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お疲れ様です。貴重な資料を基にしたお話、いつもありがとうございます。毎回夢中で拝聴しております。眼から鱗のお話ばかりで、古文書の説明をお聞きしていると当時の状況がいきいきと浮かび上がってくるようです。とても勉強になります。ありがたい事です。
本籍鶴岡市にありながら一度も見た事非ず、お恥ずかしき限りです。
いつも拝聴させていただいております。大変楽しく勉強になります。織田家へ戻ってからなくなるまでの間の徳姫がかいた何らかの手紙書面等の資料ありますでしょうか。徳姫の気持ちが垣間見える資料があれば読んでみたいと思います。夫信康、父信長、義父家康、姑瀬名、我が子らへどんな想いをいだいていたのか知りたいです。
日名町生まれ60代です。「ぽんつく」なつかしいです。昔の日名町は田んぼばかりだったので、小川や用水路でのぽんつくはメインの遊びでした。
藤沢周平先生の小説に出てくるかの有名な庄内藩が酒井忠次公のお城とは!初めて知ってびっくり!良い解説動画ですね。参考にさせていただきます。
今ごろですが、ぽんつく知ってます、50台ですが祖父は岡崎です。
石川数正の出奔について、是非先生に解説して欲しいです
これは内部闘争、親子対決ですね。長男は信長との同盟という家康の方針に反対する動きを見せている。信長の命令というより家康自身の判断で部下を動かし切腹させたと思う。
私もそう思いますが、信康と後の天下人・家康は年齢的に親子関係ではなく、家康は父・松平広忠とも親子関係とは言えない年齢差ですね。広忠の嫡子・元康と後の家康は別人ですね。ですから、信康・築山事件がおきたと思います。
山形県に「酒井ワイナリー」という醸造メーカーがあって(赤湯地方)、ここのワインが大好きなのですが、酒井忠次と関係があるのかなぁ(あったら、なんとなくいなぁ😙)と思いました.
市橋先生、お疲れ様です‼️なるほどねぇ‼️酒井忠次との確執はにかった‼️でしょねぇ‼️家康の長男ですし武士としてもすごい‼️そしてなぜ切腹までにいったのかぁ!酒井忠次はなぜ助言しなかったのか❓そこら、変も詳しく知りたいです‼️よろしくお願いいたします‼️
酒井左衛門尉は、83年の「徳川家康」では、原作者山岡荘八の視点と原作の分量の多さから、鬼作左、石川数正に比べクローズアップが少なく、2000年の「葵徳川三代」では彼の死後から話が始まるなど、これまでの大河ドラマでは不遇でしたね。今回の大河ドラマでは実際の功績に見合う焦点があてられるといいのですが。
昔の大河ドラマのようで懐かしかったです🙂片岡千恵蔵さんや市川歌右衛門さん、市川雷蔵さん、東千代之助さん等の時代劇を観たいです🎵
今回もお疲れ様です。有難うございます。5月25日に岡崎城と大河ドラマ館の後、晴天で暑い中を国道1号線沿いにテクテク歩いて、やっと信康殿の首塚がある若宮八幡宮を見つけました。瀬名ちゃんというか築山殿の首塚がある八柱神社に行く時間はありませんでした。浜松でも犀ヶ崖古戦場や浜松市美術館の後に築山殿の胴体が埋葬されたお寺を暑い中テクテク歩いて、やっと見つけたのは良いが、16時過ぎていたので僧侶が門を閉める時に着いてしまいました。残念‼️僧侶が言うには、早めに閉めないとまた良からぬ連中が来て、いたずらや火遊びをして火事になったこともあったそうで、なるほどなと思いまして、いつかまた来ることにして帰りました。今回の旅では浜松に2泊して瀬名ちゃんの首塚がある岡崎の八柱神社、胴体が埋葬された浜松のお寺も観ることができませんでした。
そういえば信康は病弱で実母に密着された故の悲劇が起こったからこそ同じく病弱で生まれた家光を江と引き離さないとまずいと家康は考えないはずがない
松平姓、こんなに多いんですね。
鶴岡市には松平信康が祭神の一柱となっている神社が存在しています。そういう意味では松平信康は酒井氏ひいては庄内藩とその領民たちをずっと見守ってきた存在なのかもしれません。
丹羽松平はどの辺りの一族になりますか?
