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青函連絡に乗ると時間を忘れて夜空ばかり見ていた記憶しかない。
03:40 デパートの閉店時間とか青函連絡船の出航時に流れる音楽は、正確には「別れのワルツ」と云って、昭和初期の映画『哀愁』の終わりのダンスシーンに流れていたものが流行って、お別れする時、閉店時間に流そうとなってガンガン広まっていった音楽らしいです。だから蛍の光とは拍子が違います。2024年9月に15年ぶりくらいに摩周丸を見に札幌の叔母達と一緒に行きましたが、80代の伯母が階段の手前で断念したので、二人の叔母達には駅で待ってもらって40分くらいで急いで見て回りました。ですので、ゆっくり見ることはできなかったので、相当ありがたい動画でした!!
私自身、昔青函トンネルが開業前、廃止寸前の青函連絡船に乗るために正しく往時は此の摩周丸(当時は大学時代お金が無かったので二等室「座席」)複時は大雪丸(同じ理由で二等室)又青森県までは今は無き急行津軽(今は山形新幹線になった奥羽本線経由)黒磯迄はEF65 1000番台PF形牽引黒磯でED75形に福島で同700番台にバトンタッチ(無論機関車交換は深夜だけど見に行きました)又、東能代駅で降り、此も今は無き20系臨時寝台特急日本海81号も撮影、帰りは青森から上野迄今は無き急行十和田(流石に臨時化されていましたが)に乗車深夜中車掌さんと喋っていました。又、青森駅で今は無き583系はつかりも青函連絡船バックに撮影しました。今は北海道新幹線が出来て便利になりましたが反面青函連絡船を初め旅の旅情を感じられなくなり少し寂しい気持ちです。
1988年の青函連絡船廃止、青函トンネル開通の年の夏に、リバイバル青函連絡船というのがあり、高1でしたが東京から友人たちと乗りに行きました。急行八甲田で向かい、確か八甲田丸だったと思いますが、乗船しました。売店と食堂は営業してましたね。途中海上で十和田丸だったかな、とすれ違いました。青函トンネルで函館から戻ってきて、青森停泊中のシップホテルで一晩を過ごしました。その際、今回紹介のあったグリーン車やシャワールームなど船内を見学しましたね。翌日、青森駅周辺で過ごした後、急行八甲田で帰途につきました。結局、その時が唯一の乗船体験ですが、貴重な思い出です。
リバイバル時に運航されたのは、羊蹄丸と十和田丸です。八甲田丸は3月13日の下り最終便函館20:55着を以て運航を終了し、その後青森まで曳航されて繋留。青函博開催時にパビリオンとしての役割を果たした後、博物館(メモリアルシップ)となっています。
@@njdhjrijdlspkojgmvnhkbuegk1505 ありがとう。記憶違いでしたね。訂正感謝です。
初めて、函館に入った時の船🚢が摩周丸でした。国鉄としては、最初で最後でしたが。🚂3回乗船しました。🚂残っているのは、青森にある八甲田丸とこの摩周丸だけ。🚂青函連絡船は、3回乗船。
ちょっと自信をなくす伊藤さん(3:28) お二人とも伊藤さん😃😃
1980年頃、列車番号 5M 5便 5D 接続、上野22時21分発電車寝台特急 583系EC はくつる 乗車 青森 7時11分 到着🛬青函連絡船乗船 🚢5便青森 7時30分出航函館 11時20分到着石川さゆり 津軽海峡冬景色 の🎤歌のとおり函館発11時40分発特別急行 おおぞら5号82系DC 乗車札幌 15時50分 到着🛬この列車の終着駅は、この先 滝川から根室本線に入り新狩勝トンネルを抜けて十勝平野をひた走り終点釧路には21時55分到着学生👨🎓にとって、✈️航空運賃の高かった時代だからこそ、楽しい鉄道🚃の旅を満喫できた。
メモリアルシップ摩周丸には17年前に行った事があります。気のせいか,この動画の方が展示内容が充実しているように思います。青函連絡船には,小学生の頃と大学生の頃に乗りました。小学生の頃は,青森駅について,席に座れるよう連絡船まで走ったのを覚えています。動画に出ていた青い普通席です。大学生の頃に乗った時は,連絡船の中で味噌汁を飲んだ事を覚えています。
JRマークよりもJNRマークの方がかっこよく見える!😆✨と思ったのは僕だけでしょうか?😅
嬉しいなあ! こんな若い娘が連絡船を紹介している。
北海道に飛行機でしか行かない今の若い世代には知らない人が多いかもしれないかつての昭和の栄光。
フェリーも新幹線もあるぞ
青函連絡船には、たくさんの思い出があります。動画にしてくださりありがとうございます😭
摩周丸、最後に乗った青函連絡船でした。
去年、北斗星泊まった後に、マシュマル見学しました。通信室の棚の上にあったノートが本物で、手に取って見れてびっくりしました。
摩周丸より青森側にある八甲田丸の方が車両甲板入れるし鉄分濃い
各船のシンボルマーク、スタンプになって、今の駅スタンプみたいに、気楽に押す事ができ、家にあるよ😄☝️
19:35 網走から函館まで直通してたとか、倶知安経由の特急列車北海が充実してたとかひとめでわかる。 航海の安全について見識を深めておくことは重要である。
青函連絡船記念館あるんだ 摩周丸だね お父さんと行ったんだ
バイクでツーリング中、今から37年前1987年7月24日、青森から函館まで青函連絡船に乗りました。この日の夕食は船内で、ラーメンを購入して食べました。そして船内でシャワー、函館につきタクシーの運転手につかまり函館山夜景を楽しみ、青函連絡船函館港前の芝生で寝袋で朝4時までお休みした。
これは、函館に保存されている青函連絡船でしたな。俺は、青森に保存されている八甲田丸を2020年2月の連休に訪ねました。第二次世界大戦の太平洋戦争では、連絡船も多く撃沈されましたな。洞爺丸の事故、青函トンネルの建設に大きく関係する海難事故でした。四国では、紫雲丸が事故りました。
青森駅には八甲田丸がいる羊蹄丸は現在解体された大雪丸や十和田丸や津軽丸や松前丸などはどこにあるかも
八甲田丸の方は、車輛甲板に車輛が入っています。🚂貨車の1台も入っていたらと思います。🚂
青函連絡船、何回か乗ったけど、羊蹄丸か摩周丸のどっちかだったなァ…(笑)
上野発の夜行列車降りた時から
昔ネットで洞爺丸事故の事を調べまくった事がありますが本当に悲惨な事故だったんですよね...
