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紀行文雨男(Rain bringer)
Япония
Добавлен 16 июн 2011
ホームページ
「日本の車窓・雨男の紀行文」
www2s.biglobe.ne.jp/~kurume/
のRUclips版です。
ホームページともども宜しくお願いします。
最近は、廃線巡り、昔の鉄道の乗車記録、紀行文を紹介しています。ナレーション付きの乗車紀行に一番力を入れています。また、暗渠巡り、河川散策もしております。
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オロロンロードを沿いを疾走した羽幌線急行「はぼろ」。廃線となった国鉄路線の乗車記録
乗車紀行として、昔の列車の旅を紹介してきましたが、今回は、今は亡き羽幌線を走っていた、急行「はぼろ号」です。
この急行列車は、札幌駅から13両編成で運転されますが、先頭5両が「大雪3号」石北本線網走行き、中間4両が「紋別号」宗谷本線、名寄本線線経由遠軽行き、後部が「はぼろ号」留萌本線、羽幌線経由幌延行きでした。
所謂3階建急行と言われる伝説の急行列車でした。
私は「はぼろ号」で深川から幌延まで乗車しましたが、当日は列車が遅れていて、羽幌線内で回復運転を実施、その結果、深川から幌延間で、宗谷本線経由の宗谷号よりも所要時間が短く、急行はぼろのポテンシャルを実感しました。
現在、羽幌線が走っていた海沿いはオロロン街道と呼ばれ、有効明媚な国道として有名です。海沿いなので、線形も良く、かつ走行距離も短いので、稚内に向かう主力ルートとなっています。実際に、稚内と札幌を結ぶ高速バスは、この羽幌線が走っていた区間を走っています。
羽幌線は1987年、名寄本線は1989年に廃線。こんな急行列車が走っていた事を知ってもらえれば幸甚です。
乗車日 1983年8月10日
再訪日 2024年9月14日
2024年9月17日
ナレーション
音声読み上げソフト音読さん
動画編集
Lightworks
フリーBGM
甘茶の音楽工房
amachamusic.chagasi.com/
2つのヴァイオリン
まんぼう二等兵
www.manbou2ndclass.net/p/index.html
ワスレナグサ
資料
・JTB時刻表1984年6月号
・国鉄全線全駅
読み乗り2万キロ 全駅5175駅案内
(主婦と生活社)
KMLファイル...
この急行列車は、札幌駅から13両編成で運転されますが、先頭5両が「大雪3号」石北本線網走行き、中間4両が「紋別号」宗谷本線、名寄本線線経由遠軽行き、後部が「はぼろ号」留萌本線、羽幌線経由幌延行きでした。
所謂3階建急行と言われる伝説の急行列車でした。
私は「はぼろ号」で深川から幌延まで乗車しましたが、当日は列車が遅れていて、羽幌線内で回復運転を実施、その結果、深川から幌延間で、宗谷本線経由の宗谷号よりも所要時間が短く、急行はぼろのポテンシャルを実感しました。
現在、羽幌線が走っていた海沿いはオロロン街道と呼ばれ、有効明媚な国道として有名です。海沿いなので、線形も良く、かつ走行距離も短いので、稚内に向かう主力ルートとなっています。実際に、稚内と札幌を結ぶ高速バスは、この羽幌線が走っていた区間を走っています。
羽幌線は1987年、名寄本線は1989年に廃線。こんな急行列車が走っていた事を知ってもらえれば幸甚です。
乗車日 1983年8月10日
再訪日 2024年9月14日
2024年9月17日
ナレーション
音声読み上げソフト音読さん
動画編集
Lightworks
フリーBGM
甘茶の音楽工房
amachamusic.chagasi.com/
2つのヴァイオリン
まんぼう二等兵
www.manbou2ndclass.net/p/index.html
ワスレナグサ
資料
・JTB時刻表1984年6月号
・国鉄全線全駅
読み乗り2万キロ 全駅5175駅案内
(主婦と生活社)
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日中走らない日中線。廃線となった国鉄路線の乗車記録
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福島県喜多方から伸びていた日中線。わずか11.6㎞の盲腸線ですが、栃木県今市市と山形県米沢市を結ぶ野岩羽線の一部として1938年。昭和13年に開通しました。 しかし、戦争の影響もあって、山形県側は、米沢まで延長される事はありませんでした。計画は中止になり、その一部であった日中線は、1984年3月末で廃止されました。 一方で、栃木県側ですが、同じように盲腸線になっていた会津線は第三セクター化され、野岩鉄道も開通し、国鉄ではなく東武鉄道と接続する事で、計画は達成されました。 日中線廃止の2年後の事でした。 日中線沿線には、日中温泉、熱塩温泉という温泉はありましたが、観光客がおおぜい利用するような路線ではなく、末期のダイヤは朝1往復、夕方2往復で、日中走らない日中線として知られていました。 そんな日中線に1983年8月12日に乗車しました。 廃線後、1997年に転換バスで、2024年にはレ...