信康ってある意味初代ガンダムシリーズでいえばハサウェイに近いかも
「齢を摂って骨の折れる事よ」「倅が生きておれば…」関ヶ原の戦い時の家康公の発言ですね。秀忠公はまだ20歳過ぎで孫子の年やから家康公60歳時の苦悩が知れますね。
葵徳川三代のセリフですね
毎回、楽しみにしています。また、詳細に深くご説明頂き、とても分かりやすいです。更に新たな発見があり驚いております。信康自刃事件について、浜松、岡崎の拠点の違いにより、将来、西、東地区の徳川軍団指揮系統の混乱を生じさせないように信長の命(心配症!?)により家康が信康へ自刃を命じたとの事ですが、なるほどと思いましたが、裏に武田信玄の策略があったのか?何故、ここまでしなければならないのか?いまだに分かりません。是非、信長の考えについて、機会があれば教えて下さい。
今年の大河も瀬名の描写を見る限りでは信康の切腹は信長の所為ってことにされるんだろうなあ。いいかげんステレオタイプな信長描写はやめてほしいわ。
親子対決に一票。武田信玄は、父親の武田信虎を追放して跡を継いでいる。更に、斎藤義龍は父親の斎藤道三を討っている。家康はここから学習し、信康の時も容赦しなかった。五徳の影響はあったと思う。五徳は怖い上司のムスメ。それが、徳川家で耳にした嘘か真か分からない話を、父親に送っていた。家康からすると、もうそれだけで「マズイ」と思ったんじゃなかろうか。
2年前の信康切腹説明とはかなり違ってきていますね。
それにしても、自害した後の介錯で首と胴体が切り離され、首は岡崎の神社、胴体は浜松のお寺に埋葬とは酷すぎる。現代人の我々が考えたら。しかも母子別の場所に。信康殿の胴体は切腹した二俣城周辺に埋葬したかな?2人の遺体は江戸時代まで浜名湖周辺に埋葬し、放置してあったはウソですが、信長の指示で家康は内心泣く泣く2人を処断したなんていうのも大ウソですよ。それならなぜ岡崎と浜松、しかも神社とお寺に首と胴体を離して埋葬するようなことをするのか。2人を愛していたなら。もし松平元康が後の家康ならば。
官学である朱子学を学ばずに、異学である徂徠学をあえて採用したのが、致道館の学問の特徴です。 とはいえどっちかどうだかというのは説明できないけど、、。 ものの本によれば、テキストに対しより実証的なアプローチをしたのが徂徠学で、近世以降の酒井家のお侍さんたちにの考え方に少なからず影響を与えたんだとか、、。
岡崎松平は分かりました[世良田]ってなんですか
後に天下人になった家康の旧姓と言われています。子供時代に織田や今川で人質生活を経験した岡崎城主・松平元康と後の家康は別人ならば信康・築山事件の真相は見えてきます。元康の死後、すり替わって家康と改名した人物は世良田次郎三郎元信という、ささら者( 旅役者 )とか、願人坊主とか。とにかく元康の影武者としては才覚に優れていたのかな?群馬県の東武伊勢崎線に世良田という駅があり、私も行ったことがありますが、近くに徳川や新田の地名があり、徳川という川もあるとか。新田源氏の嫡流として征夷大将軍に任命されたのはご存知ですよね。家康は若い頃、駿府辺りで何か活動していて、今川方の部将・松平元康の死後、彼の影武者としてスカウトされたような晩年の家康自身の証言が何かの資料にあるようです。将軍を引退後、駿府城を隠居場所に決めたのも無関係ではないと思いますね。
岡崎城主・松平元康がそのまま後の家康ならば人質生活という嫌な思い出のある駿府よりも浜松か岡崎を隠居場所にすると思いますが。
@@長谷川良行-w2e なーるほど
家康は、酒井忠次にお前でも子が可愛いか?って言ったらしいから、家康は恨んでたんだろ!
