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冒頭のテロップに誤りがございました。(誤)1974年(正)1954年申し訳ありません。以後注意いたします。ご指摘いただいた皆様、ありがとうございました。
初っ端で西暦のテロップ間違えてる。誤→1974 正→1954
5:30 北海道と本州の連絡 という使命、洞爺丸は欠航を決めた第十一青函丸からアメリカ陸軍第一騎兵師団の軍人とその家族・列車が移乗していました。千歳駐在を解かれ、青森から列車で東京に向かい飛行機で本国に帰国する予定。洞爺丸乗船前に桟橋の外務担当助役が「このまま乗り換えるか、時化ているので明日の船にしますか」と将校に聞いたが早く帰国したいと言われた と。占領軍特別扱いが当たり前だった時代だけに、さらにプレッシャーも強かったと思われます(上前淳一郎:洞爺丸はなぜ沈んだか より)。
釧路出身の職場の先輩が、昔は内地に出張するときには水杯を交わすこともあって、命の危険を考えなから出張してたのは北海道だけたぞと話してました。
昭和20〜30年代の北海道で言われたのは「青函連絡船が3日停まる(欠航する)と北海道の物価が倍になる」と言われていた。
事故名は聞いた事がありましたが、詳細を知りませんでした。詳しい解説を有り難う御座います。
青函連絡船 洞爺丸沈没事故を採り上げてくださりありがとうございます。沈没事故当時、当方の父方の祖父が台風による洞爺丸沈没事故で亡くなっています。当方の父がまだ小学校6年生だった頃の出来事だったと父から聞きました。当時、突然一家の大黒柱である父の父親(当方からすれば祖父)が亡くなった事で大混乱だったそうで残された父の母親(当方からすれば祖母)は特に大東亜戦争で息子は戦地から帰ってこず、戦死扱いでずっと悲しんでいた上に主人が洞爺丸沈没で死亡してしまい更に悲しみがかさなり、これから先の生活や人生、子供達を養わなければならない為に物凄く苦労をしていたと当方の父から聞きました。父の兄弟の一番上の兄が父親代わりとなり働きに出てお金を稼ぎ父も中学生になってから新聞配達のアルバイトをして家族みんなで支えあって生きて困難を乗り越えたそうです。父方の祖母は当方が小学校6年生だった頃に病気で亡くなりましたが生前はとても優しいおばあちゃんでした。息子の戦死から戦後の混乱期と洞爺丸沈没事故で主人を亡くして悲しみにくれてたいへんな苦労をされた人とは思えませんでした。お盆の時には必ずお墓参りをしています。洞爺丸沈没事故で亡くなった祖父は写真でしか顔や容姿を見た事がありませんが父が言うには明治生まれでとても厳しかったそうです。今回の動画を拝見しまして我が事のように感じています。日本のみならず海外でもこのような海難事故が起こらないようにと遺された家族などが悲しむような事が起こらないように心より願っています。文章力が乏しく分かりづらいコメントかもしれませんが以上です。それでは失礼いたします。
乗客は全員救命胴衣を身に着けていたが船員は誰も付けておらず最後まで職務遂行に勤めた セウォル号とは大違いと言われていましたね
函館港がある一定の角度(洞爺丸台風はそちらから来た)から暴風波浪が来ると無防備なので港内が荒れるので結局出るしかないのと、港内に保険問題交渉でスクラップ前提の外国大型船(7000t級)が船員7名のみ(操船不能人員数)で停泊していて暴風で走錨(錨降ろしてるのに抑えが効かず漂流する事)が発生していたから港外に出るしかなかった(狭い駐車場で大型車が勝手に動いているようなもの)のと、平常バイアス言われればそうだけど次の連絡船の為に桟橋空けなくてはいけないから出るしかない。