洞爺丸についてはネットでも出てきますが成す術もなく走錨して最後に電力喪失とか怖いですね。国鉄時代の設備もいろいろ楽しめたと思いますが、当時の時刻表で一番テンションが上がるのは流石ですね。
2023年5月に行きました。楽しいでした。
夏季は、仏ヶ浦見易く遠回りした便も、あったよ😄☝️
学生時代に摩周丸に乗っていました。年に4回以上は乗ってたので、津軽丸や大雪丸や羊蹄丸や八甲田丸十和田丸にも乗っていました。さすがに比羅夫丸や田村丸までは知りません。洞爺丸が台風で沈んだのは私が小学生の頃でした。~粋な洞爺丸函館出発、風に吹かれて難破して、うちの父さんかわいそう、子供泣き泣き父の遺体を探し求めて七重浜~船の神鋼方向に対して横に寝ることで船酔いを軽減sくぁせていた。母親が何でも持たせたいとの愛情から、重たい荷物を持って非常に長いホームを歩き着いた青森も長いホームを歩きました。苦労して連絡船に乗り、青森の長いホームを歩き行きついた上野から下宿までの永遠と思われる苦行でした。展示されてる摩周丸は中年になってから息子たちを連れて見に行きました。内部構造はまったく覚えていませんが、懐かしさに浸ってきました。
懐かしい😊 あけぼの,ゆうづる,はくつるによく乗りました。ゆうづるは常磐線経由で運転で,はくつるが確か?東北本線経由でしたよね、
青函連絡船は青森↔函館間を4時間掛かっての運航だったらしい。伊藤ちゃんの船長服はお似合いであるよ😀
北海道も青函連絡船が廃止されてからストロー効果の影響が出ていますね。青函トンネルも昔は馬鹿げたことだと言われてたそうですが、ある国鉄の職員で「世界中を海底トンネルで結ぶ」という内容の一冊の本を書いた人がいました。概要は北方領土と北海道を海底トンネルで結び、北海道と本州を青函トンネルで結び、本州と四国・九州、そして朝鮮半島を通り、中国を通り、パリを通り、ロシアを通り、そしてまた北方領土から北海道へと、要は世界一周を海底トンネルで結んではどうかというものだったようです。当然、何十兆円・何百兆円お金かかるかわからないし、それぞれ国の事情も異なるし、馬鹿だのチョンだの批判の声があったようです。ところが昭和29年にこの洞爺丸台風という連絡船での大きな事故を受け、4隻~5隻の連絡船が沈没し、1430名という尊い犠牲者が出たことにより、従来の批判の的になっていた海底トンネル案というものが北海道~本州間に限って本格適用されるようになったんですね。やはり船というのは災害等によって100%沈まないと言い切れないことから、トンネルで結んで土の中を通した方が安全だということで青函トンネルが建設されました。延べ作業人員は1380万人、地質調査開始以来23年6ヶ月かかって建設され、昭和63年3月13日に待望の津軽海峡線として開業しました。建設費用は6890億円かかりましたが、今では貨幣価値も大きく変わり、当時の6890億円というのは今では軽く1兆円以上の価値があると言われています。なお、津軽海峡線開業当時は快速海峡号として青函輸送しており、12両で走っても各列車とも毎度300~400人も乗っていて常に満員状態だったようです。ところが時が経つに連れて段々乗客も減少してきたようで、5~10年後には週末を除いて1列車あたり50~60人程度の乗車率というのがずっと続いた模様です。これはもうJR北海道もかなりの赤字だということで2002年12月1日の東北新幹線八戸開業に伴い、快速海峡号の運転を取りやめ、「白鳥」・「スーパー白鳥」など全て特急化しました。それでも1~2割程度増えただけなのでJR北海道としては相当赤字なんですよね。しかも青函トンネルというのはJR北海道のものではなく、鉄建公団から借りています。しかもタダで貸してくれるわけでもなく、1年間に4億円かかっています。その他に坑道内で使われているタンクやポンプ等の様々な機械の補修費というのも3億~5億円かかってきます。その補修費というのも毎年飛躍的に増えているようです。
今も動いてたら乗ってみたいですな
伊藤桃さんヘ。僕は青函連絡船ですか僕は子供の時に宇高連絡船と仁方堀江連絡船に乗りました。宇高連絡船は讃岐丸と阿波丸と伊予丸と土佐丸です。過去に紫雲丸は3回船同士で沈没しています。1回目は同稜船の鷲羽丸で3回目は第3宇高丸です。
船の科学館にあった羊蹄丸は見学したことがありましたけど函館に行ったらぜひ摩周丸を見学したいと思います。
未踏の地北海道、行ってみたいなぁ🦀青函連絡船からトンネルに変わるって小学生の時に習い、高校生頃に開通したのかな?最近思うのは昔になればなるほど国内移動って一大イベントだったんだよなぁって思うの😮今の当たり前と昔の当たり前が比較できたりするから勉強にもなるよね。いやあ、行ってみたいな北海道!
青函連絡船、一度だけ乗りました。大阪から白鳥に乗って、青森に着いたら、東京から来るはつかりから降りた乗客が先に乗ってて、超満員。懐かしい思い出です😊
青函連絡船、最終運航前日の青森発の臨時夜行便(八甲田丸)に乗船しました。海はウネリが酷く船酔いで下船😅函館から最終便の羊蹄丸を見送りました。沢山の船、ヘリコプターが盛大に見送る姿に涙が・・・😢今でも瞼に焼き付いています。引退後、まだ青函連絡船が見れて、触れられるのは素晴らしい事ですね🎵
札幌新幹線速達化の為 現青函トンネルを新幹線専用にする案を聴いた覚えがありますがそれに伴い 新青函トンネルか新青函連絡船の案が出てましたが その後 如何に?