松前線と江差線の乗車記録。松前線の悲運と江差線の幸運 What Went WRONG and RIGHT?
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木古内駅で二手に別れて走っていた松前線と江差線末端区間。松前線の方が利用客が多かったにも関わらず、線区単位で計算された為に、松前線は1988年に廃止されました。江差線はその後、辛くも生き残りましたが、結局、2014年に廃止されてしまいました。 今回はローカル線。松前線と江差線の乗車記録を紹介しまします。 #鉄道 #松前線 #江差線 「日本の車窓・雨男の紀行文」 www2s.biglobe.ne.jp/~kurume
板谷峠のスイッチバックと東北本線の旧型客車#板谷峠
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急勾配が続く奥羽本線の板谷峠。 スイッチバック駅が4駅も続いた難所でした。 私が訪れた1985年時点では。旧型客車に乗って、スイッチバックを体験する事ができました。 この旧型客車の旅と東北本線の旧型客車、急行電車の旅を紹介します。 「日本の車窓・雨男の紀行文」 www2s.biglobe.ne.jp/~kurume
東京ーフランクル航路スカイマップ
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2024年1月、フランクフルトと東京を往復しました。 復路の航路は見慣れないルートでした。 早く、元のルートで飛べる事を祈るしかありません。 「日本の車窓・雨男の紀行文」 www2s.biglobe.ne.jp/~kurume
中国ローカル鈍行列車緑皮車・22系でゆく湘桂線の旅
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今回は、少し前の海外の列車を紹介します。 旅の舞台は広西チワン族自治区です。 現在、中国では高速列車が張り巡らされてますが、2009年時点では在来線中心でした。 また、中国のローカル線には、日本国鉄の旧型客車を思わせる非冷房の客車列車が沢山走っていました。 そのひとつ、広西チワン族自治区を走る「湘桂線」の「憑祥」から、「南宁」まで、2009年5月3日に普通列車に乗った記憶を動画を中心に紹介します。 「日本の車窓・雨男の紀行文」 www2s.biglobe.ne.jp/~kurume
池北線と北海道ちほく高原鉄道 ふるさと銀河線(小利別駅と旅人宿「夢舎」)#小利別駅 #夢舎 #池北線 #北海道ちほく高原鉄道 ふるさと銀河線
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2006年4月に廃止された北海道ちほく高原鉄道ふるさと銀河線。 第三セクターになる前は。池北線と呼ばれたローカル線でした。池田と北見を結ぶ140㎞の長大ローカル線で、国鉄再建法に基づいた「第2次廃止対象路線」に含まれていました。4大長距離ローカル線の天北線、名寄本線、標津線が廃止された中、ここだけは第三セクターで延命されました。 今回は、国鉄時代の1986年8月17日に乗車した記録を中心に、第三セクター時代の2003年9月に乗車した思い出も紹介したいと思います。 「日本の車窓・雨男の紀行文」 www2s.biglobe.ne.jp/~kurume
根室本線(新得から滝川。代行バスと廃線前の賑わい
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根室本線の新得から富良野まで、廃止の1か月前、2024年2月19日に訪れました。 朝日新聞のインタビューに答え、私の訪問目的が記事になりましたが、 昨年、東鹿越駅を訪れ、その時、立ち話をした人から トンネルを抜けて見える「かなやま湖」が最高。私はここがいちばん好きな区間です。 という話を聞き、廃止になる前にその景色を確かめたくてここを訪れました。 1984年に普通客車列車で通り抜けた区間ですが、記憶を確かめる旅でもあります。 新得から東鹿越は、2016年からバス代行区間となっていますが、根室本線の旧線沿いを行くので、かつての日本三大車窓の狩勝峠を眺める事ができました。 「日本の車窓・雨男の紀行文」 www2s.biglobe.ne.jp/~kurume
日高本線とえりも岬ユースホステル
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2024年現在、日高地方を走らない日高本線。 かつては苫小牧駅から様似駅までを結んでいましたが、2015年1月に発生した高波被害で、大半は運休。そして廃線となってしまいました。 最初に全線を通して乗車したのは1986年8月でした。1990年2月にも、えりも岬ユースホステルを訪れた際に、日高本線を往復しました。 日高本線は、国鉄(JR北海道)バスの日勝線を経由して広尾線と接続していました。半島のような日高地方の南端を、えりも岬を経由して、ぐるっと回るルートです。 今回は、1990年2月20日に苫小牧駅から様似駅を経由してえりも岬に向かった記録に乗せて、他の記憶も織り交ぜて紹介したいと思います。 「日本の車窓・雨男の紀行文」 www2s.biglobe.ne.jp/~kurume