そして船体が戦時標準船なので強度が弱く3つに分解して沈没したり(第十一青函丸)、構造的に客貨車搬入口(車両甲板)がある為そこから海水が浸水してエンジン・舵・ボイラーなどが故障しそのまま何も出来ずに沈没したり、積載された鉄道車両が中でバランスを崩して偏り船体ものとも転覆・沈没等、どうしようもない状況。無線連絡直後に即沈したと思われる船もある。事故の名称から沈没船は洞爺丸だけと思われがちだが、十勝丸・日高丸・北見丸・第十一青函丸の4隻の青函連絡船も沈没。他の青函連絡船もエンジンが浸水に負けずに何とか動き続けて陸地を壁に出来る場所まで退避などでギリギリ助かった状況。全く無関係なのは検査工事中で運航していなかった連絡船のみ。被災時に当時の状況で何とか出来る人は誰もいないと思われ。巨大台風が来ていても出港するしか無かった状況。動画タイトルは誤誘導を招く。
とても難しい状況。船長がこんな天気で出れるか、ばかやろう!ってすぐ欠航にできれば良かったんだけど。そうもいかなかったんだろうね。
かなり酷い事故だったんだなぁ💦只、これ等の事故の反省が今の安全性の改善に役立てているのか🤔
前八甲田丸で最終日に機関長として乗務されていた方が案内してくれるツアーがありその時洞爺丸事故について 船内に貼ってある海図で説明してしてくれましたなんても洞爺丸が錨を下ろした所の海底が 砂地になっており 柔らかいため重い錨が走ってしまったと説明してくださいましたまたセオル号のことについても船長が真っ先の逃げ出すなんてありえないことだ話してくれました
7:06の絵は有名ですね。洞爺丸の出港を否とする意見は根強いです。ただその時の函館港内も廃船の躁病など危険な状態でした。台風の観測自体も日本海に抜けると全くできず、過去の経験と勘に頼るだけでしたし、洞爺丸転覆の直接の原因も波浪に伴う海底の砂の山に引っかかったためであり、いずれもこの災害が起きて初めて分かったことです。函館港内で待機するより港外に出て座礁させるのが一番安全だったのかもしれません。自然の脅威に対し人間は無力であり、それは時代が進んでも変わらないと思います。亡くなられた方々には改めてご冥福をお祈り申し上げるとともに、この時の判断はその時点において決して誤りではなかったという事を多くの方に知ってもらいたいです。
すみません、「走錨」です。
伊勢湾台風や狩野川台風も別の年の同じ日に接近、上陸したこの3つの台風🌀、直撃を受けた地域を中心に広範囲にわたって数多くの方々が犠牲になられたなぁ😰😭
うちの地方でもその昔、これと似た事故ありました。そのときの遺体捜索にあたったダイバーの話によると、乗客はほぼすべて客室で横になって寝伸びしてる状態で見つかった。水をのんで苦しみながら亡くなった人は誰ひとりおらず。三角波をうけて一瞬で沈没したため、急激な水圧の変化をうけて即死であったらしい。
1:26宮島航路と仁堀航路が抜けてますよ宮島航路は宮島に鉄道がないにも関わらず、現役の「鉄道連絡船」だったりします
実は洞爺丸台風と言うのは厳密には誤り。と言うのはこの台風、九州上陸後勢力が一度衰えて温帯低気圧になったのですが、その後超特急で日本海を進む間に猛烈に発達、台風以上の勢力を持つ様になった、今で言う爆弾低気圧、です。一応天気図上には証拠があり、熱帯低気圧(台風)にはあまり付属しない閉塞前線が付近にあった事です。但し当時はこの爆弾低気圧の概念を気象専門家さえ知っておらず、その為内心全員に甘く見た部分はあるかもしれないですね。後洞爺丸以外にも米軍のLSTが同じ気象判断で出航したのですが、こちらは1、ディーゼル船で燃料積み込み口からの海水流入が無かった事2、戦車という重量物を搭載していなかった事3、元々座礁する様に設計されていた事を活かして対岸にそのまま突撃して座礁させて助かったのですが何もせずイタズラに船を座礁させた。として査問委員会にかけられて、海難審判で近藤船長の無実を主張する条件で無罪になってます。
