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紀行文雨男(Rain bringer)
Япония
Добавлен 16 июн 2011
ホームページ
「日本の車窓・雨男の紀行文」
www2s.biglobe.ne.jp/~kurume/
のRUclips版です。
ホームページともども宜しくお願いします。
最近は、廃線巡り、昔の鉄道の乗車記録、紀行文を紹介しています。ナレーション付きの乗車紀行に一番力を入れています。また、暗渠巡り、河川散策もしております。
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オホーツクの絶景を行く湧網線。廃線となった国鉄路線の乗車記録
#中湧別 #湧網線 #サロマ湖 #能取湖 #計呂地 #佐呂間 #浜佐呂間 #船長の家 #サロマ湖畔ユースホステル #浜床丹 #網走 #網走湖 #宮脇俊三
Note
editor.note.com/notes/ncce992856e1d/edit/
今回は、サロマ湖沿いを走った湧網線を紹介いたします。
美しい車窓で知られていましたが、1987年3月に廃止されました。
その湧網線には、1984年8月11日と、1986年8月20日に乗車しました。名寄本線湧別支線も合わせてご紹介いたします、
まず、名寄本線湧別支線からはじめます。
名寄本線の湧別駅からヒゲのようにチョコンと伸びた枝線。これが湧別支線です。
運転本数は僅かに2往復。朝と夕方だけの運用でした。
かつては北見から伸びた湧別線という路線でしたが、名寄本線と石北本線に分割され、枝線になってしまいました。
1986年8月20日、湧網線の浜床丹仮乗降場から湧別駅行きに乗車しました。
最初は座れたのですが、途中から通学の高校生が乗車してきて、いつもの指定席に私が座っていたので罵声を浴びせてきました。
とても居づらくなり、早くおりたくなりました。
列車は、中湧別駅からスイッチバックして湧別駅に直通します。4.9㎞走って終点の湧別駅に。今度は折り返しの網走駅行きとなります。
湧別駅には鉄道ファンも散見され、思い思いに写真を撮ったりしていました。今度は鉄道ファンだけを乗せていたので、やっと安心しました。
この区間、特に印象はありませんでしたが、運転本数が僅かに2往復。乗るのが大変でした。
さて、次にご紹介する湧網線ですが、美しい車窓だけではなく、面白いダイヤが組まれ...
Note
editor.note.com/notes/ncce992856e1d/edit/
今回は、サロマ湖沿いを走った湧網線を紹介いたします。
美しい車窓で知られていましたが、1987年3月に廃止されました。
その湧網線には、1984年8月11日と、1986年8月20日に乗車しました。名寄本線湧別支線も合わせてご紹介いたします、
まず、名寄本線湧別支線からはじめます。
名寄本線の湧別駅からヒゲのようにチョコンと伸びた枝線。これが湧別支線です。
運転本数は僅かに2往復。朝と夕方だけの運用でした。
かつては北見から伸びた湧別線という路線でしたが、名寄本線と石北本線に分割され、枝線になってしまいました。
1986年8月20日、湧網線の浜床丹仮乗降場から湧別駅行きに乗車しました。
最初は座れたのですが、途中から通学の高校生が乗車してきて、いつもの指定席に私が座っていたので罵声を浴びせてきました。
とても居づらくなり、早くおりたくなりました。
列車は、中湧別駅からスイッチバックして湧別駅に直通します。4.9㎞走って終点の湧別駅に。今度は折り返しの網走駅行きとなります。
湧別駅には鉄道ファンも散見され、思い思いに写真を撮ったりしていました。今度は鉄道ファンだけを乗せていたので、やっと安心しました。
この区間、特に印象はありませんでしたが、運転本数が僅かに2往復。乗るのが大変でした。
さて、次にご紹介する湧網線ですが、美しい車窓だけではなく、面白いダイヤが組まれ...
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オホーツク海沿いを走ったローカル線。廃線となった国鉄路線の乗車記録
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#幌延 #急行利尻 #ノシャップ岬 #稚内 #天北線 #興浜北線 #北見枝幸 #浜頓別 #興浜線 #雄武 #興浜南線 #興部 #渚滑 #渚滑線 #紋別 #急行紋別 #中湧別 #北見滝ノ上 noteに詳細を記載しています。 note.com/ideal_holly666/n/ne2dbb77665e7?from=notice 今回は、単独の列車ではなく、稚内からオホーツク海沿いを走るローカル線をご紹介いたします。 稚内を出発し、天北線、興浜北線、途中バスに乗り、興浜南線、名寄本線、寄り道で渚滑線。いずれもすでに廃線になった路線です。 湧網線、釧網本線と乗り継げば、太平洋にまで出る事ができました。未完成区間は50㎞だけでした。 1984年8月10日。9:34。天北線音威子府行きディーゼルカーが出発します。その12分後に宗谷本線の普通客車列車が出発します。この2本の列車は音威子府駅で接続し...