広尾線と黄金道路(幸福駅など)
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1987年に廃止された広尾線。 「愛国から幸福ゆき」という乗車券が人気だった路線ですが、赤字ローカル線でした。帯広から南下して、十勝平野がつきると終点の広尾です。ここで日高山脈に行く手を遮られます。計画では、さらに南下して、襟裳を経由して日高本線と接続する構想がありました。 この構想線と同じルートを、国鉄バス日勝線が走っていました。バスが走るのは黄金道路と呼ばれた道路です。切り立った崖沿いの、海岸線をトレースする道路は難工事でした。建設に莫大な費用が掛かったので、黄金道路と呼ばれました。 今回は、1986年8月に乗車した、帯広から襟裳岬までの旅を紹介します。「日本の車窓・雨男の紀行文」 www2s.biglobe.ne.jp/~kurume
日勝スカイライン(国鉄バス日勝高原線・富内線・日高本線)#広尾線 #国鉄バス日勝高原線
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日勝スカイラインとは、日勝峠を越える道路の事で、国鉄では、帯広駅と富内線日高町駅を結ぶバスが、この道を経由して1日1往復運行されていました。バスは富内線の苫小牧行きに接続していました。周遊券で乗れるので、とてもありがたい存在でした。 「日本の車窓・雨男の紀行文」 www2s.biglobe.ne.jp/~kurume
タウシュベツ川橋梁と士幌線の乗車記録(代行バスを含む)#士幌線 #タウシュベツ川橋梁
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ノスタルジックビュートレイン(五能線を走った最初のリゾート列車の乗車記録)
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根室本線普通列車(釧路 滝川間422列車)乗車記録。(釧路‐帯広‐新得‐幾寅‐東鹿越‐富良野‐芦別‐滝川)
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根室本線普通列車(釧路 滝川間422列車)乗車記録。(釧路‐帯広‐新得‐幾寅‐東鹿越‐富良野‐芦別‐滝川)
函館発札幌行き夜行普通列車(函館本線41列車)の乗車記録。旧型客車で一夜を過ごした記録です。
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函館発札幌行き夜行普通列車(函館本線41列車)の乗車記録。旧型客車で一夜を過ごした記録です。
混んでいたな~!! いい思い出。
懐かしいを通り越して、もはや夢でもみていたかのようですね。
急行はぼろですが、旧羽幌駅を出るとまるで回送列車のようだったそうです。鉄道ジャーナル誌でルポをされていたときに載っていました。結局この列車は羽幌からの札幌への列車だった。一番混んでいたのは留萌までだったそうであとは下車される一方のようだった。
@@もりわききくお コメントありがとうございます。羽幌で大半が降りました。 天塩から先、普通列車になっても良さそうなものですが、なぜ終点まで急行運転だったのでしょうか… 現在でも、沿岸バスの特急「はぼろ」に乗った人の話だと、留萌で半数が降りて、羽幌でほぼ全員が降りたようでした。
9割が喫煙車なのが時代を感じさせます。 私喫煙者なので、今の禁煙車しかない状況はちょっと辛い。 2000年代はまだ各特急列車に2.3両は喫煙車が有りましたが。 在来線の昼行特急の食堂車は、リアルでは知りませんが。 北斗星と、100系新幹線の食堂車は利用しました。矢張り流れる車窓を眺め食事をするのは良いですねぇ。
コメントありがとうございます。昔は飛行機でもタバコが吸えましたしね。100系の食堂車は利用した事があります。大阪出張の際に、わざわざグランドひかりを予約したものでした。 在来線の食堂車・・・って考えると、あとは、特急「とき」と「北斗星」ぐらいですね。ブルトレに乗った時は、連結はしていましたが、売店扱いでした。
@@youegu 100系新幹線の食堂車は、 まだ幼い頃なので、自分の金で利用してませんが。ハンバーグを食べた事ははっきり覚えてます。 本当はカフェテリアを使ってみたかったんですが、乗った列車が食堂車しか無かったのでぶーたれてたみたいと、親に言われましたが。食堂車を利用して今は良かったと思っています。
@@二代目魔耶麻一漏 100系の食堂車は、利用した筈ですが、記憶は1回しかありません。カレーを食べました。グランドひかりは、食堂車というよりも、1Fの広い座席が魅力的で、何度も使いました。
禁煙車って、懐かしい
禁煙区間というのもありましたよね
懐かしい。 稚内までの延長が要望されていました
コメントありがとうございます。 スイッチバックが必要ですけれど、ディーゼルカーなら問題無かったですね。 宗谷本線よりも、短距離なので、便利だったと思います。