気象衛星で雲の様子が分かる現代と違い、この頃は台風の位置を知るのは難しかったんだよな。
*_音量マックスしても音声が低く聞きにくいです。音声の音量って上げられませんか?_*
この事故は可哀想だよね 船長の判断は間違っていたんだけど彼一人の所為には出来ないよね
ほかの沖止めしようとした船も片端から沈んでいる(日高丸、十勝丸、北見丸、第十一青函丸)。当時は気象衛星はもちろん雨雲レーダーもなく、台風が急に速度を落として発達し前線が出現したこともその時点では不明。さらに出発が遅れ台風と直接対峙するはめになったが、それは函館桟橋のわずか2分間の停電で可動橋が上がらなくなったため。本当に不運としか言いようがない。
TVで見たが、この後、台風の進路、北上スピードを捕えるために、設置されたのが「富士山レーダー」。さらに時代が進み、気象衛星で捕えるようになった。富士山レーダーのドームが富士山の麓の道の駅に保存されています。
函館上空に現れた晴れ間を、台風の目と認識して出港を決意した近藤船長の判断は責められないが、台風通過なら北西に変わるはずの風向きが南南西のままだったにもかかわらず出港したのは近藤船長の判断ミスであろう。出港しなかった場合でも、強まる強風で係船索が切断されれば、走錨するアーネスト号を避けるために港外に出たであろうから、どのみち遭難は避けられなかったろう。もし洞爺丸が助かる道があったとしたら、停電回復で可動橋が上がった時点で出港するか、港外に投錨して仮泊することなく、大雪丸のように蜘躊航法で湾内をながすか、青森へ突っ走るかしかなかったろう。直接の原因は、港外に出て防波堤を背にして仮泊したがゆえに車両甲板(しゃりょうこうはん)開口部から浸水して、ダイナモ·エンジンが使えなくなったことである。
死者30人を超えた岩内大火もこの台風が原因なのに、岩内大火は扱いが小さい。
日本海で際発達する台風は暴風による被害をもたらす傾向が多い2004年の台風16号と18号がいい例
冒頭の事故日時から誤ってたので見るのを止めました。
確かこの事故がきっかけで青函トンネルが出来たんですよね?(´・ω・`)
正確には台風から変わった爆弾低気圧ですね。まだそんな気象用語もなかった時代でした。
この事故を期に青函トンネルが建設へ
洞爺丸事故を機に日本全国の小学校で水泳の授業が導入されたという話を聞いた事があります。あとこの事故は結果的には洞爺丸の船長の判断ミスと言う”人災”だと思います。
この動画をみても、自然を舐めてはいけないと改めて学習しました。
小学校に水泳・プールを整備というは この事故の後の「紫雲丸事故」のほうの影響が大きかった紫雲丸事故では 修学旅行中の100名もの小学生が亡くなったので・・・紫雲丸事故は 5回も事故を起こした船(5回目で沈没) 紫雲丸(死運丸)という縁起のないフネであったこの事故もあって本四架橋整備が要望された
それは三重県津市の橋北中学の女子中学生大量溺死事件でだと思います海で水泳の授業中に海水が一気に盛り上がるという現象が起きて
自然に人間が勝てる訳ないのにな
青函トンネルを、建設するきっかけなった。
アーネスト号には触れないんですかね?
生存者良くいたなっていう
70年代のマインドの東映ならタイタニックに便乗して映画化しそうw 取って付けた色恋沙汰を組み入れてw
つ『飢餓海峡』
事故から2ヶ月後に東映では「あゝ洞爺丸」という事故題材の「キワモノ」映画を封切り公開しています。一応映画の収益を犠牲者遺族の義援金に寄付すると公表していましたが…
死者1100人とか戦争やん!