信長がいろんなところから恨まれていたんだろうなあ? 本能寺やむなしですね? まぁそれないと、天下泰平の江戸時代ないしね❔
信康切腹の件で、信長が家康を追い込んだという史料は一切ない。憶測あるいは先入観で史料を解釈しすぎだ。家康が武田信虎みたいになりたくなくて先手を打ったという普通の解釈を、家康信者は受け入れ難いのだろうな。
信長が関与したかは分からないけど、信長からみたら家康の跡を継ぐ同盟者としては、信頼できない人間性だったんだろうな。
😅
ぽんつく知ってる自分は66歳。
信康ー忠次、村重ー清秀、秀吉ー三成、秋家ー長政・・・等。決定的な場面での対応で失敗する気質の組み合わせ。現代の政治でも角栄ー正芳、前原ー小池、現在進行中の野党間の組み合わせでの中でもある。信康は信盛、光秀、義元と同じ気質なので、信長と気質が合わない。忠次も良かれと思う対応をしたのだろうが組み合わせが悪かったとしか言いようがない。忠次を申し開きの使者に送ったのは家康の失敗。大河ドラマで「麒麟がくる」の出だし道三、義龍、光秀はそれぞれと同じ気質の俳優が演じたので、大変良い出だしだった。来年の大河も家康の若い頃と同じ気質の松潤さんが演じるので高評価の出だしになるでしょう。
いまだにいろんな説がありますね。家康は自分に似て気性が激しかった信康を警戒して嫌ってたとか、いやいや本当は頼もしいと愛していたが無念の切腹命令だったとか。
戦国大名の中で、敵、味方も含めて、誰が一番人を殺したのでしょうか?
酒井忠次はスケープゴートされた一人。
虫食いは意図的ですね。
徳川最大の謎は今川義元のもとに人質になっていた松平竹千代は大坂の陣で豊臣家を滅ぼした徳川家康と同一人物だったのか?じゃね?
本題は、どこ行った。
>信長に殺されたのかは?まだこんな事言ってんのかwww
信長は、信忠と信康を比べたのでは?
お疲れ様です。
貴重な資料を基にしたお話、いつもありがとうございます。毎回夢中で拝聴しております。
眼から鱗のお話ばかりで、古文書の説明をお聞きしていると当時の状況がいきいきと浮かび上がってくるようです。とても勉強になります。
ありがたい事です。
本籍鶴岡市にありながら一度も見た事非ず、お恥ずかしき限りです。
いつも拝聴させていただいております。大変楽しく勉強になります。織田家へ戻ってからなくなるまでの間の徳姫がかいた何らかの手紙書面等の資料ありますでしょうか。徳姫の気持ちが垣間見える資料があれば読んでみたいと思います。夫信康、父信長、義父家康、姑瀬名、我が子らへどんな想いをいだいていたのか知りたいです。
日名町生まれ60代です。「ぽんつく」なつかしいです。昔の日名町は田んぼばかりだったので、小川や用水路でのぽんつくはメインの遊びでした。
藤沢周平先生の小説に出てくるかの有名な庄内藩が酒井忠次公のお城とは!初めて知ってびっくり!良い解説動画ですね。参考にさせていただきます。
今ごろですが、ぽんつく知ってます、50台ですが祖父は岡崎です。
石川数正の出奔について、是非先生に解説して欲しいです
これは内部闘争、親子対決ですね。
長男は信長との同盟という家康の方針に反対する動きを見せている。
信長の命令というより家康自身の判断で部下を動かし切腹させたと思う。
私もそう思いますが、信康と後の天下人・家康は年齢的に親子関係ではなく、家康は父・松平広忠とも親子関係とは言えない年齢差ですね。
広忠の嫡子・元康と後の家康は別人ですね。
ですから、信康・築山事件がおきたと思います。
山形県に「酒井ワイナリー」という醸造メーカーがあって(赤湯地方)、ここのワインが大好きなのですが、酒井忠次と関係があるのかなぁ(あったら、なんとなくいなぁ😙)と思いました.
