文芸批評家が語る言葉の魅力と危険性|浜崎洋介

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  • Опубликовано: 4 ноя 2024

Комментарии • 62

  • @山川浩一-p6v
    @山川浩一-p6v 10 дней назад

    素晴らしい話でした。ありがとうございます。しかしながらコメント欄、邪魔な話をわざわざ書いてくる人もいるのね、まあこれも西洋的抑圧なのか、誰かが見ていますよと

  • @てつろう-v1y
    @てつろう-v1y Год назад +8

    うわ~、大好き、浜崎洋介!
    なんだろう?もっと話聞きたいわ

  • @めかえ
    @めかえ Год назад +14

    思春期にこんな私から去らないでいてくれる友達がいるという事が奇跡のように思え、生きることの支えになりくぐり抜けた経緯があります。
    浜崎先生の魂の言葉が心にストレートに入って来て感動しました。
    お忙しいと脳のエネルギーをかなり使ってしまわれると思うので、オフの日は近しい人とどうぞリラックスしてお身体をゆっくり休めて欲しいです。これからも心より応援しております。

  • @bvlgaridunhill3445
    @bvlgaridunhill3445 2 месяца назад

    結論〈離れなさい。学問から離れなさい〉
    イエスの言葉

  • @トモネン007
    @トモネン007 Год назад +20

    浜崎さんの話しは深い。新しい視点をもらえる。

  • @user-sr6rx2ve7r
    @user-sr6rx2ve7r 2 месяца назад +1

    めちゃくちゃ面白かった!

  • @ホースマン-f6u
    @ホースマン-f6u Месяц назад

    全体から切り離して、部分の、しかも記号化きれたものに執着するなら、それはフェティシズム。

  • @d41d4l0s
    @d41d4l0s Год назад +11

    昔はエンタメがなかったから教養を得たい大人はこうやって賢者の人達の話を聞く機会がたくさんあったのかぁってふと思う。

    • @ge300113
      @ge300113 Год назад

      逆です。
      奴隷=IQの低い国民を大量に作りだすための政策の一環としてエンタメがあるのです。

  • @JUNYORPLATDEBLANC
    @JUNYORPLATDEBLANC Год назад +9

    浜崎さんシリーズいいわぁ🙌

  • @宇都宮洋-x4r
    @宇都宮洋-x4r 11 месяцев назад +1

    どうも 貴重な動画をありがとうございます。 ところで、日本人は性善説という話を聞きます。「ホントは良い人よ!」。 コミュニケーションには 村上春樹氏のいう「井戸を掘る」というのが 必要だと思っています。 本音で語り合うこと。  僕は🍺が大好きなのですが、(笑)、どんなに意見が違う方でも 1週間くらい ずーと🍺しながら、腹を割って話しあうと そのうち 水脈にあたって 「おおっ わかった!!」 🍻って感じになると思っています。 僕は 日本、日本の土壌大好きです。 🙏。

  • @doji64
    @doji64 28 дней назад

    浜崎さん、ことば、文字、表現というものが概念として一体になっているのがまずい。
    これぜんぶ違うことは承知でしょうけど、表現の外に立つことはできるわけです。てか、
    表現の外にしかたっていない。だからことばは間違うんでしょ?

  • @堀百夏
    @堀百夏 Год назад +5

    正に今の季節にも相応しい話!
    私にとって秋と言う季節は内的自己が深まり家族、友人、異性、身近な 存在に対してもあらゆる表現遊び言葉遊びの深みが、時間さえ無限の可能性を持ったキヤんパスの様に感じられる季節でもある。
    日本人に生まれ、沢山の言葉の中から選択する自由がある事も私達が生きる上での精神的な遺産を生まれつき持っている喜びだと思う。

  • @Morinokikai
    @Morinokikai 7 месяцев назад +1

    文脈によって変わるという視座が大事ですね。有り難うございました。ファシリテータの方が学歴コンプレックスの話に寄せようとされていて違和感ありましたが、切り替えされてましたね。聞き手が偏った視点を持っていると話者の伝えたい文脈がなかなか伝わらないということも感じました。いい学びができました

  • @keil--5541
    @keil--5541 Год назад

    嫌われる勇気はお前になんかに嫌われたとてと言えなきゃならんだろ
    好かれなくてもいいというよりか

  • @佳宏松本
    @佳宏松本 Год назад +4

    優劣感と劣等感のような表裏一体を考えれば、エリートのルサンチマンが溜め込まれ噴出するのもある種当然の流れだったんだなと思い知りました。

  • @Switzerland6074
    @Switzerland6074 Год назад +5

    アリストテレスあたりが、いってなかったけ
    定義や翻訳を前提とする言葉で
    コミュニュケ―ションできるのは、哲人とか選ばれた少数者だけだって。
    その他、大勢は、話しても通じない、威嚇の鳴き声でしかないんですよ。

  • @容子佐藤-h7o
    @容子佐藤-h7o Год назад +1

    【言葉】による【理解力】🙄 魂による【体験量】に【比例】する🤔🤨🥸

  • @katakotori
    @katakotori Год назад +2

    おもしろい!
    アドラー心理学がとにかく嫌いですが、視点を変えて再度勉強してみようと思います。

  • @k9_STBK
    @k9_STBK Год назад +4

    言葉、文語はデジタル。神林長平の小説で知った。
    文にした途端、小数点は切り捨てされ、デジタルになる。
    デジタル社会において、それは殊更強調される。
    面と向かって話をした時ですら、言葉にした瞬間にそれはデジタル社会の引力に引かれてしまう。
    デジタル社会の引力に抗うセンスを持つ人間、つまりアナログとデジタルを見分けられる人間こそ、バカに囚われないマトモな人間となる。
    デジタル社会の中、目を覚ます時が来ているはずだ

    • @doji64
      @doji64 28 дней назад

      日本語(文字)はデジタルじゃないですよ。

  • @とほかみえみため-d5b
    @とほかみえみため-d5b Год назад

    適応障害
    (てきおうしょうがい、英: adjustment disorder:AD)とは、はっきりと確認できるストレス因子により、著しい苦痛や機能の障害が生じており、そのストレス因子が除去されれば症状が消失する特徴を持つ精神障害である。『精神障害の診断と統計マニュアル』(DSM)の『第4版』(DSM-IV)では適応障害として独立していたが、『第5版』(DSM-5)ではストレス関連障害群に含められ、他に急性ストレス障害や心的外傷後ストレス障害(PTSD)が含まれる。
    ストレスへの正常な反応は、著しい苦痛を呈さない[1]。また死別は適応障害ではない[1]。他の精神障害に当てはまるときはそれが優先される[1]。うつ病との判別がつきにくい場合がある[2]。また適応障害が、正当な臨床単位であることを確立するデータは不足している[3]。ストレスが原因で発生する身体的な異常は心身症である。
    適応障害は自然軽快することも多い[3][1]。治療には心理療法が推奨され、薬物療法は証拠の不足により避けるべきである[3]。治療法については、「適応障害#治療」を参照。
    定義
    「精神障害#定義」も参照
    精神医学的障害の一種である。
    症状

