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面白すぎて止まらない。歴史のミステリーやロマンだなぁ
わたしはホツマツタエを信じます。古事記より具体的だから信憑性があると感じる。
とても興味深く拝見しました。次回も楽しみにしています。
ミスリードにも思える アマテラス ヒルコ スサノオ ツキヨミ 含む神々の印象とそんそと名
こんばんは。ウスメ(アメノウズメ)さんについての解説が、いと先生のがとても素敵で嬉しかったです。記紀以降、なんかふしだらな雰囲気の女性みたいなイメージで見られているのがとても不愉快でしたので。やはり神楽の発祥にも深く関わる御方ですし、猿田彦さんの奥様となられた方ですものね^^ 現時点で「地の巻」終盤まで読み進んでいるところですが、おさらいも兼ねて楽しく拝聴させていただいております。ありがとうございます。
どう考えても、7Cまで、日本に文字がなかった、というほうが不自然ですによね。たとえ、今上天皇が紀元後の皇統であっても、それはそれで世界最古なんだから、そろそろほんとのことを知ろうよ、って感じ。
大祝詞を更に理解できそう
古事記で不自然な部分が多く、わかりにくい。一方、ホツマツタエでは詳しく、わかりやすいお話のようですね。
舊大祓祝詞からして、ホツマツタヱの根本やわ。古事記日本書紀には無い内容が。ホツマツタヱは焚書を免れ、隱れつゝ殘存して居た。
卑弥呼、ヒルコ説!?
卑弥呼と稚姫の時代が違いすぎます。
神宮の謎の芯柱から、天照大神は男神と考えるがなぜ天岩戸に隠れる必要があったのかな?
皆既日食!当日皆既日食なんかしらんで、かなり驚いたことでしよう!
天岩戸隠れは古代の葬式の様子を描いたものだ。と聞いた事があります。本当に死んだのか、生き返られないかと、楽しい事したり、泣き叫んだりするそうです。そして、色々とやってみて生き返れなかったら、死んだと、やっと遺族は諦めるそうです。たまたまショックで硬直してたのを、アマノウズメの踊りで目が覚めた。という事なのかも知れません。
天照大神が男神であったなら、どうやってスサノオの尊と誓約の儀を行い、天照大神が五柱の男伸を生み、スサノオの尊が三柱の女神を生んだのでしょうか?誓約の儀が成立しないとしたら、それ以降の神代の神々にまで矛盾が生じてしまいますが?天照大神が男伸であったのは、若姫が天照大神だったからではないのでしょうか。天照大神が岩戸に隠れたのは国つ神系の若姫(ワカヒルメ)であり、近江(旧事記、宮下文書、秀真伝、記紀)ですり替わったのが、天孫系男神の天照大神だったのではないのでしょうか。東北の阿弖流為(アテル(リ)イ)は、縄文時代から天(あ)照(てる)大神=若姫(蝦夷・恵比寿・蛭子)を祀っていました。国つ神の天照大神が若姫(竹子姫)=天日神命=阿麻氏留=天照国照彦火明櫛玉ニギハヤヒの母(高皇産霊神の娘・萬幡豊秋津師姫命)だったのではないのでしょうか。秀真伝で天照大神と12人の后との関係は、黄道と12星座の暗号ではないのでしょうか。
古事記の記述はある意図をもって編纂されています。(梅沢伊勢三さんの研究で日本書紀の内容のほうが古事記より古いとわかっています。)歴史上の事績を雲上のありがたい神様に書き換えています。チャイナの天帝思想などの影響だと思います。また日本初の女帝(男系女性天皇)推古天皇を正当化するため、アマテルカミとワカヒメの話をわざと混同させて天照大神を女神に仕立て上げたものと推察されます。(神功皇后は女帝ではありませんでした。)誓約の儀は推古朝・厩戸皇子(聖徳太子)〜元明朝・太安万侶の創作と思われます。天津神vs国津神も記紀神話独自の世界観です。