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スピ界隈では、「すべてはひとつ」ということが言われています。苦しみは、自と他(自分以外のすべて)を分けて別のものだと観察することが原因で起こります。例えば、「損と得」という考え方です。自分の認識の中に苦しみが生じる仕組みみたいなものが分かり、自分が目覚めたことを自覚できるくらいに定着・習熟して来ましたが、その感覚のようなものを伝えることはとても難しいと感じていました。この動画が目覚めていない人にとって、どのくらい分かり易いのか分かりません。しかし、自分の「感覚」に照らしながら拝見させて頂きましたが、かなり共感できる内容でした。現代仏教においては、この動画ように「悟った状態」がどのようなものなのかを定義するのでもなく、言及を避けたまま悟りについて論じているように思います。自己の認識の深まりについて、哲学によるのか、宗教によるのか、又は他のどんな方法によるのか、について論じることに意味はありません。しかし、自分はどの立場から発言しているのかに囚われて(自分の立場を自己弁護して)いることに無自覚な方々が、人々の救済を論じる姿が散見されます。皆さん、自分の見たいようにフィルタリングして世界を観察しているので、そのことに氣付いていない人ばかりです。悟っていない人が「悟り」について語り、それを聞いた(悟りを求めている)人達はその話を盲信して遠回りしているのに、そのことを疑うことさえしない、感じでしょうか。その状況に自体に良いも悪いもありません。ですが、痛みからしか学べないこともある、と知らないだけで簡単に絶望して命を断つ人がいることを思うと胸が痛いのも確かです。しかし、そのことで誰かを批判するのも、その状況を嘆くのも、一面的な観察でしかないと分かってからは、痛ましく思う自分を冷静に見ることができるようになりました。改めて自分の状況を整理する手がかりになりました。ありがとうございます。
こんな素敵な回答を頂けて本当に感激しています。100%大満足です。作成者様の言語化のうまさに感動しました。この回答にかけてくださったお時間に対してお礼をしたかったのですが、なぜか?200円以上に設定ができないんですwまた、私の感覚的に考えた答えとしては、本心とは幸せを感じる心のように感じました。また、本心と繋がっていないと何が幸せなのかもわからないまま死ぬようなイメージができました。
動画では説明不十分の箇所に対し、的確なご質問をいただきありがとうございました^^(Super Thanksも改めて御礼申し上げます!)『本心=幸せを感じる心』というのは、非常に素敵な表現ですし、事実だと思います。本心に沿って決断すれば幸福になりますが、自覚なしにそれは難しいですから、本心を知るというのは幸せに生きることの大切な要素なのでしょうね😊
ご解説ありがとうございました。悟るには、ややエネルギーが必要ですので、若いときに悟るのが望ましいと思います。
今まで勉強していたつもりだったのに自分はまるで理解できておらず表面で留まっていたことが分かりました。知識を深めることが出来て感激です。そういうことだったのかあ…と心が温かくなりました。
Super Thanksありがとうございます!お役に立てたのであれば幸いです。絶対の答えがある世界ではないと思いますので、お互いに興味の赴くまま、思索・解釈を深めていきましょう〜😊
ちょうど3年前。いわゆる悟り体験、一瞥体験が起こりました。ありとあらゆるものと一体化した安心感しかないその経験はあまりに強烈でした。涙が溢れて止まらないその体験によって、まさにこの動画で伝えていらっしゃることが明らかになり、ガラガラと何かが崩れていきました。今、何か問題らしきことが起きることがあっても悩むことはできなくなりました。本当に自我はなんて愚かです。全部自我による幻想。映画の中なのに主人公と思い込んでいることこそ苦しみですね。
ありがとうございます!
SuperThanks、ありがとうございます!!恐れ入ります🙇♂️西田幾多郎さん、私は詳しくないのですが、以前から禅ベースの哲学とのことですごく気になっていて、いただいたコメントに触発されてこの度本を買いました。笑語れるレベルになったら解説もチャレンジしてみたいと思います😊
面白いシリーズでした。苦難や幸福さえも認識であるアートマンの世界として、起こる現象を本質的な受け止め方としつつそれを認識するという無限ループがあるとして、だからこそ、「悟り」という状態(もしくは記号_)もまたブラフマンとアートマンという認識に溶けるような解説でした。
東洋哲学シリーズとても面白かったです。こんなにはっきりスッキリと解説されてる方は初めてです。繰り返し聞いてみようと思います。また、話し方や声もとても聞きやすかったです。
Saryさんご視聴・コメントありがとうございます😊お褒めいただき光栄です!仏教もキリスト教も、オカルトや政治ツールとして利用されてばかりですが、世界レベルの宗教には本来、人間や世界の本質に対する鋭い洞察が秘められています。そのエッセンスを、ぜひ色々な方に今日からお役立ていただける形でお届けできたらな、と思い本動画を作成しました。今後とも哲学・宗教系の動画は投稿予定ですので、ご興味に沿ったテーマがあれば、お楽しみいただけると幸いです😃
芦田愛菜さんの「信じるとは」のお話は聞いたことがありましたが、改めて夏月さんの穏やかな優しい口調でお聞きしたら鳥肌がたちました。子育てを通して、子供を自分をありのまま受け入れることの大切さを痛感しています。素晴らしい動画をありがとうございます✨
コメントありがとうございます。子育ては大変な負荷がかかると伺っています。その中でも、ニューヨークさんのようにありのままを肯定できたら、きっと親子共に素晴らしい時間を共有できるのでしょうね☺️こちらこそ貴重な学びをありがとうございました!
泣きそうになりました、ありがとうございます
素晴らしい動画空を受け入れてあるがままに生きるつもりになったとしても、人はあるがままにできない。ただあるがままで終わらず、集中、責任、決断、賭け、創造、それらの姿勢を理想論と笑わず、『梵我一如』になりエゴイズムを克服して「人の本当の姿」になった時に無私の「私」が現れる。その後も自分の判断、意思で分別、決断をして生きてゆく生き方
夏月さん★★★★★気づきをありがとうございます💐💕理解できました。永久保存版ですね😃
ココアさんコメントありがとうございます!お役に立てて光栄です。思い入れのあるテーマだったので、嬉しいです😊
夏月さん💕心から感謝していますこれからも繰り返し学ばせて頂きます😉ありがとう~🍀💐
ありがとうございます。すべての動画のわかりやすさに感動しました。1点教えていただきたいことがあります。私とは、意識現象であることは理解しました。本心とは何なのでしょうか?本心はどこから生まれてきて正体は何でしょうか?もし、動画ですでに語られていたらすみません。
コメント・Super Thanksありがとうございます😊わかりやすかったとのことで、よかったです。本心についてのご質問ですね。まず本心とは何か、という点について。これは私の解釈も含むのですが、『理性・感情抜きで語れる自身の願い』だと思っています。私は便宜上、理性・感情とは別の魂とか精神とかがしっくりくるのでそう呼んでいますが、もしスピリチュアルな用語が苦手であれば、理性・感情抜きの"本当は〜〜が好き・嫌い"、あるいは、"本当は〜〜したい・したくない"という願いだと考えていただければと思います。※昔成人発達理論の専門家の方からは、建前の下には本音があるが、本音の下にはさらに本心が隠れている。このことに多くの人は気づいていない、と教わりました。まさに!と感じました。そしてこの"本心"の正体は、"私"と違わず宇宙の現象であり、どこから生まれたかといえば、縁起から表出したものになります。厳密に縁起を紐解けば、論理も感情もあるのでしょうが、そういったものを意識しなくてもこうだと言えるくらい自明の思いが本心です。ただ、この本心の声は非常にか細く、論理や(特に)感情の声は非常に大きいのです。だからこそ私たちは、本当にやりたいことを見過ごして短期的・大衆的快楽に溺れたり、他社の論理(物差し)に迎合してしまいます。しかしそれでは、せっかく様々な演技によって織りなされる"自分"が台無しなのです。坐禅はドーパミンの刺激も、他者のそれっぽい論理も脱ぎ捨てて全くの純粋な状態に立ち返りますから、素直に自分自身(本心)を表現する手助けとなるのです。そんな思いを込めて動画では解説させていただきました。お答えになっていますでしょうか?
とても良い動画で、深く感動しました。できれば、西田幾多郎の哲学の解説もお願いいたします。
とてもわかりやすく教えて頂きありがとうございました。あるがままを受け入れ、『本当はどうしたい?』と自分に問いかけていきます。瞑想も続けたいと思います♪禅マインド…の本も買いました😊ありがとうございます。
ご視聴、コメントありがとうございます😃楽しんでいただけたのであれば嬉しいです。日々、本心の声に耳を傾け、素直に行動していきたいですね!
幸せになる勇気の一節に、「対人関係は別れを前提として成り立っている」という言葉がありました。出会いも別れも、縁起としての1つの現象に過ぎないと思えば、納得できます。どうしても別れは悲しいものですが、空ずることができたのなら、すぐに立ち直れそうだなと想像しただけでもわかりますね。
別れを前提に成り立つ、とは良い言葉ですね😌別れの悲しみは、出会いの喜びと表裏一体である、と。愛犬が亡くなった時のことを思い出しました。『二つにならない、二つにしない』という境地を理解しているだけでも、コルさんのおっしゃる通り立ち直る力も湧いてきました。なかなか実践は難しかったのですが……😭
夏月さん、今回も素晴らしい内容で心魂がゆれました!誠にありがとうございます。「世界を空ずる、自分を空ずる」これが出来たらまさに悟りですね。人物事をJudgeせず、只、あるがままに見る事を意識したいと思います。「ありのまま」を味わえるようになりたいです。
コメントありがとうございます!ほそまこさんがこの動画を通じて何かを得ていただけたのでしたら、大変嬉しく思います。ご指摘の通り、僕たちは常に何かをジャッジしながら生きています。その二次的な判断を手放し続け、あらゆる二元に一者性を見出すことに慣熟したいものですね😌
ありがとうございます
初めて拝聴させていただきました。ありのままに生きることが、人生を放棄することになりかねない誤解について、とても印象付けられました。ありがとうございました。
ご視聴、コメントありがとうございます🙇♂️空を無と誤って捉えてしまうと、せっかくのその人の持って生まれた感性・個性が勿体ないですよね!
素晴らしい
自分が数十年前に悟った時の状態をわかりやすく言語化されていて、非常にためになりました。ありがとうございます。
ロジックの飛躍なのか誤解なのかと。なんの為に言葉があるのか、実態の概念としてある。「空」も存在としてある「有」である。つまり全ては存在としての概念が言葉となる。悟りは迷いの対義語であり。無我には迷いもないが悟りもない。つまり現世があっての境地、言葉なのた···etc。
@@髙橋保郎 コメント、ありがとうございます!
とてもわかりやすくて楽しく聞けました!学びも多くて繰り返し聞きたいと思います。ありがとうございます✨✨
Octoberさんお楽しみいただけたとのことで、嬉しく思います!何か苦しみや迷いが生じた時、立ち返る知恵の一つとしてお役立ていただけますと幸いです。こちらこそありがとうございました!
言語化が素晴らしい…禅について学んできましたがより解像度が上がりましたありがとうございます
ご視聴・コメントありがとうございます。大好きなテーマなので、筆舌尽くしました。笑お役に立ちましたなら、製作者として嬉しく思います😄
連続して2回観てしまいました!悟りと言うと、昔は厭世的な諦めのことかなと思っていましたし、最近までも何にも執着せずあるがままに…とぐらいまでの理解をしていましたが、今回の動画で「怒らないのではなく、怒るけれど、怒りに囚われない。それを味わい、ただ行動する。」「スポーツで言うゾーン」という概念で新しく考え直すことが出来ました。有難うございました。話は飛びますが、最近読んでいた「ちひろさん」という不思議な魅力のある漫画があるのですが、その魅力が何なのか言い表せなくて考えていたんです。今日、それは「悟り」かも知れないと動画を観ていて分かりました!
ご視聴・コメントありがとうございます!二回みていただけたとのことで、お役に立てる情報をシェアできたのであれば嬉しく思います😃・理想とは、努力の先の5年後、10年後の姿ではない。今日、今ここに完全に自分を顕すことある。・本当の幸せとは、幸福な時も、不幸な時も、常に側にあって私たちを勇気づけてくれる。こういった考え方は、僕たちの生活を根幹から支えてくれますね。『ちひろさん』、読みました。達観しているようで、俗っぽい一面がある。芯があるが、時折脆い。けれどもそういった二元論を超えた美しさがある。生き様の芸術性を感じ、好きになりました😊まさにご指摘の通り、「悟り」や「無為自然」を感じますね!貴重な情報をありがとうございます🙇♂️
私は近年、自分の死について考えることが多いです。そして、死後、自分の魂はどうなるのか、死後の世界はあるのかないのか、またどうなっているのか、もう四五十年も前からいろいろ本を読み、考えて来ました。その呪縛からなかなか逃れられませんが、この動画をたまたま見て、何かすっきりするものを感じます。何度か見直して、学び直して、生きている今を大事にしたいと思います。ありがとうございました。
ご視聴・コメントありがとうございます。興味や関心というより、呪縛という感じなのですね。新しい見方・考え方をご提供できたのであれば、嬉しく思います。未来や過去に囚われて、今を損なわないように生きたいですね😊
まだ動画を作っているなら、自由意思やワンネス、非二元ノンデュアリティなどの動画を作ってくれたら嬉しいです。
おーすげー解説いいな。うまいし的確
悟りが何であるか?をこんなに明確にスーッと消化できたのは初めてです。他の動画も楽しみに見させていただきます。
anju19aあんじゅさんご視聴、コメントありがとうございます!”悟りの哲学”を身近に感じていただけたなら幸いです。実践的な思想解説を主軸に発信を続けて参りますので、今後ともよろしくお願いします😊
クリシュナムルティが更に正確に陳述しているように思います。。
とても腑に落ちました! あとは実践あるのみです!そして……藤井風って梵我一如についてしか歌っていないのだと改めて思いました。今の若者はすごいと思っています。
こんばんはーこの難解なテーマを分かりやすい解説 ありがとうございますとても解りやすかったです 僕は男ですがとても 響きがいい声で聞きやすい 耳にやさしい声ですねー 特殊な才能です 他の解説も聞きました中村天風先生はすごいですねー お見事と言うしかない これぞ漢だ
ネバーランドさんご視聴、コメントありがとうございます😃とても嬉しく、励みになります!今後とも哲学・宗教・社会思想について掘り下げていきますので、ネバーランドさんのご興味に合えば、お付き合いいただけますと幸いです😊
@@therationalist6422 お忙しい中返信メールありがとう御座います感謝 感謝です 大好きなテーマなので興味深いです又おじゃまいたします(^o^)
夏月さんは覚者ですね。「悟りとは何か」の話ができるのは覚者、その話が分かるのも覚者!!!短歌を詠みました。『 いまここは 心の中の 世界なり 空に住して あるがままなり 』
まなさんのエピソードから、「賢さに歳は関係ない」という事実が確認ですました。ありがとう!
