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市橋先生の大樹寺ツアーに申し込みいたしました。家内と二人で参加させていただきます。当日を楽しみにしております♬
岡崎故郷巡り見ましたよ…先生が出ていたので興味倍増でした
どうする! 面白かったです。
ますます面白くなりました、ありがとうございます
アッという間に配信終わりでドキドキしながら拝見しました!次も超期待です❗🙇
市橋先生の文献解説を聞いているだけでけっこおう満足感充実感があります。この配信を見ていたらNHKの制作人焦るかもしれませんね。家康に関するドラマでは、小和田先生、笠谷先生、市橋先生の意見は無視できないでしょうね。
偉人素顔の履歴書にご出演されてて驚きました💦いつかガッツリとコラボしてほしいです❗️
市橋先生、お疲れ様です‼️今川義元と織田信長の戦いは織田信長の戦略的に勝ちましたねぇ‼️ここからですよ‼️どううなっていくのかぁ‼️次回が楽しみにしていますよ‼️
信長よしもとの首槍にくくりつけて投げ飛ばしてましたね笑かなりヤバいやつがくるって元康もびびってたことでしょう
大河で眉毛の有る今川義元を、初めて見たかもしれません。
最近、桶狭間山は山ではなく小高い丘ではないのかと言う説がありますが?大体、軍隊が山の上で休憩するものでしょうか?
信長が義元をおけはざま山へ誘い込んだというのは無いと思っています。今川義元の部将、瀬名氏俊が先遣隊でやってきて、桶狭間の陣地偵察をしています。義元公本陣を定めたり、高根山、巻山などの丘陵に井伊や諸将の陣地を指定するため。その時作った対織田の監視小屋が現在センノ藪と呼ばれるところです。おけはざま山はその昔、鞍流瀬川(現在は暗渠)があり、大池(現在もある)もあり、水利の面でも軍勢を留めるには最適な場所です。信長が丹下、善照寺まで来たのを知って、佐々・千秋は大高緑地方面から敵前衛(高根、幕山、巻山)に突撃し、玉砕。信長は戦況を見極めて善照寺から中島砦に移動。佐々・千秋が突撃した玉砕ポイントを避け、名古屋短大方面へ行軍(攻め口を変更)当然今川もこれを知っていたと思われるが、なんの対処もなし。信長、武待付近で豪雨により待機。義元、休陣の指示(雨による武器の格納、雷雨時に槍は立てないなどの処置)信長は雨が晴れ上がったのを確認して進軍、比較的ゆるい上り坂を行軍し、攻撃。攻め口を変えたのが功を奏し、運よく今川義元本陣を確認、一気に強襲。今川前衛の諸隊、後方に織田軍が現れて戦闘状態になっている事を確認するも、義元本陣へ進行できない(豪雨の後の深田でどろんこ状態、道は狭い、この深田は昭和50年代まで存在)義元本陣攻撃後、混乱する今川軍を狩る織田軍。
「兵の実数の法則」なるものがあるそうで、記されている兵数をルートして100倍するとほぼ実体になるのだとか.なのでこの4万5千とは約2万1千ほどかと.(承久の乱の泰時軍19万は約4万4千に)
最近の😁マイベスト❗チャンネル✨ダゾーン‼️
義元は稀にみる智将で有ると思います。信長が勝てたのはうつけと呼ばれた頃から所領を歩み知り尽くしいづれ義元と戦う事を予見していたと考えます。信長は10年以上前から義元と戦をしてました。
大高を取り戻した以外、殆ど負けてるのがね
@なっちゃん 桶狭間で勝ってなかったらほぼ、全敗だったのにか?
今川家、義元は本来なら、朝廷や室町幕府を警護する程の名門中の名門です。官位も信玄や信長より上ですよ。息子氏真も唯のボンボンでは無かったと思うよ、蹴鞠が得意だったらしいから、其れなりに運動神経も有っただろうし、朝廷との和歌集にも連名していてらしいから、文化教養も有ったと思う。
毎回とても勉強になりますが、15分ぐらいがいいです。長くても20分だと、もっと皆んなが見るようになると思います。最近は25〜30分の動画はなかなか見る気が起こらず。。💦
通説とは異なるが、織田信長は桶狭間の戦いの2日前に、『今川義元は桶狭間山山頂に着陣する』事を知っていたのではないだろうか!?【その理由】※今川義元の重臣、瀬奈氏俊が先発隊として山頂に本陣を設営しています。(1560年・永禄3年5月17日)。2日後、今川義元は予定通り着陣し織田信長に討ち取られています。※簗田政綱(「今川義元は桶狭間で昼弁当を使っている」と情報を伝えたとされる)や木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)から信長に情報伝達されたのではないか。藤吉郎は既に馬廻衆として信長の情報将校の様な仕事をしていた。※信長は山頂の今川義元に、ターゲットを絞り、計画立案・実行したのではないだろうか!?
