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稲荷山古墳と雄略天皇の関係は矛盾していません。 鉄剣の銘文とも矛盾していません。
コメントありがとうございます。そう考えるのが定説なのは承知しておりますが。
稲荷山古墳から出土した銘文鉄剣にあるオオビコ即ち大毘古は命第代孝元天皇の皇子であり、弟の武埴夜須毘古命が起こした反乱を治めた立役者です。 又、第10代崇神天皇の御代に四道将軍の一人として東国に派遣されました。 従って、銘文鉄剣の持ち主は彼の末裔です。
コメントありがとうございます。他人に授ける鉄剣に自身の系譜を延々と記すことはないでしょうから、鉄剣の持ち主は大彦命の子孫の乎獲居臣と考えてよいと思います。
反逆者でもあり、中央政権に無断で勝手に設けた岩戸山古墳の"造出し"に対して尊厳を感じたり精神性を真似たいなどと思うでしょうか? 造出しの石像が破壊されていることからも、大和軍の「こんなものけしからん!」という気持ちが伝わってきます。
コメントありがとうございます。おっしゃることにも一理ある思います。別区の石像が破壊されたのは、そこに再現された光景が継体天皇にとって都合の悪い(例えば屈辱的と思えるような)ものだった可能性や、磐井に逃げのびられてしまった(風土記逸文)腹いせだった可能性もあるのではと思っています。
稲荷山古墳って、県の史跡だった丸墓山に比べると、見向きもされない古墳でしたね
コメントありがとうございます。2019年に聴いた講演会では、「1938年に国の指定遺跡となり、1968年に稲荷山古墳の発掘調査が実施され、1978年に鉄剣銘文が発見された」そうです。まあ、鉄剣銘文が発見されるまではそれほど注目される古墳ではなかったようですね。引き続きよろしくお願いします。
今回もよいお話でした。 前方後円墳の形には不思議なことがいくつかあります。例1:「中堤造出し」は古墳とは直結していませんが、先の動画で「円墳」+「台」の様式のものがありました。 発展形の1つとしてこの「台」が独立したとか。例2:「中堤造出し」が左側(右側?円形を後ろからみると右側)にある規則性はあるものの、どこかしら「後円部」よりにある・かといって「前方部」との境界に収まっているようではない・という「奇形」例3:「後円部」と「前方部」の「前方部」よりに1(片側)~2(両側)に、例1で挙げた「台」の発展形のような「奇妙」な「突起部」がある・ものものもある。という対象的不自然さがみえます。 これらの部分は何の用途だったのでしょう?「?」さきたま古墳群の中に、「円墳」がいくつか混じっている・前後関係等。また、今回触れておりませんが「江田船山古墳」出土の所謂「ワカタケル」記銘剣との関連有無があります。 どこかで2つが、ず~っと交錯していました。
コメントありがとうございます。造出しの流れは、(1)墳丘上で行っていた祭祀が、墳丘の拡大により、(2)墳丘裾に設けた造出しに移り、さらなる進化により(3)中堤造出しの設置に至ったということになるでしょうか。さきたま古墳群に、最近まで日本最大の円墳とされていた丸墓山古墳がありますが、この巨大円墳は謎です。
確かにおっしゃる通り私もオワケ臣の副葬品は新しい時代のものと感じています。 稲荷山古墳のシルエットも再現されたものとはいえ、なんとなく今城塚古墳に近いようにも見えます。 しかし5世紀後半と判断しても良いと思える副葬品や埴輪のハケ目の痕跡も存在するのも事実であり私も迷っている所です。…やはり、古墳築造時期よりもだいぶ後の追葬であったと考えるのが無難なのでしょうか、 鉄剣に刻まれた系譜はオワケ臣の生きた時代から逆算してオオヒコの時代も推定できるものと考えていますが、辛亥を531年とすると、これらの系譜はやや間延びしている様にも見えます 現実のオオヒコが欠史八代からの分家であるというのも後付けの可能性もありますのでここも迷っている所です。継体天皇の時代の磐井の鎮圧も個人的には不可解に思っていまして、中堤造だしの相似はむしろ継体天皇と磐井の関係が良好であった証なのではと思っています。もちろん日本書紀の記述とは矛盾してしまうのですが… 稲荷山古墳に関して、この様な深い考察の動画は見たことがなくとても楽しく想像の世界を広げさせてもらいました、ありがとうございます。