それは本当に痛感します…。芦田さんは、大変な読書家だそうですね。
体系的に学ばせていただきありがとうございました。自分の中でより理解が深まったのではないかと思っています。パニックからの脱出方法、クムバク、心身統一そして瞑想することで、われらと衆生とみなともに悟りの道をゆかんとするものの一人でいたい。
久原さんこちらこそ、ご視聴いただきありがとうございます! すごくお詳しい方だとお見受けします。この領域を学ぶことでセルフコントロール力を高め、優しい人格を磨いていきたいですね☺️
二十分から最高じゃん
参考になります。ありがとう!
社会の現実を改革しなければならない。戦争を失くさなければならない。
仏陀は悟りの時に過去のすべてを思い出したと述べています。ここから考えられる悟りとは、本来の自分を思い出す、永遠という過去の自分に帰る、と考えられます。記憶がよみがえるということは、持っていた能力も、よみがえることを意味します。昔取った杵つかということわざがありますが、そういうこと。仏陀はたくさんの奇跡をおこしています。仏として本来もっていた能力がよみがえったから可能になったといえるでしょう。
長文の返信、誠にありがとうございます。夏月さんの動画に批判的なコメントをしたのは、私の空概念が縁起説や無我説、不変で主宰的なものはない、と強く結びついており、善悪の問題とあまり絡んでいないからだと思います。また時空を超えた善悪はないという動画の論調は当然ニヒリズムを連想させます。私は、善を問うことは時代や国を超えて永遠不変なものだ、というレオ・ストラウス、自然法思想、イデア説に好意的なので、善悪相対論的なものには批判的、という理由だと思います。ただ夏月さんの動画の主旨は今の自分の凝り固まった善悪を乗り越えるにあると思われますので、動画の空概念の説明は適切です。おっしゃる通り次元が違う質問でした。重ねて長文の返信ありがとうございました。ますますのご活躍を楽しみにしております🙇
はじめまして💕🐾登録しました。😀少し難しいのですが繰り返し聞かせて頂きます👍️スピリチュアル的な事大好きです。ありがとうございます
ココアさんご登録ありがとうございます!これからもどうぞよろしくお願いいたします🙇♂️
思考は、凄く速いと聞いたことがあります。芦田愛菜さんレベルだと、それを捉えて、「◯◯だから、こうなる」と自分をきちんと見つめながら、正しい行動に持っていけると思いました。 思考を見つめて、思考を捉えられる方だと思いました。
ご視聴ありがとうございます!思考を見つめて、思考を捉えられる、というのは良い表現ですね。思考と一体化していると全てのものが問題に見えますが、一歩引いてメタ認知ができれば、景色はガラリと変わりますし、自己の行動変革もずっと容易になりますね😊
よくわかりました。文章が展開されているのでそこで止まって考えられるのが便利でした。受動意識仮説を提唱されている前野隆二教授の本にも同じことが書かれていて、結局そういうところに落ち着くのかって感じです。他の動画もみてみます。ありがとうございました。
悟りあるがまま…空…雲のように生きるありのまま…?良い~悪い~もない瞑想「本当はどうしたい」自分をみつめる?
瞑想は簡単で気持ちいい。なのにすぐにやめてしまう。その理由に気がついたことが瞑想よりも大切だった。考え事中毒なんですよ。
とても鋭いご意見ですね!考え事中毒には、考えることで安心できる側面と、考えることで行動を先送りにできる側面がありそうだと感じました。
おめでたい。
悟りとは本心に則ってやるべきことをやり続けてるその状態でしょうか?それとも一度それをやり続けられる人になったらずっとやり続けられる人=悟った人になれるということですか?でもその人がサボったらまた悟ってない人に戻りそうですし人間、たまにサボる時期があったりするものだと思うので、やはり一時的な状態じゃないですか?どうなのでしょうか?
悟りとは、純粋にそれ自体であることを指しています。何かきっかけがあってスイッチが切り替わり、目に見える世界が一変する、というような話ではないですね。全ての行為を純粋に行い続けられるなら悟っているといえますが、頑張って純粋になろうとする姿勢ではそれは無理です。出来た出来てないの判断をしているのは、『悟りに囚われている』状態です。行為全般に二次的な思考、二元的な判断を持ち込まないということを深く理解する必要があります。だからこそ、『ただ純粋に坐る』という行為に、ただ純粋に生きることのヒントが詰まっています。釈迦が坐禅をしたのはまさにこのポイントに立ち返るためです。できるできない、頑張るサボるの二元論を脱し、『ただ行う』。悟るか悟らないかの二元論を脱し、喜びと苦しみの二元論を脱し、自らの心のままにただ生き、その全てを味わう。そうしたあり方に心から気がつく。これが悟りを得るということです。…というのが、色んな僧侶の方の教えから学んだことです!😊
@@therationalist6422 お返事ありがとうございます。そうしたあり方に心から気づき、悟りを得たとしても、その人が悟った人とはならないという事ですか?悟りとは理解のようなもので、悟った人、悟ってない人と二元論的に言うような言葉ではない、であれば悟りを心から理解した人も、常に悟りの中にあるわけではないということでしょうか?それとも?
逆説的ですが、悟るということは、悟る、悟らないという二元論の消失を指しますので、悟った人は自らを悟っていると言うことはできません。また、悟った人を外部から観察して、悟っていると証明することもできません。よって悟った人は常に悟りの中にあるのか?という悟りの状態について問われると、原理的に誰もその質問に正確に答えることはできません。というのが杓子定規な回答になりますね。ただ、一応、私の個人的な現実目線での回答を記載します。悟りを経験した人も、悟ってない状態(分別知)に戻ることはあると思います。(我々もかつては赤子で、無分別知の境地にいたはずですから)ただ、無分別知をロジックでも体感でも理解していて、そこに自在に立返ることができること。これが現実的な悟りの在り方であると考えています。言わば、人生に対する究極の集中力みたいなものです。いかがでしょう?
@@therationalist6422 ありがとうございます。ということは、現実的なところでいくと、やはり悟っている状態、一時的な状態ではありませんか?動画内でも仰ってますが、スポーツにおけるゾーンも一時的なその状態ですよね?その状態をできるだけ長い時間保っていられる人を悟ってる人ということではないでしょうか?ちなみに赤ちゃんは悟ってると思いますか?
更問いありがとうございます!無分別知の状態を悟りと定義するのなら、一時的と言えますし、無分別知と分別知を自在に行き来できることを悟りとするのであれば、一時的ではないと言えると思います。私の解釈では後者のイメージです。赤ちゃんが悟っているか?という問いについても、無分別知の状態にあるか?という話ならYES、分別知と無分別知を自在に行き来できるか?と言われるとNOだと思います!
道元禅師は言われる。「そもそも真理とは、どこかに隠されているものではない。眼に映るすべての存在が、余すことなく真理を表現し尽くしているのであって、修行や悟りなどといった事柄を考える以前に、真理はあたりまえに世界に溢れている。その大自然の理法を感じ取ることに、特別な技法など必要ない。塵や汚れを拭き取るように修行を続けなければ真理と出会うことはできないと考える人は多いが、そうではない。また、真理とはどこか遠くへ求めなければ得られないものと考える人もいるが、そうでもない。今自分がいるこの場所で十分なのである。特別な修行の末に、真理という名の悟りがあるのではない」と。 これこそが悟りではないか。
大変面白かったです!ただ「(アートマン=自分が)認識するもの自体を認識できない」というところがまだ理解できてません。それと「認識できた場合、別のアートマンがでてくる」も全く理解できません。どういうことでしょうか?
ご視聴ありがとうございました😃補足説明させていただきます。まず、認識する、というのは、認識主体と客体があって初めて成立します。よって、認識主体が認識主体を認識する、には原理的に無理があります。物理的な例で言えば、右目で右目を直接見ることが出来ないのと同じイメージです。舌で舌の味が分からないように、右手の親指で右手の親指に触れられないように、アートマンもアートマンを直接認識することはできません。ここで仮に、無理やり『右目で右目を直接見れた!』と仮定しても、見ている時点で、見る右目と見られる右目が存在することになってしまいます。ましてアートマンには指や目と違って実体がありません。他者からも、自分自身でも、観測できず言い表せない。よって、『〜ではない』としか言えないものになります。こんな感じなのですが、いかがでしょうか?
ああ、自分が自分自身を認識できないっていうことですね。そりゃそうですよね。わかりました!細かい説明をしていただきありがとうございました。話がちょっとそれるのですが、数年前に夜中に一人で路上を歩いている時、自分の心のようなものが自分の身体を操作して自分の身体というものを動かしている(歩いてる)と感じる時があり、ロボットを操作しているようで面白い気分になったことがありました。
私を苦しめているのは、無明だからです。無明で無くななれば、悟りに近づき、苦しみや悩みが軽減されます。無明とは、真理を知らずに生きていくことです。
ご視聴、コメントありがとうございます😃四諦的なアレですね!