順番に見やすいようにタイトルの頭に数字をいれてほしいです。
家康は今川家から独立した時も、幼き頃世話になった今川家に恩義義理を感じ、一時期駿河の国を氏真に任せようとしたし、幕府を開いた時も、今川氏真の一族を禄をやり保護して、幕府と朝廷公家との連絡役、今川一族を幕末迄代々高家としていた。同様に織田家にも恩を感じ、信雄を総大将として秀吉と一戦交えている、三男秀忠の嫁に織田家の娘を嫁がせたし幕府を開いた後にも有楽斎には家禄と屋敷を与え居る秀吉から先祖伝来の三河の土地を取り上げられて、関東に国替の命令された家康には豊臣家には義理は無かった。
野村萬斎が義元だったら桶狭間ないかも、
くだらない質問ですが、麒麟がくるのときも、今川の衣装が藍染のような、侍ジャパンのような色合いでしたが、今回の衣装も、氏真は、上下藍色元康も幼少の頃から藍色の袴?を履いていたのですが。今川家の色なのでしょうか?
美術のチームが来られて、当時の武士や庶民の服飾について念入りに調べていました。基本的には「柿渋染」「藍染」が多かったと思いますが、後は遺されている画像などから判断したのではないかと思います。いずれにしろテキトーに決めているのではなさそうですよ。
本宿あたり紫の米か麦が採れた?と関係してるかもです。
1個目!
能のシーンが短かすぎましたね。5分くらいやっても良かったのに。第一話に詰め込みすぎ
これだけの能力をもった人が、どうして本能寺ではあんなに無防備だったのか不思議
太原雪斎がいなかったのが敗因。
雪斎の寿命が長ければまだ違った展開があったでしょうね。
信長を買い被りすぎだと思う。優秀な武将だったのは間違いないが天才とまでは思わない。
馬に乗れない戦国武将は駄目
誰でも失敗はします。生き残るかどうかは、運なんです (笑)
義元は、なぜ 最前線に居たのか?間抜けとしか思えない。事前の調査や斥候も出さなかったのだろうか。
どうする!初回つまらなかったです。冨永愛の大奥のほうが面白かったです!
市橋先生の大樹寺ツアーに申し込みいたしました。家内と二人で参加させていただきます。
当日を楽しみにしております♬
岡崎故郷巡り見ましたよ…先生が出ていたので興味倍増でした
どうする! 面白かったです。
ますます面白くなりました、ありがとうございます
アッという間に配信終わりでドキドキしながら拝見しました!次も超期待です❗🙇
市橋先生の文献解説を聞いているだけでけっこおう満足感充実感があります。
この配信を見ていたらNHKの制作人焦るかもしれませんね。家康に関するドラマでは、小和田先生、笠谷先生、市橋先生の意見は無視できないでしょうね。
偉人素顔の履歴書にご出演されてて驚きました💦
いつかガッツリとコラボしてほしいです❗️
市橋先生、お疲れ様です‼️今川義元と織田信長の戦いは織田信長の戦略的に勝ちましたねぇ‼️ここからですよ‼️どううなっていくのかぁ‼️次回が楽しみにしていますよ‼️
信長よしもとの首槍にくくりつけて投げ飛ばしてましたね笑
かなりヤバいやつがくるって元康もびびってたことでしょう
大河で眉毛の有る今川義元を、初めて見たかもしれません。
最近、桶狭間山は山ではなく小高い丘ではないのかと言う説がありますが?大体、軍隊が山の上で休憩するものでしょうか?
信長が義元をおけはざま山へ誘い込んだというのは無いと思っています。
今川義元の部将、瀬名氏俊が先遣隊でやってきて、桶狭間の陣地偵察をしています。
義元公本陣を定めたり、高根山、巻山などの丘陵に井伊や諸将の陣地を指定するため。
その時作った対織田の監視小屋が現在センノ藪と呼ばれるところです。
おけはざま山はその昔、鞍流瀬川(現在は暗渠)があり、大池(現在もある)もあり、水利の面でも軍勢を留めるには最適な場所です。
信長が丹下、善照寺まで来たのを知って、佐々・千秋は大高緑地方面から敵前衛(高根、幕山、巻山)に突撃し、玉砕。
信長は戦況を見極めて善照寺から中島砦に移動。
佐々・千秋が突撃した玉砕ポイントを避け、名古屋短大方面へ行軍(攻め口を変更)
当然今川もこれを知っていたと思われるが、なんの対処もなし。
信長、武待付近で豪雨により待機。
義元、休陣の指示(雨による武器の格納、雷雨時に槍は立てないなどの処置)
信長は雨が晴れ上がったのを確認して進軍、比較的ゆるい上り坂を行軍し、攻撃。
攻め口を変えたのが功を奏し、運よく今川義元本陣を確認、一気に強襲。
今川前衛の諸隊、後方に織田軍が現れて戦闘状態になっている事を確認するも、義元本陣へ進行できない(豪雨の後の深田でどろんこ状態、道は狭い、この深田は昭和50年代まで存在)
義元本陣攻撃後、混乱する今川軍を狩る織田軍。
「兵の実数の法則」なるものがあるそうで、記されている兵数をルートして100倍するとほぼ実体になるのだとか.