雲上の神様でなく現実の人である皇室の歴史叙事詩なので、そのまま当てはめてはいけません。シナ漢字文明の影響ありとみます。神話ではないので暗号もありません。ヲシテ文献の内容は地上で生活していた現実の人物の歴史のお話です。古事記をもとにした神社神道の偉大な聖なる神様ではないので、俗っぽくていやだという人もいらっしゃると思います。神様への信仰心厚く安らかなお気持ちでおられる方はそのままで良いのではないでしょうか。しかし、本当の日本の歴史・文化・文明を知りたいという方はヲシテ文献を学ばれることをおすすめします。実在の人物としてのアマテルカミの偉さ、天地開闢の哲理・建国の理念・教え導きの素晴らしさが伝わってまいります。ヲシテ文献では8代アマカミ(天皇)アマテルカミはもちろん男性です。「ミコスベテ ヰヲトミメナリ」《ホ6-29(878)》五人の男子、三人のヒメはすべてアマテルカミの皇子です。従兄妹のハヤコヒメ(クラキネの子、イサナキ・ココリヒメの姪)との間に生まれた三つ子の姉妹は漢字国字時代になって宗像三女神と呼ばれます。①オキツシマヒメ・タケコはソサノノヲの子オオナムチ(クシキネ)に嫁いで、2代目オオモノヌシ・クシヒコ、タカコ(タカテルヒメ・コトの名人)・アチスキタカネヒコネを生みます。亡くなってから、琵琶湖の竹生島に葬られました。②タキコヒメはアマテルカミの正后ホノコのいとこのヤマスミに嫁ぎ、生まれたのはカコヤマ、カグヤマ、イワナガ、アシツヒメ(コノヤマサクヤヒメ)、カンタマ、マウラ。カグヤマは十代アマカミのホノアカリ(アスカミヤ)に右の臣として仕える。アシツヒメは十代アマカミの弟ニニキネの后になる。タキコは亡くなってから相模国(神奈川県)江ノ島に葬られ、ヱノシマカミとして祀られました。③タナコヒメはアマテルカミの弟ツキヨミの子イフキヌシ(タカノカミ)の妻となり、その子イヨツヒコとトサツヒコは後に四国を治める。第三子ウサツヒコは宇佐国と関連有りか?タナコは安芸国(広島県)宮島に祭られました。誓約の話のホツマツタヱの元ネタは2カ所。(1)ソサノヲ(流浪の身なのでサスラヲ)がサホコ(出雲)追放の途中、ヤスカワ宮(滋賀県野洲)にいる姉のワカヒメに会って、的はずれなことを誓う話《ホ7-47(1093)》「サスラヲハ ミコトオウケテ ネニユカン アネニマミユル シバシトテ ユルセハノボル ヤスカハベ アネハモトヨリ サスラヲガ アルゝオシレハ オトロキテ オトゝノクルハ サハアラジ クニウバフラン カソイロノ ヨザシノクニオ ステオレハ アヱウカガフト アケマキシ モスソオツカネ ハカマトシ ヰモニミスマル カラマキテ チノリヰモノリ ヒチニツケ ユハズオフリテ ツルギモチ カタニワフンテ ケチラシテ イツノオタケニ ナジリトフ ソサノヲイワク ナオソレソ ムカシネノクニ ユケトアリ アネトマミヱテ ノチユカン ハルカニクレハ ウタガワデ イツカヱシマセ アネトワク サコゝロハナニ ソノコタエ ネニイタルノチ コオウマン メナラハケガレ ヲハキヨク コレチカイナリ」と、(2)アマテルカミが見たトツカのツルギの夢の話《ホ7-54(1122)》「トコミキニ ハヤコオメセハ ソノユメニ トツカノツルギ オレミキダ サカミニカンデ ミタトナル ミタリヒメウム」)とを合成したものです。8代アマテルカミの子息5人にはそれぞれ母親がおられますが、『古事記』『日本書紀』では都合が悪いのでワカヒメとともに存在が消されました。(明治維新後の神社神道は『古事記』『日本書紀』をもとに整備したため、古来伝わる祭神が書き換えられることが多々ありました。)①皇太子9代オシホミミの母は正皇后セオリツヒメ(讃え名)・ムカツヒメ(讃え名)・ホノコ(実名)さま。