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この動画が正解なら、、、三成が大谷を誘ったみたいになっているが逆だったんだな
子孫は津軽家に仕えた事は有名です。
蟄居してたのに本当に西軍大将びなったのか?
三成の子孫がお咎めなしになるのも頷ける
石田三成の新たなイメージはめっちゃく好き
三成の曾孫に当たる自証院が家康の孫である3代将軍・家光の側室になっているの因縁深くて好き。
石田家は近江京極氏配下の傘下に組していました。京極氏暴落時に浅井家の傘下に入り、浅井家とは仇敵の立場でした。従って三成は淀君と親しかったのは疑問です。三成と北政所(寧々)は親しく、三成三女を北政所の養女にしています。三成=淀君は徳川政権になってから定説の様になっています。私は戦国時代の武将では石田三成が好きです。立直で正義感の強い方だと思っています。石田三成の鉄砲隊は家康も一目置いていました。
0:33: 👨🏫 石田三成は豊臣秀吉や徳川家康と関わりながら、実直な人物として活躍したが、関ヶ原の戦い後に悪者扱いされた。4:29: 🌊 1586年5月に影勝が上陸し、家康も半年後に上陸した際に、三成は九州抜や西国政策に関わるようになった。8:59: 📝 伊政宗が米沢から出山に違法となった際にはかつて取り次ぎを務めた足を滅ぼされた因縁があったものの職務遂行を第一に政宗に対し人員提供を申し出るなど実直に仕事に取り組んでいます14:28: 📜 豊臣秀吉の死後、徳川家康を筆頭とする五大老を中心に関ヶ原の戦いが起こり、三成は正軍首脳に仕立て上げられることとなる。17:32: ⚔ 三成は家康の資源を使いながらも協力関係を築き、西軍の主力として動いていた。Tammy AIで要約できました!ご参考になれば幸いです。
現在も三成の次男の家系に当たるご子孫が青森県内にお住まいである事に感涙
三成の頭蓋骨から復元した顔が子孫とそっくりでした。
教科書の三成は悪人で歴史好きの三成は善人のイメージ
侍の鑑ですよ、この人こそ高貴なる敗北に描かれるべきです
妖怪ウォッチで初めて三成に興味出てネットで調べる→武断派など敵が多くて横柄な奴で友の吉継に言われるくらい人望がないやつだとか言われててえーってなった記憶が
@@獅子原鱗 ですです。武士のかがみ
こうした三成の立場からみた公正な主張。貴重。
彦根駅の彦根城側は井伊直政、近江鉄道側(佐和山側)は石田三成という感じです。
見方によってだいぶ印象や事実が変わりますね。それが歴史なんでしょうね。
俳優詳しくないのですが三成演じてる中村さんって他のドラマとかにも結構出てきてる人なんですか?
当時の状況的に完全に家康派だった事は確かですね家康が息子を大阪城に出仕させた優しさが仇になって息子が西軍の人質になりかつ周りを西軍に囲まれたから仕方なくってとこでしょうか少なくとも、書状を見る限り毛利小西大谷辺りが主要メンバーで三成の名前は無いので後から参加したとみていいかと息子が家康のとこにいたら京極みたいに家康が息子に家を継がせてくれると奮起して東軍についたかも知れませんが家康もその事は大体察していたみたいですが、家族を巻き込まずに本人だけ処断も三成と東軍主力との仲の悪さを踏まえてかつ三成に最大限配慮した家康なりの苦渋の判断かも知れませんただ、豊臣の為に奮戦した義将みたいにいいイメージになってる面もあるのでそこは小西行長がそれは三成より俺だろと羨ましがってるかも
三成や小西行長に全て押し付けた毛利輝元も中々の梟雄ですね。
星のことを語りあってたのもあながち間違いじゃないのか
これは、三成像を書き換える大きな解説ですね!朝鮮出兵も自らの意志ではなくただ主君の命により忠実に行っただけなのに他武将からは憎まれ、最後はこの戦の尻拭いをさせられていますね。前田利家死後の七将襲撃事件により蟄居となり、その後は家康と交流し協力関係にあったというのも、初耳でした。そして、何より関ヶ原の戦いでは主導ではなく加担した側であり、彼自身の政治舞台への復帰を賭けていたとは、驚きました!!江戸時代以降、一方的に悪役とされ西軍の総大将に祭り上げられたという経緯、歴史の捏造の怖さを感じます。そうであればこそ、家康の三成遺族に対する寛大な処置も、頷けます。最新研究により、事物の発見だけでなく、人物の立場や行動の真意が解明されるのは、驚嘆と共に興奮もします。
じぶのしょうでは?