    この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2021年3月)
    ストレスが原因で、情緒的な障害が発生し、それは抑うつ気分や不安などを伴うことが多い[4]。また青年期や小児期では、社会規範を犯すなど素行の問題が現れることがある[4]。
    社会生活や職業・学業などにも支障をきたし、生活機能の低下や、業績・学力の低下、場合によっては就業・就学そのものが不可能になる場合がある。
    行動的な障害を伴う患者は、ストレスが原因で普段とはかけ離れた著しい行動に出ることがある。それらの行動の具体例としては、年相応の規則をやぶり、怠学、喧嘩、法律に背くことなどが挙げられる[4]。社会的ルールを無視するような行為、破壊や暴走、また暴飲などもある[5]。
    軽度の行動的な障害としては、電話やメール、手紙に応答せず、人との接触を避けて引きこもることも挙げられる。
    診断基準
    適応障害は、DSM-IV[4]とICD-10でも若干診断基準が異なる。
    はっきりと確認できる大きなストレス、及び継続的、反復的にかかり続けるストレスが発症の原因であり、そのストレスを受けてから3か月以内(ICD10では1か月以内)に情緒面、行動面で症状が発生すること。
    ストレス因子と接した時に起きる予測を超えた苦痛の反応もしくは、社会生活、職業・学業的機能において著しい障害が起きること。
    不安障害や気分障害、うつ病など他の精神障害が原因ではなく、ストレスが死別反応などによるものではないこと。
    ストレス因子が排除された場合、半年以内に症状がなくなること。
    ストレス因子がなくなった後も半年以上症状が続く場合は、他のストレス障害(PTSDや分類不能の重度のストレス障害)や特定不能の不安障害などを考慮する必要がある。ただし、ICD10の場合は、遷延性抑うつ反応の場合は最長2年間持続するとされている。
    また、症状の持続時間が6か月以内のものを急性、6か月以上のものを慢性と呼ぶ。慢性の場合は継続的なストレスが続いている場合に適用される(たとえば、周りに犯罪が多発する場所に住んでいる。裁判に巻き込まれるなど)。
    またDSMの下位の診断コードの分類として、抑うつ気分を伴う、不安を伴う、素行の障害を伴う、特定不能の適応障害がある[4]。

    • @とほかみえみため-d5b
      @とほかみえみため-d5b Год назад

      鑑別診断
      DSMIVとDSM-5について挙げる。
      ストレスへの正常な反応は、著しい苦痛や機能の障害を呈さない[1]。経済破綻、災害や重篤な病気などへの反応も、理解可能な正常な反応である場合もある[6]。診断には外的なストレスが必要である[1]。
      うつ病や気分変調症との鑑別が特に難しいときがある[2]。ストレス因子に反応し、大うつ病エピソードの診断基準を満たしていれば、適応障害ではない[7]。パーソナリティ障害はストレスによって悪化しやすいので、通常は適応障害の追加の診断は不要である[7]。
      死別への反応は精神障害ではなく[1]、通常は死別反応(診断コードV62.82)である[7]。DSM-5においては、死別反応といった強いストレスに伴う抑うつは、治療なく回復する可能性があるため、うつ病の診断基準に死別反応に関する注釈が加えられた[8]。DSM-5のうつ病の診断基準の注釈によれば、死別による抑うつ症状は、1-2年続く理解可能な正常な反応である場合もある[6]。
      ICD-10について挙げる。
      児童の分離不安障害(ICD F93.0)である場合、適応障害の診断は下されないとされる[9]。
      不明確な臨床単位
      臨床現場では一般的な診断名であるが、正当な臨床単位であることを確立するデータは不足している[3]。適応障害とうつ病とを区別できるような、生物学的データによる証拠は存在しない[3]。
      治療
      一般に適応障害は長く続かず、時間経過と共に消失する[3]。自然に軽快することも多い[1]。そうした事実は、治療に関する研究の不足を示唆している[3]。
      2009年の適応障害に関するシステマティック・レビューは以下のように結論づけている。
      心理療法
      心理療法の有用性は、臨床的な証拠に強く裏付けられている[3]。対人関係療法や問題解決療法、他にも個々の心理療法の有効性は報告されているが、そうした心理療法同士で比較した研究はない[3]。一方、抑うつや不安を伴う適応障害に対する、抗うつ薬などの医薬品の使用は適切なエビデンスがないため避けるべきである[3]。
      認知行動療法
      適応障害への認知行動療法は有効であり、ストレスを感じる出来事や問題に対し、心理的苦痛が軽減する解釈・思考方法(認知)と対処行動(行動)を習得できるよう、支援が行われる[10][11]。
      治療者は、心理教育や認知再構成法、リフレーミングやマインドエクササイズ、リハーサルやロールプレイング、コーチングやガイダンス、リラクセーション法や活動スケジュール表、問題解決法などの認知行動療法の諸技法を用いて、患者をサポートする。これらを通して、ストレスが軽減される思考方法や対処行動を患者と治療者が協同で模索・練習していき、機能的な思考方法(「現状や他者の行動を肯定的にとらえる[12]」・「自分自身を責めずに認める[12]」・「自分が考えているほど、周りは自分のことを何とも思っていないことを把握する[13]」など)や対処行動(「抱え込まずに相談する[13]」など)を身につけられるようサポートする[14][15]。
      また、人間関係における適応をサポートするため、人とうまく接するための社会的スキルを育成するソーシャルスキルトレーニング (SST) [16]やアサーショントレーニング[17]を用いた支援も行われる。
      なお、適切なストレス管理を支援していくことも治療目標の一つであり[18]、気分転換法(「ストレス管理#技法」を参照)の発見なども症状緩和の一助になるとされる[17]。
      環境調整
      適応障害はその診断基準にある通りストレスが原因であるため、それが除去されれば症状は改善される可能性がある。例えば、人事異動で部署を変えたり、引っ越したりするなど、現在の環境を変えることで病状が改善される可能性がある。
      現実的なストレス因子そのものを低減したり(例:配置転換)、ソーシャルサポートを強化したり(例:家族や上司の理解・援助を促すためのコンサルテーション)、患者を取り巻くストレスフルな環境を調整していくこと、つまり環境調整によるサポートも重要である[19]。

  • @jinsoumiyano6405
    @jinsoumiyano6405 Год назад +1

    言葉は、人が認知した事象に対して、抽象化・ 普遍化し、思考の基礎となる基本的な形態となるように、思考作用によって意味づけられる目的で使用される限りにおいて有用なものとして機能します。
    それ以外の言葉の使用は、人を自然の外に存在させ、人間社会という檻に閉じ込める作用として機能します。

  • @hitoshitakabayashi6759
    @hitoshitakabayashi6759 Год назад +3

    自給自足しない限り、孤独でいることはできないっていうことか。自給自足と思っているものも、完全に自己完結しないと自給自足ではないもんね。今の世の中では難しいです。面白い視点です。

  • @am-zo5dz
    @am-zo5dz Год назад

    降水量を長さの単位mmで表すのはおかしいと思うのですが、なぜ言葉は物理量を的確に表せないのでしょうか。

  • @shimahito
    @shimahito Год назад

    「言葉は必ず誤解を生む」というのを理解されているので、更に根本の話を聞けるのかと思いましたが、その先まではあまり意識されない方なのでしょうか。なぜ誤解が生まれるのか?とか、誤解を避ける方法とか、そういった話も聞いてみたかったです。おそらく「孤独は克服できる」とは考えていらっしゃらないようにはお見受けしました。