初めましてノラネコの小倉です🐈先生の東洋哲学解説シリーズ👈拝聴して大いに好きに成りました。実は私は以前は西洋カブレだったのですが、今では西洋より東洋哲学の方が失礼ながら上位?と言うか、身近に感じますですのでこれからは東洋哲学を学びたいと強く思います。大変恐縮な質問ですが、東洋哲学の学び方のイロハのイを教えて頂けませんでしょうか?👈何分東洋哲学は広く深い世界です。とても素人が手を出す世界では無い事は分かってますが、大変魅力的な世界ですし、真の人間を模索するには是非共その教えを知りたく思います。斯界の学びの順番を教えて下さい。感謝💐
ご視聴、コメントをいただきありがとうございます😊”素人が手を出す世界ではない” なんてことはありませんよ!真剣に人生に向き合うノラネコさんの姿勢は尊いです。ぜひ一緒に学んでいきましょう!僕も学者ではありませんので、あくまで僕の個人的な意見として、ご質問に回答させていただきます。まず、僕はノラネコさんの『東洋哲学を学ぶ』というお考えを、『梵我一如を理解・体現しながら生きるための自己研鑽』という意味合いで解釈いたしました。(あっていますでしょうか?)それを実践する手順は、僕の考える限り以下の2点です。①インプット:(最低限の)知識を学ぶ。②アウトプット:日常生活で梵我一如を実践する。重要なのは、インプットとアウトプットのバランスだと考えています。歴史や用語にどんなに詳しくなっても、哲学者(哲学に”詳しい”人)になるだけで、哲人(哲学を”する”人)にはなれません。学びを実践し、自分・他者・世界をより良くしていくのが哲人です。『学ぶ者は、”哲学者”ではなく”哲人”を目指すべき』というのが僕の自論です。<インプットに関して>正しい知識は正しい理解を助けますので、良質な情報の摂取を心がけたいですね。第一歩としては、ぜひこの動画シリーズをお役立ていただければ幸いです。笑ステップアップとしては、ぜひ本物の思想家の書いた書籍を手に取ってみていただければと思います。禅思想の大家である『二人の鈴木』こと、鈴木大拙氏と鈴木俊隆氏の本はお勧めです。『禅マインド・ビギナーズマインド(鈴木俊隆)』:amzn.to/2Z89rWE『禅(鈴木大拙)』amzn.to/2Z8Dvl7僕も擦り切れるほど読み込み、好きなページだけ裁断し、縫い合わせ、オリジナルの本を作りました。笑大拙禅師はちょっと難解ですが、俊隆禅師の本は『禅の思想の体験的理解を促す』という点において、途方もない完成度を誇り、正直これを繰り返し読むだけでもOKなレベルです。より噛み砕いて、面白く説明して!ということであれば、同じく動画参考書籍としてご紹介したこちらの本が良書です。『史上最強の哲学入門(飲茶)』:amzn.to/3DYwvWC梵・我・縁起・涅槃・悟りといった言葉について、自分なりの言葉で解説し、具体例をあげて説明できるのであれば、知識面はそれで必要十分かと思われます。<アウトプットに関して>坐禅をお勧めします。なぜなら、坐禅は梵我一如を体感+体現する最も手っ取り早い方法だからです。(すでに実践されていたらすみません)これについて、簡単に解説いたします。まず、坐禅の姿勢は、実際にその姿勢をとってみればおわかりいただけるかと思いますが、人間の活動を最も制限しつつ(息をする以外にできることがない)、同時に精神を覚醒させる(ざっくり言えば寝落ちしにくい)姿勢です。この姿勢をとれば、人間は『純粋に存在する』か『妄想する』しかやることがなくなります。ここで、呼吸に意識をむけ、息の動きだけについていくことができるなら、僕たちは存在として純粋です。足すことも引くこともない、ありのままの状態であると同時に、あらゆるものをあるがままにしている『梵我一如』の体現者となります。つまり、その時僕たちは悟っています。悟りを得ること自体は、正しい理解さえあれば難しくないです。問題は、その後常に悟りと共にあること。坐禅の時の心持ちを、日常生活のあらゆるシーンで実践できるようになるなら、人生の幸福も不幸も味わうことができる、本当の幸福に気づくことができます。息の代わりに、今なすべきことにただ集中する。偏りを持たず、執着せず、常に自分の『ホームポジション』に立って、全てと接する。その繰り返し。それが僕たちの修行です。まとめると、東洋哲学を学ぶ第一歩は、『本を読み、坐禅をしよう!』になります。ご回答は以上です。ノラネコさんのお役に立てれば、嬉しく思います。
@@therationalist6422 さんこんにちは。とても分かりやすい説明を、ありがとうございます!前々からの疑問ですが、よく悟りについて語られている方が、こちらの夏月さんのコメントに書かれているように、「人生の幸福も不幸も味わうことができる、本当の幸福に気づくことができる」とおっしゃいます。「人間の不幸も味わうことができる、本当の幸福」とは、どのような意味での幸福なのでしょうか?通常、人間は不幸を味わうことが本当の幸福とは感じられないと思います。もしよろしければ、どのような感覚なのかを教えていただけると嬉しいです🙇
soleilさんコメントありがとうございます。不幸を幸福と感じるとは、これいかに!?というポイントですね。どういった感覚でいれば、こう感じるのか。僕なりの解釈で、要因となる2つの考え方を挙げさせていただきます。一つ目は、『時間軸を伸ばして考える』ことです。宝くじが当たったのちに、友人・家族に騙されたり、殺されたり、あるいは金銭感覚が狂って破産する人は少なくない。また、仕事上の死ぬほど辛い経験が糧となり、その後の大きな成果につながるケースもあります。ある一瞬感じた幸福が、のちの不幸の始まりだった、というのはよくある話です。あるいはその逆も然りですね。今の出来事が幸か不幸かは、その後の未来によって決定されます。今の不幸も、将来振り返った時に、幸福だったと思えるよう頑張ろう。こう思えると、不幸な出来事は全て幸せの糧にすることができます。もう一つは、こちらの方がはるかに本質的ですが、『幸福も不幸も存在しない。ただ味わう』というスタンスです。ある禅師の言葉に、『東に1マイルいくことは西に1マイルいくのと同じ』という言葉があります。これは非常にわかりやすいですね。東も西も、人間が勝手に後から足した概念です。幸福と不幸もそう。人間が勝手にそう思い込んでいるだけ。起こっていることは、変化した、という事実のみ。万物は変化します。諸行無常です。そして、僕たちの存在の実体は、変化する肉体でも精神でもありません。アートマンという認識主体です。これは動画で解説した通りです。肉体や精神といったスクリーンを通して、変化をただ味わう”何か”です。映画の主人公が不幸な目にあった時、僕たちは悲しみます。しかし、自分の人生、もう終わりだ、とは思いません。これと同じです。”変化を味わえること自体”が本当の幸福だ、と感じられるかどうか。この境地に一瞬でも至れるなら、本当の幸せは常に私たちと共にある。これが仏教的な考え方、感じ方になります。ご参考になりましたら、幸いです😊
@@therationalist6422 さんお返事をいただき、ありがとうございます!なるほど…塞翁が馬、幸・不幸は、確かに未来によって感じ方が変わったりしますね。私もそのように感じたことがあります。また、変化を味わえること自体が幸福という、、このような境地を感じられるようになりたいものです…今後も、夏月さんの動画を参考にさせていただきますね☺️
意味づけ世界の住人同士は、やはり、その行為自体にも意味づけし続ける行為者。その中で生じるトラブルも意味付けされたもの。その世界が本質かどうかという解放によってストレスをなくせる人はもう悟りの境地でしょうか。
空は空っぽでは無いってことですが、別な面から言うと、空間そのものってことのようです、つまり全てであって全一ってこと、その中で在るがままであると、悟りって内外に分裂してた自己が、認識主体に全一になることだと云えると思います、ヨガではカイバリヤ(独在位)って言うようですが、まあその分裂から全一に切り変わる瞬間が悟り体験であって、悟った後に悟りは無くなるんで、無であって空として全一な存在になるんだと思います。
苦しみに言葉が関係したり、アートマンを何かと同化させたり、ブラフマンを思い込みで切り取ったりすることによって生じるのなら、 赤ん坊や動物はどれだけ虐待されても苦しみを感じないはずですね?と質問されたらどのように答えますか?
コメントありがとうございます。赤ん坊・動物でも痛みも苦しみも感じます。痛覚があるからです。ただしそれは感覚器官による物理的な反応、一次的な痛み苦しみであり、言葉がないので分別知が産む二次的な痛み苦しみはないと言えそうですね。私は赤子の頃の記憶はなく、動物になったことがないのでホントのところは分かりませんが…。
本来の悟りの境地と比べるとかなり抽象度は低いですが今の世に悟れる人はいないので現代社会の悟りの解釈はこれくらいが丁度良いのかなと思いました。
ご視聴・コメントありがとうございます。きっとお詳しい方なのですね!僕もまだまだ勉強中です…🥲
とても分かりやすい解説で良かったです。ただ、東洋哲学を梵我一如や空や悟りの概念で代表させるのはおかしいと思いますが。また、スポーツの例がありましたが、あれはフローやゾーンと呼ばれますが、悟りとは違うのでは?あと、仏教哲学は瞑想の実践を通して気付きを得ていくこと無しに理解する事ができない事をもう少し強調して頂けたら良かったと思います。
コメント、ご質問ありがとうございます。フロー・ゾーンは行為との一体化の例としてあげました。悟り≒無分別知とした時に同じ、という意味合いでした。分別知と無分別知の自由自在の境地を悟りとするなら、この文脈ではご指摘の通りです。
説明がクリアカット過ぎて解脱しました
ありの〜ままの〜姿見せるのよーは本心にそって姿見せるってことだったのかな?
本心(本当)の姿
ご視聴・コメントありがとうございます😄あれはディズニーテイストのお経だったのかもしれませんね 笑
最初自分はありのままを都合悪いこともそのまま受け入れた上で自分を見せる風に認識してしまっていたけど実は自分の嘘や偽りのない本当の気持ちに正直になるってことだったんだね(。-`ω´-)ンーアッテルヨネ?
あってます!初めは『なされるがまま』として、受動的に自分の置かれた悲劇的状況を『受け入れる』。しかし、その後は『あるがまま』として、主体的に自分の置かれた状況を進んで『引き受ける』。その上で自分を素直に表現するようになる。東洋の仏教においても、西洋のサルトルの哲学においても、この『受動的→主体的』への自己変革こそが、人間の理想的な生き方の第一歩とされています。流星ライトさんのご指摘の通りです☺️
ありがとうございますm(*_ _)mそんな風に褒められたのは初めてです( ◜︎◡︎◝︎ )
僕は30年余りこの日本に住んでます。もともとアメリカ人であることですが、今曹洞宗の僧侶になっております。こういうような動画をを何回も見たことあるのですが、すべて悟りということを勘違いしております。まず悟りと言うことをわかると思う人は必ず間違えてます。2つ目は、人によって悟りの意味は変わってくると思います。悟りとか空とか言葉だけで理解するのが無理だと思います。理解する方法は1つだけだと思います。それは修行でございます。
修行による理解も修行による理解にしかすぎませんそれもある種の勘違いなのです
天然自然の法則を知ることだ
一つ、御教示頂きたくコメントさせて下さい。最近ようやく、結跏趺座で瞑想をしています。それにともない、脚の痺れが気になり囚われてしまっています。脚が腐るのではとか(そんな長い時間でもないのに)、恐怖の感情まで出て来る始末www半跏趺座に戻るのがいいのか、結跏趺座でその心すら空ずる方がいいのかアドバイスを頂けると幸いです。その決断しなければも、囚われているということですかね…どちらでもいいということですか… 結論出たか?!www
コメントありがとうございます。そのお気持ち、よく分かる気がします。結論から言えば、結跏趺坐で始めて、辛くなったら半跏趺坐なり、他の坐り方に切り替えるのが良いと思います。絶対に結跏趺坐でやらなければ坐禅ではない、なんてルールはありませんので、ご自身の体調、柔軟性に合わせて体勢を選択されるので問題ないと思います。結跏趺坐は慣れれば最も安定しますが、慣れるまではご記載の通りの辛さはあります。ただ、できないからといって悪いことは何も無いですし、できたからといって何も偉くはないです。坐りやすいからその姿勢をとるだけ、とれるよう身体を柔らかくするだけです。痛みや心をコントロールしようとしたり、我慢しなければと考え始めると坐禅はおかしなことになります。慣れるまでの過程、無理せず足首をストレッチしつつ、あまり気にせずに坐禅を味わわれるのが良いのではないでしょうか。ご参考になれば幸いです😊
@@therationalist6422 ありがとうございます!とても参考になりました。そうですよね、変えてもいいんですよねw座禅を始めたら動いてはいけない、と勝手に考えていた自分に気付かされました。明日からの座禅が、より楽しみになりました😄アップされて下さってる動画のみならず、素晴らしい教えを頂き、ホントに感謝しています。ひと昔前では想像も出来なかったこの恵まれた今を、味わいつくそうと思います。暑い夏が続いておりますが、どうぞ御自愛なさって下さい。ありがとうございました🙇。
悟りとは神の世界、意識を信じで知ることとも言えます。この世に生きてるのは仮の自分だと分かる事です。本当の自分は神から流れる魂の欠片の自分を探す事です。空とは物質世界に囚われない心(魂)を見つめる事です。そのためには坐禅があります。
うーん。「悟った時、悟った人はいない。」(ラメッシ・バルセカール)だから、認識から悟りに接近するのは、入門編なんじゃないかね。
異次元から意識の操りが全てと気づくこと
コメントありがとうございます!そうなのですか!?異次元のことはよく分からず、すみません🥲
「ありのまま」という言葉が気になりました。まるで、「ありのまま」なる実体があり、それを知れば「悟れる」というふうに語っていらしゃった、と思います。でも、「空」とは、「ありのまま」のような実体はない、ということを自覚することではないのか、と私は思っています。失礼な言い方かも知れませんが、私には、宗教を功利的な側面から見ておられ、思想としての側面からは考えておられないのではないか、という印象を持ちました。
コメントありがとうございます!ありのまま=空=実体なし。私もご記載の通りの認識です。また、そのつもりでお話しましたが、伝わっていなければ私の力不足ですね🥲貴重なご意見ありがとうございましたm(_ _)m
という色を聞いた
何千年も前の人が解明した哲学を今も実践できない私が、人類が悟る時が来るのだろうか
我々は只、在る。まるで自分の意思で大統領や宗教の宗主、名も無い奴隷、サラリーであるかの様に生きるが、全て同じ只の一つの種である事に気付いてない。
ありがとうございましたm(__)m
こちらこそありがとうございます! もし何かしらのお役に立てていたら嬉しいです。
何回も拝見してメモさせていただきました!凄くパワーをいただけました。過去動画もこれから拝見させていただき勉強します!!このチャンネルに出会えたことに感謝です!!
仏様の悟りを知る事が凡夫の悟りである 自分で悟ろうとする者は迷走するだけで、けして苦しみの枠から出る事は無い 自分の本心を知る事も人生では大切な気づきの一つだが自分の枠内には変わりない (動画主様へ 難しいお題とは重々承知致しております。仏道を通る方の為に、コメを残しました。 有難う御座います。)
四法印を真理と気づければ、悟りです。解説は簡単ですけど、気づける人はなかなかいない。空の解説は間違えていると思います。空とは、諸方無我を理解出来れば、空を理解できると思います。
凄いです…やっと瞑想をする意味がわかった気がします。「二元の一者性」という話がありましたが、アドラーも同じような見方をしています。意識と無意識は相反するものではなく、同じ方向に向かって一緒に働くものだといいます。また自分の良いところも悪いところも認める「自己受容」が幸せにつながるともいいます。そして「ありのまま」の自分の存在によって貢献することこそが、幸せなのだと。まさに、アドラー心理学のなかに空の思想があったということですね…。アドラー自身は瞑想はしていませんが、後継者のなかにアドラー心理学と瞑想を組み合わせている人もいます。雑念が浮かんできてもそれを受け止め、ただ呼吸に意識を集中する…たしかにその練習をしてれば、対人関係の悩みはなくなると予想できました。アドラー心理学と東洋哲学って親和性高いですね…!片方がわかれば、もう片方の理解がとても進みます。
コルさんご視聴・コメントありがとうございます。お役に立てたのであれば光栄です☺️『片方がわかれば、もう片方の理解が進む』というのは、本当にそうですね。人間について考え抜けば、深いところであらゆることは繋がっているのだな、と思わされます。アドラーさんに瞑想の習慣はなかったんですね、結構その辺りこだわりそうなタイプなのに、意外でした。笑アドラーの幸福の3条件(確か自己受容、他者信頼、他者貢献…でしたよね?)について、言われてみれば『人間のありのままの姿そのもの』なんだなぁ、とコメントを読んでしみじみと感じ入りました。貴重な学びをありがとうございます😄
さて経文によると、仏陀に対し一人のバラモンが問いました。「そうはいっても悟りを開いたあなたといっても全く怒らない、少しも腹を立てないということはないと思います。」、と。しかし仏陀は答えました。「わたしが腹を立てる、怒るといったことは全くない」、と。すなわち「怒るけれども怒りをちがって捉える」などという説明は間違いであると経文は説きます。
昨今LGBT法案なるものが可決されました。キリスト教の道徳観に挑戦する新たな価値観だとかそうでないとか。性犯罪を助長するかもしれないこの法案は東洋哲学的にはどうなんでしょうか。あるがままに受け入れるだけで良いんでしょうか?
