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今年も楽しみにしております
あけましておめでとうございます。このようなお心遣いをいただき恐縮です。少しでもお役に立てる動画発信を目指しますので、今年もよろしくお願いします。
物語の内容が日本書紀の記述とかなり異なるのに天皇の系図だけは日本書紀と寸分たがわず同じというのが奇妙。このへんに謎を解く鍵がありそうな気がします
あけましておめでとうございます。おっしゃる通りと思います。景行天皇と日本武尊、応神天皇と仁徳天皇は、どちらも本来兄弟でしたが、文武天皇朝以降に行われた紀年延長操作によって親子に改変されたと考えていますが、『古事記』でも兄弟になっていますから、同時あるいは『古事記』の方があとに編纂された可能性があると思っています。
確かに『古事記』序文には手が加えられているようです。読みの注記にしても確か殆どが上巻に関するもので、上巻にはかなり手が加わっていると思えます。しからば上巻は何を語ろうとしているのか。記は下巻推古で終わっていますが、推古の次の舒明と皇極を上巻のスサノオとアマテラスに配置してみて下さい。やや大まかではありますが、ニニギ・ウガヤフキアヘズ・神武が、草壁・文武・聖武に相似形であることに気付くでしょう。新しい事象を古い時代に移動させるのを「加上説」と称しますが、記の構造は上巻の神話の寄せ集め全体が加上説で成り立っているのです。
「加上説」、すごい説ですね。そういうこともあったかと思ってしまいそうです。ちなみにですが、相似形が系譜のことであれば、瓊瓊杵尊・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊・神武天皇の相似形は天武天皇・草壁皇子・文武天皇ではないでしょうか?とにかく、序文を信じるなら、天武天皇記がないのがあまりにも不自然です。
@@J-history 返答有難うございます。更に仮説を追加させて下さい。アマテラス対スサノオは天智系対天武系を表しています。結局天武系は根の国に追いやられて天智系が皇統を独占します。天武主体の古事記のはずが上巻の徹底的改変により天智系のための物語に変えられてしまいました。これが古事記神話の秘密だったのです。稗田阿礼は人麿と不比等の二人を合成した人物像であるという梅原説を私は指示しています。古代史の専門家に支持者がいないことは知っていますが。
屋上、屋を架す。🎉
あけましておめでとうございます。新年早々興味深い投稿ありがとうございます。古事記本文にばかり目をとらわれていて序文は気にもしていませんでしたが、ここまで考察できるとは目から鱗でした。たしかにいろいろな疑問が出てきますね。神武=崇神説にまったく同意します。ウガヤフキアエズと欠史八代で整合性がとれないのはそこに系譜の継ぎはぎがあったためで、もともとウガヤフキアエズは崇神(神武)の九州からの系譜を、欠史八代のニギハヤヒ(物部)系の伝承のあとに足したものだったんじゃないかと仮説を立てています(ニギハヤヒの位置に崇神の前半生(神武)を仮冒)。ただ、系譜は全く興味の範囲外で証明法を考えるのが面倒で面倒で(* ̄- ̄)ちなみに 10:27 の「賢后」を崇神とされていますが、「后」というからには息長帯姫かと思ったのですがどうなんでしょう?
