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天王寺から新大阪始発に変わった頃、不意に夜行列車に乗りたくなるとよく新宮まで乗ってました。新宮駅の立ち食いうどんが早朝から営業していて、眠気覚ましと朝ご飯を兼ねて食べて、さんま寿司やめはり寿司を買って帰ってたのが思い出です。
1983年に初めて「はやたま」に乗った時は天王寺から釣り客と通勤客で満員和歌山からは和歌山で飲んでた通勤客で満員釣り客は串本まででみんな降りて新宮まではわずかな旅行客と乗り鉄しか乗ってなかった
1971年夏中学生の時家族旅行で寝台車に乗せてもらった。すべて非冷房の旧型客車で寝台車も非冷房のスハネ30が2両連結されていた。窓は開放されていたが網戸がつけられていた記憶がある。
はやたま、山陰、ながさき、からまつ。懐かしいですね。夜行鈍行や深夜停車が多い夜行急行は荷物、朝刊の早刷り輸送を担ってました。なので、寝台車の有無を問わず荷物車が連結できる客車が使用されていたと思います。はやたまは釣り人と和歌山から田辺くらいまでは酔っ払いの終電。新宮からは事実上別列車な感じでした。天王寺駅に渡り線の急勾配を登って推進運転で入線するのは中々興味深かったです。私が乗っていた時代は、和歌山から先は客車列車がありましたが、天王寺はこの列車だけでしたから。あと、天王寺駅の阪和ホームのうらびれた感は、上野の地上ホームよりすごかったと思います。
1984年の夏、これに乗った。車内では釣人たちが宴会をしていて寝れなかったなあ。
何度も乗りました。18きっぷで貧乏学生だったので、天王寺で立ち食いうどんを食べて上下乗り継いで天王寺に戻って来ていました。大好きなEF58が旧型客車を牽いていたのも魅力でしたね。
🙋天王寺から出て、印南か南部で天王寺行に乗りました。
このはやたまの名前は、熊野三山の一社、熊野速玉大社から来ています。
昭和55年、当時小学6年生で一年だけ親の都合で関東から大阪の阪和線沿いに住んでいました。当時鉄道ブームで埼玉の特急、ブルートレイン王国のような沿線から引っ越して阪和線沿線ではその点不満で仕方なかったのですがふと時刻表を見ると「はやたま」??普通列車寝台付き??こんなのあり?と目に留まりその後よく線路脇まで見に行きましたね。子供心にはブルトレともまた違う得体の知れない魅力を感じました。その後また関東に引っ越したので縁はそれきりでしたが何とか乗車すれば良かったと後悔しきりです。
昭和50年代921レ924レに乗務していました、当時の客専用時刻表を見て懐かしく思いましたよ、貴重な画像です、DD51のSGが点火せず、新宮駅8分遅延した。
釣り人用の列車でしたね。当時紀伊半島には高速道路もなく、国道も状況があまり良くなかったため、早朝に釣り場に行くのに鉄道のほうが都合が良かったようですね。実際、南紀時代に乗ったことがありますが、お客さんはほとんど釣り人でした。
80年台初にEF58牽引の客車列車に串本まで乗車した事がありました。天王寺駅で乗り込んだら結構な乗車率、至る所に一升瓶が転がり宴会で盛り上がってました。ただ和歌山過ぎたあたりで主要駅で人が釣り具片手に降りて行き、串本ではスカスカに。国鉄情緒一杯の旅行が楽しめました。
懐かしいなあ!天王寺駅のホームで立ち食いそば食べて乗った記憶があります。青春時代の思い出ですね
夜の天王寺駅からの出発。旅立ちの趣があって、とてもよかったよ👍
私は国鉄時代の1981年に名古屋から天王寺まで乗りました。今は亡き旧型客車の旅を満喫することができました。
私が乗ったのは'82年夏なので、名古屋~亀山は乗れなかった😵
わたしは龍華機関区所属の機関士でした。924列車😊921列車懐かしい❤
[竜]😉
青春18きっぷで関東と九州を何度も利用してたとき、天王寺行・名古屋行(後に亀山行)共に利用し易いダイヤのはやたま号を組み込む事が多かったです。天リウのスハ43系が客車だけ折り返し待ちで、名古屋駅のホームでずっと昼寝してるのが印象的でした。天王寺行が新宮で長時間停車するのを利用して、駅前のお寿司屋さんで稲荷寿司を作ってもらい夜食にしたのを覚えてます。名古屋行の場合だと改札外で早朝なのに駅弁を売ってましたね。なお、はやたま号ルート以外に西行だと山陰号、東行だと大垣夜行を利用したルートの場合もありました。
釣り好きにも愛された列車
『はやたま』は当時すでに貴重だった列車。紀勢西線にはEF58牽引の旅客列車と、貨物列車を牽引するEF15。紀勢東線にはDF50牽引の旅客列車と、貨物列車。ブルートレイン『紀伊』もあり、撮影するのには『はやたま』で車泊出来たので、安く撮影旅行が出来ました。旧型客車で非冷房。夏は暑いと思われる人が多いと思われますが、夏に窓を開けて寝ると寒いので窓は閉めて寝ていました。友だちと行くと、寝台特急の利用。私が金かかるから、座席急行でいいんじゃないと言うと『お前はどこでも熟睡出来るから良いだよ』と言い返されました。
1972年にに乗りました。旧型客車B寝台スハネ30が忘れられません。その後1976年では10系寝台+普通車は全てナハ10系で急行の雰囲気でした。その後のナハ10系列の一斉廃車により、旧型客車〜12系になりましたね。
懐かしいな〜。親の田舎が周参見だったから、子供の時分にのりましたよ。(当時12系車両)その後、165系列車で新大阪〜那智まで行ったのは今から思えばいい想い出です。
南海難波から昼行の急行きのくにが出ていたのは知っていたけど、難波から新宮行の夜行普通列車が有ったとは知らなかった。南海難波から夜行に乗るなんてロマンしか感じない。
