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【補足】「伏見ってどこ?地図で示して!」という質問をいただきました。今回の動画のテーマになっている伏見の場所は京都市の南部(京都市伏見区)です。動画の後半の30:40で補足地図を示しています。今回の動画のエリアは、最寄り駅で行くと、京阪電車の丹波橋駅、伏見桃山駅、中書島駅、観月橋駅。近鉄電車の丹波橋駅、桃山御陵前駅。JR奈良線の桃山駅あたりの話をしています!そしてそして!この動画を楽しんでくださった方は、サブチャンネルの番外編動画も是非見てください!ruclips.net/video/aScrqqnFH-Y/видео.htmlsi=e8cOFmyODcIeJM_z
伏見愛あふれるビデオをありがとうございます。
こちらこそご視聴ありがとうございます!
私は今年 還暦で伏見の観月橋付近に50年以上住んでいます地元をこんなにも詳しくわかり易く紹介してくださってありがとうございます👥👥🥷🎵
ありがとうございます😊
伏見住みです。長いこと住んでいるのに何も知らなかったことを思い知らされます。過去、なりたちを知ると、現在がより深く見えてきますし、より良い未来への道筋が見えてきます。歴史を勉強することは、今まで平面(2D)にしか見えていなかった風景が、立体(3D)に見えてくるような驚きがありますね。たくさんの人に見てほしいチャンネルです😊
ありがとうございます😊一番嬉しいコメントです!!
今回の動画も大変勉強になりました。知らないことを知ることができるというのは面白いものですね。
ありがとうございます!
京都市北部は地価が高いからあまり向いていないと目されているため伏見自体も化ける可能性があって、世界からはIT等のスタートアップを立てる日本最高の候補地と目されているようです。今後は日本のシリコンバレーとして世界中から優秀な人材が来るようになる可能性が高くなると言われています
誘致頑張って欲しいですね!
@@nipponsousei_tv ITの発展の条件0. 多様性を受け入れられる場所であること1. 水が美味しいこと2. 地価が高すぎないことさらに言えば歴史のある土地というのもメリットになりうる可能性があります
素晴らしい動画
本当に毎回最高なクオリティの動画ありがとうございます🔥
ありがとうございます!恐縮です😭
伏見がそんな場所だったなんて知りませんでした。ほんとに素晴らしいクオリティです。
83歳です17歳から33歳まで向島本丸町に住んでいました観月橋駅から桃山駅京阪電車で職場通っていました懐かしい画像ありがとう😆💕✨
私の祖父母が生前丹波橋に住んでおり、子供の頃は「大手筋いこか、お城いこかぁ」ってよく連れて行ってもらいました。この辺り一緒に歩いたなぁって当時の記憶が思い出され、懐かしかったです。動画ありがとう御座いました。
こちらこそご視聴ありがとうございました!
伏見桃山キャッスルランド懐かしいです。幼い頃連れて行ってもらいました。プールが冬には釣り堀として使われるのは有名な笑い話ですね😂
動画戦場のピアノ
麺馬さん!行かれてたんですね!笑プールが釣り堀は子供の夢ですね笑
伏見が京都とは別に独自の発展を遂げたことが紹介されてましたが、今は京都市の一部となっていますが京都市と合併する前には伏見市という市があったんですよね。どこで見かけたかはもう忘れてしまいましたが、石碑?だったかに年号と伏見市**というのを刻んだものが残っています。それから昔の伏見の人たちは京都駅や四条などの繁華街に行くときは「京都に行く」といってました、同じ京都市なのに。これも昔は京都と伏見は別という感覚の名残なんだと思います。
歴史の名残ですねぇ
中書島駅からまっすぐ北上して竜馬通に入る手前にある蓬来橋を渡らずに右手に曲がると御大典記念碑が立っています。その背面に伏見市長の名前が書かれています。by地元民
今から60年前伏見区西奉行町のダンチ公務員合同宿舎に住んでいました。京阪電車の桃山御陵前で降りて大手筋で買物をしていました。其処が銀座街だったとは知りませんでした。桃山御陵には良く散歩に行来ました。今は米国に50年住んでいますが伏見が歴史的にそんなに意味深いところだったとは知りませんでした。色々ご説明ありがとうございました。
@@nakamatsu7753 桃山御陵前駅は近鉄で京阪は伏見桃山駅ですよね。ちなみに桃山御陵前っていう駅名はアメリカ人にはとても発音し難いって聞きました。まずとても長いことに加えゴリョウのリョウが英語の発音に無いのでゴヨウ前って言うしかないって。
伏見出身、京都で旅行業してます。それこそ桃山に事務所があり、あらためて参考になりました。今度伏見深掘りツアー企画します。
ぜひ深掘りお願いします!
伏見生まれで、大学卒業まで伏見で過ごしました。伏見城や豊臣秀吉の認識はあったものの、首都機能という視点で見たことがなかったので、とても新鮮に感じました。自分の故郷を宣伝してくれてありがとうございます!とても丁寧に深堀されていて好印象です。準備は大変だと思いますが、これからも取材頑張ってください。応援しています。
伏見桃山城の遊園地は子供の頃良く行きました プールもあったかな
6年くらい伏見に住んでましたが知らない事ばかりで勉強になりました!見慣れた景色もちらほら出て来ましたがこの動画見てから伏見に行ったら今までと違う感覚で散策出来そうです!
ぜひ散歩してください✨
20年近く前に向島や中書島に住んでいました巨椋池干拓地は絶好のランニングコースでした何もかもとても懐かしく見させていただかきましたありがとうございます
こちらこそありがとうございました😊
知らなかったことだらけの伏見に行きたくなりました。今まで伏見に観光に行くという発想がなかったです。
行ってみてください!
観月橋駅、よく利用しますが、あんな道標があったなんて!全然気づいていませんでした。普段から見逃してることが、たくさんありそうです。
意外と気づかないですよね!
伏見在住40年素晴らしい動画を拝見し、娘にも転送しました。感謝です❤ありがとうございます。大阪駅前北区に育ち、あらためて秀吉に縁があったのかと思います。
昭和生まれです。幼い時、キャッスルランドのウォータースライダーへ夏に行くのが楽しみでした。乗り物の思い出はなく、そのプールとお城の印象しかないです。
やはりお城がランドマークだったんですね!
70代の母がキャッスルランド建設中の様子を覚えており、「基礎がコンクリートでできたハリボテやで」って言ってますね。小学生の頃、遊園地は何度か連れてってもらいました。池の周りを小さい列車で回るアトラクションがあり、列車に設置された銃で作り物の動物を撃って遊ぶ…というだけでも問題になりそうですが、最後の的が「原始人」だったため、後に大いに物議を醸していました。
伏見生まれの伏見育ち、写真の殆どは知ってる場所なのに、知らないことが多くあり、動画を楽しくみさせていただきました。ありがとうございます。
私もです! こないだ琵琶湖疏水の解説を見て、そんなに見どころがあったんだ!と知って、お盆に歩きに行ってきました。煉瓦造りのトンネルなどに感銘を受けました。歴史を知って見るとワクワクしますね。
こちらこそご視聴ありがとうございました😊
桃山キャッスルランド、大手筋よく行きました。懐かしいです。観月橋も昔は景色が綺麗だったのでしょうね。
昔が偲ばれますね。
少し前に開催された伏見名水スタンプラリーに行きました大阪から京都へ向かった時に、この辺りから京都弁に変わるという感じがします商店街のお店は観光客向けではなく、良心的な値段でした
まだ地元の商店街って感じですよね!
武家の名前が町名になっているエリアで百貨店の配送(中元・歳暮が中心)のバイトをしてました。一個いくら……というお仕事です。あの辺りは、大きなおうちが多く一軒あたりにお届けする個数が多く(さっすが!)バイトとしては、おいしいエリアでした。
めっちゃ家大きいですよね!
素晴らしい解説ありがとう御座いました
こちらこそありがとうございます!
明治天皇さんの陵、あそこは何故かビックリするくらい清々しいんですよね~お城を建てたり陵の地に選ばれたりも納得の健やかな丘ですよね
雰囲気が素晴らしいですよね!
銀座町、桃山と住んでいた事があり、懐かしく見させていただきました。そうなんですよね、地元の方からも京都と対等だったとよく聞きました。知らなかった事も多々あり、勉強になりました。伏見愛に溢れていて、とても楽しかったです。ありがとうございます。
ありがとうございました😊
伏見生まれ伏見育ち現在はバリ島在住です伏見には親戚も居てお墓もあるので日本一時帰国時は必ずよりますどこもとても懐かしいです、両側酒蔵の道寺田屋の前を過ぎ大倉酒造(月桂冠)前を通って小学校に通っていました明治天皇陵の300段の階段は周辺の学校の体育系クラブの練習場所でした周辺には伏見城の瓦のかけらが普通に落ちていましたなかなか詳しく分かり易い動画でした他の動画も興味深いです😀
母の実家のあたりです。100年ほど前は酒屋を営んでいたそうで、玄関から裏へ抜ける通路が2階まで吹き抜けになっている家でした。桃山御陵は「ごりょーさん」と呼ばれていて、幼稚園の遠足で行ったり、あの階段のところが運動部の練習に使われたりしていました。
撮影時にもあの階段で走ってる方がいました!
最初の京都市電(日本初の電車)は京都駅から伏見までなので、当時は交通の拠点として重要だったんでしょうね。大阪までの交通は船が優勢だったのかな。
かつては船がメインでしたね!
😭ありがとうございます!!これからも頑張りますね!!
めっちゃいい動画、楽しませていただきました♪伏見出身(淀)ですが、こんな沢山の遺構があるとは驚きました‼️大変勉強させていただきました。今度伏見に来られた時は、淀本町商店街にある伝説のコロッケ屋さん「翼虎(ヨクコ)」のコロッケを是非召し上がってください❤(もう食べておられるかもww)
コロッケ食べてませんw今度行ってみますね!
安土伏見時代が良いですね
同意です!