あけましておめでとうございます。たしかに系譜は面倒ですね。一書(異伝)や古事記を参考にすると収拾がつかなくなりますから、私は『日本書紀』本文のみの系譜を作成して考察に用いています。初代天皇については、東征以前を彦火火出見尊、主に東征前後を神武天皇、主に即位後を崇神天皇として記述されていると考えるとすっきり腑に落ちます(私見)。「后」については、魏志倭人伝でも「夏后少康」が出てきますが、「天子」「皇帝」の意味で用いられます。この時期の撰述は中国史書を参考にしていると思われますので、特に女性と考えなくてよいのではと思います。
『国史』という『原日本書紀』又は『古事記』と関連のありそうな史書が714年に撰上されています(『続日本紀』の記事)。無事績年削除法を駆使して『原日本書紀』を想定されていますが、『古事記』→『原日本書紀』→『日本紀』→現行『日本書紀』という道筋もあると思います。神武即位は*667でした(『宋史』引用の「王年代記」)。『古事記』も*667で現行『日本書紀』は*660です(*667→*662→*660という移動があった)。先生の近著を買い求め、人物画像鏡の銘文解釈が拙論と異なることを知りました。今後とも教わると同時に疑問点を投げ掛ける所存です。
あけましておめでとうございます。秘数術については知識がありませんのでご返事できないことが多いと思いますが、今年もよろしくお願いします。疑問はどんどんご投稿ください。
@@J-history幾つかの指摘。①「ヨウ習」は暗記ではなく解読の意味のはず。②稗田阿礼は人麿と不比等のダブルイメージ(梅原説)。③人物画像鏡の解釈は(私は少数説であるところの)坂田隆説に与しています。④数秘術は江口洌『古代天皇の聖数ライン』(河出書房)が手頃でしょう。紀年論には必須と思われます。①〜③は無視して結構。④は紀年論には必須だと思います。
@@宮本孝正 ご返信ありがとうございます。数秘術については昔、人に薦められて読んだ本がありましたが、どうも数字合わせの趣を感じてしまい、読破を断念した記憶があります。申し訳ありませんが。
@@J-history 江口説を要約すると「暦法の数と三才の数が大きな意味を持っている。17,19,23,26,60,197,235,365がその数である。」私はこれ以外に累乗数や西暦による実年代が数秘術として使われているので「魔法数」と名付けました。貴著126頁に「『春秋』は*722の即位から云々」とありますが、722=2×19×19で魔法数です。『古事記』は19nが優位、『日本書紀』は17nが優位であるように紀年作成がなされています。19年の無事績年の19も聖数であることに意味があるかも知れません(これは臆断です)。
宮本某は、人の話を聞けないアフォな人なのかな?😅
序文で最大の謎は段落下げがあること、冒頭1文字空いていることかな飛鳥時代の階級には「大・小」がついたので姓(かばね)とわかるようしたかったのかもね、ちなみに、「乾坤(卦の時間、前後や秩序のこと)」「陰陽(卦の空間、左右や土地の広がりのこと)」「小浜で諭[さと]し(言い負かし)」「ひるがえる旗は兵を耀[てら]し」、「日下(前面、陽の当たる側)」、「帯(後背、影のつく側)」だろうね、比較的平易な日常語であって、これらを文字資料があった痕跡とまでは言えないもちろん、四書五経の教養があればこうは読まない、かわりに時代考証がおかしくなるんだよ、例えば、卦(ぼく)は時代ごとに解釈が異なる、乾坤(天地)・陰陽(男女)という八卦が知られるようになったのは江戸以降だったと思うよ、だから序文は「江戸期に書かれた」なんてこと説いたら笑われちまうよ
あけましておめでとうございます。貴重なご意見をありがとうございます。「小浜で諭し」だとすっきりしますが、角川ソフィア文庫版は「論」の文字が使われ「あげつらう」と訳されていました。「日下」「帯」の件は、「日下」という字を「玖沙訶(くさか)」と読み、「帯」という字を「多羅斯(タラシ)」と読むが、その類のものはそのままにした、と書いていますが、では一体、稗田阿礼はどのように憶えていたのか?というのが不思議だったのです。
アップ有難う御座います! 古事記と倭人伝で題材は違いますが、研究手法というのが、極めて近いものを感じますね! 古事記は、正直食わず嫌い状態なのでもっと勉強していきたいです!
