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【訂正】テロップに誤りがありましたのでお詫びして修正させていただきます。1:39 -薩長奴- → 薩長土奥羽列藩同盟→「越」が抜けておりました追記:コメントにてご教示いただきました通り「奥羽」列藩同盟も間違いではないそうです!勉強になりました🙇♀■参考資料『北越戊辰戦争』/木村恬文/2021.11アマゾン→amzn.to/3OtRsQO『維新の墓標 : 昔々北越戊辰戦争で』/渡辺れい 著/2018.3アマゾン→amzn.to/4g3QyWF楽天→a.r10.to/hFbb1W【編集後記】今回は映画「十一人の賊軍」に合わせた企画になりますが、映画は未視聴です😂(原作小説は読了しています)映画の内容と重なる部分がもしありましたらコメントにてお知らせいただけるとありがたいです。幕末も面白いですが、未完シリーズが多くなっているのである程度消化してからにしたいと思います😓
長岡の者です。奥羽列藩同盟で良いです。長岡藩が加わってから奥羽越列藩同盟になりました。
動画制作有難うございます。父方が会津藩で上官が長岡藩撤退の際に同盟会津藩としての供応が叶わずお腹を召しております。(私は札幌在住ですが、この春に切腹の地を訪ね、お線香をあげさせていただきました)そんな関係もあり新発田藩の話も先祖伝来伺っておりましたが、それぞれが生き残りを掛けた時代、双方が已む無き事情の上、そして戦いは時の運と勢いと感じております。
日本の幕末ものは珍しいので、非常に興味深く拝見致しました。またやって下さい。
ご先祖様の足跡をたどり新発田まで行きましたが、数十年前に役所が火災で焼けて戸籍などが焼失したとの事、明治時代に東京に出てきた曽祖父が新発田の出身なのですが、それ以上たどれなくて残念でした、亡き祖父の記憶では武士の端くれだったと聞いていたので、この動画は非常に興味深く拝見させていただきました、ありがとうございました。
新発田出身ではありませんが興味深く拝見致しました。あまり広く語られませんが戊辰戦争の一面を知ることができました。
こんな歴史があったのですね……なんて大変なところにあったのでしょう、新発田藩は。
私は関西人ですが父方が会津出身なので、幕末史には奥羽越列藩同盟の方に肩入れしていますが、秋田(久保田藩)以外でも必ずしも一枚岩では無かった事が分かりました。官軍側にも世良等の様な馬鹿げた現場指揮官ではなくて もっとまともで寛容な指揮官がいれば会津や長岡も悲惨な結果にならずに済んだのでは無いかと想像します。
世良が本当に馬鹿げてたかは分からない。と言うのも、世良が書いたとされる有名な「奥羽は皆敵」という手紙は仙台藩が開戦を正当化するために宣伝した主張でしかなく、その原本は見つかっていない。それどころか戦況が悪くなると、仙台藩は一転して、その手紙は会津藩が仙台を巻き込むために作った偽手紙だとか言い出した。つまり、仙台藩の主張はその時その時でころころ変わるため信憑性が薄い。ただ、世良と仙台藩に確執があったの確かであるが、それは会津討伐に名乗りを上げて東征軍を迎え入れたはずの仙台藩が突然融和を唱えだしたのを世良が咎めたからで、ある意味では当たり前だった。世良が嘆願書を握りつぶしたと言うのは、ほぼ誇張されたデマで、実際は東征大総督府の方針を理由に反対意見を出しただけで、九条総督も納得の上で棄却している。しかも仙台藩が嘆願書を受け入れて貰うために条件として出した「会津を謝罪させる」は会津自身が仙台藩に使者を送って拒否しているなど、完全に行き詰まっていた。そして、世良暗殺を許可した但木土佐は佐幕派筆頭で、逆に恭順派筆頭の三好清房や勤王派筆頭の遠藤允信は土佐の動きに反対しており、世良暗殺は仙台藩の総意というわけでもなかった。事実、敗色濃厚になると土佐は仙台藩から切り捨てられた。
@@鮎の暇潰し 世良関連は誇張とデマが多いからなぁなんにせよ世良や官軍参謀は大総督府の方針に沿って動いてたから、彼らじゃなかろうと会津の政治的独立を認める指揮官はいないし、会津が降伏拒絶の立場である以上は何も変わらないと思う。
仙台藩が後日、会津の偽書に気づかず、騙されて戦争に及んだことを明らかにしています(仙台戊辰史他)が、時系列でみてみると、これが状況を理解しやすい。即ち、慶応4年4月15日に会津が「新政府に対し、謝罪しません、重臣の首も差し出しません」と新政府に返答し、家老の西郷頼母を総大将に大規模な軍を動かし、白河城を占領、先制攻撃をしたのは4月20日。世良の手紙に激高したのは、その前日の4月19日です。何のことはない、会津は北上を続ける新政府軍が白河に迫る前に、東北諸藩を激高させるような手紙を捏造し、白河城の戦いの戦端を切ったことの大義名分と東北諸藩を道連れにする口実をつくったのです。そもそも、世良の人格の問題を言うのなら、世良だけを殺せばよいもののを、動画にあったように、勝見善太郎や松野儀助、従者繁蔵、野村十郎、中村小次郎6名を皆殺しにし、さらに、奥羽鎮撫総督・九条道孝と醍醐忠敬を軟禁し、まさに後戻りできない状況をつくりました。
戊辰戦争を製作してくれて、ありがとうございます😊戊辰戦争の他の戦いの映像化もお願いします!
新潟県では戊辰戦争の話になると長岡藩ばかりがクローズアップされています。けれど、新発田藩も生き残るために必死だったのですね。失いかけた新政府軍からの信用を得るために大きな代償も払った。とても勉強になりました。
映画「十一人の賊軍」を観る前に、偶然こちらのチャンネルに辿り着けました。ありがとうございます😊
明日”十一人の賊軍”を見に行きます。ちなみに私の母は長岡士族の末裔、父は卒族の出で、母が結婚することが決まった時に「新発田のような裏切り者と結婚するなんて」と祖母が言っていたそうです。先祖が見附の小競り合いで死後、野ざらしにさせられたという恥辱を受けた(後ほど近くの方々が目立たぬように石を置いただけの墓を作って弔っていただきました)ことで薩長や新発田の裏切りは許せなかったのでしょうね。
先祖が下越の某所ですが、昔親戚は新発田は裏切者だと言っていました。
新発田藩領が実家です。曾祖父が新発田藩鉄砲隊を預かっておりました。新発田と長岡の確執は初めて伺いました。
慈眼寺での小千谷会談の決裂が、岩村精一郎に原因があるように言われているが、すでに越後で新政府軍との間で戦闘状態にあった会津藩の暗躍が決定的。中立の立場を取る長岡藩を奥羽列藩同盟に引き込むために、会津藩指揮官の一之瀬要人と佐川官兵衛が、会談の直前に長岡と小千谷の中間の片貝で新政府軍を攻撃したのです。そして長岡藩の五段梯子の旗印を現場に放置した。この会談が行われた時、新政府軍は長岡藩の中立を到底信ずることができなかったので、「長岡藩の老臣河井継之助来たりて面会を請う。寺にて会見す。河井が嘆願書差し出したが受け取らず。長岡は朝敵なり、他日兵馬の間に相見んと座を蹴った。河井失望し、夜を徹し面会を請うも許さず。河井は遂に長岡へ帰った」となったのでしょう。ところで、後年、男爵にまで出世した岩村精一郎(のちの高俊)は、継之助の人物を知っていれば、慈眼寺での談判のやり方は違ったと悔やんだそうです。愛媛県では、積極的に旧藩士を登用し「民権県令・平民長官」などと呼ばれた。末広鉄腸は当時の功績・人望を高く評価しています。ついでに、長岡藩は司馬遼太郎が河井継之助を持ち上げたので、人気がありますが、寧ろ、しなくても良い戦いをした河井をみんなが評価はしているわけではありません。まずは長岡を戦場にし、重税も含め、領民苦しめたので、戦争中に大規模な一揆が起こった。それを鎮圧するのに長岡藩は手間取り、多くの領民が処刑されたことから、民衆は河合継之助と藩に冷ややかだったのです。近年では、長岡藩が敗れたのは最新鋭の装備をした山縣有朋率いる長州藩でなく、領民の反発のダメージの方が大きかったのではないかとさえ言われているようです。一方、戦火で傷ついた長岡の再建に尽くした小林虎三郎も「米百俵」の逸話と共に人気。支藩の三根山藩から見舞いに贈られた米百俵を小林虎三郎は「この百俵の米は文武両道に必要な書籍、器具の購入にあてる」と藩士を説得した。ちなみに小林虎三郎と河井継之助は、ともに長岡藩の藩校である崇徳館で学び、江戸で佐久間象山の私塾に通った経歴を持つライバルであり、互いに尊敬しあう仲だったのです。
映画11人の賊軍の時代背景知れて良かったです
新潟県の出身です。新潟の歴史が知れて面白かったです!