  • @矢口あきら
    @矢口あきら 5 месяцев назад

    要するに相手の言葉を自分の言葉で全て名付け返すことができれば、世界認識の先端だぜ。

  • @萩原耕介
    @萩原耕介 5 месяцев назад

    「言葉の魅力と危険性」ですか~「ヴォキャブラリー」不足で「話題」について行けませんでした御免なさい(もうすぐ92歳ポンコツ爺)でも「尻切れトンボ」のお仕舞まで着いて行きました。昔聞いたお話ですが「ヨハネ書の冒頭」は当時の哲学者が補足したとかでしたつまり「初めにことばありき」つまり原典にはなかったってことで「ヨハネの言葉」ではない!とか。でも「エ~ンアルケ~エンホロゴス」がね~「言い得て妙」で僕的には好きでした今でも。並な言い方でイマイチですが「相性」が合う合わないで「同じひと言」に雲泥の差がある体験イッパイ、今までいろいろとやってきましたが、よく「認識論」が違うって言い方ありますね。つまり「考え」「意見」「価値観」「日常の選択」がマッルデ違ってしまう(atarimaeda)「これが同じ人間なんてありはしない!」なるほどです。いつも「ハイレヴェル」なトークショウですが勉強させて頂いてます有り難う御座いました。思うのは人間関係は根幹に「相性」もありだと思う。相性が合う場合は僕的には直観で気が付いて話題のイイ悪いを共感できる。即ち気持ちがイイ。合わない場合は神様でも補えない。自分的には「最悪!」アッチャ~。同じ仕事に携わってるなら平和の為に「距離」を置く。野次馬的コメントですみません。

  • @wilhelmwilhelm761
    @wilhelmwilhelm761 Год назад

    サムネ、瀬戸弘司に似てる

  • @とほかみえみため-d5b
    @とほかみえみため-d5b Год назад

    ペルソナ
    (英: persona)とは、カール・グスタフ・ユングの概念。ペルソナという言葉は、元来、古典劇において役者が用いた仮面のことであるが、ユングは人間の外的側面をペルソナと呼んだ。
    概要
    ペルソナとは、自己の外的側面。例えば、周囲に適応するあまり硬い仮面を被ってしまう場合、あるいは逆に仮面を被らないことにより自身や周囲を苦しめる場合などがあるが、これがペルソナである。逆に内界に対する側面は男性の女性的側面をアニマ、女性の男性的側面をアニムスと名付けた。
    男性の場合にはペルソナは男らしさで表現される。しかし内的心象はこれとは対照的に女性的である場合があり、これがアニマである。逆に女性の場合ペルソナは女性的な側面で表現される。しかし、その場合逆に内的心象は男性である場合があり、これがアニムスである。ペルソナは夢の中では人格化されず、一般に衣装などの自分の外的側面で表されることが多い。しかし、仮面を被った自分もありのままの自分と仮定すれば、それらは全て、我である。
    ペルソナは元型であるか
    ペルソナが元型であるか否かについては、明記されていない。
    河合隼雄の『ユング心理学入門』や鈴木晶の『フロイトからユングへ』(NHKライブラリー)など、同一概念と紹介しているものも少なくない。
    林道義をはじめとし、ペルソナは元型ではないとする立場もある。その理由として、ユングは人類の集合的な心(例えば、社会的慣習や伝統的な精神)から各人が切り取ったもの(個性化された人格=仮面)をペルソナと名づけたのであり、集合的無意識そのものを指すわけではないという解釈がある。
    参考文献
    河合隼雄『ユング心理学入門』培風館、1967年。全国書誌番号:67011336。
    鈴木晶『フロイトからユングへ : 無意識の世界』日本放送出版協会〈NHKライブラリー〉、1999年。ISBN 4-14-084105-2。全国書誌番号:20007274。

  • @植草-y1n
    @植草-y1n Год назад

    対談形式は質が落ちます

  • @hogohogehage
    @hogohogehage Год назад +1

    ギクッ
    1.75倍です
    ごめんなさいごめんなさい

  • @yoshmiru
    @yoshmiru Год назад +1

    最高

  • @primetimeny1
    @primetimeny1 Год назад +1

    いいとこで切りますねーww.

  • @qttelescope8363
    @qttelescope8363 Год назад

    若者向きの言語論。素晴らしい!ただ!大人向けも、ちょっと敷居を高くして話すことも若者には必要なのでは?
     言語に誤解は当然。それはそうなのです。ただ、法律はどうでしょうか?例えば刑法。「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する」(第199条)
    これを、誤解してた!って言って、済ますことは出来ません。例えば、「あいつを人だと思ったことはない!」とか、「殺してない。息の根を止めただけだ!」とか。その言い訳は通用しません。誤解ができない言語なのです。
    そして、もう一つは厄介だ。
    まさか浜崎先生が、エリック・フロムを引用するとは思わなかったw。良く知られてる様に(大人には知られてるw)、彼はフランクフルト学派のスターです。多くはユダヤ人の方たちなのです。彼の産まれたドイツは、当時酷い状況でした。ハプスブルグ帝国が崩壊し、第一次世界大戦で敗北。巨額の賠償金を請求された。ベルサイユ条約で政治は二進も三進も行かない。そんな状況で人々の心は荒んで、「孤独」になる。。もしくは「孤独」にさせられて行く。特に下層労働者の心理は荒み、「コミュニケーションを求めて」、新しい「集団性」を求める。それは何?…ナチ。ですね。
    これが、大人向けの議論です。まだまだ由々しき問題がてんこ盛りですが…それに追及するのが学問。(その、学問自体の問題点もあるが、それはまぁ・・・老人向けですw)