岡上さん、あけましておめでとうございます。『古事記』についてはいつどのように成立したのか、来歴が定かではありませんので、深く研究するのは難しいと思います。そこを無理やり追究すると、あらぬ方向に向かう危険性を感じています。
なるほど確かに、この序文の大部分は古事記の序文ではない匂いがしますね古事記そのものは稗田阿礼が旧辞や帝紀などを筋が通る様に曲解して繋げた昔話だと思いますので、稗田阿礼が唐突に飛び出した部分が本来の古事記の上表文で、後世に誰かが他の正史の上表文を挿入して改変したのではないですかね天武天皇の御代に稗田阿礼が創作した古事記が文字になって太安万侶の家に伝承されていたものを、元明天皇の御代に急遽献上することになり、音訓の乱れなどの言い訳を添えて献上した様に感じました
あけましておめでとうございます。稗田阿礼の『古事記』が文字になって太安万侶の家に伝承されていたというのは面白い説だと思います。しかし、天武天皇が自身の王朝の正統性を確立するために編纂を命じたとすると、『古事記』の事績・出来事が顕宗天皇記で終了し、系譜も推古天皇で終了していることが不思議なのです。最低限、天武天皇即位までを記す必要があるように思われます。今年もよろしくお願いします。
ご返信・ご説明をありがとうございますでしたら稗田阿礼は推古天皇の次の舒明天皇の時代に古事記を創作して、文字になって太安万侶の家に残っていた説に改めます😅蘇我蝦夷が実権を握っていた時代なので、蝦夷のオーダーで創作したのかな
@@qwerty-td6qt ご返信ありがとうございます。『古事記』は古い時代に著述されていたという説を読んだことがあります。もともとが舒明天皇時代の創作とすれば、筋は通るかもしれませんね。
あけましておめでとうございます🌅古事記や日本書紀は難しく苦手な分野の為、分かりやすく解説していただき助かります😚なお、6世紀頃の古墳ともなれば、銘文入り鉄剣など文字資料が発掘されても良さそうですよね(¯―¯٥)笑
あけましておめでとうございます。古墳だけでなく、もっと金石文は発見されてもよいような気がしますが、とても少ないようにみえますね。今年もよろしくお願いします。
あけましておめでとうございます。わたくし 安萬侶が申し上げます。武田祐吉現代語訳の序文が始まりでした。古事記の世界はメルヘンでファンタジー溢れるお話が綴られます。太安万侶を敬愛して止まない所以です。当チャンネルに出会った頃の仮説にも促されてアッチコッチウロチョロしました。ホント楽しい時間です。謎解きの楽しさを提供してもらっているお礼に安万侶のお墓参りや稗田阿礼を祀る賣太(めた)神社お参りしました。今年も新説期待します。
あけましておめでとうございます。今年もぼちぼちの動画アップになると思いますが、気長にお付き合いください。よろしくお願いします。
なるほど、第五ブロックを取れば、確かに天武天皇で繋がるね。ちなみに、皇帝を天皇というのは、則天武后が一時期採用してますね。最近、資治通鑑翻訳をしていて、気がついた。
岡さん、あけましておめでとうございます。今年も早々からお世話になりますが、よろしくお願い申し上げます。今回の考察で、ますます『古事記』への疑念が深まりました。『古事記』をより深く勉強したとは思いますが、私のライフワークともいえる紀年復元にはあまり役に立たないように感じています。資治通鑑など中国史書の側から、新たな発見がありましたら、ぜひご教示ください。
毎回楽しく拝見しています。コメントは時々ですが。今回の仮設に関してつじつまは非常に合いますね。竹田さんの現代語訳を読んだことがありましたが何か印象が違います。仮説。正しい気がしますね。
あけましておめでとうございます。いつもご視聴ありがとうございます。このチャンネルの根本的なテーマは「紀年論」ですので、『日本書紀』の本文を基本テキストとしています。だから、『古事記』を参照することはあまりないのですが、今回序文をちゃんと読んでみたら、こんな考えに至った次第です。引き続き今年もよろしくお願いします。
稗田阿礼は今で言うサヴァン症候群でしょうか?文章を一瞬で画像記憶してしまう天才。ニコラ・テスラも画像記憶出来たそうです。
あけましておめでとうございます。画像で記憶できれば、確かに「日下」「帯」の疑問も解消しますね。
ありがとうございます。勉強になりました。唐というか武則天というか、乗っ取られたように感じたのは私だけでしょうか?黄帝、周王、夏禹王、殷湯王を超えたと称えているのは・・・なんとも。日本の王を讃えるなら、私なら、神武に近づき、応神の如し、とかという称え方をするけどな・・・。深掘りいただけると。。
あけましておめでとうございます。天武天皇当時は、白村江の大敗から立ち直りつつある時期であり、中国と対等な関係を再構築しようと模索している時期だったのではないでしょうか。『日本書紀』もそうですが、漢文での記述には中国史書からの引用がとても多く見られます。天皇を、そこに記された名君・天子を超えた存在として位置付けたいと考えたのだと思います。
新年快乐序文はファンタジー作家で言えばテンプレでしょう、稗田阿礼は口伝の伝承者か、たった4ヶ月で編纂だから原古事記を持ってたかも知れません!
