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紀伊廃止直前、廃止反対を訴えに国鉄本社に沿線自治体が車で陳情に行った際、国鉄のお偉方から、何故紀伊を使わなかったのかと言われたとか。
身につまされる話ですなー、車じゃなく国鉄で行けよ···、と思いますね、九州でも似た話が有ります。国鉄分割民営化反対の国労と動労が、ローカル線廃止反対のさだまさしが組んで筑豊地区で無料野外コンサートをした時の話で、門司局が敵対する組合のコンサートだが、ローカル線廃止反対を謳うコンサートなら利用してくれるだろう?と臨時列車を出したものの利用は20人にも満たぬ乗客だったとか···さだまさしのファンのお里が知れると、当時の私は思いました。
地方が車社会である今、鉄道を含む公共交通自体をちゃんと利用しないと残せないことを改めて認知しないとダメですね。自家用車を手放せとは言わないが。本数が少ないことを理由にするなら、地域と連携して、沿線民が利用しやすい環境を整えて、しっかり利用する姿勢をこちらが見せるしかないかと。
よくあるパターン。おまえらが乗らなかったから廃止なんだ、おまえらが買わなかったから生産中止なんだ、と。
まだ「運転停車」というものを知らなかった時刻表ビギナーの頃に、東京を連結して発車した出雲3号と紀伊号が名古屋で通過マークで分離するのを見付けた時、走行中に連結を切り離すものだと当時は思っていました 。
それでもよかったよね どうせ事故起こすんだし
逆に上りだと通過中に連結するのか
上りは名古屋駅で客扱い停車があったそうです(廃止直前時点で名古屋1時00分発)。
1982年に名古屋駅でDD51が機関士の飲酒運転が原因で紀伊の14系と衝突したんだよな
同時期に設定されていた特急出雲は京都駅を通過になっていたので、東京駅からディーゼル機関車を連結しているのかと思っていた。同じような勘違いをしている人がいたんですね。
紀勢貨物も廃止されちゃったし、多気駅が寝台列車も扱ってた忙しい時代は遠くなりました
かつては、天王寺発の紀勢本線経由の名古屋行き普通寝台列車『南紀』、のち亀山行きとなった『はやたま』(寝台車のみの呼称で、新宮までの列車名)など一時期は夜行列車が全線で存在した紀勢本線。 EF58もバンバン走ってた。味わい深かったなぁ。
父の田舎が三重県の多気町だったので、急行時代からよく利用してました。牽引も東海道はEF58、関西、紀勢線はDF50でした。特急になっても牽引はしばらくEF58、DF50だったと記憶してます。
これのおかげで国鉄運転手の飲酒運転に厳しい目が向けられる様になりました😅
全国への知名度は黒歴史でした。
新聞に「たるみ国鉄、またか!」と大きく見出しに書かれて叩かれていましたね。
先に書き込みされてますがDD51の事故有りましたね。特急格上げで14系に置き換えで寝台特急いなば、出雲2号3号と併結この頃の、東京発の東海道ブルトレで14系は、さくらとみずほ、出雲、紀伊で、14両編成であった為に8両、6両の分分割併合が容易かった。
14系の「さくら」「みずほ」「いなば(出雲)・紀伊」は、共通運用だったと思います。
もう一点。DD51の衝突事故。一つ気になるのが、誘導員の人はご無事だったのだろうか?(・_・;)
ブルートレイン時代の紀伊号、いつも高校の夜学の帰り、相鉄線の列車とほぼ並走、車内からいつも見ていた列車でした。ブルトレの中では地味の筆頭クラスだと思うのですが、自分の中では印象に残っている列車です。
寝台特急「紀伊」の登場する推理小説は西村京太郎原作の「寝台特急「紀伊」殺人行」に登場しました、その後、TBSドラマザ・サスペンスで放映されました、出演は若林豪・下川辰平・金田賢一が出演されました。なお、デロッブには「劇中の寝台特急「紀伊」はダイヤ改正で廃止されました」と表記されました。
そのドラマが放送されたのが40年前の今日です。この時期の氏の作品には紀伊を始めしらさぎ、北陸、おおぞらなど途中で方向転換するのを利用したトリックが多かったですね。
ヒロインが、斉藤とも子サンでしたかね?