コメントありがとうございます。オオヒコとの関連ですが、オオヒコの誕生年を260年と仮定すると、一世代20年でヲワケ臣誕生年は400年、25年で435年、30年で470年となります。書かれた系譜が長子相続でなければ、30年ぐらいまで想定できるのではないかと思っています。そのうえで、銘文の「(世々)代々」を、「一族が代々、王に仕えた」と読むのではなく、「ヲワケが代々の王に仕えた」と読むと、鉄剣製造時点でかなりの年齢に達していたと考えることができます。そういうことで、531年説も可能性ありかなと思っています。引き続きよろしくお願いします。
明確な年代観での解説ありがとうございます、オオヒコ生誕年が西暦260年で末子相続中心の間30年平均での系譜というお立場なのですね、 私自身は長子相続中心と決めつけていたのでどちらかというとオオヒコの誕生年とオワケ臣の寿命で調整する様な想像をしていました。 若干動画の趣旨から外れますが、崇神でのオオヒコの活動年代は復元紀年で明確になっていたりするのでしょうか? 既に発表済みでしたら申し訳ございません。
@@takeshi492 ご返信ありがとうございます。(崇神天皇紀の復元紀年については、神武天皇紀との関連も考えないといけませんので、数年のズレはあるかもしれませんが)四道将軍の遠征については、312年・313年あたりと推定しています。私は長子相続と考えているわけではなく、たとえばですが、ヲワケの一族が天皇の親衛隊を務める一族だとすると、杖刀人の首(隊長)は必ずしも銘文に記された7名だったわけではなく、兄弟の中でも引き継がれていったと思います。そして、最も長く生きて天皇に仕えた者の子どもが受け継いでいったとすると、一世代はかなり長くなるのではないかと思うのです(妄想でしかありませんが)。よろしくお願いします。
銘文 鉄剣 後1本は半島にあると思う
コメントありがとうございます。どこからでもよいのですが、類似の鉄剣が何本も出土すれば、真実に近づけると思います。引き続きよろしくお願いします。
おはようございます。① 「古墳の界隈005」を探しましたみつかりませんでした。 まだ未制作なのですか?② 「~界隈」他に挑発され、書籍をnKg仕入れました。 次の初夏まで楽しめそうです。 といいますのも、歴史関係YT動画に「秋田」というところが本音です。 どこかで観たようなものと酷似していたり、これといった「私説」でもよいのですが、「裏付け‐論拠‐」が無かったりで、正直には「ウケ狙い」や「90%創作」で「観るにたえない」というものの羅列になってしまったからですが・・・ これはYTのDB構造の良くないところでもあります。勝手に「おすすめ」を提示するため、同一又は同様の「空虚」動画一覧しか表示しなません。③ 伊藤「某」氏の3部作も仕入れました。 (同一期に仕入れた一書に‐熊本‐に大きな勢力があった・というものがあります)「九州北部」「出雲」「畿内」「半島」これらの時代的遷移が、古代史の「鍵」なのでしょう。 人それぞれで、重要視したり、眼中に無かったりで、狭い範囲で「説」こうとするので後から「矛盾」や「無理」が見えてくる・そういうように思えます。(大陸・半島の記にはあるが日本の記に無い同一期を、無理に埋める等)多くの場合「勝者の都合」に合わせて記録を残す・は世界的通例ですから、多角視する必要があります。 よく判らないママ、日本著者と韓国著者の著作、三国志・漢書・後漢書・宋書(二十四史シリーズの白文・中華書局)他・三国史記白文・山海経白文・神皇正統記・日本書記・古事記を仕入れましたので、ゆるりと読んでみます。 予算が無く今回は見送りましたが、次回は「上記」という怪書も仕入れようかと思います。
コメントありがとうございます。すばらしい熱意ですね。トータルなご研究から何か新発見がありましたら、ぜひお教えください。Angela GabrielさんがRUclipsで発信されるのもありですね。拙著ご購入ありがとうございます。若干、このチャンネルの方が新しい考察になっている部分もありますが・・・。すみません。①「古墳の界隈005」はまだ未制作です。ぼちぼち作成していきますので、引き続きよろしくお願いします。