謹賀新年。今回、稗田阿礼についてはかなり疑念が深まりました。稗田阿礼の非実在説なども目にしたことがありますが、その可能性もかなり高いのではないかと思うようになりました。
『古事記』の序文を通読(?)したことがなかったので勉強になりました。極めて画期的な新説だという風に感じましたえ。『日本書紀の謎を解く』のα・Β群や推古朝遺文など断片的な単語しか知りませんが、『古事記』の序文というのは日本書紀と同時期程度に古い特徴を兼ね備えた文章なのでしょうか?後世に取ってつけたみたいな説も見受けられるので、そこらへんの整合性や妥当性でも補強されるなら更に面白くなってきそうですね。遅くなりましたがあけましておめでとうございます。本年も楽しみにしております。
あけましておめでとうございます。『古事記』については、成立時期などについて明確でないことや、基本的に編年体史書でないことから紀年復元に用いることができないので、これまでほぼ考察の参考にはしていませんでした。今年は少し『古事記』についても勉強していきたいと思っています。引き続きよろしくお願いします。
あけましておめでとうございます。稗田阿礼については、なぜ文字資料があったのに暗記・暗誦する必要があったのかと、たしかに違和感がありますね。なんとなく日本語を漢字で表す表記方法に統一されたルールが無かったため、それらを読み下せるのが稗田阿礼しかいなかったのだろうな、と漠然と考えていましたけど。
あけましておめでとうございます。「読み習わす」の定義の問題もありますが、いったい稗田阿礼が『古事記』編纂段階においてどのような役割を果たしたのか?今回の考察でかなり疑問が深まりました。伝承・口承の在り方も関わってはきますが。
序文。あらためて名文のように思います。古事記の序文が実は原日本紀の序文の可能性。確かに可能性としてはあるのかも知れません。
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。これまで『古事記』についてあまり深く考えたことがなかったのですが、これを機に少し勉強したいと思っています。まあ、ぼちぼちとですが・・・。
個人的に気になったのが、クマ、トラ、ウマが出てくることです。これって大陸系の文化・・・の影響が大きそうです。
あけましておめでとうございます。たしかに、面白いですね。この時代には編纂者の手元に多くの中国史書があったと思われますから、そこからの引用したのでしょうね。
おそらくは序文は後世の偽作ですね。古事記の成立は日本書紀の後ですね。
あけましておめでとうございます。「日本書紀より後」ということは720年より後ということでしょうか?たしかにその可能性もありそうな気がしますね。
@ わざと古めかしい文語体で書かれてゐるんよ。💦(日本書=原日本紀→日本紀→続日本紀→日本書紀→古事記)
@@chakumasama 『日本書紀』は『続日本紀』より後の成立説なのですね。
あけましておめでとうございます。これは「その通り」かと思います。もともとあった史書を編纂し直した「史書」にあったものであってると思います。何故日本書紀ではなく古事記に移植されたのかはわかりませんが。。陰陽五行説みたいなことも書かれてるし、チナの文献を参考にしてとりあえず付けましたって感じなのでしょうかね。
あけましておめでとうございます。なぜ『古事記』に序文(上表文)が必要だったのかにも疑念がわきますね。あと、天武天皇にこだわりすぎている点も気になります。今年もよろしくお願いします。
明けましておめでとうございます。突然ですが、魏志倭人伝に那馬壹と書かれているのに、わざわざ “ヤマタイ" と読ませているのは恣意的に感じます。これはどう見ても “ヤマト" ではないですか?そろそろyoutubeだけでも "ヤマト" 表記にしませんか。
あけましておめでとうございます。「臺」が「タイ」か「ダイ」か「トゥ」か「ドゥ」かわからず、「壹」が「イ」か「ト」か「トゥ」かわからない状況ですので、一般的に定着している「ヤマタイ」を使うのが誤解を招かない方法だと思われているのだと思います。「ヤマト」というと「大和」のイメージが先行して、畿内説が連想されるのだろうと思い、このチャンネルでは通常「ヤマタイ」と発音しています。
