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浜崎さんはいつもとても勉強になります。公開日が楽しみです。
ありがとうございます!
このような眼前によこたわる現実を直視するコンテンツに触れる事がない現代に貴重なお話を伺えて本当に良かったです。ありがとうございました。
小林秀雄は早くから「規矩」が無いという言い方で文芸の衰退を憂えていたと思います。80年代迄はというよりそれよりずっと前から文学は停滞していた。三島由紀夫が文学の死滅を身を持って示したのですね。しかし文学が平和な時代に衰退するのは当たり前であって阿呆ばかりが溢れるのは必然と言うべきでしょう
地が無い面が問題というよりは、地が無い面によって生まれる盲目や勘違いによって被る不利益が問題だということなのだと思うのですが、実はそれよりももっと問題なのは、その盲目や勘違いを説明しても理解ができない知能の劣化の方ですよね。地が無かろうと勘違いをしていようと、それはみんないついかなる時もそんな不完全な状態で支え合い生きているわけなので、それ自体は問題ではなく、いざ問題が起きている時に勘違いや盲目の中で全体的に、急進的に、過激に動き大きな間違いを犯してしまうことが問題なのであって、地が無いことや不完全であることや完璧な人間でないことが問題なわけではないはずですよね。完璧でないと自戒的な謙虚さを誰もが持っているから人間同士が寄り合えるわけであって、お互いが歩み寄り、問題解決に至る姿勢を持つことが可能だから平和や仲間意識が可能なのであって、独善的な正義や間違いを認めない傲慢さや無責任を正当化したり、対話すること自体が困難なほどに知能格差が起きている場合には、地があろうとなかろうと間違いだらけになるはずなので、やはりある程度の差別的な知能格差による何らかの社会構造的な介入が行えるようにしていなければ集団の維持は困難だと思われますので、明確な立法によって知能格差問題を解消することができるような法的構造を組み込む必要があります。
1980年代の初め「清水幾太郎的人間は必要か」との特集を『正論』(サンケイ出版 1982年1月号)は 組んだ。当時の論考を令和の今読み返すとやや腰のすわりが悪いような気がすると言ったらいいすぎだろうか。
地の話しは興味深い。実存主義の対極の世界。しかし、戸塚宏は、さらに補完しているなと別の動画を視聴して縦のつながりは、記憶である。時に切断することで、自由と解放を味わえる。足元だけでなく、天地である。自然である。空間である。三半規管である。五感である。(怒りを引き出す為の暴力というのは、よく分からない。伝播する感情もある。また、何かの価値を捉えていないと、それを害われた時に生じる感情である怒りを生じることはできないと思う。暴力が共存、思いやりを導く価値を創出するか、大変に繊細でる。人生の初期に三好達治の詩に出会えたことは、私の助けになった)これは精神の病の解明にも繋がる。そしてまた、メタバースへの懸念を惹起するものだ。
平たくいふと、ハァード作ったけれどもソフトの創造が追ひつかなかった、と言ふ事のでせうか現在を観ると凄い危機感を感じます
清水幾太郎さんを持ち上げた人の中に渡部昇一さんがいましたが、福田さんの死後の90年代半ば以降に、いわゆる保守界隈で渡部さんは重鎮としての存在感を増した印象があります。何かお目付け役みたいな存在が福田さんの逝去以降無くなってしまった感が強く個人的には残念ですね。渡部さんも姿勢は別にして勿論良い言論活動はあったと思われますが・・・。
右のお人、白目がw
冒頭の浜崎さんへの「自己紹介をお願いします」から、面接官みたいな物言いで右の人ちょっと、不快
浜崎さんはいつもとても勉強になります。公開日が楽しみです。
ありがとうございます!
このような眼前によこたわる現実を直視するコンテンツに触れる事がない現代に貴重なお話を伺えて本当に良かったです。ありがとうございました。
小林秀雄は早くから「規矩」が無いという言い方で文芸の衰退を憂えていたと思います。80年代迄はというよりそれよりずっと前から文学は停滞していた。三島由紀夫が文学の死滅を身を持って示したのですね。しかし文学が平和な時代に衰退するのは当たり前であって阿呆ばかりが溢れるのは必然と言うべきでしょう
地が無い面が問題というよりは、地が無い面によって生まれる盲目や勘違いによって被る不利益が問題だということなのだと思うのですが、実はそれよりももっと問題なのは、その盲目や勘違いを説明しても理解ができない知能の劣化の方ですよね。地が無かろうと勘違いをしていようと、それはみんないついかなる時もそんな不完全な状態で支え合い生きているわけなので、それ自体は問題ではなく、いざ問題が起きている時に勘違いや盲目の中で全体的に、急進的に、過激に動き大きな間違いを犯してしまうことが問題なのであって、地が無いことや不完全であることや完璧な人間でないことが問題なわけではないはずですよね。完璧でないと自戒的な謙虚さを誰もが持っているから人間同士が寄り合えるわけであって、お互いが歩み寄り、問題解決に至る姿勢を持つことが可能だから平和や仲間意識が可能なのであって、独善的な正義や間違いを認めない傲慢さや無責任を正当化したり、対話すること自体が困難なほどに知能格差が起きている場合には、地があろうとなかろうと間違いだらけになるはずなので、やはりある程度の差別的な知能格差による何らかの社会構造的な介入が行えるようにしていなければ集団の維持は困難だと思われますので、明確な立法によって知能格差問題を解消することができるような法的構造を組み込む必要があります。
1980年代の初め「清水幾太郎的人間は必要か」との特集を『正論』(サンケイ出版 1982年1月号)は 組んだ。当時の論考を令和の今読み返すとやや腰のすわりが悪いような気がすると言ったらいいすぎだろうか。
地の話しは興味深い。
実存主義の対極の世界。
しかし、戸塚宏は、さらに補完しているなと別の動画を視聴して
縦のつながりは、記憶である。時に切断することで、自由と解放を味わえる。
足元だけでなく、天地である。自然である。空間である。三半規管である。五感である。
(怒りを引き出す為の暴力というのは、よく分からない。伝播する感情もある。また、何かの価値を捉えていないと、それを害われた時に生じる感情である怒りを生じることはできないと思う。暴力が共存、思いやりを導く価値を創出するか、大変に繊細でる。人生の初期に三好達治の詩に出会えたことは、私の助けになった)
これは精神の病の解明にも繋がる。
そしてまた、メタバースへの懸念を惹起するものだ。
平たくいふと、ハァード作ったけれどもソフトの創造が追ひつかなかった、と言ふ事のでせうか
現在を観ると凄い危機感を感じます
清水幾太郎さんを持ち上げた人の中に渡部昇一さんがいましたが、福田さんの死後の90年代半ば以降に、いわゆる保守界隈で渡部さんは重鎮としての存在感を増した印象があります。何かお目付け役みたいな存在が福田さんの逝去以降無くなってしまった感が強く個人的には残念ですね。渡部さんも姿勢は別にして勿論良い言論活動はあったと思われますが・・・。
右のお人、白目がw
冒頭の浜崎さんへの「自己紹介をお願いします」から、面接官みたいな物言いで右の人ちょっと、不快