国鉄時代、ロマンがありますね👍
青森のメモリアルシップ八甲田丸には行ったことがある(遠目)館内をぐるぐると巡って色々と見たはずなんだけど印象に残っているのは、津軽海峡冬景色のヘビーローテーション(笑)
桃ちゃん、おはようございます。 いい所に行きましたね。 地元の人じゃないと知らない所ですね、勉強になりました。
はじめ、ももちゃんの彼氏と一緒かと思いましたがお父さんと一緒に歩いてたんですね。お父さん、優しそうな声ですね。
母が昔この青函連絡船に乗ったと聞いています。ゆうづるで青森まで出て降りる前に洞爺丸事故の為か乗客名簿に記載して桟橋を渡って乗船したようです。今は役目を終えて展示されていますが実際に行ってどんな状況かを聞きながら見学してみたくなりました。
伊籐桃🍑🍑🍑👍👍👍
石川さゆりさんの名曲、津軽海峡冬景色にある上野発の夜行列車も連絡船もなくなっただけに乗りたかったなー
上野から583系はつかりに乗って青森へ。そこから青函連絡船に乗って函館へ。朝の7時に出発して函館に着く頃にはすっかり夜で、夜景が強烈な印象でした。まだ、青函トンネルも東北新幹線も無かった頃の自分の修学旅行。これを言うと年がバレますが笑でも自信持って言えますが、こんなステキな不便さはありませんでした😊
函館洞爺丸、私も見に行きました。流石に実際に就航していた青函連絡船は乗れずじまいだが(四国の宇高連絡船ならリアルで乗った)。過去に函館洞爺丸を見た翌日に、青森の八甲田丸も見に行き、双方の相違点や類似点を楽しめました。八甲田丸だと、船内の線路やエンジンルームも入れて、線路上には当時の北海道の特急車キハ82も見られます、残念ながらキハ82車内は入れませんが。 次は八甲田丸取材ですな。
国鉄時代に何度もお世話になったよ!蛍の光とドラの音が何とも云えない哀愁があるよね✨夜行便はあまり利用しなかったけど、夜行の時はグリーン指定か寝台だったね🍀レストランの海峡ラーメン?が美味しかったなぁ🍜函館・青森からの乗継時間は20分でしたね🛤️
青函連絡船懐かしいですね😊津軽海峡冬景色の歌詞を思い浮かぶなあ〜😊
私が青森駅周辺で、真っ先に思い付くのが、日本を代表する作詞家の阿久悠さん作詞で、こちらも代表的な作曲家の三木たかしさん作曲、代表的な演歌歌手の、石川さゆりさんが歌われる「津軽海峡冬景色」の歌詞の碑です。その昔、東京の北の玄関口であった上野駅の行止り式の、地平ホームから鉄路が北へ向け遥かに続き、その鉄路が終点青森駅の北寄りで、集まる様に津軽海峡手前で行き止まる様は、本当に感慨深くロマンを感じますね。数々の夜行列車が、当時の上野駅地平ホームから出発していた時代の真盛りに誕生したこの曲は、男女の別れを描く曲で、愛する人と離れ離れになる、切ない女心を描いた歌です。この歌でも歌われておりますが、「北へ帰る人の群れは誰も無口で♪」は、紛れもなく青森駅から青函連絡船に乗り換える情景を切り取った部分です。そんな青函連絡船が洞爺丸で、当時から国鉄が運営しておりました。様々な痛ましい歴史的な背景が有り、青函トンネルが開通しますが、洞爺丸にも私は、歴史を馳せる思いが有ります。改めて、この動画でロマンを感じました。本当にありがとうございます。伊藤桃さんも、是非とも厳冬の青森駅を訪れて下さいませ。また格別な思いを体験出来ますよ。
青函連絡船が廃止になって2023年で35年。実際に乗船したのは中学校の修学旅行の時だけなんだけども、現在はこんな形で残っている。私も毎年夏にマラソン参加のために函館には訪れているけども、なかなか中に入る機会が少ないです。何年か前に一度もお邪魔したことはありますが・・・。毎日正午と夕方の5時の2回汽笛が鳴るのは何だかファンサービスみたい。
僕は、函館産まれで、函館離れて20年以上経ちますが、今は愛知県に住んで居て、名古屋には、観測船ふじしか展示してないので、連絡船も展示してあれば、函館を感じられるのですが😌
懐かしいと🎉ありがとうございます😊
桃さんの地元ネタいいですね。ぜひ、こんど千葉県の金谷から神奈川県の久里浜までを結ぶ東京湾フェリーも乗ってみてください!!