やっぱり、ふどきさんの動画の方が面白い。是非、見てもらいたい。やっぱ東国。まだまだ余白がある。
あけましておめでとうございます。東国は『日本書紀』にほとんど書かれていませんので、なかなか考えようがないというところです。
古史古伝の導入は、阿波説への道⁉️😅
@@山下明彦-v3i 阿波説ですか?『日本書紀』は阿波のことをほとんど書いていませんから、このチャンネルでは研究対象にしようがありません。。
日向の橘の小戸の、阿波岐原は、何処に有りますか?✨…………其れは、福岡市西区の、今宿の、青木ケ原?✨😅
犯人は多人長ちゃいまっか( ゚д゚)
あけましておめでとうございます。多氏が『古事記』に関わっているとすると、その可能性もあるかもしれませんね。
今年も楽しみにしております
あけましておめでとうございます。
このようなお心遣いをいただき恐縮です。
少しでもお役に立てる動画発信を目指しますので、今年もよろしくお願いします。
物語の内容が日本書紀の記述とかなり異なるのに天皇の系図だけは日本書紀と寸分たがわず同じというのが奇妙。このへんに謎を解く鍵がありそうな気がします
あけましておめでとうございます。
おっしゃる通りと思います。
景行天皇と日本武尊、応神天皇と仁徳天皇は、どちらも本来兄弟でしたが、文武天皇朝以降に行われた紀年延長操作によって親子に改変されたと考えていますが、『古事記』でも兄弟になっていますから、同時あるいは『古事記』の方があとに編纂された可能性があると思っています。
確かに『古事記』序文には手が加えられているようです。読みの注記にしても確か殆どが上巻に関するもので、上巻にはかなり手が加わっていると思えます。しからば上巻は何を語ろうとしているのか。記は下巻推古で終わっていますが、推古の次の舒明と皇極を上巻のスサノオとアマテラスに配置してみて下さい。やや大まかではありますが、ニニギ・ウガヤフキアヘズ・神武が、草壁・文武・聖武に相似形であることに気付くでしょう。新しい事象を古い時代に移動させるのを「加上説」と称しますが、記の構造は上巻の神話の寄せ集め全体が加上説で成り立っているのです。
「加上説」、すごい説ですね。そういうこともあったかと思ってしまいそうです。
ちなみにですが、相似形が系譜のことであれば、瓊瓊杵尊・彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊・神武天皇の相似形は天武天皇・草壁皇子・文武天皇ではないでしょうか?
とにかく、序文を信じるなら、天武天皇記がないのがあまりにも不自然です。
@@J-history 返答有難うございます。更に仮説を追加させて下さい。アマテラス対スサノオは天智系対天武系を表しています。結局天武系は根の国に追いやられて天智系が皇統を独占します。天武主体の古事記のはずが上巻の徹底的改変により天智系のための物語に変えられてしまいました。これが古事記神話の秘密だったのです。稗田阿礼は人麿と不比等の二人を合成した人物像であるという梅原説を私は指示しています。古代史の専門家に支持者がいないことは知っていますが。
屋上、屋を架す。🎉
あけましておめでとうございます。新年早々興味深い投稿ありがとうございます。
古事記本文にばかり目をとらわれていて序文は気にもしていませんでしたが、ここまで考察できるとは目から鱗でした。
たしかにいろいろな疑問が出てきますね。
神武=崇神説にまったく同意します。ウガヤフキアエズと欠史八代で整合性がとれないのはそこに系譜の継ぎはぎがあったためで、もともとウガヤフキアエズは崇神(神武)の九州からの系譜を、欠史八代のニギハヤヒ(物部)系の伝承のあとに足したものだったんじゃないかと仮説を立てています(ニギハヤヒの位置に崇神の前半生(神武)を仮冒)。ただ、系譜は全く興味の範囲外で証明法を考えるのが面倒で面倒で(* ̄- ̄)
ちなみに 10:27 の「賢后」を崇神とされていますが、「后」というからには息長帯姫かと思ったのですがどうなんでしょう?