越後では会津、米沢、仙台などの大藩に近い小藩は、無理やり、列藩同盟に引きずり込まれました。新発田藩や村上藩などが典型的です。髙田藩は新潟の西側でしたので、最初から新政府側でした。越後以外では天童藩、三春藩は裏切り者扱いにされ、二本松藩の少年隊の悲劇の発端は、会津に脅され、藩主まで人質に取られたことが大きい。お金の無い会津が、北海道をプロイセンに売ろうとした話も有名ですが、越後に進駐すると幕末では空前の略奪・暴行が起こります。長岡藩も会津の被害者だと言われています。即ち、会津の佐川官兵衛が小千谷での河井継之助と岩村精一郎の会談に合わせて、小千谷の郊外にある片貝村に兵を進め、待ち構えていた高田藩や尾張藩の兵と交戦。この時、佐川は会津藩の旗と長岡藩の旗をわざと戦場において撤兵しました。河井が小千谷会談で無下にされた理由ではないかと言われています。さて、郷土史だけでも新潟市・新津市・水原町・五泉市・小千谷市・十日町・燕市・見附市等の市町村史に、会津藩兵によって民衆がいかに搾取・略奪され苦しんだのかと言う記述がされていますし、小千谷等の戦場が近い村々では、農兵への取立てまで行われました。そのあまりの酷さに、米沢藩随一の主戦派、甘粕継成の日記に、「時に越地の人民会津を悪みきらふ甚深く恰も仇敵の如し。依之所在の郷村御家を慕ふ心ありと雖会と相合するのを以て味方する者なし。是を以て大面在陣以来、村民を雇て篝火を焼せ死傷を舁せ弾薬兵糧等を運はせんと欲すれども、家々の老若男女尽く逃散て一人も応ずる者なし。其内衝鋒隊の歩兵乱妨せしより、大面村民自ら火を家々にかけて我が軍を追出し、賊へ応ぜんと企つる者有之由村役より忠信出、早く会兵とはなれて御一手にて御持なされずんば遖れ御大事なるへしと云う(甘糟備後継成遺文)」と言って憤慨しています。
詳しいお話、ありがとうございます!知らない事ばかりです。
この映画の背景がよく理解出来ました。私のルーツは會津藩士です。鳥羽伏見の戦いで曽祖父の兄が、戊辰戦争でその実父がそして、その弟が白虎隊隊士として、新発田赤谷で戦死しました。世間では、飯盛山で自刃した白虎隊が有名ですが、同じ白虎隊でも戦死した隊士もいたのです。この事実を数年来から、会津若松市で講演させて頂いております。是非、この事実を知って頂けるとありがたいです。
戊辰戦争で忘れてはならない小藩は上総国(千葉県)請西藩です。城が無く陣屋しか持てない大名家として最低の一万石であるにもかかわらず、徳川譜代の大義を重んじて藩主自ら甲冑に身を固め出陣しました。旗本、御家人などを中心に組織された徳川遊撃隊と合流して箱根戦争から各地を転戦した後、仙台藩恭順とともに請西藩の戦争も終わりました。請西藩は出陣時の総兵力僅か70余名ながら最前線で総督(総大将)である藩主が戦闘指揮を執り激戦を戦った唯一の小藩です。最後の藩主、林 昌乃助忠崇公は昭和まで生きた最後の大名として知られています。
請西藩は結果、所領までを没収された気骨の藩です。新潟県には、別の意味で悲惨な殿さまがいました。村上藩の藩主内藤信民です。先代の内藤信親は「徳川慶喜が恭順の意を表明し江戸城を退去しており、徳川宗家の存続のためには、村上藩も将軍の意志を尊重して、錦旗を掲げる新政府軍に抗戦すること」は愚としていた。会津藩は藩祖保科正之が徳川宗家を第一に考えよと言う遺訓を無視し、慶喜の謹慎・江戸開城を良しとせず、上野、北関東に兵を送った逆臣で、慶喜からも遠ざけられていますから、会津は骨があり過ぎですね。一方小藩の村上藩は、この動画にある新発田藩同様、「会米庄連合軍が村上藩を踏み潰すぞ」と半ば脅迫され、反新政府に立つ鳥居三十郎の一派が藩政を主導するようになり、新政府への帰順派の老臣たちを排除。そんな中、藩主の内藤信民が城中で首吊り自殺を遂げてしまった。当時18歳。その後、村上藩は庄内藩ともに最後まで戦うが、庄内藩の降伏と共に戦闘を停止。先代の藤翁侯の謹慎、信民の勤王ゆえの自殺を含め、謝罪嘆願が認められ、村上藩5万90石は安堵されたことが唯一の救い。
新発田出身のものです。昔婆ちゃんから「もし会津に行ったら新発田から来たって言うなよ」とよく言われました。理由も聞かされました。映画を機にいい意味で新発田が盛り上がってくれたらと思います。
お城の近くで仕事していますが、お城に来る人が増えたような気がします。例年12月になると公開が冬休みになるようですが、今年はやっています。
私は仙台藩と越後高田藩の末裔です。東北の歴史はとても興味があります。私が新発田藩藩主だったらどう判断するだろうか?と鬼気迫って視聴することができました。誠にありがとうございます。動画を作成されましたこと、非常に感謝致します。小藩の歴史は、なかなか視聴することは無いので、引き続きお願い致します。
新発田藩の裏切りは明治、大正、昭和と新発田市と長岡市をはじめとする周辺の市町村(福島県山形県含)から各分野で裏でほとんど決別状態だったようです。例えば新発田から嫁をもらうな、新発田の商人と商いするな等、新発田の人間を信じるな関わるなと言われていた。新発田の人達も新発田の外では身分を隠す事が多かった。
新発田民です。会津、米沢観光するときは、「新潟から来ました」と言ってます。噓は言ってませんww
新発田藩の幕末での事を取り上げて下さりありがとうございます。昔、溝口さんというおばあちゃんにお会いしたので、「お殿様のご子孫の方ですか」と聞くと、お殿様の子孫の方は東京に行って新発田には居ないそうでもう亡くなられた旦那さんのお父さんが、新発田藩最後のご家老だったとか映像に登場した(半左衛門)だったのかな?
新発田藩から離れておりますが、沢海に北方博物館があり徳川慶喜の書状を見学する事ができます。沢海の近くに二本木があり新政府軍と戦って幕府軍に勝利した説もあります。沢海〜二本木は沼地で足場が悪く小舟でないと移動出来ない事が勝因だと思います。長岡城では河井継之助が購入されたガトリング砲が展示されて見学する事ができます。
映画の理解度が爆上がりしました・・・!
ガトリング家老💪 一騎当千のリングネーム✨ 勉強になりました🎵
「庄内藩」酒井玄蕃の動画お願いします。あと「峠 の長岡藩」河井継之助、「米沢藩」目線でも。北越戊辰戦争といえば会津ぐらいしか知らなかったが...
このビデオはとても良いので、見た後、最初からやり直したいです!
「西南戦争」の時も薩摩出身の士官が矢面に立たされた。長州藩にしてみれば、薩摩藩に対しては「蛤御門の変」以来の恨みがあったから。
私の曽祖父の時代です。新発田藩の鉄砲隊を預かっていたそうですが、この場にもいたのでしょう。
この時の戦いぶりが評価されたのか、新発田には陸軍の歩兵第16連隊の駐屯地が置かれました。この部隊は編成以来、日清戦争から第二次大戦まで各地を戦い抜きましたが、中でもガダルカナル島の戦いで主戦力の歩兵隊が全滅するという過酷な目に遭っています。
今回も、軽快な音楽とおじいちゃんの迫力満点の解説は❤良いですね!官軍と幕府軍は、最低ですね。当時の庶民がとてもかわいそうです。
とても素晴らしい動画でした。また楽しみにまってます。ティムールとか、サラディンなどの戦いをお聞きしたいです。
いやあ~感動しました、自分・故郷が秋田・大仙市ですので現住所・静岡県磐田市から帰郷時は良く日本海沿岸道を通り旧新発田藩を通って居た事になります。そんな、歴史の中を通って居た事や何事無かったような現代を思うと、戦死やその家族の無念を思うと涙が滲みます!そう言いながらも、我が先祖も過酷な試練の中・人類発足から永遠と命を繋げたかと、犠牲者を偲び思いに耽ってます?
生まれも育ちも鶴岡市です。前に、仕事で一緒だった方が確か胎内市へ赴任されていた時に「鶴岡から来ました」と自己紹介すると現地では若い方は何でも無いのにお年を召した方からはあまり良い顔をされないと聞いた事があります。それと、小学校時代の定年間際の担任は新庄(山形県)の人の言う事を信用は出来ないと発言していたのも記憶しています。
新発田人です! 「会津猪米沢猿で新発田狐に騙された」とも揶揄された、戊辰の新発田の汚名をそそぐ動画、本当にありがとうございました!!