動画作成ありがとうございます。懐かしさを感じます。自分は82年の高校生の夏休みに初めての北海道を全線完乗を目指して回りました。はぼろ号には乗車しませんでしたが、時刻表に表示のある天売号に乗車しました。増毛行った後に留萌から幌延まで乗車。しかし夏休みで海水浴客が多く確か増結されてましたが留萌→羽幌は混雑でデッキにいました。その後廃止されレンタカーで沿岸を走った時は、なんで廃止になったんだろうと寂しく感じました。また3階建ての大雪号は末端区間で乗りました。なんで札幌から大回りの需要あるのかなんて思いました。今思えば夢のある路線や列車が数多く楽しかったです。
コメントありがとうございます。天売号、いいですね。昼行列車なので、さぞ景色も良かったのではないかと思います。もし、私が天売号に乗っていれば、違った動画になったのかも・・・ デッキまで混雑って、今では考えられないですね。現在、沿岸バスも、通学時間帯でも1台で十分なくらの輸送量ですし、羽幌線に致命傷を与えた、沿岸バスの特急「はぼろ」も、外から見ている限り、それほど賑わっているようには見えませんでした。 また、宗谷本線を廃止して、天北線と羽幌線が残っていたらどうなっていたのでしょうかね。
羽幌線、乗りたかったなぁ。
コメントありがとうございます。もう、覚えている人少なくなってしまいました。羽幌の街に泊まった時に、羽幌線の話をしても知っている人はいませんでした・・・。
羽幌線を走っていた伝説の急行はぼろ号。 石北本線経由の大雪3号、名寄本線経由の紋別を併結した13両編成の急行列車でした。
名古屋駅の動画までありがとうございますm(*_ _)m出来れば煙吐いていれば尚更ですね!
コメントありがとうございます。 案外おとなしく出発してゆきました…
編集も含めてのどかでいいですね^^
コメントありがとうございます。暗いと言われますが・・・。
未だに日中線の敷地跡に「工」の杭が残ってる場所がありますね。
コメントありがとうございます。 よく見ると、遺構は残っている感じでした。敷地跡が桜並木になっているので、意外とわかりやすかったです。 全くわからない所もありましたが…
亡き両親の故郷が新潟県新発田市で、また新発田駅から出てた国鉄赤谷線も 日中線と同じ頃廃線となりました。でも新発田と喜多方は近い方なので、 廃線前に行っておけば良かったと後悔してます。
@@伸也渡邉-q8x コメントありがとうございます。 赤谷線は訪れる事が出来ませんでした。国鉄末期、乗りたかった路線は沢山ありましたが、部活の休みが無かった事、お金も無かったので訪問出来た所は限定的でした。 まだ動画化していませんが、新潟交通とか蒲原鉄道に乗れたのは良かったと思います。
@@youegu ありがとうございました。 悪名高き赤字国鉄だったころの 国鉄日中線は乗車した事がなく、 現地に行けば熱塩駅管理人の 須田さん?に会えれば当時を 教えてもらえるそうです。
オハ35とオハフ61の2両編成。片道はオハが後ろになるはずですが、規則上それは問題なかったのでしょうかね。 つまらないことですが、ちょっと気になってしまいました。
コメントありがとうございます。オハ35には、可運式のテールライトを装着を装着していたようですね。真岡鉄道の50系も、片側はオハなので、必ずしも緩急車である必要はないのかと思われます。
郡山在住です。 日中線は、最終日に乗りに行きました。 動画と同じ、会津若松始発の熱塩行きです。 会津若松までは「ばんだい51号」で、多分、運転日だったのでしょう。 たしか、最終日は客車を4両に増結+前後にDE10の編成だったため、熱塩駅での機回しはありませんでした。 乗客はさすがに多かったのですが、車内はギュウギュウになるほでではなかったと記憶しています。 現在では仕事で熱塩温泉に月1回訪れるので、日中線記念館にはたまに寄ったりしています。
コメントありがとうございます。最終日の様子はネット上で見る事ができますね。当時も雑誌に記事が出ていました。あの閑散とした路線に多くの人が集まったのが信じられないと思って記事を見ていました。 それにしても、バスもなくなり、沿線も寂しくなりましたよね。喜多方駅付近は新しい家が増えたような気がしますが・・・。 いつまでも記念館が整備されて、訪れる事ができる事を祈っています。
最近まで会津から米沢へ抜ける路線バスがあったそうですが、利用客がいなく廃止されました。 仮に米沢まで繋げたとしてもどこかで廃止になってたかもしれません。
コメントありがとうございます。路線バスすら廃止が続きますから…確かに厳しいですね
廃線後、まだ熱塩駅にレールやポイントが残ってる時に行った事ありますが、ホームの部分のみレールの上に銀色のペンキが塗られてて驚きました
コメントありがとうございます。 熱塩の記念館ですが、ホームのある場所に線路を残しておいて欲しかったですね。 ペンキ塗っていたという事は、そのつもりだったのでしょう。
米沢まで三セクで延長開業しても早晩廃止になったろうなぁ。廃止後に国道が米沢まで開通したけど交通量はさほど多くは...