  • @とほかみえみため-d5b
    @とほかみえみため-d5b Год назад

    自己肯定感
    (じここうていかん)とは、自らの在り方を積極的に評価できる感情、自らの価値や存在意義を肯定できる感情などを意味する言葉である。しかし、後述のように定まった定義はなく、他の類似概念との弁別も充分とは言えない。
    定義
    自己肯定感という言葉は、研究者などによって数多くの定義が提唱されてきた。
    各研究者による自己肯定感の定義[1]
    研究者 定義
    高垣忠一郎[2] 「他人と共にありながら自分は自分であって大丈夫だ」という、他者に対する信頼と自分に対する信頼
    樋口善之・松浦賢長[3] 現在の自分を自分であると認める感覚。
    (下位概念:諦観・帰属・独立の3つの概念により構成されると仮定)
    ※諦観ー受容/帰属ー所属意識/独立ー自立
    樋口善之・松浦賢長[3] 現在の自分を自分であると認める感覚。
    (下位概念:自律・自信・信頼・過去)
    田中道弘[4][5][6] 自己に対して肯定的で、好ましく思うような態度や感情。
    自己に対して前向きで、好ましく思うような態度や感情
    多田怜子・蛎崎奈津子・石井トク[7] 「自分自身のことが好き(自己受容)」、「自分自身を大切にしている(自己尊重)」、「生まれてきてよかった(自分の命に対する受容)」を合わせたもの。
    久芳美惠子・齊藤真沙美・小林正幸 [8] 自分自身のあり方を概して肯定する気持ち。
    (理想自己と現実自己のずれをうまく調節しながら、ありのままの自己を受け入れるという自己受容性とは区別する)
    東京都教育委員会[9] 自己に対する評価を行う際に、自分のよさを肯定的に認める感情。
    明橋大二[10] 自己肯定感とは「自分は大切な人間だ」、「自分は生きている価値がある」、「自分は必要な人間だ」という気持ち。
    諸富祥彦[11] 自己肯定感と他概念との関連性について図式化。
    東京都教職員研修センター[12] 心理学用語のself-esteem(セルフエスティーム)を訳した言葉。
    江角周子・庄司一子[13] 自己の価値基準を基にした、よいもダメも含め自分は自分であって大丈夫という感覚。
    菅原隆志[14] 自己(自分自身)を肯定的に解釈して生まれる肯定的な感情のことで、積極的に肯定して生まれる感情。
    三浦修平[15] 被受容感と自尊感情からなる。
    自己肯定感については心理学の領域で継続的に高い注目を浴びている概念であるが、その定義や類似の他概念との弁別性などについて、検討の必要性が残っている[1]。
    自尊心(英語: self-esteem)、自己存在感、自己効力感(英語: self-efficacy)、自尊感情などと類似概念であり同じ様な意味で用いられる場合がある[16][17][1][6]。現在、これらの言葉は多義的に用いられることが少なくなく、結果としてあらゆる肯定的な心理的要素を表現する包括的名称(umbrella term)となっているという指摘がある[18]。
    自己肯定感の訳語としては、self-positivity、self-affirmationなどを当てはめる試みがなされてきた[6]。ただし、社会心理学者のスティールが提唱した自己肯定化理論(英語版)において定義されたself-affirmationは、「自己の全体的一般的な完全さ(適応的、道徳的適切さ)を確認、肯定すること」[19]であり、自己肯定感とは異なる概念であることから、注意が必要である。
    歴史
    「自己肯定感」という言葉は1994年に高垣忠一郎によって提唱された[20]。高垣は自身の子どもを対象にしたカウンセリングの体験から、当時、没個性化(不登校・無気力・自殺などの根底にある、自己・個・人格・生きる意欲の喪失化)が生じていた子どもの状態を説明する用語として「自己肯定感」を用いている[20]。
    その後、日本の子どもの自己評価がアメリカ合衆国、中華人民共和国、大韓民国の子どもの自己評価に比べて有意に低いことが日本青少年研究所の調査報告などで指摘されるようになり、日本の教育現場において「自己肯定感」が注目されるようになった[20]。なお日本人の自己肯定感は子どもにとどまらず、若者をはじめ成人でも低いことが明らかになっている[21]。また、1990年以降の文化心理学の影響により、日本の文化的背景に即した概念を模索し、検討する試みがなされるようになり、その結果として自己肯定感という用語が使用されるようになった[6]。
    自己肯定感が提唱されてから年月が経ち人々に広まり多様な解釈がなされるようになった。「自己効力感」「自己有用感」「自己効用感」などが「自己肯定感」として語られる事があるが、このような語られ方をするだけでは不十分だと考える、と高垣は述べている[22]。
    教育再生実行会議による第十次提言では、「自己肯定感を高め、自らの手で未来を切り拓く子供を育む教育の実現に向けた、学校、家庭、地域の教育力の向上」が掲げられている[23]。
    自己肯定感に関する批判
    上記の通り、自己肯定感と自尊心は同じ様な意味合いで用いられることがあるため[16][1][6]、自己肯定感を論じる際には自尊心に関する批判や批判的研究が用いられることがある[18]。
    詳しい批判は自尊心 § 自尊心に関する批判を参照。

    • @とほかみえみため-d5b
      @とほかみえみため-d5b Год назад +1

      自尊心
      (じそんしん)とは、心理学的には自己に対して一般化された肯定的な態度である[注 1]。英語のままセルフ・エスティーム(英: self-esteem)とも呼ばれる。
      ここでは社会心理学における自己の概念に関して、育み維持される自己評価や、あるいは「ありのままの自己を尊重し受け入れる」態度とする。
      自尊心とは
      多くの研究者によって自己肯定感は人格形成や情緒の安定のために重要であると考えられており、自尊心はそのためには必要な感情であるとも言える。
      自尊心とは、他人からの評価ではなく、自分が自分をどう思うか、感じるかである[1]。つまり、一時的に快感を与える、知識・技術・財産・容姿・結婚・慈善行為や性的な征服から生まれるものではなく、言い換えれば、外に求めることでも、人に与える印象でもない[1]。競争でも比較でもなく、自尊心の重要な原因は自分とも他人とも戦っていない状態である[1]。
      その起源には、幼いころに大人から尊重され、価値を認められたか、励まされたかといったことがある[2]。しかし、最も重要な影響があるのは、自分自身で選択したということである[1]。言い換えれば、自分の可能性を実現したいという気持ちから、生き方を変えるということから自尊心が育まれていく[1]。
      自尊心は、自分が有能であるといういわゆる自信と、自分に価値があるという自尊の2つの要素から成り立っている[3]。研究者によれば、自尊心の欠如は、不安・憂鬱・恐れ、アルコールなどの乱用、成績不振、暴力や虐待、自殺などにかかわっている[3]。
      自尊心の欠如および過剰
      自尊心の欠如は、しばしばセルフコントロールを失い、依存症や摂食障害などの精神障害や自殺を引き起こすことがある。また、自尊心には、みずからが過ちを犯したり勝負において敗れたりすることへの恐怖を打ち消す効果もある。そのため自己愛性パーソナリティ障害や双極性障害における躁・軽躁状態のように自尊心が過剰になると、みずからが過ちを犯したり勝負において敗れたりしてもそれを認めることがなかなかできなかったり、この結果を相手方の不当性に求めたりする。
      世界保健機関と自殺防止
      世界保健機関は2000年に、青少年層に多発する自殺を防止するため教員や学校医、スクールカウンセラーを対象とした、「自殺の予防に向けた教職員のための資料」[4]を発表し、家庭内暴力、家族の頻繁な喧嘩、離婚などによる離別、頻繁な引っ越し、先住民族であること、性自認や性的指向の問題などの自殺を引き起こす要因を指摘し、不寛容からの解放によるいじめや校内暴力の防止と共に、就学者の自尊心の強化を挙げ、それが青少年を精神的苦悩や依存心から保護し、生活上の困難やストレスに対処できる力を与えることを明記している。
      セルフヘルプ
      詳細は「セルフヘルプ」を参照
      何も心理療法を受けなくとも、自己イメージは自分で育てることが可能であり、『自信を育てる心理学 「自己評価」入門』のようなセルフヘルプのための本が出版されている[5]。自分の感情や望みや考えに気づくこと、自己受容すること、自己表現や自己主張を学ぶことは、自尊心のための最も重要な3つである[6]。
      自分の行動や価値観や目標に気づこうとし、それに従って生きることは、自信と自尊の感情を生み出し、意識のはたらかせ方から生まれる[7]。
      自己の受容は、変化のための条件であり、善悪といった判断をはなれ、事実を事実として受け入れ、恐れがあることを受容し、あまりにも受け入れられない時には受け入れられないことを受け入れるということである[8]。存在を認めていない恐れは、解決も克服もできないからである[9]。悲しみや喜びだけでなく、才能といった長所も、挑戦のための責任や他者からの敵意のために受け入れにくいことがある[10]。罪悪感については、怒りを自分のものとして認め、憤りを無視する、自己主張を恐れるといったもっと深い問題に直面する必要がある[11]。行ったことを認め、与えた危害を認め、償い、理由を探り、繰り返さないための決意を行う[12]。大人の自分と子供の自分の対立の解決も重要であり、同様に当時はそれが精いっぱいであったこと、同様に感情などを受け入れていく[13]。
      念または英語でマインドフルネスとは、ただありのままに注意を向けるということであるが[14]、417人の質問回答の分析から、マインドフルネスが自尊心や不安や抑うつとの関係を示し、自尊心が不安と抑うつの軽減、抑止に対し、有益であるという役割を裏付けた[15]。
      「アクセプタンス」も参照
      心理的支援
      自尊心の形成をサポートする際に支援者は、本人の存在自体の価値をまるごと認め、本人に対して否定をせず根拠のある積極的な肯定をすることが大切であり、そのうえで、何かをすることができた際にそれがどのようなものでも一つ一つの達成を本人の心に届く形で肯定・称賛することが重要である[16]。
      自尊心に関する批判
      自尊心に関する初期の研究
      自尊心研究の初期の第一人者の1人であるロイ・バウマイスター(英語版)によると、バウマイスターが社会心理学者として研究を始めた1970年代には、自分の能力と価値観に自信がある人ほど幸福になって成功するという研究があったため、自尊心関連の研究は当時の主流であった[17]。
      またその頃の研究では、いずれも相関関係は大きくなかったが統計的には有意なレベルで[18]、自尊心が高い生徒は学校の成績がよく、低い生徒は学校で苦労しているという調査結果や、未婚の母親や薬物依存症患者、犯罪者などは自尊心が低いことを示した研究があった。そのため、ナサニエル・ブランデン(英語版)は自尊心に関して「心理的な問題のもとをたどればすべて、自尊心の低さにつながると思われる」と言及すること[19]や、カリフォルニア州で自尊心についての特別調査委員会委員長であるアンドリュー・メッカは「事実上すべての社会問題の根は、自分を好きになれないことに帰結すると考えられる」と言及すること[20]、報告書をまとめたカリフォルニア大学バークレー校の社会学者ニール・スメルサー(英語版)は「ほとんどとは言わないまでも、社会に蔓延している問題の多くの根は、この社会を構成する人たちの自尊心の低さにある」と言及すること[21]があった。
      自尊心の定説を覆した研究
      なお、上記のカリフォルニア州での研究では確実な科学的根拠は見つからず、その点についてスメルサーは「残念だ」と述べている[21]。しかし、自尊心関連の研究については期待がなされており、もう一度研究がなされればもっと良い結果が出るものとされ、後に科学的な機関である心理科学協会で研究が行われた。この研究[22]では何千という研究の中から高い研究水準を満たすものを選び出して研究が行われ、自尊心のもつ様々な性質が明らかになった。その結果、自尊心に関する定説を覆すものになった。また、科学論文を審査した調査委員会の心理学者たちによると、少なくともアメリカ、カナダ、西ヨーロッパでは自尊心の低い人が満ちているという考えは間違いで、特に子どもたちは最初からとても自信を持っているものだと結論した[23]。