@@sennazico7845 ええ、作品としては「おおぞら3号殺人事件」と「特急しらさぎ殺人事件」や「寝台特急「北陸」殺人事件」ですよ。
なお、東京〜紀伊方面の需要は全く無い訳ではなく、三重交通・西武バスの夜行高速バスが、現在でも一往復運行されています。
かつては東京~那智勝浦~高知の日本高速フェリーもありましたな。(*´ω`*)
夜行なら、ということですね。確か、数年前、夕方に東京を出て新幹線→特急南紀でその日のうちに新宮まで行ったことがあります。これが可能である以上、寝台特急である必要はないように思いますが。。。
結局バス1台分の需要しかないってことか(TT)
@@kenken-c2w それは違う。新幹線とJR東海の特急でたどり着けるので。とはいえ、特急南紀も今は2両編成なので、需要は減っているのでしょうね。ただ、那智とか熊野古道に行くと、今は外国人観光客が結構いるのですが。
前回のまりも2両よりも、紀伊鳥羽行き2両のほうが定期なので、こっちがすごい
名古屋駅での飲酒追突事故の写真が、とても衝撃的でこの列車のことで一番覚えてます。
当時、名古屋駅に写真を撮りに行きましたね。たしか、出口機関士だったような気が。
出口林平のブルートレインアタック!
この2年後、西明石で似通った事故をやらかすんですねぇ…。😓😓😱
この列車からはやはり名古屋駅の事故を思い出します(申し訳ありませんが)「国鉄たるみ底なし」と大きく見出しが出ていました。そして信じられないようなだらけきった内情が明らかになり、国鉄分割民営化が加速しました。
これには乗りたかったなぁ。
懐かしき紀伊号。ディーゼル特急くろしおが食堂車まで連結して天王寺・名古屋間を走っていた今から見て嘘みたいな時代です…。さらに昔は和歌山市駅と東京を結ぶ寝台車までいましたから。急行きのくに・はまゆう・志摩・紀州・しらはまなどキハ58とその仲間たちが席巻していましたね! 全ては今は昔。
東京発鹿児島行のフェリーが那智港に寄っていた時もありました。色々な需要があるのになかなか乗車時間が短くならない場所の一つです。
まず1つ、紀伊は寝台急行ではなく寝台特急で同じ寝台特急いなばと併結されていた列車でもありました。因みに名古屋駅でいなばと切り離されその後亀山、多気と分離して行った事は有名でしたが、この当時は南紀白浜~羽田間の航空運賃が高額であった事や、今は亡き白浜・那智勝浦港~東京の船舶がライバルとして存在していましたが、やはり国鉄の相次ぐ値上げで旅客が離れて行き、最終的には名古屋駅構内で連結機関車が飲酒運転という大問題を引き起こして廃止されたと言う経緯があったりしますよね晩年の特急紀伊には大和や伊勢の面影はありませんでしたが、紀伊のヘッドマークに那智の滝が入っていた事がせめてもの救いだったのではないかと感じますよね。
誰かがいなばではないと言っていたが、それはゴウサントウダイヤ改正からで、いなばが正解です。ただしこのいなばは、形上寝台急行当時の銀河1号を格上げされて行き先が米子へと変更されたものです。なお紀伊には基本的にはヘッドマークはつかなかったんだけどゴウサントウダイヤ改正初日にDF50型に下りだけ亀山から紀伊勝浦までの区間掲げられたと記憶しています。
当時東京口のブルートレインは、基本EF65Pの牽引でしたが、寝台特急紀伊・いなばだけがEF58牽引で、しかもHM無しでした。
引退の時、東京駅まで写真撮りに行ったのを思い出しました。
最後の多層階建て客レは、ピーク時のムーンライト山陽、高知、松山になるのかな?上りの高知に乗ってると、多度津、岡山で2回併合するので、乗りながら入れ替えを味わえた。
特急になってからは「いなば、紀伊」出雲市延長で「出雲3.2号、紀伊」になりました。機関車はEF58が京都まで牽引でした。(後にEF65.1000番代)紀伊号は名古屋からDD51でした。かなり昔はDF50も担当でした。名古屋と亀山で2回スイッチバックが有りましたね。