⭕出来ましたら、庄内藩酒井玄蕃の物語を希望します‼️
うちの夫婦は、先祖から、旦那のほうは、会津藩、私のほうは、新発田出身。このような、先祖が敵対していた夫婦は、世界でたくさんいらっしゃるのでしょうね
列藩同盟が負けるのが遅くなれば北海道が大変なことになっていたかもしれないので、新発田藩の立ち回りは影の功労者ともい言える。
庄内藩、村上藩「俺たちは⁈」
東北っていつも損ばっかだよな
ほんとに会津を含む東北方面の戦争は、降伏した幕府に対して主敵を見失った薩長側の八つ当たり・リンチ的な意味合いもあったのでしょう😮後知恵ですが、日本の国力を疲弊させた戦いだったと思います。
阿弖流為の頃から……😢
西南戦争では会津藩とした警視庁抜刀隊を編成させて鹿児島に派遣させて名誉挽回させる。
徳川慶喜の命を受けた山岡鉄舟や勝海舟との西郷との会談で「江戸城無血開城や慶喜が水戸で謹慎すること」など、話は上手くまとまり徳川慶喜は恭順し水戸で謹慎。尾張徳川藩主、徳川慶勝公も新政府側につき新政府の一員として、戊辰戦争勝利のために奔走。徳川慶勝は東海道や中山道沿いの諸藩を、新政府に帰順させた。無血開城された江戸城は尾張徳川藩が管理を任された。紀州徳川藩主である徳川茂承公は、新政府に叛く意志はないということを証明するため、藩兵1500人を新政府軍に提供すると共に、軍資金15万両を献上した上、新政府の勅命により京都警備の一翼を担った。譜代筆頭の井伊家も戊辰戦争では、真っ先に新政府側に付き箱館(函館)を除く戦争の全局面に参加している。徳川は、あっさり新政府側になったのにね。
@ 博士いたーー
いつか幕末最強と言われ、一兵たりとも領地に入れず更に秋田藩に進攻した庄内藩を取り上げて欲しい!特に逆北斗七星の破軍星旗を掲げ、軍旗を観たら逃げ出す新政府軍も続出した名将酒井玄藩率いる第二大隊!占領地での略奪暴行を許さず、違反した仙台藩士を処罰し若き捕虜には路銀を与え解放し、和歌や横笛を嗜み余りの高潔な人柄から進攻した秋田の人々からも庄内様と慕われたと言う。戦後、薩摩高官から「鬼玄藩と武勇を欲しいままにした御仁がこのような美男子とは! 」と感嘆させたそうです。
幕末の戊辰戦争では庄内藩全軍の半数近くにおよぶ約2,000人の農民・町民(農兵2,031名、鶴岡商兵184名)が兵に志願し、戦闘で300人以上の死傷者を出しながらも最後まで勇戦しました。これは庄内藩が財政改革を豪商の本間光丘に任せたことが大きく、何から何まで家柄・門地優先の硬直した組織を持つ会津藩と異なる。また、戦闘を若き酒井玄蕃に指揮を委ねたことも凄いが鬼玄蕃の手腕も戊辰戦争随一。敗戦後に明治政府から藩主酒井忠宝へ移転の処罰が下されたさいには、家臣領民を上げて30万両の献金を集め明治政府に納めることで藩主を領内に呼び戻している。庄内の身分を越えての団結力は凄い。長州藩は支藩を含め、奇兵隊他、諸隊は最大5000人と言われていますが、庄内藩との共通点は教育、頑迷な朱子学(幕府、会津)でなく、徂徠学という柔軟な哲学と財政が豊かであった点。会津はカネがなく、領民に重税を課していたので、農民・町人兵は殆どおらず、逆に、藩内で一揆が起こった。
岩村精一郎高俊とかいう決して外交をさせてはいけない人物知事としては優秀だったみたいだし(ちなみに悪名高きナポレオン3世も内政は評価されてる)政治には得手不得手があるんだなあ
どうかな維新元老の山縣有朋は第1次世界大戦のベルギーの動きを見て「初めて河井継之助の気持ちが分かった」と述べた一方で、結局ベルギーの立場などドイツも協商国も考慮しなかった現実から「どうあがいても中立など無理だった」と結論付けてるつまり結局のところ、明治政府の方針が決まっている限り、岩村精一郎じゃなかろうと史実は変わらなかったということになる
北越戦争では河井継之助をキレさせ、佐賀の乱では島義勇をキレさせ、岩村精一郎という人物は、「人を怒らせる才能」に関しては、定評(?)のある人物だと思います。
@@原田浩太郎-e3w どっかの元知事みたいな人か。相手が自分より「下」とみると威丈高になる人種。
いろいろと歴史があるんだなあと感心しています。
十一人の賊軍に史実のモデルがあることを初めて知りました。
新発田の人間です。どうであれ、日本海側に現存するお城は島根の松江城と越後の新発田城だけです。壊されずにすみました。これも一つの答えなのかなと思っております。
新発田城址陸自30連隊かつて所属してた。新発田市出身俳優仮面ライダー2号 仕事人 ヒデさん
新発田藩と同じく小藩の天童藩の戊辰戦争も大変だったそうです。
こちらで歴史を勉強させていただいております。リクエストはこちらでよろしいのでしょうか?できたら長岡戦争で長岡城を奪還の際、負傷兵を看護しているところにガトリング砲を駆使して長岡城を奪還し、後に魔王か救世主かと両極端の評価を受けている河合継之助をお願いしたいと思います。よろしくお願いします。
一般的には長岡藩から見た歴史、すなわち裏切り者だと思いますでも、どこの藩も生き残るために必死なこの時代、この動画のおかげで考えを改めました
映画よりはこっちのストーリーの方が好き。溝口家老を主役にした方が面白そう。元々新発田は上杉に恨みのある土地柄だから、米沢と相容れないよね。
新発田重家の乱は、大河ドラマ「天地人」ではまるまるカットされてましたよね…
@@原田浩太郎-e3w 様 天地人はただの娯楽作品、史実なんて無視の駄作です。
@@福ら雀 しかも慶長出羽合戦もほとんどカット、前田慶次も最上義光も水原親憲も出てこないという体たらく……
@@原田浩太郎-e3w 様 そうそうw🤣
@@原田浩太郎-e3w 様、火坂さんの原作では、前田慶次はしっかり描かれてるのでキャスティングが難航したとかですかね。とにかく苦笑いしかなかったです
列藩同盟内部もいろんな事情が渦巻いていたことが分かりました。幕末維新で言えば田原坂の戦いをリクエストします。
すごく好きなチャンネルです!
幕末の越後11藩の内、京屋敷を設けて情報収集にあたったのは新発田藩のみです。とりわけ十代藩主 溝口直諒公は「尊王開国」で藩論を統一。既に時代を先取りしていたとも言えます。
配信ありがとうございます。愛と調和で生きることが叶わなかった昔の人々はかわいそうですね。(上の都合で振り回される。)そもそも調和しようという姿勢があれば戦はしなくてよいのですが、マウントの取り合いは見苦しいですね。😊
新発田市に住んでいますが、この様な歴史は全く知りませんでした。私の先祖は溝口藩に仕えて居ました。ちょっとショックです😨
ともすれば奥羽列藩同盟は東北独立もあり得たかとさえ思っていましたが、複雑な事情が入り組んだ脆い集合体だったのだと感慨深く思います
今まで内の倉で戦場だったと伝わる旧街道を何気にスルーしていたので、この際そこを目的に訪れてみたいです。
新発田の近く、村上なんてのはどうでしょうか?阿賀野川から北は上杉に意外と反抗的で戊辰戦争時も村上城下を戦場にせぬよう精鋭で山のほうで陣を構えたとか まあ戦国時代から維新にかけて語られることがあまり無いんですよ。
新発田出身です。今回 幕末の新発田が舞台の映画が出来て本当に嬉しいです♪確かに小さい頃は新発田出身とあまり知られないようにと言われてました。特に会津若松 長岡 米沢の人には。「新発田は裏切りとか悪い事はしてない。当時のお殿様達がきちんと正しい情報を集めて上手く立ち回って下さったお陰。でもね、周りが敵(幕府軍側)ばかりで官軍に大変な目に遭わされた所が沢山あるから、無事であった新発田が恨まれるのはしかないのかも。だから、黙っていなさい」と祖父母は言ってました。もうアラ還なので 記憶が曖昧になっているのですが、幼い頃 祖父母から、ここの家の人が幕末長崎で情報集めて新発田に伝えてくれたんだよ、ここの家の人は京都でね、、、。って教えてもらいました。どの家かは忘れてしまいましたが、教えてもらった事は覚えてます。幕末の頃の新発田について昔話のように話してもらってました。映画の方言が嬉しかったです。
長岡市民ですが、はっきりしていることは新発田藩は旧幕から新政府に寝返った行動で自分達は被害を免れ、多大な損害を出した長岡藩からは、明確な裏切りと見なされたと言う事です。「新発田に嫁をやるな」と言う言葉がありますが、これはこのときの長岡士族の言葉です。会津の女傑である新島八重は、会津戦争の仇だった薩摩長州を生涯許さなかったそうですが、長岡の新発田に対する怒り憤りは、それに劣らぬほど根深いものだったのだと思われます。そして、戦国時代から変わることなく、新潟は長岡藩の港であり、沼垂は新発田藩の港であったのです。今となっては仲が悪いとかはないと思うのですが⋯
新島八重のお兄さんを助けたのは薩摩藩ですよ。彼の提言は会津藩では全く理解されなかったが、薩摩家老の小松帯刀や西郷隆盛が激賞した。そして、お兄さんが京都で大活躍できたのは、長州藩出身の京都知事である槇村正直抜きにはあり得ない。そして、旦那の新島襄も八重も長州藩に破格の援助を受けています(以下そのエピソード)新島襄は幕末にアメリカに密航していたが、アメリカ訪問中の岩倉使節団に加わっていた木戸孝允は、木戸専属の通訳として使節団に参加させた。これが彼の人生最大の転機だった。明治8年、新島は大阪で木戸孝允に会い、豪商磯野小右衛門から出資の約束を得て大阪での学校設立を目指したが、府知事渡辺昇のキリスト教反対のため断念し、木戸の勧めにより長州出身の槇村正直が府知事を務める京都を新たな候補地と定めた。そして、槇村は仏教の牙城、京都でキリスト教の学校の設立に向けて動いたのです。新島襄は学校設立に向け、たびたび京都府権知事の槇村正直のもとを訪ねていた。あるとき、槇村が襄に訊いてきた。「新島さん、あなたは、妻君を、日本人から迎えるのか、それとも外国人から迎えるつもりなのか」襄は、槇村に答えた。「外国人は生活の程度がちがいますから、やはり日本の婦人を娶りたいと思います。しかし、亭主が『東を向け』と命令すれば、3年でも東を向いているような東洋風の婦人はご免です」「それなら、ちょうど適当な婦人がいる。山本覚馬氏の妹で、いま、女紅場に奉職している。たびたび、わたしのところへ『女紅場に補助金をくれ』と陳情に来るのだ。学校の幹部たちはわたしを恐れて来ないが、あの婦人はそうじゃない。どうだ、その娘と結婚しないか。結婚するなら、わたしが仲人をしてあげよう」
新発田ー長岡だけでなく、新潟市内でも旧新発田藩領の沼垂(ぬったり)地区を良く言わない風潮がある新潟駅誘致でも対立があり大騒動があったらしい
関ヶ原のに闘い本当の!宜しくお願いします
新発田が、海沿いの地勢であったことも、良かったのかもしれない。
少し、飛躍的だと言われそうですが、勝海舟と毛利が裏で繋がっていた可能性は無いのでしょうか?新潟県の柏崎市にある北条(きたじょう)地区はかつて、北条一族に追い詰められ、この地で逃げ延び、「北条城(きたじょうじょう)」を築きました。これが「越後毛利」と言われる者達です。やがて、配置転換で毛利一族は、九州に行く事となります。一方、勝海舟ですが、確か、勝海舟の祖父にあたる人が、この北条(きたじょう)地域の長鳥(ながとり)という地区の出身で、後に江戸に出て来ることになります。実は、この北条地域から、あぜあ峠を越えたすぐ先が長岡市(旧長岡藩)となります。
荘内藩が入ってません。会津と同様朝敵とされたことと、酒井玄蕃は入れてほしいと思います
新発田藩の幕末の境遇勉強になりました〜!ありがとうございます。😊福岡の岩屋城の戦いを取り上げてほしいです。立花宗茂公の実父高橋紹運公の玉砕合戦!