神道の大祓詞にのみ登場する神。「西宮」の地名由来の大社である廣田神社(兵庫県西宮市)は、天照大神荒御魂を主祭神としているが、戦前の由緒書きには、瀬織津姫を主祭神とすることが明確に記されていた。天照大神の荒御魂(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ))とされることもある。②長男ホヒ・タナヒト。母はモチコヒメ(クラキネの子、イサナキ・ココリヒメの姪、ハヤコの姉)。出雲国造はオオクニヌシではなくアメノホヒの子孫。③タタギネ・アマツヒコネ。母はアキコ・ハヤアキツヒメ(カナサキ=住吉大社祭神の娘)④ハラキネ・イキツヒコネ。活津彦根神社(滋賀県近江八幡市安土町)祭神:活津彦根命。母はオオミヤ・ミチコヒメ(6代タカミムスビ・カンミムスヒ・ヤソキネの娘、スクナヒコナの姉)⑤クマノクスヒ・ヌカタダ。トヨヒメ・アヤコの子。別名ナチのワカミコ。熊野那智大社祭神・夫須美神(ふすみのかみ)。祖母クマノカミ (イサナミ) を祭祀した。10代アマキミ・アスカヲキミ・ホノアカリ・テルヒコに継子がなかったので養子になったのがニギハヤヒ・クニテル(10代アマキミの弟ニニキネ・キヨヒトの孫、ホノアカリムメヒトとタマネヒメの子)さんでした。参考文献『ホツマ辞典―漢字以前の世界へ』池田 満 (著)・付録1系図
@@Magatama1 問題は、男神・天照大神の正妻が記紀に無い瀬織津姫だということ。ここから推測すると、瀬織津姫とはギリシャ神話の女神セイリオスではないのだろうか?セイリオスは古代エジプトのイシス女神を意味し、イシスは星座シリウス(ソテス)=セイリオスとなる。(個人的には、琴座のベガではないかと考えている)イザナギ、イザナミの神産み(記)で現れた ”石巣売姫神” がエジプトで女神イシスとして崇められ、(大事忍男神がオシリス神=オリオン座として崇められ)たのでは。つまり秀真伝は男神・天照大神=(日中の)太陽と女神・瀬織津姫=(夜の太陽)シリウスとの婚姻を示唆しており、古代ギリシャ神話、エジプト神話を継承した人々が、太陽を崇める日本で神話的融合を試みたのでは?記紀は素戔嗚尊と天照大神との婚姻・・オリオン座と太陽の婚姻を示唆している。日本より西の国々は、黄泉の国=夜にあたる。仏教で死者の赴く西方浄土は、オリオン座の軌道と太陽の二分にあたる春分と秋分軌道と一致している。特にエジプト、イスラエル、ギリシャ、ローマなどは、日本が日の出の時、真夜中にあたっている。ユダヤ教の神・ヤハウエは、黄泉に下った(日本に戻れない)イザナミだと解釈できる。古史古伝には必ず、天文陰陽暦、天体の運行が隠されていることは確かだと考えられる。
うーん…。縄文ホツマツタエと古事記とでは内容が真逆な場合がある、のですか。江戸期はともかく、明治からの教育において、古事記の内容を我が国日本の神話とするという決定は、いつどこで誰によってなされたのでしょうか。あの時代、国民の意識を統一することに使われたのは、なぜ古事記だったのか、という疑問が浮かびました。
学会では江戸時代に創作された偽書だとされており、誰もまともに取り扱っていません。私も偽書だと思います。