コメントありがとうございます。もし、野岩羽線として、早い時代に米沢まで開通していたら、奥羽本線の代わりに幹線になっていたかもしれませんね。 ただし、鬼怒川からは今市は、東武と重複するし、日光線もスイッチバックになるから、こっちを使うかどうかは微妙ですね。
小学低学年の頃に実業之日本社の国鉄全線全駅全百科という本を亡父に買って貰って、読み漁ってました。日中走らない日中線というのもこの本に有った表題でした。その後、JTB系列の会社に入り、JTB時刻表やその他JRや関東私鉄時刻表、旅行ガイドブックや国内外パンフに携わってました。全百科で得た知識は圧倒的で、JTB九州の方と話した時は何でそんなに知ってるのと。JR貨物時刻表に携わった時も有難いことに知識流用させていただきました。友人がSL撮影にハマり、磐越に毎週行くのに便乗して会津、喜多方も毎週のように訪れてました。一人旅で熱塩温泉も行きました。旧客体験は昭和50年前後に高崎方面に向かうデッキ付きのEF57系列の機関車に引っ張られた列車のみ。乗った車両はハダカ電球がぶら下がる陸らインニング不可の客車でした。鴻巣まで乗ったと思います。形式は違えど、この時代の客車が残ってるんですね… 会社は吸収されて社風が変わってしまったので退職しましたが、いつか行ってみたいです。
コメントありがとうございます。 私のバイブルは「国鉄全線全駅 読み乗り2万キロ総ガイド/主婦と生活社」ですね。 1979年に発刊されましたが、全駅の乗降客数と貨物取り扱量が記載されていました。 当時、ローカル線の駅でも貨物の取り扱いがあった事がわかりました。 旧型客車ですが、FE57にけん引された列車に乗られたのですね。うらやましいです。 私が初めて乗車したのは、本当に子どもの頃、急行高千穂に、熱海から小田原間に乗ったような気がします。 と、いうのも、急行列車が来るというので、乗ったら、あまりにボロだったので 急行券を買ったのに! と両親が怒っていた事発車の際にガクンと衝撃があった事があったのを記憶しています。 となりのボックスの人に冷凍ミカンをごちそうになった事もついでに覚えています。 その次に乗ったのが、福知山線の宝塚から大阪まので、どこか・・・ 西宮市の母親の実家に行った時に、近所の電車に乗っていたらディーゼル機関車にけん引された旧型客車が来ました。電化したばかりで、新しい103系に交じって走っていました。
2度と経験できない若かりしころの思い出。
北海道で会った若い人に、根室本線の客車列車の話を゙したら、あまりにも昔すぎて、イメージも湧かないのでしょうね。伝わりませんでした。 遠い昔の話になりました…。
日中線はなくなる年の前年の冬に乗りに行きました。 上野から455系電車で運転されてた夜行急行ばんだい号で会津若松まで行き、そこから日中線に乗り換えて熱塩まで行きました。 乗った客車が背もたれが板張り座席のオハフ61でした。 記念に車掌さんから熱塩から会津加納までの車内補充券を買いました。
夜行ばんだいが廃止されたのは、日中線の末期なので、運が悪かった…。と言っても、私は奥羽本線を゙上がっていたので、深夜の郡山から乗るのもしんどそう。 冬の日中線。貨物が機関車の次位に連結されたら暖房使えないですよね。どうしてたのでしょうか。
日中線跡に静態保存されてるスイッチャーは、喜多方駅の南側に隣接されてる昭和電工との貨物入換に使われてた車両でしょう。 上三宮駅手前の押切川に架橋されてた鉄橋は、今は同じ場所に道路橋へと架替えられてます。 会津加納駅の北側にはかつて陸橋(跨線橋)が有り、そこから会津加納駅構内が見渡せられました。 日中線のSL最終運転で使われたC11形2両の内の1両が、京都の梅小路に静態保存されてると思ったけど。 いやー、にしても懐かしいですね。
@@おりおり-s5s コメントありがとうございます。詳しく情報頂けて、色々わかりました。 何しろ古すぎて、記憶も薄れてゆくので動画を゙作りました。
廃線後のインターネットがまだなかった時代に廃線跡を国土地理院の25000分の1の白地図を頼りにめぐりました。ネット等の情報がなかった時代だったので地元の人に線路跡を聞いて白地図に線路跡を書き込んで調査しましたね。 今は自分で調査しなくてもyoutuberさん達がレポートしてくれたりgoogleのストリートビューや地理院の当時の空中写真で調べることが出来るようになったので現地調査をしなくなりました。レポートしてくれるyoutuberさんには感謝しています。
