【白石城】伊達家臣片倉景綱の居城「大坂の陣」討死の前日に真田幸村が片倉重長に託したものとは?
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- Опубликовано: 7 фев 2025
- 白石城の記事はこちらstudio-kuruwa....
この動画ではさまざまな説の中のひとつを採用しています。
宮城県に入ってすぐにあるのが白石城です。美しくそびえるのが大櫓。実際は天守ですが、代々城主を務めた片倉家は主君伊達家に遠慮してか大櫓と呼んでいました。この美しい建物は現代(1995)になって再建されたもの。当時と同じ木造で、もちろん内部にも入ることができます。一の門と二の門も再建されており、大櫓最上階からは本丸への巧妙なルートを見ることができます。
大櫓の一階に鎧が並んでいます。その中に六文銭のものが。上田でも大坂でもない白石に真田の鎧。実は白石と真田家にはとても深い結びつきがあったのです。
それは大坂の陣のとき。真田幸村が討ち死にする前に、自分の子供たちを片倉の陣にひそかに送り届けたという話が伝わっています(諸説あり)。幸村の子供たちは白石に送られ、そこで暮らすことに。後に娘は片倉重長の妻となりました。もちろん真田と伊達の家臣である片倉は敵同士。夏の陣での戦いを通して、幸村は片倉家に自分の子供たちを託すことを決めたのかもしれません。伊達政宗、片倉景綱・重長、そして真田幸村と戦国のスーパー武将たちのエピソードが交わる地、それが白石なのです。
伊達家と真田家のストーリー本当に奥深くそしてその壮絶な絆が感動させまくります!!
今で言えばお互い親友同士、どんな思いで戦ったのか??それもお互い手抜きしないさせない戦で😢
でも裏ではしっかりとした絆で繫がっていたんですよね😭✨片倉小十郎が大好きで年1回は白石城見に行き感動に浸ってます😊✨
白石城はこの近くにありますが現在人工物は有りません
やっぱり片倉景綱っちゅうより片倉小十郎って呼ぶ方がしっくりくるわ
以前尋ねた時、再建櫓が眩しかったことを思い出しました。動画有り難うございます。
以前大阪の陣の際に使用した片倉景綱所要の太刀を見たことありましたが、よく見ると何箇所か刃こぼれがしてました。
7:43〜の白石城の説明が間違ってるで
室町後期から伊達氏が勢力拡大して今の宮城県南部まで勢力下に置いてその過程で白石城含めた周辺地域も伊達家の勢力下になっとる
だから「政宗が蘆名を倒して手に入れた」は明確な間違い
白石城は今後も更に本丸の建物を木造復元して欲しいです。
御殿も再現して欲しいな…かっこいい城ですよね。白石は出張でしか行った事がなく、お城も遠目で見ただけ。ゆっくり行ってみたいです。
御殿があったとされる場所はとても広かったです。
真田 幸民(さなだ ゆきもと)は、江戸時代末期の大名、明治時代の日本の華族(伯爵)。信濃松代藩の第10代(最後)藩主、同藩初代(最後)知藩事。血統上は伊達政宗の男系子孫である。
仙台には天守がないのに白石には大櫓があるのが面白いですねえ。
木組みの建物は見ていて気持ちがいいですね。
仕方ない、幕府がずーと目を光らせてたから
女子は片倉家に嫁ぎ 男子は伊達家家臣になってるのだから 密か では無いですね
もう25年くらい前に行きました。友人と仙台に行ってその帰りにふらっと降りた白石から歩いて行ったと記憶してます。
大櫓から下を望むシーンを見て、そうだ、こういうルートで行ったなぁと。まだ再建して数年で人も少なかったですね。また行ってみたいです。
今でも建物はとてもきれいでした。お盆の休日で人も多かったのですが、ふっと誰もいなくなるタイミングがあって、のんびり見学できました。
石巻市の西光寺には白石真田家の子孫の方の墓がありますね。
札幌白石区役所の1階の展示みてきたら如何でしょうか。
戊辰戦争で片倉家臣が移住したと聞きます。白石も会津も、戦国時代から明治までとても興味深い歴史をたどってきたのだと思いました。
伊達の双璧好き
まぁ北海道方言が特に北海道南部が
ほぼ宮城仙台由来なのを北海道民は基本知らないでか知ってか?強烈に否定するのが滑稽だよね
ゴミを投げるやめんこいとかこわいとかもろに宮城方言なのにね
かなり一致してるからな、
伊達市は仙台から、白石区は片倉家家臣が移住した町だもんな
@@S_McQueen伊達市は仙台じゃなくて亘理からやぞ
@@ピーターアーツ-c8j アホか亘理は亘理家と言われる政宗の先代の弟との分家だよ後に伊達性へ復帰したね
@@ピーターアーツ-c8j やぞと平気で知ら無いで語ってやんのピーターアーツ君は
本当に君は小説歴史感が酷いよな?
@@ピーターアーツ-c8j コレが実はサンドの伊達ちゃんの家系大條家で涌谷亘理も伊達家で北海道へかなり移住した家系
伊達家は福島伊達市やその後米沢岩出山や涌谷や戻り黒川城悲願の戻り上で
取り上げられて最終的な仙台や亘理
そもそも元々はで歴史上に現れた豪族的な分家武士家系での茨城中村や下総からの分岐武士維新で北海道伊達市
まぁほぼ出来レースと真田家と伊達家は認めてるよね!
伊達の味方撃ちとの揶揄と真田との半端な戦闘は普通に分かるよなぁ
そもそも伊達家は茨城から福島そして米沢岩出山会津若松仙台
そしてこれは出来レースだと言う事がエピソードからも分かるよなぁ
わざわざ東軍には侍は無いと語り残るエピソードからもわかるでしょうに!
何故なら伊達は後後藤又衛を鉄砲隊で撃ち取ったその後が真田との対峙
そしてその前は伊達は味方撃ち
画策してんだなコレがこの戦闘の動きをみてりゃ普通に分かる事さ
味方撃ちと又兵衛首の伊達と真田の対峙の後に真田の突入だからね
そして子孫は片倉へ
伊達はそもそも母毒殺逸話も嘘だしね
加増もわずかに終わるのは上杉にちょっかい出したから家康ご立腹出ではない事がこの時系列で普通は気付く物さ
関ヶ原の戦では父昌幸共々西軍に付いたけど兄が東軍に与していなければ幸村は兄共々西軍ではなく日和見を決め込んだと思う。というのも大津城の立花宗茂軍足止め策を事前に察していたフシがある。現に上田城に迎えたのが経験乏しい秀忠軍だったからね。舐めてるのか、と思う罠w関ケ原自体が出来レースでしょ
小説の見過ぎ
そもそも伊達の味方撃ち自体が実際にあったかどうかすら不明
真田の「男はひとりもなく候」の逸話も元ネタである北川覚書という史料自体がいつどこで誰が書いたのかすら不明の非常に胡散臭い曰く付きやw
@ピーターアーツ-c8j コレ小説では無いよ子孫達の証言と資料から分かってる事だよ
寧ろ君等の認識が小説ね!
@ピーターアーツ-c8j 真田家の両方からの証言と
伊達家の証言と資料からだよ。
@ピーターアーツ-c8j 君等は歴史記述を全く知ってる様で知らんよね?
実際西方には有名な揶揄になってるだろ?!
味方撃ちとその後の伊達半端な対峙は
そしてその後に真田が本陣へ突入するが失敗と言われているだろ?