    • @とほかみえみため-d5b
      @とほかみえみため-d5b Год назад

      自尊心と学業成績との関係
      自尊心と成績の相関関係はあり、確かに自尊心の高い生徒は成績が良かった[22]。だが、その因果関係は、10年生(日本の高校1年生)で成績がよかった生徒は12年生(日本の高校3年生)の時点で高い自尊心を持っていたが、逆に10年生の時に高い自尊心を持っていた生徒は、12年生で成績が良いということはなかったため、成績が先に高いことによって自尊心が高まるというものである。
      自尊心と成績に関しては、別の研究も行われている。ドナルド・フォーサイスは、自身が担当する心理学のクラスで学生たちの自尊心を高めるため、成績がC以下の学生を2つに分け、毎週、自尊心を刺激するメッセージと事務的なメッセージを送る比較研究を行った[24]。その結果、自尊心を刺激するメッセージを受け取った学生は、対照群の学生たちよりも成績が悪く、さらに前回の試験のときよりも成績が下がってしまった。また、国際的な学力調査で8年生(日本の中学2年生)の数学の成績を比較した研究[25]によると、自分の能力に強い自信を持つアメリカ人の生徒は、日本や韓国といったアメリカに比べて自尊心の低い国の生徒よりもはるかに成績が悪かった。
      自尊心と諸問題との関係
      自尊心の高さは、飲酒・喫煙・薬物・未成年の性行為を防ぐことはなかった[22]。確かに自尊心の低さと薬物依存や10代での妊娠などの問題に相関関係はあるかもしれないが、低い自尊心がその問題を引き起こしているのではなく、逆因果の関係にあり、低年齢で薬物依存状態にあり妊娠をしていることで自尊心が低くなるという指摘がある。
      自尊心の高さの利点
      この研究からわかった自尊心が高いことによる利点は、2点が実証された[22]。1点目は自主性が高まり、自身の信念に基づき行動して新しい仕事のリスクを引き受ける強い意欲を持っていることである。2点目は成績などが悪くても全体的に満足を感じているので、機嫌良く過ごせることである。
      自尊心の高さとナルシストとの関連
      自尊心が高いことは、ナルシストと関連があることが指摘されている[26]。ナルシストが近年、特に若いアメリカ人の間で急増していて[27]、この30年で発表された歌の歌詞にまでその傾向が現れている[28]。ナルシストは集団内では最初の2、3回は好かれるものの、その種の人の評価は多くの場合最下位にまで転落して、周りの人にとっては付き合いづらい存在となる[29]。
      自尊心に関するその後の研究
      1970年代のアメリカでは前述通り自尊心の研究が栄えていたが、1980年代になるとマシュマロ実験に代表される自己調節(自己コントロール)(英語版)に多くの心理学者が目を向けるようになった[30]。その後の研究で、自己コントロール能力が生む利益が総合的に評価され、「自己調節の失敗こそが、現代における主要な社会病理である」と結論付けられた[31]。この研究では、高い離婚率や家庭内暴力や犯罪、その他の問題の一因となった多くの例が挙げられている。
      この研究に刺激され多くの研究がなされ、自己コントロール能力が学生の成績を予測する方法としてIQやSATのスコアよりも優れていることがわかった[32]。加えて、後の研究では職場では自己コントロール能力が高い上司は、部下からも同僚からも好意的に評価されていること、自己コントロール能力が高い人物は感情的にも安定していて、不安やうつ病や偏執病、精神病質傾向、強迫神経症、摂食障害、アルコール依存症その他の問題を抱える傾向が低く、また腹を立てることが少なく、腹を立てた場合にも暴言を吐いたり暴力をふるったりして攻撃的になることが少ないことが明らかになった[33]。
      2010年にはニュージーランドで1000人の子供を誕生から32歳まで追跡するという大規模で徹底された調査が発表された[34]。その結果は上記の内容を裏付けるものであった。自己コントロール能力が高かった子供は、成人してからの肥満率が低く、性感染症を持つ者も少なく、歯の状態もよいという身体的に健康な状態であることが明らかになった。また、大人になってからも安定した結婚生活を営み、両親が揃った家庭で子供を育てる傾向があった。一方、自己コントロール能力が低かった子供は、アルコールや薬物の問題を抱えやすく、大人になってから経済的に貧しくなる傾向にあり、子供を1人親家庭で育てる割合が高く、刑務所に入る割合が高かった。この研究の内容は、評価方法は観察、両親・教師・子供本人からの問題点の報告によるもので信頼性の高い尺度であり、知能・社会階級・人種の要素を考慮してもなお、全てに有意の差が見られた。
      この様に自己調節(自己コントロール)(英語版)の大きな有用性が示されるにつれて、自尊心に関する研究はかつての勢いを失った[35]。