失われた鉄道と炭鉱。 大夕張鉄道線と国鉄夕張支線の乗車記録
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#国鉄 #大夕張鉄道線 #夕張支線 #廃線 #三菱石炭鉱業 #大夕張 #夕張シューパロダム #大夕張ダム 乗車日 1984年8月4日 再訪日 2002年10月5日 2013年8月17日 2023年11月13日 noteに詳細を記載しています。 note.com/ideal_holly666/n/nbc9e1d88887a?sub_rt=share_b 今回は、三菱石炭鉱業。大夕張鉄道線の乗車記録を中心に、夕張支線、夕張シューパロダム付近の様子を紹介いたします。 なお、ナレーションなし、走行音だけの動画は別に作っていますので、宜しければ概要欄を参照してください。 1984年8月4日。函館から乗車した特急おおぞら5号を千歳空港駅で下車して、石勝線夕張行き普通列車に乗り換えました。 このまま特急列車に乗っても、夕張まで行けますが、特急列車は札幌駅を経由するので遠回りです。 ...
天売、焼尻島観光と炭鉱で栄えた羽幌線。廃線となった国鉄路線の乗車記録
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以前、夜間運転の急行羽幌号をご紹介しましたが、今回は昼の羽幌線をご紹介します。 #鉄道 #国鉄 #天売島 #焼尻島 #羽幌線 #羽幌炭坑 #築別炭坑 #急行はぼろ 急行はぼろ ruclips.net/video/zTnSJFVokpg/видео.html 私のホームページより引用 駅はとてもすがすがしい朝を迎えていた。ディーゼルカーのアイドリングの音が静かなホームにカランカランと響く。これから乗ろうとしている羽幌線は141㎞もの長さを持つ赤字ローカル線で廃止指定を受けている。約67㎞の長さの留萌本線の支線であるが、支線の方が本線よりも長いというのは珍しい。 幌延も過疎化が進んでいる街だ。しかし、最近この街に核廃棄物を捨てる事が計画されている。ゴーストタウンのような街を見ていると恐ろしく感じる。5時11分。30%ぐらいの乗車率で1両のキハ22は出発。客の殆どは鉄道ファンと帰省客。仮乗...
オロロンロードを沿いを疾走した羽幌線急行「はぼろ」。廃線となった国鉄路線の乗車記録
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noteに詳細を記載しています note.com/ideal_holly666/n/n4376706b9bb8?sub_rt=share_b 乗車紀行として、昔の列車の旅を紹介してきましたが、今回は、今は亡き羽幌線を走っていた、急行「はぼろ号」です。 この急行列車は、札幌駅から13両編成で運転されますが、先頭5両が「大雪3号」石北本線網走行き、中間4両が「紋別号」宗谷本線、名寄本線線経由遠軽行き、後部が「はぼろ号」留萌本線、羽幌線経由幌延行きでした。 所謂3階建急行と言われる伝説の急行列車でした。 私は「はぼろ号」で深川から幌延まで乗車しましたが、当日は列車が遅れていて、羽幌線内で回復運転を実施、その結果、深川から幌延間で、宗谷本線経由の宗谷号よりも所要時間が短く、急行はぼろのポテンシャルを実感しました。 現在、羽幌線が走っていた海沿いはオロロン街道と呼ばれ、有効明媚な国道として有名...
日中走らない日中線。廃線となった国鉄路線の乗車記録
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福島県喜多方から伸びていた日中線。わずか11.6㎞の盲腸線ですが、栃木県今市市と山形県米沢市を結ぶ野岩羽線の一部として1938年。昭和13年に開通しました。 しかし、戦争の影響もあって、山形県側は、米沢まで延長される事はありませんでした。計画は中止になり、その一部であった日中線は、1984年3月末で廃止されました。 一方で、栃木県側ですが、同じように盲腸線になっていた会津線は第三セクター化され、野岩鉄道も開通し、国鉄ではなく東武鉄道と接続する事で、計画は達成されました。 日中線廃止の2年後の事でした。 日中線沿線には、日中温泉、熱塩温泉という温泉はありましたが、観光客がおおぜい利用するような路線ではなく、末期のダイヤは朝1往復、夕方2往復で、日中走らない日中線として知られていました。 そんな日中線に1983年8月12日に乗車しました。 廃線後、1997年に転換バスで、2024年にはレ...
松前線と江差線の乗車記録。松前線の悲運と江差線の幸運 What Went WRONG and RIGHT?