うちの近所には高橋紹運公の菩提寺・紹運寺、高橋紹運公と夫人の宋雲尼、次男の立花直次公を祀る三笠神社があります。
結局、幕末も利権争いだよな。殺し合うか現代みたいに誰かを嵌めるか。やってる事はかわらんよのー
ここは佐々木源氏の名門としてそれなりに重きをおいた藩だよね 堀部安兵衛の出身地
新発田は旧上杉領かつ弱体化を余儀なくさせた内紛の火種、新政府軍を前にしてもそうした背景が動機だったのではと情けなく見ています。
そうなんだよね。なぜか仙台、米沢がやる気になってたから東北は戦争になったんだよね。それがなかったら会津もさっさと恭順してたかもしれない。
いつかこのチャンネルで、秋田口の戊辰戦争も取り上げて欲しいです。あまり注目はされてないですが、成り行きで官軍側になった秋田は奥羽諸藩から攻撃されて大変な目にあったんですよ。
秋田藩は平田篤胤の故郷だから、藩士や豪農商に平田国学の復古思想の信奉者が多かった。
越後の小藩の1つ、村松藩の末裔なのでありがたい動画です。官軍憎しなので映画後にこちらの動画は勉強になります。しかし、どちらが正解かは未だに難しい問題になりますね、新発田は城下への戦火を回避したし、今は自衛隊があるので。
真田昌幸のような策士が居たとは知りませんでした。黒を白と流される昨今ですが動乱の時代に信念を持って生きた。ラストサムライですね。
大阪の字が大坂になってる!
「大阪」を使い始めたのは明治以降、しかし、「大坂」が併用される時期は続き、最終的に「大阪」に統一されるのは、明治20年ごろだとされています。「坂」の字は土に反(かえ)る、即ち、お墓に入るという意味になるので「阪」と書くべきだ、という意味だとか。
ノモンハンをお願いします。
「新発田藩」のアクセントがおかしい。AIなの?
🎉 村上 半島 鶴岡さんは出てこないんですね 西郷隆盛と戦ったのは 村上と鶴岡です 山芋 強すぎて 最後には 鶴岡のお城も 焼けなかったです 幸福はしませんでした 話し合い 話し合いをして 興奮しました 村上のお城は燃やしました
見てもいないのにつらすぎる
日本の事を考えれば、内戦などせず、さっさと薩長に下るべきでした。時代は変わったのですから。
戊辰戦争が短期で終わったのが日本の近代化に拍車がかかった
阿部ザダヲが演じた溝口内匠が出て来ないのはなんでだろう
映画を観ていて「新発田の方はどういう状況で戊辰戦争後を過ごしただろう?いたたまれない…」と、詳しく知れたら…と思っていました。結構影響を受けた他藩があるじゃないですか!うわぁ…これは…。映画ですと阿部サダヲ演じる家老の「狡猾」「冷徹」を怖いという感想が見受けられました。しかし私は「立派だ…😭」と胸が詰まる思いでした。こちらのコメ欄で皆さんのお話もたくさん読めて勉強になりました。いつか新発田を旅したいです。
新発田から嫁を長岡はもらわないという長い怨念。新発田は長岡を裏切った。
新発田の裏切りも致し方ないのかな… なにが正解なのやら
時代……
しばた のアクセントが気になりすぎる 新発田市のしばたのアクセントではないのよね
御門違いでは無い。深謀遠慮とも云えるが…コレはね。褒め称えるものではない…。
会津も勤王の藩です!
正確には勤王だったのは孝明天皇に対してのみです。それ以降は天皇(新政府)に対して謝罪恭順をせず、天皇が派遣した奥羽鎮撫総督・九条道孝と醍醐忠敬を仙台藩と共に拉致・軟禁。さらに、北白川宮能久親王を奥羽越列藩同盟の盟主・東武皇帝(東武天皇)として即位させてたという説も意外と有力で、事実だったという見方が多いのですが、それを事実とすると親王を処罰しなければならないので、真相は伏せられているのではないかと思いますが、、、。戊辰戦争の最中、会津では次のような唄が流行ったと言います。「江戸が見たくば会津へござれ、いまに会津が江戸になる」藩祖保科正之は会津家訓の第一に「大君(徳川将軍家)の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず。」と言い残したのに、「会津は江戸」になると言ってみたり、慶喜が謝罪恭順しているのに、それに歯向かうように、上野や北関東に兵を送り、自らも天皇に対し、謝罪も恭順もしなかったという意味で、松平容保は勤王でもないし、藩祖までをも裏切ったのです。
俺が旧会津の血を引く家系だったら山口・鹿児島の民は差別対象にしてるだろうな
しないけど。適当言わんでくれ。山口の萩出身だが会津からの転勤族や会津の血を引いてる教師が居たけどイジメや差別とかなかったぞ。逆に会津から来る観光客とかに罵倒されたりとかはあったけどこっちは何時の話してんだよって感じだった。俺の周り以外はわからんが少なくとも俺の周りで会津の人間だからどうこう言ってる奴なんて見たこと無いわ。
戊辰戦争画策した「薩長」明治から令和と時代が変われど自然災害で薩長方面が被害を受けるのは何故なのかな----ど素人の思考
日本になった
ガトリング家老…
仙台藩、米沢藩はやる気の割に、戦闘での活躍がなさすぎ感が。
おううえつれっぱんどうめい
「新発田には嫁をやるな」子供の頃ですが中越地区ではコソッと囁かれてた言葉です。戊辰から100年経とうかという頃ですら残っていたという。。。
八方美人は命取りという典型例を教えてくれる映画
米沢出身です。新発田はねぇ…。おかげで米沢の総督、色部長門も新潟で戦死してます。まあ、歴史はみんなそれぞれ正義がありますからね。でも新発田はなあ…。
中国とか韓国に「日本は謝罪しろ」と言われると日本人はカンカンになって怒るのに日本国内の問題となると「◯◯藩は永遠に許さない」だの「◯◯出身者は信用するな」だの平気で言えちゃうのが面白いよね
世良やばい顔してる
新発田ハンw
官軍も官軍 で ろくなことはやってないが奥羽越列藩同盟って正真正銘のろくでなしだな
現代でも、立場あるアホ1人の号令で、何千万人もの人が地獄に落とされる。ね、岸田さん,小泉さん、鳩山さん,森さん。
この動画のどの場面になぞらえると?