以前は名古屋まで行ってたのが、関西本線亀山電化以降は亀山止まりになり、それから12系座席に置き換えられた時に寝台車を外され新宮までになり、この時に名無しになりましたでしたね。ただまだ往復の6両固定でしたが、165系電車になった時は新宮行き片道になり、それも半分の3両は紀伊田辺で切り離しと徐々にショボくされていました。
12系置き換え直後に新宮から乗車しました。牽引機はEF58でした。和歌山から天王寺までノンストップで、早朝の阪和線内を老体に鞭打って力走するEF58の雄姿をしっかりと目に焼き付けましたね。
名無しになりましたでした。このとき乗りました。名無しのゴン平。
そして今は御坊行の紀州路快速にw>はやたま
青春18きっぷで天王寺から名古屋まで乗りました。座席車でしたが。長距離鈍行列車が残っていた最後の時代でした。
新宮出身です。子供のころの「はやたま」には後部に2両の10系寝台が連結されてました。機関車はDF50で
DF50が牽引であれば、新宮~和歌山は昭和53年の紀勢西線が電化しているのであれば「はやたま」の前身となる「南紀」です。
@@kuroshio_asuka 昭和40年代後半です
@@kuroshio_asuka 記憶では昭和47年頃です
普通列車南紀が特急の名前に使われるのを知って驚きました。他に候補はないのかと思いました。例えば急行紀州が特急格上げでそのまま特急「紀州」を名乗ってもよいのではとも思いました。
@@kuroshio_asuka 夜行の「紀州」では
はやたまと言えば今は無き竜華機関区の青いFE58がこれまた今は無き阪和線用ホームに滑り込み10系客車を引っ張って新宮を目指して行くと言うのは多くの機関車・客車ファンには有名でしたよね。
南紀の祖父の家に行くのに乗ったことあリます😄👍題詠「924レ」鈍行の荷物車に積む朝刊はターミナル駅二十二時発寝台車一両つらね都市をたつ924レ海岸線ゆく汽車でくる大阪刷りの朝刊のスポーツ欄は七回おもて八時半救援エースの活躍が紙面を飾ることはなかった(歳がバレる💦)名古屋から紀勢本線のディーゼル夜行急行「紀州五号」もお願いします😆(懐かしさに思わずチャンネル登録しました😃)
懐かしい良く串本方面に釣りに行きましたね、客のほとんどが釣り客だったと思います横幅52cmのベッドは硬くて狭くて寝れませんでしたがw
旧型客車時代のはやたま号にオハ47利用で、165系時代の臨時快速列車いそつりに、それぞれ天王寺駅から新宮駅まで乗車した経験があります。両列車ともに田辺駅辺りまでは天王寺からの通勤客が、紀伊勝浦駅辺りまでは釣り客がそこそこ乗車していて、4人用ボックスシートを1人で独占出来ずに、ほとんど眠れなかった思い出が残っています。(同じ夜行鈍行列車の山陰号では鳥取駅から数駅で1ボックスシートを独占出来て綾部駅まで良く眠れました)新宮駅からは熊野速玉大社へ参拝して時間を潰したつもりが、まだまだ駅弁業者は営業を開始したばかりで、名物駅弁めはり寿司さんま寿司は手に入らず普通の幕の内弁当を食して、一路多気駅へ向かって普通気動車列車(キハ20系だったはず)に乗車して、2回とも新宮市を離れました。
「紀伊」は見たことあるけど、「はやたま」は初めて知りました。熊野に由来するセンスいいネーミングだな。ところで今の銀河はパッケージツアー用の乗り物であって、普通の定期運行のように言ってはいけませんよ。時期によって走る区間が岡山の方だったこともある。
懐かしい列車ですね。深夜の紀伊半島を縦断する夜行列車名古屋駅でよく見ました。ところで01:00の新鹿の読みは『あらたか』▶︎❌、『あたしか』▶︎○ です。
はじめて「はやたま」に乗ったのが青春18のびのびきっぷの初回発売時の82年3月でした。高校生野郎4人で、自分以外は鉄でもないのに名古屋1518発天王寺500着を13時間42分騙して乗せたような旅でした🤣数日後「山陰」に乗りました😆
紀勢本線は確か和歌山市~亀山だったかと… 0:02
新宮夜行の頃、天王寺から鳳まで帰ろうと駆け込み乗車したら和歌山までノンストップw車掌さんに泣きついて和泉府中で降ろしてもらった・・・。昭和の良い思い出w
新宮夜行は一度は乗ってみたかったな。銀河は運賃が高いからくろしおで十分。
名古屋から大阪行くのに何度か利用しました、どうしても寝台乗りたくてお金がなく上段の切符を取ったのですが、客車に一人だけだったので、車掌さんが「今日は誰も乗らないから下段で寝て良いよ」と使わせて貰いました、あのひたすら客車に乗る旅、またやりたい。
乗ってみたかった鳳の親戚に行くときに写真撮っただけ確か天王寺~鳳まではトイレの使用はご遠慮下さいってアナウンスがあったような気がする当時は今みたいなタンク式じゃなくて線路に直接落下させてたからね~
確か昼間の快速用の113系もトイレは鍵かかってなかったっけ?>阪和線
懐かしい。遅たま。乗りましたわ。旧客で味がありました。
皆さんのコメントを読んで、面白いですね。また、天王寺から名古屋へ向かう夜行列車など今走らせたら最高の贅沢でしょうねえ。
こういう夜行普通列車での旅は、趣きがあって、楽しいだろうなぁ・・・・
今や夜行バスが主流ですからね。
手動扉のデッキに出て夜風を身体に浴びてみたり、月明かりに照らされた夜の海を見たり、時間を使う、最高に贅沢な旅でしょうね。
おもしろかったですよ。バスとはまた違う楽しみがありました。
大学生のころ亀山迄乗りました。見老津の海岸線尾鷲熊野市紀伊長島と長時間停車この度おみやげ物を見ました。当時は駅前が栄えていました。この前紀伊勝浦新宮に行きましたけどかなり寂れていました。もう廃線かも知れませんね?本当に陸の孤島に逆戻りですね?