伏見がそんなにすごい所だったとは知りませんでした。知らずに7年ほど前に寺田屋行きました。銀座町の由来は知っていましたがその前に銀行があったのでなるほどと思いました。地名とか町名は面白いですね。桃山キャッスルランドも1989年ごろに主人と付き合っている時にランドで遊びました。その時も歴史がごっちゃになってました😅観月橋の由来も初めて知りました😅
歴史は面白いですよね✨
自分は伏見の銀座町で生まれたのですが、東京の銀座に住んでいます。銀座の人口は約3600人と激少ないので、銀座産まれで銀座在住者は自分だけだと思います。
レアすぎますね笑
ちょうど数日前に司馬遼太郎の長編小説「関ヶ原」上・中・下すべて読み終えた絶妙なタイミングでこの動画に出会いました。これも何か大切なご縁というものでしょうか。伏見城で家康が征夷大将軍宣下されて始まり二条城で慶喜が大政奉還をして終わった江戸時代もやはり京都大阪すなわち上方を抜きにしては語れないということでしょうね。
おっしゃる通りです!
安土桃山時代の「桃山」の由来を知らない日本人が多いのでこういう動画を広めてもらえると良い!
頑張りますね!
伏見生まれの伏見育ちです❤ありがとうございます😊
ありがとうございます😊嬉しいです。今後ともよろしくお願いいたします!
伏見に住んでても知らないこと多い。伏見納所の歴史もあれば、みてみたいです。
意外と知らないですよねぇ✨
めちゃめちゃ楽しめました✨️子供の頃は頻繁に桃山城に遊びに行きましたが、普通に“本物の城”と、疑うこともしませんでした無知って怖いですね😅
意外と知らないですよね!笑
チャンネル登録者50500人突破おめでとうございます!拙者は東山区生まれですが、京都市民は貧乏になると南下する都市伝説から伏見区永住中ですwww栃木県に住んでいた時に宇都宮のオリオン通り商店街へ行ったのですが、見た目が『映画館が在った時代の大手筋商店街?』と思ってしまいましたwww
宇都宮は行ったことないです😭笑
かつて伏見区桃山に住んでいた者ですが、やっぱり地図が出ないと元住民である僕にも”これどこやったかな?”と迷ってしまいます。御香宮神社ですが、地元民は「ごこうのみや」とは言わず、「ごこうぐう」と呼んで親しまれていますね。毎年10月10日に開かれる祭りによく行ったもんです。同じ京都にありながら、市内と伏見区では文化が違うなということは感じていました。元々別の街だったですからね。京都の街は碁盤のマスで区切ったように道路が東西南北に走らせられており、とても分かりやすく、伏見においても同じように区切りがなされているのですが、市内は御所メイン。伏見は伏見城の城下町として整備されたわけで、別物だということです。(大阪城かと違うのは東西の道を”〇〇筋”、南北は”〇〇通り”と逆の命名になっています)今の伏見桃山城が本当の場所に建てられていないということは知っていました。でも我々にとっては”お城”といえば伏見桃山城であり、シンボルなのです。それと当動画では明治天皇量から北堀公園までがすぐ近くのような印象を受けますが、実際は相当離れています。徒歩1~2時間はありますね。よろしければ私のブログ(現在更新休止中)をご覧ください。故郷である桃山城周辺について書いてます(僕も地図を付けておくべきだったかなと反省^^;)↓suterarehen.seesaa.net/archives/20160603.html
伏見と言っても日野、醍醐~羽束師と東西に広いですからね、ちなみに、一応は地方港湾の指定にはなってるので、法律上は現役の港湾施設になりますね。中書島は元は遊郭だったし、何となくあの辺りは雰囲気が違いますね。寺田屋も現役の旅館だったりも……
独特の雰囲気がありますね!
私も政治が行われていた街を首都と言ってる事に何の疑問もありませんし、実質的に政治を行なってたのは武家だし、その様な見方をする人は多いですし、首都伏見は何度もきいてますから、そうだと思う、たくさんの人の首都伏見は捉え方が政治の中心であった街って捉え方なんだろと、思います、今でも政治は天皇ではなく政治家ですよね、人の考え方は色々有りますからなかね!
日本の考え方だと首都の定義は天皇の所在地ですが、ここでは首都「機能」の話をしているのでこのような表現をしました!補足ありがとうございます😌
楽しく拝聴しました。ありがとうございました。安土伏見時代に賛成!
変えて欲しい!
伏見全ては観光できませんが3〜4年前に行きました。京都に住んでいる同級生の案内で小中学校の同級生14〜15人で伏見稲荷や寺田屋等等行きましたので懐かしくて動画見させていただきました。観光客が多く賑やかな街並みですよね。貴方の別な動画も色々見させてもらっています。観光名所でありかつては政治を司る京都ですが砂防ダムの動画のように知らない部分も沢山あるのでしょうね。ちなみに砂防ダムの動画はいぜん別の人の動画でも見たことがあります。あの時はまだまだ家が建ち並んでいたようでした。
ありがとうございます。これからも見てください!
私も永く伏見区に住んでいます。日本国の政権は源平交代説があり室町幕府源氏足利から織田信長桓武平氏を名乗り政権を獲りましたが、秀吉も主君同様平家出身を名乗りましたがその後豊臣姓を創設して、平家の先祖桓武天皇陵墓に伏見城を建てて、日本国政権支配者をアピールしたのです。
血筋が重要なのですね!
桃山キャッスルランドの影響で、てっきり桃山城という言い方が当時からあったと勘違いしていました。勉強になりました。一点、伏見が酒処になったのは、明治以降、東海道線が開通して鉄道輸送で東京市場に運べる様になってからですね。それまでは伊丹・池田、灘に比べればとても少量だった筈です。もしご興味あれば調べてみてください!
日本の歴史上これだけ重要な土地であっても、この地だけは外国人が押し寄せない穏やかな場所。
確かにです!
若い頃伏見の深草に住んでいたことがあります。一時期、桃山南口にも住んでいました。 御香宮のお祭りにも行きましたが、都があったことは初めて知りました。ありがとうございますm(__)m今は、兵庫県に住んでいますが、懐かしく拝見しました。
オフィシャルな都というよりは首都機能ですね。ありがとうございました!
京都市に長年住んでいますが 伏見については全く知らずにいました伏見がかつて「日本の首都」やったなんてねぇ・・
意外と知らないですよね!
キャッスルランドのお子様ジエットコースターに乗って半死にでした。 徳川家康が伏見で暮らしてたんですね・・・
天下人ゆかりの地です!
いつも面白い動画をありがとうございます😃以前、伏見巡りをしたのですが、昔は「副首都」、経済・交通の要所となる「港湾都市」として栄えていたんだろうなと感じました。秀吉・家康としても、伏見は京都の朝廷と近すぎないけど目を利かせられるちょうどいい土地だったのではないでしょうか。伏見には今でも幹線道路や倉庫群が多くあり、京都市内でも有数のポテンシャルを感じます。この地域の発展なくして京都市の発展はないと言えるのではないでしょうか🤔
おっしゃる通りまさにちょうど良い場所だったんでしょうね!本当に伏見のポテンシャルは高いと感じます。交通アクセスも良く、適度に郊外で住環境も良さそうです。都心部を開発できない京都市にとっては最重要エリアの一つと言えそうですね☺️
伏見桃山城には 2019年12月に行きました コロナ禍発症時だったので 人影は数人しかいませんでした 他に廻る所がないので 古い町並みを探していましたが見つからなかったので 宇治に移動しました 御香神社の山門と源空寺の山門 こんな遺構があったなんて知りませんでした 機会を見つけて是非行ってみたいです ご紹介ありがとうございました 😁
是非巡ってください!
伏見はお休みの日に行って、大阪よりもくつろげたり、また歴史の見どころがある街です。約三十万人以上の人口があり、東は山科地区にくい込んでいて、哲学の道から入り、疏水沿いを行くと、春は桜、秋は紅葉で静かな散歩ができます。山科に着いたら、ついでに毘沙門天さんに寄ったりして、山科から南下して伏見にはいります。下鳥羽には濠川沿いに酒蔵があって菜の花が咲いたら見事な景色になり、よく写真撮影されていますね。下鳥羽の合戦が激しかった地区ですね。私はここから歩いて、大手筋商店街に入り、南端の納屋町商店街を楽しみながら歩いて濠川沿いの寺田屋に到着、龍馬が入浴中に襲われたというお話を思い出しながら、散策します。川を船に乗って下る人たちに手を降りながらそこいらにある酒蔵巡りをして、大手筋商店街の賑わいも楽しみます。食事したり、買い物したり、1日に疲れない程度に遊ぶことができて、ほんとに楽しい街です。子供連れでも、夫婦でも一人でも唯一楽しむことができる、肩の凝らない街に癒されています。
伏見は不思議な魅力がありますよねぇ
鴨川から伏見と動画が南下してきたので次は舟運の始まりの八幡から枚方までの動画にしましょう…😄八幡市あたりは遊郭もあり面白そうですよ…😊現代では舟運はある意味不思議で川上に向かってエンジンもない舟で輸送する事に驚愕します…😳
@@長田正幸-q5c 遊郭は八幡市内でも橋本中心やった気がする‼️
長田さん!!ありがとうございます😊水運関係はシリーズ化を検討しておりまして、おいおい取り上げるかもしれません✨次はライブ配信も来てくださいね!笑
中書島もちょっと夜の街の名残がある地域がありますね
@@ytanaka257 中書島から伏見港公園の方は何も無いんですがホンマの駅前には少しだけ残ってますかね。でも大した事ないですよ‼️
動画楽しみに待ってました!!伏見を紹介する動画で伏見稲荷を一切出さずにこのボリューム、満足感、さすがです✨恥ずかしながら私も伏見稲荷以外ほとんど訪れたことがありません😂サライさんの動画で、今まで見逃していた京都の魅力を再発見できてとても嬉しいです😊リクエストなんですけど、私源氏物語が大好きで、今年の大河ドラマ毎週楽しみにしてるのでが(笑)、源氏物語特集なんかできたらお願いしたいです😊今までの動画とちょっと毛色が違うと思うので、RADIOの方でサラッととかでも!とはいえどの動画もとても面白いので、どんな動画も楽しみに待っています😊
ゆみさん、ありがとうございます😊そうですよね、伏見稲荷以外はなかなか行かないですよね笑源氏物語!確かに大河と紐づけるのも面白そうですね。検討します!