あけましておめでとうございます。
たしかに系譜は面倒ですね。一書(異伝)や古事記を参考にすると収拾がつかなくなりますから、私は『日本書紀』本文のみの系譜を作成して考察に用いています。
初代天皇については、東征以前を彦火火出見尊、主に東征前後を神武天皇、主に即位後を崇神天皇として記述されていると考えるとすっきり腑に落ちます(私見)。
「后」については、魏志倭人伝でも「夏后少康」が出てきますが、「天子」「皇帝」の意味で用いられます。この時期の撰述は中国史書を参考にしていると思われますので、特に女性と考えなくてよいのではと思います。
『国史』という『原日本書紀』又は『古事記』と関連のありそうな史書が714年に撰上されています(『続日本紀』の記事)。無事績年削除法を駆使して『原日本書紀』を想定されていますが、『古事記』→『原日本書紀』→『日本紀』→現行『日本書紀』という道筋もあると思います。神武即位は*667でした(『宋史』引用の「王年代記」)。『古事記』も*667で現行『日本書紀』は*660です(*667→*662→*660という移動があった)。先生の近著を買い求め、人物画像鏡の銘文解釈が拙論と異なることを知りました。今後とも教わると同時に疑問点を投げ掛ける所存です。
あけましておめでとうございます。
秘数術については知識がありませんのでご返事できないことが多いと思いますが、今年もよろしくお願いします。疑問はどんどんご投稿ください。
@@J-history幾つかの指摘。①「ヨウ習」は暗記ではなく解読の意味のはず。②稗田阿礼は人麿と不比等のダブルイメージ(梅原説)。③人物画像鏡の解釈は(私は少数説であるところの)坂田隆説に与しています。④数秘術は江口洌『古代天皇の聖数ライン』(河出書房)が手頃でしょう。紀年論には必須と思われます。①〜③は無視して結構。④は紀年論には必須だと思います。
@@宮本孝正 ご返信ありがとうございます。
数秘術については昔、人に薦められて読んだ本がありましたが、どうも数字合わせの趣を感じてしまい、読破を断念した記憶があります。申し訳ありませんが。
@@J-history 江口説を要約すると「暦法の数と三才の数が大きな意味を持っている。17,19,23,26,60,197,235,365がその数である。」私はこれ以外に累乗数や西暦による実年代が数秘術として使われているので「魔法数」と名付けました。貴著126頁に「『春秋』は*722の即位から云々」とありますが、722=2×19×19で魔法数です。『古事記』は19nが優位、『日本書紀』は17nが優位であるように紀年作成がなされています。19年の無事績年の19も聖数であることに意味があるかも知れません(これは臆断です)。
宮本某は、人の話を聞けないアフォな人なのかな?😅
序文で最大の謎は段落下げがあること、冒頭1文字空いていることかな
飛鳥時代の階級には「大・小」がついたので姓(かばね)とわかるようしたかったのかもね、ちなみに、「乾坤(卦の時間、前後や秩序のこと)」「陰陽(卦の空間、左右や土地の広がりのこと)」「小浜で諭[さと]し(言い負かし)」「ひるがえる旗は兵を耀[てら]し」、「日下(前面、陽の当たる側)」、「帯(後背、影のつく側)」だろうね、比較的平易な日常語であって、これらを文字資料があった痕跡とまでは言えない
もちろん、四書五経の教養があればこうは読まない、かわりに時代考証がおかしくなるんだよ、例えば、卦(ぼく)は時代ごとに解釈が異なる、乾坤(天地)・陰陽(男女)という八卦が知られるようになったのは江戸以降だったと思うよ、だから序文は「江戸期に書かれた」なんてこと説いたら笑われちまうよ
あけましておめでとうございます。
貴重なご意見をありがとうございます。
「小浜で諭し」だとすっきりしますが、角川ソフィア文庫版は「論」の文字が使われ「あげつらう」と訳されていました。
「日下」「帯」の件は、「日下」という字を「玖沙訶(くさか)」と読み、「帯」という字を「多羅斯(タラシ)」と読むが、その類のものはそのままにした、と書いていますが、では一体、稗田阿礼はどのように憶えていたのか?というのが不思議だったのです。
アップ有難う御座います! 古事記と倭人伝で題材は違いますが、研究手法というのが、極めて近いものを感じますね! 古事記は、正直食わず嫌い状態なのでもっと勉強していきたいです!
岡上さん、あけましておめでとうございます。
『古事記』についてはいつどのように成立したのか、来歴が定かではありませんので、深く研究するのは難しいと思います。そこを無理やり追究すると、あらぬ方向に向かう危険性を感じています。
なるほど
確かに、この序文の大部分は古事記の序文ではない匂いがしますね
古事記そのものは稗田阿礼が旧辞や帝紀などを筋が通る様に曲解して繋げた昔話だと思いますので、稗田阿礼が唐突に飛び出した部分が本来の古事記の上表文で、後世に誰かが他の正史の上表文を挿入して改変したのではないですかね
天武天皇の御代に稗田阿礼が創作した古事記が文字になって太安万侶の家に伝承されていたものを、元明天皇の御代に急遽献上することになり、音訓の乱れなどの言い訳を添えて献上した様に感じました