理想を言えばだが、山上容疑者は鬼とならずに至近距離から空砲を鳴らせばよかった。あの境遇でも怒りに負けない自己を表現できれば究極の悟りの境地であり、悪人どもはグーの音も出なかっただろう。
言葉が多くて凡人には分かりにくかったです。「空」とは何か、「悟り」とは何かさっぱりわかりませんでした。言葉に魂がないようです。「あるがまま」が分からない、なぜ二元論が否定されるのかわからない、物事の本質が「空の世界」というのが分からない、「あるがまま」は空ではないように思えます。人は理屈で行動しません、感情に従って理屈を作って行動するだけのように思います。般若心経を説明してくださるともう少しわかるようになると思えますのでお願いしたいものです。
一つ質問があります。世界に善悪は本当にないのでしょうか。人を殺して快楽を感じる人はいないでしょうか。いれば空とばかり言っていられないのではないでしょうか。私は仏教徒ですが、空はまだ理解できません。
ご質問ありがとうございます。以下、私見ですが、回答させていただきます。①世界に善悪は本当にないのか?元を辿れば(仏の視点で見れば)、善と悪は存在しません。あると感じるのであれば、それは私たち人間がその概念を仮置きして、それに私たちが合意しているからです。しかし、どこまでいっても、私たちが日頃用いる善や悪の概念は、ある”人間”が一つの視点から事象を見て考えた解釈でしかありません。例えば、野生動物(自然災害に置き換えても良いですが)は人間を殺めることがありますが、人の作った善悪の概念が人にしか通用しないことの良い例ではないでしょうか。②人を殺して快楽を感じる人がいれば、空とばかり言っていられないのではないか?人を殺して快楽を得る人間は、実在するかもしれません。しかし、そうであったとしても、”空”とはあまり関係がありません。問題の次元が異なるためです。空とは、世界の見方であり、あり方です。意味づけを離れた世界のあるがままを知覚し、自身が世界そのものであと気づくことです。仮に、人間的な文脈で、絶対的な悪に見えるような存在があったとしても、空は空論にはなりません。万人にとって価値ある”あり方”だと私は考えます。空と意味付けの世界は、どちらか、ではなく、両立し、どちらも大切です。なぜ”空”がそんなに大切か。それは、意味付けの世界=苦の根源から人間を解放し、幸福な人生を全うすることを助けてくれるからです。例えば、人を殺して快楽を感じる人も、戦場で敵兵を1,000人殺せば正義であり英雄です。善悪は解釈に過ぎませんので、このように時と場合によっていくらでも転倒します。マスメディアがそうするように、見方を変えれば、善悪、幸不幸はいくらでも操作できます。そして人間その人自身が、事象に意味をつけては一喜一憂して生きています。意味付けの世界しか見えていないと、こうした意味の不安定さに死ぬまで翻弄され続けます。これが苦しみであり、意味付けこそが苦しみの根源です。(詳細は動画で解説した通りです)空は、こうした意味付けのトリックから人間を解放します。意味付けの世界の中に生きていても、本質が見えているから、あらゆる仮置きの概念の実態が虚ろなことに常に気づいていられます。だからこそ、仮置きの概念から距離を置いて、0ベースで考えることができます。これは、空を理解した上で意味付けの世界で生きることの大きな強みです。もちろん私たちは道徳的な善や悪、法律的な罪の概念(意味付け)のある社会・国(という解釈世界)に(合意して)生きていますから、善も悪もありませんと言って犯罪を犯せば捕まって罰せられます。空は、人社会において概念としての悪人を許容せよ、という話ではありません。人社会の脅威は、人社会のルールによって然るべき罰を受けます。それだけの話です。おそらく、『空と言っていられないのではないでしょうか』というのは、空のスタンス(善も悪もない)という状態で社会生活は成立しないのでは?という疑問だと思います。(違ったらすみません)結論、善悪の概念や罪や罰の概念なしに社会生活は営めないと思います。一方で上記の通り、概念世界とあるがままの世界は、表裏一体です。相反するものではありません。お答えになっていますでしょうか?要約力が足りず長文になってしまい恐縮ですが、お役に立てましたら幸いです😊
世界を分断し、対立させ、闘争へと導いているのは「言語=言葉」であると考えます。言葉による不正確で不明瞭で不完全な意味付けがこの狂った世界そのものです。トランプ前大統領は人の数だけ存在します。それは一人一人が勝手に脳で作り上げ編集したイメージに過ぎません。それなのにそのイメージを真実に格上げしてしまうので果てしない論争や対立という現象を作り出します。もちろん本当のトランプ前大統領は一人しかいませんが。言語が作り出す構造全てが虚偽であることの理解があるがままの一つの世界なのではないでしょうか。
こんな自分を誤魔化す生き方はイヤだなと率直に思います。自動車って客観的世界のなかで自動車として客観的に存在し労働生産され売られ、消費している。実在している。ヘーゲルなども飛んでいる矢は止まっていると同時にもうそこには存在しないから有ると同時に無いといった。無理がある。部品の集合体でもそれが自動車として機能するんです。想念としては注目しますがその想念を哲学として身につけ生きることは到底できない。
コメントありがとうございます。ウパニシャッド哲学〜禅に対する、非常に建設的でクリティカルなご意見だと思い拝見させていただきました。僕も特に禅僧でも哲学者でもないので、18861954さんのご意見には概ね同意です。いかに概念として『空』を理解しようと悟ろうと、結局意味づけの世界で生きている以上それが何になると言うのか。車、あるじゃん、と。笑ここについて、僕が好きな考え方が、『十牛図』(昔の人が書いた悟り漫画みたいなもの)における『返本還源(へんぽんげんげん)』と『入鄽垂手(にってんすいしゅ)』と言う考え方です。端的に言えば、『悟ったらその後どうなるの?』という問いに対して、『悟って終わり、それがゴール』という旧来の考え方を否定し、『悟ったら、現世(意味付けの世界)で皆と幸せに暮らすのさ』という教えです。急に俗っぽいおっちゃん(悟った人)が出てきて笑顔で人と話す姿が描かれています。これが何を指しているのか? 僕の解釈では、『意味づけの再選択』を表しているのだと思います。意味づけのない世界を観ることができる人であるからこそ、どのような事象が起ころうとも、ホームポジション(無分別智)に立ち返り、意味づけを自在に選択し、この現実世界(記号世界・意味づけだらけの世界)で明るく楽しく生きていけるし、それを人にもシェアできるのだと思います。無分別智の世界も、分別知の世界も、どちらか一方の世界を見るのではない。両方を同時に視ることができるから、自在に生きられる。これが二元の一者性だと思っています😊
@@therationalist6422 さん お返事ありがとうございます。二元の一者性などなるほどと思います。わたしは弁証法を志向しているのでこの考え方はスッと入ってきます。もともと仏教哲学は生々流転なんですかね、諸行無常なども抵抗ないです。当時からこのような思想をうちだしたのは驚き。動画を再見しました。おもしろかったです。東洋哲学の歴史的価値がわかります。「縁起」「空」「認識主体」「梵我一如」「裏切られたのは勘違い、対象の見えなかった部分が見えること」「物事をあるがままに見る」「存在は一瞬の閃光」「二元の一者性」、、、ヘーゲルは東洋哲学を知っていたのかと思うくらいです。わたしはヘーゲルを少し学び、マルクスを学んでいます。マルクスは東洋哲学の実践哲学ともいえるかもわかりません。わたしが学ぶ目的は賢者になりたいとかではありません。深刻な社会の矛盾があり、それをあるがままに見て、人間が不幸せになるその不条理な世界を改善する主体がわれわれだと思っているから学んでいます。原発や核兵器はどうでしょう。台湾有事が起こればアメリカといっしょに戦争し、中国に日本からミサイル攻撃をしかけるため、あらたな軍事費を事項要求合わせると6兆円を超えようかと。自衛隊員が少ないのに予算だけ投入され無駄になっている。国家予算は有効に使うべき、なぜ子ども食堂に1・5億円の補助金で軍事費は無駄に6兆円なのか?コロナ禍なのに対策をうたず自宅放置で国民を見殺している。わたし自身、生存要件を満たさない低賃金でこき使われてきました。毎日週四日ですが一日必死に働きました。でも生きていかれる賃金を一度ももらっていません。親に助けてもらっています。そういう社会で「生きさせろ」と闘っています。これも仏教哲学の言う「空を生きる」の実践ともとれるのかもしれないと考えています。さいごに、このような哲学を語るひとはまわりにいません。みんな忙しいので哲学談義など疎まれます。あなたは「セルフコントロール」「対人関係技術」「哲学思想」など志向されているのですね、わたしとは方向性が違いますが参考になることも多いと感じます。またいろいろ教えてください。
@18861954 さん弁証法と重ねて捉えられたのですね! 言われてみれば、『禅を修めて生きる』とは確かにアウフヘーベンそのものだな、と大変納得しました。貴重なご意見ありがとうございます。ご記載の文章から、ご自身の生き方を、困難であろうともありのままに捉え、味わおうとされる姿勢を感じました🙂更新ペース遅いですが、色々制作していきますので、ご興味があるコンテンツがあれば、また哲学談義しましょう! こちらこそ色々教えてください😊
左脳で学んでわかるものじゃないでしょ!悟ればいいんだよ。
「悟り」がそんな簡単なことなのか!弥勒菩薩だって56億7千万年かかるんだぜ(笑)
梵我一如のはなしに仏陀を登場させると仏教側からクレームが来ますよ。ブッダは無我と言っているって、、、
助からない魂(><)
「どうすることもできんわな」 死んだ祖母がよく言ってました。
うーん、ツッコミどころがありすぎですね。投稿主さんは全く悟りを理解していません。そもそも悟りを特別なものだと思ってる時点で間違いです。この世界はあるがままでしかない。それを自分というフィルターを通すから、見え方が違うというだけ。「あるがまま存在する世界」は自分というフィルターを通さないと認識できない(我しかない)ので、ありのままはどう存在しているか?は分かりようがありません。世界を認識する自分がいる限り「あるがまま」なんてただの幻想であって「あるがまま存在する(であろう)世界」でしかない。じゃあ一生悟れないじゃん、というとそうではない。なぜなら自分は必ず「あるがまま存在する世界」の一部だから、ある意味では「常に悟っている」んです。ここが分かっていない人が多すぎる。ただ、悟っていることを確認できない(答え合わせをしようがない)、というだけです。「悟りたい」というのはただの欲。その欲が強ければ強いほど「アートマン(認識する世界)」は「ブラフマン(世界の理)」を歪めてしまうので、悟ろうとしない方がよほど悟り(いわゆる梵我一如)に近い状態になります。要するに世の中にある「悟り」は単に人間が生み出した欲望でしかないということです。修行なんて必要ありません。なぜ修行をするの?→悟りたいからその時点で本当の悟りとはかけ離れています(悟りようがない、というあるがままの事実を受け入れられていない)私たちは死んだ時に必ず悟れます(あるがままになる,という意味で)。生きているうちに本当の意味で悟る(梵我一如になる)のは不可能です。梵我一如はただの幻想でしかありません。だって、本当の悟りは「梵」と「我」に区別がない(梵しかない)からです。どこまで悟ったか?は自己満足の世界でしかなく、本当に悟った人は悟ることすらどうでもよくなるし、どう足掻こうが「あるがままでしかいられない」と理解しています。梵を誰がどう認識しようがどうぞご自由に…。それが本当の悟りです。本当の悟りは全く魅力的ではないですよ。だってあるがままでしかなく、一切の人間らしさや脚色もないんですから。
@user-mg7sy6tw1o 植物人間はインプット(感じること)ができる状態です。考えられる(かもしれない)時点で煩悩に惑わされる可能性はありますね。
芦田愛菜ww
これは違います。長部経典を読めばこの解説が違うことがわかります。長部経典Ⅰを読んでください。仏陀はそのように悟り/解脱を説明していません。私達がするべきことは仏陀が長部経典に解いた解脱するための方法を実践するだけです。
他の動画をみて、よく纏めたなと思ってチャンネル登録まで致しましたが、この動画を見たらショックを受けて落胆しております。ぐちゃぐちゃです。反論する気力も起きないくらいでした。
スピ界隈では、「すべてはひとつ」ということが言われています。苦しみは、自と他(自分以外のすべて)を分けて別のものだと観察することが原因で起こります。
例えば、「損と得」という考え方です。
自分の認識の中に苦しみが生じる仕組みみたいなものが分かり、自分が目覚めたことを自覚できるくらいに定着・習熟して来ましたが、その感覚のようなものを伝えることはとても難しいと感じていました。
この動画が目覚めていない人にとって、どのくらい分かり易いのか分かりません。しかし、自分の「感覚」に照らしながら拝見させて頂きましたが、かなり共感できる内容でした。
現代仏教においては、この動画ように「悟った状態」がどのようなものなのかを定義するのでもなく、言及を避けたまま悟りについて論じているように思います。
自己の認識の深まりについて、哲学によるのか、宗教によるのか、又は他のどんな方法によるのか、について論じることに意味はありません。しかし、自分はどの立場から発言しているのかに囚われて(自分の立場を自己弁護して)いることに無自覚な方々が、人々の救済を論じる姿が散見されます。皆さん、自分の見たいようにフィルタリングして世界を観察しているので、そのことに氣付いていない人ばかりです。
悟っていない人が「悟り」について語り、それを聞いた(悟りを求めている)人達はその話を盲信して遠回りしているのに、そのことを疑うことさえしない、感じでしょうか。
その状況に自体に良いも悪いもありません。ですが、痛みからしか学べないこともある、と知らないだけで簡単に絶望して命を断つ人がいることを思うと胸が痛いのも確かです。
しかし、そのことで誰かを批判するのも、その状況を嘆くのも、一面的な観察でしかないと分かってからは、痛ましく思う自分を冷静に見ることができるようになりました。改めて自分の状況を整理する手がかりになりました。ありがとうございます。
こんな素敵な回答を頂けて本当に感激しています。100%大満足です。作成者様の言語化のうまさに感動しました。
この回答にかけてくださったお時間に対してお礼をしたかったのですが、なぜか?200円以上に設定ができないんですw
また、私の感覚的に考えた答えとしては、本心とは幸せを感じる心のように感じました。また、本心と繋がっていないと何が幸せなのかもわからないまま死ぬようなイメージができました。
動画では説明不十分の箇所に対し、的確なご質問をいただきありがとうございました^^
(Super Thanksも改めて御礼申し上げます!)