知らんけど昔の台風ってカムチャッカ半島とかまでいくよね
正常性バイアスで危険を無視した行動による大惨事は知床遊覧船と同じ。
先輩は昭和二十八年生まれ。父上は犠牲者。零歳、姉上は三歳、兄上は五歳と聞かされた。
完全に船長の判断力の無さだな
近藤船長は、青函では特に気象の知識人として有名な方でした。当時は気象衛星もなく、まさに想定外の気象でした。各種文献読みましたが、単に判断ミスとは言い切れないと思います。函館駅の滞留旅客への対応など善意が次々裏目に出てしまう不幸な事故でした。
@@ひつまぶし三太夫 台風が通過したなら風向きが変わるはずなのに、南南西の風のまま出港したのは近藤船長の判断ミス。
自分が子供の頃三軒先の庄司さんのおばあさんが洞爺丸乗っていて遭難した。子供ながらも ショックだったを今でも想う事がある。
冒頭のテロップに誤りがございました。
(誤)1974年
(正)1954年
申し訳ありません。以後注意いたします。
ご指摘いただいた皆様、ありがとうございました。
初っ端で西暦のテロップ間違えてる。誤→1974 正→1954
5:30 北海道と本州の連絡 という使命、洞爺丸は欠航を決めた第十一青函丸からアメリカ陸軍第一騎兵師団の軍人とその家族・列車が移乗していました。千歳駐在を解かれ、青森から列車で東京に向かい飛行機で本国に帰国する予定。洞爺丸乗船前に桟橋の外務担当助役が「このまま乗り換えるか、時化ているので明日の船にしますか」と将校に聞いたが早く帰国したいと言われた と。占領軍特別扱いが当たり前だった時代だけに、さらにプレッシャーも強かったと思われます(上前淳一郎:洞爺丸はなぜ沈んだか より)。
釧路出身の職場の先輩が、昔は内地に出張するときには水杯を交わすこともあって、命の危険を考えなから出張してたのは北海道だけたぞと話してました。
昭和20〜30年代の北海道で言われたのは「青函連絡船が3日停まる(欠航する)と北海道の物価が倍になる」と言われていた。
事故名は聞いた事がありましたが、詳細を知りませんでした。詳しい解説を有り難う御座います。
青函連絡船 洞爺丸沈没事故を採り上げてくださりありがとうございます。
沈没事故当時、当方の父方の祖父が台風による洞爺丸沈没事故で亡くなっています。
当方の父がまだ小学校6年生だった頃の出来事だったと父から聞きました。
当時、突然一家の大黒柱である父の父親(当方からすれば祖父)が亡くなった事で大混乱だったそうで残された父の母親(当方からすれば祖母)は特に大東亜戦争で息子は戦地から帰ってこず、戦死扱いでずっと悲しんでいた上に主人が洞爺丸沈没で死亡してしまい更に悲しみがかさなり、これから先の生活や人生、子供達を養わなければならない為に物凄く苦労をしていたと当方の父から聞きました。
父の兄弟の一番上の兄が父親代わりとなり働きに出てお金を稼ぎ父も中学生になってから新聞配達のアルバイトをして家族みんなで支えあって生きて困難を乗り越えたそうです。
父方の祖母は当方が小学校6年生だった頃に病気で亡くなりましたが生前はとても優しいおばあちゃんでした。
息子の戦死から戦後の混乱期と洞爺丸沈没事故で主人を亡くして悲しみにくれてたいへんな苦労をされた人とは思えませんでした。お盆の時には必ずお墓参りをしています。
洞爺丸沈没事故で亡くなった祖父は写真でしか顔や容姿を見た事がありませんが父が言うには明治生まれでとても厳しかったそうです。
今回の動画を拝見しまして我が事のように感じています。
日本のみならず海外でもこのような海難事故が起こらないようにと遺された家族などが悲しむような事が起こらないように心より願っています。
文章力が乏しく分かりづらいコメントかもしれませんが以上です。
それでは失礼いたします。
乗客は全員救命胴衣を身に着けていたが船員は誰も付けておらず最後まで職務遂行に勤めた セウォル号とは大違いと言われていましたね
函館港がある一定の角度(洞爺丸台風はそちらから来た)から暴風波浪が来ると無防備なので港内が荒れるので結局出るしかないのと、港内に保険問題交渉でスクラップ前提の外国大型船(7000t級)が船員7名のみ(操船不能人員数)で停泊していて暴風で走錨(錨降ろしてるのに抑えが効かず漂流する事)が発生していたから港外に出るしかなかった(狭い駐車場で大型車が勝手に動いているようなもの)のと、平常バイアス言われればそうだけど次の連絡船の為に桟橋空けなくてはいけないから出るしかない。