日中線の最終日の乗車券だけ記念に買いました。
@@hmuraddojp 最後の列車の記事を゙読んだことありますが、大勢の人が訪れたいる写真に、あの寂れた雰囲気とリンクしませんでした。
日中線、82年5月の連休のとき乗り行きました。車両の古さもさることながら軌道状態もかなり劣悪で乗車中居眠りをしていたら、激しく揺れてイヤというほどまどの縁に頭をぶつけたことを覚えています。
@@keihoudenrei01 コメントありがとうございます。線路の状態と、60系の台車を゙考えたら、乗り心地はいいわけありませんよね。 本当に、荒れるがままでしたね。夜乗ったら怖かったと思います。
そんな状態で日中線乗っても当時はほんとしんどかっただけでしょ😣😣😣
確かに…。この日、1週間の旅を゙終えて家に帰ったら、家族に、あまりのやつれぶりに驚かれました。後半は意識朦朧で、乗り継ぎミスもありました。 でも、ブラック(昭和なら当たり前)な運動部に所属していたので。どんな状態でも部活を゙気にせず、旅が出来た事が幸せでした。
国鉄バス🚌が、客いないと勝手に運休して問題になった。ワイが乗った際も展望台休憩省き日高町に早着。まぁ、客がほぼほぼ周遊券🎫で富内線乗り継ぐ鉄ヲタだったから気持ちはわかるけど…😵
そんな事があったんですね。あのバスは観光客向けに走らせていたと思うのですが、鉄道でも、日勝スカイライン乗り換えと放送もあったし、それなりに賑わっていましたね。
今思えばもっと写真を撮っておけばネタになったのにと思います でもフィルムではなかなかそうはいかんのよね 夜行連泊が続くとずっと眠り込んでしまい撮れないし
ご視聴ありがとうございます。 高校生の時は、現像代が捻出できたのは旅の半年後でした。 その代わり、メモを゙沢山残していたのは良かったのですが…
みんな駅ネして日中線に乗ってたんだ なるほどねえ
寝袋もなく、新聞紙の上で寝てました。若い頃だから出来ましたが、1週間も続くとさすがに消耗してました。
オラが高校生の頃は上野発の夜行と接続してました。
あるものだと思って旅程を゙組んだのが失敗でした。
いつも動画ありがとうございます。 子供の頃、山陰線旧型客車に乗る機会があると60系のボックス席が極端に狭い事に気がつき、編成の中から35系43系のボックス席へ移動していた事を思い出しました。あと写真から最後尾車両が緩急車ではない事に驚きました。
いつもご視聴ありがとうございます。 動画作成にあたり、色々調べてみると最後尾が緩急車でない場合は可運式のテールライトを装着していたみたいですね。 また、貨物が連絡された場合は暖房が使えないですよね。五能線とかは、暖房方式を変えて対応していたようですが、日中線は普通に暖房カットしたと推察されます。 客車も60系だし…日中線はかなり酷い扱いだったように感じました。
もし京葉線直通のりんかい線、京葉線orりんかい線経由の成田エクスプレスがあれば京葉線の通勤快速、特急列車も舞浜、海浜幕張にも停車して幕張も外国人観光客が多くなりそう。
羽田直通を期待しましょう
もし京葉線直通のりんかい線、京葉線経由の成田エクスプレスがあれば京葉線の通勤快速、特急列車も舞浜、海浜幕張駅に停車してたかもね もし直通してたら新宿・大崎~海浜幕張までだったかもね。
コメントありがとうございます。将来、羽田空港から京葉線経由の「羽田エクスプレス」とか走る可能性ありますよね。
41レは1985年86年と何回か乗ったので感情移入してみてしまいました。 訳あり風の家族など、「あー昔の座席夜行ってそんな感じだったな」と思いながら見させていただきました。 最後のお姉さんがきっちりした装いに変わるところも感動的ですね
旅一郎様。いつも動画を拝見しております。あの時代の動画を沢山残しておいて頂いてありがとうございます。私は、写真すら現像代を気にして、あまり撮っていませんでしたので、ナレーションでなんとか補っている次第です。 41列車の印象は強烈でした。銀河鉄道999の客車列車の旅ができると思っていたところ、なんとも暑苦しく、厳しい旅でしたが、今ではできない体験でした。コメントありがとうございました。
中国の緑皮車もどんどん減ってますね。今はビザの関係で行きにくいですが、解禁になったらすぐ行きたいです。