おお、これも面白いですね。別件で国造を調べてるんですが、この古墳たちを見てちょっと思ったことがあります。稲荷山古墳(武蔵国造の乱)、岩戸山古墳(築紫国造の乱)、今城塚古墳(継体天皇)となんか繋がってるように見えます。武蔵国造の乱は安閑天皇の時代のようですが、534年とすれば、築紫国造の乱527年とほぼ同じ。乱を鎮めた「乎獲居臣」が、意図的に墓の上に追葬されてもおかしくはないですよね。乱を鎮めた方が、後から「別区」をつくったのかもしれませんね。ということは、継体天皇は・・・
コメントありがとうございます。この3つの古墳はつながっていると思います。乎獲居臣の埋葬の経緯については、次の動画でまとめようと思っています。よろしくお願いします。
記紀原本発見により民間では明らかに…辛亥591年、ヲワケは景行、臣はオトタチバナの父モトヒコ、大王はヤマトタケとオトタチバナの子ワカタケヒコ…好太王碑391年は、崇神がシホノリヒコを任那に派遣した年、継体など存在しない…記紀の誤りを正して子供達に本当の歴史を伝えましょう…。😄
コメントありがとうございます。「記紀原本」?「591年説」ですか?はじめて伺いました。ただ、591年は崇峻天皇が大軍を筑紫に派遣した年だと、ほぼ確定されているのではないでしょうか。
原本と読み比べれば一目瞭然…改竄は焚書坑儒プロの仕業…原本は景行54年西暦550年まで、645年の間に架空の天皇を挿入、好太王碑391年シホノリヒコ派遣の記述を消し、年代不明に…しかしブロ並にヒントも…クスコは、景行と兄の石上神ヰソギネの長子イワツクワケの娘イラツ姫との間に生まれた内親王、14歳でヤマト姫から八十物部十ニ司を賜り、イワツク一族後のイワイと共に筑紫平定へ…カスヤ一族の娘タアブラツ姫と同世代でした…お解りででしょか…。😄
@@kimioitou ご返信ありがとうございます。申し訳ありませんが???です。
稲荷山古墳と雄略天皇の関係は矛盾していません。
鉄剣の銘文とも矛盾していません。
コメントありがとうございます。
そう考えるのが定説なのは承知しておりますが。
稲荷山古墳から出土した銘文鉄剣にあるオオビコ即ち大毘古は命第代孝元天皇の皇子であり、弟の武埴夜須毘古命が起こした反乱を治めた立役者です。
又、第10代崇神天皇の御代に四道将軍の一人として東国に派遣されました。
従って、銘文鉄剣の持ち主は彼の末裔です。
コメントありがとうございます。
他人に授ける鉄剣に自身の系譜を延々と記すことはないでしょうから、鉄剣の持ち主は大彦命の子孫の乎獲居臣と考えてよいと思います。
反逆者でもあり、中央政権に無断で勝手に設けた岩戸山古墳の"造出し"に対して尊厳を感じたり精神性を真似たいなどと思うでしょうか? 造出しの石像が破壊されていることからも、大和軍の「こんなものけしからん!」という気持ちが伝わってきます。
コメントありがとうございます。
おっしゃることにも一理ある思います。
別区の石像が破壊されたのは、そこに再現された光景が継体天皇にとって都合の悪い(例えば屈辱的と思えるような)ものだった可能性や、磐井に逃げのびられてしまった(風土記逸文)腹いせだった可能性もあるのではと思っています。
稲荷山古墳って、県の史跡だった丸墓山に比べると、見向きもされない古墳でしたね
コメントありがとうございます。
2019年に聴いた講演会では、「1938年に国の指定遺跡となり、1968年に稲荷山古墳の発掘調査が実施され、1978年に鉄剣銘文が発見された」そうです。
まあ、鉄剣銘文が発見されるまではそれほど注目される古墳ではなかったようですね。
引き続きよろしくお願いします。
今回もよいお話でした。 前方後円墳の形には不思議なことがいくつかあります。
例1:「中堤造出し」は古墳とは直結していませんが、先の動画で「円墳」+「台」の様式のものがありました。 発展形の1つとしてこの「台」が独立したとか。
例2:「中堤造出し」が左側(右側?円形を後ろからみると右側)にある規則性はあるものの、どこかしら「後円部」よりにある・かといって「前方部」との境界に収まっているようではない・という「奇形」
例3:「後円部」と「前方部」の「前方部」よりに1(片側)~2(両側)に、例1で挙げた「台」の発展形のような「奇妙」な「突起部」がある・ものものもある。
という対象的不自然さがみえます。 これらの部分は何の用途だったのでしょう?