聖徳太子と蘇我馬子が編纂したとされる歴史書・国史=天皇記(620年・推古天皇28年)。天皇家史上初の女帝第1号である推古天皇を正当化するため、弥生時代の偉大な8代アマカミ(古代天皇の称号/男性)・アマテラスヲヲンカミとその妹(実は姉)のワカヒメ(イミナ(実名)ヒルコヒメ)の記述2カ所のすり替えで、天照大神が女神とされてしまったと、松本善之助先生は推測されています。(『ホツマツタヱ発見物語』(松本善之助著/池田満編)72ページ以降から適宜引用)太子と馬子が編んだ歴史書は約100年後『古事記』(712年)『日本書紀』(720年)の資料として受け継がれ、天照大神が雲の上の女神であるかのように後世の人をだまし続けました。玉津島社の祭神・稚日女尊(わかひるめのみこと)、丹生都比売神社の祭神・丹生都比売大神(丹生明神)こそ、ヲシテ文献・ホツマツタヱ・ミカサフミに記されたワカヒメ(ヒルコ)・シタテルヒメ・ニフノカミのことです。tamatsushimajinja.jp/tamatsushima/index.html推古天皇10年(602年)、再度の新羅征討の軍を起こし、また支那の南北朝を統一して朝鮮半島に侵略を始めた隋に対抗するため、推古天皇15年(607年)、聖徳太子は有名な「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」と返書。当時、チャイナと対峙するため、国内の結束を固めるための歴史改竄だったのでしょう。本居宣長が『古事記』を称揚した影響で、それまで正史である『日本書紀』と比して冷遇されていた『古事記』(当時は偽書とさえ疑われていた)に対する評価は一変し、神典として祭り上げられるようになります。本居宣長はまとまったホツマツタヱ(ヲシテ文献)を読んだ形跡がありません。読めば深く研究していた『古事記』『日本書紀』との関連がわからないはずがないからです。約1150年後、幕末・明治維新(1867年)の欧米列強のアジア進出に対抗するため、『古事記』は大政奉還、王政復古・尊王攘夷・倒幕の正当性を与えました。アマテラスヲヲンカミには13人のキサキがおられ、その后の神社のいくつかは式内社として今日まで残っています。平安後期の漢学者・歌人であった大江匡房(1041〜1111)の書いた『江家次第』中、73代堀河天皇(1087年)寛治4年11月4日に伊勢大神宮へ納めるご装束の記録が男帝の装束であること。源経頼(985〜1039)『左経記』に寛仁元年(1017年)10月2日宇佐大多羅志女(神功皇后)の奉納装束の記録が確かに女性用の装束であること。このことから江戸時代初期の伊勢外宮の神官・度会延経は『内宮男体考証』と『国学弁疑』を書き、「天照大神ハ実ハ男神ノコト明ラカナリ」と主張しました。北朝鮮が核ミサイルを我が国に向けて発射し、中共が尖閣・沖縄の侵略を狙うという国難が迫っています。日本人は再び建国の理念を再確認・自覚・自立し、危機に立ち向かう時代となりました。
天武天皇の夢を聞いていた妻の持統天皇は、天武天皇の成し得なかった夢を実現したという逸話があります。また、アマテルカミの妻のセオリツヒメは、アマテルカミの出張の時には、アマテルカミの代理で政治をしていたという記録がホツマツタエには、あります。だからこそ、伊勢神宮には、アマテルカミの荒魂として、セオリツヒメが、祀られているのではないでしょうか。その延長にアマテルカミを女性の体にして、政治活動は、天武天皇やアマテルカミという夫の思いを叶える女性達、ということに繋がる気がします。持統天皇を悪者と思ってしまうこともあるでしょうが、天武天皇時代から、皇位継承後の新嘗祭には、今も尚、「セオリツヒメの舞」(正式名ではない)を執り行っています。ですから、昨年も「セオリツヒメの舞」が、西宮神社にて執り行っています。また、聖徳太子が、居なければ、つまり、神仏儒が無ければ、古神道は、潰されていたかもしれませんね。そして、弘法大師も聖徳太子の思いを汲んでいるように思われます。古事記とは、セオリツヒメをも大事にしていますから。
ハングル文字の歴史に似てる。飛鳥王朝の事大主義