宇高連絡船の看板で食べる讃岐うどんが美味しいです。高松発は美味しいです。宇野発は水臭いです。
青函トンネルが開通する前まで、北海道へ渡るには飛行機か青函連絡船しか無かったんですよね。そして函館に降り立って、北島三郎の歌を歌うと(笑)
道産子なので連絡船は何度か乗りました。懐かしいです
洞爺丸台風が来た夜、北海道岩内町を見下ろす高台に住んでいた娘時代の母は、眼下の街一帯が赤々と染まるのを見たと言ってました。この岩内大火は水上勉の「飢餓海峡」の冒頭の題材になっています。私は関東在住ですが、子供の頃の帰省の定番は、ゆうづる、連絡船、ニセコ3号でした。動画を見て、駅のホームから桟橋までの長い通路を必死に走ったことをふと思い出し、なつかしいです。当時は多くの利用客がいました。
桃ちゃん😊はじめまして🎵船長さん良く似合ってる❤️
青函連絡船、小中学校の修学旅行でお世話になりましたね。そして、実は青函連絡船は青函トンネル開通後、青函博のイベントに応じ臨時運行されていました。その時連絡船で函館に渡りはつかりに乗って青森へ戻って連絡船を出迎えるという事が出来ました。もちろん切符も買えたのです。
摩周丸、充実した歴史資料館なんですね。むかし青森に行ったとき、十和田丸の姿を見たのを思い出しました。津軽海峡冬景色の曲の頃は青函連絡船、運行されていたんですよね。
私も小学校(若葉小学校)の修学旅行は函館でした。初めての団体旅行楽しかったなぁちなみに中学校(野中)のときの修学旅行は東京、まだ新幹線も東北自動車道もない時代、特急「はつかり」で楽しく行きました。懐かしい。
今日も可愛い桃姫なのであります😌
懐かしいですね。摩周丸も羊蹄丸も乗船しました。海風が気持ち良かったです。急行の八甲田も乗車しました。連絡船の職員の皆さんが国鉄職員であることも楽しく感じました。
桃さんはじめましてです。青函連絡船懐かしい思い出がたくさんあり、まだ特急白鳥に食堂車が連結されていた頃に敦賀から青森、さらに青函連絡船に乗船し、函館から札幌まで山線経由の急行ニセコ1号で小樽まで行きました。なぜなら当時、北海道ワイド周遊券は、急行自由席が、乗り放題だったためです。またべつの年には大阪から青森まで急行きたぐにの普通車自由席に乗り、青函連絡船で函館から札幌まで急行すずらん6号という夜行列車にこれまた普通車自由席に揺られて行ったこともあります。札幌についたときはさすがに腰が痛くなった記憶があります。青函連絡船では、道内の特急券等を発売していて、それらは硬券でした。
物心がつく前から乗っていた。石炭船の末期から最終便の八甲田丸まで数数え切れない…でも、改造客貨船だった石狩丸と檜山丸に乗る事ができなかったのが心のこりですね!
可愛です
この摩周丸 現役の時に乗りました🚢💨 めっちゃ懐かしい✨
青函連絡船には興味なかったのですが、なかなかいいですね。行きたくなってきました。
僕小さい頃、じいちゃんが青函連絡船の乗務員で、ただで乗せて貰ってたんだ😌摩周丸も八甲田丸も歴代の連絡船乗ったんだ😌まだ展示してあるのが、なんか懐かしくて嬉しいな😌
懐かしい…自分が唯一乗船できたのが40年近く前、普通座席でゴロゴロしてた記憶です。連絡船が廃止になった後、期間限定でホテル(ゴロ寝だったりイス寝だったりですが。笑)として営業してた時にも乗ったな…😌500円でこれだけ楽しめるのはすごい!いい場所!…桃ちゃんもすごく楽しそうな様子、いい動画でした♪✨
函館の回転寿司で食べたニシンの刺身が美味しかった。またそこのホッケも美味しかったので翌朝にお土産に買って大阪に戻ったことがあったな。
青森の八甲田丸の方は行ったことあるんですが、摩周丸は行ったことなかったので動画で見ることができて有難いです。
8月に行ったときには、最終日に行ったよ。(3日目)1954・0926の洞爺丸台風の記事は、道内紙だけにもとどわらず、東京の全国紙の新聞記事にもあったよ。しかも今は無き東京タイムスからの記事もあったよ。映画飢餓海峡の題材にもなったよ。20231015・2127
函館のオススメはやっぱり、函館山からの夜景だけど、実は東山と言う、函館山と反対から観れる裏夜景も綺麗なんだ😌
船が数えきれないくらいあって凄いです‼
青函連絡船は子供頃に行った船の科学館に羊蹄丸が昔は置いてありましたね。今は解体されて残念な事に船の科学館も閉業中です。戦争中の連絡船🚢は本当に残念な船でしかないです。攻撃くるとわかっても行かないといけないのは😢
羊蹄丸は、解体となって残念ですね。車輛甲板に入っていた車輛は、保存されています。🚂
八甲田丸は見学したことあるけど摩周丸、函館に行く機会あったら見てみたいな。
青函連絡船、幼少期に2往復乗ったことあります!ほとんど記憶が残っていないのですが・・でも、船内売店でミニカーを親に買ってもらった記憶だけは残っています。
桃さん、こんばんは😃🌃お疲れ様です👍連絡船に乗るのは珍しいですね😲青函トンネル開通から今年で35周年も経つのですね👀‼️
国鉄運賃がまだ安かった頃は『青函連絡船』で渡道されるお客さんも多かったです。というか 北海道−本州とのメインルートでした。確かに1年だけ『JR』でしたね。『蛍の光』は出港時の音楽で 因みに古関裕而先生の編曲です。車両甲板は非公開なんですね。座席は 普通・グリーン🍀共に 鉄道車両用とよく似ていますが 足元が広い分座り心地は快適そう。キャプテンの制服・制帽姿 お似合いでしたよ。ところで 昔の国鉄といえば 東映さんのチャンネルで 20系『寝台特急 さくら🌸』が舞台の映画『大いなる驀進』が 28日迄配信中です。まだでしたら 是非ご視聴お勧めします。
行ったこと無いけど良い所ですね。レトロ感もあるし新しさもあるような😊
貴重な遺産は、大事保存し続けて欲しいですね!
青函連絡船か~懐かしいJNR今も記念館として保存されているのは引退後の活用の仕方としては面白いですね。是非乗ってみたいです‼
青森にも保存されていたと思うので、いかに函館でも青森でも愛されていたかが良く分かる
津軽海峡線のフェリーの事を歴史が勉強できていいなぁ。◕‿◕。
なんどもお世話になった青函連絡船、懐かしいです。終航後、青函博に連動した臨時復活運航にも乗りに行き、夜間停泊のシップホテルにも宿泊しました。\(^o^)/ 桃ちゃんにも体験して欲しかったなあ§^o^§
かわいぃ❤〜
函館 楽しんでいただけましたぁ?イルカは 連絡船の鼻先 横を一緒に泳いでましたよ漁火鉄道の観光列車 初めて知った 函館人です渡島当別の海水浴で小さいころ国鉄 汽車で行った記憶が今は江差 松前はドライブコースで 木古内は休憩場所です
(≧∇≦)b❤いい声!