『本心=幸せを感じる心』というのは、非常に素敵な表現ですし、事実だと思います。
本心に沿って決断すれば幸福になりますが、自覚なしにそれは難しいですから、
本心を知るというのは幸せに生きることの大切な要素なのでしょうね😊
ご解説ありがとうございました。悟るには、ややエネルギーが必要ですので、若いときに悟るのが望ましいと思います。
今まで勉強していたつもりだったのに自分はまるで理解できておらず表面で留まっていたことが分かりました。知識を深めることが出来て感激です。そういうことだったのかあ…と心が温かくなりました。
Super Thanksありがとうございます!
お役に立てたのであれば幸いです。
絶対の答えがある世界ではないと思いますので、お互いに興味の赴くまま、思索・解釈を深めていきましょう〜😊
ちょうど3年前。いわゆる悟り体験、一瞥体験が起こりました。
ありとあらゆるものと一体化した安心感しかないその経験はあまりに強烈でした。
涙が溢れて止まらないその体験によって、まさにこの動画で伝えていらっしゃることが明らかになり、ガラガラと何かが崩れていきました。
今、何か問題らしきことが起きることがあっても悩むことはできなくなりました。
本当に自我はなんて愚かです。全部自我による幻想。映画の中なのに主人公と思い込んでいることこそ苦しみですね。
ありがとうございます!
SuperThanks、ありがとうございます!!恐れ入ります🙇♂️
西田幾多郎さん、私は詳しくないのですが、以前から禅ベースの哲学とのことですごく気になっていて、いただいたコメントに触発されてこの度本を買いました。笑
語れるレベルになったら解説もチャレンジしてみたいと思います😊
面白いシリーズでした。苦難や幸福さえも認識であるアートマンの世界として、起こる現象を本質的な受け止め方としつつそれを認識するという無限ループがあるとして、だからこそ、「悟り」という状態(もしくは記号_)もまたブラフマンとアートマンという認識に溶けるような解説でした。
東洋哲学シリーズとても面白かったです。
こんなにはっきりスッキリと解説されてる方は初めてです。
繰り返し聞いてみようと思います。
また、話し方や声もとても聞きやすかったです。
Saryさん
ご視聴・コメントありがとうございます😊
お褒めいただき光栄です!
仏教もキリスト教も、オカルトや政治ツールとして利用されてばかりですが、世界レベルの宗教には本来、人間や世界の本質に対する鋭い洞察が秘められています。
そのエッセンスを、ぜひ色々な方に今日からお役立ていただける形でお届けできたらな、と思い本動画を作成しました。
今後とも哲学・宗教系の動画は投稿予定ですので、ご興味に沿ったテーマがあれば、お楽しみいただけると幸いです😃
芦田愛菜さんの「信じるとは」のお話は聞いたことがありましたが、改めて夏月さんの穏やかな優しい口調でお聞きしたら鳥肌がたちました。
子育てを通して、子供を自分をありのまま受け入れることの大切さを痛感しています。
素晴らしい動画をありがとうございます✨
コメントありがとうございます。
子育ては大変な負荷がかかると伺っています。
その中でも、ニューヨークさんのようにありのままを肯定できたら、
きっと親子共に素晴らしい時間を共有できるのでしょうね☺️
こちらこそ貴重な学びをありがとうございました!
泣きそうになりました、ありがとうございます
素晴らしい動画
空を受け入れてあるがままに生きるつもりになったとしても、人はあるがままにできない。
ただあるがままで終わらず、集中、責任、決断、賭け、創造、それらの姿勢を理想論と笑わず、『梵我一如』になりエゴイズムを克服して「人の本当の姿」になった時に無私の「私」が現れる。その後も自分の判断、意思で分別、決断をして生きてゆく生き方
夏月さん★★★★★
気づきをありがとう
ございます💐💕
理解できました。
永久保存版ですね😃
ココアさん
コメントありがとうございます!
お役に立てて光栄です。
思い入れのあるテーマだったので、嬉しいです😊
夏月さん💕
心から感謝しています
これからも繰り返し
学ばせて頂きます😉
ありがとう~🍀💐
ありがとうございます。すべての動画のわかりやすさに感動しました。1点教えていただきたいことがあります。
私とは、意識現象であることは理解しました。
本心とは何なのでしょうか?本心はどこから生まれてきて正体は何でしょうか?
もし、動画ですでに語られていたらすみません。
コメント・Super Thanksありがとうございます😊
わかりやすかったとのことで、よかったです。
本心についてのご質問ですね。
まず本心とは何か、という点について。
これは私の解釈も含むのですが、『理性・感情抜きで語れる自身の願い』だと思っています。
私は便宜上、理性・感情とは別の魂とか精神とかがしっくりくるのでそう呼んでいますが、
もしスピリチュアルな用語が苦手であれば、理性・感情抜きの"本当は〜〜が好き・嫌い"、
あるいは、"本当は〜〜したい・したくない"という願いだと考えていただければと思います。
※昔成人発達理論の専門家の方からは、建前の下には本音があるが、本音の下にはさらに本心が隠れている。このことに多くの人は気づいていない、と教わりました。まさに!と感じました。
そしてこの"本心"の正体は、"私"と違わず宇宙の現象であり、どこから生まれたかといえば、縁起から表出したものになります。
厳密に縁起を紐解けば、論理も感情もあるのでしょうが、そういったものを意識しなくてもこうだと言えるくらい自明の思いが本心です。
ただ、この本心の声は非常にか細く、論理や(特に)感情の声は非常に大きいのです。
だからこそ私たちは、本当にやりたいことを見過ごして短期的・大衆的快楽に溺れたり、他社の論理(物差し)に迎合してしまいます。
しかしそれでは、せっかく様々な演技によって織りなされる"自分"が台無しなのです。
坐禅はドーパミンの刺激も、他者のそれっぽい論理も脱ぎ捨てて全くの純粋な状態に立ち返りますから、
素直に自分自身(本心)を表現する手助けとなるのです。
そんな思いを込めて動画では解説させていただきました。
お答えになっていますでしょうか?
とても良い動画で、深く感動しました。できれば、西田幾多郎の哲学の解説もお願いいたします。
とてもわかりやすく教えて頂きありがとうございました。
あるがままを受け入れ、
『本当はどうしたい?』と自分に問いかけていきます。
瞑想も続けたいと思います♪
禅マインド…の本も買いました😊
ありがとうございます。
ご視聴、コメントありがとうございます😃
楽しんでいただけたのであれば嬉しいです。
日々、本心の声に耳を傾け、素直に行動していきたいですね!
幸せになる勇気の一節に、
「対人関係は別れを前提として成り立っている」という言葉がありました。
出会いも別れも、縁起としての1つの現象に過ぎないと思えば、納得できます。どうしても別れは悲しいものですが、空ずることができたのなら、すぐに立ち直れそうだなと想像しただけでもわかりますね。
別れを前提に成り立つ、とは良い言葉ですね😌
別れの悲しみは、出会いの喜びと表裏一体である、と。
愛犬が亡くなった時のことを思い出しました。
『二つにならない、二つにしない』という境地を理解しているだけでも、
コルさんのおっしゃる通り立ち直る力も湧いてきました。
なかなか実践は難しかったのですが……😭
夏月さん、今回も素晴らしい内容で心魂がゆれました!誠にありがとうございます。
「世界を空ずる、自分を空ずる」これが出来たらまさに悟りですね。人物事をJudgeせず、只、あるがままに見る事を意識したいと思います。「ありのまま」を味わえるようになりたいです。
コメントありがとうございます!
ほそまこさんがこの動画を通じて何かを得ていただけたのでしたら、大変嬉しく思います。
ご指摘の通り、僕たちは常に何かをジャッジしながら生きています。
その二次的な判断を手放し続け、あらゆる二元に一者性を見出すことに慣熟したいものですね😌
ありがとうございます
初めて拝聴させていただきました。ありのままに生きることが、人生を放棄することになりかねない誤解について、とても印象付けられました。ありがとうございました。
ご視聴、コメントありがとうございます🙇♂️
空を無と誤って捉えてしまうと、せっかくのその人の持って生まれた感性・個性が勿体ないですよね!
素晴らしい
自分が数十年前に悟った時の状態をわかりやすく言語化されていて、非常にためになりました。ありがとうございます。
ロジックの飛躍なのか誤解なのかと。なんの為に言葉があるのか、実態の概念としてある。「空」も存在としてある「有」である。つまり全ては存在としての概念が言葉となる。悟りは迷いの対義語であり。無我には迷いもないが悟りもない。
つまり現世があっての境地、言葉なのた···etc。
@@髙橋保郎 コメント、ありがとうございます!
とてもわかりやすくて楽しく聞けました!
学びも多くて繰り返し聞きたいと思います。ありがとうございます✨✨
Octoberさん
お楽しみいただけたとのことで、嬉しく思います!
何か苦しみや迷いが生じた時、立ち返る知恵の一つとして
お役立ていただけますと幸いです。こちらこそありがとうございました!
言語化が素晴らしい…禅について学んできましたがより解像度が上がりましたありがとうございます
ご視聴・コメントありがとうございます。
大好きなテーマなので、筆舌尽くしました。笑
お役に立ちましたなら、製作者として嬉しく思います😄
連続して2回観てしまいました!
悟りと言うと、昔は厭世的な諦めのことかなと思っていましたし、最近までも何にも執着せずあるがままに…とぐらいまでの理解をしていましたが、今回の動画で「怒らないのではなく、怒るけれど、怒りに囚われない。それを味わい、ただ行動する。」「スポーツで言うゾーン」という概念で新しく考え直すことが出来ました。有難うございました。
話は飛びますが、最近読んでいた「ちひろさん」という不思議な魅力のある漫画があるのですが、その魅力が何なのか言い表せなくて考えていたんです。今日、それは「悟り」かも知れないと動画を観ていて分かりました!
ご視聴・コメントありがとうございます!
二回みていただけたとのことで、お役に立てる情報をシェアできたのであれば嬉しく思います😃
・理想とは、努力の先の5年後、10年後の姿ではない。今日、今ここに完全に自分を顕すことある。
・本当の幸せとは、幸福な時も、不幸な時も、常に側にあって私たちを勇気づけてくれる。
こういった考え方は、僕たちの生活を根幹から支えてくれますね。
『ちひろさん』、読みました。
達観しているようで、俗っぽい一面がある。芯があるが、時折脆い。
けれどもそういった二元論を超えた美しさがある。生き様の芸術性を感じ、好きになりました😊
まさにご指摘の通り、「悟り」や「無為自然」を感じますね!
貴重な情報をありがとうございます🙇♂️
私は近年、自分の死について考えることが多いです。そして、死後、自分の魂はどうなるのか、死後の世界はあるのかないのか、またどうなっているのか、もう四五十年も前からいろいろ本を読み、考えて来ました。その呪縛からなかなか逃れられませんが、この動画をたまたま見て、何かすっきりするものを感じます。何度か見直して、学び直して、生きている今を大事にしたいと思います。ありがとうございました。
ご視聴・コメントありがとうございます。
興味や関心というより、呪縛という感じなのですね。
新しい見方・考え方をご提供できたのであれば、嬉しく思います。未来や過去に囚われて、今を損なわないように生きたいですね😊
まだ動画を作っているなら、自由意思やワンネス、非二元ノンデュアリティなどの動画を作ってくれたら嬉しいです。
おーすげー解説いいな。うまいし的確
悟りが何であるか?
をこんなに明確にスーッと消化できたのは
初めてです。
他の動画も楽しみに見させていただきます。
anju19aあんじゅさん
ご視聴、コメントありがとうございます!
”悟りの哲学”を身近に感じていただけたなら幸いです。
実践的な思想解説を主軸に発信を続けて参りますので、
今後ともよろしくお願いします😊
クリシュナムルティが更に正確に陳述しているように思います。。
とても腑に落ちました! あとは実践あるのみです!