でが ➜ ですが
町名に鍋島や島津、毛利が今も残ってるのよな
はい!
伏見の大手筋は商店街が有名や!京阪・伏見桃山駅or近鉄・桃山御陵前駅下車が大手筋商店街に最も近い!JR桃山からは少し歩くで‼️
俺も自転車での遠乗り(就職前までの趣味)、選挙候補者の応援で大手筋商店街はちょいちょい訪れたなぁ
大手筋はいつも賑わってますね!
全国的にはシャッター商店街が主流だが伏見の大手筋は商店が乱立して非常に賑やかである‼️
本当に面白い・江戸時代のスタートは伏見から・伏見桃山城がテーマパークのアトラクション・観月橋の名前の由来
そうか!そうだったのか! 京阪線東福寺の山手に高校がありました。そこから南の伏見は京都やない感をなんとなく子どもの頃からいだいていました。 動画で納得しました。因みに、木幡山に言及されていましたので、お願いです。小幡、因幡、竹田真幡木、など 幡の地名が気になります。また、調べてください。
洛中とは雰囲気が違いますよね!
ライオンズマンションの奥の旧国家公務員宿舎が本丸跡やと思います。掘ったら出てくるから取り壊せないとかなんとか・・・公園にするという計画もあったみたいですが、どうなってるんやろ?ちなみにそこの旧国家公務員宿舎に7年ほど住んでました。
そんなんですね!
21:01マンション名としては、「ライオンズ伏見桃山 指月城」です。
京都市・京都府の行政、歴代の首長が腫れ物に触れるような対応をしてきて今があるのだろう。都市計画に従い、日本国民に混じって生活出来るよう指導力を発揮すべきだ。
いつも観させていただいてありがとう(*´∀`)♪わたしはかつて仕事の関係で伏見に住んでいたことがありますその時に住んでいたのは「水野左近東町」でしたおもしろい町名だな〜って思っていましたがそういう由来があったんですねそういえば競技カルタを製造販売している「大石天狗堂」というお店が伏見御陵駅の近くにあります旧い百人一首札や花札を復刻して販売されておりますもしよければ訪れてみてはいかがでしょうか?ありがとう♪( ´▽`)
カルタ屋さんは知りませんでした!!
伏見桃山城がアミューズメントスタートだと初めて知りました。伏見区民ですが^_^
意外と知らないですよね!
이 동영상을 보고 일본의 역사를 일부분 알게 되어서 참 좋았습니다. 교토에 모두 두번 가보았지만 또 가보고싶습니다.😅この動画を見て 日本の歴史を一部分分かって本当に良かったです。 京都には二回行ったことがありますが、また行ってみたいです。😂
また来てください!
私は昭和28、29年(小学5、6年)に伏見の寺田屋のそばに住んでいた。同級生のクラスに寺田屋の養女のみっちゃんという子がいた。当時はみんな生活が大変で歴史に関心のある人は少なく、寺田屋もその庭は子供の遊び場だった。坂本龍馬の銅像はなく薩摩の過激派の数人が島津久光の放った刺客に切り殺されたという事件の文部省の標識があった。
時代を感じますねえ
本丸の北西の長束郭御花畑に近鉄が建てた模擬天守は、洛中洛外図を元にして遊園地のランドマークとしては、かなりリアルなので映画撮影にも使われている。市民が解体に反対したので市有公園の一角に残っている。人出も少なく城好きの散歩にはちょうど良い。
穴場ですよね!
伏見に住んでいて知らない事ばかり。学生の時にこの話しを聞きたかった。
桃山の由来について、Wikipediaからの引用です。「桃山」の名の由来となった京都市伏見区の桃山丘陵は、秀吉がその晩年にきずいて本営を設けた伏見城の跡地で、廃城ののち元禄時代ごろまでに桃の木が植林され、安永9年『伏見鑑』が発行された頃から「桃山」と呼ばれるようになったという[1][3]。この情報がものの見事に真相だったとして、桃山と呼ぶか伏見と呼ぶかは地名もとい時代区分の呼び名は経済を考慮して決めるべきかという問題になりますね🤔再開発の為に改名している市区町村がどれほど上向いているか存じ上げませんが、教科書などの編纂コストの概算によっては改称した方が良いんじゃないか…
桃山は後世の呼び名ですからねぇ安土桃山時代にはなかった呼び名なのに時代名になっていることに違和感があります
伏見の十石舟には乗らなかったのですね!残念!
昔の人はここから大坂に行ってってことが実感できます!
乗りませんでした!
洞察力の鋭さに賛成です、その時代に存在してみたのなら分かるけど人の多分そうだろうなんて意味が無い‼️
GREAT!13:46
@@niwanori50 yazawa
いやぁ、今回も面白かった
太閤秀吉の城がありましたね。
前伏見稲荷大社行ったあとにレンタルサイクルでぶらぶらしてたら任天堂本社ありましたねあれはプチ喜びでした
任天堂ありますね!
洛中出身者は今の伏見歯ガラが悪いので避けてる印象。上京区から結構な距離だし、基本行かないですが、どうする家康に頻出し、今とは違ったんだなと思っていました。
栄光の時代がありました!
なぜ桃山時代と言うのか、めっちゃ違和感あったのですが、これでやっとわかりました。
よかったです!
伏見は山伏たちが休息をとるために発展した街だそうですよ。もとは仏教の町?
湖は、どのように?秦氏の伏見稲荷神社より以前は?
巨椋池の動画を見てください!
京都も怖いですね😨簡単な英語字幕を付け動画投稿して、全世界の人に分かってもらいましょう❗️
こんにちは、
こんにちは
今回取り上げて頂いた辺りは伏見も綺麗なんですが、そうですねえ名神高速道路の下辺りから北側は南区に接して、崇仁地区になっちゃうんですよ。昔なんか、タクシーの運ちゃんに伏見を断られた事がありますわ。
伏見の銀座って東京のパクリだと思って鼻で笑った自分の無学が恥ずかしい😂
伏見区って広いですよね京阪地区に住んでいる人からしたら東京は天皇が別荘として住んでいるだけで首都は今も京都って思っている人が多いと思いますだって東京都は東の京都であって京都が純粋な京の都ですから
そういう考え方の人もいるみたいですね。首都は東京だと思いますけど、、
地図で伏見を示さないから全く分からない。
30:51
失礼しました。今回の動画のテーマになっている伏見の場所は京都市の南部(京都市伏見区)です。駅で行くと京阪電車の丹波橋駅、伏見桃山駅、中書島駅、観月橋駅。近鉄電車の丹波橋駅、桃山御陵前駅。JR奈良線の桃山駅あたりの話をしています!後半で補足地図を出しています。@@kiis3035 フォローありがとうございます!
何の為にGoogleマップがあるんだよ
首都って天皇がいる場所ではないでしょうか?政治の中心地と首都と違いますよ
失礼しますよ。首都の定義は「中央政府のある都市」なので、承久の乱で武家に処罰されまくられ、六波羅探題に監視を受ける存在となり、ただただ幕府に決定権がある官位の授与を行うだけの朝廷(平安京)が、中央政府のある都市(首都 )とは言えないでしょう。ちなみに日本において天皇により遷都の詔勅を出されて都と定められた場所のことは一般的には京、洛と呼ばれ、古代から明治までの律令においては「皇都」、明治期から戦前にかけては「帝都」と言う。「首都」など戦後に一般化した呼称に過ぎません。
貴方の定義であっています。<以下、@user-er2pr7wj2y氏とのやり取りの結論部分から引用>「天皇の所在地」=「首都の所在地」とする辞書の存在を発見しました。こちらは、原典には当たれていませんが、原典の名称と、内容までは把握しています。原典名も開示しますので、疑義がある場合は、トレース可能です。1. まず、Wikipedia 「日本の首都」を開いて下さい。2. そして、「辞典による日本の首都」の項目までスクロールして下さい。3. そこに、「平安遷都など歴代の遷都をそのまま首都の移動とするもの[14]。」という表記が確認できます。4. ここで、文末の[14]を押下すると、「三野与吉監修 『人文地理辞典』 東京堂、1959年(昭和34年)改訂再版。」との原典名に辿り着くことができます。ここで、上記文言に含まれる「遷都」が一体何を意味するのかが大事になってきます。そこで別の辞書を引くと、下記の通り、日本における遷都とは、天皇の宮城を正式に移すことに限って使われると、記載されています。・日本大百科全書(ニッポニカ) 「遷都」 ⇨政府の所在地を移しかえること。日本では天皇の宮城を正式に移すことに限って用いられ、幕府の開設には使われなかった。つまり、「三野与吉監修 『人文地理辞典』 東京堂、1959年(昭和34年)改訂再版。」の記載から、「首都の所在地(変遷)とは、天皇の宮城の所在地(変遷)に他ならない」との結論が導かれます。5. 上記文言の、さらに1つ下に、「1869年(明治2年)に東京城(江戸城)が皇城(皇居)とされ太政官が東京に移されたことと、1871年(明治4年)に府県の順序で東京が第一とされたことで、東京が首都の地位を得たとするもの[15]。」との記載も見られます。6. ここで、文末の[15]を押下すると、「永原慶二監修 『岩波日本史辞典』 岩波書店、1999年(平成11年)。」との原典名に辿り着くことができます。この文言を確認すると、東京が首都の地位を得た理由の1つとして、「1869年(明治2年)に東京城(江戸城)が皇城(皇居)とされ太政官が東京に移されたこと」とありますね?ここでも、天皇の居住地の移転が、首都の移転の根拠とされていることがわかります。7. さらに、少し下の方ににある「天皇・都に注目したもの」の項目までスクロールして下さい。8. ここでは、「首都移転は皇室の座所の移動(御動座)を伴うものだとするもの(1996年(平成8年)の総理大臣・橋本龍太郎の国会答弁[19])。」との表記を確認できます。9. [19]を押下して、原典を確認すると、「第136回国会 国会等の移転に関する特別委員会 第5号」とあります。ここでは、1996年(平成8年)の総理大臣・橋本龍太郎の国会答弁]において、「首都移転は皇室の座所の移動(御動座)を伴うものだ」と述べられたと記載があります。つまり、辞書定義のみならず、日本政府の見解としても、首都の所在地=天皇の所在地なのであると見做せますね。これにて、「平安京は1000年間、首都であった」との命題は、前回の背理法とは別の方法になってしまいましたが(本来こちらの方が正当派の証明であるが・・)、証明することは一旦できたと言えるでしょう。そして、この証明事実を前提にするならば、首都定義の「中央政府」は、やはり、江戸時代ならば「朝廷」であったと見做さねば、背理となってしまいます。と、ここまで書きましたが、一方で、10. さらに下にスクロールし、「首都機能・武家政権に注目したもの」の項目までスクロールすると・・11. 「江戸は中央政府の所在地として首都と意識されていたが、幕末に政治の中心となった京都が首都となり、更にそれが明治政府の置かれた東京に移ったとするもの[24]。」などの記載もあります。12. [24]を押下して、原典名を確認すると、「佐々木克 『江戸が東京になった日 明治二年の東京遷都』 講談社、2001年(平成13年)。」と記載があります。こちらは、辞典などではなく、いち書籍に過ぎないので、内容の蓋然性は前者に比べて、遥かに劣りますし、日本の政府見解とも異なりますが、このように政治組織の名目上の頂点の所在地ではなく、実際に具体的な政治が行われた場所に着目した首都定義というのもあるようですね・・。つまり一応、貴方の主張「江戸は首都である。」「首都圏定義の中央政府は幕府である。」も、全くの出鱈目というわけでもないようです。