そんな小藩をあてにする事自体、間違ってると思う
【訂正】
テロップに誤りがありましたのでお詫びして修正させていただきます。
1:39 -薩長奴- → 薩長土
奥羽列藩同盟→「越」が抜けておりました
追記:コメントにてご教示いただきました通り「奥羽」列藩同盟も間違いではないそうです!勉強になりました🙇♀
■参考資料
『北越戊辰戦争』/木村恬文/2021.11
アマゾン→amzn.to/3OtRsQO
『維新の墓標 : 昔々北越戊辰戦争で』/渡辺れい 著/2018.3
アマゾン→amzn.to/4g3QyWF
楽天→a.r10.to/hFbb1W
【編集後記】
今回は映画「十一人の賊軍」に合わせた企画になりますが、映画は未視聴です😂(原作小説は読了しています)
映画の内容と重なる部分がもしありましたらコメントにてお知らせいただけるとありがたいです。
幕末も面白いですが、未完シリーズが多くなっているのである程度消化してからにしたいと思います😓
長岡の者です。
奥羽列藩同盟で良いです。長岡藩が加わってから奥羽越列藩同盟になりました。
動画制作有難うございます。父方が会津藩で上官が長岡藩撤退の際に同盟会津藩としての供応が叶わずお腹を召しております。
(私は札幌在住ですが、この春に切腹の地を訪ね、お線香をあげさせていただきました)
そんな関係もあり新発田藩の話も先祖伝来伺っておりましたが、それぞれが生き残りを掛けた時代、双方が已む無き事情の上、
そして戦いは時の運と勢いと感じております。
日本の幕末ものは珍しいので、非常に興味深く拝見致しました。
またやって下さい。
ご先祖様の足跡をたどり新発田まで行きましたが、数十年前に役所が火災で焼けて戸籍などが焼失したとの事、
明治時代に東京に出てきた曽祖父が新発田の出身なのですが、それ以上たどれなくて残念でした、
亡き祖父の記憶では武士の端くれだったと聞いていたので、
この動画は非常に興味深く拝見させていただきました、ありがとうございました。
新発田出身ではありませんが興味深く拝見致しました。
あまり広く語られませんが戊辰戦争の一面を知ることができました。
こんな歴史があったのですね……なんて大変なところにあったのでしょう、新発田藩は。
私は関西人ですが父方が会津出身なので、幕末史には奥羽越列藩同盟の方に肩入れしていますが、秋田(久保田藩)以外でも必ずしも一枚岩では無かった事が分かりました。官軍側にも世良等の様な馬鹿げた現場指揮官ではなくて もっとまともで寛容な指揮官がいれば会津や長岡も悲惨な結果にならずに済んだのでは無いかと想像します。
世良が本当に馬鹿げてたかは分からない。
と言うのも、世良が書いたとされる有名な「奥羽は皆敵」という手紙は仙台藩が開戦を正当化するために宣伝した主張でしかなく、その原本は見つかっていない。
それどころか戦況が悪くなると、仙台藩は一転して、その手紙は会津藩が仙台を巻き込むために作った偽手紙だとか言い出した。
つまり、仙台藩の主張はその時その時でころころ変わるため信憑性が薄い。
ただ、世良と仙台藩に確執があったの確かであるが、それは会津討伐に名乗りを上げて東征軍を迎え入れたはずの仙台藩が突然融和を唱えだしたのを世良が咎めたからで、ある意味では当たり前だった。
世良が嘆願書を握りつぶしたと言うのは、ほぼ誇張されたデマで、実際は東征大総督府の方針を理由に反対意見を出しただけで、九条総督も納得の上で棄却している。
しかも仙台藩が嘆願書を受け入れて貰うために条件として出した「会津を謝罪させる」は会津自身が仙台藩に使者を送って拒否しているなど、完全に行き詰まっていた。
そして、世良暗殺を許可した但木土佐は佐幕派筆頭で、逆に恭順派筆頭の三好清房や勤王派筆頭の遠藤允信は土佐の動きに反対しており、世良暗殺は仙台藩の総意というわけでもなかった。事実、敗色濃厚になると土佐は仙台藩から切り捨てられた。
@@鮎の暇潰し
世良関連は誇張とデマが多いからなぁ
なんにせよ世良や官軍参謀は大総督府の方針に沿って動いてたから、彼らじゃなかろうと会津の政治的独立を認める指揮官はいないし、会津が降伏拒絶の立場である以上は何も変わらないと思う。
仙台藩が後日、会津の偽書に気づかず、騙されて戦争に及んだことを明らかにしています(仙台戊辰史他)が、時系列でみてみると、これが状況を理解しやすい。即ち、慶応4年4月15日に会津が「新政府に対し、謝罪しません、重臣の首も差し出しません」と新政府に返答し、家老の西郷頼母を総大将に大規模な軍を動かし、白河城を占領、先制攻撃をしたのは4月20日。世良の手紙に激高したのは、その前日の4月19日です。何のことはない、会津は北上を続ける新政府軍が白河に迫る前に、東北諸藩を激高させるような手紙を捏造し、白河城の戦いの戦端を切ったことの大義名分と東北諸藩を道連れにする口実をつくったのです。そもそも、世良の人格の問題を言うのなら、世良だけを殺せばよいもののを、動画にあったように、勝見善太郎や松野儀助、従者繁蔵、野村十郎、中村小次郎6名を皆殺しにし、さらに、奥羽鎮撫総督・九条道孝と醍醐忠敬を軟禁し、まさに後戻りできない状況をつくりました。
戊辰戦争を製作してくれて、ありがとうございます😊
戊辰戦争の他の戦いの映像化もお願いします!
新潟県では戊辰戦争の話になると長岡藩ばかりがクローズアップされています。けれど、新発田藩も生き残るために必死だったのですね。失いかけた新政府軍からの信用を得るために大きな代償も払った。とても勉強になりました。
映画「十一人の賊軍」を観る前に、偶然こちらのチャンネルに辿り着けました。ありがとうございます😊
明日”十一人の賊軍”を見に行きます。ちなみに私の母は長岡士族の末裔、父は卒族の出で、母が結婚することが決まった時に「新発田のような裏切り者と結婚するなんて」と祖母が言っていたそうです。先祖が見附の小競り合いで死後、野ざらしにさせられたという恥辱を受けた(後ほど近くの方々が目立たぬように石を置いただけの墓を作って弔っていただきました)ことで薩長や新発田の裏切りは許せなかったのでしょうね。
先祖が下越の某所ですが、昔親戚は新発田は裏切者だと言っていました。
新発田藩領が実家です。曾祖父が新発田藩鉄砲隊を預かっておりました。新発田と長岡の確執は初めて伺いました。
慈眼寺での小千谷会談の決裂が、岩村精一郎に原因があるように言われているが、すでに越後で新政府軍との間で戦闘状態にあった会津藩の暗躍が決定的。中立の立場を取る長岡藩を奥羽列藩同盟に引き込むために、会津藩指揮官の一之瀬要人と佐川官兵衛が、会談の直前に長岡と小千谷の中間の片貝で新政府軍を攻撃したのです。そして長岡藩の五段梯子の旗印を現場に放置した。この会談が行われた時、新政府軍は長岡藩の中立を到底信ずることができなかったので、
「長岡藩の老臣河井継之助来たりて面会を請う。寺にて会見す。河井が嘆願書差し出したが受け取らず。長岡は朝敵なり、他日兵馬の間に相見んと座を蹴った。河井失望し、夜を徹し面会を請うも許さず。河井は遂に長岡へ帰った」となったのでしょう。
ところで、後年、男爵にまで出世した岩村精一郎(のちの高俊)は、継之助の人物を知っていれば、慈眼寺での談判のやり方は違ったと悔やんだそうです。愛媛県では、積極的に旧藩士を登用し「民権県令・平民長官」などと呼ばれた。末広鉄腸は当時の功績・人望を高く評価しています。
ついでに、長岡藩は司馬遼太郎が河井継之助を持ち上げたので、人気がありますが、寧ろ、しなくても良い戦いをした河井をみんなが評価はしているわけではありません。
まずは長岡を戦場にし、重税も含め、領民苦しめたので、戦争中に大規模な一揆が起こった。それを鎮圧するのに長岡藩は手間取り、多くの領民が処刑されたことから、民衆は河合継之助と藩に冷ややかだったのです。近年では、長岡藩が敗れたのは最新鋭の装備をした山縣有朋率いる長州藩でなく、領民の反発のダメージの方が大きかったのではないかとさえ言われているようです。
一方、戦火で傷ついた長岡の再建に尽くした小林虎三郎も「米百俵」の逸話と共に人気。支藩の三根山藩から見舞いに贈られた米百俵を小林虎三郎は「この百俵の米は文武両道に必要な書籍、器具の購入にあてる」と藩士を説得した。
ちなみに小林虎三郎と河井継之助は、ともに長岡藩の藩校である崇徳館で学び、江戸で佐久間象山の私塾に通った経歴を持つライバルであり、互いに尊敬しあう仲だったのです。
映画11人の賊軍の時代背景知れて良かったです
新潟県の出身です。新潟の歴史が知れて面白かったです!