「?」さきたま古墳群の中に、「円墳」がいくつか混じっている・前後関係等。
また、今回触れておりませんが「江田船山古墳」出土の所謂「ワカタケル」記銘剣との関連有無があります。 どこかで2つが、ず~っと交錯していました。
コメントありがとうございます。
造出しの流れは、(1)墳丘上で行っていた祭祀が、墳丘の拡大により、(2)墳丘裾に設けた造出しに移り、さらなる進化により(3)中堤造出しの設置に至ったということになるでしょうか。
さきたま古墳群に、最近まで日本最大の円墳とされていた丸墓山古墳がありますが、この巨大円墳は謎です。
確かにおっしゃる通り私もオワケ臣の副葬品は新しい時代のものと感じています。
稲荷山古墳のシルエットも再現されたものとはいえ、なんとなく今城塚古墳に近いようにも見えます。
しかし5世紀後半と判断しても良いと思える副葬品や埴輪のハケ目の痕跡も存在するのも事実であり私も迷っている所です。
…やはり、古墳築造時期よりもだいぶ後の追葬であったと考えるのが無難なのでしょうか、
鉄剣に刻まれた系譜はオワケ臣の生きた時代から逆算してオオヒコの時代も推定できるものと考えていますが、辛亥を531年とすると、これらの系譜はやや間延びしている様にも見えます 現実のオオヒコが欠史八代からの分家であるというのも後付けの可能性もありますのでここも迷っている所です。
継体天皇の時代の磐井の鎮圧も個人的には不可解に思っていまして、中堤造だしの相似はむしろ継体天皇と磐井の関係が良好であった証なのではと思っています。もちろん日本書紀の記述とは矛盾してしまうのですが…
稲荷山古墳に関して、この様な深い考察の動画は見たことがなくとても楽しく想像の世界を広げさせてもらいました、ありがとうございます。
コメントありがとうございます。オオヒコとの関連ですが、オオヒコの誕生年を260年と仮定すると、一世代20年でヲワケ臣誕生年は400年、25年で435年、30年で470年となります。書かれた系譜が長子相続でなければ、30年ぐらいまで想定できるのではないかと思っています。そのうえで、銘文の「(世々)代々」を、「一族が代々、王に仕えた」と読むのではなく、「ヲワケが代々の王に仕えた」と読むと、鉄剣製造時点でかなりの年齢に達していたと考えることができます。そういうことで、531年説も可能性ありかなと思っています。引き続きよろしくお願いします。
明確な年代観での解説ありがとうございます、オオヒコ生誕年が西暦260年で末子相続中心の間30年平均での系譜というお立場なのですね、
私自身は長子相続中心と決めつけていたのでどちらかというとオオヒコの誕生年とオワケ臣の寿命で調整する様な想像をしていました。
若干動画の趣旨から外れますが、崇神でのオオヒコの活動年代は復元紀年で明確になっていたりするのでしょうか? 既に発表済みでしたら申し訳ございません。
@@takeshi492 ご返信ありがとうございます。
(崇神天皇紀の復元紀年については、神武天皇紀との関連も考えないといけませんので、数年のズレはあるかもしれませんが)四道将軍の遠征については、312年・313年あたりと推定しています。
私は長子相続と考えているわけではなく、たとえばですが、ヲワケの一族が天皇の親衛隊を務める一族だとすると、杖刀人の首(隊長)は必ずしも銘文に記された7名だったわけではなく、兄弟の中でも引き継がれていったと思います。そして、最も長く生きて天皇に仕えた者の子どもが受け継いでいったとすると、一世代はかなり長くなるのではないかと思うのです(妄想でしかありませんが)。よろしくお願いします。
銘文 鉄剣
後1本は半島にあると思う
コメントありがとうございます。
どこからでもよいのですが、類似の鉄剣が何本も出土すれば、真実に近づけると思います。
引き続きよろしくお願いします。
おはようございます。
① 「古墳の界隈005」を探しましたみつかりませんでした。 まだ未制作なのですか?