三階建てと聞いてビスタカーへの対抗かと(オイオイ)キハ82系の「南紀」には乗車したことがあり駅弁のくじら弁当を食べた思い出がありますが「紀伊」は乗る機会がなかったです。
東京駅発のブルートレインでは地味な存在でした。
下りの紀伊号のラストランを撮影に東京駅と横浜駅で撮影しました。紀伊号が東京駅出発する1本前の普通電車に乗って横浜駅で見送りました。「さよなら紀伊」のテールマークがエメラルドグリーン色だったのが印象に残っています。
1978年10月2日の国鉄全国ダイヤ改正で東京ー名古屋間寝台特急紀伊号の併結相手が東京ー米子間の寝台特急いなば号から運転区間が東京ー出雲市間に延伸された出雲3・2号に変わりました。寝台特急紀伊号は1984年2月1日の国鉄全国ダイヤ改正前日の1月31日限りで廃止となりました、併結相手の出雲3・2号は14系寝台客車8両編成で単独運転に変わりました。
当時は深夜に移動する人が多かったですね。松阪を午前2時台に発車する急行紀州とかありましたよ。
寝台特急紀伊号は名古屋ー亀山駅間関西本線を逆向き編成で運転していました、亀山駅から紀勢本線に入るため2回目のスイッチバックが行われました。東京駅🚉発着のブルートレインで唯一ヘッドマークのない列車でした。
テールマークの那智の滝のデザインがシンプルで良かったなんせブルートレインの中じゃ14系が一番好きだったから、それと相まって紀伊のテールマーク好きだったな機関車のヘッドマークがあったそうだけど通常付いてないみたいだったからちょい残念一番驚いたのが「いなば・紀伊」の併結時ヘッドマークがあった事だなぁ
残念ですが、「紀伊」のヘッドマークは正規ではなくイベント用なんです。我輩も本(写真)でしか見た事はありせんが、もしかしたら実際に運用に就いた事があるかもしれませんね!なので、「紀伊」は1984年のヘッドマーク復活と入れ替わりに廃止となった悲運のブルートレインなんです。それから、「いなば・紀伊」の併結ヘッドマークは我輩が知る限り見た事ありませんね! ブルトレの併結ヘッドマークは、1984年のヘッドマーク復活時の初登場なんです。
@@鋼道五十郎 14系のイラストと同じヘッドマークはイベントの時のみ浜木綿が描かれたヘッドマークはDF50引退時赤い紀伊半島が描かれたものは図案のみとこんな感じで聞いてますいなば・紀伊の併結ヘッドマークは大宮のイベント時の写真を見たことがあります実際には使われて無いっすね
奈良県に寝台列車が走ってたんだよなぁ
こんな便利な列車、今あればすごく人気でそうですね
紀伊が白浜まで行ってくれたらもう少し利用者が見込めたかもしれない…。😂
今でも朝7時頃到着って需要あると思うんだが
那智勝浦や新宮といったところは商業や工業が盛んなわけではないから、対東京需要はそんなにないよ。むしろ天王寺からの鈍行「はやたま」のほうが需要あった。
たしか東京駅には一番早く到着したブルートレインだったかな。品川方面でカメラを構えて いなば。 上野方面へ走って紀伊。東京着では唯一のEF58だったような。
名古屋発の3層建て自体は、国鉄末期まで、急行「かすが・平安・紀州」があったので、珍しくなかったけど、これは通過時刻が深夜だったため、撮影は難しかったなぁ。寝台特急としては短距離だったのは、1960年代から1970年代ごろ、新婚旅行先の人気が熱海から南紀白浜に延伸したことがあったと思う。その需要と、かつ、羽田から南紀方面への飛行機がなかった(あるいは不便)だったためと思われる。まぁ1980年代になると、東京からの新婚旅行先の人気が宮崎の青島海岸に映り、「紀伊」から「富士」への需要移行、ブルトレブームでヘッドマークがなかった「紀伊」の人気が挙がらなかったことがあると思う。ただ、それでも「紀伊」の存在を思い出させてくれたのは、サンライズの予備編成を使った「臨時サンライズ紀伊」が走ったことだろうか。サンライズの予備編成は「臨時出雲」で使用されることが多いが、「紀伊」に使用されたことは嬉しかった。もちろん、非電化部分は走れないから、新大阪経由で和歌山方面に進入していったんだけれども。
