Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
お話、楽しかったです~❗忠勝さま、ホントかっこいい。惚れました。
0:42 流れ弾で高評価を抜粋して「そんな本多忠勝と並び称される立花って誰?」と興味を持たせる事による今後の立花大河実現への支援。
秀吉が小田原征伐で2人を引き合わせたのは、小牧長久手以来余程忠勝を家臣に欲しかったんだと思うのですが、知り合って共鳴したのか、どちらかを主人公にすると片手落ちな感じになってしまいそうです。
@@もぶえじ 直臣の大名と陪臣という差はあるとはいえ親子程の年齢差というか実父が自分と同じ年という若造と並び称されるのって素直に喜べるのかってところは疑問でもあるし忠勝というか徳川サイドが主人公だとまあ無さそうではありますが、それを喜べると忠勝の若年の相手であっても才能や実績を認め喜べる度量を見せれるのでは無いかとは思います。…まあまずないでしょうけど(´・ω・`)
九華公園=くわな呼びは勉強になりました🙇四日市市に住んでてとなり町の事ですがはじめて知りました。
大多喜町の住民です忠勝公、男の憧れ❤義の漢!
肺癌手術より19ヶ月になります。桑名は我が近江の隣です☺子供らを連れて行ってみます。来年の大河の家康公は楽しみです☺
「大多喜、何もないとこですよ」「なんてことを先生」のくだりクスッときました
いつも楽しく拝見しております。桑名市出身ですが、新たな発見が多くありました。地元では九華公園はキュウガと読んでましたが、桑名からきているとは、、今はしてないかもしれませんが、家康の孫で豊臣秀頼の妻だったお千さん?の祭りもやってました。子どもの頃は誰かわかりませんでしたが、大阪夏の陣のあと、本田忠勝の息子に嫁ぎ桑名にいた時期があるそうです。本田忠勝の娘は真田幸村のお兄さんに嫁いで豪傑小松姫として有名ですし、すごい一族だなーと改めて思います。
大河ドラマ「どうする家康」(1/15)で旗本の心得を家康に諫言していました。千葉県館山の生涯大学で榊原康正の子孫のお嬢様と同クラスでした、端正な方でした。
いつも 見てるよ😃🎵にゃん🐱
前にも他の方が述べられている一説ですが当初は井伊が6万石本多榊原が5万石ずつと内定していたのを秀吉の口利きで倍にしたというのがあります、秀吉は他家の人事に介入することが多く大友(立花、高橋)島津(伊集院)毛利(小早川)上杉(直江)にも介入しています。意図としては大身の陪臣家を取り立て主従の離間を図る、あるいは恩を売っておき直臣としていずれ引き抜くなど、秀吉に引き抜かれた石川数正や徳川と諍いを起こした真田幸昌も秀吉に取り立てられています関東移封に伴い居城を無傷で開城した小田原ではなく江戸を薦めたのも秀吉という説もあります。石高でいうと結城氏に養子で入った次男秀康に下総結城で10万石、同じく松平に養子で入った三男飛秀忠の同母弟四男忠吉も堅城で知られた武蔵忍で10万石で襲封しています、長女の婿奥平信昌と家康の養女が嫁いでる真田信幸もそれぞれ3万石で襲封しています、譜代では他に鳥居元忠、平岩親吉 あたりが大身といえましょうか
本多佐渡の解説もよろしくお願いします。正信は謀略の面ばかり強調されがちですが、家康公とともに平和の土台と民政につくした清廉な側面もありますので。
市橋先生、お疲れ様です。いつも番組を楽しく見ております。ちょっとお伺いしたいことがあります。本多忠勝の番組で惣まくりというのがありましたが、特に、惣まくりの続きの部分は、何と言う資料に書かれてあるのでしょうか?その資料は販売しているのでしようか?教えていただければ助かります。どうぞ、よろしくお願いいたします。
投稿お疲れ様です。徳川に過ぎたるものは、言葉だけでは無かったですね。
小牧・長久手の戦いの話も聞きたかったですわ前回触れていませんでしたので……
シリーズ初回のこちらで少しだけですが触れています。ruclips.net/video/C2Wio7QXpPA/видео.html
コメントありがとうございます、本多忠勝の第1回に小牧・長久手の戦いの戦い触れていましたね(^_^;)時系列順で紹介されていると思って見落としてました(*^^*)次回の酒井忠次も目が離せないです!