越後では会津、米沢、仙台などの大藩に近い小藩は、無理やり、列藩同盟に引きずり込まれました。新発田藩や村上藩などが典型的です。髙田藩は新潟の西側でしたので、最初から新政府側でした。越後以外では天童藩、三春藩は裏切り者扱いにされ、二本松藩の少年隊の悲劇の発端は、会津に脅され、藩主まで人質に取られたことが大きい。
お金の無い会津が、北海道をプロイセンに売ろうとした話も有名ですが、越後に進駐すると幕末では空前の略奪・暴行が起こります。長岡藩も会津の被害者だと言われています。即ち、会津の佐川官兵衛が小千谷での河井継之助と岩村精一郎の会談に合わせて、小千谷の郊外にある片貝村に兵を進め、待ち構えていた高田藩や尾張藩の兵と交戦。この時、佐川は会津藩の旗と長岡藩の旗をわざと戦場において撤兵しました。河井が小千谷会談で無下にされた理由ではないかと言われています。
さて、郷土史だけでも新潟市・新津市・水原町・五泉市・小千谷市・十日町・燕市・見附市等の市町村史に、会津藩兵によって民衆がいかに搾取・略奪され苦しんだのかと言う記述がされていますし、小千谷等の戦場が近い村々では、農兵への取立てまで行われました。
そのあまりの酷さに、米沢藩随一の主戦派、甘粕継成の日記に、「時に越地の人民会津を悪みきらふ甚深く恰も仇敵の如し。依之所在の郷村御家を慕ふ心ありと雖会と相合するのを以て味方する者なし。是を以て大面在陣以来、村民を雇て篝火を焼せ死傷を舁せ弾薬兵糧等を運はせんと欲すれども、家々の老若男女尽く逃散て一人も応ずる者なし。其内衝鋒隊の歩兵乱妨せしより、大面村民自ら火を家々にかけて我が軍を追出し、賊へ応ぜんと企つる者有之由村役より忠信出、早く会兵とはなれて御一手にて御持なされずんば遖れ御大事なるへしと云う(甘糟備後継成遺文)」と言って憤慨しています。
詳しいお話、ありがとうございます!
知らない事ばかりです。
この映画の背景がよく理解出来ました。
私のルーツは會津藩士です。
鳥羽伏見の戦いで曽祖父の兄が、戊辰戦争でその実父が
そして、その弟が白虎隊隊士として、新発田赤谷で戦死しました。
世間では、飯盛山で自刃した白虎隊が有名ですが、同じ白虎隊でも戦死した隊士もいたのです。
この事実を数年来から、会津若松市で講演させて頂いております。
是非、この事実を知って頂けるとありがたいです。
戊辰戦争で忘れてはならない小藩は上総国(千葉県)請西藩です。
城が無く陣屋しか持てない大名家として最低の一万石であるにもかかわらず、徳川譜代の大義を重んじて藩主自ら甲冑に身を固め出陣しました。旗本、御家人などを中心に組織された徳川遊撃隊と合流して箱根戦争から各地を転戦した後、仙台藩恭順とともに請西藩の戦争も終わりました。
請西藩は出陣時の総兵力僅か70余名ながら最前線で総督(総大将)である藩主が戦闘指揮を執り激戦を
戦った唯一の小藩です。
最後の藩主、林 昌乃助忠崇公は昭和まで生きた最後の大名として知られています。
請西藩は結果、所領までを没収された気骨の藩です。
新潟県には、別の意味で悲惨な殿さまがいました。村上藩の藩主内藤信民です。先代の内藤信親は「徳川慶喜が恭順の意を表明し江戸城を退去しており、徳川宗家の存続のためには、村上藩も将軍の意志を尊重して、錦旗を掲げる新政府軍に抗戦すること」は愚としていた。会津藩は藩祖保科正之が徳川宗家を第一に考えよと言う遺訓を無視し、慶喜の謹慎・江戸開城を良しとせず、上野、北関東に兵を送った逆臣で、慶喜からも遠ざけられていますから、会津は骨があり過ぎですね。
一方小藩の村上藩は、この動画にある新発田藩同様、「会米庄連合軍が村上藩を踏み潰すぞ」と半ば脅迫され、反新政府に立つ鳥居三十郎の一派が藩政を主導するようになり、新政府への帰順派の老臣たちを排除。そんな中、藩主の内藤信民が城中で首吊り自殺を遂げてしまった。当時18歳。
その後、村上藩は庄内藩ともに最後まで戦うが、庄内藩の降伏と共に戦闘を停止。先代の藤翁侯の謹慎、信民の勤王ゆえの自殺を含め、謝罪嘆願が認められ、村上藩5万90石は安堵されたことが唯一の救い。
新発田出身のものです。
昔婆ちゃんから「もし会津に行ったら新発田から来たって言うなよ」とよく言われました。理由も聞かされました。
映画を機にいい意味で新発田が盛り上がってくれたらと思います。
お城の近くで仕事していますが、お城に来る人が増えたような気がします。例年12月になると公開が冬休みになるようですが、今年はやっています。
私は仙台藩と越後高田藩の末裔です。東北の歴史はとても興味があります。
私が新発田藩藩主だったらどう判断するだろうか?と鬼気迫って視聴することができました。
誠にありがとうございます。動画を作成されましたこと、非常に感謝致します。
小藩の歴史は、なかなか視聴することは無いので、引き続きお願い致します。
新発田藩の裏切りは明治、大正、昭和と新発田市と長岡市をはじめとする周辺の市町村(福島県山形県含)から各分野で裏でほとんど決別状態だったようです。例えば新発田から嫁をもらうな、新発田の商人と商いするな等、新発田の人間を信じるな関わるなと言われていた。新発田の人達も新発田の外では身分を隠す事が多かった。
新発田民です。会津、米沢観光するときは、「新潟から来ました」と言ってます。噓は言ってませんww
新発田藩の幕末での事を取り上げて下さりありがとうございます。
昔、溝口さんというおばあちゃんにお会いしたので、「お殿様のご子孫の方ですか」と聞くと、お殿様の子孫の方は東京に行って新発田には居ないそうでもう亡くなられた旦那さんのお父さんが、新発田藩最後のご家老だったとか映像に登場した(半左衛門)だったのかな?
新発田藩から離れておりますが、沢海に北方博物館があり徳川慶喜の書状を見学する事ができます。沢海の近くに二本木があり新政府軍と戦って幕府軍に勝利した説もあります。沢海〜二本木は沼地で足場が悪く小舟でないと移動出来ない事が勝因だと思います。長岡城では河井継之助が購入されたガトリング砲が展示されて見学する事ができます。
映画の理解度が爆上がりしました・・・!
ガトリング家老💪 一騎当千のリングネーム✨ 勉強になりました🎵
「庄内藩」酒井玄蕃の動画お願いします。あと「峠 の長岡藩」河井継之助、「米沢藩」目線でも。
北越戊辰戦争といえば会津ぐらいしか知らなかったが...
このビデオはとても良いので、見た後、最初からやり直したいです!
「西南戦争」の時も薩摩出身の士官が矢面に立たされた。
長州藩にしてみれば、薩摩藩に対しては「蛤御門の変」以来の恨みがあったから。
私の曽祖父の時代です。新発田藩の鉄砲隊を預かっていたそうですが、この場にもいたのでしょう。
この時の戦いぶりが評価されたのか、新発田には陸軍の歩兵第16連隊の駐屯地が置かれました。この部隊は編成以来、日清戦争から第二次大戦まで各地を戦い抜きましたが、中でもガダルカナル島の戦いで主戦力の歩兵隊が全滅するという過酷な目に遭っています。
今回も、軽快な音楽とおじいちゃんの迫力満点の解説は❤良いですね!
官軍と幕府軍は、最低ですね。
当時の庶民がとてもかわいそうです。
とても素晴らしい動画でした。また楽しみにまってます。ティムールとか、サラディンなどの戦いをお聞きしたいです。
いやあ~感動しました、自分・故郷が秋田・大仙市ですので現住所・静岡県磐田市から帰郷時は良く日本海沿岸道を通り旧新発田藩を通って居た事になります。そんな、歴史の中を通って居た事や何事無かったような現代を思うと、戦死やその家族の無念を思うと涙が滲みます!
そう言いながらも、我が先祖も過酷な試練の中・人類発足から永遠と命を繋げたかと、犠牲者を偲び思いに耽ってます?
生まれも育ちも鶴岡市です。
前に、仕事で一緒だった方が確か胎内市へ赴任されていた時に「鶴岡から来ました」と自己紹介すると現地では若い方は何でも無いのにお年を召した方からはあまり良い顔をされないと聞いた事があります。
それと、小学校時代の定年間際の担任は新庄(山形県)の人の言う事を信用は出来ないと発言していたのも記憶しています。
新発田人です! 「会津猪米沢猿で新発田狐に騙された」とも揶揄された、戊辰の新発田の汚名をそそぐ動画、本当にありがとうございました!!