石田三成は善で、徳川家康は乗っ取り犯で対立したと思います。ただ石田三成は禄高で徳川家康に敵うはずがなく、せめて禄高が百万石くらい保有していれば関ヶ原戦一日で負けることはなかったと思います、残念ですが
この説が真実だとすると長束や増田の不実を詰る書状の存在も頷けますな。無理やり協力させといておまえらがサボるのはなんなんだよ!ってなるじゃん。
戦国時代だ!甘いよ!と言われるかもしれないが、家康公は三成を処刑する時は断腸の御判断だったろうな。だって三成はあの信康公と同じ位の年齢でしょ?
実際に戦った石田三成らを戦犯として処刑し、他の参加した大名は従っていただけなので減俸処分というのが落としどころだったのでしょうね。家康にしてみれば「なんでそっち側についたのよ?大人しくしていればどうにでもしてやれたのに」と言いたかったかもしれません。大名として返り咲くというのは、それほど当時の人にとっては重いものだったのでしょう。
三成はイケメンだったと言われるが、実際にはひょっとこみたいな顔。子孫はそっくり
これが真実なら、石田三成と大谷吉継の関係も別の意味が見えてくる。新たな歴史の1ページに感謝します。
吉継は元々東軍加担でしたね一説には家康から「三成を頼む」と言われたとか三成は戦下手だったのでサポートとして吉継を付けたとか
@@もふもふ-x4p そんな説もありましたね。あの布陣で、毛利家か、まともに戦えば、時代は変わっていた。無念の死を遂げた、石田三成、大谷吉継。家康に、恩義を感じ裏切った後、非業の死をむかえた小早川秀秋。総大将でありながら、戦わなかった毛利一族。そんな、毛利一族のいた長州藩が倒幕をするのは、誰もわかりませんよね。だから、面白い。
こんばんは。
家康は関ヶ原の戦いで敗れて捕縛された三成に面会した際、「このように戦に敗れることは、古今よくあることで少しも恥ではない」といった。三成が「天運によってこのようになったのだ。早々に首を刎ねよ」と応えると家康も「三成はさすがに大将の器量である。平宗盛などとは大いに異なる」と嘆じた。家康と三成は目指すものは同じだったが考え方の違いなどで対立しこのような結果になったと思う。
秀吉の命令を良い意味で改竄しても赦される実情把握能力秀吉の悪行の大半を身に受けて本望だと思える節のある高潔さ濡れ衣でも「大将」として名を遺す治部殿が好き。
まさに侍の鑑です
秀吉の晩年の悪政を全て背負わされた形ですね。
朝鮮の役や秀吉への不満を一身に受けて江戸時代に残った家からスケープゴートにされやすかったんでしょうね権力を持ちすぎると不興を買うのは江戸幕府初期の大久保や本多でも見られるため致し方ない立場だったように思います
役では関ヶ原の福島・池田みたいに俺が俺がみたいな手柄優先の武将がたくさんいたんだろうね。やりにくかっただろうな。三成。
色々と主君と諸大名の取次もやってるが、やりっぱなしではなく、NGワードや好みとかも丁寧に教えてあげていたんだろうなあ。
主犯は増田長盛だの〜、三成は防衛庁の次官だが、増田長盛は財津省の次官だの〜。浅野長政はカミソリ後藤田と同じで官房副長官だの〜。田中角栄は藤吉郎だの〜、堺屋太一は竹中半兵衛かの〜、黒田官兵衛かの〜。
どうする家康では三成は秀吉が間違っていた時は三成が止めると家康に言っていましたが、三成、秀吉に蹴り飛ばされていましたし、なんか役に立たないですね。朝鮮攻めの状況が上手く行っていない事を正直に秀吉に報告するべきなのに嘘の報告して家臣にら秀吉、前田利家、家康、家臣達の前で朝鮮攻めが上手く行っていない事を報告するべきです。