流石 平八郎 素晴らしい
いつも配信楽しませて頂いてます。ありがとうございます。狗HKの大河ドラマは観ていませんし、観る事はないですが、動画は楽しみにしています。自身の小説や歴史雑誌等の知識なんかと比較しながら密かに楽しんでます。👍
市橋先生、貴重なお話ありがとうございます。私も本多忠勝のファンになりました。忠勝の訓示、書き出して家康公の言葉と並べて我が家の家訓にしたいと思います☺️本編が始まってからずっと先になると思いますが、柳生宗矩についても少しお話いただけると嬉しいです^_^
13:39 その手は桑名の焼き蛤
前に一度書かせていただいてます。先生は、徳川家だけを調べておられますか?おそらくですが、数正と伊達藩の昭光と南部藩の信直あたりは親戚かと思われます。興味があれば調べてください。他にも調べておられるのか知りたいです。これからも期待しております。
脳筋なイメージがあるけど統治や外交交渉でも有能な徳川家臣団
日本のサラリーマンの原点作ったみたいな感じですね。大奥はOLの原点みたいだと思います。
秀吉は農民出身で代々仕えていた家来がいなかった。家康にはそれが多かった。その差で2代目以降に政権が引き継げた。といった話を聞いたことが。あやふやなので。家康の代々の家来は何人くらいいたのですか?教えて下さい。それと大阪夏の陣で豊臣方の秀頼直臣の活躍があまり描かれていませんが。その兵数と主な直臣武将の名を教えて下さい。(七手組というのもいたそうですが)
家康が関東に移って間もない時は井伊・本多等にもそれほどの石高を与えておらずに吝嗇ぶりが話題になり、秀吉が「せめて井伊や本多などにはもう少し・・・」と家康に言った為に止むを得ず上げたという逸話を聞いた事がありますが、これは俗説で真実ではないのでしょうか?
流石の平八郎
市橋先生、お疲れ様です‼️本田氏のことがより詳しく分かりましな、とても良く理解しました‼️また次も楽しみにしてます‼️
関ヶ原や大阪の陣で 徳川に敵対した大名達に見せたかったね。数ある大大名の中でも最も天下を治める器量のある人物は 家康公一択。結果的に徳川家に天下を任せて大正解だったとね。👍️
家康は色んな失敗して、また色んな失敗を見てるからね。織田と豊臣の失敗を側で見てるからこそだと思う。失敗の多さでは三英傑似たり寄ったりだけどただ徳川の統治と共に中世日本の発展は終わったようなものだから、産業革命起こせる位の強国になる可能性を秘めてたのは信長と秀吉しかいない
足利幕府を真似た統治方法が良かったんだと思うよ
57度の出陣に無傷=真実は後方待機だったりするんだな?そも、侍大将が先陣切って切り込まんだろ…そんな軽率な行動執る親分に子分は付いて行かんよ(笑)。嗚呼…吾輩市橋アンチではありません、氏の談は楽しく視聴して居ります…m(_ _)m。
お話、楽しかったです~❗
忠勝さま、ホントかっこいい。
惚れました。
0:42 流れ弾で高評価を抜粋して「そんな本多忠勝と並び称される立花って誰?」と興味を持たせる事による今後の立花大河実現への支援。
秀吉が小田原征伐で2人を引き合わせたのは、小牧長久手以来余程忠勝を家臣に欲しかったんだと思うのですが、知り合って共鳴したのか、どちらかを主人公にすると片手落ちな感じになってしまいそうです。
@@もぶえじ 直臣の大名と陪臣という差はあるとはいえ親子程の年齢差というか実父が自分と同じ年という若造と並び称されるのって素直に喜べるのかってところは疑問でもあるし忠勝というか徳川サイドが主人公だとまあ無さそうではありますが、それを喜べると忠勝の若年の相手であっても才能や実績を認め喜べる度量を見せれるのでは無いかとは思います。…まあまずないでしょうけど(´・ω・`)
九華公園=くわな呼びは勉強になりました🙇四日市市に住んでてとなり町の事ですがはじめて知りました。
大多喜町の住民です
忠勝公、男の憧れ❤
義の漢!