  • @user-xh3ld3wx4s
    @user-xh3ld3wx4s Год назад

    上には上がいる・・・。満足や努力と承認欲求や自己承認欲求と自信や自尊心の話?神道や仏教など伝統宗教からも学べるものあるのでは?
    孤独・・・この地球上で? どこにも人がいて、バクテリアから、微生物も含めば・・・生物がいて、しかも、ネットワークや衛生で居場所わかるのに?思い出や記憶、想像力まで含めば、逆に完全孤独状態は、この地球上では可能なんでしょうか? 孤独が精神的にきつく感じるような感覚が病的なのではないかな?
    サド・マゾ関係?支配と従属関係?気持ち悪い・・・。
    自然の生き物は自由だね。健全な自由は努力で手に入れるべきだね。 
    今まで、世界中に人一人すべてに愛されたという人はいないのでは?また、世界中の全てを知り尽くした人もいないのでは? 虚栄心にまみれず、謙虚に真面目に生きてりゃいいのでは? あしからず。

  • @とほかみえみため-d5b
    @とほかみえみため-d5b Год назад

    優越感
    (ゆうえつかん、英: a sense of superiority、a superiority complex)とは、自分が他者より優れているとの認識、およびここから生じる自己肯定の感情である。多くの場合において自尊心の一端に位置する感情である。優等感(ゆうとうかん)ともいう。対義語は「劣後感」または「劣等感」。
    概要
    優越感は、自分が他者より優れていると感じることや、これにより自分自身の在り様を好む状態で、自尊心はこういった自分に対する好意的な感情の総体であると解される。優越感は既に獲得した自分の属性に対して抱く感情であるが、いわゆる「努力した結果として獲得した能力」が他者より勝っていると感じる場合において、そういった体験が努力などの自助活動を促す側面を持つ。
    反面、なんら努力せずに獲得している属性に関連して、自分より勝っている存在の、自分より劣っている部分を見出し、そこに優越感を抱くという「後ろ向き」な場合もある。これは劣等感に対する自己防衛(防衛機制)であるが、この場合は単なる自己満足に過ぎずなんら実質的な利益は生み出さない。ただ、劣等感から自己否定の感情により自身が傷つくようなストレスを受け続けて精神的に参ってしまうよりも、適度にそういった「ガス抜き」的な逃避を行うことで決定的な事態を回避するという意味合いからは、有効な手段と解することも可能である。
    速水敏彦は、自身の内面に持つ自尊感情や有能感の高低に関わらず、他者の能力を批判的に評価・軽視する傾向に付随して習慣的に生じる有能感を仮想的有能感と名付け[1]、膨張した外面と萎縮した内面という矛盾した両面を合わせ持つ、ある種の若者像を説明した。仮想的有能感は自己評価が高く利己的な点で自己愛に似ているが、他者評価の仕方に起因している点に違いがある[1]。
    上のようなものに関して具体的な例を挙げれば、走る練習をして駆けっこで優位に立つ状態から発生したのが「努力に基づく優越感」で、もう一方は他が駆けっこが早いものの家は自分のところに比べると貧乏だなどというケースなどが想定できる。駆けっこが早いのは当人の手柄であるし頑張った賜物であるが、家が裕福か貧しいかは当人の能力には関係ない。しかし実際問題として、こういった優越感はどちらのケースもしばしば様々な箇所で見出される。
    なお、ものの優劣は価値観にもよって様々な見方が存在する。上の例を更に言及すると、駆けっこで早いとは言っても、競技としての場合は短距離走と持久走の場合では「早い」という意味がかなり違ってきて、短距離走でいくら早くても持久走でスタート直後から短距離走のペースで走っても持久走で勝つことはできないし逆もまたしかり、単純に走るのが速いといっても状況で結果が異なる。また、家が裕福だとか貧しいとかにしても、高層マンション住まいと下町の持ち家住まいでは不動産価値という意味において分譲マンションは裕福とは言えない一方で、近代化された住宅という意味において下町の持ち家は設備が古く不便なこともあるなどやはり単純比較はできない。このため優越感も実質的に価値観を違えれば余り意味を持ち得ない属性に対して勝っていると認識しているに過ぎないケースもまま見出される。
    こういった価値観による優越感は、例えば性差(性別の違い)による優越感などが顕著で、男性が尊重されている場では男性の側が優越感を持つだろうが、女性が尊重されている場では女性の側が優越感を持ちうるという程度に過ぎない。実際の社会では往々にしてこういった価値観の逆転がおこるため、優越感に関しても簡単に覆される場合も存在する。
    対義語の劣等感が、主観的な要素が強いのに対し、優越感の場合は、それを感じる個人が属する集団の価値観が、基準になることが多い。従って、所属する集団の異なる個人に対しては、優越感は通用しないのが普通である。優越感が通用しなかった場合、当人にとっての自尊心が傷付けられることもある。
    学力に価値を置く子供の集団では、往々にして偏差値が優越感の根拠になる。偏差値の高い高等学校に合格した者は、学力に値打ちを置く者に対してのみだが、優越感を抱くことが出来る。
    腕力に価値を置く子供の集団では、喧嘩に強いことが優越感の根拠になる。ただし、腕力を嫌う者に対しては、この優越感は通用しない。
    早熟に値打ちを置く子供の集団では、子供っぽくない服装を先取りすることが、優越感の根拠になることがある。トランクスの普及期には、トランクスを早期採用した者が、依然としてブリーフを採用している同級生に対して、この感情を抱いたともいう。もっともこれも、若者に魅力を感じない者には、通用しない。

    • @とほかみえみため-d5b
      @とほかみえみため-d5b Год назад

      劣等感(れっとうかん、英: Inferiority complex)は、自分が他人に劣っていると感じること。劣後感(れつごかん)ともいう。強烈な不平等感を持つ人々を記述するために使用される心理学用語であり、それによって多くの場合、極端な内気、自己隔離、社会的従順などが発生する。劣等感はしばしば、ある人がすべての他人よりも何らかの形で不足している、または劣っているという信念から生じる[1] 。
      精神分析学の用語としては、ジークムント・フロイトが自著で用いたのが初出で、後に同僚のカール・ユングの著作でも用いられた。古典アドラー心理学の創立者アルフレッド・アドラーは、多くの神経症はこの劣等感を過剰に埋め合わせようとすることにその原因があると考えた。
      日本では、一般的に誤ってコンプレックスを単に劣後感を指して用いられることがあるが、心理学用語としてのコンプレックスは、無意識下に抑圧され、固着され、ときに強い感情を誘発する観念の複合体(complex)を指すのであり、劣等感は正しくは「Inferiority complex(インフェリオリティ コンプレックス)」である[2][3]。
      概要
      これは主に人間の心(精神)に発生する感覚である。人間は成長の過程で自我を発達させるが、この段階で他人との競争意識が生まれ、その競争面での挫折の結果が劣後感とみなされる。劣後感はこれを抱く人を憂鬱(暗く沈んだ気持ち)にさせるが、同時に克服することで更なる展望を生む。多くの場合、児童や青少年は様々な劣後感を抱いている。しかしそれらは成長途上における苦しみであるといえる。
      アルフレッド・アドラーによれば劣等感は、子供の頃の成長環境(たとえば兄弟と比較される)、身体的および精神的な制限、社会的差別の経験(たとえば人種、経済状況、性別による機会不平等)によって引き起こされる可能性があるという[4] 。
      関連項目
      加藤諦三(アドラー心理学者)
      嫉妬
      自尊心
      マイナス思考
      ルサンチマン
      優越感
      不感症
      デモステネス - 劣等感を克服した人物として、とかく引用される[5]。