コメントありがとうございます。旅一郎様も中国を沢山旅されていますね。今は高速列車ばっかりになってしまいしたが、昔はもっと多くの長距離列車が走っていましたよね。動画の撮影をしていたら、車掌さんに怒られて、目の前で削除させられた辛い記憶もあります。あれが残っていたら、動画を一本作れたのに・・・なんて事も。 あの列車の旅を編集している時に、色々調べてのですが、21型、22型の普通列車は本当に少なくなってしまいましたね。まだ何処かで走っているのでしょうか? 現在では、空調付きの車両も今は緑色の伝統色で塗装されていますが、あれは緑皮車ではないですよね。
@@youegu 空調付きの緑皮車は違いますね。 やはり非冷房で窓が開けられるのが緑皮車ですね。 親しくしてるMAT MATさんというRUclipsrさんが 中国に住んでいて緑皮車の近況を伝えてくれてます。
感動の乗車レポおもしろかったです。 乗りたいと思いながら乗らずに終わった列車の一つです。自由席はガラガラでボックス占有。これは重要な情報ですね。 20時間であってもボックス占有なら言うほどキツく無いと思います 車内販売。「各駅の駅弁があり食事確保には困りません」令和の人に聞かせたい。
コメントありがとうございます。これまで、適当にRUclipsに投稿していましたが、このレポを投稿したところ、多く御視聴いただけたので、昔の旅を語る事を始めました。 あの急行「あおもり」ですが、この日が最後の運転だったみたいですね。しっかりとメモを残していたので、ご紹介する事ができました。私も、動画で残せればよかったのですが、こんな時代が来るとは当時は思えず、まだまだ撮影機材も高くて、大きくて、手が出ませんでした。 すれ違う列車も、50系客車、14系の臨時急行、20系の臨時特急・・・。そんな時代もありましたね・・・。
作動音聴く限り、回転スピードが速いし、ピストンもスムーズに動いてる感がスゴいですね。 自分は郷里が名鉄沿線で、かのHL車3730・3770系とOR車3600〜3800系を見て育ちましたが、 どうもDH―25型コンプレッサーは力不足感が否めず、ピストンの前後進を生み出すクランクも、ベアリングが両端2箇所しかないので、不安定に聞こえました。 ちなみに、名鉄モ800の登場時は 『名岐鉄道デボ800形』ですが、AK―3コンプレッサーとよく似た、芝浦製作所製CP型の18m級車対応の機種を動力源とする、AVRブレーキでした。
コメントありがとうございます。私は西武線沿線だったので、このコンプレッサーの音を聞いて育ちました。大人になって他の私鉄を乗るようになって、色々なコンプレッサーがある事を知りました。京急や営団地下鉄のコンプレッサーの音も好きでした。名鉄は馴染みがありませんでしたが、600V車とか、いい音だしていたんでしょうね。
ユースホステルは、 時期にもよりますが 若い方より、年配の方が多い感じですよ。
コメントありがとうございます。昨年末のNHKだったか、桃岩荘の特集を見て、なんとなく現状がわかってきました。今、泊まるとどういう気持ちになるのか怖くて、ちょっと躊躇します。
@@youegu とても良い動画ありがとうございます。 昔から桃岩荘は特殊ですよね。 キ〇ガイユースの代表ですからね。。えりも、斜里とかも、、、 それと、テレビの印象操作もあるのでは? 今年に入って、松山YHと大曲YHに泊まりましたが、静かなものでしたよ。 規則も厳しい所も無くなりましたしね。。
自分の動画ですけど、日高本線の中で、少しえりも岬ユースについて触れています(画像も少し)。ちょっと悲しいですね・・・。
なつかしいです 44年前中学生で周遊券で北海道まわりましたが食堂車なんていけるわけがなく特急すら乗ることなく周遊券特有の急行券不要で乗った覚えがあります。この当時は古き良き時代で まだ国鉄時代でしたかね 別の動画も拝聴させていただきます。 昔の鉄ちゃんより
コメントありがとうございます。当時は急行列車も充実していましたよね。長距離普通列車も多かったと思います。私は稚内行きの321列車に乗れなかったのが残念です。遺言のような動画を作っていますが、懐かしんで頂けてうれしいです。写真があまり無いので「乗車紀行」シリーズの動画作成に苦戦していますが、他にも見て頂けると嬉しいです。
滝川地元なので嬉しいです。貴重な音声や動画、写真などありがとうございます!