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木古内駅で二手に別れて走っていた松前線と江差線末端区間。松前線の方が利用客が多かったにも関わらず、線区単位で計算された為に、松前線は1988年に廃止されました。江差線はその後、辛くも生き残りましたが、結局、2014年に廃止されてしまいました。 今回はローカル線。松前線と江差線の乗車記録を紹介しまします。 #鉄道 #松前線 #江差線 「日本の車窓・雨男の紀行文」 www2s.biglobe.ne.jp/~kurume
板谷峠のスイッチバックと東北本線の旧型客車#板谷峠
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急勾配が続く奥羽本線の板谷峠。 スイッチバック駅が4駅も続いた難所でした。 私が訪れた1985年時点では。旧型客車に乗って、スイッチバックを体験する事ができました。 この旧型客車の旅と東北本線の旧型客車、急行電車の旅を紹介します。 「日本の車窓・雨男の紀行文」 www2s.biglobe.ne.jp/~kurume
東京ーフランクル航路スカイマップ
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2024年1月、フランクフルトと東京を往復しました。 復路の航路は見慣れないルートでした。 早く、元のルートで飛べる事を祈るしかありません。 「日本の車窓・雨男の紀行文」 www2s.biglobe.ne.jp/~kurume
中国ローカル鈍行列車緑皮車・22系でゆく湘桂線の旅
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#緑皮車 #中国ローカル線 #22系 #鉄道 #中華人民共和国 #広西チワン族自治区 #湘桂線 #憑祥 #南宁 今回は、少し前の海外の列車を紹介します。 旅の舞台は広西チワン族自治区です。 現在、中国では高速列車が張り巡らされてますが、2009年時点では在来線中心でした。 また、中国のローカル線には、日本国鉄の旧型客車を思わせる非冷房の客車列車が沢山走っていました。 そのひとつ、広西チワン族自治区を走る「湘桂線」の「憑祥」から、「南宁」まで、2009年5月3日に普通列車に乗った記憶を動画を中心に紹介します。 「日本の車窓・雨男の紀行文」 www2s.biglobe.ne.jp/~kurume
池北線と北海道ちほく高原鉄道 ふるさと銀河線(小利別駅と旅人宿「夢舎」)#小利別駅 #夢舎 #池北線 #北海道ちほく高原鉄道 ふるさと銀河線
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2006年4月に廃止された北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線。 第三セクターになる前は。池北線と呼ばれたローカル線でした。池田と北見を結ぶ140㎞の長大ローカル線で、国鉄再建法に基づいた「第2次廃止対象路線」に含まれていました。4大長距離ローカル線の天北線、名寄本線、標津線が廃止された中、ここだけは第三セクターで延命されました。 今回は、国鉄時代の1986年8月17日に乗車した記録を中心に、第三セクター時代の2003年9月に乗車した思い出も紹介したいと思います。 「日本の車窓・雨男の紀行文」 www2s.biglobe.ne.jp/~kurume
根室本線(新得から滝川。代行バスと廃線前の賑わい
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根室本線の新得から富良野まで、廃止の1か月前、2024年2月19日に訪れました。 朝日新聞のインタビューに答え、私の訪問目的が記事になりましたが、 昨年、東鹿越駅を訪れ、その時、立ち話をした人から トンネルを抜けて見える「かなやま湖」が最高。私はここがいちばん好きな区間です。 という話を聞き、廃止になる前にその景色を確かめたくてここを訪れました。 1984年に普通客車列車で通り抜けた区間ですが、記憶を確かめる旅でもあります。 新得から東鹿越は、2016年からバス代行区間となっていますが、根室本線の旧線沿いを行くので、かつての日本三大車窓の狩勝峠を眺める事ができました。 「日本の車窓・雨男の紀行文」 www2s.biglobe.ne.jp/~kurume
日高本線とえりも岬ユースホステル
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2024年現在、日高地方を走らない日高本線。 かつては苫小牧駅から様似駅までを結んでいましたが、2015年1月に発生した高波被害で、大半は運休。そして廃線となってしまいました。 最初に全線を通して乗車したのは1986年8月でした。1990年2月にも、えりも岬ユースホステルを訪れた際に、日高本線を往復しました。 日高本線は、国鉄(JR北海道)バスの日勝線を経由して広尾線と接続していました。半島のような日高地方の南端を、えりも岬を経由して、ぐるっと回るルートです。 今回は、1990年2月20日に苫小牧駅から様似駅を経由してえりも岬に向かった記録に乗せて、他の記憶も織り交ぜて紹介したいと思います。 「日本の車窓・雨男の紀行文」 www2s.biglobe.ne.jp/~kurume
広尾線と黄金道路(幸福駅など)
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#広尾線 #黄金道路 #国鉄 #鉄道 #えりも岬 #襟裳岬 #廃線 #愛国 #幸福 1987年に廃止された広尾線。 「愛国から幸福ゆき」という乗車券が人気だった路線ですが、赤字ローカル線でした。帯広から南下して、十勝平野がつきると終点の広尾です。ここで日高山脈に行く手を遮られます。計画では、さらに南下して、襟裳を経由して日高本線と接続する構想がありました。 この構想線と同じルートを、国鉄バス日勝線が走っていました。バスが走るのは黄金道路と呼ばれた道路です。切り立った崖沿いの、海岸線をトレースする道路は難工事でした。建設に莫大な費用が掛かったので、黄金道路と呼ばれました。 今回は、1986年8月に乗車した、帯広から襟裳岬までの旅を紹介します。「日本の車窓・雨男の紀行文」 www2s.biglobe.ne.jp/~kurume