あけましておめでとうございます。
稗田阿礼の『古事記』が文字になって太安万侶の家に伝承されていたというのは面白い説だと思います。
しかし、天武天皇が自身の王朝の正統性を確立するために編纂を命じたとすると、『古事記』の事績・出来事が顕宗天皇記で終了し、系譜も推古天皇で終了していることが不思議なのです。最低限、天武天皇即位までを記す必要があるように思われます。
今年もよろしくお願いします。
ご返信・ご説明をありがとうございます
でしたら稗田阿礼は推古天皇の次の舒明天皇の時代に古事記を創作して、文字になって太安万侶の家に残っていた説に改めます😅
蘇我蝦夷が実権を握っていた時代なので、蝦夷のオーダーで創作したのかな
@@qwerty-td6qt ご返信ありがとうございます。
『古事記』は古い時代に著述されていたという説を読んだことがあります。もともとが舒明天皇時代の創作とすれば、筋は通るかもしれませんね。
あけましておめでとうございます🌅古事記や日本書紀は難しく苦手な分野の為、分かりやすく解説していただき助かります😚なお、6世紀頃の古墳ともなれば、銘文入り鉄剣など文字資料が発掘されても良さそうですよね(¯―¯٥)笑
あけましておめでとうございます。
古墳だけでなく、もっと金石文は発見されてもよいような気がしますが、とても少ないようにみえますね。
今年もよろしくお願いします。
あけましておめでとうございます。
わたくし 安萬侶が申し上げます。
武田祐吉現代語訳の序文が始まりでした。
古事記の世界はメルヘンでファンタジー溢れるお話が綴られます。
太安万侶を敬愛して止まない所以です。
当チャンネルに出会った頃の仮説にも促されてアッチコッチウロチョロしました。
ホント楽しい時間です。
謎解きの楽しさを提供してもらっているお礼に安万侶のお墓参りや稗田阿礼を祀る賣太(めた)神社お参りしました。
今年も新説期待します。
あけましておめでとうございます。
今年もぼちぼちの動画アップになると思いますが、気長にお付き合いください。
よろしくお願いします。
なるほど、第五ブロックを取れば、確かに天武天皇で繋がるね。ちなみに、皇帝を天皇というのは、則天武后が一時期採用してますね。最近、資治通鑑翻訳をしていて、気がついた。
岡さん、あけましておめでとうございます。今年も早々からお世話になりますが、よろしくお願い申し上げます。
今回の考察で、ますます『古事記』への疑念が深まりました。『古事記』をより深く勉強したとは思いますが、私のライフワークともいえる紀年復元にはあまり役に立たないように感じています。資治通鑑など中国史書の側から、新たな発見がありましたら、ぜひご教示ください。
毎回楽しく拝見しています。
コメントは時々ですが。
今回の仮設に関してつじつまは非常に合いますね。
竹田さんの現代語訳を読んだことがありましたが何か印象が違います。
仮説。正しい気がしますね。
あけましておめでとうございます。
いつもご視聴ありがとうございます。
このチャンネルの根本的なテーマは「紀年論」ですので、『日本書紀』の本文を基本テキストとしています。だから、『古事記』を参照することはあまりないのですが、今回序文をちゃんと読んでみたら、こんな考えに至った次第です。
引き続き今年もよろしくお願いします。
稗田阿礼は今で言うサヴァン症候群でしょうか?
文章を一瞬で画像記憶してしまう天才。
ニコラ・テスラも画像記憶出来たそうです。
あけましておめでとうございます。
画像で記憶できれば、確かに「日下」「帯」の疑問も解消しますね。
ありがとうございます。勉強になりました。唐というか武則天というか、乗っ取られたように感じたのは私だけでしょうか?黄帝、周王、夏禹王、殷湯王を超えたと称えているのは・・・なんとも。日本の王を讃えるなら、私なら、神武に近づき、応神の如し、とかという称え方をするけどな・・・。深掘りいただけると。。
あけましておめでとうございます。
天武天皇当時は、白村江の大敗から立ち直りつつある時期であり、中国と対等な関係を再構築しようと模索している時期だったのではないでしょうか。
『日本書紀』もそうですが、漢文での記述には中国史書からの引用がとても多く見られます。天皇を、そこに記された名君・天子を超えた存在として位置付けたいと考えたのだと思います。
新年快乐
序文はファンタジー作家で言えばテンプレでしょう、稗田阿礼は口伝の伝承者か、たった4ヶ月で編纂だから原古事記を持ってたかも知れません!
謹賀新年。
今回、稗田阿礼についてはかなり疑念が深まりました。
稗田阿礼の非実在説なども目にしたことがありますが、その可能性もかなり高いのではないかと思うようになりました。
『古事記』の序文を通読(?)したことがなかったので勉強になりました。極めて画期的な新説だという風に感じましたえ。
『日本書紀の謎を解く』のα・Β群や推古朝遺文など断片的な単語しか知りませんが、『古事記』の序文というのは日本書紀と同時期程度に古い特徴を兼ね備えた文章なのでしょうか?