165系時代、新大阪から乗りました。関東で乗り馴れた165系夜行もこちらでは珍しく、大ミハ所属のその編成の中間ユニットには167系が入っていたようでした。
もし今復活させるなら種別は快速、車種はHC85系一択でしょうね。その停車駅↓【名古屋〜新宮】南紀号停車駅【新宮〜和歌山】くろしお号停車駅【阪和線内】日根野、東岸和田、和泉府中、鳳、堺市指定席↓●下り(名古屋発)は津まで、上りは和歌山まで全席指定●残りは一部指定
昔、青春18切符利用し、東京を朝出発して、名古屋、亀山経由で新宮から天王寺行夜行に良く乗りました。大垣行夜行より空いていて4人がけ1BOXを1人で使えて、凄く楽でした。
そうなんです。天王寺発は混んでますが、下りは空いてました。私も大垣夜行の折り返しで静岡に出て、そのまま乗り継ぎ、名古屋の駅中銭湯に入ってきしめん食べて、天王寺に向かうことは何度かありました。周遊券なら、大垣夜行折り返しはグリーンなら良く寛げますし、逆に新宮からは寝台車でなくても快適だった記憶があります。
まだ当方が高校生の頃は、この列車が221系で紀伊田辺まで走ってましたが、けったいな停車駅設定はこの頃のスジを踏襲していたんですね。なお母が小さい頃は、この列車を行商の帰りに利用されていた方がいたそうです。まさか今、和歌山以遠御坊行き(最終くろしおに接続)すら消滅?
懐かしいです。他に山陰、ながさき、からまつなど寝台を連結した普通夜行が運行していましたね。名古屋から天王寺まで乗りました。初めて乗った旧型客車でテンションMAXでした。途中四日市で殆どの客が降りて新宮までガラガラ。新宮駅で長時間停車して機関車交換、寝台車を連結する所を写真撮影して余裕こいていたら、乗っていた車両は新宮折り返し編成で、(こんな情報知らないし・・)慌てて天王寺まで直通の車両に乗り換えたら既に立ち席が出る程の混雑具合で、クタクタの状態で天王寺に着いたのが思い出されます。
釣り人にとっては、深夜3時台で列車を降りてもむしろ丁度いいんだろうなあ。
新鹿(あたしか)ですよ
風の谷やな😁
くろしおのブルドッグと南海難波発のきのくに・扇風機はやたま多客時には夜行のきのくにはやたまの客車は久宝寺・龍華操車場でもみれました。
なつかしいですね、中学生のころ大阪駅に、九州から上ってくるブルトレ軍団を撮るために名古屋から天王寺まで18キップで乗りましたね、新宮から竜華のゴハチが引っ張ってましたね、次の駅までだぞと言われて、1区間だけ運転席に乗せてもらったのを思いだしましたよ。 笑
今も鉄道模型で夜行鈍行はやたま号を走らせています
明日(5/4)鉄道で紀伊半島一周しようとしている俺にタイムリーな動画国鉄時代からの変遷を感じながらの旅もまた一興
実は私も紀伊半島の某所に来てます
下りのみ、天王寺⇒新宮で臨時「いそつり」号が走っていた時期があります。南紀・はやたまの釣り客補完でしょうね
実際に乗ったな(天王寺~多気)確か旧客4両+B寝台車(3段)1両🚊寝台車は新宮までで4両が名古屋行き🚃天王寺で晩飯(駅弁)、新宮で朝飯(駅弁)を🍴秋刀魚寿司が美味しかった😊
紀勢本線は,起点:亀山駅で,終点:和歌山市駅ですよ。ちなみに,和歌山駅は阪和線の終点(起点は天王寺駅),和歌山線の終点(起点は王寺駅)です。紀勢本線も起点は亀山駅ですので,和歌山市駅行きの列車のみが下り列車となり,その他は上り列車となる(JR西日本は,京都・新大阪・大阪・天王寺発の列車を阪和線だけでなく紀勢本線でも下り列車としています)。したがって日本で一番低い駅と揶揄されたことがあります(和歌山電鐵は和歌山駅が起点です)。
6:53「客離れした」と言うより寝台車オハネフの老朽化による廃止ですね。同時期にながさき、山陰の寝台車が外されてます。列車自体の需要は比較的近年まであり、新大阪まで延長運転もされたのでむしろ長生きした方でしょう。東の大垣夜行、西の新宮夜行は18キッパーには欠かせない存在でしたね。
国鉄時代の末期は印南だったか南部だったかで、反対方向、天王寺駅行に乗れました。
0:22 特急南紀「解せぬ」
はやたま号、昔親父と串本へ釣りに行くのに使っていました。当時はまだ18きっぷも無く、和歌山以南の乗客は殆ど釣り客で通路にクーラーボックスがずらっと並んでいたのをよく覚えています。串本駅前もこの列車に合わせて釣具店と喫茶店が夜明け前から営業していました。
名古屋駅に3時ころ10系客車が止まっていた。近鉄と競合路線なのにあちらは電車で本数も多いのにこちらはローカル線て感じだった。夜行も紀州とか紀伊とかあったね。
新宮電化前夜…南紀→はやたまと名前が変わる直前に、天王寺から名古屋迄乗りました。
新宮地元民ですが西日本の283系を除けば西も東海も全て21世紀に入ってから製造された新型で運行してくれてるうえに銀河も来る事が有る新宮は本当に恵まれてるんだなあと感じます。
1984年の夏に乗車しました。ちょうど「はやたま」の名前が無くなった頃で、12系客車で運行されていました。釣人や旅行者の他に、和歌山を過ぎた辺りまでは通勤の方々も多く乗車されていました。
小学生の頃鉄道好き4人で名古屋から終点まで乗車しました。安くいい列車でしたいつの日か又乗れるといいな!