@@ラッキー純-h2x 貴方とやりとりをしていた(私がコメ主の)コメント欄で、貴方からお返事が来なくなったので、心配になり、念のためこちらに連絡しております。私はPCで投稿をしていたのですが、どうも、スマホのブラウザやアプリでは、コメント返信をきちんと全件(現時点で96件)表示できないらしく、私の最新の返信が表示しきれないようでした。もしPCをお持ちでしたら、そちらで、確認をお願いいたします。もっとも、最終的な証明のコピペだけは、こちらのコメ主である@user-gr9ds1oi3f氏に向けてですが、貼り付けましたが・・。しかも、スマホアプリ版のRUclipsにはとんでもないバグがあるようで、新着表示順にすると、先日、私が投稿しては、自動削除され、少し編集しては、再投稿をして・・を繰り返した投稿の数々が、全て表示されます。これは、別に悪意の大量投稿ではないため、ご承知おき下さい。
@@ラッキー純-h2x 貴方とやりとりをしていた(私がコメ主の)コメント欄で、貴方からお返事が来なくなったので、心配になり、念のためこちらに連絡しております。私はPCで投稿をしていたのですが、どうも、スマホのブラウザやアプリでは、コメント返信をきちんと全件(現時点で96件)表示できないらしく、私の最新の返信が表示しきれないようでした。もしPCをお持ちでしたら、そちらで、確認をお願いいたします。もっとも、最終的な証明のコピペだけは、こちらのコメ主の方に向けてですが、貼り付けましたが・・。
@@ラッキー純-h2x 貴方とやりとりをしていた(私がコメ主の)コメント欄で、貴方から応答がなくなったので、念のためこちらに連絡しております。私はPCで投稿をしていたのですが、どうも、スマホのブラウザやアプリでは、コメント返信をきちんと全件(現時点で96件)表示できないらしく、私の最新の返信が表示しきれないようでした。PC版で、ご確認願います。
いわゆる諸説ですね。やはり首都を名乗るのは首長が根拠となりえます。そういう意味では京都御所ですね。城はあくまでも権威の象徴であり首都の根拠とは異なります。日本は第二次世界大戦後に天皇陛下の権限が失われるまでは天皇陛下が首長でしたから天皇陛下=首都が正しい根拠と考えます。
正式にはそうですが、この動画における首都とは首都機能のことを指しています。
知り合いに伏見くんがいます。
珍しいですね!
@@nipponsousei_tv 元オリックス現日本ハムに、北海道千歳市出身の伏見寅威捕手が在籍してます。
おっしゃる通り、安土伏見時代ですね。これは、歴史学者を巻き込んで呼び方を変えるべきです。間違いを正していくのも大切な歴史のひとつです。近代日本史も、ようやく林千勝先生の御尽力で動画配信され、正しい近代日本史、世界史を見ることが出来ています。日本人は全員正しい近代日本史を知るべきです。学校で学ばせてもらえませんから。
日本における首都とは、天皇により遷都の詔勅を出されて、都と定められた場所のことをいう。言うては何だが、たかが武家に過ぎない(あまつさえ元農家である)豊臣家により作られた町で、首都はないだろう・・。当時の首都は、天皇の居住地たる平安京、すなわち洛中である。そう言う意味では、京田辺は、確か府内最古の、筒城宮(つつきのみや)という都が、あったはずである。木津川市の恭仁宮(くにのみや)や、マニアックなところでは、福岡県朝倉市の朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)などは、遷都の詔勅に基づく、れっきとした都であるが、伏見も鎌倉も、ただ武士により治められた政治の中心地というだけであり、都ではない。つまりそれは、首都ではないのである。東京も遷都の詔勅に基づかないものであるため、首都ではないとする考え方もあるらしいが、こちらは明治以降実質的に天皇がお住まいであられるので、首都と見ても差し支えなかろう。
この動画でいう首都の定義は「首都機能」だと捉えてください。厳密にはおっしゃる通りです。
言うては何だが、日本において天皇により遷都の詔勅を出されて都と定められた場所のことは一般的には京、洛と呼ばれ、古代から明治までの律令においては「皇都」、明治期から戦前にかけては「帝都」と言う。「首都」など戦後に一般化した呼称に過ぎない。
@@ラッキー純-h2x >「首都」など戦後に一般化した呼称に過ぎない。確かにその通り(※1)。しかし、だからといって、平安京が首都であったという表現に問題があることにはならない。なぜならば、その当時その言葉が存在したかどうかと、それを現代の言葉で、どう表現するのが適切かは、全く別の次元の問題だからだ。例えば、「女」と言う言葉が誕生する前の日本を想像してみよう(例えば、大和朝廷に併合される以前の関東など)。そこでは、「女」のことは、「女」ではなく、「ほげにゃ」と呼称していたものとする。そこにいた、金色の玉を有さぬ方の性別に属するある個人のことを、現代の我々が、その人は「女」であったと、呼ぶことに何の問題があろう?「いや、当時は、『女』と言う言葉はなく、ここ関東では、『ほげにゃ』と呼んでいたのだから、その人は、『ほげにゃ』だ!」とはなるまい。なぜならば、現代の我々で言うところの、それは「女」に他ならないからである。ここで、いくつかの辞書で、「首都」を引いてみよう。goo辞書(しゅ‐と【首都】 の解説) ⇨その国の中央政府のある都市。首府。Weblio(しゅ‐と【首都】) ⇨その国の中央政府のある都市。首府。ここでいう「中央政府」が日本においては、大和朝廷などの天皇を擁する機関のことなのであるから、まさに平安京や、平城京、その他(筒城宮・・etc)は、まさに首都そのものであろう。ただ、当時はそのように呼ばなかったと言うだけの話だ。> 言うては何だが、日本において天皇により遷都の詔勅を出されて都と定められた場所のことは一般的には京、洛と呼ばれ、京はともかく、洛は違うのではなかろうか。世界大百科事典(旧版)[コトバンク]に次なる記載がある。世界大百科事典(旧版)[コトバンク] 京都市 ⇨嵯峨天皇の時,唐の都城名をかりて左京を洛陽(城),右京を長安(城)と名付けたことから,衰微した右京にかわり,左京の洛陽が平安京の代名詞ともなった。つまり、都一般を「洛」と呼んだと言うのは誤りで、最初は平安京の左京、のちに平安京そのもののことをそう呼んだと言うことだろう・・。まあ確かに、Wikipedia の「首都」のページには、首都を「洛」と呼んでいたと言う記載はある(※2)が、このWikipediaは、誰でも編集が可能なので、いまいち信憑性に欠ける部分がある・・。実際にソースに基づかなかったり、曲解したり、勝手な自説を付け加えたりと、いい加減な編集をしている輩が、結構存在している・・。※1 確かに、Wikipediaを見ても、「首都」と言う言葉の初出は、1950年とある。下記は、Wikipedia 「日本の首都」より引用である。 ⇨日本の法令で初めて「首都」の語を用いたのは1950年(昭和25年)に制定された「首都建設法」(昭和25年法律第219号)※2 Wikipedia 「首都」 ⇨「日本では一般的に京、洛と呼ばれ、古代から明治までの律令においては「皇都」、明治期から戦前にかけては「帝都」、戦後は「首都」と呼称することが多い。」
@@benikodamasii 首都の定義を「中央政府のある都市」とするなら、「天皇による遷都の詔勅」や「武家の作った町は首都ではない」は貴方の勝手な創作定義であり、ウィキが定める首都の定義とは関係がない。定義をコロコロ変えるのであれば何でもデタラメに首都を定めることが出来る。
@@benikodamasii貴方は首都を「天皇のいる場所」と定義しているようだが、それは皇都と呼称するのが学術的であり、首都=中央政府は政治機能の中心の都市であり、そこに天皇がいようがいまいが関係ないし、天皇の命令で作られた町だろうが武家の命令で作られた町だろうが関係がない。ただただ中央政府のある政治機能の中心の都市であればいい。もちろん日本には表現の自由があるから貴方が首都をどう定義付けようと勝手だが、学術的に貴方のコロコロ変わる定義付けの手法や天皇の居場所を優先する定期付けは首都の定義付けにおいて通用しない。
💦なぜ伏水から、伏見(見るのを伏せる)って縁起の悪い表記にしたのでしょう?何かを隠してるって暗示❓
分かりません、、
【補足】
「伏見ってどこ?地図で示して!」という質問をいただきました。
今回の動画のテーマになっている伏見の場所は京都市の南部(京都市伏見区)です。
動画の後半の30:40で補足地図を示しています。
今回の動画のエリアは、最寄り駅で行くと、京阪電車の丹波橋駅、伏見桃山駅、中書島駅、観月橋駅。
近鉄電車の丹波橋駅、桃山御陵前駅。
JR奈良線の桃山駅あたりの話をしています!