そして船体が戦時標準船なので強度が弱く3つに分解して沈没したり(第十一青函丸)、構造的に客貨車搬入口(車両甲板)がある為そこから海水が浸水してエンジン・舵・ボイラーなどが故障しそのまま何も出来ずに沈没したり、積載された鉄道車両が中でバランスを崩して偏り船体ものとも転覆・沈没等、どうしようもない状況。無線連絡直後に即沈したと思われる船もある。事故の名称から沈没船は洞爺丸だけと思われがちだが、十勝丸・日高丸・北見丸・第十一青函丸の4隻の青函連絡船も沈没。他の青函連絡船もエンジンが浸水に負けずに何とか動き続けて陸地を壁に出来る場所まで退避などでギリギリ助かった状況。全く無関係なのは検査工事中で運航していなかった連絡船のみ。
被災時に当時の状況で何とか出来る人は誰もいないと思われ。巨大台風が来ていても出港するしか無かった状況。動画タイトルは誤誘導を招く。
とても難しい状況。船長がこんな天気で出れるか、ばかやろう!ってすぐ欠航にできれば良かったんだけど。そうもいかなかったんだろうね。
かなり酷い事故だったんだなぁ💦
只、これ等の事故の反省が今の安全性の改善に役立てているのか🤔
前八甲田丸で最終日に機関長として乗務されていた方が案内してくれるツアーがあり
その時洞爺丸事故について 船内に貼ってある海図で説明してしてくれました
なんても洞爺丸が錨を下ろした所の海底が 砂地になっており 柔らかいため重い錨が走ってしまったと説明してくださいました
またセオル号のことについても船長が真っ先の逃げ出すなんて
ありえないことだ
話してくれました
7:06の絵は有名ですね。洞爺丸の出港を否とする意見は根強いです。ただその時の函館港内も廃船の躁病など危険な状態でした。台風の観測自体も日本海に抜けると全くできず、過去の経験と勘に頼るだけでしたし、洞爺丸転覆の直接の原因も波浪に伴う海底の砂の山に引っかかったためであり、いずれもこの災害が起きて初めて分かったことです。函館港内で待機するより港外に出て座礁させるのが一番安全だったのかもしれません。自然の脅威に対し人間は無力であり、それは時代が進んでも変わらないと思います。亡くなられた方々には改めてご冥福をお祈り申し上げるとともに、この時の判断はその時点において決して誤りではなかったという事を多くの方に知ってもらいたいです。
すみません、「走錨」です。
伊勢湾台風や狩野川台風も別の年の同じ日に接近、上陸したこの3つの台風🌀、直撃を受けた地域を中心に
広範囲にわたって数多くの方々が犠牲になられたなぁ😰😭
うちの地方でもその昔、これと似た事故ありました。そのときの遺体捜索にあたったダイバーの話によると、乗客はほぼすべて客室で横になって寝伸びしてる状態で見つかった。水をのんで苦しみながら亡くなった人は誰ひとりおらず。三角波をうけて一瞬で沈没したため、急激な水圧の変化をうけて即死であったらしい。
1:26
宮島航路と仁堀航路が抜けてますよ
宮島航路は宮島に鉄道がないにも関わらず、現役の「鉄道連絡船」だったりします
実は洞爺丸台風と言うのは厳密には誤り。
と言うのはこの台風、九州上陸後勢力が一度衰えて温帯低気圧になったのですが、その後超特急で日本海を進む間に猛烈に発達、台風以上の勢力を持つ様になった、今で言う爆弾低気圧、です。
一応天気図上には証拠があり、熱帯低気圧(台風)にはあまり付属しない閉塞前線が付近にあった事です。
但し当時はこの爆弾低気圧の概念を気象専門家さえ知っておらず、その為内心全員に甘く見た部分はあるかもしれないですね。
後洞爺丸以外にも米軍のLSTが同じ気象判断で出航したのですが、こちらは
1、ディーゼル船で燃料積み込み口からの海水流入が無かった事
2、戦車という重量物を搭載していなかった事
3、元々座礁する様に設計されていた事
を活かして対岸にそのまま突撃して座礁させて助かったのですが
何もせずイタズラに船を座礁させた。
として査問委員会にかけられて、海難審判で近藤船長の無実を主張する条件で無罪になってます。
気象衛星で雲の様子が分かる現代と違い、この頃は台風の位置を知るのは難しかったんだよな。