面白すぎて止まらない。
歴史のミステリーやロマンだなぁ
わたしはホツマツタエを信じます。
古事記より具体的だから信憑性があると感じる。
とても興味深く拝見しました。次回も楽しみにしています。
ミスリードにも思える アマテラス ヒルコ スサノオ ツキヨミ 含む神々の印象とそんそと名
こんばんは。ウスメ(アメノウズメ)さんについての解説が、いと先生のがとても素敵で嬉しかったです。記紀以降、なんかふしだらな雰囲気の女性みたいなイメージで見られているのがとても不愉快でしたので。やはり神楽の発祥にも深く関わる御方ですし、猿田彦さんの奥様となられた方ですものね^^ 現時点で「地の巻」終盤まで読み進んでいるところですが、おさらいも兼ねて楽しく拝聴させていただいております。ありがとうございます。
どう考えても、7Cまで、日本に文字がなかった、というほうが不自然ですによね。たとえ、今上天皇が紀元後の皇統であっても、それはそれで世界最古なんだから、そろそろほんとのことを知ろうよ、って感じ。
大祝詞を更に理解できそう
古事記で不自然な部分が多く、わかりにくい。一方、ホツマツタエでは詳しく、わかりやすいお話のようですね。
舊大祓祝詞からして、ホツマツタヱの根本やわ。古事記日本書紀には無い内容が。ホツマツタヱは焚書を免れ、隱れつゝ殘存して居た。
卑弥呼、ヒルコ説!?
卑弥呼と稚姫の時代が違いすぎます。
神宮の謎の芯柱から、
天照大神は男神と考えるが
なぜ天岩戸に隠れる必要が
あったのかな?
皆既日食!当日皆既日食なんかしらんで、かなり驚いたことでしよう!
天岩戸隠れは古代の葬式の様子を描いたものだ。と聞いた事があります。本当に死んだのか、生き返られないかと、楽しい事したり、泣き叫んだりするそうです。そして、色々とやってみて生き返れなかったら、死んだと、やっと遺族は諦めるそうです。たまたまショックで硬直してたのを、アマノウズメの踊りで目が覚めた。という事なのかも知れません。
天照大神が男神であったなら、どうやってスサノオの尊と誓約の儀を行い、天照大神が五柱の男伸を生み、スサノオの尊が三柱の女神を生んだのでしょうか?誓約の儀が成立しないとしたら、それ以降の神代の神々にまで矛盾が生じてしまいますが?天照大神が男伸であったのは、若姫が天照大神だったからではないのでしょうか。天照大神が岩戸に隠れたのは国つ神系の若姫(ワカヒルメ)であり、近江(旧事記、宮下文書、秀真伝、記紀)ですり替わったのが、天孫系男神の天照大神だったのではないのでしょうか。東北の阿弖流為(アテル(リ)イ)は、縄文時代から天(あ)照(てる)大神=若姫(蝦夷・恵比寿・蛭子)を祀っていました。国つ神の天照大神が若姫(竹子姫)=天日神命=阿麻氏留=天照国照彦火明櫛玉ニギハヤヒの母(高皇産霊神の娘・萬幡豊秋津師姫命)だったのではないのでしょうか。秀真伝で天照大神と12人の后との関係は、黄道と12星座の暗号ではないのでしょうか。
古事記の記述はある意図をもって編纂されています。(梅沢伊勢三さんの研究で日本書紀の内容のほうが古事記より古いとわかっています。)歴史上の事績を雲上のありがたい神様に書き換えています。チャイナの天帝思想などの影響だと思います。また日本初の女帝(男系女性天皇)推古天皇を正当化するため、アマテルカミとワカヒメの話をわざと混同させて天照大神を女神に仕立て上げたものと推察されます。(神功皇后は女帝ではありませんでした。)
誓約の儀は推古朝・厩戸皇子(聖徳太子)〜元明朝・太安万侶の創作と思われます。
天津神vs国津神も記紀神話独自の世界観です。雲上の神様でなく現実の人である皇室の歴史叙事詩なので、そのまま当てはめてはいけません。シナ漢字文明の影響ありとみます。