そしてそして!
この動画を楽しんでくださった方は、サブチャンネルの番外編動画も是非見てください!
ruclips.net/video/aScrqqnFH-Y/видео.htmlsi=e8cOFmyODcIeJM_z
伏見愛あふれるビデオをありがとうございます。
こちらこそご視聴ありがとうございます!
私は今年 還暦で
伏見の観月橋付近に
50年以上住んでいます
地元をこんなにも詳しく
わかり易く紹介してくださって
ありがとうございます
👥👥🥷🎵
ありがとうございます😊
伏見住みです。長いこと住んでいるのに何も知らなかったことを思い知らされます。過去、なりたちを知ると、現在がより深く見えてきますし、より良い未来への道筋が見えてきます。歴史を勉強することは、今まで平面(2D)にしか見えていなかった風景が、立体(3D)に見えてくるような驚きがありますね。たくさんの人に見てほしいチャンネルです😊
ありがとうございます😊
一番嬉しいコメントです!!
今回の動画も大変勉強になりました。
知らないことを知ることができるというのは面白いものですね。
ありがとうございます!
京都市北部は地価が高いからあまり向いていないと目されているため伏見自体も化ける可能性があって、世界からはIT等のスタートアップを立てる日本最高の候補地と目されているようです。今後は日本のシリコンバレーとして世界中から優秀な人材が来るようになる可能性が高くなると言われています
誘致頑張って欲しいですね!
@@nipponsousei_tv
ITの発展の条件
0. 多様性を受け入れられる場所であること
1. 水が美味しいこと
2. 地価が高すぎないこと
さらに言えば歴史のある土地というのもメリットになりうる可能性があります
素晴らしい動画
ありがとうございます!
本当に毎回最高なクオリティの動画ありがとうございます🔥
ありがとうございます!恐縮です😭
伏見がそんな場所だったなんて知りませんでした。
ほんとに素晴らしいクオリティです。
ありがとうございます😊
83歳です17歳から33歳まで向島本丸町に住んでいました観月橋駅から桃山駅京阪電車で職場通っていました懐かしい画像ありがとう😆💕✨
ありがとうございます😊
私の祖父母が生前丹波橋に住んでおり、子供の頃は「大手筋いこか、お城いこかぁ」ってよく連れて行ってもらいました。この辺り一緒に歩いたなぁって当時の記憶が思い出され、懐かしかったです。動画ありがとう御座いました。
こちらこそご視聴ありがとうございました!
伏見桃山キャッスルランド懐かしいです。幼い頃連れて行ってもらいました。プールが冬には釣り堀として使われるのは有名な笑い話ですね😂
動画戦場のピアノ
麺馬さん!
行かれてたんですね!笑
プールが釣り堀は子供の夢ですね笑
伏見が京都とは別に独自の発展を遂げたことが紹介されてましたが、今は京都市の一部となっていますが京都市と合併する前には伏見市という市があったんですよね。
どこで見かけたかはもう忘れてしまいましたが、石碑?だったかに年号と伏見市**というのを刻んだものが残っています。
それから昔の伏見の人たちは京都駅や四条などの繁華街に行くときは「京都に行く」といってました、同じ京都市なのに。
これも昔は京都と伏見は別という感覚の名残なんだと思います。
歴史の名残ですねぇ
中書島駅からまっすぐ北上して竜馬通に入る手前にある蓬来橋を渡らずに右手に曲がると御大典記念碑が立っています。その背面に伏見市長の名前が書かれています。by地元民
今から60年前伏見区西奉行町のダンチ公務員合同宿舎に住んでいました。京阪電車の桃山御陵前で降りて大手筋で買物をしていました。其処が銀座街だったとは知りませんでした。桃山御陵には良く散歩に行来ました。今は米国に50年住んでいますが伏見が歴史的にそんなに意味深いところだったとは知りませんでした。色々ご説明ありがとうございました。
@@nakamatsu7753
桃山御陵前駅は近鉄で京阪は伏見桃山駅ですよね。
ちなみに桃山御陵前っていう駅名はアメリカ人にはとても発音し難いって聞きました。まずとても長いことに加えゴリョウのリョウが英語の発音に無いのでゴヨウ前って言うしかないって。
伏見出身、京都で旅行業してます。それこそ桃山に事務所があり、あらためて参考になりました。
今度伏見深掘りツアー企画します。
ぜひ深掘りお願いします!
伏見生まれで、大学卒業まで伏見で過ごしました。
伏見城や豊臣秀吉の認識はあったものの、首都機能という視点で見たことがなかったので、とても新鮮に感じました。
自分の故郷を宣伝してくれてありがとうございます!
とても丁寧に深堀されていて好印象です。
準備は大変だと思いますが、これからも取材頑張ってください。応援しています。
ありがとうございます😊
伏見桃山城の遊園地は子供の頃良く行きました プールもあったかな
6年くらい伏見に住んでましたが知らない事ばかりで勉強になりました!
見慣れた景色もちらほら出て来ましたがこの動画見てから伏見に行ったら今までと違う感覚で散策出来そうです!
ぜひ散歩してください✨
20年近く前に
向島や中書島に住んでいました
巨椋池干拓地は絶好のランニングコースでした
何もかも
とても懐かしく見させていただかきました
ありがとうございます
こちらこそありがとうございました😊
知らなかったことだらけの伏見に行きたくなりました。
今まで伏見に観光に行くという発想がなかったです。
行ってみてください!
観月橋駅、よく利用しますが、あんな道標があったなんて!全然気づいていませんでした。
普段から見逃してることが、たくさんありそうです。
意外と気づかないですよね!
伏見在住40年
素晴らしい動画を拝見し、娘にも転送しました。感謝です❤ありがとうございます。大阪駅前北区に育ち、あらためて秀吉に縁があったのかと思います。
ありがとうございます😊
昭和生まれです。幼い時、キャッスルランドのウォータースライダーへ夏に行くのが楽しみでした。乗り物の思い出はなく、そのプールとお城の印象しかないです。
やはりお城がランドマークだったんですね!
70代の母がキャッスルランド建設中の様子を覚えており、「基礎がコンクリートでできたハリボテやで」って言ってますね。小学生の頃、遊園地は何度か連れてってもらいました。池の周りを小さい列車で回るアトラクションがあり、列車に設置された銃で作り物の動物を撃って遊ぶ…というだけでも問題になりそうですが、最後の的が「原始人」だったため、後に大いに物議を醸していました。
伏見生まれの伏見育ち、写真の殆どは知ってる場所なのに、知らないことが多くあり、動画を楽しくみさせていただきました。ありがとうございます。
私もです! こないだ琵琶湖疏水の解説を見て、そんなに見どころがあったんだ!と知って、お盆に歩きに行ってきました。煉瓦造りのトンネルなどに感銘を受けました。歴史を知って見るとワクワクしますね。
こちらこそご視聴ありがとうございました😊
桃山キャッスルランド、大手筋よく行きました。懐かしいです。観月橋も昔は景色が綺麗だったのでしょうね。
昔が偲ばれますね。
少し前に開催された伏見名水スタンプラリーに行きました
大阪から京都へ向かった時に、この辺りから京都弁に変わるという感じがします
商店街のお店は観光客向けではなく、良心的な値段でした
まだ地元の商店街って感じですよね!
武家の名前が町名になっているエリアで
百貨店の配送(中元・歳暮が中心)のバイトをしてました。
一個いくら……というお仕事です。
あの辺りは、大きなおうちが多く一軒あたりにお届けする個数が多く(さっすが!)
バイトとしては、おいしいエリアでした。
めっちゃ家大きいですよね!
素晴らしい解説ありがとう御座いました
こちらこそありがとうございます!
明治天皇さんの陵、あそこは何故かビックリするくらい清々しいんですよね~
お城を建てたり陵の地に選ばれたりも納得の健やかな丘ですよね
雰囲気が素晴らしいですよね!
銀座町、桃山と住んでいた事があり、懐かしく見させていただきました。そうなんですよね、地元の方からも京都と対等だったとよく聞きました。知らなかった事も多々あり、勉強になりました。伏見愛に溢れていて、とても楽しかったです。ありがとうございます。
ありがとうございました😊
伏見生まれ伏見育ち現在はバリ島在住です
伏見には親戚も居てお墓もあるので日本一時帰国時は必ずよります
どこもとても懐かしいです、両側酒蔵の道寺田屋の前を過ぎ
大倉酒造(月桂冠)前を通って小学校に通っていました
明治天皇陵の300段の階段は周辺の学校の体育系クラブの練習場所でした
周辺には伏見城の瓦のかけらが普通に落ちていました
なかなか詳しく分かり易い動画でした
他の動画も興味深いです😀
ありがとうございます!
母の実家のあたりです。
100年ほど前は酒屋を営んでいたそうで、玄関から裏へ抜ける通路が2階まで吹き抜けになっている家でした。
桃山御陵は「ごりょーさん」と呼ばれていて、幼稚園の遠足で行ったり、あの階段のところが運動部の練習に使われたりしていました。
撮影時にもあの階段で走ってる方がいました!
最初の京都市電(日本初の電車)は京都駅から伏見までなので、当時は交通の拠点として重要だったんでしょうね。大阪までの交通は船が優勢だったのかな。
かつては船がメインでしたね!
ありがとうございます!
😭
ありがとうございます!!
これからも頑張りますね!!
めっちゃいい動画、楽しませていただきました♪
伏見出身(淀)ですが、こんな沢山の遺構があるとは驚きました‼️大変勉強させていただきました。
今度伏見に来られた時は、淀本町商店街にある伝説のコロッケ屋さん「翼虎(ヨクコ)」のコロッケを是非召し上がってください❤(もう食べておられるかもww)
コロッケ食べてませんw
今度行ってみますね!
安土伏見時代が良いですね
同意です!