家康フリークですが三成は好きです。間違えたことはなく意識が豊臣だっただけ。 一番クズのなーお前と仲が良かったことが命取り。😊😊
三成は大垣に籠城すべきだった 野戦に持ち込んだのが間違い 籠城すれば長期戦になり 少なくとも裏切りによる壊滅は免れていた 籠城で粘れば毛利本軍も援軍に来着し 吉川 小早川も寝返らなかったと思う そうなったら西軍勝利も不可能ではなかった 小早川は豊臣秀秋になり関白になって豊臣政権は続いたと思う
🎉
会津遠征軍に淀殿が当初送った書状は「石田・大谷が謀反したから大坂に戻って鎮圧せよ」ですからね。家康側はこれを大義名分にして押し通してます。なお、戦勝後の家康が大坂城に居座る選択肢もあったのに、淀殿に任せた形で引き払っていることから、家康と淀殿も当初は信頼関係があったんじゃないですかね。
確かに開戦前夜の弾劾文に奉行を降りていた三成の名前はなかったらしいし、単に毛利のスケープゴートにされた可能性も高いのかも。ただ、浅野長政は東軍に属してるので、政変起こした側とは別じゃないでしょうか。
今日丁度これをみる前に、とり溜めていた『歴史探偵』の関ヶ原情報戦を見ました❗関ヶ原の戦いの前に家康などがかわした書状の分析など色々面白かったです!三成の書状は西軍の大将とするなら少なかった。毛利氏が大将だよね!と思いました❗皆を関ヶ原に集めてる間に、四国や九州乗っ取ろうとしてたよ❗毛利氏にもがぜん興味がわいてきました🎵 三成のことがよくわかる動画でした❗ありがとうございます!
全部官兵衛のお陰戦が下手な三成
真田丸に出てた石田三成役の人、めちゃくちゃマッチョだったよね。豊臣政権の官僚なんて言われる人があの体格って、違和感しかなかったなあ。
えっ、西軍総大将じゃなかったの?
西軍総大将は毛利輝元西軍総帥が宇喜多秀家三成は毛利が出てこないから仕方なく指揮官になっただけです
現政府は毛利あたりから出てるから、三成が悪者になってもしゃーない
「三成は凡将なり。」西軍に従ったのもなぜ?七将襲撃事件もなぜ?防げるものを防げない無能でしかないかなぁ。多方面にいい顔をして、実力がない人間を贔屓にしたから、本当に実力がある人間から敵対される。三成は、どう考えても「力の論理」がわかっていたとは思えない。組織内でコミュニケーションでそこそこの立場を築けるが、「じゃぁお前やってみろよ」ってやらされるとできないイメージ。毛利輝元は基本的に使えないカード。戦国時代あるあるだが、「みんなで戦おう!」といったって部下が言うこと聞かない、同盟軍が言うこと聞かないのはよくあること、それを見抜けず敵とぶつかるところへノコノコやってくる時点でヤバイ。まぁ・・・無能の匂いがかなりする。^^;
輝元は、関ヶ原の役が長期戦になると思ってたから四国、九州に兵を送り込んで国力の増強を図ろうとしてたからちゃっかりしてる。これは兵を分散させた愚策となってしまいましたが…。後は積極的に動かずに岐阜城陥落で戦意喪失、自分は無関係と勝手に講話して大減封だから無能といえば無能
この動画が正解なら、、、三成が大谷を誘ったみたいになっているが逆だったんだな
子孫は津軽家に仕えた事は有名です。
蟄居してたのに本当に西軍大将びなったのか?