肺癌手術より19ヶ月になります。
桑名は我が近江の隣です☺
子供らを連れて行ってみます。
来年の大河の家康公は楽しみです☺
「大多喜、何もないとこですよ」「なんてことを先生」のくだりクスッときました
いつも楽しく拝見しております。桑名市出身ですが、新たな発見が多くありました。地元では九華公園はキュウガと読んでましたが、桑名からきているとは、、今はしてないかもしれませんが、家康の孫で豊臣秀頼の妻だったお千さん?の祭りもやってました。子どもの頃は誰かわかりませんでしたが、大阪夏の陣のあと、本田忠勝の息子に嫁ぎ桑名にいた時期があるそうです。本田忠勝の娘は真田幸村のお兄さんに嫁いで豪傑小松姫として有名ですし、すごい一族だなーと改めて思います。
大河ドラマ「どうする家康」(1/15)で旗本の心得を家康に諫言していました。
千葉県館山の生涯大学で榊原康正の子孫のお嬢様と同クラスでした、端正な方でした。
いつも 見てるよ😃🎵にゃん🐱
前にも他の方が述べられている一説ですが当初は井伊が6万石本多榊原が5万石ずつと内定していたのを秀吉の口利きで倍にしたというのがあります、秀吉は他家の人事に介入することが多く大友(立花、高橋)島津(伊集院)毛利(小早川)上杉(直江)にも介入しています。意図としては大身の陪臣家を取り立て主従の離間を図る、あるいは恩を売っておき直臣としていずれ引き抜くなど、秀吉に引き抜かれた石川数正や徳川と諍いを起こした真田幸昌も秀吉に取り立てられています
関東移封に伴い居城を無傷で開城した小田原ではなく江戸を薦めたのも秀吉という説もあります。
石高でいうと結城氏に養子で入った次男秀康に下総結城で10万石、同じく松平に養子で入った三男飛秀忠の同母弟四男忠吉も堅城で知られた武蔵忍で10万石で襲封しています、長女の婿奥平信昌と家康の養女が嫁いでる真田信幸もそれぞれ3万石で襲封しています、譜代では他に鳥居元忠、平岩親吉 あたりが大身といえましょうか
本多佐渡の解説もよろしくお願いします。正信は謀略の面ばかり強調されがちですが、家康公とともに平和の土台と民政につくした清廉な側面もありますので。
市橋先生、お疲れ様です。
いつも番組を楽しく見ております。
ちょっとお伺いしたいことがあります。
本多忠勝の番組で惣まくりというのがありましたが、特に、惣まくりの続きの部分は、何と言う資料に書かれてあるのでしょうか?その資料は販売しているのでしようか?教えていただければ助かります。どうぞ、よろしくお願いいたします。
投稿お疲れ様です。
徳川に過ぎたるものは、言葉だけでは無かったですね。
小牧・長久手の戦いの話も聞きたかったですわ前回触れていませんでしたので……
シリーズ初回のこちらで少しだけですが触れています。
ruclips.net/video/C2Wio7QXpPA/видео.html
コメントありがとうございます、本多忠勝の第1回に小牧・長久手の戦いの戦い触れていましたね(^_^;)
時系列順で紹介されていると思って見落としてました(*^^*)
次回の酒井忠次も目が離せないです!
流石 平八郎 素晴らしい
いつも配信楽しませて頂いてます。
ありがとうございます。
狗HKの大河ドラマは観ていませんし、観る事はないですが、動画は楽しみにしています。自身の小説や歴史雑誌等の知識なんかと比較しながら密かに楽しんでます。👍
市橋先生、貴重なお話ありがとうございます。私も本多忠勝のファンになりました。
忠勝の訓示、書き出して家康公の言葉と並べて我が家の家訓にしたいと思います☺️
本編が始まってからずっと先になると思いますが、柳生宗矩についても少しお話いただけると嬉しいです^_^
13:39 その手は桑名の焼き蛤
前に一度書かせていただいてます。
先生は、徳川家だけを調べておられますか?おそらくですが、数正と伊達藩の昭光と南部藩の信直あたりは親戚かと思われます。興味があれば調べてください。
他にも調べておられるのか知りたいです。
これからも期待しております。
脳筋なイメージがあるけど統治や外交交渉でも有能な徳川家臣団
日本のサラリーマンの原点作ったみたいな感じですね。大奥はOLの原点みたいだと思います。
秀吉は農民出身で代々仕えていた家来がいなかった。
家康にはそれが多かった。
その差で2代目以降に政権が引き継げた。
といった話を聞いたことが。
あやふやなので。
家康の代々の家来は何人くらいいたのですか?
教えて下さい。
それと大阪夏の陣で豊臣方の秀頼直臣の活躍があまり描かれていませんが。
その兵数と主な直臣武将の名を教えて下さい。(七手組というのもいたそうですが)
家康が関東に移って間もない時は井伊・本多等にも
それほどの石高を与えておらずに吝嗇ぶりが話題になり、
秀吉が「せめて井伊や本多などにはもう少し・・・」と
家康に言った為に止むを得ず上げたという逸話を
聞いた事がありますが、これは俗説で真実ではないのでしょうか?
流石の平八郎
市橋先生、お疲れ様です‼️本田氏のことがより詳しく分かりましな、とても良く理解しました‼️また次も楽しみにしてます‼️
関ヶ原や大阪の陣で 徳川に敵対した大名達に見せたかったね。数ある大大名の中でも最も天下を治める器量のある人物は 家康公一択。結果的に徳川家に天下を任せて大正解だったとね。👍️
家康は色んな失敗して、また色んな失敗を見てるからね。織田と豊臣の失敗を側で見てるからこそだと思う。失敗の多さでは三英傑似たり寄ったりだけど
ただ徳川の統治と共に中世日本の発展は終わったようなものだから、産業革命起こせる位の強国になる可能性を秘めてたのは信長と秀吉しかいない
足利幕府を真似た統治方法が良かったんだと思うよ
57度の出陣に無傷=真実は後方待機だったりするんだな?
そも、侍大将が先陣切って切り込まんだろ…そんな軽率な行動執る親分に子分は付いて行かんよ(笑)。
嗚呼…吾輩市橋アンチではありません、氏の談は楽しく視聴して居ります…m(_ _)m。