確かに、言える、寝台特急サンライズ紀伊号、東京―新宮間、東海道線、大阪環状線、阪和線、紀勢本線、東京から横浜、熱海、天王寺、和歌山、御坊、紀伊田辺、白浜、周参見、串本、古座、紀伊勝浦、終着駅、新宮、良いでござる
ソ80が稼働しているのを見たのは後にも先にもあの事故だけです...
子供のころ、寝台特急「紀伊」の存在を懐疑的に見ていたが今現在この列車があればと思う考えに変わってしまったw
1970年頃のまだ蒸気機関車が多い関西本線、名古屋ー亀山間はDD51じゃなくてDF50なん?
実は動画内で取り上げたタイミングは資料でも情報が錯綜しており、同年代でDD51とDF50が両方運用されていた可能性もあります。今回はその後数年で運用停止となったDF50の運用という説を取りました。もし詳しい情報をお持ちの方がいたらぜひお知らせください🙇♀
最初はDF50。79年6月から上りが、80年から全線でDD51だったと思う。
東京から紀伊勝浦、鳥羽、王寺行きの3層建ての夜行列車は今思うと夢のような話ですね。その後1972年改正で紀伊勝浦行きだけが残り急行銀河と併結となり更に1975年改正で銀河を大阪~米子間延長の上特急格上げで寝台特急いなば+紀伊の誕生、1978年改正でいなばを米子~出雲市延長の上出雲+紀伊となり1984年2月の紀伊廃止までこの体制でした。
名古屋駅での飲酒追突事故は10番線だったので中央線のダイヤも終日乱れた。1982年3月15日
寝台特急いなばの相方現サンライズ出雲電車の為ルート変更なってしまったけど現在も併結芸は何かの因縁
出雲と連結してたとは!今あったら凄く便利ですね
東海道区間運行時、「出雲」の食堂車を「紀伊」の乗客も利用できたのかも、なにげに気になる。
@@宮井信成出雲はゴーサントーで、米子行きの「いなば」を取り込み、出雲市行きの「出雲3号」にしました。紀伊をつないだいなばと出雲3号は14系でした。東京発が遅くて食堂車は非営業でした。確か20時40分だったかな?食堂車をやっていたのは浜田行きの24系25型の出雲1号でした。
@@宮井信成さま。「いなば」時代含め、時間帯の関係で食堂は非営業。そのため「出雲」補完の同列車は、やや格落ちの感があったらしいであります。
@@宮井信成 この頃の時刻表を見てみると、「いなば(出雲)」は「食堂車非営業」と記してあります。それと、さくら・みずほの基本編成が「いなば(出雲)」で、付属編成が「紀伊」ですね。
関西本線がアカン線、わかりみに溢れる(笑)
急行伊勢・那智号、急行紀伊号、特急紀伊の何れにも乗ったけど、急行紀伊号の3階建は覚えてない😮
上りの『いなば・紀伊』は名古屋駅が運転停車ではなく、営業扱い。名古屋で真夜中まで仕事してから2時頃の『紀伊』で東京駅へ、5時間爆睡して朝から仕事ができる不思議な列車でした。
そして急行時代、ちゃんと食堂車(オシ17)も繋いでいた。
急行時も含めて紀伊の全身でも食堂車はれんけつされたことはないです。
@@もりわききくお [ 伊勢][那智]との3階建て時代にはあった筈。
食堂車は連結がされたことは一度もありません。
出雲紀伊併結当時東京〜名古屋 EF58→EF65名古屋〜亀山 DD51亀山〜紀伊勝浦 DF50
観光寝台じゃなく、サンライズ以外に定期寝台列車を今走らせても一定の需要は見込めそうだがどうだろう?