② 「~界隈」他に挑発され、書籍をnKg仕入れました。 次の初夏まで楽しめそうです。
といいますのも、歴史関係YT動画に「秋田」というところが本音です。 どこかで観たよう
なものと酷似していたり、これといった「私説」でもよいのですが、「裏付け‐論拠‐」が無かったりで、正直には「ウケ狙い」や「90%創作」で「観るにたえない」というものの羅列になってしまったからですが・・・ これはYTのDB構造の良くないところでもあります。勝手に「おすすめ」を提示するため、同一又は同様の「空虚」動画一覧しか表示しなません。
③ 伊藤「某」氏の3部作も仕入れました。
(同一期に仕入れた一書に‐熊本‐に大きな勢力があった・というものがあります)
「九州北部」「出雲」「畿内」「半島」これらの時代的遷移が、古代史の「鍵」なのでしょう。 人それぞれで、重要視したり、眼中に無かったりで、狭い範囲で「説」こうとするので後から「矛盾」や「無理」が見えてくる・そういうように思えます。(大陸・半島の記にはあるが日本の記に無い同一期を、無理に埋める等)
多くの場合「勝者の都合」に合わせて記録を残す・は世界的通例ですから、多角視する必要があります。 よく判らないママ、日本著者と韓国著者の著作、三国志・漢書・後漢書・宋書(二十四史シリーズの白文・中華書局)他・三国史記白文・山海経白文・神皇正統記・日本書記・古事記を仕入れましたので、ゆるりと読んでみます。 予算が無く今回は見送りましたが、次回は「上記」という怪書も仕入れようかと思います。
コメントありがとうございます。
すばらしい熱意ですね。トータルなご研究から何か新発見がありましたら、ぜひお教えください。
Angela GabrielさんがRUclipsで発信されるのもありですね。
拙著ご購入ありがとうございます。若干、このチャンネルの方が新しい考察になっている部分もありますが・・・。すみません。
①「古墳の界隈005」はまだ未制作です。ぼちぼち作成していきますので、引き続きよろしくお願いします。
おお、これも面白いですね。
別件で国造を調べてるんですが、この古墳たちを見てちょっと思ったことがあります。
稲荷山古墳(武蔵国造の乱)、岩戸山古墳(築紫国造の乱)、今城塚古墳(継体天皇)となんか繋がってるように見えます。
武蔵国造の乱は安閑天皇の時代のようですが、534年とすれば、築紫国造の乱527年とほぼ同じ。
乱を鎮めた「乎獲居臣」が、意図的に墓の上に追葬されてもおかしくはないですよね。
乱を鎮めた方が、後から「別区」をつくったのかもしれませんね。ということは、継体天皇は・・・
コメントありがとうございます。
この3つの古墳はつながっていると思います。乎獲居臣の埋葬の経緯については、次の動画でまとめようと思っています。よろしくお願いします。
記紀原本発見により民間では明らかに…辛亥591年、ヲワケは景行、臣はオトタチバナの父モトヒコ、大王はヤマトタケとオトタチバナの子ワカタケヒコ…好太王碑391年は、崇神がシホノリヒコを任那に派遣した年、継体など存在しない…
記紀の誤りを正して子供達に本当の歴史を伝えましょう…。😄
コメントありがとうございます。
「記紀原本」?「591年説」ですか?はじめて伺いました。ただ、591年は崇峻天皇が大軍を筑紫に派遣した年だと、ほぼ確定されているのではないでしょうか。
原本と読み比べれば一目瞭然…改竄は焚書坑儒プロの仕業…原本は景行54年西暦550年まで、645年の間に架空の天皇を挿入、好太王碑391年シホノリヒコ派遣の記述を消し、年代不明に…しかしブロ並にヒントも…クスコは、景行と兄の石上神ヰソギネの長子イワツクワケの娘イラツ姫との間に生まれた内親王、14歳でヤマト姫から八十物部十ニ司を賜り、イワツク一族後のイワイと共に筑紫平定へ…カスヤ一族の娘
タアブラツ姫と同世代でした…お解りででしょか…。😄
@@kimioitou ご返信ありがとうございます。申し訳ありませんが???です。