日勝スカイライン(国鉄バス日勝高原線・富内線・日高本線)#広尾線 #国鉄バス日勝高原線
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日勝スカイライン(国鉄バス日勝高原線・富内線・日高本線)#広尾線 #国鉄バス日勝高原線
タウシュベツ川橋梁と士幌線の乗車記録(代行バスを含む)#士幌線 #タウシュベツ川橋梁
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根室本線普通列車(釧路 滝川間422列車)乗車記録。(釧路‐帯広‐新得‐幾寅‐東鹿越‐富良野‐芦別‐滝川)
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根室本線普通列車(釧路 滝川間422列車)乗車記録。(釧路‐帯広‐新得‐幾寅‐東鹿越‐富良野‐芦別‐滝川)
函館発札幌行き夜行普通列車(函館本線41列車)の乗車記録。旧型客車で一夜を過ごした記録です。
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函館発札幌行き夜行普通列車(函館本線41列車)の乗車記録。旧型客車で一夜を過ごした記録です。
北海道の廃線紹介ありがとうございます。 ところでローカル線て指定席文化があるんですね。 私が高校生の時に使ってたローカル線は基本的に早い者勝ちでしたので基本的になかったですね。そういうの。もしかしたらあったのかもしれませんでしたけど
コメントありがとうございます。高校生は決まった席があったみたいですね。相手が大人だと、黙っていたみたいですけど、同世代だった為、攻撃的になったのでしょうね・・・。8月末とか、高校ははじまっているけど観光シーズンという時にありがちでした。
宮脇さんの時刻表2万キロに出てくるのは読みましたが、ここも未訪問です。🚃
コメントありがとうございます。しっかり保存されていますので、是非訪問してください。桜の時期に再訪してみたいと思いました。
「姫路ユースホステル」に泊まり、夕飯後にオリエンテーションがあって、疲れて面倒くさいので参加し無かった! シーツ代200円徴収された。 ユースホステルは後にも先にもこの1回だけ…
本州のユースホステルにはあまり泊まった事ないです。 北海道も、人気、不人気あって、最初に泊まったところが、印象が悪いと、もう利用しなくなるとか…
ユースホステルなんて今の子は知らないだろうなあ。自分も泊まったことないけど。
コメントありがとうございます。最近はシニア層が利用しているようですね。昔、泊まった方が再び利用しているとか・・・。
往路はノースポールを掠めませんでした?復路は、コロナ明けに何度か搭乗しましたがほぼ黒海の南を掠めるような航路でしたね。フライトマップのサジェストのとおり飛ぶと...ロシアウクライナ戦争の餌食ですね😿
往路は北極を行きましたね。フライトマップは元々のルートがセットされているので、どんどんずれてゆく感じでした。はやく元のルートで行ける日が来る事を祈ります。
道外出身者ですが、旅行でおよそ40年ほど前に北見枝幸から網走までこのルートで南下しました。 二月の流氷の時期で、見たことのない景色の車窓を飽くことなく眺めてました。 とても懐かしいです!
@@ささきかずさ 流氷の時期! 羨ましいです。その季節は最高ですよね。 部活やってたり、お金が無かったりで、宿泊費のかかる冬場は旅できなかったです。
天北線の一部を『宗谷岬線』として再建してほしい。
宗谷本線もヤバイですよね。昔の天北線の方が乗っていた気がします。
懐かしいです。私は網走から湧網線→名寄本線→興浜南&宗谷バス&興浜北→天北線で北上しました。廃線後、興浜北線の北見神威岬にクロスカントリースキーでも行きました。 当時は浜頓別ユースホステルを拠点に旅をしていたので、クッチャロ湖を自転車や徒歩で1周しました。安別仮乗降場は撮影された半月前頃に私も行ってました。この板張りのホーム上でユースホステルで用意してもらったおにぎりを食べた思い出があります。今は自然に還り、熊が出没して危険な地域になってしまいました。
ハマトンですね。 私は一回しか行ってないですが、人気でしたよね。天北線から見るクッチャロ湖良かった。もう見れないのは残念です✨
@@youegu さん 旧天北線の代替バスの音威子府~浜頓別間が廃止され、北側も宗谷岬経由で辛うじて残っている現状、寂しい限りです。
@@anklady 代替バスも廃止が続きますね。と、言う事で明日、深名線バスに乗ります。
懐かしいですね。当時は荒れ放題だった廃線跡入って行き、ポイント動かして遊んだり信号に登って行ったりしてました😅
荒れ放題だったんですか… 今は綺麗に保存しようとする意思を感じます。
@ 当時はこれを観光にとかいう意識は無かったんでしょうね
枝幸の銭湯が懐かしいですね😅
宮脇俊三氏の本にでてきますね。私は行った事ないですが…
@ 風呂掃除手伝うと、無料で泊めてくれたんですよ。勿論脱衣場で雑魚寝ですけど
知らなかった! 北海道には今でも、そのような所ありそうですね…
@@youegu あ、枝幸湯は廃業されたとの事です。
@@久保隆史-p7v 残念です。銭湯そのものが廃れていますものね
羽幌線は、道路が良すぎました。そこを走る特急バスは、速い、安い、サービス充実、本数多しの4拍子揃っていて、国鉄の列車が太刀打ちできませんでした。一応、地元では「汽車に乗りましょう」と呼びかけ、沿線は、胆振線と共に三セクの調査もしていたようですが、こうした事情もあり、長大4線と同じくらいの距離があったにもかかわらず、あっさりと廃止となりました。
興浜線と美幸線が繋がった時、そこにオホーツク縦貫線が完成するはずでした。夢は夢のままに終わり、とはいえ、乗ってみたかったです。
オホーツク縦貫線、夢がありますね。 観光列車とか走ったのでしようか…
ルートとしては、宮脇俊三氏が時刻表2万キロ(第7話)で未乗車路線に乗った際の前半ルートですね。
コメントありがとうございます。 今度、もう一度読んでみます。 逆ルートも宮脇氏の本にありましたね!