⭕出来ましたら、庄内藩酒井玄蕃の物語を希望します‼️
うちの夫婦は、先祖から、旦那のほうは、会津藩、私のほうは、新発田出身。
このような、先祖が敵対していた夫婦は、世界でたくさんいらっしゃるのでしょうね
列藩同盟が負けるのが遅くなれば北海道が大変なことになっていたかもしれないので、新発田藩の立ち回りは影の功労者ともい言える。
庄内藩、村上藩「俺たちは⁈」
東北っていつも損ばっかだよな
ほんとに会津を含む東北方面の戦争は、降伏した幕府に対して主敵を見失った薩長側の八つ当たり・リンチ的な意味合いもあったのでしょう😮
後知恵ですが、日本の国力を疲弊させた戦いだったと思います。
阿弖流為の頃から……😢
西南戦争では会津藩とした警視庁抜刀隊を編成させて鹿児島に派遣させて名誉挽回させる。
徳川慶喜の命を受けた山岡鉄舟や勝海舟との西郷との会談で「江戸城無血開城や慶喜が水戸で謹慎すること」など、話は上手くまとまり徳川慶喜は恭順し水戸で謹慎。
尾張徳川藩主、徳川慶勝公も新政府側につき新政府の一員として、戊辰戦争勝利のために奔走。
徳川慶勝は東海道や中山道沿いの諸藩を、新政府に帰順させた。
無血開城された江戸城は尾張徳川藩が管理を任された。
紀州徳川藩主である徳川茂承公は、新政府に叛く意志はないということを証明するため、藩兵1500人を新政府軍に提供すると共に、軍資金15万両を献上した上、新政府の勅命により京都警備の一翼を担った。
譜代筆頭の井伊家も戊辰戦争では、真っ先に新政府側に付き箱館(函館)を除く戦争の全局面に参加している。
徳川は、あっさり新政府側になったのにね。
@ 博士いたーー
いつか幕末最強と言われ、一兵たりとも領地に入れず更に秋田藩に進攻した庄内藩を取り上げて欲しい!
特に逆北斗七星の破軍星旗を掲げ、軍旗を観たら逃げ出す新政府軍も続出した名将酒井玄藩率いる第二大隊!
占領地での略奪暴行を許さず、違反した仙台藩士を処罰し若き捕虜には路銀を与え解放し、和歌や横笛を嗜み余りの高潔な人柄から進攻した秋田の人々からも庄内様と慕われたと言う。
戦後、薩摩高官から「鬼玄藩と武勇を欲しいままにした御仁がこのような美男子とは! 」
と感嘆させたそうです。
幕末の戊辰戦争では庄内藩全軍の半数近くにおよぶ約2,000人の農民・町民(農兵2,031名、鶴岡商兵184名)が兵に志願し、戦闘で300人以上の死傷者を出しながらも最後まで勇戦しました。
これは庄内藩が財政改革を豪商の本間光丘に任せたことが大きく、何から何まで家柄・門地優先の硬直した組織を持つ会津藩と異なる。また、戦闘を若き酒井玄蕃に指揮を委ねたことも凄いが鬼玄蕃の手腕も戊辰戦争随一。
敗戦後に明治政府から藩主酒井忠宝へ移転の処罰が下されたさいには、家臣領民を上げて30万両の献金を集め明治政府に納めることで藩主を領内に呼び戻している。庄内の身分を越えての団結力は凄い。
長州藩は支藩を含め、奇兵隊他、諸隊は最大5000人と言われていますが、庄内藩との共通点は教育、頑迷な朱子学(幕府、会津)でなく、徂徠学という柔軟な哲学と財政が豊かであった点。会津はカネがなく、領民に重税を課していたので、農民・町人兵は殆どおらず、逆に、藩内で一揆が起こった。
岩村精一郎高俊とかいう決して外交をさせてはいけない人物
知事としては優秀だったみたいだし(ちなみに悪名高きナポレオン3世も内政は評価されてる)政治には得手不得手があるんだなあ
どうかな
維新元老の山縣有朋は第1次世界大戦のベルギーの動きを見て「初めて河井継之助の気持ちが分かった」と述べた一方で、結局ベルギーの立場などドイツも協商国も考慮しなかった現実から「どうあがいても中立など無理だった」と結論付けてる
つまり結局のところ、明治政府の方針が決まっている限り、岩村精一郎じゃなかろうと史実は変わらなかったということになる
北越戦争では河井継之助をキレさせ、佐賀の乱では島義勇をキレさせ、岩村精一郎という人物は、「人を怒らせる才能」に関しては、定評(?)のある人物だと思います。
@@原田浩太郎-e3w どっかの元知事みたいな人か。
相手が自分より「下」とみると威丈高になる人種。
いろいろと歴史があるんだなあと感心しています。
十一人の賊軍に史実のモデルがあることを初めて知りました。
新発田の人間です。
どうであれ、日本海側に現存するお城は島根の松江城と越後の新発田城だけです。壊されずにすみました。
これも一つの答えなのかなと思っております。
新発田城址
陸自30連隊
かつて所属してた。
新発田市出身俳優
仮面ライダー2号
仕事人 ヒデさん
新発田藩と同じく小藩の天童藩の戊辰戦争も大変だったそうです。
こちらで歴史を勉強させていただいております。リクエストはこちらでよろしいのでしょうか?できたら長岡戦争で長岡城を奪還の際、負傷兵を看護しているところにガトリング砲を駆使して長岡城を奪還し、後に魔王か救世主かと両極端の評価を受けている河合継之助をお願いしたいと思います。よろしくお願いします。
一般的には長岡藩から見た歴史、すなわち裏切り者だと思います
でも、どこの藩も生き残るために必死なこの時代、この動画のおかげで考えを改めました
映画よりはこっちのストーリーの方が好き。
溝口家老を主役にした方が面白そう。
元々新発田は上杉に恨みのある土地柄だから、米沢と相容れないよね。
新発田重家の乱は、大河ドラマ「天地人」ではまるまるカットされてましたよね…
@@原田浩太郎-e3w 様 天地人はただの娯楽作品、史実なんて無視の駄作です。
@@福ら雀 しかも慶長出羽合戦もほとんどカット、前田慶次も最上義光も水原親憲も出てこないという体たらく……
@@原田浩太郎-e3w 様 そうそうw🤣
@@原田浩太郎-e3w 様、火坂さんの原作では、前田慶次はしっかり描かれてるのでキャスティングが難航したとかですかね。とにかく苦笑いしかなかったです
列藩同盟内部もいろんな事情が渦巻いていたことが分かりました。
幕末維新で言えば田原坂の戦いをリクエストします。
すごく好きなチャンネルです!
幕末の越後11藩の内、京屋敷を設けて情報収集にあたったのは新発田藩のみです。とりわけ十代藩主 溝口直諒公は「尊王開国」で藩論を統一。既に時代を先取りしていたとも言えます。
配信ありがとうございます。
愛と調和で生きることが
叶わなかった昔の人々は
かわいそうですね。
(上の都合で振り回される。)
そもそも調和しようという
姿勢があれば
戦はしなくてよいのですが、マウントの取り合いは見苦しいですね。😊
新発田市に住んでいますが、この様な歴史は全く知りませんでした。私の先祖は溝口藩に仕えて居ました。ちょっとショックです😨
ともすれば奥羽列藩同盟は東北独立もあり得たかとさえ思っていましたが、複雑な事情が入り組んだ脆い集合体だったのだと感慨深く思います
今まで内の倉で戦場だったと伝わる旧街道を何気にスルーしていたので、この際そこを目的に訪れてみたいです。
新発田の近く、村上なんてのはどうでしょうか?