昭和50年代前半に天王寺からのりました。たしかオハフ、オハ、スハに10系寝台(ナハネ?)が2輌のような編成で、EF58とDF60?が牽引してました。デッキの扉は開放され、連結通路が鎖のみで、銀河鉄道999の客車みたいでした。懐かしい思い出です。
1979年小学生の頃に踏切で見た旧型客車はいつも名古屋ー亀山なのに夕方に見た名古屋ー天王寺のサボに驚いた。 今から天王寺?どゆこと!?って感じでした。あと五年早く生まれて高校生なら一人旅で国鉄を楽しめたのにと、いつも残念に思うんだよなぁ。
勿論この電車があった事は知ってたけど恥ずかしながら「はたやま」と思っていた。
当時、10系寝台はそこらで走ってたのでそんなに珍しくなかったけど、この列車って紀伊勝浦以東は牽引がDF50だったんですよね。津まで行って撮ったのをよく憶えています。今になってみれば寝台にも”乗っておけば!”って思うけど、当時の高校生にB寝台料金は高かったのであった...(T.T
小学生高学年の1980年代前半、天王寺から印南の祖母宅に敢えて冒険気分で乗った記憶が懐かしい😊
紀勢本線は和歌山駅ではなく和歌山市です。
大阪方面から和歌山市以南の各地に帰る人はこれを利用してました。
東京から紀伊勝浦まで、急行紀伊に二等寝台が連結されていたはず。
5:31寝台気動車、実は試作はされたとか...ruclips.net/user/shortsd7vzfLzsmy0?feature=share
921/922列車が寝台車を連結した理由ですが、43.10以前は1等車(スロ60。昭和40年頃以前はスロハ32など並ロ)を連結していたが、それを2等寝台車(当初スハネ30、後オハネ12)に置き換えたから(スロ60が冷房改造から除外されて格下げされる為と湘南電車・横須賀線・京阪神快速電車以外の1等座席車廃止の為)です。
以前は山陰本線の京都から出雲市までの山陰や函館本線のおたるなどが走っていました。
924列車の和歌山まではくろしお35号として生き残っている
南紀方面に撮影に行く際に年何度となく利用しましたね。寝台を利用したのは二回だけでしたが、、、
国鉄末期まで「からまつ」「はやたま」「山陰」「ながさき」旧型寝台車付きの普通列車が4本も設定されていた。「からまつ」「山陰」はまだしも「はやたま」「ながさき」なんて寝る時間なんてちょっとしかないのに。
俗に言う[924列車]ってやつですね。名古屋車掌区だったウチのおやじがよく乗務していましたよ。
天王寺→新宮(名古屋)は、924列車(名古屋)新宮→天王寺は、921列車和歌山市→和歌山は、4924列車923列車(922列車)は津~亀山だったと思う。
ありましたよ。南海難波駅からの夜行列車。おもしろかった。
1978年に『南紀』も『からまつ』も乗った。
魚釣列車とか新宮夜行とか呼んでましたが、旧客寝台には乗らずじまいでした、😢
ワイも18きっぱ~だから寝台は縁がなかった😵
磯釣り客の需要がJR化後近年まで長く存続できた一因だけど、紀勢道の延伸の波には逆らえなかったね😢。特急南紀もキハ85が2両で風前の灯です。
この列車は既成線沿線の「磯釣り」客が多かったですね。私も一度周参見まで使いました。
子供の頃読んだ本に「寝台車を連結した普通列車」で「はやたま」と「からまつ」が紹介されてた。
ご視聴ありがとうございます。からまつは当チャンネルで過去に取り上げておりますので、ぜひご視聴ください。ruclips.net/video/yClm1kCesa4/видео.html
夜行快速はやたま、天王寺発でござるな、はやたまは23時00分、後に出る、23時20分、夜行急行きのくに22号、難波発23時00分発夜行きのくにでござるな、朝と昼の南海きのくには2両編成、夜行は4両編成でござる
臨時で「いそつり」っていうのもあったはず。
母親が学生時代に大阪帰りに利用していたみたい。
新鹿は「あたしか」が正しい読み方です。
宮脇先生のエッセイを思い出した。周遊券で乗れたとか。
周遊券どころか18きっぷで乗ったよ!😋
乗りたかったですね 今こそ
釣り好きは、「はやたま」って言うより、「太公望列車」って言ってましたね。
自分も「太公望列車」のほうが馴染みがありますね。今でこそ、阪和自動車道~紀勢自動車道が開通して、大阪から南紀へのアクセスが飛躍的に向上しましたが、かつては阪和自動車道が部分開通していた区間以外は国道26号線、42号線しか無かったので、「太公望列車」にはお世話になりました
国鉄末期の夜行普通列車と言えば、「はやたま」「山陰」「ながさき」の三列車でしょうかね。どれも乗ったことはないのですが九州人の私は「ながさき」の印象が強いかも。「はやたま」はコロタン文庫で知ったのかな?