需要イコール利益ではないが😉
東京から王寺行きですか。湊町まで行かないところがポイントですね。
東京静岡3時間ちょいってかなり早いですね。
多層建てって、合理的に見えるが、始発駅からの乗客は迷うだろうな。途中駅から乗車する人もだが。構内放送や車内放送も長いだろうな。
王寺に行ってたのは知らなかった
1967年3月から1973年9月までの短い間ですが、急行大和の寝台車1両は和歌山線経由で和歌山市まで行きました。
東京発の短距離ランナーが紀伊ならば、新大阪発の短距離ランナーは安芸!真冬などは、真っ暗なうちに終点に到着してしまう、車窓をまったく楽しめない変態列車だった。
これぞ本当の夜行列車ですね暗いときにしか走らないぞー
紀伊って名前は薄幸なイメージ。完成しなかった大和型四番艦も紀伊という名前になる筈だったらしいし・・・。
ほぼ同じ時期に山陽路を走っていたブルトレ時代の寝台特急「安芸」もそうですね。
鉄道ファンにとっては忌々しい【高速バス】😓最初から【上下分離】をして挑んでくるんだから、JRには分が悪すぎる😩将来、JRのみ…どころか1本の鉄道でどこまでも行ける…という話は昔話になってしまいそうだ😰
バスが人気あるのはただ安いだけ!特急料金込みで一万円もかかる寝台なんてそっぽ向かれるに決まってる
近鉄や新幹線が開業した後も1970年までの年末年始には臨時の急行紀伊(東京~鳥羽)が設定されていました。元々1927年頃から1945年頃には東京~鳥羽で夜行普通列車(1942年10月までは東京~山田や鳥羽でもう1往復不定期で運行されていた時もあった。)が運転されていました。その後戦後しばらくは東京直通の夜行列車は設定されていませんでしたが、1950年10月改正で急行大和の付属編成として鳥羽行が再び設定されるようになりました。(亀山~鳥羽は普通列車でした。)その後しばらくは付属編成のままでしたが、1953年に急行伊勢として独立しました。この東京直通の急行伊勢号は好評だったようで、1960年の年末年始から臨時の急行五十鈴(東京~鳥羽)が登場しました。翌年の運行はありませんでしたが、1962年に五十鈴から第二伊勢に改称され、1968年までの年末年始に設定され続けました。(併結相手は時期や上り・下りによって変化しました。又1967年~1968年には第二伊勢に加えて東京行のみ第二那智を併結するようになりました。そのためこの時期には東京行のみ急行大和・第二伊勢・第二那智の三階建ての列車で運行されていました。)1969年からは第二伊勢・第二那智から紀伊51号に改称され、運行区間も東京~鳥羽のみになりました。そして1970年の運行を最後に設定されなくなりました。
上りの紀伊が出雲と連結して名古屋駅を出発してすぐに下りの出雲・紀伊とすれ違っていたなぁ…紀伊の寝台は三段式だったから、モノクラス編成でも二段式寝台だったらもう少し利用者が維持されていた事だろう。
84年2月当時は、14系14形や24系24形のB寝台が三段式→二段式改造が進められてましたね。紀伊は改造対象から外された挙げ句、廃止されてしまいましたが。
名古屋駅で飲酒運転士が追突して脱線した事故もありましたね。😰
14系と24系25形は乗ったなあ。20系は乗ったことない。
↑20系も乗ったオッサン(あさかぜ52号)😁
20系B寝台車に乗ったとき小学3年生だったので狭かった印象が全くないです 笑