こんばんは。故郷夕張を 取り上げて頂きありがとうございます。懐かしい 初代夕張駅良く利用しました。今は周りも何もなくなってしまい寂しい限りです😢それから大夕張鉄道。 夕張鉄道も最高でした 大夕張鉄道も終点大夕張迄 乗車しました😊 国鉄夕張線2代目は夕張鉄道の始発駅があった 夕張本町駅の跡に ありましたね 今の夕張を見ていると涙が 出て来ます😢 素敵な動画ありがとうございました(・∀・)
大夕張鉄道、夕張鉄道…。あるうちに乗りたかったです✨ やはり、地域に縁がある方のコメントは重みが違いますね。私は単に旅人ですので、重みがありません。でも、懐かしんで頂けたのであれば幸いです。ありがとうございました🙇
私もオッサンですが、さすがに天北線と名寄本線しか乗ってない😵 特に、興浜南線・興浜北線はあと1ヶ月廃止が遅かったら乗れたのに…(せっかく1日で、興浜南線・興浜北線・美幸線乗る予定組んでたのに)😵
コメントありがとうございます。 この3線を1日とは…きっと会心のプランだったのでしょうね💪 全通していたら、もう少し遅くまで残ったかもしれませんね…
新幹線が札幌まで開業した時、北海道の在来線は今のままを維持できているでしょうかねぇぇ…廃止が決定している留萌本線と今、貨物路線として残すかどうかで揉めている新函館北斗ー長万部間はしょうがないにしてもその他の路線はなんとか新幹線札幌開業まで維持してもらいたいものですね。
コメントありがとうございます🙇 厳しいでしょうね… 国策としてどうするかだと思います。宗谷本線と根室本線は、普通に考えれば残せないと思いますが…
馬鹿な奴が、「だから国鉄で残せば良かった」言うが、国鉄基準なら宗谷本線は廃止対象だ😉
今から50年ほど前バイクで旅行中浜頓別ユースホステルで一週間ほど過ごしました。 鉄道で旅行している大学生らしい若い男女が此処で周遊券の交換をしている風景が毎日見られました。 期間は残っているけどもう帰る人と、残り少ないけど未だ居たい人、 それともう無くなりましたが、普通列車の夜行を宿代わりにして居る人も居ました。
コメントありがとうございます。この頃は野宿続きでしたが、大学生になってからユースホステルに泊まるようになりました。浜頓別も1回だけですが行った事があります。自転車でクッチャロ湖を巡りました。ハマトンは人気がありましたよね。懐かしいです。
自転車で思い出しましたが、 浜頓別から紋別方面に南下す自転車に対して YHからおにぎりと飲料水が無料で手渡されていました。 良い時代ですね。
ハマトンもっとゆっくり行けば良かった…と思います。人気でしたものね…
@@ローンライダー-i6i さん そうです、浜頓別ユースホステルでは自転車で旅している人にはエールを込めておにぎりをあげてました。宿泊者が少ない時、晴れた朝は建物の前の草原で朝食を食べてました。朝のパントーストはおかわりいっぱいできました。牧場からもらってた牛乳も美味しかった。音威子府から札幌行き急行利尻に乗車できる天北線22時台の列車に乗車できる時間帯まで滞在できる「夜逃げ」も利用してました。宿泊費稼ぎで牧場のアルバイトを紹介してもらったり思い出がいっぱいあります。長文失礼しました。
羽幌線は乗られなかったのですか? 金駒内橋梁から日本海を眺めて見たかった…
コメントありがとうございます。羽幌線はこちらになります。もし良かったらご覧いただけると嬉しいです。他にもいくつか動画を作っています。 ruclips.net/video/PneQ_KhYRfg/видео.html
ありがとうございます!
