だったため、熱塩駅での機回しはありませんでした。
乗客はさすがに多かったのですが、車内はギュウギュウになるほでではなかったと記憶しています。
現在では仕事で熱塩温泉に月1回訪れるので、日中線記念館にはたまに寄ったりしています。
コメントありがとうございます。最終日の様子はネット上で見る事ができますね。当時も雑誌に記事が出ていました。あの閑散とした路線に多くの人が集まったのが信じられないと思って記事を見ていました。
それにしても、バスもなくなり、沿線も寂しくなりましたよね。喜多方駅付近は新しい家が増えたような気がしますが・・・。
いつまでも記念館が整備されて、訪れる事ができる事を祈っています。
そんな状態で日中線乗っても当時はほんとしんどかっただけでしょ😣😣😣
確かに…。この日、1週間の旅を゙終えて家に帰ったら、家族に、あまりのやつれぶりに驚かれました。後半は意識朦朧で、乗り継ぎミスもありました。
でも、ブラック(昭和なら当たり前)な運動部に所属していたので。どんな状態でも部活を゙気にせず、旅が出来た事が幸せでした。
みんな駅ネして日中線に乗ってたんだ
なるほどねえ
寝袋もなく、新聞紙の上で寝てました。若い頃だから出来ましたが、1週間も続くとさすがに消耗してました。
オラが高校生の頃は上野発の夜行と接続してました。
あるものだと思って旅程を゙組んだのが失敗でした。
オハ35とオハフ61の2両編成。片道はオハが後ろになるはずですが、規則上それは問題なかったのでしょうかね。
つまらないことですが、ちょっと気になってしまいました。
コメントありがとうございます。オハ35には、可運式のテールライトを装着を装着していたようですね。真岡鉄道の50系も、片側はオハなので、必ずしも緩急車である必要はないのかと思われます。