伏見がそんなにすごい所だったとは知りませんでした。知らずに7年ほど前に寺田屋行きました。銀座町の由来は知っていましたがその前に銀行があったのでなるほどと思いました。地名とか町名は面白いですね。桃山キャッスルランドも1989年ごろに主人と付き合っている時にランドで遊びました。
その時も歴史がごっちゃになってました😅観月橋の由来も初めて知りました😅
歴史は面白いですよね✨
自分は伏見の銀座町で生まれたのですが、東京の銀座に住んでいます。
銀座の人口は約3600人と激少ないので、銀座産まれで銀座在住者は自分だけだと思います。
レアすぎますね笑
ちょうど数日前に司馬遼太郎の長編小説「関ヶ原」上・中・下すべて読み終えた絶妙なタイミングでこの動画に出会いました。これも何か大切なご縁というものでしょうか。伏見城で家康が征夷大将軍宣下されて始まり二条城で慶喜が大政奉還をして終わった江戸時代もやはり京都大阪すなわち上方を抜きにしては語れないということでしょうね。
おっしゃる通りです!
安土桃山時代の「桃山」の由来を知らない日本人が多いのでこういう動画を広めてもらえると良い!
頑張りますね!
伏見生まれの伏見育ちです❤ありがとうございます😊
ありがとうございます😊
嬉しいです。
今後ともよろしくお願いいたします!
伏見に住んでても知らないこと多い。伏見納所の歴史もあれば、みてみたいです。
意外と知らないですよねぇ✨
めちゃめちゃ楽しめました✨️
子供の頃は頻繁に桃山城に遊びに行きました
が、普通に“本物の城”と、疑うこともしませんでした
無知って怖いですね😅
意外と知らないですよね!笑
チャンネル登録者50500人突破おめでとうございます!
拙者は東山区生まれですが、京都市民は貧乏になると南下する都市伝説から伏見区永住中ですwww
栃木県に住んでいた時に宇都宮のオリオン通り商店街へ行ったのですが、見た目が『映画館が在った時代の大手筋商店街?』と思ってしまいましたwww
宇都宮は行ったことないです😭笑
かつて伏見区桃山に住んでいた者ですが、やっぱり地図が出ないと元住民である僕にも”これどこやったかな?”と迷ってしまいます。
御香宮神社ですが、地元民は「ごこうのみや」とは言わず、「ごこうぐう」と呼んで親しまれていますね。毎年10月10日に開かれる祭りによく行ったもんです。
同じ京都にありながら、市内と伏見区では文化が違うなということは感じていました。元々別の街だったですからね。
京都の街は碁盤のマスで区切ったように道路が東西南北に走らせられており、とても分かりやすく、伏見においても同じように区切りがなされているのですが、市内は御所メイン。伏見は伏見城の城下町として整備されたわけで、別物だということです。(大阪城かと違うのは東西の道を”〇〇筋”、南北は”〇〇通り”と逆の命名になっています)
今の伏見桃山城が本当の場所に建てられていないということは知っていました。でも我々にとっては”お城”といえば伏見桃山城であり、シンボルなのです。
それと当動画では明治天皇量から北堀公園までがすぐ近くのような印象を受けますが、実際は相当離れています。徒歩1~2時間はありますね。
よろしければ私のブログ(現在更新休止中)をご覧ください。故郷である桃山城周辺について書いてます(僕も地図を付けておくべきだったかなと反省^^;)
↓
suterarehen.seesaa.net/archives/20160603.html
伏見と言っても日野、醍醐~羽束師と東西に広いですからね、
ちなみに、一応は地方港湾の指定にはなってるので、法律上は現役の港湾施設になりますね。中書島は元は遊郭だったし、何となくあの辺りは雰囲気が違いますね。
寺田屋も現役の旅館だったりも……
独特の雰囲気がありますね!
私も政治が行われていた街を首都と言ってる事に何の疑問もありませんし、実質的に政治を行なってたのは武家だし、その様な見方をする人は多いですし、首都伏見は何度もきいてますから、そうだと思う、たくさんの人の首都伏見は捉え方が政治の中心であった街って捉え方なんだろと、思います、今でも政治は天皇ではなく政治家ですよね、人の考え方は色々有りますからなかね!
日本の考え方だと首都の定義は天皇の所在地ですが、ここでは首都「機能」の話をしているのでこのような表現をしました!
補足ありがとうございます😌
楽しく拝聴しました。ありがとうございました。
安土伏見時代に賛成!
変えて欲しい!
伏見全ては観光できませんが3〜4年前に行きました。京都に住んでいる同級生の案内で小中学校の同級生14〜15人で伏見稲荷や寺田屋等等行きましたので懐かしくて動画見させていただきました。観光客が多く賑やかな街並みですよね。
貴方の別な動画も色々見させてもらっています。観光名所でありかつては政治を司る京都ですが砂防ダムの動画のように知らない部分も沢山あるのでしょうね。ちなみに砂防ダムの動画はいぜん別の人の動画でも見たことがあります。あの時はまだまだ家が建ち並んでいたようでした。
ありがとうございます。これからも見てください!
私も永く伏見区に住んでいます。
日本国の政権は源平交代説があり
室町幕府源氏足利から織田信長桓武平氏を
名乗り政権を獲りましたが、秀吉も主君同様平家出身を名乗りましたがその後豊臣姓を創設して、平家の先祖桓武天皇陵墓に
伏見城を建てて、日本国政権支配者を
アピールしたのです。
血筋が重要なのですね!
桃山キャッスルランドの影響で、てっきり桃山城という言い方が当時からあったと勘違いしていました。勉強になりました。
一点、伏見が酒処になったのは、明治以降、東海道線が開通して鉄道輸送で東京市場に運べる様になってからですね。それまでは伊丹・池田、灘に比べればとても少量だった筈です。もしご興味あれば調べてみてください!
ありがとうございます!
日本の歴史上これだけ重要な土地であっても、この地だけは外国人が押し寄せない穏やかな場所。
確かにです!
若い頃伏見の深草に住んでいたことがあります。一時期、桃山南口にも住んでいました。 御香宮のお祭りにも行きましたが、都があったことは初めて知りました。ありがとうございますm(__)m
今は、兵庫県に住んでいますが、懐かしく拝見しました。
オフィシャルな都というよりは首都機能ですね。ありがとうございました!
京都市に長年住んでいますが 伏見については全く知らずにいました
伏見がかつて「日本の首都」やったなんてねぇ・・
意外と知らないですよね!
キャッスルランドのお子様ジエットコースターに乗って半死にでした。 徳川家康が伏見で暮らしてたんですね・・・
天下人ゆかりの地です!
いつも面白い動画をありがとうございます😃
以前、伏見巡りをしたのですが、昔は「副首都」、経済・交通の要所となる「港湾都市」として栄えていたんだろうなと感じました。
秀吉・家康としても、伏見は京都の朝廷と近すぎないけど目を利かせられるちょうどいい土地だったのではないでしょうか。
伏見には今でも幹線道路や倉庫群が多くあり、京都市内でも有数のポテンシャルを感じます。
この地域の発展なくして京都市の発展はないと言えるのではないでしょうか🤔
おっしゃる通りまさにちょうど良い場所だったんでしょうね!
本当に伏見のポテンシャルは高いと感じます。
交通アクセスも良く、適度に郊外で住環境も良さそうです。
都心部を開発できない京都市にとっては最重要エリアの一つと言えそうですね☺️
伏見桃山城には 2019年12月に行きました コロナ禍発症時だったので 人影は数人しかいませんでした 他に廻る所がないので 古い町並みを探していましたが見つからなかったので 宇治に移動しました 御香神社の山門と源空寺の山門 こんな遺構があったなんて知りませんでした 機会を見つけて是非行ってみたいです ご紹介ありがとうございました 😁
是非巡ってください!
伏見はお休みの日に行って、大阪よりもくつろげたり、また歴史の見どころがある街です。約三十万人以上の人口があり、東は山科地区にくい込んでいて、哲学の道から入り、疏水沿いを行くと、春は桜、秋は紅葉で静かな散歩ができます。山科に着いたら、ついでに毘沙門天さんに寄ったりして、山科から南下して伏見にはいります。下鳥羽には濠川沿いに酒蔵があって菜の花が咲いたら見事な景色になり、よく写真撮影されていますね。下鳥羽の合戦が激しかった地区ですね。私はここから歩いて、大手筋商店街に入り、南端の納屋町商店街を楽しみながら歩いて濠川沿いの寺田屋に到着、龍馬が入浴中に襲われたというお話を思い出しながら、散策します。川を船に乗って下る人たちに手を降りながらそこいらにある酒蔵巡りをして、大手筋商店街の賑わいも楽しみます。食事したり、買い物したり、1日に疲れない程度に遊ぶことができて、ほんとに楽しい街です。子供連れでも、夫婦でも一人でも唯一楽しむことができる、肩の凝らない街に癒されています。
伏見は不思議な魅力がありますよねぇ
鴨川から伏見と動画が南下してきたので次は舟運の始まりの八幡から枚方までの動画にしましょう…😄八幡市あたりは遊郭もあり面白そうですよ…😊現代では舟運はある意味不思議で川上に向かってエンジンもない舟で輸送する事に驚愕します…😳
@@長田正幸-q5c 遊郭は八幡市内でも橋本中心やった気がする‼️
長田さん!!
ありがとうございます😊
水運関係はシリーズ化を検討しておりまして、おいおい取り上げるかもしれません✨
次はライブ配信も来てくださいね!笑
中書島もちょっと夜の街の名残がある地域がありますね
@@ytanaka257 中書島から伏見港公園の方は何も無いんですがホンマの駅前には少しだけ残ってますかね。でも大した事ないですよ‼️
動画楽しみに待ってました!!
伏見を紹介する動画で伏見稲荷を一切出さずにこのボリューム、満足感、さすがです✨
恥ずかしながら私も伏見稲荷以外ほとんど訪れたことがありません😂
サライさんの動画で、今まで見逃していた京都の魅力を再発見できてとても嬉しいです😊
リクエストなんですけど、私源氏物語が大好きで、今年の大河ドラマ毎週楽しみにしてるのでが(笑)、源氏物語特集なんかできたらお願いしたいです😊
今までの動画とちょっと毛色が違うと思うので、RADIOの方でサラッととかでも!