初めてのSuper Thanksです。励みになります。また頑張ります。ありがとうございます🙇
資料的価値も高い映像😮
コメントありがとうございます。できるだけ、当時の様子を伝えようと思い編集しました。
北見枝幸駅前の食堂が今も残ってるのが驚きだよ
@@okhan コメントありがとうございます。このあと訪れた事ないですか、そうなんですか。確かに驚きですね
誰かが言ってたが、宗谷管内では稚内の次の街らしい😉
現役の青函連絡船に乗られたんですね。私はこの2年後の88年に急行八甲田でリバイバル青函連絡船に唯一乗ることが出来ました。函館に連絡船で渡り、帰路は海峡線で戻ってきて青森に停泊している青函連絡船のシップホテルに宿泊。思い出は大切にしたいですね。
コメントありがとうございまず。連絡船最終日も乗りました。夜行便もあって、今よりもずっと便利でしたね。 記録として残せて良かったと思います😊
青森→名古屋はどうやって運転してたのか、気になります。
回送してました。この日も、前日のあおもり編成と、日中すれ違いました
3軸台車の走行音に時の流れと産業と地域の栄枯盛衰を感じました。動画ありがとうございました。
コメントありがとうございます。保存会が綺麗に車両を保存してくれているのがありがたいですね。 夕張をみると、日本の未来が不安になります😭
おおとりもなつかしいが、旭川を『あさひがわ』と言うところが昔々を知っていますね😊
コメントありがとうございます。実は今も「あさひがわ」だと思っていました。JRになった時に変わったんですね。
初めまして、動画アップありがとうございます。 40年前私はバイクで全道を周っていました。当時はATMなんか無くて全国でお金を降ろせる機関は郵便局しかありませんでした。 そんな折、祝日に気付かずお金を降ろせないまま羽幌付近で足止めを食らってしまい 力昼と築別の駅で寝袋を広げ寝た事があります。力昼駅は目の前が日本海で何時間も眺めていた記憶があります。 朝は通学の生徒さんに起こされるような感じで目を覚ましましたが、力昼駅の清掃を任されたのだろう付近のおばさんに 「ギャー 出てケー」で慌てて出ていきました^^;その時もう一人ライダーいたなぁw
コメントありがとうございます。今でも、天売島ではお金を下ろせず、ちょっと慌てました・・・。 築別の駅とか力昼の駅でずっと海を見ていたというのは、今からすると貴重な経験だと思いますが、当時は時間を持て余してしまったでしょうね。今、駅寝をする人ってどのぐらいいるのでしょうか? 今年の9月に宗谷本線の下沼駅で途中下車した時は、駅のノートに泊まって人のメモが残されていましたが・・・
金駒内の跨道橋、まだ健在なのですね。乗車もし、廃線になってからも行ってるので懐かしいです。😢
コメントありがとうございます。 さすがに海側は撤去されてしまいましたが、面影は残ってました。下り列車から見ると海に飛び出す感じで感動的でした…
動画投稿ありがとうございます。。私は、昭和59年の夏、高校生の時乗車しました。しかし、車窓はほぼ忘却の彼方です。でも、数年前に自転車で層雲峡から三国峠経由で帯広まで走って、雄大な景色や士幌線の遺構を見ることができました。今年の冬は、スキーでタウシュベツ橋梁を見に行く予定です。
コメントありがとうございます。 なかなかアクティブですね。タウシュベツは、最近話題ですね。近づけなかったのが心残りです。 士幌線は遺構が沢山あるのがいいですね。最近訪問した羽幌線跡とは随分違います。
4:22 曇りのどんよりとした雰囲気がより一層荒廃感を引き立てていますね... まるでパラレルワールドに1人だけ取り残されてしまったような独特の怖さがありそうです😱
コメントありがとうございます。 本当に怖かったです。 霊感があるわけではないですが、気持ち悪さと吐き気に、ただならぬ空気を感じました。
国鉄115系。国鉄167系。167系はこのカラーがホリデー快速ときわ鎌倉号とイメージが強かった。池袋の次南千住、南千住の次が池袋は普段特急を含め乗車できない区間を乗れるのは懐かしかった。池袋、新宿から北千住までよく乗りました。
コメントありがとうございます。王子駅の引き込み線の存在が子供の頃からの疑問でしたが、この列車に乗って氷解しました。イベント列車で、このルートを逆走した事がありますが、今は使われてるのでしょうか・・・。
@youegu わからないですね。もう廃止されましたし。ただ松戸車両センターの車両が東京総合車両センターへ検査時は使いそうですね。
混んでいたな~!! いい思い出。
懐かしいを通り越して、もはや夢でもみていたかのようですね。
急行はぼろですが、旧羽幌駅を出るとまるで回送列車のようだったそうです。鉄道ジャーナル誌でルポをされていたときに載っていました。結局この列車は羽幌からの札幌への列車だった。一番混んでいたのは留萌までだったそうであとは下車される一方のようだった。