三成の子孫がお咎めなしになるのも頷ける
石田三成の新たなイメージはめっちゃく好き
三成の曾孫に当たる自証院が家康の孫である3代将軍・家光の側室になっているの因縁深くて好き。
石田家は近江京極氏配下の傘下に組していました。京極氏暴落時に浅井家の傘下に入り、浅井家とは仇敵の立場でした。従って三成は淀君と親しかったのは疑問です。三成と北政所(寧々)は親しく、三成三女を北政所の養女にしています。三成=淀君は徳川政権になってから定説の様になっています。
私は戦国時代の武将では石田三成が好きです。立直で正義感の強い方だと思っています。石田三成の鉄砲隊は家康も一目置いていました。
0:33: 👨🏫 石田三成は豊臣秀吉や徳川家康と関わりながら、実直な人物として活躍したが、関ヶ原の戦い後に悪者扱いされた。
4:29: 🌊 1586年5月に影勝が上陸し、家康も半年後に上陸した際に、三成は九州抜や西国政策に関わるようになった。
8:59: 📝 伊政宗が米沢から出山に違法となった際にはかつて取り次ぎを務めた足を滅ぼされた因縁があったものの職務遂行を第一に政宗に対し人員提供を申し出るなど実直に仕事に取り組んでいます
14:28: 📜 豊臣秀吉の死後、徳川家康を筆頭とする五大老を中心に関ヶ原の戦いが起こり、三成は正軍首脳に仕立て上げられることとなる。
17:32: ⚔ 三成は家康の資源を使いながらも協力関係を築き、西軍の主力として動いていた。
Tammy AIで要約できました!ご参考になれば幸いです。
現在も三成の次男の家系に当たるご子孫が青森県内にお住まいである事に感涙
三成の頭蓋骨から復元した顔が子孫とそっくりでした。
教科書の三成は悪人で歴史好きの三成は善人のイメージ
侍の鑑ですよ、この人こそ高貴なる敗北に描かれるべきです
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こうした三成の立場からみた公正な主張。貴重。
彦根駅の彦根城側は井伊直政、近江鉄道側(佐和山側)は石田三成という感じです。
見方によってだいぶ印象や事実が変わりますね。それが歴史なんでしょうね。
俳優詳しくないのですが三成演じてる中村さんって他のドラマとかにも結構出てきてる人なんですか?
当時の状況的に完全に家康派だった事は確かですね
家康が息子を大阪城に出仕させた優しさが仇になって息子が西軍の人質になりかつ周りを西軍に囲まれたから仕方なくってとこでしょうか
少なくとも、書状を見る限り毛利小西大谷辺りが主要メンバーで三成の名前は無いので後から参加したとみていいかと
息子が家康のとこにいたら京極みたいに家康が息子に家を継がせてくれると奮起して東軍についたかも知れませんが
家康もその事は大体察していたみたいですが、家族を巻き込まずに本人だけ処断も三成と東軍主力との仲の悪さを踏まえてかつ三成に最大限配慮した家康なりの苦渋の判断かも知れません
ただ、豊臣の為に奮戦した義将みたいにいいイメージになってる面もあるのでそこは小西行長がそれは三成より俺だろと羨ましがってるかも
三成や小西行長に全て押し付けた毛利輝元も中々の梟雄ですね。
星のことを語りあってたのもあながち間違いじゃないのか
これは、三成像を書き換える大きな解説ですね!朝鮮出兵も自らの意志ではなくただ主君の命により忠実に行っただけなのに他武将からは憎まれ、最後はこの戦の尻拭いをさせられていますね。前田利家死後の七将襲撃事件により蟄居となり、その後は家康と交流し協力関係にあったというのも、初耳でした。
そして、何より関ヶ原の戦いでは主導ではなく加担した側であり、彼自身の政治舞台への復帰を賭けていたとは、驚きました!!江戸時代以降、一方的に悪役とされ西軍の総大将に祭り上げられたという経緯、歴史の捏造の怖さを感じます。そうであればこそ、家康の三成遺族に対する寛大な処置も、頷けます。最新研究により、事物の発見だけでなく、人物の立場や行動の真意が解明されるのは、驚嘆と共に興奮もします。
じぶのしょうでは?