新鹿は「あたしか」と読みます。きれいな海水浴場として隠れたスポットです。
コロタン文庫の国鉄全線全百科だったかな。これの乗車記録が載ってたね。今でも持ってるよ。前々職でJTB時刻表に関わってた時、歴代編集長の中で国鉄私鉄全線を2回乗り潰した方がいて、その方と鈍行夜行の話や準急、超夜行急行の話など貴重な話をさせていただいたことは貴重な思い出。
なんでこの列車のこと知ってるのかと思ったらコロタンの「国鉄全線大百科」のお陰ですね。分解するまで読んだ愛読書でした。
その昔名古屋と天王寺の間を特急、急行、普通列車等々俗に紀伊半島一周列車と呼ばれる列車が何本か走っていました。新幹線で1時間以内で行く大阪名古屋間をわざわざ和歌山、白浜、新宮、津などを通って名古屋へ行く列車に乗ったのは鉄道マニア以外には考えられなかったですが、私もその一人です。気動車特急くろしおで紀伊半島一周。上野から青森行き特急「はつかり」が紀伊半島一周特急くろしおとして走ったのを覚えている人も多いでしょう。「はつかり」「いなほ」「ひたち」「くろしお」上野駅発着のイメージが強い気動車が大阪の天王寺駅の阪和線へやって来た時は凄い驚きでした。
阪和線沿線住民として毎日のように見てたけど、写真を1枚も撮らなかったのが悔やまれる。
12系(改造車)時代に、臨時はやたまが14系座席車で運行されてた
寂しいですね。旅行が単なる移動になっていきます、、、、、、☹
昔『はたやま』と人名みたく読み違えてた。
天王寺から新大阪始発に変わった頃、不意に夜行列車に乗りたくなるとよく新宮まで乗ってました。新宮駅の立ち食いうどんが早朝から営業していて、眠気覚ましと朝ご飯を兼ねて食べて、さんま寿司やめはり寿司を買って帰ってたのが思い出です。
1983年に初めて「はやたま」に乗った時は
天王寺から釣り客と通勤客で満員
和歌山からは和歌山で飲んでた通勤客で満員
釣り客は串本まででみんな降りて
新宮まではわずかな旅行客と乗り鉄しか乗ってなかった
1971年夏中学生の時家族旅行で寝台車に乗せてもらった。すべて非冷房の旧型客車で寝台車も非冷房のスハネ30が2両連結されていた。窓は開放されていたが網戸がつけられていた記憶がある。
はやたま、山陰、ながさき、からまつ。
懐かしいですね。
夜行鈍行や深夜停車が多い夜行急行は荷物、朝刊の早刷り輸送を担ってました。なので、寝台車の有無を問わず荷物車が連結できる客車が使用されていたと思います。
はやたまは釣り人と和歌山から田辺くらいまでは酔っ払いの終電。
新宮からは事実上別列車な感じでした。
天王寺駅に渡り線の急勾配を登って推進運転で入線するのは中々興味深かったです。
私が乗っていた時代は、和歌山から先は客車列車がありましたが、天王寺はこの列車だけでしたから。
あと、天王寺駅の阪和ホームのうらびれた感は、上野の地上ホームよりすごかったと思います。
1984年の夏、これに乗った。
車内では釣人たちが宴会をしていて寝れなかったなあ。
何度も乗りました。
18きっぷで貧乏学生だったので、天王寺で立ち食いうどんを食べて上下乗り継いで天王寺に戻って来ていました。
大好きなEF58が旧型客車を牽いていたのも魅力でしたね。
🙋天王寺から出て、印南か南部で天王寺行に乗りました。
このはやたまの名前は、熊野三山の一社、熊野速玉大社から来ています。
昭和55年、当時小学6年生で一年だけ親の都合で関東から大阪の阪和線沿いに住んでいました。当時鉄道ブームで埼玉の特急、ブルートレイン王国のような沿線から引っ越して阪和線沿線ではその点不満で仕方なかったのですがふと時刻表を見ると「はやたま」??普通列車寝台付き??こんなのあり?と目に留まりその後よく線路脇まで見に行きましたね。子供心にはブルトレともまた違う得体の知れない魅力を感じました。その後また関東に引っ越したので縁はそれきりでしたが何とか乗車すれば良かったと後悔しきりです。
昭和50年代921レ924レに乗務していました、当時の客専用時刻表を見て懐かしく思いましたよ、貴重な画像です、DD51のSGが点火せず、新宮駅8分遅延した。
釣り人用の列車でしたね。当時紀伊半島には高速道路もなく、国道も状況があまり良くなかったため、早朝に釣り場に行くのに鉄道のほうが都合が良かったようですね。実際、南紀時代に乗ったことがありますが、お客さんはほとんど釣り人でした。
80年台初にEF58牽引の客車列車に串本まで乗車した事がありました。天王寺駅で乗り込んだら結構な乗車率、至る所に一升瓶が転がり宴会で盛り上がってました。ただ和歌山過ぎたあたりで主要駅で人が釣り具片手に降りて行き、串本ではスカスカに。国鉄情緒一杯の旅行が楽しめました。
懐かしいなあ!天王寺駅のホームで立ち食いそば食べて乗った記憶があります。青春時代の思い出ですね
夜の天王寺駅からの出発。
旅立ちの趣があって、とてもよかったよ👍
私は国鉄時代の1981年に名古屋から天王寺まで乗りました。今は亡き旧型客車の旅を満喫することができました。
私が乗ったのは'82年夏なので、名古屋~亀山は乗れなかった😵
わたしは龍華機関区所属の機関士でした。924列車😊921列車懐かしい❤
[竜]😉
青春18きっぷで関東と九州を何度も利用してたとき、天王寺行・名古屋行(後に亀山行)共に利用し易いダイヤのはやたま号を組み込む事が多かったです。
天リウのスハ43系が客車だけ折り返し待ちで、名古屋駅のホームでずっと昼寝してるのが印象的でした。
天王寺行が新宮で長時間停車するのを利用して、駅前のお寿司屋さんで稲荷寿司を作ってもらい夜食にしたのを覚えてます。
名古屋行の場合だと改札外で早朝なのに駅弁を売ってましたね。
なお、はやたま号ルート以外に西行だと山陰号、東行だと大垣夜行を利用したルートの場合もありました。
釣り好きにも愛された列車
『はやたま』は当時すでに貴重だった列車。紀勢西線にはEF58牽引の旅客列車と、貨物列車を牽引するEF15。紀勢東線にはDF50牽引の旅客列車と、貨物列車。ブルートレイン『紀伊』もあり、撮影するのには『はやたま』で車泊出来たので、安く撮影旅行が出来ました。旧型客車で非冷房。夏は暑いと思われる人が多いと思われますが、夏に窓を開けて寝ると寒いので窓は閉めて寝ていました。
友だちと行くと、寝台特急の利用。私が金かかるから、座席急行でいいんじゃないと言うと『お前はどこでも熟睡出来るから良いだよ』と言い返されました。