そして……藤井風って梵我一如についてしか歌っていないのだと改めて思いました。今の若者はすごいと思っています。
こんばんはーこの難解なテーマを分かりやすい解説 ありがとうございます
とても解りやすかったです 僕は男ですがとても 響きがいい声で
聞きやすい 耳にやさしい声ですねー 特殊な才能です 他の解説も聞きました
中村天風先生はすごいですねー お見事と言うしかない これぞ漢だ
ネバーランドさん
ご視聴、コメントありがとうございます😃
とても嬉しく、励みになります!
今後とも哲学・宗教・社会思想について掘り下げていきますので、
ネバーランドさんのご興味に合えば、お付き合いいただけますと幸いです😊
@@therationalist6422 お忙しい中返信メールありがとう御座います感謝 感謝です 大好きな
テーマなので興味深いです
又おじゃまいたします(^o^)
夏月さんは覚者ですね。
「悟りとは何か」の話ができるのは覚者、その話が分かるのも覚者!!!
短歌を詠みました。
『 いまここは 心の中の 世界なり
空に住して あるがままなり 』
まなさんのエピソードから、「賢さに歳は関係ない」という事実が確認ですました。ありがとう!
それは本当に痛感します…。
芦田さんは、大変な読書家だそうですね。
体系的に学ばせていただきありがとうございました。自分の中でより理解が深まったのではないかと思っています。パニックからの脱出方法、クムバク、心身統一そして瞑想することで、われらと衆生とみなともに悟りの道をゆかんとするものの一人でいたい。
久原さん
こちらこそ、ご視聴いただきありがとうございます! すごくお詳しい方だとお見受けします。
この領域を学ぶことでセルフコントロール力を高め、優しい人格を磨いていきたいですね☺️
二十分から最高じゃん
参考になります。ありがとう!
社会の現実を改革しなければならない。戦争を失くさなければならない。
仏陀は悟りの時に過去のすべてを思い出したと述べています。
ここから考えられる悟りとは、本来の自分を思い出す、永遠という過去の自分に帰る、と考えられます。
記憶がよみがえるということは、持っていた能力も、よみがえることを意味します。
昔取った杵つかということわざがありますが、そういうこと。
仏陀はたくさんの奇跡をおこしています。仏として本来もっていた能力がよみがえったから可能になったといえるでしょう。
長文の返信、誠にありがとうございます。夏月さんの動画に批判的なコメントをしたのは、私の空概念が縁起説や無我説、不変で主宰的なものはない、と強く結びついており、善悪の問題とあまり絡んでいないからだと思います。また時空を超えた善悪はないという動画の論調は当然ニヒリズムを連想させます。私は、善を問うことは時代や国を超えて永遠不変なものだ、というレオ・ストラウス、自然法思想、イデア説に好意的なので、善悪相対論的なものには批判的、という理由だと思います。
ただ夏月さんの動画の主旨は今の自分の凝り固まった善悪を乗り越えるにあると思われますので、動画の空概念の説明は適切です。おっしゃる通り次元が違う質問でした。
重ねて長文の返信ありがとうございました。ますますのご活躍を楽しみにしております🙇
はじめまして💕🐾
登録しました。😀
少し難しいのですが
繰り返し聞かせて頂きます👍️スピリチュアル的な事大好きです。
ありがとうございます
ココアさん
ご登録ありがとうございます!
これからもどうぞよろしくお願いいたします🙇♂️
思考は、凄く速いと聞いたことがあります。芦田愛菜さんレベルだと、それを捉えて、「◯◯だから、こうなる」と自分をきちんと見つめながら、正しい行動に持っていけると思いました。 思考を見つめて、思考を捉えられる方だと思いました。
ご視聴ありがとうございます!
思考を見つめて、思考を捉えられる、というのは良い表現ですね。
思考と一体化していると全てのものが問題に見えますが、一歩引いてメタ認知ができれば、景色はガラリと変わりますし、自己の行動変革もずっと容易になりますね😊
よくわかりました。文章が展開されているのでそこで止まって考えられるのが便利でした。受動意識仮説を提唱されている前野隆二教授の本にも同じことが書かれていて、結局そういうところに落ち着くのかって感じです。他の動画もみてみます。ありがとうございました。
悟り
あるがまま…
空…雲のように生きる
ありのまま…?
良い~悪い~もない
瞑想
「本当はどうしたい」
自分をみつめる?
瞑想は簡単で気持ちいい。なのにすぐにやめてしまう。その理由に気がついたことが瞑想よりも大切だった。考え事中毒なんですよ。
とても鋭いご意見ですね!
考え事中毒には、考えることで安心できる側面と、考えることで行動を先送りにできる側面がありそうだと感じました。
おめでたい。
悟りとは本心に則ってやるべきことをやり続けてるその状態でしょうか?
それとも一度それをやり続けられる人になったらずっとやり続けられる人=悟った人になれるということですか?
でもその人がサボったらまた悟ってない人に戻りそうですし
人間、たまにサボる時期があったりするものだと思うので、やはり一時的な状態じゃないですか?
どうなのでしょうか?
悟りとは、純粋にそれ自体であることを指しています。
何かきっかけがあってスイッチが切り替わり、目に見える世界が一変する、というような話ではないですね。
全ての行為を純粋に行い続けられるなら悟っているといえますが、頑張って純粋になろうとする姿勢ではそれは無理です。出来た出来てないの判断をしているのは、『悟りに囚われている』状態です。
行為全般に二次的な思考、二元的な判断を持ち込まないということを深く理解する必要があります。
だからこそ、『ただ純粋に坐る』という行為に、ただ純粋に生きることのヒントが詰まっています。釈迦が坐禅をしたのはまさにこのポイントに立ち返るためです。
できるできない、頑張るサボるの二元論を脱し、『ただ行う』。悟るか悟らないかの二元論を脱し、喜びと苦しみの二元論を脱し、自らの心のままにただ生き、その全てを味わう。そうしたあり方に心から気がつく。これが悟りを得るということです。
…というのが、色んな僧侶の方の教えから学んだことです!😊
@@therationalist6422 お返事ありがとうございます。
そうしたあり方に心から気づき、悟りを得たとしても、その人が悟った人とはならないという事ですか?
悟りとは理解のようなもので、悟った人、悟ってない人と二元論的に言うような言葉ではない、
であれば悟りを心から理解した人も、常に悟りの中にあるわけではないということでしょうか?それとも?
逆説的ですが、悟るということは、悟る、悟らないという二元論の消失を指しますので、悟った人は自らを悟っていると言うことはできません。
また、悟った人を外部から観察して、悟っていると証明することもできません。
よって悟った人は常に悟りの中にあるのか?という悟りの状態について問われると、原理的に誰もその質問に正確に答えることはできません。
というのが杓子定規な回答になりますね。
ただ、一応、私の個人的な現実目線での回答を記載します。
悟りを経験した人も、悟ってない状態(分別知)に戻ることはあると思います。(我々もかつては赤子で、無分別知の境地にいたはずですから)
ただ、無分別知をロジックでも体感でも理解していて、そこに自在に立返ることができること。これが現実的な悟りの在り方であると考えています。言わば、人生に対する究極の集中力みたいなものです。いかがでしょう?
@@therationalist6422 ありがとうございます。ということは、現実的なところでいくと、やはり悟っている状態、一時的な状態ではありませんか?動画内でも仰ってますが、スポーツにおけるゾーンも一時的なその状態ですよね?
その状態をできるだけ長い時間保っていられる人を悟ってる人ということではないでしょうか?
ちなみに赤ちゃんは悟ってると思いますか?
更問いありがとうございます!
無分別知の状態を悟りと定義するのなら、一時的と言えますし、無分別知と分別知を自在に行き来できることを悟りとするのであれば、一時的ではないと言えると思います。私の解釈では後者のイメージです。
赤ちゃんが悟っているか?という問いについても、無分別知の状態にあるか?という話ならYES、分別知と無分別知を自在に行き来できるか?と言われるとNOだと思います!
道元禅師は言われる。
「そもそも真理とは、どこかに隠されているものではない。眼に映るすべての存在が、余すことなく真理を表現し尽くしているのであって、修行や悟りなどといった事柄を考える以前に、真理はあたりまえに世界に溢れている。その大自然の理法を感じ取ることに、特別な技法など必要ない。塵や汚れを拭き取るように修行を続けなければ真理と出会うことはできないと考える人は多いが、そうではない。また、真理とはどこか遠くへ求めなければ得られないものと考える人もいるが、そうでもない。今自分がいるこの場所で十分なのである。特別な修行の末に、真理という名の悟りがあるのではない」と。 これこそが悟りではないか。
大変面白かったです!ただ「(アートマン=自分が)認識するもの自体を認識できない」というところがまだ理解できてません。それと「認識できた場合、別のアートマンがでてくる」も全く理解できません。どういうことでしょうか?
ご視聴ありがとうございました😃
補足説明させていただきます。
まず、認識する、というのは、認識主体と客体があって初めて成立します。
よって、認識主体が認識主体を認識する、には原理的に無理があります。
物理的な例で言えば、右目で右目を直接見ることが出来ないのと同じイメージです。舌で舌の味が分からないように、右手の親指で右手の親指に触れられないように、アートマンもアートマンを直接認識することはできません。
ここで仮に、無理やり『右目で右目を直接見れた!』と仮定しても、見ている時点で、見る右目と見られる右目が存在することになってしまいます。
ましてアートマンには指や目と違って実体がありません。他者からも、自分自身でも、観測できず言い表せない。よって、『〜ではない』としか言えないものになります。
こんな感じなのですが、いかがでしょうか?
ああ、自分が自分自身を認識できないっていうことですね。そりゃそうですよね。わかりました!細かい説明をしていただきありがとうございました。話がちょっとそれるのですが、数年前に夜中に一人で路上を歩いている時、自分の心のようなものが自分の身体を操作して自分の身体というものを動かしている(歩いてる)と感じる時があり、ロボットを操作しているようで面白い気分になったことがありました。
私を苦しめているのは、無明だからです。無明で無くななれば、悟りに近づき、苦しみや悩みが軽減されます。無明とは、真理を知らずに生きていくことです。
ご視聴、コメントありがとうございます😃
四諦的なアレですね!
初めましてノラネコの小倉です🐈
先生の東洋哲学解説シリーズ👈拝聴して大いに好きに成りました。実は私は以前は西洋カブレだったのですが、今では西洋より東洋哲学の方が失礼ながら上位?と言うか、身近に感じます
ですのでこれからは東洋哲学を学びたいと強く思います。大変恐縮な質問ですが、東洋哲学の学び方のイロハのイを教えて頂けませんでしょうか?👈
何分東洋哲学は広く深い世界です。
とても素人が手を出す世界では無い事は分かってますが、大変魅力的な世界ですし、真の人間を模索するには是非共その教えを知りたく思います。斯界の学びの順番を教えて下さい。感謝💐
ご視聴、コメントをいただきありがとうございます😊
”素人が手を出す世界ではない” なんてことはありませんよ!
真剣に人生に向き合うノラネコさんの姿勢は尊いです。ぜひ一緒に学んでいきましょう!
僕も学者ではありませんので、あくまで僕の個人的な意見として、
ご質問に回答させていただきます。
まず、僕はノラネコさんの『東洋哲学を学ぶ』というお考えを、
『梵我一如を理解・体現しながら生きるための自己研鑽』という意味合いで解釈いたしました。
(あっていますでしょうか?)
それを実践する手順は、僕の考える限り以下の2点です。
①インプット:(最低限の)知識を学ぶ。
②アウトプット:日常生活で梵我一如を実践する。
重要なのは、インプットとアウトプットのバランスだと考えています。
歴史や用語にどんなに詳しくなっても、
哲学者(哲学に”詳しい”人)になるだけで、哲人(哲学を”する”人)にはなれません。
学びを実践し、自分・他者・世界をより良くしていくのが哲人です。
『学ぶ者は、”哲学者”ではなく”哲人”を目指すべき』というのが僕の自論です。
<インプットに関して>
正しい知識は正しい理解を助けますので、良質な情報の摂取を心がけたいですね。
第一歩としては、ぜひこの動画シリーズをお役立ていただければ幸いです。笑
ステップアップとしては、ぜひ本物の思想家の書いた書籍を手に取ってみていただければと思います。
禅思想の大家である『二人の鈴木』こと、鈴木大拙氏と鈴木俊隆氏の本はお勧めです。
『禅マインド・ビギナーズマインド(鈴木俊隆)』:amzn.to/2Z89rWE
『禅(鈴木大拙)』amzn.to/2Z8Dvl7
僕も擦り切れるほど読み込み、好きなページだけ裁断し、縫い合わせ、オリジナルの本を作りました。笑
大拙禅師はちょっと難解ですが、俊隆禅師の本は『禅の思想の体験的理解を促す』という点において、
途方もない完成度を誇り、正直これを繰り返し読むだけでもOKなレベルです。
より噛み砕いて、面白く説明して!ということであれば、
同じく動画参考書籍としてご紹介したこちらの本が良書です。
『史上最強の哲学入門(飲茶)』:amzn.to/3DYwvWC
梵・我・縁起・涅槃・悟りといった言葉について、
自分なりの言葉で解説し、具体例をあげて説明できるのであれば、
知識面はそれで必要十分かと思われます。
<アウトプットに関して>
坐禅をお勧めします。
なぜなら、坐禅は梵我一如を体感+体現する最も手っ取り早い方法だからです。
(すでに実践されていたらすみません)
これについて、簡単に解説いたします。
まず、坐禅の姿勢は、実際にその姿勢をとってみればおわかりいただけるかと思いますが、
人間の活動を最も制限しつつ(息をする以外にできることがない)、
同時に精神を覚醒させる(ざっくり言えば寝落ちしにくい)姿勢です。
この姿勢をとれば、人間は『純粋に存在する』か『妄想する』しかやることがなくなります。
ここで、呼吸に意識をむけ、息の動きだけについていくことができるなら、僕たちは存在として純粋です。
足すことも引くこともない、ありのままの状態であると同時に、
あらゆるものをあるがままにしている『梵我一如』の体現者となります。
つまり、その時僕たちは悟っています。
悟りを得ること自体は、正しい理解さえあれば難しくないです。
問題は、その後常に悟りと共にあること。
坐禅の時の心持ちを、日常生活のあらゆるシーンで実践できるようになるなら、
人生の幸福も不幸も味わうことができる、本当の幸福に気づくことができます。
息の代わりに、今なすべきことにただ集中する。
偏りを持たず、執着せず、常に自分の『ホームポジション』に立って、全てと接する。その繰り返し。
それが僕たちの修行です。
まとめると、東洋哲学を学ぶ第一歩は、『本を読み、坐禅をしよう!』になります。
ご回答は以上です。ノラネコさんのお役に立てれば、嬉しく思います。
@@therationalist6422 さん
こんにちは。
とても分かりやすい説明を、ありがとうございます!