1🍙コメ。🎉
青函連絡に乗ると時間を忘れて夜空ばかり見ていた記憶しかない。
03:40 デパートの閉店時間とか青函連絡船の出航時に流れる音楽は、正確には「別れのワルツ」と云って、昭和初期の映画『哀愁』の終わりのダンスシーンに流れていたものが流行って、お別れする時、閉店時間に流そうとなってガンガン広まっていった音楽らしいです。だから蛍の光とは拍子が違います。
2024年9月に15年ぶりくらいに摩周丸を見に札幌の叔母達と一緒に行きましたが、80代の伯母が階段の手前で断念したので、二人の叔母達には駅で待ってもらって40分くらいで急いで見て回りました。ですので、ゆっくり見ることはできなかったので、相当ありがたい動画でした!!
私自身、昔青函トンネルが開業前、廃止寸前の青函連絡船に乗るために正しく往時は此の摩周丸(当時は大学時代お金が無かったので二等室「座席」)複時は大雪丸(同じ理由で二等室)又青森県までは今は無き急行津軽(今は山形新幹線になった奥羽本線経由)黒磯迄はEF65 1000番台PF形牽引黒磯でED75形に福島で同700番台にバトンタッチ(無論機関車交換は深夜だけど見に行きました)又、東能代駅で降り、此も今は無き20系臨時寝台特急日本海81号も撮影、帰りは青森から上野迄今は無き急行十和田(流石に臨時化されていましたが)に乗車深夜中車掌さんと喋っていました。又、青森駅で今は無き583系はつかりも青函連絡船バックに撮影しました。今は北海道新幹線が出来て便利になりましたが反面青函連絡船を初め旅の旅情を感じられなくなり少し寂しい気持ちです。
1988年の青函連絡船廃止、青函トンネル開通の年の夏に、リバイバル青函連絡船というのがあり、高1でしたが東京から友人たちと乗りに行きました。急行八甲田で向かい、確か八甲田丸だったと思いますが、乗船しました。売店と食堂は営業してましたね。途中海上で十和田丸だったかな、とすれ違いました。青函トンネルで函館から戻ってきて、青森停泊中のシップホテルで一晩を過ごしました。その際、今回紹介のあったグリーン車やシャワールームなど船内を見学しましたね。翌日、青森駅周辺で過ごした後、急行八甲田で帰途につきました。結局、その時が唯一の乗船体験ですが、貴重な思い出です。
リバイバル時に運航されたのは、羊蹄丸と十和田丸です。
八甲田丸は3月13日の下り最終便函館20:55着を以て運航を終了し、その後青森まで曳航されて繋留。青函博開催時にパビリオンとしての役割を果たした後、博物館(メモリアルシップ)となっています。
@@njdhjrijdlspkojgmvnhkbuegk1505 ありがとう。記憶違いでしたね。訂正感謝です。
初めて、函館に入った時の船🚢が摩周丸でした。国鉄としては、最初で最後でしたが。🚂3回乗船しました。🚂残っているのは、青森にある八甲田丸とこの摩周丸だけ。🚂青函連絡船は、3回乗船。
ちょっと自信をなくす伊藤さん(3:28) お二人とも伊藤さん😃😃
1980年頃、列車番号 5M 5便 5D 接続、
上野22時21分発電車寝台特急 583系EC
はくつる 乗車
青森 7時11分 到着🛬
青函連絡船乗船 🚢5便
青森 7時30分出航
函館 11時20分到着
石川さゆり 津軽海峡冬景色 の🎤歌のとおり
函館発11時40分発
特別急行 おおぞら5号
82系DC 乗車
札幌 15時50分 到着🛬
この列車の終着駅は、この先 滝川から根室本線に入り新狩勝トンネルを抜けて十勝平野をひた走り終点釧路には21時55分到着
学生👨🎓にとって、✈️航空運賃の高かった時代だからこそ、楽しい鉄道🚃の旅を満喫できた。
メモリアルシップ摩周丸には17年前に行った事があります。気のせいか,この動画の方が展示内容が充実しているように思います。
青函連絡船には,小学生の頃と大学生の頃に乗りました。小学生の頃は,青森駅について,席に座れるよう連絡船まで走ったのを覚えています。動画に出ていた青い普通席です。
大学生の頃に乗った時は,連絡船の中で味噌汁を飲んだ事を覚えています。
JRマークよりもJNRマークの方がかっこよく見える!😆✨と思ったのは僕だけでしょうか?😅
嬉しいなあ!
こんな若い娘が連絡船を紹介している。
北海道に飛行機でしか行かない今の若い世代には知らない人が多いかもしれないかつての昭和の栄光。
フェリーも新幹線もあるぞ
青函連絡船には、たくさんの思い出があります。動画にしてくださりありがとうございます😭
摩周丸、最後に乗った青函連絡船でした。
去年、北斗星泊まった後に、マシュマル見学しました。
通信室の棚の上にあったノートが本物で、手に取って見れてびっくりしました。
摩周丸より青森側にある八甲田丸の方が車両甲板入れるし鉄分濃い
各船のシンボルマーク、スタンプになって、今の駅スタンプみたいに、気楽に押す事ができ、家にあるよ😄☝️
19:35 網走から函館まで直通してたとか、倶知安経由の特急列車北海が充実してたとかひとめでわかる。 航海の安全について見識を深めておくことは重要である。
青函連絡船記念館あるんだ 摩周丸だね お父さんと行ったんだ
バイクでツーリング中、今から37年前1987年7月24日、青森から函館まで青函連絡船に乗りました。この日の夕食は船内で、ラーメンを購入して食べました。そして船内でシャワー、函館につきタクシーの運転手につかまり函館山夜景を楽しみ、青函連絡船函館港前の芝生で寝袋で朝4時までお休みした。
これは、函館に保存されている青函連絡船でしたな。
俺は、青森に保存されている八甲田丸を2020年2月の連休に訪ねました。
第二次世界大戦の太平洋戦争では、連絡船も多く撃沈されましたな。
洞爺丸の事故、青函トンネルの建設に大きく関係する海難事故でした。
四国では、紫雲丸が事故りました。
青森駅には八甲田丸がいる羊蹄丸は現在解体された大雪丸や十和田丸や津軽丸や松前丸などはどこにあるかも
八甲田丸の方は、車輛甲板に車輛が入っています。🚂貨車の1台も入っていたらと思います。🚂
青函連絡船、何回か乗ったけど、羊蹄丸か摩周丸のどっちかだったなァ…(笑)
上野発の夜行列車降りた時から
昔ネットで洞爺丸事故の事を調べまくった事がありますが本当に悲惨な事故だったんですよね...