@@もりわききくお コメントありがとうございます。羽幌で大半が降りました。 天塩から先、普通列車になっても良さそうなものですが、なぜ終点まで急行運転だったのでしょうか… 現在でも、沿岸バスの特急「はぼろ」に乗った人の話だと、留萌で半数が降りて、羽幌でほぼ全員が降りたようでした。
9割が喫煙車なのが時代を感じさせます。 私喫煙者なので、今の禁煙車しかない状況はちょっと辛い。 2000年代はまだ各特急列車に2.3両は喫煙車が有りましたが。 在来線の昼行特急の食堂車は、リアルでは知りませんが。 北斗星と、100系新幹線の食堂車は利用しました。矢張り流れる車窓を眺め食事をするのは良いですねぇ。
コメントありがとうございます。昔は飛行機でもタバコが吸えましたしね。100系の食堂車は利用した事があります。大阪出張の際に、わざわざグランドひかりを予約したものでした。 在来線の食堂車・・・って考えると、あとは、特急「とき」と「北斗星」ぐらいですね。ブルトレに乗った時は、連結はしていましたが、売店扱いでした。
@@youegu 100系新幹線の食堂車は、 まだ幼い頃なので、自分の金で利用してませんが。ハンバーグを食べた事ははっきり覚えてます。 本当はカフェテリアを使ってみたかったんですが、乗った列車が食堂車しか無かったのでぶーたれてたみたいと、親に言われましたが。食堂車を利用して今は良かったと思っています。
@@二代目魔耶麻一漏 100系の食堂車は、利用した筈ですが、記憶は1回しかありません。カレーを食べました。グランドひかりは、食堂車というよりも、1Fの広い座席が魅力的で、何度も使いました。
禁煙車って、懐かしい
禁煙区間というのもありましたよね
懐かしい。 稚内までの延長が要望されていました
コメントありがとうございます。 スイッチバックが必要ですけれど、ディーゼルカーなら問題無かったですね。 宗谷本線よりも、短距離なので、便利だったと思います。
動画作成ありがとうございます。懐かしさを感じます。自分は82年の高校生の夏休みに初めての北海道を全線完乗を目指して回りました。はぼろ号には乗車しませんでしたが、時刻表に表示のある天売号に乗車しました。増毛行った後に留萌から幌延まで乗車。しかし夏休みで海水浴客が多く確か増結されてましたが留萌→羽幌は混雑でデッキにいました。その後廃止されレンタカーで沿岸を走った時は、なんで廃止になったんだろうと寂しく感じました。また3階建ての大雪号は末端区間で乗りました。なんで札幌から大回りの需要あるのかなんて思いました。今思えば夢のある路線や列車が数多く楽しかったです。
コメントありがとうございます。天売号、いいですね。昼行列車なので、さぞ景色も良かったのではないかと思います。もし、私が天売号に乗っていれば、違った動画になったのかも・・・ デッキまで混雑って、今では考えられないですね。現在、沿岸バスも、通学時間帯でも1台で十分なくらの輸送量ですし、羽幌線に致命傷を与えた、沿岸バスの特急「はぼろ」も、外から見ている限り、それほど賑わっているようには見えませんでした。 また、宗谷本線を廃止して、天北線と羽幌線が残っていたらどうなっていたのでしょうかね。
羽幌線、乗りたかったなぁ。
コメントありがとうございます。もう、覚えている人少なくなってしまいました。羽幌の街に泊まった時に、羽幌線の話をしても知っている人はいませんでした・・・。
羽幌線を走っていた伝説の急行はぼろ号。 石北本線経由の大雪3号、名寄本線経由の紋別を併結した13両編成の急行列車でした。
名古屋駅の動画までありがとうございますm(*_ _)m出来れば煙吐いていれば尚更ですね!
コメントありがとうございます。 案外おとなしく出発してゆきました…
編集も含めてのどかでいいですね^^
コメントありがとうございます。暗いと言われますが・・・。
未だに日中線の敷地跡に「工」の杭が残ってる場所がありますね。
コメントありがとうございます。 よく見ると、遺構は残っている感じでした。敷地跡が桜並木になっているので、意外とわかりやすかったです。 全くわからない所もありましたが…
亡き両親の故郷が新潟県新発田市で、また新発田駅から出てた国鉄赤谷線も 日中線と同じ頃廃線となりました。でも新発田と喜多方は近い方なので、 廃線前に行っておけば良かったと後悔してます。
@@伸也渡邉-q8x コメントありがとうございます。 赤谷線は訪れる事が出来ませんでした。国鉄末期、乗りたかった路線は沢山ありましたが、部活の休みが無かった事、お金も無かったので訪問出来た所は限定的でした。 まだ動画化していませんが、新潟交通とか蒲原鉄道に乗れたのは良かったと思います。
@@youegu ありがとうございました。 悪名高き赤字国鉄だったころの 国鉄日中線は乗車した事がなく、 現地に行けば熱塩駅管理人の 須田さん?に会えれば当時を 教えてもらえるそうです。
オハ35とオハフ61の2両編成。片道はオハが後ろになるはずですが、規則上それは問題なかったのでしょうかね。 つまらないことですが、ちょっと気になってしまいました。
コメントありがとうございます。オハ35には、可運式のテールライトを装着を装着していたようですね。真岡鉄道の50系も、片側はオハなので、必ずしも緩急車である必要はないのかと思われます。