なのでこの4万5千とは約2万1千ほどかと.
(承久の乱の泰時軍19万は約4万4千に)
最近の😁マイベスト❗
チャンネル✨ダゾーン‼️
義元は稀にみる智将で有ると思います。
信長が勝てたのはうつけと呼ばれた頃から所領を歩み知り尽くしいづれ義元と戦う事を予見していたと考えます。
信長は10年以上前から義元と戦をしてました。
大高を取り戻した以外、殆ど負けてるのがね
@なっちゃん 桶狭間で勝ってなかったらほぼ、全敗だったのにか?
今川家、義元は本来なら、朝廷や室町幕府を警護する程の名門中の名門です。官位も信玄や信長より上ですよ。息子氏真も唯のボンボンでは無かったと思うよ、蹴鞠が得意だったらしいから、其れなりに運動神経も有っただろうし、朝廷との和歌集にも連名していてらしいから、文化教養も有ったと思う。
毎回とても勉強になりますが、15分ぐらいがいいです。
長くても20分だと、もっと皆んなが見るようになると思います。
最近は25〜30分の動画はなかなか見る気が起こらず。。💦
通説とは異なるが、織田信長は桶狭間の戦いの2日前に、『今川義元は桶狭間山山頂に着陣する』事を知っていたのではないだろうか!?
【その理由】
※今川義元の重臣、瀬奈氏俊が先発隊として山頂に本陣を設営しています。(1560年・永禄3年5月17日)。2日後、今川義元は予定通り着陣し織田信長に討ち取られています。
※簗田政綱(「今川義元は桶狭間で昼弁当を使っている」と情報を伝えたとされる)や木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)から信長に情報伝達されたのではないか。藤吉郎は既に馬廻衆として信長の情報将校の様な仕事をしていた。
※信長は山頂の今川義元に、ターゲットを絞り、計画立案・実行したのではないだろうか!?
順番に見やすいようにタイトルの頭に数字をいれてほしいです。
家康は今川家から独立した時も、幼き頃世話になった今川家に恩義義理を感じ、一時期駿河の国を氏真に任せようとしたし、
幕府を開いた時も、今川氏真の一族を禄をやり保護して、幕府と朝廷公家との連絡役、今川一族を幕末迄代々高家としていた。
同様に織田家にも恩を感じ、信雄を総大将として秀吉と一戦交えている、三男秀忠の嫁に織田家の娘を嫁がせたし
幕府を開いた後にも有楽斎には家禄と屋敷を与え居る
秀吉から先祖伝来の三河の土地を取り上げられて、関東に国替の命令された家康には豊臣家には義理は無かった。
野村萬斎が義元だったら桶狭間ないかも、
くだらない質問ですが、麒麟がくるのときも、今川の衣装が藍染のような、侍ジャパンのような色合いでしたが、今回の衣装も、氏真は、上下藍色
元康も幼少の頃から藍色の袴?を履いていたのですが。
今川家の色なのでしょうか?
美術のチームが来られて、当時の武士や庶民の服飾について念入りに調べていました。基本的には「柿渋染」「藍染」が多かったと思いますが、後は遺されている画像などから判断したのではないかと思います。いずれにしろテキトーに決めているのではなさそうですよ。
本宿あたり紫の米か麦が採れた?と関係してるかもです。
1個目!
能のシーンが短かすぎましたね。5分くらいやっても良かったのに。第一話に詰め込みすぎ
これだけの能力をもった人が、どうして本能寺ではあんなに無防備だったのか不思議
太原雪斎がいなかったのが敗因。
雪斎の寿命が長ければまだ違った展開があったでしょうね。
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誰でも失敗はします。生き残るかどうかは、運なんです (笑)
義元は、なぜ 最前線に居たのか?
間抜けとしか思えない。
事前の調査や斥候も出さなかったのだろうか。
どうする!初回つまらなかったです。冨永愛の大奥のほうが面白かったです!