余談ですが、名古屋駅で紀伊号の客車とDD51が事故になったのは驚きました、またこんなこと言っててすいません。一コマでゆうとこんな感じ(DD51)そろそろ行く時間かのー(14系客車)もう少しで紀伊の発車時刻かー、(5分後)(14系)あれ?おせーなDD51さん(14系中間車)そうすね〜、これじゃ遅れるや!(DD51)zzz(14系)え!?待って、速度早い!!止まれDD51!!!(14系全車)ぎぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!(衝突)(14系中間車)あっぶねー、助かった〜、びっくりしたー!(103系)うわー大惨事、その後DD51と14系先頭車一両が廃車されましたとさ。完
確か運転士が泥酔状態だったとか・・・・・
伊勢〜大和〜那智。
当時の国労だったか、乗って残そう特急紀伊とか言うようなスローガンやってたような覚えがある。
さすがに関西本線が廃止になることはないと思いますが・・・・・大事故や災害で東海道線が使えなくなったら貴重な迂回路になりますから・・・・・・・・・・見通し甘いですかね?
奈良県と三重県は現在でも「東京から新幹線・飛行機で乗り換えなしでいけない」唯二つの県らしいですが、「大和」や「紀伊」が存在してていたら大丈夫だったんですね。リニアが名古屋まで開通したら東海道の余った線路需要を埋めるために、新幹線が近鉄線に乗り入れたりしませんかね…
米子駅や南紀白浜空港は、県庁所在地から離れすぎていて論理的に鳥取「県」や和歌山「県」を満たしているだけで、実質的には直通していなくて草福井県もだろ、と書こうとしたが、41年4ヶ月ぶりに東京都直通が復活してたわ 笑
紀伊半島先端は、今も昔も東京から遠い😂
嘗て山陰出張時に地元の方が東京夜行(出雲),大阪夜行(だいせん),京都夜行(山陰)と呼んでいた⇨新宮では東京夜行[紀伊],大阪夜行[南紀]かしら🙄?
3階建て編成って今でも確かヨーロッパでもあるよね。確かウィーンあたりでチェコ、ハンガリー、ポーランド方面に分かれるとか・・・・。
戦前は特に伊勢神宮が皇室の皇祖神を奉る神社ということで、東京との間で皇室、宮家、宮内省(当時)と伊勢神宮との間での人物の往来が多く東海道本線に優等列車が設定され始めた初期から、東京ー鳥羽間に直通列車設けられていた。この直通列車は東海道線内は快速列車扱いで伊勢神宮の祭祀をされていた官家が伊勢神宮の祀りの際の移動にこの列車を利用しており、快速列車編成には「イロネ」クラスの一二等寝台合造客車が増結され宮家始め伊勢神宮関係者の利用に充当していた。この快速列車は優等列車が整理削減された第二次世界大戦末期でも快速列車として残されていた。そうしてこの列車が戦後の「伊勢」になったのである。鳥羽行快速は政治的必要性が色濃い列車である。
「紀伊」の廃止は旅客の減少はもちろんだが、廃止前年の名古屋駅飲酒運転衝突事故の「詰め腹」を伐らされたのが大きいだろう。翻っていまの世の中で、様々な不祥事を起こしているにも関わらず即「切腹」にならない日本が本当におかしいと言うか異常にしか思わないが…。
悪かったな!ワイが最初に入った製薬会社、いま不祥事真っ只中😁
@@psychedelicraspberry517 あんたあの会社にいたんかいww
@@-hz9kj-uz3uzそう!「入った」と過去形なのがミソ(懲戒解雇じゃないよ)😁
三階建てではなく三層建てでは?