コメントありがとうございます。春先に滝川に行きましたが、当時の雰囲気が残っていて懐かしかったです。キハ40の単行列車に乗りましたが、ボックスシートに座って昔の事を思い出しました。
@@youegu 40も2025年の春をもって引退ですね。
アルファベット1文字1文字が単独でパタパタするんですね 日本語じゃ絶対無理な方法…
それゆえ、まだ現役なんでしょうね
山内実侑ちゃんが驚きびっくりの
現在は、JR貨物の愛知機関区の DD200が担当します。キヤE195も工臨として走ります。
コメントありがとうございます。 キヤは見たことあります。 DD200も見たいですね。JR貨物が担当しているんですか。
@@youegu DD200なら単8080レと8086レ日鐵チキ返空回送で撮影しました。
スマホ普及前の映像は貴重ですね。
コメントありがとうございます。 貴重な動画だと思いアップしましたが。やはり再生回数は少ないですね~ 日本も中国もローカル列車は少なくなりました。
まだ水が流れ続けてるんだ。まだ川なんだ。
コメントありがとうございます。 私も驚きました。まだ川でした。
各駅停車4両編成しか停まらない駅、営業時間は朝7時から18時まで、1997年4月1日営業休止、2004年4月1日廃止
謝謝😊好!緑皮車!
不用谢
自分も1986年8月23日に帯広からこの727Dに乗って糠平まで行きました。もし日程が十日あまり早まっていたらお会いしていたかもしれませんね。
コメントありがとうございます。北海道のローカル線がまだ沢山残っていた頃、一緒にローカル線を訪れていたんですね。
バスの運転手さんは、三股山荘のご主人です。後から移住したのではなく、以前から住んでいて、代行バスが運行されるときに国鉄から依頼され、教習所に通って免許を取ったと伺いました。
コメントありがとうございます。 確かに、三股山荘はあの頃も゙ありました。そうだったんですか。 私が訪れた時間は営業時間外だったので、残念でした。当時の話を゙聞けたのかな。それとも代替わりしたのでしょうか。
@@youegu 当時はまだ三国峠を越える国道は開通しておらず、三股から札幌に行くには、林道でおけと湖から温根湯、石北峠と回っていたとか。山荘のお母さんに昔話を聞かせていただき ました。
士幌線で黒石平駅は勾配上にホームがあるため、例えば、キハ20系、キハ40系の性能では、勾配上のホームに停車して、そこから発車させるのは難しかった。 このため、上り線は麓のホームで停車して発車後は勾配を登りきり、下り線は既存のホームに停発車させる形にしていた。 ちなみに、現在のキハ110系、キハE120系の性能なら、登坂性能が向上しているため、黒石平駅の既存のホームに停車してそこから発車させるのは余裕ですが…。
コメントありがとうございます。 北海道でも、キハ52のような2エンジン車両を゙走らせたら良かったのに…と思っていました。 しかし士幌線も勾配区間はごく限られていたので仕方なかったかもしれません。
それいつの話?上りは電力所前(仮)使ってたはずだが😉
懐かしい画像、ありがとうございます。 80年代に小学校時代を過ごしました。父の実家である山陰に年に1回、名古屋から鉄道で帰省していました。80系まつかぜ、181系おき、381系やくも、DD51牽引の客車列車などが忘れられない思い出です。 子供のころ、それらに触れられて幸運でした。
コメントありがとうございました。山陰は旧型客車の宝庫で、訪れたいと思っていましたが、いつも北に向かってしまいました。まつかぜも、旧型客車も乗ってみたかったです。
当時いた十勝三股集落の6人はバス運転手とその家族と郵便局員で、旅行者鉄道ファン以外の代行バス客はバス運転手のお子さんが通学目的で乗車していたと、 宮脇俊三氏の本にありました。 今の三股山荘というレストランを経営している方は、多分あとから移住されたかと思います。 その方ともう1家族の方のみ住んでいるようです。 鉄道目線では秘境駅ですが。十勝から層雲峡に抜けるルートにあり、昼間はそれなりに通行量があるようです。
コメントありがとうございます。私も宮脇氏の本を゙愛読していました。バス転換前の記録はネット上でも少ないですね。 登山家曰く、十勝三股は登山する時によく訪れたと言っていました。バスも、大きな荷物置き場がありました。
@@youegu十勝三股は以前はニペソツ山登山のメインルートの林道入口として来る人が多くいましたが、2016年8月の台風で林道が通行不能となったため、ニペソツ山登山のメインルートが幌加温泉からのルートになり登山目的で来る人はほぼいなくなりました。私は2020年に三股から崩壊した林道を歩いてニペソツ山に登りましたが、林道はとんでもなく酷いことになっており、恐らく修復されないと思います。歩いて通行するのもとんでもなく苦労します。その先の登山道は概ね大丈夫でしたが、登山者がほぼいないため、今後は荒れていくと思います。よって三股からの登山者は今後も見込めないということで、更に三股は寂しい場所となっていくと予想します。
バスの運転をされていたのは三股山荘のご主人です。後から移住したわけではありません。代行バスが運行されるときに国鉄から運転を打診され、わざわざ免許を取ったと伺いました。