石田三成は善で、徳川家康は乗っ取り犯で対立したと思います。ただ石田三成は禄高で徳川家康に敵うはずがなく、せめて禄高が百万石くらい保有していれば関ヶ原戦一日で負けることはなかったと思います、残念ですが
この説が真実だとすると長束や増田の不実を詰る書状の存在も頷けますな。
無理やり協力させといておまえらがサボるのはなんなんだよ!ってなるじゃん。
戦国時代だ!甘いよ!と言われるかもしれないが、家康公は三成を処刑する時は断腸の御判断だったろうな。だって三成はあの信康公と同じ位の年齢でしょ?
実際に戦った石田三成らを戦犯として処刑し、他の参加した大名は従っていただけなので減俸処分というのが落としどころだったのでしょうね。
家康にしてみれば「なんでそっち側についたのよ?大人しくしていればどうにでもしてやれたのに」と言いたかったかもしれません。
大名として返り咲くというのは、それほど当時の人にとっては重いものだったのでしょう。
三成はイケメンだったと言われるが、実際にはひょっとこみたいな顔。
子孫はそっくり
これが真実なら、石田三成と大谷吉継の関係も別の意味が見えてくる。
新たな歴史の1ページに感謝します。
吉継は元々東軍加担でしたね
一説には家康から「三成を頼む」と言われたとか
三成は戦下手だったのでサポートとして吉継を付けたとか
@@もふもふ-x4p
そんな説もありましたね。
あの布陣で、毛利家か、まともに戦えば、時代は変わっていた。
無念の死を遂げた、石田三成、大谷吉継。
家康に、恩義を感じ裏切った後、非業の死をむかえた小早川秀秋。
総大将でありながら、戦わなかった毛利一族。
そんな、毛利一族のいた長州藩が倒幕をするのは、誰もわかりませんよね。
だから、面白い。
こんばんは。
家康は関ヶ原の戦いで敗れて捕縛された三成に面会した際、「このように戦に敗れることは、古今よくあることで少しも恥ではない」といった。三成が「天運によってこのようになったのだ。早々に首を刎ねよ」と応えると家康も「三成はさすがに大将の器量である。平宗盛などとは大いに異なる」と嘆じた。家康と三成は目指すものは同じだったが考え方の違いなどで対立しこのような結果になったと思う。
秀吉の命令を良い意味で改竄しても赦される実情把握能力
秀吉の悪行の大半を身に受けて本望だと思える節のある高潔さ
濡れ衣でも「大将」として名を遺す治部殿が好き。
まさに侍の鑑です
秀吉の晩年の悪政を全て背負わされた形ですね。
朝鮮の役や秀吉への不満を一身に受けて江戸時代に残った家からスケープゴートにされやすかったんでしょうね
権力を持ちすぎると不興を買うのは江戸幕府初期の大久保や本多でも見られるため致し方ない立場だったように思います
役では関ヶ原の福島・池田みたいに俺が俺がみたいな手柄優先の武将がたくさんいたんだろうね。
やりにくかっただろうな。三成。
色々と主君と諸大名の取次もやってるが、やりっぱなしではなく、NGワードや好みとかも丁寧に教えてあげていたんだろうなあ。
主犯は増田長盛だの〜、三成は防衛庁の次官だが、増田長盛は財津省の次官だの〜。浅野長政はカミソリ後藤田と同じで官房副長官だの〜。田中角栄は藤吉郎だの〜、堺屋太一は竹中半兵衛かの〜、黒田官兵衛かの〜。