紀伊の名前で紀伊半島に行かない編成ありとはまさに洒落にならんな。まさに奇異だわ。
地方目線でいえば、東京直通の列車というのは特別感が大きかった。東京に直通する列車があるということがその地方の自慢でもあった。今の時代、それは高速バスに代わったのかな。
事大主義 笑さすが田舎の小中華思想
もう少し長く存続していたら、東京へ行くのに何度も使っていたのではないかと思います。
現在も残っている特急南紀は紀伊の名残なのかな
昔のくろしおは天王寺〜新宮〜名古屋を運行していて新宮電化で電化区間を走るくろしおと名古屋〜紀伊勝浦を走る南紀に分割されたという経緯を考えると特急南紀と紀伊の関連性は薄い。
@@山坂沙武朗 もう一つ付け加えると、「紀伊」が廃止される前に「南紀」が誕生したので、ダブっていた時代があるんですよね。
何か、帝国海軍の名称シリーズみたい。「いなば」はないけど、「那智(重巡)」「大和(戦艦)」「伊勢(戦艦)」「出雲(装甲巡洋艦)」「銀河」は陸爆であったし。
関西線の一両ディーゼルはホンマに乗り難いし周りはド田舎🚃!
しゃかたないね。昨年11月乗ったら単行で収まる客しかおらんかった…😵
二階建てB寝台でも狭いのに三階建てB寝台はもはや潜水艦内部並の狭さだろうね😅
寝台特急『紀伊』は、最後の頃は、寝台特急『出雲』との分割併合客車列車でした。「寝台特急」のその晩年の頃は、基本的に、新幹線のないエリアをカバーするために設定されていました。現在、『サンライズ瀬戸』『サンライズ出雲』併結列車が残っているのも、その意味が大きいです。従来、紀伊半島は、新幹線のカバーするエリアから離れているので、「寝台特急」が現存していても不思議ではありません。本来ならば、寝台特急『出雲』は出雲大社、寝台特急『紀伊』は伊勢の神宮という、日本人の霊魂の源泉所在地に直結した列車として必要不可欠なものなのです。
人類が努力し科学を発展させ宇宙の構造もかなり詳細に判明してきた、21世紀も4分の1が終わろうとしているこんにち、まだ宗教なんか信仰してるのか
急行天竜3号·きそ1号「3階建てと聞いて」
今のJR難波の地下駅に24系作り直しで復活させて臨時でも来るようになったら、それはそれでかなりカオスだがw草津線の複線化も貴生川までは必要と思うが、それ以上に希望としては加茂から亀山までの電化かなwまぁもっとも加太越えでMT54がうなりを上げるのは鉄にとって魅力だろうが一般の方にとってはカオスでしかないなw(電化後はそういう運用になるだろうからね)
もっとも現代だと完全に近鉄線と高速バスともろ被りなので、運営的にはかなり厳しいんじゃないかなあ…時間的に始発の近鉄特急と大差はない(一応8時台着なのでそれより早ければ多少は…?)だろうし値段は近鉄より高めになるだろうし、おまけに夜行バスもとなれば…まあみえのように快速扱いにすれば少しはましかもしれないが…それはそれで別問題がありそうだけどね
串本か紀伊田辺まで延長できれば面白かっただろうな。需要なかっただろうけど。
急行『那智』が、『紀伊』なっている!特急『いなば、紀伊』時代に津から東京乗車しているよ。❤😊