*_音量マックスしても音声が低く聞きにくいです。音声の音量って上げられませんか?_*
この事故は可哀想だよね 船長の判断は間違っていたんだけど彼一人の所為には出来ないよね
ほかの沖止めしようとした船も片端から沈んでいる(日高丸、十勝丸、北見丸、第十一青函丸)。
当時は気象衛星はもちろん雨雲レーダーもなく、台風が急に速度を落として発達し前線が出現したこともその時点では不明。さらに出発が遅れ台風と直接対峙するはめになったが、それは函館桟橋のわずか2分間の停電で可動橋が上がらなくなったため。本当に不運としか言いようがない。
TVで見たが、この後、台風の進路、北上スピードを捕えるために、設置されたのが「富士山レーダー」。さらに時代が進み、気象衛星で捕えるようになった。富士山レーダーのドームが富士山の麓の道の駅に保存されています。
函館上空に現れた晴れ間を、台風の目と認識して出港を決意した近藤船長の判断は責められないが、台風通過なら北西に変わるはずの風向きが南南西のままだったにもかかわらず出港したのは近藤船長の判断ミスであろう。出港しなかった場合でも、強まる強風で係船索が切断されれば、走錨するアーネスト号を避けるために港外に出たであろうから、どのみち遭難は避けられなかったろう。もし洞爺丸が助かる道があったとしたら、停電回復で可動橋が上がった時点で出港するか、港外に投錨して仮泊することなく、大雪丸のように蜘躊航法で湾内をながすか、青森へ突っ走るかしかなかったろう。
直接の原因は、港外に出て防波堤を背にして仮泊したがゆえに車両甲板(しゃりょうこうはん)開口部から浸水して、ダイナモ·エンジンが使えなくなったことである。
死者30人を超えた岩内大火もこの台風が原因なのに、岩内大火は扱いが小さい。
日本海で際発達する台風は暴風による被害をもたらす傾向が多い
2004年の台風16号と18号がいい例
冒頭の事故日時から誤ってたので見るのを止めました。
確かこの事故がきっかけで青函トンネルが出来たんですよね?(´・ω・`)
正確には台風から変わった爆弾低気圧ですね。まだそんな気象用語もなかった時代でした。
この事故を期に青函トンネルが建設へ
洞爺丸事故を機に日本全国の小学校で水泳の授業が導入されたという話を聞いた事があります。
あとこの事故は結果的には洞爺丸の船長の判断ミスと言う”人災”だと思います。
この動画をみても、自然を舐めてはいけないと改めて学習しました。
小学校に水泳・プールを整備というは この事故の後の「紫雲丸事故」のほうの影響が大きかった
紫雲丸事故では 修学旅行中の100名もの小学生が亡くなったので・・・
紫雲丸事故は 5回も事故を起こした船(5回目で沈没) 紫雲丸(死運丸)という縁起のないフネであった
この事故もあって本四架橋整備が要望された
それは三重県津市の橋北中学の女子中学生大量溺死事件でだと思います
海で水泳の授業中に海水が一気に盛り上がるという現象が起きて
自然に人間が勝てる訳ないのにな
青函トンネルを、建設するきっかけなった。
アーネスト号には触れないんですかね?
生存者良くいたなっていう
70年代のマインドの東映ならタイタニックに便乗して
映画化しそうw 取って付けた色恋沙汰を組み入れてw
つ『飢餓海峡』
事故から2ヶ月後に東映では「あゝ洞爺丸」という事故題材の「キワモノ」映画を封切り公開しています。
一応映画の収益を犠牲者遺族の義援金に寄付すると公表していましたが…
死者1100人とか戦争やん!
知らんけど昔の台風ってカムチャッカ半島とかまでいくよね
正常性バイアスで危険を無視した行動による大惨事は知床遊覧船と同じ。
先輩は昭和二十八年生まれ。父上は犠牲者。零歳、姉上は三歳、兄上は五歳と聞かされた。
完全に船長の判断力の無さだな
近藤船長は、青函では特に気象の知識人として有名な方でした。当時は気象衛星もなく、まさに想定外の気象でした。各種文献読みましたが、単に判断ミスとは言い切れないと思います。函館駅の滞留旅客への対応など善意が次々裏目に出てしまう不幸な事故でした。
@@ひつまぶし三太夫 台風が通過したなら風向きが変わるはずなのに、南南西の風のまま出港したのは近藤船長の判断ミス。
自分が子供の頃三軒先の庄司さんのおばあさんが洞爺丸乗っていて遭難した。子供ながらも ショックだったを今でも想う事がある。