神話ではないので暗号もありません。
ヲシテ文献の内容は地上で生活していた現実の人物の歴史のお話です。古事記をもとにした神社神道の偉大な聖なる神様ではないので、俗っぽくていやだという人もいらっしゃると思います。神様への信仰心厚く安らかなお気持ちでおられる方はそのままで良いのではないでしょうか。しかし、本当の日本の歴史・文化・文明を知りたいという方はヲシテ文献を学ばれることをおすすめします。実在の人物としてのアマテルカミの偉さ、天地開闢の哲理・建国の理念・教え導きの素晴らしさが伝わってまいります。
ヲシテ文献では8代アマカミ(天皇)アマテルカミはもちろん男性です。「ミコスベテ ヰヲトミメナリ」《ホ6-29(878)》
五人の男子、三人のヒメはすべてアマテルカミの皇子です。
従兄妹のハヤコヒメ(クラキネの子、イサナキ・ココリヒメの姪)との間に生まれた三つ子の姉妹は漢字国字時代になって宗像三女神と呼ばれます。
①オキツシマヒメ・タケコはソサノノヲの子オオナムチ(クシキネ)に嫁いで、2代目オオモノヌシ・クシヒコ、タカコ(タカテルヒメ・コトの名人)・アチスキタカネヒコネを生みます。亡くなってから、琵琶湖の竹生島に葬られました。
②タキコヒメはアマテルカミの正后ホノコのいとこのヤマスミに嫁ぎ、生まれたのはカコヤマ、カグヤマ、イワナガ、アシツヒメ(コノヤマサクヤヒメ)、カンタマ、マウラ。カグヤマは十代アマカミのホノアカリ(アスカミヤ)に右の臣として仕える。アシツヒメは十代アマカミの弟ニニキネの后になる。タキコは亡くなってから相模国(神奈川県)江ノ島に葬られ、ヱノシマカミとして祀られました。
③タナコヒメはアマテルカミの弟ツキヨミの子イフキヌシ(タカノカミ)の妻となり、その子イヨツヒコとトサツヒコは後に四国を治める。第三子ウサツヒコは宇佐国と関連有りか?タナコは安芸国(広島県)宮島に祭られました。
誓約の話のホツマツタヱの元ネタは2カ所。
(1)ソサノヲ(流浪の身なのでサスラヲ)がサホコ(出雲)追放の途中、ヤスカワ宮(滋賀県野洲)にいる姉のワカヒメに会って、的はずれなことを誓う話《ホ7-47(1093)》
「サスラヲハ ミコトオウケテ ネニユカン アネニマミユル シバシトテ ユルセハノボル ヤスカハベ アネハモトヨリ サスラヲガ アルゝオシレハ オトロキテ オトゝノクルハ サハアラジ クニウバフラン カソイロノ ヨザシノクニオ ステオレハ アヱウカガフト アケマキシ モスソオツカネ ハカマトシ ヰモニミスマル カラマキテ チノリヰモノリ ヒチニツケ ユハズオフリテ ツルギモチ カタニワフンテ ケチラシテ イツノオタケニ ナジリトフ ソサノヲイワク ナオソレソ ムカシネノクニ ユケトアリ アネトマミヱテ ノチユカン ハルカニクレハ ウタガワデ イツカヱシマセ アネトワク サコゝロハナニ ソノコタエ ネニイタルノチ コオウマン メナラハケガレ ヲハキヨク コレチカイナリ」と、
(2)アマテルカミが見たトツカのツルギの夢の話《ホ7-54(1122)》「トコミキニ ハヤコオメセハ ソノユメニ トツカノツルギ オレミキダ サカミニカンデ ミタトナル ミタリヒメウム」)とを合成したものです。
8代アマテルカミの子息5人にはそれぞれ母親がおられますが、『古事記』『日本書紀』では都合が悪いのでワカヒメとともに存在が消されました。
(明治維新後の神社神道は『古事記』『日本書紀』をもとに整備したため、古来伝わる祭神が書き換えられることが多々ありました。)