どうする家康では三成は秀吉が間違っていた時は三成が止めると家康に言っていましたが、三成、秀吉に蹴り飛ばされていましたし、なんか役に立たないですね。朝鮮攻めの状況が上手く行っていない事を正直に秀吉に報告するべきなのに嘘の報告して家臣にら秀吉、前田利家、家康、家臣達の前で朝鮮攻めが上手く行っていない事を報告するべきです。
家康フリークですが三成は好きです。間違えたことはなく意識が豊臣だっただけ。 一番クズのなーお前と仲が良かったことが命取り。😊😊
三成は大垣に籠城すべきだった 野戦に持ち込んだのが間違い 籠城すれば長期戦になり 少なくとも裏切りによる壊滅は免れていた 籠城で粘れば毛利本軍も援軍に来着し 吉川 小早川も寝返らなかったと思う そうなったら西軍勝利も不可能ではなかった 小早川は豊臣秀秋になり関白になって豊臣政権は続いたと思う
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会津遠征軍に淀殿が当初送った書状は「石田・大谷が謀反したから大坂に戻って鎮圧せよ」ですからね。
家康側はこれを大義名分にして押し通してます。
なお、戦勝後の家康が大坂城に居座る選択肢もあったのに、淀殿に任せた形で引き払っていることから、家康と淀殿も当初は信頼関係があったんじゃないですかね。
確かに開戦前夜の弾劾文に奉行を降りていた三成の名前はなかったらしいし、単に毛利のスケープゴートにされた可能性も高いのかも。
ただ、浅野長政は東軍に属してるので、政変起こした側とは別じゃないでしょうか。
今日丁度これをみる前に、とり溜めていた『歴史探偵』の関ヶ原情報戦を見ました❗関ヶ原の戦いの前に家康などがかわした書状の分析など色々面白かったです!三成の書状は西軍の大将とするなら少なかった。毛利氏が大将だよね!と思いました❗皆を関ヶ原に集めてる間に、四国や九州乗っ取ろうとしてたよ❗毛利氏にもがぜん興味がわいてきました🎵
三成のことがよくわかる動画でした❗ありがとうございます!
全部官兵衛のお陰
戦が下手な三成
真田丸に出てた石田三成役の人、めちゃくちゃマッチョだったよね。
豊臣政権の官僚なんて言われる人があの体格って、違和感しかなかったなあ。
えっ、西軍総大将じゃなかったの?
西軍総大将は毛利輝元
西軍総帥が宇喜多秀家
三成は毛利が出てこないから仕方なく指揮官になっただけです
現政府は毛利あたりから出てるから、三成が悪者になってもしゃーない
「三成は凡将なり。」
西軍に従ったのもなぜ?七将襲撃事件もなぜ?防げるものを防げない無能でしかないかなぁ。
多方面にいい顔をして、実力がない人間を贔屓にしたから、本当に実力がある人間から敵対される。
三成は、どう考えても「力の論理」がわかっていたとは思えない。組織内でコミュニケーションでそこそこの立場を築けるが、「じゃぁお前やってみろよ」ってやらされるとできないイメージ。
毛利輝元は基本的に使えないカード。戦国時代あるあるだが、「みんなで戦おう!」といったって部下が言うこと聞かない、同盟軍が言うこと聞かないのはよくあること、それを見抜けず敵とぶつかるところへノコノコやってくる時点でヤバイ。
まぁ・・・無能の匂いがかなりする。^^;
輝元は、関ヶ原の役が長期戦になると思ってたから四国、九州に兵を送り込んで国力の増強を図ろうとしてたからちゃっかりしてる。これは兵を分散させた愚策となってしまいましたが…。後は積極的に動かずに岐阜城陥落で戦意喪失、自分は無関係と勝手に講話して大減封だから無能といえば無能