1972年にに乗りました。旧型客車B寝台スハネ30が忘れられません。
その後1976年では10系寝台+普通車は全てナハ10系で急行の雰囲気でした。その後のナハ10系列の一斉廃車により、旧型客車〜12系になりましたね。
懐かしいな〜。
親の田舎が周参見だったから、子供の時分にのりましたよ。
(当時12系車両)
その後、165系列車で新大阪〜那智まで行ったのは今から思えばいい想い出です。
南海難波から昼行の急行きのくにが出ていたのは知っていたけど、難波から新宮行の夜行普通列車が有ったとは知らなかった。
南海難波から夜行に乗るなんてロマンしか感じない。
以前は名古屋まで行ってたのが、関西本線亀山電化以降は亀山止まりになり、
それから12系座席に置き換えられた時に寝台車を外され新宮までになり、
この時に名無しになりましたでしたね。
ただまだ往復の6両固定でしたが、165系電車になった時は新宮行き片道になり、
それも半分の3両は紀伊田辺で切り離しと徐々にショボくされていました。
12系置き換え直後に新宮から乗車しました。牽引機はEF58でした。和歌山から天王寺までノンストップで、早朝の阪和線内を老体に鞭打って力走するEF58の雄姿をしっかりと目に焼き付けましたね。
名無しになりましたでした。このとき乗りました。名無しのゴン平。
そして今は御坊行の紀州路快速にw>はやたま
青春18きっぷで天王寺から名古屋まで乗りました。座席車でしたが。長距離鈍行列車が残っていた最後の時代でした。
新宮出身です。子供のころの「はやたま」には後部に2両の10系寝台が連結されてました。機関車はDF50で
DF50が牽引であれば、新宮~和歌山は昭和53年の紀勢西線が電化しているのであれば「はやたま」の前身となる「南紀」です。
@@kuroshio_asuka 昭和40年代後半です
@@kuroshio_asuka 記憶では昭和47年頃です
普通列車南紀が特急の名前に使われるのを知って驚きました。他に候補はないのかと思いました。例えば急行紀州が特急格上げでそのまま特急「紀州」を名乗ってもよいのではとも思いました。
@@kuroshio_asuka 夜行の「紀州」では
はやたまと言えば今は無き竜華機関区の青いFE58がこれまた今は無き阪和線用ホームに滑り込み10系客車を引っ張って新宮を目指して行くと言うのは多くの機関車・客車ファンには有名でしたよね。
南紀の祖父の家に行くのに乗ったことあリます😄👍
題詠「924レ」
鈍行の荷物車に積む朝刊はターミナル駅二十二時発
寝台車一両つらね都市をたつ924レ海岸線ゆく
汽車でくる大阪刷りの朝刊のスポーツ欄は七回おもて
八時半救援エースの活躍が紙面を飾ることはなかった
(歳がバレる💦)
名古屋から紀勢本線のディーゼル夜行急行「紀州五号」もお願いします😆
(懐かしさに思わずチャンネル登録しました😃)
懐かしい
良く串本方面に釣りに行きましたね、客のほとんどが釣り客だったと思います
横幅52cmのベッドは硬くて狭くて寝れませんでしたがw
旧型客車時代のはやたま号にオハ47利用で、165系時代の臨時快速列車いそつりに、それぞれ天王寺駅から新宮駅まで乗車した経験があります。
両列車ともに田辺駅辺りまでは天王寺からの通勤客が、紀伊勝浦駅辺りまでは釣り客がそこそこ乗車していて、4人用ボックスシートを1人で独占出来ずに、ほとんど眠れなかった思い出が残っています。
(同じ夜行鈍行列車の山陰号では鳥取駅から数駅で1ボックスシートを独占出来て綾部駅まで良く眠れました)
新宮駅からは熊野速玉大社へ参拝して時間を潰したつもりが、まだまだ駅弁業者は営業を開始したばかりで、名物駅弁めはり寿司さんま寿司は手に入らず普通の幕の内弁当を食して、一路多気駅へ向かって普通気動車列車(キハ20系だったはず)に乗車して、2回とも新宮市を離れました。
「紀伊」は見たことあるけど、「はやたま」は初めて知りました。熊野に由来するセンスいいネーミングだな。
ところで今の銀河はパッケージツアー用の乗り物であって、普通の定期運行のように言ってはいけませんよ。時期によって走る区間が岡山の方だったこともある。
懐かしい列車ですね。深夜の紀伊半島を縦断する夜行列車名古屋駅でよく見ました。
ところで01:00の新鹿の読みは『あらたか』▶︎❌、『あたしか』▶︎○ です。
はじめて「はやたま」に乗ったのが青春18のびのびきっぷの初回発売時の82年3月でした。高校生野郎4人で、自分以外は鉄でもないのに名古屋1518発天王寺500着を13時間42分騙して乗せたような旅でした🤣数日後「山陰」に乗りました😆
紀勢本線は確か和歌山市~亀山だったかと… 0:02
新宮夜行の頃、天王寺から鳳まで帰ろうと駆け込み乗車したら和歌山までノンストップw
車掌さんに泣きついて和泉府中で降ろしてもらった・・・。昭和の良い思い出w
新宮夜行は一度は乗ってみたかったな。銀河は運賃が高いからくろしおで十分。
名古屋から大阪行くのに何度か利用しました、
どうしても寝台乗りたくてお金がなく上段の切符を取ったのですが、
客車に一人だけだったので、
車掌さんが「今日は誰も乗らないから下段で寝て良いよ」と使わせて貰いました、
あのひたすら客車に乗る旅、
またやりたい。
乗ってみたかった
鳳の親戚に行くときに写真撮っただけ
確か天王寺~鳳まではトイレの使用はご遠慮下さいってアナウンスがあったような気がする
当時は今みたいなタンク式じゃなくて線路に直接落下させてたからね~
確か昼間の快速用の113系もトイレは鍵かかってなかったっけ?>阪和線
懐かしい。遅たま。乗りましたわ。旧客で味がありました。
皆さんのコメントを読んで、面白いですね。また、天王寺から名古屋へ向かう夜行列車など今走らせたら最高の贅沢でしょうねえ。
こういう夜行普通列車での旅は、趣きがあって、楽しいだろうなぁ・・・・
今や夜行バスが主流ですからね。
手動扉のデッキに出て夜風を身体に浴びてみたり、月明かりに照らされた夜の海を見たり、時間を使う、最高に贅沢な旅でしょうね。
おもしろかったですよ。バスとはまた違う楽しみがありました。
大学生のころ亀山迄乗りました。見老津の海岸線尾鷲熊野市紀伊長島と長時間停車この度おみやげ物を見ました。当時は駅前が栄えていました。この前紀伊勝浦新宮に行きましたけどかなり寂れていました。もう廃線かも知れませんね?本当に陸の孤島に逆戻りですね?