とはいえどの動画もとても面白いので、どんな動画も楽しみに待っています😊
ゆみさん、
ありがとうございます😊
そうですよね、伏見稲荷以外はなかなか行かないですよね笑
源氏物語!確かに大河と紐づけるのも面白そうですね。
検討します!
でが ➜ ですが
町名に鍋島や島津、毛利が今も残ってるのよな
はい!
伏見の大手筋は商店街が有名や!京阪・伏見桃山駅or近鉄・桃山御陵前駅下車が大手筋商店街に最も近い!JR桃山からは少し歩くで‼️
俺も自転車での遠乗り(就職前までの趣味)、選挙候補者の応援で大手筋商店街はちょいちょい訪れたなぁ
大手筋はいつも賑わってますね!
全国的にはシャッター商店街が主流だが伏見の大手筋は商店が乱立して非常に賑やかである‼️
本当に面白い
・江戸時代のスタートは伏見から
・伏見桃山城がテーマパークのアトラクション
・観月橋の名前の由来
ありがとうございます😊
そうか!そうだったのか! 京阪線東福寺の山手に高校がありました。そこから南の伏見は京都やない感をなんとなく子どもの頃からいだいていました。 動画で納得しました。
因みに、木幡山に言及されていましたので、お願いです。
小幡、因幡、竹田真幡木、など 幡の地名が気になります。また、調べてください。
洛中とは雰囲気が違いますよね!
ライオンズマンションの奥の旧国家公務員宿舎が本丸跡やと思います。
掘ったら出てくるから取り壊せないとかなんとか・・・公園にするという計画もあったみたいですが、どうなってるんやろ?
ちなみにそこの旧国家公務員宿舎に7年ほど住んでました。
そんなんですね!
21:01
マンション名としては、
「ライオンズ伏見桃山 指月城」
です。
京都市・京都府の行政、歴代の首長が腫れ物に触れるような対応をしてきて今があるのだろう。都市計画に従い、日本国民に混じって生活出来るよう指導力を発揮すべきだ。
いつも観させていただいてありがとう(*´∀`)♪
わたしはかつて仕事の関係で伏見に住んでいたことがあります
その時に住んでいたのは「水野左近東町」でした
おもしろい町名だな〜って思っていましたが
そういう由来があったんですね
そういえば競技カルタを製造販売している「大石天狗堂」というお店が伏見御陵駅の近くにあります
旧い百人一首札や花札を復刻して販売されております
もしよければ訪れてみてはいかがでしょうか?
ありがとう♪( ´▽`)
カルタ屋さんは知りませんでした!!
伏見桃山城がアミューズメントスタートだと初めて知りました。伏見区民ですが^_^
意外と知らないですよね!
이 동영상을 보고
일본의 역사를 일부분 알게 되어서 참 좋았습니다. 교토에 모두 두번 가보았지만 또 가보고싶습니다.😅
この動画を見て
日本の歴史を一部分分かって本当に良かったです。 京都には二回行ったことがありますが、また行ってみたいです。😂
また来てください!
私は昭和28、29年(小学5、6年)に伏見の寺田屋のそばに住んでいた。同級生のクラスに寺田屋の養女のみっちゃんという子がいた。当時はみんな生活が大変で歴史に関心のある人は少なく、寺田屋もその庭は子供の遊び場だった。坂本龍馬の銅像はなく薩摩の過激派の数人が島津久光の放った刺客に切り殺されたという事件の文部省の標識があった。
時代を感じますねえ
本丸の北西の長束郭御花畑に近鉄が建てた模擬天守は、洛中洛外図を元にして遊園地のランドマークとしては、かなりリアルなので映画撮影にも使われている。市民が解体に反対したので市有公園の一角に残っている。人出も少なく城好きの散歩にはちょうど良い。
穴場ですよね!
伏見に住んでいて知らない事ばかり。学生の時にこの話しを聞きたかった。
桃山の由来について、Wikipediaからの引用です。
「桃山」の名の由来となった京都市伏見区の桃山丘陵は、秀吉がその晩年にきずいて本営を設けた伏見城の跡地で、廃城ののち元禄時代ごろまでに桃の木が植林され、安永9年『伏見鑑』が発行された頃から「桃山」と呼ばれるようになったという[1][3]。
この情報がものの見事に真相だったとして、桃山と呼ぶか伏見と呼ぶかは地名もとい時代区分の呼び名は経済を考慮して決めるべきかという問題になりますね🤔
再開発の為に改名している市区町村がどれほど上向いているか存じ上げませんが、教科書などの編纂コストの概算によっては改称した方が良いんじゃないか…
桃山は後世の呼び名ですからねぇ
安土桃山時代にはなかった呼び名なのに時代名になっていることに違和感があります
伏見の十石舟には乗らなかったのですね!残念!
昔の人はここから大坂に行ってってことが実感できます!
乗りませんでした!
洞察力の鋭さに賛成です、その時代に存在してみたのなら分かるけど人の多分そうだろうなんて意味が無い‼️
ありがとうございます!
GREAT!
13:46
@@niwanori50 yazawa
いやぁ、今回も面白かった
ありがとうございます😊
太閤秀吉の城がありましたね。
前伏見稲荷大社行ったあとにレンタルサイクルでぶらぶらしてたら任天堂本社ありましたね
あれはプチ喜びでした
任天堂ありますね!
洛中出身者は今の伏見歯ガラが悪いので避けてる印象。上京区から結構な距離だし、基本行かないですが、どうする家康に頻出し、今とは違ったんだなと思っていました。
栄光の時代がありました!
なぜ桃山時代と言うのか、めっちゃ違和感あったのですが、これでやっとわかりました。
よかったです!
伏見は山伏たちが休息をとるために発展した街だそうですよ。もとは仏教の町?
湖は、どのように?
秦氏の伏見稲荷神社より以前は?
巨椋池の動画を見てください!
京都も怖いですね😨
簡単な英語字幕を付け動画投稿して、全世界の人に分かってもらいましょう❗️
こんにちは、
こんにちは
今回取り上げて頂いた辺りは伏見も綺麗なんですが、そうですねえ名神高速道路の下辺りから北側は南区に接して、崇仁地区になっちゃうんですよ。昔なんか、タクシーの運ちゃんに伏見を断られた事がありますわ。
伏見の銀座って東京のパクリだと思って鼻で笑った自分の無学が恥ずかしい😂
伏見区って広いですよね
京阪地区に住んでいる人からしたら東京は天皇が別荘として住んでいるだけで首都は今も京都って思っている人が多いと思います
だって東京都は東の京都であって京都が純粋な京の都ですから
そういう考え方の人もいるみたいですね。
首都は東京だと思いますけど、、
地図で伏見を示さないから全く分からない。
30:51
失礼しました。
今回の動画のテーマになっている伏見の場所は京都市の南部(京都市伏見区)です。
駅で行くと京阪電車の丹波橋駅、伏見桃山駅、中書島駅、観月橋駅。
近鉄電車の丹波橋駅、桃山御陵前駅。
JR奈良線の桃山駅あたりの話をしています!
後半で補足地図を出しています。
@@kiis3035
フォローありがとうございます!
何の為にGoogleマップがあるんだよ
首都って天皇がいる場所ではないでしょうか?政治の中心地と首都と違いますよ
失礼しますよ。
首都の定義は「中央政府のある都市」なので、承久の乱で武家に処罰されまくられ、六波羅探題に監視を受ける存在となり、ただただ幕府に決定権がある官位の授与を行うだけの朝廷(平安京)が、中央政府のある都市(首都 )とは言えないでしょう。
ちなみに日本において天皇により遷都の詔勅を出されて都と定められた場所のことは一般的には京、洛と呼ばれ、古代から明治までの律令においては「皇都」、明治期から戦前にかけては「帝都」と言う。「首都」など戦後に一般化した呼称に過ぎません。
貴方の定義であっています。
<以下、@user-er2pr7wj2y氏とのやり取りの結論部分から引用>
「天皇の所在地」=「首都の所在地」とする辞書の存在を発見しました。こちらは、原典には当たれていませんが、原典の名称と、内容までは把握しています。原典名も開示しますので、疑義がある場合は、トレース可能です。
1. まず、Wikipedia 「日本の首都」を開いて下さい。
2. そして、「辞典による日本の首都」の項目までスクロールして下さい。
3. そこに、「平安遷都など歴代の遷都をそのまま首都の移動とするもの[14]。」という表記が確認できます。
4. ここで、文末の[14]を押下すると、「三野与吉監修 『人文地理辞典』 東京堂、1959年(昭和34年)改訂再版。」との原典名に辿り着くことができます。
ここで、上記文言に含まれる「遷都」が一体何を意味するのかが大事になってきます。そこで別の辞書を引くと、下記の通り、日本における遷都とは、天皇の宮城を正式に移すことに限って使われると、記載されています。
・日本大百科全書(ニッポニカ) 「遷都」
⇨政府の所在地を移しかえること。日本では天皇の宮城を正式に移すことに限って用いられ、幕府の開設には使われなかった。
つまり、「三野与吉監修 『人文地理辞典』 東京堂、1959年(昭和34年)改訂再版。」の記載から、「首都の所在地(変遷)とは、天皇の宮城の所在地(変遷)に他ならない」との結論が導かれます。
5. 上記文言の、さらに1つ下に、「1869年(明治2年)に東京城(江戸城)が皇城(皇居)とされ太政官が東京に移されたことと、1871年(明治4年)に府県の順序で東京が第一とされたことで、東京が首都の地位を得たとするもの[15]。」との記載も見られます。
6. ここで、文末の[15]を押下すると、「永原慶二監修 『岩波日本史辞典』 岩波書店、1999年(平成11年)。」との原典名に辿り着くことができます。
この文言を確認すると、東京が首都の地位を得た理由の1つとして、「1869年(明治2年)に東京城(江戸城)が皇城(皇居)とされ太政官が東京に移されたこと」とありますね?ここでも、天皇の居住地の移転が、首都の移転の根拠とされていることがわかります。
7. さらに、少し下の方ににある「天皇・都に注目したもの」の項目までスクロールして下さい。
8. ここでは、「首都移転は皇室の座所の移動(御動座)を伴うものだとするもの(1996年(平成8年)の総理大臣・橋本龍太郎の国会答弁[19])。」との表記を確認できます。
9. [19]を押下して、原典を確認すると、「第136回国会 国会等の移転に関する特別委員会 第5号」とあります。