①皇太子9代オシホミミの母は正皇后セオリツヒメ(讃え名)・ムカツヒメ(讃え名)・ホノコ(実名)さま。神道の大祓詞にのみ登場する神。「西宮」の地名由来の大社である廣田神社(兵庫県西宮市)は、天照大神荒御魂を主祭神としているが、戦前の由緒書きには、瀬織津姫を主祭神とすることが明確に記されていた。天照大神の荒御魂(撞賢木厳之御魂天疎向津媛命(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめ))とされることもある。
②長男ホヒ・タナヒト。母はモチコヒメ(クラキネの子、イサナキ・ココリヒメの姪、ハヤコの姉)。出雲国造はオオクニヌシではなくアメノホヒの子孫。
③タタギネ・アマツヒコネ。母はアキコ・ハヤアキツヒメ(カナサキ=住吉大社祭神の娘)
④ハラキネ・イキツヒコネ。活津彦根神社(滋賀県近江八幡市安土町)祭神:活津彦根命。母はオオミヤ・ミチコヒメ(6代タカミムスビ・カンミムスヒ・ヤソキネの娘、スクナヒコナの姉)
⑤クマノクスヒ・ヌカタダ。トヨヒメ・アヤコの子。別名ナチのワカミコ。熊野那智大社祭神・夫須美神(ふすみのかみ)。祖母クマノカミ (イサナミ) を祭祀した。
10代アマキミ・アスカヲキミ・ホノアカリ・テルヒコに継子がなかったので養子になったのがニギハヤヒ・クニテル(10代アマキミの弟ニニキネ・キヨヒトの孫、ホノアカリムメヒトとタマネヒメの子)さんでした。
参考文献『ホツマ辞典―漢字以前の世界へ』池田 満 (著)・付録1系図
@@Magatama1 問題は、男神・天照大神の正妻が記紀に無い瀬織津姫だということ。ここから推測すると、瀬織津姫とはギリシャ神話の女神セイリオスではないのだろうか?セイリオスは古代エジプトのイシス女神を意味し、イシスは星座シリウス(ソテス)=セイリオスとなる。(個人的には、琴座のベガではないかと考えている)イザナギ、イザナミの神産み(記)で現れた ”石巣売姫神” がエジプトで女神イシスとして崇められ、(大事忍男神がオシリス神=オリオン座として崇められ)たのでは。つまり秀真伝は男神・天照大神=(日中の)太陽と女神・瀬織津姫=(夜の太陽)シリウスとの婚姻を示唆しており、古代ギリシャ神話、エジプト神話を継承した人々が、太陽を崇める日本で神話的融合を試みたのでは?記紀は素戔嗚尊と天照大神との婚姻・・オリオン座と太陽の婚姻を示唆している。日本より西の国々は、黄泉の国=夜にあたる。仏教で死者の赴く西方浄土は、オリオン座の軌道と太陽の二分にあたる春分と秋分軌道と一致している。特にエジプト、イスラエル、ギリシャ、ローマなどは、日本が日の出の時、真夜中にあたっている。ユダヤ教の神・ヤハウエは、黄泉に下った(日本に戻れない)イザナミだと解釈できる。古史古伝には必ず、天文陰陽暦、天体の運行が隠されていることは確かだと考えられる。
うーん…。
縄文ホツマツタエと古事記とでは内容が真逆な場合がある、のですか。
江戸期はともかく、明治からの教育において、
古事記の内容を我が国日本の神話とする
という決定は、いつどこで誰によってなされたのでしょうか。
あの時代、国民の意識を統一することに使われたのは、なぜ古事記だったのか、
という疑問が浮かびました。
学会では江戸時代に創作された偽書だとされており、誰もまともに取り扱っていません。私も偽書だと思います。
聖徳太子と蘇我馬子が編纂したとされる歴史書・国史=天皇記(620年・推古天皇28年)。天皇家史上初の女帝第1号である推古天皇を正当化するため、弥生時代の偉大な8代アマカミ(古代天皇の称号/男性)・アマテラスヲヲンカミとその妹(実は姉)のワカヒメ(イミナ(実名)ヒルコヒメ)の記述2カ所のすり替えで、天照大神が女神とされてしまったと、松本善之助先生は推測されています。(『ホツマツタヱ発見物語』(松本善之助著/池田満編)72ページ以降から適宜引用)