後世に取ってつけたみたいな説も見受けられるので、そこらへんの整合性や妥当性でも補強されるなら更に面白くなってきそうですね。
遅くなりましたがあけましておめでとうございます。本年も楽しみにしております。
あけましておめでとうございます。
『古事記』については、成立時期などについて明確でないことや、基本的に編年体史書でないことから紀年復元に用いることができないので、これまでほぼ考察の参考にはしていませんでした。
今年は少し『古事記』についても勉強していきたいと思っています。
引き続きよろしくお願いします。
あけましておめでとうございます。
稗田阿礼については、なぜ文字資料があったのに暗記・暗誦する必要があったのかと、たしかに違和感がありますね。なんとなく日本語を漢字で表す表記方法に統一されたルールが無かったため、それらを読み下せるのが稗田阿礼しかいなかったのだろうな、と漠然と考えていましたけど。
あけましておめでとうございます。
「読み習わす」の定義の問題もありますが、いったい稗田阿礼が『古事記』編纂段階においてどのような役割を果たしたのか?
今回の考察でかなり疑問が深まりました。伝承・口承の在り方も関わってはきますが。
序文。あらためて名文のように思います。古事記の序文が実は原日本紀の序文の可能性。確かに可能性としてはあるのかも知れません。
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
これまで『古事記』についてあまり深く考えたことがなかったのですが、これを機に少し勉強したいと思っています。まあ、ぼちぼちとですが・・・。
個人的に気になったのが、クマ、トラ、ウマが出てくることです。
これって大陸系の文化・・・の影響が大きそうです。
あけましておめでとうございます。
たしかに、面白いですね。この時代には編纂者の手元に多くの中国史書があったと思われますから、そこからの引用したのでしょうね。
おそらくは序文は後世の偽作ですね。
古事記の成立は日本書紀の後ですね。
あけましておめでとうございます。
「日本書紀より後」ということは720年より後ということでしょうか?
たしかにその可能性もありそうな気がしますね。
@ わざと古めかしい文語体で書かれてゐるんよ。💦
(日本書=原日本紀→日本紀→続日本紀→日本書紀→古事記)
@@chakumasama
『日本書紀』は『続日本紀』より後の成立説なのですね。
あけましておめでとうございます。
これは「その通り」かと思います。もともとあった史書を編纂し直した「史書」にあったものであってると思います。何故日本書紀ではなく古事記に移植されたのかはわかりませんが。。
陰陽五行説みたいなことも書かれてるし、チナの文献を参考にしてとりあえず付けましたって感じなのでしょうかね。
あけましておめでとうございます。
なぜ『古事記』に序文(上表文)が必要だったのかにも疑念がわきますね。
あと、天武天皇にこだわりすぎている点も気になります。
今年もよろしくお願いします。
明けましておめでとうございます。
突然ですが、魏志倭人伝に那馬壹と書かれているのに、わざわざ “ヤマタイ" と読ませているのは恣意的に感じます。これはどう見ても “ヤマト" ではないですか?そろそろyoutubeだけでも "ヤマト" 表記にしませんか。
あけましておめでとうございます。
「臺」が「タイ」か「ダイ」か「トゥ」か「ドゥ」かわからず、「壹」が「イ」か「ト」か「トゥ」かわからない状況ですので、一般的に定着している「ヤマタイ」を使うのが誤解を招かない方法だと思われているのだと思います。
「ヤマト」というと「大和」のイメージが先行して、畿内説が連想されるのだろうと思い、このチャンネルでは通常「ヤマタイ」と発音しています。
やっぱり、ふどきさんの動画の方が面白い。是非、見てもらいたい。やっぱ東国。まだまだ余白がある。
あけましておめでとうございます。
東国は『日本書紀』にほとんど書かれていませんので、なかなか考えようがないというところです。
古史古伝の導入は、阿波説への道⁉️😅
@@山下明彦-v3i
阿波説ですか?
『日本書紀』は阿波のことをほとんど書いていませんから、このチャンネルでは研究対象にしようがありません。。
日向の橘の小戸の、阿波岐原は、何処に有りますか?✨…………其れは、福岡市西区の、今宿の、青木ケ原?✨😅
犯人は多人長ちゃいまっか( ゚д゚)
あけましておめでとうございます。
多氏が『古事記』に関わっているとすると、その可能性もあるかもしれませんね。