前々からの疑問ですが、よく悟りについて語られている方が、こちらの夏月さんのコメントに書かれているように、
「人生の幸福も不幸も味わうことができる、本当の幸福に気づくことができる」とおっしゃいます。
「人間の不幸も味わうことができる、本当の幸福」とは、どのような意味での幸福なのでしょうか?
通常、人間は不幸を味わうことが本当の幸福とは感じられないと思います。もしよろしければ、どのような感覚なのかを教えていただけると嬉しいです🙇
soleilさん
コメントありがとうございます。
不幸を幸福と感じるとは、これいかに!?というポイントですね。
どういった感覚でいれば、こう感じるのか。僕なりの解釈で、要因となる2つの考え方を挙げさせていただきます。
一つ目は、『時間軸を伸ばして考える』ことです。
宝くじが当たったのちに、友人・家族に騙されたり、殺されたり、あるいは金銭感覚が狂って破産する人は少なくない。
また、仕事上の死ぬほど辛い経験が糧となり、その後の大きな成果につながるケースもあります。
ある一瞬感じた幸福が、のちの不幸の始まりだった、というのはよくある話です。あるいはその逆も然りですね。
今の出来事が幸か不幸かは、その後の未来によって決定されます。今の不幸も、将来振り返った時に、幸福だったと思えるよう頑張ろう。こう思えると、不幸な出来事は全て幸せの糧にすることができます。
もう一つは、こちらの方がはるかに本質的ですが、『幸福も不幸も存在しない。ただ味わう』というスタンスです。
ある禅師の言葉に、『東に1マイルいくことは西に1マイルいくのと同じ』という言葉があります。これは非常にわかりやすいですね。東も西も、人間が勝手に後から足した概念です。幸福と不幸もそう。人間が勝手にそう思い込んでいるだけ。起こっていることは、変化した、という事実のみ。万物は変化します。諸行無常です。
そして、僕たちの存在の実体は、変化する肉体でも精神でもありません。アートマンという認識主体です。これは動画で解説した通りです。肉体や精神といったスクリーンを通して、変化をただ味わう”何か”です。
映画の主人公が不幸な目にあった時、僕たちは悲しみます。しかし、自分の人生、もう終わりだ、とは思いません。これと同じです。”変化を味わえること自体”が本当の幸福だ、と感じられるかどうか。この境地に一瞬でも至れるなら、本当の幸せは常に私たちと共にある。これが仏教的な考え方、感じ方になります。
ご参考になりましたら、幸いです😊
@@therationalist6422 さん
お返事をいただき、ありがとうございます!
なるほど…塞翁が馬、幸・不幸は、確かに未来によって感じ方が変わったりしますね。私もそのように感じたことがあります。
また、変化を味わえること自体が幸福という、、このような境地を感じられるようになりたいものです…
今後も、夏月さんの動画を参考にさせていただきますね☺️
意味づけ世界の住人同士は、やはり、その行為自体にも意味づけし続ける行為者。
その中で生じるトラブルも意味付けされたもの。
その世界が本質かどうかという解放によってストレスをなくせる人はもう悟りの境地でしょうか。
空は空っぽでは無いってことですが、別な面から言うと、空間そのものってことのようです、つまり全てであって全一ってこと、その中で在るがままであると、
悟りって内外に分裂してた自己が、認識主体に全一になることだと云えると思います、ヨガではカイバリヤ(独在位)って言うようですが、まあその分裂から全一に切り変わる瞬間が悟り体験であって、悟った後に悟りは無くなるんで、無であって空として全一な存在になるんだと思います。
苦しみに言葉が関係したり、アートマンを何かと同化させたり、ブラフマンを思い込みで切り取ったりすることによって生じるのなら、 赤ん坊や動物はどれだけ虐待されても苦しみを感じないはずですね?
と質問されたらどのように答えますか?
コメントありがとうございます。
赤ん坊・動物でも痛みも苦しみも感じます。痛覚があるからです。ただしそれは感覚器官による物理的な反応、一次的な痛み苦しみであり、言葉がないので分別知が産む二次的な痛み苦しみはないと言えそうですね。
私は赤子の頃の記憶はなく、動物になったことがないのでホントのところは分かりませんが…。
本来の悟りの境地と比べるとかなり抽象度は低いですが今の世に悟れる人はいないので現代社会の悟りの解釈はこれくらいが丁度良いのかなと思いました。
ご視聴・コメントありがとうございます。
きっとお詳しい方なのですね!僕もまだまだ勉強中です…🥲
とても分かりやすい解説で良かったです。ただ、東洋哲学を梵我一如や空や悟りの概念で代表させるのはおかしいと思いますが。
また、スポーツの例がありましたが、あれはフローやゾーンと呼ばれますが、悟りとは違うのでは?
あと、仏教哲学は瞑想の実践を通して気付きを得ていくこと無しに理解する事ができない事をもう少し強調して頂けたら良かったと思います。
コメント、ご質問ありがとうございます。
フロー・ゾーンは行為との一体化の例としてあげました。悟り≒無分別知とした時に同じ、という意味合いでした。
分別知と無分別知の自由自在の境地を悟りとするなら、この文脈ではご指摘の通りです。
説明がクリアカット過ぎて解脱しました
ありの〜ままの〜姿見せるのよーは
本心にそって姿見せるってことだったのかな?
本心(本当)の姿
ご視聴・コメントありがとうございます😄
あれはディズニーテイストのお経だったのかもしれませんね 笑
最初自分はありのままを都合悪いこともそのまま受け入れた上で自分を見せる風に認識してしまっていたけど実は自分の嘘や偽りのない本当の気持ちに正直になるってことだったんだね(。-`ω´-)ンーアッテルヨネ?
あってます!
初めは『なされるがまま』として、受動的に自分の置かれた悲劇的状況を『受け入れる』。
しかし、その後は『あるがまま』として、主体的に自分の置かれた状況を進んで『引き受ける』。
その上で自分を素直に表現するようになる。
東洋の仏教においても、西洋のサルトルの哲学においても、
この『受動的→主体的』への自己変革こそが、人間の理想的な生き方の第一歩とされています。
流星ライトさんのご指摘の通りです☺️
ありがとうございますm(*_ _)mそんな風に褒められたのは初めてです( ◜︎◡︎◝︎ )
僕は30年余りこの日本に住んでます。もともとアメリカ人であることですが、今曹洞宗の僧侶になっております。こういうような動画をを何回も見たことあるのですが、すべて悟りということを勘違いしております。まず悟りと言うことをわかると思う人は必ず間違えてます。2つ目は、人によって悟りの意味は変わってくると思います。悟りとか空とか言葉だけで理解するのが無理だと思います。理解する方法は1つだけだと思います。それは修行でございます。
修行による理解も修行による理解にしかすぎません
それもある種の勘違いなのです
天然自然の法則を知ることだ
一つ、御教示頂きたくコメントさせて下さい。
最近ようやく、結跏趺座で瞑想をしています。それにともない、脚の痺れが気になり囚われてしまっています。脚が腐るのではとか(そんな長い時間でもないのに)、恐怖の感情まで出て来る始末www
半跏趺座に戻るのがいいのか、結跏趺座でその心すら空ずる方がいいのかアドバイスを頂けると幸いです。
その決断しなければも、囚われているということですかね…どちらでもいいということですか… 結論出たか?!www
コメントありがとうございます。
そのお気持ち、よく分かる気がします。
結論から言えば、結跏趺坐で始めて、辛くなったら半跏趺坐なり、他の坐り方に切り替えるのが良いと思います。
絶対に結跏趺坐でやらなければ坐禅ではない、なんてルールはありませんので、ご自身の体調、柔軟性に合わせて体勢を選択されるので問題ないと思います。
結跏趺坐は慣れれば最も安定しますが、慣れるまではご記載の通りの辛さはあります。
ただ、できないからといって悪いことは何も無いですし、できたからといって何も偉くはないです。坐りやすいからその姿勢をとるだけ、とれるよう身体を柔らかくするだけです。
痛みや心をコントロールしようとしたり、我慢しなければと考え始めると坐禅はおかしなことになります。
慣れるまでの過程、無理せず足首をストレッチしつつ、あまり気にせずに坐禅を味わわれるのが良いのではないでしょうか。
ご参考になれば幸いです😊
@@therationalist6422
ありがとうございます!とても参考になりました。
そうですよね、変えてもいいんですよねw
座禅を始めたら動いてはいけない、と勝手に考えていた自分に気付かされました。
明日からの座禅が、より楽しみになりました😄
アップされて下さってる動画のみならず、素晴らしい教えを頂き、ホントに感謝しています。
ひと昔前では想像も出来なかったこの恵まれた今を、味わいつくそうと思います。
暑い夏が続いておりますが、どうぞ御自愛なさって下さい。
ありがとうございました🙇。
悟りとは神の世界、意識を信じで知ることとも言えます。
この世に生きてるのは仮の自分だと分かる事です。
本当の自分は神から流れる魂の欠片の自分を探す事です。
空とは物質世界に囚われない心(魂)を見つめる事です。
そのためには坐禅があります。
うーん。
「悟った時、悟った人はいない。」(ラメッシ・バルセカール)
だから、認識から悟りに接近するのは、入門編なんじゃないかね。
異次元から意識の操りが全てと気づくこと
コメントありがとうございます!
そうなのですか!?
異次元のことはよく分からず、すみません🥲
「ありのまま」という言葉が気になりました。まるで、「ありのまま」なる実体があり、それを知れば「悟れる」というふうに語っていらしゃった、と思います。でも、「空」とは、「ありのまま」のような実体はない、ということを自覚することではないのか、と私は思っています。
失礼な言い方かも知れませんが、私には、宗教を功利的な側面から見ておられ、思想としての側面からは考えておられないのではないか、という印象を持ちました。
コメントありがとうございます!
ありのまま=空=実体なし。私もご記載の通りの認識です。また、そのつもりでお話しましたが、伝わっていなければ私の力不足ですね🥲
貴重なご意見ありがとうございましたm(_ _)m
という色を聞いた
何千年も前の人が解明した哲学を今も実践できない私が、人類が悟る時が来るのだろうか
我々は只、在る。まるで自分の意思で大統領や宗教の宗主、名も無い奴隷、サラリーであるかの様に生きるが、全て同じ只の一つの種である事に気付いてない。
ありがとうございましたm(__)m
こちらこそありがとうございます! もし何かしらのお役に立てていたら嬉しいです。
何回も拝見してメモさせていただきました!凄くパワーをいただけました。
過去動画もこれから拝見させていただき勉強します!!
このチャンネルに出会えたことに感謝です!!
仏様の悟りを知る事が凡夫の悟りである 自分で悟ろうとする者は迷走するだけで、けして苦しみの枠から出る事は無い 自分の本心を知る事も人生では大切な気づきの一つだが自分の枠内には変わりない (動画主様へ 難しいお題とは重々承知致しております。仏道を通る方の為に、コメを残しました。 有難う御座います。)
四法印を真理と気づければ、悟りです。解説は簡単ですけど、気づける人はなかなかいない。空の解説は間違えていると思います。空とは、諸方無我を理解出来れば、空を理解できると思います。
凄いです…やっと瞑想をする意味がわかった気がします。
「二元の一者性」という話がありましたが、アドラーも同じような見方をしています。意識と無意識は相反するものではなく、同じ方向に向かって一緒に働くものだといいます。
また自分の良いところも悪いところも認める「自己受容」が幸せにつながるともいいます。そして「ありのまま」の自分の存在によって貢献することこそが、幸せなのだと。
まさに、アドラー心理学のなかに空の思想があったということですね…。
アドラー自身は瞑想はしていませんが、後継者のなかにアドラー心理学と瞑想を組み合わせている人もいます。
雑念が浮かんできてもそれを受け止め、ただ呼吸に意識を集中する…たしかにその練習をしてれば、対人関係の悩みはなくなると予想できました。
アドラー心理学と東洋哲学って親和性高いですね…!片方がわかれば、もう片方の理解がとても進みます。
コルさん
ご視聴・コメントありがとうございます。
お役に立てたのであれば光栄です☺️
『片方がわかれば、もう片方の理解が進む』というのは、本当にそうですね。人間について考え抜けば、深いところであらゆることは繋がっているのだな、と思わされます。
アドラーさんに瞑想の習慣はなかったんですね、結構その辺りこだわりそうなタイプなのに、意外でした。笑
アドラーの幸福の3条件(確か自己受容、他者信頼、他者貢献…でしたよね?)について、言われてみれば『人間のありのままの姿そのもの』なんだなぁ、とコメントを読んでしみじみと感じ入りました。
貴重な学びをありがとうございます😄
さて経文によると、仏陀に対し一人のバラモンが問いました。「そうはいっても悟りを開いたあなたといっても全く怒らない、少しも腹を立てないということはないと思います。」、と。しかし仏陀は答えました。「わたしが腹を立てる、怒るといったことは全くない」、と。すなわち「怒るけれども怒りをちがって捉える」などという説明は間違いであると経文は説きます。
昨今LGBT法案なるものが可決されました。キリスト教の道徳観に挑戦する新たな価値観だとかそうでないとか。性犯罪を助長するかもしれないこの法案は東洋哲学的にはどうなんでしょうか。あるがままに受け入れるだけで良いんでしょうか?