阿賀野川から北は上杉に意外と反抗的で
戊辰戦争時も村上城下を戦場にせぬよう
精鋭で山のほうで陣を構えたとか まあ
戦国時代から維新にかけて語られることがあまり無いんですよ。
新発田出身です。
今回 幕末の新発田が舞台の映画が出来て本当に嬉しいです♪
確かに小さい頃は新発田出身とあまり知られないようにと言われてました。特に会津若松 長岡 米沢の人には。
「新発田は裏切りとか悪い事はしてない。当時のお殿様達がきちんと正しい情報を集めて上手く立ち回って下さったお陰。でもね、周りが敵(幕府軍側)ばかりで官軍に大変な目に遭わされた所が沢山あるから、無事であった新発田が恨まれるのはしかないのかも。
だから、黙っていなさい」
と祖父母は言ってました。
もうアラ還なので 記憶が曖昧になっているのですが、
幼い頃 祖父母から、ここの家の人が幕末長崎で情報集めて新発田に伝えてくれたんだよ、ここの家の人は京都でね、、、。って教えてもらいました。どの家かは忘れてしまいましたが、教えてもらった事は覚えてます。
幕末の頃の新発田について昔話のように話してもらってました。
映画の方言が嬉しかったです。
長岡市民ですが、はっきりしていることは新発田藩は旧幕から新政府に寝返った行動で自分達は被害を免れ、多大な損害を出した長岡藩からは、明確な裏切りと見なされたと言う事です。
「新発田に嫁をやるな」と言う言葉がありますが、これはこのときの長岡士族の言葉です。会津の女傑である新島八重は、会津戦争の仇だった薩摩長州を生涯許さなかったそうですが、長岡の新発田に対する怒り憤りは、それに劣らぬほど根深いものだったのだと思われます。そして、戦国時代から変わることなく、新潟は長岡藩の港であり、沼垂は新発田藩の港であったのです。
今となっては仲が悪いとかはないと思うのですが⋯
新島八重のお兄さんを助けたのは薩摩藩ですよ。彼の提言は会津藩では全く理解されなかったが、薩摩家老の小松帯刀や西郷隆盛が激賞した。そして、お兄さんが京都で大活躍できたのは、長州藩出身の京都知事である槇村正直抜きにはあり得ない。そして、旦那の新島襄も八重も長州藩に破格の援助を受けています(以下そのエピソード)
新島襄は幕末にアメリカに密航していたが、アメリカ訪問中の岩倉使節団に加わっていた木戸孝允は、木戸専属の通訳として使節団に参加させた。これが彼の人生最大の転機だった。明治8年、新島は大阪で木戸孝允に会い、豪商磯野小右衛門から出資の約束を得て大阪での学校設立を目指したが、府知事渡辺昇のキリスト教反対のため断念し、木戸の勧めにより長州出身の槇村正直が府知事を務める京都を新たな候補地と定めた。そして、槇村は仏教の牙城、京都でキリスト教の学校の設立に向けて動いたのです。
新島襄は学校設立に向け、たびたび京都府権知事の槇村正直のもとを訪ねていた。あるとき、槇村が襄に訊いてきた。「新島さん、あなたは、妻君を、日本人から迎えるのか、それとも外国人から迎えるつもりなのか」襄は、槇村に答えた。
「外国人は生活の程度がちがいますから、やはり日本の婦人を娶りたいと思います。しかし、亭主が『東を向け』と命令すれば、3年でも東を向いているような東洋風の婦人はご免です」「それなら、ちょうど適当な婦人がいる。山本覚馬氏の妹で、いま、女紅場に奉職している。たびたび、わたしのところへ『女紅場に補助金をくれ』と陳情に来るのだ。学校の幹部たちはわたしを恐れて来ないが、あの婦人はそうじゃない。どうだ、その娘と結婚しないか。結婚するなら、わたしが仲人をしてあげよう」
新発田ー長岡だけでなく、新潟市内でも旧新発田藩領の沼垂(ぬったり)地区を良く言わない風潮がある
新潟駅誘致でも対立があり大騒動があったらしい
関ヶ原のに闘い本当の!宜しくお願いします
新発田が、海沿いの地勢であったことも、良かったのかもしれない。
少し、飛躍的だと言われそうですが、勝海舟と毛利が裏で繋がっていた可能性は無いのでしょうか?新潟県の柏崎市にある北条(きたじょう)地区はかつて、北条一族に追い詰められ、この地で逃げ延び、「北条城(きたじょうじょう)」を築きました。これが「越後毛利」と言われる者達です。やがて、配置転換で毛利一族は、九州に行く事となります。
一方、勝海舟ですが、確か、勝海舟の祖父にあたる人が、この北条(きたじょう)地域の長鳥(ながとり)という地区の出身で、後に江戸に出て来ることになります。実は、この北条地域から、あぜあ峠を越えたすぐ先が長岡市(旧長岡藩)となります。
荘内藩が入ってません。会津と同様朝敵とされたことと、酒井玄蕃は入れてほしいと思います
新発田藩の幕末の境遇勉強になりました〜!ありがとうございます。😊
福岡の岩屋城の戦いを取り上げてほしいです。立花宗茂公の実父高橋紹運公の玉砕合戦!
うちの近所には高橋紹運公の菩提寺・紹運寺、高橋紹運公と夫人の宋雲尼、次男の立花直次公を祀る三笠神社があります。
結局、幕末も利権争いだよな。殺し合うか現代みたいに誰かを嵌めるか。
やってる事はかわらんよのー
ここは佐々木源氏の名門としてそれなりに重きをおいた藩だよね 堀部安兵衛の出身地
新発田は旧上杉領かつ弱体化を余儀なくさせた内紛の火種、新政府軍を前にしてもそうした背景が動機だったのではと情けなく見ています。
そうなんだよね。なぜか仙台、米沢がやる気になってたから東北は戦争になったんだよね。
それがなかったら会津もさっさと恭順してたかもしれない。
いつかこのチャンネルで、秋田口の戊辰戦争も取り上げて欲しいです。
あまり注目はされてないですが、成り行きで官軍側になった秋田は奥羽諸藩から攻撃されて大変な目にあったんですよ。
秋田藩は平田篤胤の故郷だから、藩士や豪農商に平田国学の復古思想の信奉者が多かった。
越後の小藩の1つ、村松藩の末裔なのでありがたい動画です。
官軍憎しなので映画後にこちらの動画は勉強になります。
しかし、どちらが正解かは未だに難しい問題になりますね、新発田は城下への戦火を回避したし、今は自衛隊があるので。
真田昌幸のような策士が居たとは知りませんでした。黒を白と流される昨今ですが動乱の時代に信念を持って生きた。ラストサムライですね。
大阪の字が大坂になってる!
「大阪」を使い始めたのは明治以降、しかし、「大坂」が併用される時期は続き、最終的に「大阪」に統一されるのは、明治20年ごろだとされています。
「坂」の字は土に反(かえ)る、即ち、お墓に入るという意味になるので「阪」と書くべきだ、という意味だとか。
ノモンハンをお願いします。
「新発田藩」のアクセントがおかしい。AIなの?
🎉 村上 半島 鶴岡さんは出てこないんですね 西郷隆盛と戦ったのは 村上と鶴岡です 山芋 強すぎて 最後には 鶴岡のお城も 焼けなかったです 幸福はしませんでした 話し合い 話し合いをして 興奮しました 村上のお城は燃やしました
見てもいないのにつらすぎる
日本の事を考えれば、内戦などせず、さっさと薩長に下るべきでした。時代は変わったのですから。
戊辰戦争が短期で終わったのが日本の近代化に拍車がかかった
阿部ザダヲが演じた溝口内匠が出て来ないのはなんでだろう
映画を観ていて「新発田の方はどういう状況で戊辰戦争後を過ごしただろう?いたたまれない…」と、詳しく知れたら…と思っていました。結構影響を受けた他藩があるじゃないですか!うわぁ…これは…。
映画ですと阿部サダヲ演じる家老の「狡猾」「冷徹」を怖いという感想が見受けられました。しかし私は「立派だ…😭」と胸が詰まる思いでした。
こちらのコメ欄で皆さんのお話もたくさん読めて勉強になりました。いつか新発田を旅したいです。
新発田から嫁を長岡はもらわないという長い怨念。新発田は長岡を裏切った。
新発田の裏切りも致し方ないのかな… なにが正解なのやら
時代……
しばた のアクセントが気になりすぎる 新発田市のしばたのアクセントではないのよね
御門違いでは無い。深謀遠慮とも云えるが…コレはね。褒め称えるものではない…。
会津も勤王の藩です!
正確には勤王だったのは孝明天皇に対してのみです。それ以降は天皇(新政府)に対して謝罪恭順をせず、天皇が派遣した奥羽鎮撫総督・九条道孝と醍醐忠敬を仙台藩と共に拉致・軟禁。
さらに、北白川宮能久親王を奥羽越列藩同盟の盟主・東武皇帝(東武天皇)として即位させてたという説も意外と有力で、事実だったという見方が多いのですが、それを事実とすると親王を処罰しなければならないので、真相は伏せられているのではないかと思いますが、、、。戊辰戦争の最中、会津では次のような唄が流行ったと言います。
「江戸が見たくば会津へござれ、いまに会津が江戸になる」
藩祖保科正之は会津家訓の第一に「大君(徳川将軍家)の儀、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず。若し二心を懐かば、則ち我が子孫に非ず、面々決して従うべからず。」と言い残したのに、「会津は江戸」になると言ってみたり、慶喜が謝罪恭順しているのに、それに歯向かうように、上野や北関東に兵を送り、自らも天皇に対し、謝罪も恭順もしなかったという意味で、松平容保は勤王でもないし、藩祖までをも裏切ったのです。
俺が旧会津の血を引く家系だったら山口・鹿児島の民は差別対象にしてるだろうな
しないけど。適当言わんでくれ。山口の萩出身だが会津からの転勤族や会津の血を引いてる教師が居たけどイジメや差別とかなかったぞ。逆に会津から来る観光客とかに罵倒されたりとかはあったけどこっちは何時の話してんだよって感じだった。俺の周り以外はわからんが少なくとも俺の周りで会津の人間だからどうこう言ってる奴なんて見たこと無いわ。
戊辰戦争画策した「薩長」明治から令和と時代が変われど
自然災害で薩長方面が被害を受けるのは何故なのかな----ど素人の思考
日本になった
ガトリング家老…
仙台藩、米沢藩はやる気の割に、戦闘での活躍がなさすぎ感が。
おううえつれっぱんどうめい
「新発田には嫁をやるな」
子供の頃ですが中越地区ではコソッと囁かれてた言葉です。
戊辰から100年経とうかという頃ですら残っていたという。。。
八方美人は命取りという典型例を教えてくれる映画
米沢出身です。
新発田はねぇ…。
おかげで米沢の総督、色部長門も新潟で戦死してます。
まあ、歴史はみんなそれぞれ正義がありますからね。
でも新発田はなあ…。
中国とか韓国に「日本は謝罪しろ」と言われると日本人はカンカンになって怒るのに
日本国内の問題となると「◯◯藩は永遠に許さない」だの「◯◯出身者は信用するな」だの平気で言えちゃうのが面白いよね
世良やばい顔してる
新発田ハンw
官軍も官軍 で ろくなことはやってないが奥羽越列藩同盟って正真正銘のろくでなしだな
現代でも、立場あるアホ1人の号令で、何千万人もの人が地獄に落とされる。
ね、岸田さん,小泉さん、鳩山さん,森さん。
この動画のどの場面になぞらえると?
そんな小藩をあてにする事自体、間違ってると思う