洞爺丸についてはネットでも出てきますが成す術もなく走錨して最後に電力喪失とか怖いですね。国鉄時代の設備もいろいろ楽しめたと思いますが、当時の時刻表で一番テンションが上がるのは流石ですね。
2023年5月に行きました。楽しいでした。
夏季は、仏ヶ浦見易く遠回りした便も、あったよ😄☝️
学生時代に摩周丸に乗っていました。年に4回以上は乗ってたので、津軽丸や大雪丸や羊蹄丸や八甲田丸十和田丸にも乗っていました。さすがに比羅夫丸や田村丸までは知りません。洞爺丸が台風で沈んだのは私が小学生の頃でした。
~粋な洞爺丸函館出発、風に吹かれて難破して、うちの父さんかわいそう、子供泣き泣き父の遺体を探し求めて七重浜~
船の神鋼方向に対して横に寝ることで船酔いを軽減sくぁせていた。
母親が何でも持たせたいとの愛情から、重たい荷物を持って非常に長いホームを歩き着いた青森も長いホームを歩きました。
苦労して連絡船に乗り、青森の長いホームを歩き行きついた上野から下宿までの永遠と思われる苦行でした。
展示されてる摩周丸は中年になってから息子たちを連れて見に行きました。
内部構造はまったく覚えていませんが、懐かしさに浸ってきました。
懐かしい😊 あけぼの,ゆうづる,はくつるによく乗りました。ゆうづるは常磐線経由で運転で,はくつるが確か?東北本線経由でしたよね、
青函連絡船は青森↔函館間を4時間掛かっての運航だったらしい。
伊藤ちゃんの船長服はお似合いであるよ😀
北海道も青函連絡船が廃止されてからストロー効果の影響が出ていますね。
青函トンネルも昔は馬鹿げたことだと言われてたそうですが、ある国鉄の職員で「世界中を海底トンネルで結ぶ」という内容の一冊の本を書いた人がいました。
概要は北方領土と北海道を海底トンネルで結び、北海道と本州を青函トンネルで結び、本州と四国・九州、そして朝鮮半島を通り、中国を通り、パリを通り、ロシアを通り、そしてまた北方領土から北海道へと、要は世界一周を海底トンネルで結んではどうかというものだったようです。
当然、何十兆円・何百兆円お金かかるかわからないし、それぞれ国の事情も異なるし、馬鹿だのチョンだの批判の声があったようです。
ところが昭和29年にこの洞爺丸台風という連絡船での大きな事故を受け、4隻~5隻の連絡船が沈没し、1430名という尊い犠牲者が出たことにより、従来の批判の的になっていた海底トンネル案というものが北海道~本州間に限って本格適用されるようになったんですね。
やはり船というのは災害等によって100%沈まないと言い切れないことから、トンネルで結んで土の中を通した方が安全だということで青函トンネルが建設されました。
延べ作業人員は1380万人、地質調査開始以来23年6ヶ月かかって建設され、昭和63年3月13日に待望の津軽海峡線として開業しました。
建設費用は6890億円かかりましたが、今では貨幣価値も大きく変わり、当時の6890億円というのは今では軽く1兆円以上の価値があると言われています。
なお、津軽海峡線開業当時は快速海峡号として青函輸送しており、12両で走っても各列車とも毎度300~400人も乗っていて常に満員状態だったようです。
ところが時が経つに連れて段々乗客も減少してきたようで、5~10年後には週末を除いて1列車あたり50~60人程度の乗車率というのがずっと続いた模様です。
これはもうJR北海道もかなりの赤字だということで2002年12月1日の東北新幹線八戸開業に伴い、快速海峡号の運転を取りやめ、「白鳥」・「スーパー白鳥」など全て特急化しました。
それでも1~2割程度増えただけなのでJR北海道としては相当赤字なんですよね。
しかも青函トンネルというのはJR北海道のものではなく、鉄建公団から借りています。
しかもタダで貸してくれるわけでもなく、1年間に4億円かかっています。
その他に坑道内で使われているタンクやポンプ等の様々な機械の補修費というのも3億~5億円かかってきます。
その補修費というのも毎年飛躍的に増えているようです。
今も動いてたら乗ってみたいですな
伊藤桃さんヘ。僕は青函連絡船ですか僕は子供の時に宇高連絡船と仁方堀江連絡船に乗りました。宇高連絡船は讃岐丸と阿波丸と伊予丸と土佐丸です。過去に紫雲丸は3回船同士で沈没しています。1回目は同稜船の鷲羽丸で3回目は第3宇高丸です。
船の科学館にあった羊蹄丸は見学したことがありましたけど
函館に行ったらぜひ摩周丸を見学したいと思います。
未踏の地北海道、行ってみたいなぁ🦀
青函連絡船からトンネルに変わるって小学生の時に習い、高校生頃に開通したのかな?
最近思うのは昔になればなるほど国内移動って一大イベントだったんだよなぁって思うの😮
今の当たり前と昔の当たり前が比較できたりするから勉強にもなるよね。
いやあ、行ってみたいな北海道!
青函連絡船、一度だけ乗りました。大阪から白鳥に乗って、青森に着いたら、東京から来るはつかりから降りた乗客が先に乗ってて、超満員。懐かしい思い出です😊
青函連絡船、最終運航前日の青森発の臨時夜行便(八甲田丸)に乗船しました。
海はウネリが酷く船酔いで下船😅
函館から最終便の羊蹄丸を見送りました。沢山の船、ヘリコプターが盛大に見送る姿に涙が・・・😢今でも瞼に焼き付いています。
引退後、まだ青函連絡船が見れて、触れられるのは素晴らしい事ですね🎵
札幌新幹線速達化の為 現青函トンネルを新幹線専用にする案を聴いた覚えがありますが
それに伴い 新青函トンネルか新青函連絡船の案が出てましたが その後 如何に?