    • @とほかみえみため-d5b
      @とほかみえみため-d5b Год назад

      過剰適合
      (かじょうてきごう、英: overfitting)や過適合(かてきごう)や過学習(かがくしゅう、英: overtraining)とは、統計学や機械学習において、訓練データに対して学習されているが、未知データ(テストデータ)に対しては適合できていない、汎化できていない状態を指す。汎化能力の不足に起因する。
      その原因の一つとして、統計モデルへの適合の媒介変数が多すぎる等、訓練データの個数に比べて、モデルが複雑で自由度が高すぎることがある。不合理で誤ったモデルは、入手可能なデータに比較して複雑すぎる場合、完全に適合することがある。
      対義語は過少適合(かしょうてきごう、英: underfitting)や過小学習(かしょうがくしゅう、英: undertraining)。
      機械学習
      機械学習の分野では過学習(overtraining)とも呼ばれる。過剰適合の概念は機械学習でも重要である。通常、学習アルゴリズムは一連の訓練データを使って訓練される。つまり、典型的な入力データとその際の既知の出力結果を与える。学習者はそれによって、訓練データでは示されなかった他の例についても正しい出力を返すことができるようになると期待される。しかし、学習期間が長すぎたり、訓練データが典型的なものでなかった場合、学習者は訓練データの特定のランダムな(本来学習させたい特徴とは無関係な)特徴にまで適合してしまう。このような過剰適合の過程では、訓練データについての性能は向上するが、それ以外のデータでは逆に結果が悪くなる。
      交差検証
      詳細は「交差検証」を参照
      統計学の場合も機械学習の場合も、追加の技法(交差検証)を用いることによって、過剰適合に陥らず、訓練がよりよい一般化となっていることを確認し、かつ示す必要がある。
      過剰適合の回避方法
      「偏りと分散」も参照
      正則化
      詳細は「正則化」を参照
      機械学習や統計学において、媒介変数を減らすのではなく、誤差関数に正則化項を追加して、モデルの複雑度・自由度に抑制を加え、過学習を防ぐ方法がある。L2 正則化や L1 正則化などがある。
      サポートベクターマシンにおいては、媒介変数(パラメータ)を減らすのではなく、マージンを最大化することにより、過学習を防いでいて、これも、L2 正則化と同じような手法に基づいている。
      早期打ち切り
      早期打ち切り(英語版)(early stopping)とは、学習の反復において、訓練データと評価データの両方の評価値を監視し、評価データでの評価値が悪化し始める所で学習を早期に打ち切る方法。
      参考文献
      Tetko, I. V.; Livingstone, D. J.; Luik, A. I. (1995). “Neural network studies. 1. Comparison of Overfitting and Overtraining”. J. Chem. Inf. Comput. Sci. 35 (5): 826-833. doi:10.1021/ci00027a006.
      関連項目
      曲線あてはめ
      オッカムの剃刀
      偏りと分散

  • @とほかみえみため-d5b
    @とほかみえみため-d5b Год назад

    思い込み
    (おもいこみ)とは、深く信じこむこと。また、固く心に決めること[1]。
    思い込みをする人は、ある考え方に執着し、合理的な推定の域を超えて、固く真実だと信じ、自分が正しいことを言うために、常識・道徳・前例・先入観・慣習などを根拠にすることがある。しかし、こうした根拠が他者と全く共有できないものである場合も珍しくなく、合理的な説得をしても信じてもらえない。
    思い込みをすることが個人的な問題であることもあるが、集団的な思い込みというものもある。哲学者フランシス・ベーコンが掲げた4つのイドラは、抜きがたい錯覚や偏見という意味で、思い込みの一種であろう。
    思い込みは、頑固であるまたは邪推深さ、猜疑心さらには被害妄想などの精神障害などと、悪い意味で使われることが多いが、目標達成の原動力にもなる。周囲には無理だと言われながら、スポーツ選手がプロデビューを果たすとき、往々にして思い込みが功を奏したのである。

    • @とほかみえみため-d5b
      @とほかみえみため-d5b Год назад

      先入観
      (せんにゅうかん)は、対象認識において、誤ったり偏った認識や妥当性に欠ける評価・判断などの原因となる知識、または把握の枠組みを言う。そこから脱するには、すべての不確実なものに一度は疑いをもつべきであるとデカルトは述べている[1]。人間は、通常、直接に対象に出会う以前に、他者の言葉とか、メディアの風説、書物などから得た、不十分な知識や、そこから導かれる対象に対する態度・把握の様式を持っているもので、その結果として、ネガティブな認識や対象に対する評価がもたらされるようなものを特に「先入観」という。広義(広域)的には、「既成概念」や「固定観念」なる言葉も この類に含まれる。
      人間の認識の主観性
      人間の認識や認識に基づく行為は大体、何らかの意味で、直接の対象認識の前に、予備的な知識や、認識・把握の枠組みが前提として存在するものである。哲学的には、客観といえる「もの自体」は不可知とされ、それゆえに主観の「認識形式」というフィルターを常に通じて、人間の対象認識や、世界に対する行為は成立するのである。
      しかし、このような主観認識のフィルターは、人間が世界を認識するにおいて、また他者と社会生活を送り、コミュニケーションを通じるにおいて、むしろ必要なものでもある。「すぐに腕力をふるい、他人の言葉に耳を貸さない」と一般に噂されている人と、何か交渉する必要ができた場合など、この「予めの知識」に基づいて、慎重な言動を取ることで、対人接触をうまく進めることができる場合もある。
      有用性とネガティブな面
      なにごとか未知のものに対し、予めに知識や評価の枠組みがあるのは、生きて行く上で有用である場合が一般的とされる。しかし、予めの知識や評価の枠組みなどが、著しく客観性に欠けるもので、実際のありようと懸け離れている場合は、問題に発展してしまうことがあり、このような事前の知識や評価の枠組みは、「偏見」とも称される。
      先入観は必ずしも偏見とは限らないが、事前に間接的な予備知識や評価を持っていることで、現実のありようについて、間違った認識や、妥当性に欠ける評価・把握をもたらすことがある。「すぐに腕力をふるい、他人の言葉に耳を貸さない」と噂されている人と、実際に会い、一緒に仕事をしてみると、外見がやくざぽいので、「腕力をふるうような」感じがするだけで、実際は、腕力などふるうことはなく、またいかにも、話しかけにくい雰囲気であるが、実際には、寡黙なだけで、十分話し合いが可能であるということが分かったりすることがある。
      ベーコンのイドラとしての先入観
      フランシス・ベーコンは『ノーヴム・オルガヌム』のなかで、人間の「正しい認識」を曇らせ遮る、四種類の先入観を指摘した。これらは四つあり、イドラと呼ばれる。それぞれは
      種族のイドラ
      洞窟のイドラ
      市場のイドラ
      劇場のイドラ
      以上のように呼ばれている。
      脚注
      ^ デカルト『デカルト』野田又夫 編、中央公論社(世界の名著・第27巻)1995年、331頁
      関連項目
      偏見
      レッテル
      思い込み
      主観と客観
      認識とコミュニケーション
      科学哲学
      疑心暗鬼
      刷り込み

  • @ニャモ-p3i
    @ニャモ-p3i Год назад

    日本語はそもそも相手をはぐらかせたり、その時その場をやり過ごすための言語なので誤解するために有る様な言語です。最初から他人とコミュニケーションする事は考えていないのが日本語

    • @yumesibai55
      @yumesibai55 Год назад +1

      はぐらかしたり、その場をやりすごすのも、
      他人とのコミュニケーションではないでしょうか。
      日本人がコミュニケーションを考えていないのなら、
      そもそも日本語という言葉は不必要ですし、
      存在していること自体が矛盾になります。
      たとえば動物のように
      ボディランゲージだけでよいのでは?