市橋先生、お疲れ様です‼️なるほどねぇ‼️酒井忠次との確執はにかった‼️でしょねぇ‼️家康の長男ですし武士としてもすごい‼️そしてなぜ切腹までにいったのかぁ!酒井忠次はなぜ助言しなかったのか❓そこら、変も詳しく知りたいです‼️よろしくお願いいたします‼️
酒井左衛門尉は、83年の「徳川家康」では、原作者山岡荘八の視点と原作の分量の多さから、鬼作左、石川数正に比べクローズアップが少なく、2000年の「葵徳川三代」では彼の死後から話が始まるなど、これまでの大河ドラマでは不遇でしたね。今回の大河ドラマでは実際の功績に見合う焦点があてられるといいのですが。
昔の大河ドラマのようで懐かしかったです🙂
片岡千恵蔵さんや市川歌右衛門さん、市川雷蔵さん、東千代之助さん等の時代劇を観たいです🎵
今回もお疲れ様です。有難うございます。
5月25日に岡崎城と大河ドラマ館の後、晴天で暑い中を国道1号線沿いにテクテク歩いて、やっと信康殿の首塚がある若宮八幡宮を見つけました。
瀬名ちゃんというか築山殿の首塚がある八柱神社に行く時間はありませんでした。
浜松でも犀ヶ崖古戦場や浜松市美術館の後に築山殿の胴体が埋葬されたお寺を暑い中テクテク歩いて、やっと見つけたのは良いが、16時過ぎていたので僧侶が門を閉める時に着いてしまいました。残念‼️
僧侶が言うには、早めに閉めないとまた良からぬ連中が来て、いたずらや火遊びをして火事になったこともあったそうで、なるほどなと思いまして、いつかまた来ることにして帰りました。
今回の旅では浜松に2泊して瀬名ちゃんの首塚がある岡崎の八柱神社、胴体が埋葬された浜松のお寺も観ることができませんでした。
そういえば信康は病弱で実母に密着された故の悲劇が起こったからこそ同じく病弱で生まれた家光を江と引き離さないとまずいと家康は考えないはずがない
松平姓、こんなに多いんですね。
鶴岡市には松平信康が祭神の一柱となっている神社が存在しています。そういう意味では松平信康は酒井氏ひいては庄内藩とその領民たちをずっと見守ってきた存在なのかもしれません。
丹羽松平はどの辺りの一族になりますか?
信康ってある意味初代ガンダムシリーズでいえばハサウェイに近いかも
「齢を摂って骨の折れる事よ」
「倅が生きておれば…」
関ヶ原の戦い時の家康公の発言ですね。
秀忠公はまだ20歳過ぎで孫子の年やから家康公60歳時の苦悩が知れますね。
葵徳川三代のセリフですね
毎回、楽しみにしています。また、詳細に深くご説明頂き、とても分かりやすいです。更に新たな発見があり驚いております。信康自刃事件について、浜松、岡崎の拠点の違いにより、将来、西、東地区の徳川軍団指揮系統の混乱を生じさせないように信長の命(心配症!?)により家康が信康へ自刃を命じたとの事ですが、なるほどと思いましたが、裏に武田信玄の策略があったのか?何故、ここまでしなければならないのか?いまだに分かりません。是非、信長の考えについて、機会があれば教えて下さい。
今年の大河も瀬名の描写を見る限りでは信康の切腹は信長の所為ってことにされるんだろうなあ。
いいかげんステレオタイプな信長描写はやめてほしいわ。
親子対決に一票。武田信玄は、父親の武田信虎を追放して跡を継いでいる。更に、斎藤義龍は父親の斎藤道三を討っている。家康はここから学習し、信康の時も容赦しなかった。
五徳の影響はあったと思う。五徳は怖い上司のムスメ。それが、徳川家で耳にした嘘か真か分からない話を、父親に送っていた。家康からすると、もうそれだけで「マズイ」と思ったんじゃなかろうか。
2年前の信康切腹説明とはかなり違ってきていますね。
それにしても、自害した後の介錯で首と胴体が切り離され、首は岡崎の神社、胴体は浜松のお寺に埋葬とは酷すぎる。
現代人の我々が考えたら。
しかも母子別の場所に。
信康殿の胴体は切腹した二俣城周辺に埋葬したかな?