165系時代、新大阪から乗りました。関東で乗り馴れた165系夜行もこちらでは珍しく、大ミハ所属のその編成の中間ユニットには167系が入っていたようでした。
もし今復活させるなら種別は快速、車種はHC85系一択でしょうね。
その停車駅↓
【名古屋〜新宮】南紀号停車駅
【新宮〜和歌山】くろしお号停車駅
【阪和線内】日根野、東岸和田、和泉府中、鳳、堺市
指定席↓
●下り(名古屋発)は津まで、上りは和歌山まで全席指定
●残りは一部指定
昔、青春18切符利用し、東京を朝出発して、名古屋、亀山経由で新宮から天王寺行夜行に良く乗りました。大垣行夜行より空いていて4人がけ1BOXを1人で使えて、凄く楽でした。
そうなんです。
天王寺発は混んでますが、下りは空いてました。
私も大垣夜行の折り返しで静岡に出て、そのまま乗り継ぎ、名古屋の駅中銭湯に入ってきしめん食べて、天王寺に向かうことは何度かありました。
周遊券なら、大垣夜行折り返しはグリーンなら良く寛げますし、逆に新宮からは寝台車でなくても快適だった記憶があります。
まだ当方が高校生の頃は、この列車が221系で紀伊田辺まで走ってましたが、けったいな停車駅設定はこの頃のスジを踏襲していたんですね。なお母が小さい頃は、この列車を行商の帰りに利用されていた方がいたそうです。
まさか今、和歌山以遠御坊行き(最終くろしおに接続)すら消滅?
懐かしいです。他に山陰、ながさき、からまつなど寝台を連結した普通夜行が運行していましたね。
名古屋から天王寺まで乗りました。初めて乗った旧型客車でテンションMAXでした。
途中四日市で殆どの客が降りて新宮までガラガラ。新宮駅で長時間停車して機関車交換、寝台車を連結する所を写真撮影して余裕こいていたら、乗っていた車両は新宮折り返し編成で、(こんな情報知らないし・・)慌てて天王寺まで直通の車両に乗り換えたら既に立ち席が出る程の混雑具合で、クタクタの状態で天王寺に着いたのが思い出されます。
釣り人にとっては、深夜3時台で列車を降りてもむしろ丁度いいんだろうなあ。
新鹿(あたしか)ですよ
風の谷やな😁
くろしおのブルドッグと南海難波発のきのくに・扇風機
はやたま多客時には夜行のきのくに
はやたまの客車は久宝寺・龍華操車場でもみれました。
なつかしいですね、
中学生のころ大阪駅に、九州から上ってくるブルトレ軍団を撮るために名古屋から天王寺まで18キップで乗りましたね、
新宮から竜華のゴハチが引っ張ってましたね、次の駅までだぞと言われて、1区間だけ運転席に乗せてもらったのを思いだしましたよ。 笑
今も鉄道模型で夜行鈍行はやたま号を走らせています
明日(5/4)鉄道で紀伊半島一周しようとしている俺にタイムリーな動画
国鉄時代からの変遷を感じながらの旅もまた一興
実は私も紀伊半島の某所に来てます
下りのみ、天王寺⇒新宮で臨時「いそつり」号が走っていた時期があります。南紀・はやたまの釣り客補完でしょうね
実際に乗ったな(天王寺~多気)確か旧客4両+B寝台車(3段)1両🚊
寝台車は新宮までで4両が名古屋行き🚃
天王寺で晩飯(駅弁)、新宮で朝飯(駅弁)を🍴秋刀魚寿司が美味しかった😊
紀勢本線は,起点:亀山駅で,終点:和歌山市駅ですよ。
ちなみに,和歌山駅は阪和線の終点(起点は天王寺駅),和歌山線の終点(起点は王寺駅)です。紀勢本線も起点は亀山駅ですので,和歌山市駅行きの列車のみが下り列車となり,その他は上り列車となる(JR西日本は,京都・新大阪・大阪・天王寺発の列車を阪和線だけでなく紀勢本線でも下り列車としています)。したがって日本で一番低い駅と揶揄されたことがあります(和歌山電鐵は和歌山駅が起点です)。
6:53「客離れした」と言うより寝台車オハネフの老朽化による廃止ですね。同時期にながさき、山陰の寝台車が外されてます。列車自体の需要は比較的近年まであり、新大阪まで延長運転もされたのでむしろ長生きした方でしょう。東の大垣夜行、西の新宮夜行は18キッパーには欠かせない存在でしたね。
国鉄時代の末期は印南だったか南部だったかで、反対方向、天王寺駅行に乗れました。
0:22 特急南紀「解せぬ」
はやたま号、昔親父と串本へ釣りに行くのに使っていました。当時はまだ18きっぷも無く、和歌山以南の乗客は殆ど釣り客で通路にクーラーボックスがずらっと並んでいたのをよく覚えています。
串本駅前もこの列車に合わせて釣具店と喫茶店が夜明け前から営業していました。
名古屋駅に3時ころ10系客車が止まっていた。近鉄と競合路線なのにあちらは電車で本数も多いのにこちらはローカル線て感じだった。夜行も紀州とか紀伊とかあったね。
新宮電化前夜…
南紀→はやたまと名前が変わる直前に、天王寺から名古屋迄乗りました。
新宮地元民ですが西日本の283系を除けば西も東海も全て21世紀に入ってから製造された新型で運行してくれてるうえに銀河も来る事が有る新宮は本当に恵まれてるんだなあと感じます。
1984年の夏に乗車しました。ちょうど「はやたま」の名前が無くなった頃で、12系客車で運行されていました。
釣人や旅行者の他に、和歌山を過ぎた辺りまでは通勤の方々も多く乗車されていました。
小学生の頃鉄道好き4人で名古屋から終点まで乗車しました。安くいい列車でしたいつの日か又乗れるといいな!
昭和50年代前半に天王寺からのりました。たしかオハフ、オハ、スハに10系寝台(ナハネ?)が2輌のような編成で、EF58とDF60?が牽引してました。デッキの扉は開放され、連結通路が鎖のみで、銀河鉄道999の客車みたいでした。
懐かしい思い出です。
1979年小学生の頃に踏切で見た旧型客車はいつも名古屋ー亀山なのに夕方に見た名古屋ー天王寺のサボに驚いた。
今から天王寺?どゆこと!?