    • @user-xh3ld3wx4s
      @user-xh3ld3wx4s Год назад +1

      悪く言えば、そうかもしれないですが、島国で狭いから、近接する人と問題おきない様に気遣う文化で発生した言葉ともおきかえれないでしょうか。あしからず。

    • @ニャモ-p3i
      @ニャモ-p3i Год назад

      @@user-xh3ld3wx4s
       だから日本は本来外交なんてしてはいけないんです。ずっと鎖国を続けて身の丈に応じた生活を続けるべきだったんです。
       先天的に外交は不可能だし、外交を全て内部調整でやり過ごした結果、かつては国土を焼け野原にしてしまいました。
       出来ない事はやらない。それが正解だと思います。

  • @とほかみえみため-d5b
    @とほかみえみため-d5b Год назад

    言霊
    (ことだま)とは、言葉が持つとされる霊力。言魂(ことだま)とも表記する。
    概要
    声に出した言葉、音声言語が、現実の事象に何がしか影響すると信じられ、良い言葉を発すると良いことが起こり、不吉な言葉を発すると凶事が起こるとされた。そのため、祝詞を奏上する時には絶対に誤読がないように注意された。今日にも残る結婚式などでの忌み言葉も言霊の思想に基づくものである。
    日本は言魂の力によって幸せがもたらされる国「言霊の幸ふ国」とされた。『万葉集』(『萬葉集』)に「志貴島の日本(やまと)の国は事靈の佑(さきは)ふ國ぞ福(さき)くありとぞ」(「志貴嶋 倭國者 事霊之 所佐國叙 真福在与具」 - 柿本人麻呂 3254)「…そらみつ大和の國は 皇神(すめかみ)の嚴くしき國 言靈の幸ふ國と 語り繼ぎ言ひ繼がひけり…」(「…虚見通 倭國者 皇神能 伊都久志吉國 言霊能 佐吉播布國等 加多利継 伊比都賀比計理…」 - 山上憶良 894)との歌がある。これは、古代において「言」と「事」が同一の概念だったことによるものである。漢字が導入された当初も言と事は識別されずに用いられており、例えば事代主神が『古事記』では「言代主神」と書かれている箇所がある。『古事記』には言霊が神格化された一言主大神の記述も存在する。
    自分の意志をはっきりと声に出して言うことを「言挙げ」と言い、それが自分の慢心によるものであった場合には悪い結果がもたらされると信じられた。例えば、『古事記』において倭建命が伊吹山に登った時、山の神の化身に出会ったが、倭建命は「これは神の使いだから帰りに退治しよう」と言挙げした。それが命の慢心によるものであったため、神であったことを見抜けず、命は神の祟りに遭い亡くなってしまった。すなわち、言霊思想は、万物に神が宿るとする単なるアニミズム的な思想というだけではなく、心の存り様をも示すものであった。
    万葉時代に言霊信仰が生まれたのは、中国の文字文化(漢字)に触れるようになり、大和言葉を自覚し、精神的基盤が求められたこととも無縁ではないという指摘がある[1]。江戸期の国学によって、再び取り上げられるようになった際も、漢意(からごころ)の否定や攘夷思想とも関連してくるとされ、自国文化を再認識する過程で論じられてきた[2]。
    金田一京助は『言霊をめぐりて』の論文内で言霊観を三段に分類し、「言うことそのままが即ち実現すると考えた言霊」「言い表された詞華の霊妙を讃した言霊」「祖先伝来の一語一語に宿ると考えられた言霊」とし、それぞれ「言語活動の神霊観」「言語表現の神霊観」「言語機構の神霊観」ということに相応しいと記している。
    記・紀の神話内に終末論が無い理由の一つであり、神道に救世・救済思想が無い[3]のも、救世思想が終末論と表裏一体の信仰のためである(従って、カルトによる終末を用いた脅しや集団自殺も存在しない)。
    山本七平や井沢元彦は、日本には現代においても言葉に呪術的要素を認める言霊の思想は残っているとし、これが抜けない限りまず言論の自由はないと述べている[4]。山本によると、第二次世界大戦中に日本でいわれた「敗戦主義者」とは(スパイやサボタージュ[要曖昧さ回避]の容疑者ではなく)「日本が負けるのではないかと口にした人物」のことで、戦後もなお「あってはならないものは指摘してはならない」という状態になり、「議論してはならない」ということが多く出来てきているという[5]。
    他の文化圏の言霊
    他の文化圏でも、言霊と共通する思想が見られる。『旧約聖書』の「ヘブライ語:רוח הקודש」(ルーアハ)、『新約聖書』では「希: πνεῦμα, pneuma」(プネウマ。動詞「吹く(希: πνέω, pneō)」を語源とし、息、風を意味する)というものがある。「風はいずこより来たりいずこに行くかを知らず。風の吹くところいのちが生まれる。」この「風」と表記されているものが「プネウマ」である。
    一般に、音や言葉は、禍々しき魂や霊を追い払い、場を清める働きがあるとされる(例:拍手 (神道))。これは洋の東西を問わず、祭礼や祝い、悪霊払いで行われる。神事での太鼓、カーニバルでの笛や鐘、太鼓、中華圏での春節の時の爆竹などはその一例である。
    言葉も、呪文や詔としてその霊的な力が利用される。ただし、その大本になる「こと」(事)が何であるかということには、さまざまな見解がある。たとえば「真理とは巌(いわお)のようなものであり、その上に教会を築くことができる」と考えたり、あるいは「真実を知りたければ鏡に汝自身を映してみよ、それですべてが明らかになる」といい、それは知りうるものであり、また実感として捉えられるものであるとみる意見や、「こと」自体はわれわれでは知りえないものであるという主張もある。これらはさまざまな文化により、時代により、また個人により大きく異なっている。
    言霊に関する逸話
    『関東古戦録』巻二の記述として、夏に鳴く狐は凶の印であると説明された北条氏康が和歌で狐自身に凶を返す歌を詠むと、狐が息絶えたと記される。
    『神判記実』(明治初期の伊勢神宮神官・山口起業が集めた霊験譚)の話として、紀伊国の岩松という樵が狼の群れに襲われ、木に登るも、狼は背に登って重なり迫って来たため、暗唱していた祓詞を唱えると、心が清浄になり、狼達は降り、地に伏せ始めた。そのまま祓詞を続けると、朽ちた木の枝が折れ、大きな音と共に落ちたため、狼達が四散して逃げた。その後も岩松は祓詞を唱え続け、96歳まで生きた。
    山蔭基央によれば、古来、禊には、「言霊の禊」「水の禊」「火の禊」「霊の禊」があり、言霊の禊の主流は大祓の詞だが、弟子のオランダ人にオランダ語に訳してやるよう提示したところ、言霊のバイブレーションは発動しなかったと主張している[6]。