太子と馬子が編んだ歴史書は約100年後『古事記』(712年)『日本書紀』(720年)の資料として受け継がれ、天照大神が雲の上の女神であるかのように後世の人をだまし続けました。
玉津島社の祭神・稚日女尊(わかひるめのみこと)、丹生都比売神社の祭神・丹生都比売大神(丹生明神)こそ、ヲシテ文献・ホツマツタヱ・ミカサフミに記されたワカヒメ(ヒルコ)・シタテルヒメ・ニフノカミのことです。tamatsushimajinja.jp/tamatsushima/index.html
推古天皇10年(602年)、再度の新羅征討の軍を起こし、また支那の南北朝を統一して朝鮮半島に侵略を始めた隋に対抗するため、推古天皇15年(607年)、聖徳太子は有名な「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」と返書。当時、チャイナと対峙するため、国内の結束を固めるための歴史改竄だったのでしょう。
本居宣長が『古事記』を称揚した影響で、それまで正史である『日本書紀』と比して冷遇されていた『古事記』(当時は偽書とさえ疑われていた)に対する評価は一変し、神典として祭り上げられるようになります。
本居宣長はまとまったホツマツタヱ(ヲシテ文献)を読んだ形跡がありません。読めば深く研究していた『古事記』『日本書紀』との関連がわからないはずがないからです。
約1150年後、幕末・明治維新(1867年)の欧米列強のアジア進出に対抗するため、『古事記』は大政奉還、王政復古・尊王攘夷・倒幕の正当性を与えました。
アマテラスヲヲンカミには13人のキサキがおられ、その后の神社のいくつかは式内社として今日まで残っています。
平安後期の漢学者・歌人であった大江匡房(1041〜1111)の書いた『江家次第』中、73代堀河天皇(1087年)寛治4年11月4日に伊勢大神宮へ納めるご装束の記録が男帝の装束であること。源経頼(985〜1039)『左経記』に寛仁元年(1017年)10月2日宇佐大多羅志女(神功皇后)の奉納装束の記録が確かに女性用の装束であること。このことから江戸時代初期の伊勢外宮の神官・度会延経は『内宮男体考証』と『国学弁疑』を書き、「天照大神ハ実ハ男神ノコト明ラカナリ」と主張しました。
北朝鮮が核ミサイルを我が国に向けて発射し、中共が尖閣・沖縄の侵略を狙うという国難が迫っています。日本人は再び建国の理念を再確認・自覚・自立し、危機に立ち向かう時代となりました。
天武天皇の夢を聞いていた妻の持統天皇は、天武天皇の成し得なかった夢を実現したという逸話があります。また、アマテルカミの妻のセオリツヒメは、アマテルカミの出張の時には、アマテルカミの代理で政治をしていたという記録がホツマツタエには、あります。だからこそ、伊勢神宮には、アマテルカミの荒魂として、セオリツヒメが、祀られているのではないでしょうか。その延長にアマテルカミを女性の体にして、政治活動は、天武天皇やアマテルカミという夫の思いを叶える女性達、ということに繋がる気がします。持統天皇を悪者と思ってしまうこともあるでしょうが、天武天皇時代から、皇位継承後の新嘗祭には、今も尚、「セオリツヒメの舞」(正式名ではない)を執り行っています。ですから、昨年も「セオリツヒメの舞」が、西宮神社にて執り行っています。また、聖徳太子が、居なければ、つまり、神仏儒が無ければ、古神道は、潰されていたかもしれませんね。そして、弘法大師も聖徳太子の思いを汲んでいるように思われます。古事記とは、セオリツヒメをも大事にしていますから。
ハングル文字の歴史に似てる。飛鳥王朝の事大主義