って感じでした。
あと五年早く生まれて高校生なら一人旅で国鉄を楽しめたのにと、
いつも残念に思うんだよなぁ。
勿論この電車があった事は知ってたけど恥ずかしながら「はたやま」と思っていた。
当時、10系寝台はそこらで走ってたのでそんなに珍しくなかったけど、この列車って紀伊勝浦以東は牽引がDF50だったんですよね。津まで行って撮ったのをよく憶えています。今になってみれば寝台にも”乗っておけば!”って思うけど、当時の高校生にB寝台料金は高かったのであった...(T.T
小学生高学年の1980年代前半、天王寺から印南の祖母宅に敢えて冒険気分で乗った記憶が懐かしい😊
紀勢本線は和歌山駅ではなく和歌山市です。
大阪方面から和歌山市以南の各地に帰る人はこれを利用してました。
東京から紀伊勝浦まで、急行紀伊に二等寝台が連結されていたはず。
5:31
寝台気動車、実は試作はされたとか...
ruclips.net/user/shortsd7vzfLzsmy0?feature=share
921/922列車が寝台車を連結した理由ですが、43.10以前は1等車(スロ60。昭和40年頃以前はスロハ32など並ロ)を連結していたが、それを2等寝台車(当初スハネ30、後オハネ12)に置き換えたから(スロ60が冷房改造から除外されて格下げされる為と湘南電車・横須賀線・京阪神快速電車以外の1等座席車廃止の為)です。
以前は山陰本線の京都から出雲市までの山陰や函館本線のおたるなどが走っていました。
924列車の和歌山まではくろしお35号として生き残っている
南紀方面に撮影に行く際に年何度となく利用しましたね。寝台を利用したのは二回だけでしたが、、、
国鉄末期まで「からまつ」「はやたま」「山陰」「ながさき」旧型寝台車付きの普通列車が4本も設定されていた。
「からまつ」「山陰」はまだしも「はやたま」「ながさき」なんて寝る時間なんてちょっとしかないのに。
俗に言う[924列車]ってやつですね。名古屋車掌区だったウチのおやじがよく乗務していましたよ。
天王寺→新宮(名古屋)は、924列車
(名古屋)新宮→天王寺は、921列車
和歌山市→和歌山は、4924列車
923列車(922列車)は津~亀山だったと思う。
ありましたよ。南海難波駅からの夜行列車。おもしろかった。
1978年に『南紀』も『からまつ』も乗った。
魚釣列車とか新宮夜行とか呼んでましたが、旧客寝台には乗らずじまいでした、😢
ワイも18きっぱ~だから寝台は縁がなかった😵
磯釣り客の需要がJR化後近年まで長く存続できた一因だけど、紀勢道の延伸の波には逆らえなかったね😢。
特急南紀もキハ85が2両で風前の灯です。
この列車は既成線沿線の「磯釣り」客が多かったですね。私も一度周参見まで使いました。
子供の頃読んだ本に「寝台車を連結した普通列車」で「はやたま」と「からまつ」が紹介されてた。
ご視聴ありがとうございます。からまつは当チャンネルで過去に取り上げておりますので、ぜひご視聴ください。
ruclips.net/video/yClm1kCesa4/видео.html
夜行快速はやたま、天王寺発でござるな、はやたまは23時00分、後に出る、23時20分、夜行急行きのくに22号、難波発23時00分発夜行きのくにでござるな、朝と昼の南海きのくには2両編成、夜行は4両編成でござる
臨時で「いそつり」っていうのもあったはず。
母親が学生時代に大阪帰りに利用していたみたい。
新鹿は「あたしか」が正しい読み方です。
宮脇先生のエッセイを思い出した。
周遊券で乗れたとか。
周遊券どころか18きっぷで乗ったよ!😋
乗りたかったですね 今こそ
釣り好きは、「はやたま」って言うより、「太公望列車」って言ってましたね。
自分も「太公望列車」のほうが馴染みがありますね。
今でこそ、阪和自動車道~紀勢自動車道が開通して、大阪から南紀へのアクセスが飛躍的に向上しましたが、かつては阪和自動車道が部分開通していた区間以外は国道26号線、42号線しか無かったので、「太公望列車」にはお世話になりました
国鉄末期の夜行普通列車と言えば、「はやたま」「山陰」「ながさき」の三列車でしょうかね。どれも乗ったことはないのですが九州人の私は「ながさき」の印象が強いかも。「はやたま」はコロタン文庫で知ったのかな?
新鹿は「あたしか」と読みます。きれいな海水浴場として隠れたスポットです。
コロタン文庫の国鉄全線全百科だったかな。これの乗車記録が載ってたね。
今でも持ってるよ。
前々職でJTB時刻表に関わってた時、歴代編集長の中で国鉄私鉄全線を2回乗り潰した方がいて、その方と鈍行夜行の話や準急、超夜行急行の話など貴重な話をさせていただいたことは貴重な思い出。
なんでこの列車のこと知ってるのかと思ったらコロタンの「国鉄全線大百科」のお陰ですね。分解するまで読んだ愛読書でした。
その昔名古屋と天王寺の間を特急、急行、普通列車等々俗に紀伊半島一周列車と呼ばれる列車が何本か走っていました。新幹線で1時間以内で行く大阪名古屋間をわざわざ和歌山、白浜、新宮、津などを通って名古屋へ行く列車に乗ったのは鉄道マニア以外には考えられなかったですが、私もその一人です。気動車特急くろしおで紀伊半島一周。上野から青森行き特急「はつかり」が紀伊半島一周特急くろしおとして走ったのを覚えている人も多いでしょう。「はつかり」「いなほ」「ひたち」「くろしお」上野駅発着のイメージが強い気動車が大阪の天王寺駅の阪和線へやって来た時は凄い驚きでした。
阪和線沿線住民として毎日のように見てたけど、写真を1枚も撮らなかったのが悔やまれる。
12系(改造車)時代に、臨時はやたまが14系座席車で運行されてた
寂しいですね。
旅行が単なる移動になっていきます、、、、、、☹
昔『はたやま』と人名みたく読み違えてた。