理想を言えばだが、山上容疑者は鬼とならずに至近距離から空砲を鳴らせばよかった。
あの境遇でも怒りに負けない自己を表現できれば究極の悟りの境地であり、悪人どもはグーの音も出なかっただろう。
言葉が多くて凡人には分かりにくかったです。「空」とは何か、「悟り」とは何かさっぱりわかりませんでした。言葉に魂がないようです。「あるがまま」が分からない、なぜ二元論が否定されるのかわからない、物事の本質が「空の世界」というのが分からない、「あるがまま」は空ではないように思えます。人は理屈で行動しません、感情に従って理屈を作って行動するだけのように思います。
般若心経を説明してくださるともう少しわかるようになると思えますのでお願いしたいものです。
一つ質問があります。世界に善悪は本当にないのでしょうか。人を殺して快楽を感じる人はいないでしょうか。いれば空とばかり言っていられないのではないでしょうか。私は仏教徒ですが、空はまだ理解できません。
ご質問ありがとうございます。
以下、私見ですが、回答させていただきます。
①世界に善悪は本当にないのか?
元を辿れば(仏の視点で見れば)、善と悪は存在しません。
あると感じるのであれば、それは私たち人間がその概念を仮置きして、それに私たちが合意しているからです。
しかし、どこまでいっても、私たちが日頃用いる善や悪の概念は、ある”人間”が一つの視点から事象を見て考えた解釈でしかありません。
例えば、野生動物(自然災害に置き換えても良いですが)は人間を殺めることがありますが、人の作った善悪の概念が人にしか通用しないことの良い例ではないでしょうか。
②人を殺して快楽を感じる人がいれば、空とばかり言っていられないのではないか?
人を殺して快楽を得る人間は、実在するかもしれません。
しかし、そうであったとしても、”空”とはあまり関係がありません。
問題の次元が異なるためです。
空とは、世界の見方であり、あり方です。
意味づけを離れた世界のあるがままを知覚し、自身が世界そのものであと気づくことです。
仮に、人間的な文脈で、絶対的な悪に見えるような存在があったとしても、空は空論にはなりません。万人にとって価値ある”あり方”だと私は考えます。
空と意味付けの世界は、どちらか、ではなく、両立し、どちらも大切です。
なぜ”空”がそんなに大切か。
それは、意味付けの世界=苦の根源から人間を解放し、幸福な人生を全うすることを助けてくれるからです。
例えば、人を殺して快楽を感じる人も、戦場で敵兵を1,000人殺せば正義であり英雄です。善悪は解釈に過ぎませんので、このように時と場合によっていくらでも転倒します。マスメディアがそうするように、見方を変えれば、善悪、幸不幸はいくらでも操作できます。
そして人間その人自身が、事象に意味をつけては一喜一憂して生きています。
意味付けの世界しか見えていないと、こうした意味の不安定さに死ぬまで翻弄され続けます。
これが苦しみであり、意味付けこそが苦しみの根源です。(詳細は動画で解説した通りです)
空は、こうした意味付けのトリックから人間を解放します。
意味付けの世界の中に生きていても、本質が見えているから、あらゆる仮置きの概念の実態が虚ろなことに常に気づいていられます。だからこそ、仮置きの概念から距離を置いて、0ベースで考えることができます。これは、空を理解した上で意味付けの世界で生きることの大きな強みです。
もちろん私たちは道徳的な善や悪、法律的な罪の概念(意味付け)のある社会・国(という解釈世界)に(合意して)生きていますから、善も悪もありませんと言って犯罪を犯せば捕まって罰せられます。
空は、人社会において概念としての悪人を許容せよ、という話ではありません。人社会の脅威は、人社会のルールによって然るべき罰を受けます。それだけの話です。
おそらく、『空と言っていられないのではないでしょうか』というのは、空のスタンス(善も悪もない)という状態で社会生活は成立しないのでは?という疑問だと思います。(違ったらすみません)
結論、善悪の概念や罪や罰の概念なしに社会生活は営めないと思います。
一方で上記の通り、概念世界とあるがままの世界は、表裏一体です。相反するものではありません。
お答えになっていますでしょうか?
要約力が足りず長文になってしまい恐縮ですが、お役に立てましたら幸いです😊
世界を分断し、対立させ、闘争へと導いているのは「言語=言葉」であると考えます。言葉による不正確で不明瞭で不完全な意味付けがこの狂った世界そのものです。トランプ前大統領は人の数だけ存在します。それは一人一人が勝手に脳で作り上げ編集したイメージに過ぎません。それなのにそのイメージを真実に格上げしてしまうので果てしない論争や対立という現象を作り出します。もちろん本当のトランプ前大統領は一人しかいませんが。言語が作り出す構造全てが虚偽であることの理解があるがままの一つの世界なのではないでしょうか。
こんな自分を誤魔化す生き方はイヤだなと率直に思います。自動車って客観的世界のなかで自動車として客観的に存在し労働生産され売られ、消費している。実在している。ヘーゲルなども飛んでいる矢は止まっていると同時にもうそこには存在しないから有ると同時に無いといった。無理がある。部品の集合体でもそれが自動車として機能するんです。想念としては注目しますがその想念を哲学として身につけ生きることは到底できない。
コメントありがとうございます。ウパニシャッド哲学〜禅に対する、非常に建設的でクリティカルなご意見だと思い拝見させていただきました。
僕も特に禅僧でも哲学者でもないので、18861954さんのご意見には概ね同意です。いかに概念として『空』を理解しようと悟ろうと、結局意味づけの世界で生きている以上それが何になると言うのか。車、あるじゃん、と。笑
ここについて、僕が好きな考え方が、『十牛図』(昔の人が書いた悟り漫画みたいなもの)における『返本還源(へんぽんげんげん)』と『入鄽垂手(にってんすいしゅ)』と言う考え方です。
端的に言えば、『悟ったらその後どうなるの?』という問いに対して、『悟って終わり、それがゴール』という旧来の考え方を否定し、『悟ったら、現世(意味付けの世界)で皆と幸せに暮らすのさ』という教えです。急に俗っぽいおっちゃん(悟った人)が出てきて笑顔で人と話す姿が描かれています。
これが何を指しているのか? 僕の解釈では、『意味づけの再選択』を表しているのだと思います。
意味づけのない世界を観ることができる人であるからこそ、どのような事象が起ころうとも、ホームポジション(無分別智)に立ち返り、意味づけを自在に選択し、この現実世界(記号世界・意味づけだらけの世界)で明るく楽しく生きていけるし、それを人にもシェアできるのだと思います。
無分別智の世界も、分別知の世界も、どちらか一方の世界を見るのではない。両方を同時に視ることができるから、自在に生きられる。これが二元の一者性だと思っています😊
@@therationalist6422 さん お返事ありがとうございます。二元の一者性などなるほどと思います。わたしは弁証法を志向しているのでこの考え方はスッと入ってきます。もともと仏教哲学は生々流転なんですかね、諸行無常なども抵抗ないです。当時からこのような思想をうちだしたのは驚き。
動画を再見しました。おもしろかったです。東洋哲学の歴史的価値がわかります。「縁起」「空」「認識主体」「梵我一如」「裏切られたのは勘違い、対象の見えなかった部分が見えること」「物事をあるがままに見る」「存在は一瞬の閃光」「二元の一者性」、、、ヘーゲルは東洋哲学を知っていたのかと思うくらいです。
わたしはヘーゲルを少し学び、マルクスを学んでいます。マルクスは東洋哲学の実践哲学ともいえるかもわかりません。わたしが学ぶ目的は賢者になりたいとかではありません。深刻な社会の矛盾があり、それをあるがままに見て、人間が不幸せになるその不条理な世界を改善する主体がわれわれだと思っているから学んでいます。原発や核兵器はどうでしょう。台湾有事が起こればアメリカといっしょに戦争し、中国に日本からミサイル攻撃をしかけるため、あらたな軍事費を事項要求合わせると6兆円を超えようかと。自衛隊員が少ないのに予算だけ投入され無駄になっている。国家予算は有効に使うべき、なぜ子ども食堂に1・5億円の補助金で軍事費は無駄に6兆円なのか?コロナ禍なのに対策をうたず自宅放置で国民を見殺している。わたし自身、生存要件を満たさない低賃金でこき使われてきました。毎日週四日ですが一日必死に働きました。でも生きていかれる賃金を一度ももらっていません。親に助けてもらっています。そういう社会で「生きさせろ」と闘っています。これも仏教哲学の言う「空を生きる」の実践ともとれるのかもしれないと考えています。
さいごに、このような哲学を語るひとはまわりにいません。みんな忙しいので哲学談義など疎まれます。あなたは「セルフコントロール」「対人関係技術」「哲学思想」など志向されているのですね、わたしとは方向性が違いますが参考になることも多いと感じます。またいろいろ教えてください。
@18861954 さん
弁証法と重ねて捉えられたのですね! 言われてみれば、『禅を修めて生きる』とは確かにアウフヘーベンそのものだな、と大変納得しました。貴重なご意見ありがとうございます。
ご記載の文章から、ご自身の生き方を、困難であろうともありのままに捉え、味わおうとされる姿勢を感じました🙂
更新ペース遅いですが、色々制作していきますので、ご興味があるコンテンツがあれば、また哲学談義しましょう! こちらこそ色々教えてください😊
左脳で学んでわかるものじゃないでしょ!悟ればいいんだよ。
「悟り」がそんな簡単なことなのか!
弥勒菩薩だって56億7千万年かかるんだぜ(笑)
梵我一如のはなしに仏陀を登場させると仏教側からクレームが来ますよ。ブッダは無我と言っているって、、、
助からない魂(><)
「どうすることもできんわな」 死んだ祖母がよく言ってました。
うーん、ツッコミどころがありすぎですね。
投稿主さんは全く悟りを理解していません。
そもそも悟りを特別なものだと思ってる時点で間違いです。
この世界はあるがままでしかない。
それを自分というフィルターを通すから、見え方が違うというだけ。
「あるがまま存在する世界」は自分というフィルターを通さないと認識できない(我しかない)ので、ありのままはどう存在しているか?は分かりようがありません。
世界を認識する自分がいる限り「あるがまま」なんてただの幻想であって「あるがまま存在する(であろう)世界」でしかない。
じゃあ一生悟れないじゃん、というとそうではない。
なぜなら自分は必ず「あるがまま存在する世界」の一部だから、ある意味では「常に悟っている」んです。
ここが分かっていない人が多すぎる。
ただ、悟っていることを確認できない(答え合わせをしようがない)、というだけです。
「悟りたい」というのはただの欲。
その欲が強ければ強いほど「アートマン(認識する世界)」は「ブラフマン(世界の理)」を歪めてしまうので、悟ろうとしない方がよほど悟り(いわゆる梵我一如)に近い状態になります。
要するに世の中にある「悟り」は単に人間が生み出した欲望でしかないということです。
修行なんて必要ありません。
なぜ修行をするの?→悟りたいから
その時点で本当の悟りとはかけ離れています(悟りようがない、というあるがままの事実を受け入れられていない)
私たちは死んだ時に必ず悟れます(あるがままになる,という意味で)。
生きているうちに本当の意味で悟る(梵我一如になる)のは不可能です。
梵我一如はただの幻想でしかありません。
だって、本当の悟りは「梵」と「我」に区別がない(梵しかない)からです。
どこまで悟ったか?は自己満足の世界でしかなく、本当に悟った人は悟ることすらどうでもよくなるし、どう足掻こうが「あるがままでしかいられない」と理解しています。
梵を誰がどう認識しようがどうぞご自由に…。それが本当の悟りです。
本当の悟りは全く魅力的ではないですよ。
だってあるがままでしかなく、一切の人間らしさや脚色もないんですから。
@user-mg7sy6tw1o
植物人間はインプット(感じること)ができる状態です。
考えられる(かもしれない)時点で煩悩に惑わされる可能性はありますね。
芦田愛菜ww
これは違います。長部経典を読めばこの解説が違うことがわかります。長部経典Ⅰを読んでください。仏陀はそのように悟り/解脱を説明していません。私達がするべきことは仏陀が長部経典に解いた解脱するための方法を実践するだけです。
他の動画をみて、よく纏めたなと思ってチャンネル登録まで致しましたが、この動画を見たらショックを受けて落胆しております。ぐちゃぐちゃです。反論する気力も起きないくらいでした。