2人の遺体は江戸時代まで浜名湖周辺に埋葬し、放置してあったはウソですが、信長の指示で家康は内心泣く泣く2人を処断したなんていうのも大ウソですよ。
それならなぜ岡崎と浜松、しかも神社とお寺に首と胴体を離して埋葬するようなことをするのか。
2人を愛していたなら。
もし松平元康が後の家康ならば。
官学である朱子学を学ばずに、異学である徂徠学をあえて採用したのが、致道館の学問の特徴です。 とはいえどっちかどうだかというのは説明できないけど、、。 ものの本によれば、テキストに対しより実証的なアプローチをしたのが徂徠学で、近世以降の酒井家のお侍さんたちにの考え方に少なからず影響を与えたんだとか、、。
岡崎松平は分かりました
[世良田]ってなんですか
後に天下人になった家康の旧姓と言われています。
子供時代に織田や今川で人質生活を経験した岡崎城主・松平元康と後の家康は別人ならば信康・築山事件の真相は見えてきます。
元康の死後、すり替わって家康と改名した人物は世良田次郎三郎元信という、ささら者( 旅役者 )とか、願人坊主とか。
とにかく元康の影武者としては才覚に優れていたのかな?
群馬県の東武伊勢崎線に世良田という駅があり、私も行ったことがありますが、近くに徳川や新田の地名があり、徳川という川もあるとか。
新田源氏の嫡流として征夷大将軍に任命されたのはご存知ですよね。
家康は若い頃、駿府辺りで何か活動していて、今川方の部将・松平元康の死後、彼の影武者としてスカウトされたような晩年の家康自身の証言が何かの資料にあるようです。
将軍を引退後、駿府城を隠居場所に決めたのも無関係ではないと思いますね。
岡崎城主・松平元康がそのまま後の家康ならば人質生活という嫌な思い出のある駿府よりも浜松か岡崎を隠居場所にすると思いますが。
@@長谷川良行-w2e
なーるほど
家康は、酒井忠次に
お前でも子が可愛いか?
って言ったらしいから、家康は恨んでたんだろ!
信長がいろんなところから恨まれていたんだろうなあ? 本能寺やむなしですね? まぁそれないと、天下泰平の江戸時代ないしね❔
信康切腹の件で、信長が家康を追い込んだという史料は一切ない。憶測あるいは先入観で史料を解釈しすぎだ。家康が武田信虎みたいになりたくなくて先手を打ったという普通の解釈を、家康信者は受け入れ難いのだろうな。
信長が関与したかは分からないけど、信長からみたら家康の跡を継ぐ同盟者としては、信頼できない人間性だったんだろうな。
😅
ぽんつく知ってる自分は66歳。
信康ー忠次、村重ー清秀、秀吉ー三成、秋家ー長政・・・等。決定的な場面での対応で失敗する気質の組み合わせ。
現代の政治でも角栄ー正芳、前原ー小池、現在進行中の野党間の組み合わせでの中でもある。
信康は信盛、光秀、義元と同じ気質なので、信長と気質が合わない。
忠次も良かれと思う対応をしたのだろうが組み合わせが悪かったとしか言いようがない。
忠次を申し開きの使者に送ったのは家康の失敗。
大河ドラマで「麒麟がくる」の出だし道三、義龍、光秀はそれぞれと同じ気質の俳優が演じたので、大変良い出だしだった。
来年の大河も家康の若い頃と同じ気質の松潤さんが演じるので高評価の出だしになるでしょう。
いまだにいろんな説がありますね。
家康は自分に似て気性が激しかった信康を警戒して嫌ってたとか、いやいや本当は頼もしいと愛していたが無念の切腹命令だったとか。
戦国大名の中で、敵、味方も含めて、誰が一番人を殺したのでしょうか?
酒井忠次はスケープゴートされた一人。
虫食いは意図的ですね。
徳川最大の謎は
今川義元のもとに人質になっていた松平竹千代は
大坂の陣で豊臣家を滅ぼした徳川家康と同一人物だったのか?
じゃね?
本題は、どこ行った。
>信長に殺されたのか
は?まだこんな事言ってんのかwww
信長は、信忠と信康を比べたのでは?