ここでは、1996年(平成8年)の総理大臣・橋本龍太郎の国会答弁]において、「首都移転は皇室の座所の移動(御動座)を伴うものだ」と述べられたと記載があります。つまり、辞書定義のみならず、日本政府の見解としても、首都の所在地=天皇の所在地なのであると見做せますね。
これにて、「平安京は1000年間、首都であった」との命題は、前回の背理法とは別の方法になってしまいましたが(本来こちらの方が正当派の証明であるが・・)、証明することは一旦できたと言えるでしょう。そして、この証明事実を前提にするならば、首都定義の「中央政府」は、やはり、江戸時代ならば「朝廷」であったと見做さねば、背理となってしまいます。
と、ここまで書きましたが、一方で、
10. さらに下にスクロールし、「首都機能・武家政権に注目したもの」の項目までスクロールすると・・
11. 「江戸は中央政府の所在地として首都と意識されていたが、幕末に政治の中心となった京都が首都となり、更にそれが明治政府の置かれた東京に移ったとするもの[24]。」などの記載もあります。
12. [24]を押下して、原典名を確認すると、「佐々木克 『江戸が東京になった日 明治二年の東京遷都』 講談社、2001年(平成13年)。」と記載があります。
こちらは、辞典などではなく、いち書籍に過ぎないので、内容の蓋然性は前者に比べて、遥かに劣りますし、日本の政府見解とも異なりますが、このように政治組織の名目上の頂点の所在地ではなく、実際に具体的な政治が行われた場所に着目した首都定義というのもあるようですね・・。つまり一応、貴方の主張「江戸は首都である。」「首都圏定義の中央政府は幕府である。」も、全くの出鱈目というわけでもないようです。
@@ラッキー純-h2x
貴方とやりとりをしていた(私がコメ主の)コメント欄で、貴方からお返事が来なくなったので、心配になり、念のためこちらに連絡しております。私はPCで投稿をしていたのですが、どうも、スマホのブラウザやアプリでは、コメント返信をきちんと全件(現時点で96件)表示できないらしく、私の最新の返信が表示しきれないようでした。もしPCをお持ちでしたら、そちらで、確認をお願いいたします。もっとも、最終的な証明のコピペだけは、こちらのコメ主である@user-gr9ds1oi3f氏に向けてですが、貼り付けましたが・・。
しかも、スマホアプリ版のRUclipsにはとんでもないバグがあるようで、新着表示順にすると、先日、私が投稿しては、自動削除され、少し編集しては、再投稿をして・・を繰り返した投稿の数々が、全て表示されます。これは、別に悪意の大量投稿ではないため、ご承知おき下さい。
@@ラッキー純-h2x
貴方とやりとりをしていた(私がコメ主の)コメント欄で、貴方からお返事が来なくなったので、心配になり、念のためこちらに連絡しております。私はPCで投稿をしていたのですが、どうも、スマホのブラウザやアプリでは、コメント返信をきちんと全件(現時点で96件)表示できないらしく、私の最新の返信が表示しきれないようでした。もしPCをお持ちでしたら、そちらで、確認をお願いいたします。もっとも、最終的な証明のコピペだけは、こちらのコメ主の方に向けてですが、貼り付けましたが・・。
@@ラッキー純-h2x
貴方とやりとりをしていた(私がコメ主の)コメント欄で、貴方から応答がなくなったので、念のためこちらに連絡しております。私はPCで投稿をしていたのですが、どうも、スマホのブラウザやアプリでは、コメント返信をきちんと全件(現時点で96件)表示できないらしく、私の最新の返信が表示しきれないようでした。PC版で、ご確認願います。
いわゆる諸説ですね。やはり首都を名乗るのは首長が根拠となりえます。そういう意味では京都御所ですね。城はあくまでも権威の象徴であり首都の根拠とは異なります。日本は第二次世界大戦後に天皇陛下の権限が失われるまでは天皇陛下が首長でしたから天皇陛下=首都が正しい根拠と考えます。
正式にはそうですが、この動画における首都とは首都機能のことを指しています。
知り合いに伏見くんがいます。
珍しいですね!
@@nipponsousei_tv 元オリックス現日本ハムに、北海道千歳市出身の伏見寅威捕手が在籍してます。
おっしゃる通り、安土伏見時代ですね。
これは、歴史学者を巻き込んで呼び方を変えるべきです。
間違いを正していくのも大切な歴史のひとつです。
近代日本史も、ようやく林千勝先生の御尽力で動画配信され、正しい近代日本史、世界史を見ることが出来ています。日本人は全員正しい近代日本史を知るべきです。学校で学ばせてもらえませんから。
日本における首都とは、天皇により遷都の詔勅を出されて、都と定められた場所のことをいう。言うては何だが、たかが武家に過ぎない(あまつさえ元農家である)豊臣家により作られた町で、首都はないだろう・・。当時の首都は、天皇の居住地たる平安京、すなわち洛中である。そう言う意味では、京田辺は、確か府内最古の、筒城宮(つつきのみや)という都が、あったはずである。木津川市の恭仁宮(くにのみや)や、マニアックなところでは、福岡県朝倉市の朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)などは、遷都の詔勅に基づく、れっきとした都であるが、伏見も鎌倉も、ただ武士により治められた政治の中心地というだけであり、都ではない。つまりそれは、首都ではないのである。東京も遷都の詔勅に基づかないものであるため、首都ではないとする考え方もあるらしいが、こちらは明治以降実質的に天皇がお住まいであられるので、首都と見ても差し支えなかろう。
この動画でいう首都の定義は「首都機能」だと捉えてください。厳密にはおっしゃる通りです。
言うては何だが、日本において天皇により遷都の詔勅を出されて都と定められた場所のことは一般的には京、洛と呼ばれ、古代から明治までの律令においては「皇都」、明治期から戦前にかけては「帝都」と言う。「首都」など戦後に一般化した呼称に過ぎない。
@@ラッキー純-h2x
>「首都」など戦後に一般化した呼称に過ぎない。
確かにその通り(※1)。しかし、だからといって、平安京が首都であったという表現に問題があることにはならない。なぜならば、その当時その言葉が存在したかどうかと、それを現代の言葉で、どう表現するのが適切かは、全く別の次元の問題だからだ。例えば、「女」と言う言葉が誕生する前の日本を想像してみよう(例えば、大和朝廷に併合される以前の関東など)。そこでは、「女」のことは、「女」ではなく、「ほげにゃ」と呼称していたものとする。そこにいた、金色の玉を有さぬ方の性別に属するある個人のことを、現代の我々が、その人は「女」であったと、呼ぶことに何の問題があろう?「いや、当時は、『女』と言う言葉はなく、ここ関東では、『ほげにゃ』と呼んでいたのだから、その人は、『ほげにゃ』だ!」とはなるまい。なぜならば、現代の我々で言うところの、それは「女」に他ならないからである。ここで、いくつかの辞書で、「首都」を引いてみよう。
goo辞書(しゅ‐と【首都】 の解説)
⇨その国の中央政府のある都市。首府。
Weblio(しゅ‐と【首都】)
⇨その国の中央政府のある都市。首府。
ここでいう「中央政府」が日本においては、大和朝廷などの天皇を擁する機関のことなのであるから、まさに平安京や、平城京、その他(筒城宮・・etc)は、まさに首都そのものであろう。ただ、当時はそのように呼ばなかったと言うだけの話だ。
> 言うては何だが、日本において天皇により遷都の詔勅を出されて都と定められた場所のことは一般的には京、洛と呼ばれ、
京はともかく、洛は違うのではなかろうか。世界大百科事典(旧版)[コトバンク]に次なる記載がある。
世界大百科事典(旧版)[コトバンク] 京都市
⇨嵯峨天皇の時,唐の都城名をかりて左京を洛陽(城),右京を長安(城)と名付けたことから,衰微した右京にかわり,左京の洛陽が平安京の代名詞ともなった。
つまり、都一般を「洛」と呼んだと言うのは誤りで、最初は平安京の左京、のちに平安京そのもののことをそう呼んだと言うことだろう・・。
まあ確かに、Wikipedia の「首都」のページには、首都を「洛」と呼んでいたと言う記載はある(※2)が、このWikipediaは、誰でも編集が可能なので、いまいち信憑性に欠ける部分がある・・。実際にソースに基づかなかったり、曲解したり、勝手な自説を付け加えたりと、いい加減な編集をしている輩が、結構存在している・・。
※1 確かに、Wikipediaを見ても、「首都」と言う言葉の初出は、1950年とある。下記は、Wikipedia 「日本の首都」より引用である。
⇨日本の法令で初めて「首都」の語を用いたのは1950年(昭和25年)に制定された「首都建設法」(昭和25年法律第219号)
※2 Wikipedia 「首都」
⇨「日本では一般的に京、洛と呼ばれ、古代から明治までの律令においては「皇都」、明治期から戦前にかけては「帝都」、戦後は「首都」と呼称することが多い。」
@@benikodamasii
首都の定義を「中央政府のある都市」とするなら、「天皇による遷都の詔勅」や「武家の作った町は首都ではない」は貴方の勝手な創作定義であり、ウィキが定める首都の定義とは関係がない。定義をコロコロ変えるのであれば何でもデタラメに首都を定めることが出来る。
@@benikodamasii
貴方は首都を「天皇のいる場所」と定義しているようだが、それは皇都と呼称するのが学術的であり、首都=中央政府は政治機能の中心の都市であり、そこに天皇がいようがいまいが関係ないし、天皇の命令で作られた町だろうが武家の命令で作られた町だろうが関係がない。ただただ中央政府のある政治機能の中心の都市であればいい。もちろん日本には表現の自由があるから貴方が首都をどう定義付けようと勝手だが、学術的に貴方のコロコロ変わる定義付けの手法や天皇の居場所を優先する定期付けは首都の定義付けにおいて通用しない。
💦なぜ伏水から、
伏見(見るのを伏せる)って縁起の悪い表記にしたのでしょう?
何かを隠してるって暗示❓
分かりません、、