国鉄時代、ロマンがありますね👍
青森のメモリアルシップ八甲田丸には行ったことがある(遠目)
館内をぐるぐると巡って色々と見たはずなんだけど
印象に残っているのは、津軽海峡冬景色のヘビーローテーション(笑)
桃ちゃん、おはようございます。 いい所に行きましたね。 地元の人じゃないと知らない所ですね、勉強になりました。
はじめ、ももちゃんの彼氏と一緒かと思いましたがお父さんと一緒に歩いてたんですね。
お父さん、優しそうな声ですね。
母が昔この青函連絡船に乗ったと聞いています。
ゆうづるで青森まで出て降りる前に洞爺丸事故の為か乗客名簿に記載して桟橋を渡って乗船したようです。
今は役目を終えて展示されていますが実際に行ってどんな状況かを聞きながら見学してみたくなりました。
伊籐桃🍑🍑🍑👍👍👍
石川さゆりさんの名曲、津軽海峡冬景色にある上野発の夜行列車も連絡船もなくなっただけに乗りたかったなー
上野から583系はつかりに乗って青森へ。そこから青函連絡船に乗って函館へ。
朝の7時に出発して函館に着く頃にはすっかり夜で、夜景が強烈な印象でした。
まだ、青函トンネルも東北新幹線も無かった頃の自分の修学旅行。これを言うと年がバレますが笑
でも自信持って言えますが、こんなステキな不便さはありませんでした😊
函館洞爺丸、私も見に行きました。流石に実際に就航していた青函連絡船は乗れずじまいだが(四国の宇高連絡船ならリアルで乗った)。
過去に函館洞爺丸を見た翌日に、青森の八甲田丸も見に行き、双方の相違点や類似点を楽しめました。
八甲田丸だと、船内の線路やエンジンルームも入れて、線路上には当時の北海道の特急車キハ82も見られます、残念ながらキハ82車内は入れませんが。
次は八甲田丸取材ですな。
国鉄時代に何度もお世話になったよ!蛍の光とドラの音が何とも云えない哀愁があるよね✨夜行便はあまり利用しなかったけど、夜行の時はグリーン指定か寝台だったね🍀レストランの海峡ラーメン?が美味しかったなぁ🍜函館・青森からの乗継時間は20分でしたね🛤️
青函連絡船懐かしいですね😊津軽海峡
冬景色の歌詞を思い浮かぶなあ〜😊
私が青森駅周辺で、真っ先に思い付くのが、日本を代表する作詞家の阿久悠さん作詞で、こちらも代表的な作曲家の三木たかしさん作曲、代表的な演歌歌手の、石川さゆりさんが歌われる「津軽海峡冬景色」の歌詞の碑です。その昔、東京の北の玄関口であった上野駅の行止り式の、地平ホームから鉄路が北へ向け遥かに続き、その鉄路が終点青森駅の北寄りで、集まる様に津軽海峡手前で行き止まる様は、本当に感慨深くロマンを感じますね。数々の夜行列車が、当時の上野駅地平ホームから出発していた時代の真盛りに誕生したこの曲は、男女の別れを描く曲で、愛する人と離れ離れになる、切ない女心を描いた歌です。
この歌でも歌われておりますが、「北へ帰る人の群れは誰も無口で♪」は、紛れもなく青森駅から青函連絡船に乗り換える情景を切り取った部分です。
そんな青函連絡船が洞爺丸で、当時から国鉄が運営しておりました。
様々な痛ましい歴史的な背景が有り、青函トンネルが開通しますが、洞爺丸にも私は、歴史を馳せる思いが有ります。
改めて、この動画でロマンを感じました。本当にありがとうございます。
伊藤桃さんも、是非とも厳冬の青森駅を訪れて下さいませ。また格別な思いを体験出来ますよ。
青函連絡船が廃止になって2023年で35年。実際に乗船したのは中学校の修学旅行の時だけなんだけども、現在はこんな形で残っている。私も毎年夏にマラソン参加のために函館には訪れているけども、なかなか中に入る機会が少ないです。何年か前に一度もお邪魔したことはありますが・・・。毎日正午と夕方の5時の2回汽笛が鳴るのは何だかファンサービスみたい。
僕は、函館産まれで、函館離れて20年以上経ちますが、今は愛知県に住んで居て、名古屋には、観測船ふじしか
展示してないので、連絡船も展示してあれば、函館を感じられるのですが😌
懐かしいと🎉
ありがとうございます😊
桃さんの地元ネタいいですね。ぜひ、こんど千葉県の金谷から神奈川県の久里浜までを結ぶ東京湾フェリーも乗ってみてください!!