郡山在住です。 日中線は、最終日に乗りに行きました。 動画と同じ、会津若松始発の熱塩行きです。 会津若松までは「ばんだい51号」で、多分、運転日だったのでしょう。 たしか、最終日は客車を4両に増結+前後にDE10の編成だったため、熱塩駅での機回しはありませんでした。 乗客はさすがに多かったのですが、車内はギュウギュウになるほでではなかったと記憶しています。 現在では仕事で熱塩温泉に月1回訪れるので、日中線記念館にはたまに寄ったりしています。
コメントありがとうございます。最終日の様子はネット上で見る事ができますね。当時も雑誌に記事が出ていました。あの閑散とした路線に多くの人が集まったのが信じられないと思って記事を見ていました。 それにしても、バスもなくなり、沿線も寂しくなりましたよね。喜多方駅付近は新しい家が増えたような気がしますが・・・。 いつまでも記念館が整備されて、訪れる事ができる事を祈っています。
最近まで会津から米沢へ抜ける路線バスがあったそうですが、利用客がいなく廃止されました。 仮に米沢まで繋げたとしてもどこかで廃止になってたかもしれません。
コメントありがとうございます。路線バスすら廃止が続きますから…確かに厳しいですね
廃線後、まだ熱塩駅にレールやポイントが残ってる時に行った事ありますが、ホームの部分のみレールの上に銀色のペンキが塗られてて驚きました
コメントありがとうございます。 熱塩の記念館ですが、ホームのある場所に線路を残しておいて欲しかったですね。 ペンキ塗っていたという事は、そのつもりだったのでしょう。
米沢まで三セクで延長開業しても早晩廃止になったろうなぁ。廃止後に国道が米沢まで開通したけど交通量はさほど多くは...
コメントありがとうございます。もし、野岩羽線として、早い時代に米沢まで開通していたら、奥羽本線の代わりに幹線になっていたかもしれませんね。 ただし、鬼怒川からは今市は、東武と重複するし、日光線もスイッチバックになるから、こっちを使うかどうかは微妙ですね。
小学低学年の頃に実業之日本社の国鉄全線全駅全百科という本を亡父に買って貰って、読み漁ってました。日中走らない日中線というのもこの本に有った表題でした。その後、JTB系列の会社に入り、JTB時刻表やその他JRや関東私鉄時刻表、旅行ガイドブックや国内外パンフに携わってました。全百科で得た知識は圧倒的で、JTB九州の方と話した時は何でそんなに知ってるのと。JR貨物時刻表に携わった時も有難いことに知識流用させていただきました。友人がSL撮影にハマり、磐越に毎週行くのに便乗して会津、喜多方も毎週のように訪れてました。一人旅で熱塩温泉も行きました。旧客体験は昭和50年前後に高崎方面に向かうデッキ付きのEF57系列の機関車に引っ張られた列車のみ。乗った車両はハダカ電球がぶら下がる陸らインニング不可の客車でした。鴻巣まで乗ったと思います。形式は違えど、この時代の客車が残ってるんですね… 会社は吸収されて社風が変わってしまったので退職しましたが、いつか行ってみたいです。
コメントありがとうございます。 私のバイブルは「国鉄全線全駅 読み乗り2万キロ総ガイド/主婦と生活社」ですね。 1979年に発刊されましたが、全駅の乗降客数と貨物取り扱量が記載されていました。 当時、ローカル線の駅でも貨物の取り扱いがあった事がわかりました。 旧型客車ですが、FE57にけん引された列車に乗られたのですね。うらやましいです。 私が初めて乗車したのは、本当に子どもの頃、急行高千穂に、熱海から小田原間に乗ったような気がします。 と、いうのも、急行列車が来るというので、乗ったら、あまりにボロだったので 急行券を買ったのに! と両親が怒っていた事発車の際にガクンと衝撃があった事があったのを記憶しています。 となりのボックスの人に冷凍ミカンをごちそうになった事もついでに覚えています。 その次に乗ったのが、福知山線の宝塚から大阪まので、どこか・・・ 西宮市の母親の実家に行った時に、近所の電車に乗っていたらディーゼル機関車にけん引された旧型客車が来ました。電化したばかりで、新しい103系に交じって走っていました。
2度と経験できない若かりしころの思い出。
北海道で会った若い人に、根室本線の客車列車の話を゙したら、あまりにも昔すぎて、イメージも湧かないのでしょうね。伝わりませんでした。 遠い昔の話になりました…。
日中線はなくなる年の前年の冬に乗りに行きました。 上野から455系電車で運転されてた夜行急行ばんだい号で会津若松まで行き、そこから日中線に乗り換えて熱塩まで行きました。 乗った客車が背もたれが板張り座席のオハフ61でした。 記念に車掌さんから熱塩から会津加納までの車内補充券を買いました。
夜行ばんだいが廃止されたのは、日中線の末期なので、運が悪かった…。と言っても、私は奥羽本線を゙上がっていたので、深夜の郡山から乗るのもしんどそう。 冬の日中線。貨物が機関車の次位に連結されたら暖房使えないですよね。どうしてたのでしょうか。