宇高連絡船の看板で食べる讃岐うどんが美味しいです。高松発は美味しいです。宇野発は水臭いです。
青函トンネルが開通する前まで、北海道へ渡るには飛行機か青函連絡船しか無かったんですよね。そして函館に降り立って、北島三郎の歌を歌うと(笑)
道産子なので連絡船は何度か乗りました。懐かしいです
洞爺丸台風が来た夜、北海道岩内町を見下ろす高台に住んでいた娘時代の母は、眼下の街一帯が赤々と染まるのを見たと言ってました。この岩内大火は水上勉の「飢餓海峡」の冒頭の題材になっています。
私は関東在住ですが、子供の頃の帰省の定番は、ゆうづる、連絡船、ニセコ3号でした。動画を見て、駅のホームから桟橋までの長い通路を必死に走ったことをふと思い出し、なつかしいです。当時は多くの利用客がいました。
桃ちゃん😊はじめまして🎵船長さん良く似合ってる❤️
青函連絡船、小中学校の修学旅行でお世話になりましたね。そして、実は青函連絡船は青函トンネル開通後、青函博のイベントに応じ臨時運行されていました。その時連絡船で函館に渡りはつかりに乗って青森へ戻って連絡船を出迎えるという事が出来ました。もちろん切符も買えたのです。
摩周丸、充実した歴史資料館なんですね。むかし青森に行ったとき、十和田丸の姿を見たのを思い出しました。津軽海峡冬景色の曲の頃は青函連絡船、運行されていたんですよね。
私も小学校(若葉小学校)の修学旅行は函館でした。
初めての団体旅行楽しかったなぁ
ちなみに中学校(野中)のときの修学旅行は東京、まだ新幹線も東北自動車道もない時代、特急「はつかり」で楽しく行きました。
懐かしい。
今日も可愛い桃姫なのであります😌
懐かしいですね。摩周丸も羊蹄丸も乗船しました。海風が気持ち良かったです。急行の八甲田も乗車しました。連絡船の職員の皆さんが国鉄職員であることも楽しく感じました。
桃さんはじめましてです。青函連絡船懐かしい思い出がたくさんあり、まだ特急白鳥に食堂車が連結されていた頃に敦賀から青森、さらに青函連絡船に乗船し、函館から札幌まで山線経由の急行ニセコ1号で小樽まで行きました。なぜなら当時、北海道ワイド周遊券は、急行自由席が、乗り放題だったためです。またべつの年には大阪から青森まで急行きたぐにの普通車自由席に乗り、青函連絡船で函館から札幌まで急行すずらん6号という夜行列車にこれまた普通車自由席に揺られて行ったこともあります。札幌についたときはさすがに腰が痛くなった記憶があります。青函連絡船では、道内の特急券等を発売していて、それらは硬券でした。
物心がつく前から乗っていた。
石炭船の末期から最終便の八甲田丸まで数数え切れない…
でも、改造客貨船だった石狩丸と檜山丸に乗る事ができなかったのが心のこりですね!
可愛です
この摩周丸 現役の時に乗りました🚢💨 めっちゃ懐かしい✨
青函連絡船には興味なかったのですが、なかなかいいですね。行きたくなってきました。
僕小さい頃、じいちゃんが青函連絡船の乗務員で、ただで乗せて貰ってたんだ😌摩周丸も八甲田丸も歴代の連絡船
乗ったんだ😌まだ展示してあるのが、なんか懐かしくて嬉しいな😌
懐かしい…自分が唯一乗船できたのが40年近く前、普通座席でゴロゴロしてた記憶です。連絡船が廃止になった後、期間限定でホテル(ゴロ寝だったりイス寝だったりですが。笑)として営業してた時にも乗ったな…😌
500円でこれだけ楽しめるのはすごい!いい場所!…桃ちゃんもすごく楽しそうな様子、いい動画でした♪✨
函館の回転寿司で食べたニシンの刺身が美味しかった。またそこのホッケも美味しかったので翌朝にお土産に買って大阪に戻ったことがあったな。
青森の八甲田丸の方は行ったことあるんですが、摩周丸は行ったことなかったので動画で見ることができて有難いです。
8月に行ったときには、最終日に行ったよ。(3日目)1954・0926の洞爺丸台風の記事は、道内紙だけにもとどわらず、東京の全国紙の新聞記事にもあったよ。しかも今は無き東京タイムスからの記事もあったよ。映画飢餓海峡の題材にもなったよ。20231015・2127
函館のオススメはやっぱり、函館山からの夜景だけど、実は東山と言う、函館山と反対から観れる裏夜景も綺麗なんだ😌
船が数えきれないくらいあって凄いです‼
青函連絡船は子供頃に行った船の科学館に羊蹄丸が昔は置いてありましたね。今は解体されて残念な事に船の科学館も閉業中です。戦争中の連絡船🚢は本当に残念な船でしかないです。攻撃くるとわかっても行かないといけないのは😢
羊蹄丸は、解体となって残念ですね。車輛甲板に入っていた車輛は、保存されています。🚂
八甲田丸は見学したことあるけど摩周丸、函館に行く機会あったら見てみたいな。
青函連絡船、幼少期に2往復乗ったことあります!
ほとんど記憶が残っていないのですが・・でも、船内売店でミニカーを親に買ってもらった記憶だけは残っています。
桃さん、こんばんは😃🌃
お疲れ様です👍
連絡船に乗るのは珍しいですね😲
青函トンネル開通から今年で35周年も経つのですね👀‼️
国鉄運賃がまだ安かった頃は『青函連絡船』で渡道されるお客さんも多かったです。
というか 北海道−本州とのメインルートでした。
確かに1年だけ『JR』でしたね。
『蛍の光』は出港時の音楽で 因みに古関裕而先生の編曲です。
車両甲板は非公開なんですね。
座席は 普通・グリーン🍀共に 鉄道車両用とよく似ていますが 足元が広い分座り心地は快適そう。
キャプテンの制服・制帽姿 お似合いでしたよ。
ところで 昔の国鉄といえば 東映さんのチャンネルで 20系『寝台特急 さくら🌸』が舞台の映画『大いなる驀進』が 28日迄配信中です。
まだでしたら 是非ご視聴お勧めします。
行ったこと無いけど良い所ですね。
レトロ感もあるし新しさもあるような😊
貴重な遺産は、大事保存し続けて欲しいですね!
青函連絡船か~懐かしいJNR
今も記念館として保存されているのは引退後の活用の仕方としては面白いですね。
是非乗ってみたいです‼
青森にも保存されていたと思うので、いかに函館でも青森でも愛されていたかが良く分かる
津軽海峡線のフェリーの事を歴史が勉強できていいなぁ。◕‿◕。
なんどもお世話になった青函連絡船、懐かしいです。終航後、青函博に連動した臨時復活運航にも乗りに行き、夜間停泊のシップホテルにも宿泊しました。\(^o^)/ 桃ちゃんにも体験して欲しかったなあ§^o^§
かわいぃ❤〜
函館 楽しんでいただけましたぁ?
イルカは 連絡船の鼻先 横を一緒に泳いでましたよ
漁火鉄道の観光列車 初めて知った 函館人です
渡島当別の海水浴で小さいころ国鉄 汽車で行った記憶が
今は江差 松前はドライブコースで 木古内は休憩場所です
(≧∇≦)b❤いい声!
1🍙コメ。🎉