ゴーサントー辺りで小2。豆鉄道博士の修士課程だった。社会科見学が入学式だった。14系の出雲3号にくっついていた。絵入りマークのデザインがキレイでシールを筆箱に貼っていた。いなば時代も出雲3号時代も東京発が20時40分辺り。つないだ「親分」の食堂車は非営業だった。ケイブンシャの大百科では、妻の出雲3号が旦那の紀伊に、あんたが14系だから私まで14系じゃないのよ!と肩身の狭い様子の紀伊を描いたマンガが出る始末。キスしながら走る特急なんて書かれていたな。地味だったり事故だったりと冴えない紀伊だが、関東からの直行特急としての立派な立場もあった。JALの乗っ取り女社長が勤めていた南紀白浜行きのTDAのYS11は風でよく欠航したから、紀伊は貴重なアシだったはずだ。郷ひろみのジャパン改正で残念ながら廃止に。ちなみに「みずほ」の食堂車もこの時非営業になった。ドラマ「鉄道公安官」のある話では感動のラストシーンを飾ってエンディング同様のホームタウン特急に。ブルートレイン「紀伊」のハレ舞台だったな。
❌「みずほ」の食堂車🍽️非営業⭕「みずほ」の食堂車🍽️簡易営業😉
簡易営業の意味をよろしくお教え下さい。
@@NS-pb2ms「大幅に合理化され、コップや皿も使い捨ての紙製で、メニューがカレーやうなぎなどレトルトものを中心に数種類」(「食堂車ノスタルジー」岩成政和著:イカロス出版より)😉
@@psychedelicraspberry517ありがとうごさいました。私が経験した「簡易営業」食堂車に近いもので、1981年の夏休みに博多から別府まで乗車したにちりんがありました。583系の食堂車は車内販売の基地になっていて、レジ横にワゴンを置いて営業をしていました。購入した飲食物や酒類を食堂車内で飲食している人がたくさんいて、食堂車が営業しているように見えました。客の中には時刻表では営業しないと書いてあるけど実際はやっているんだなと誤解している人もいました。消え行く食堂車でしたが新幹線や寝台車で結構利用しました。最近復活の兆しがあるのでこれから楽しみです。
寝台急行銀河のほうが運行距離が短かったのでは
ブルートレインの話をしているので。客車特別急行全車両が指定制寝台車が主体この条件を全て満たさないと、ブルートレインではありません。
三階建てではなく『三層建て』でしょ?ご自身も、5:03「多層建て」と仰ってるじゃないですか!(^_^;)
5:03 😉
@@psychedelicraspberry517 ?
タイムコード貼り直してくれたんでしょ半角英数じゃないと跳べないから
特急「いなば」ではなく「出雲3号」と併結して走行しておりました〜‼️映像の写真ではちゃんと出雲になってるのに〜😢勿体ないな〜‼️
東京〜米子間の「いなば」を統合して出雲を補完し出雲市発着の「出雲2・3号」になったから間違いではない。
オレが小学5年生の頃はEF58牽引で普通にいなばと併結して走っていたけど、何が間違いなんだ?
53・10ダイヤ改正以前は出雲3号、2号がいなばだったことを知らないのでしょう。
今首都圏から南紀までの夜行は座席の高速バス(大宮・池袋・新宿→南紀)しかないが昔は寝ていける手段が2つ(東京→紀伊勝浦のBT紀伊と川崎港→那智勝浦港のフェリー)があったんだよな。自分は20年程前に家族旅行で川崎港からフェリー(2等寝台)で那智勝浦に行った。
紀伊廃止直前、廃止反対を訴えに国鉄本社に沿線自治体が車で陳情に行った際、国鉄のお偉方から、何故紀伊を使わなかったのかと言われたとか。
身につまされる話ですなー、車じゃなく国鉄で行けよ···、と思いますね、九州でも似た話が有ります。
国鉄分割民営化反対の国労と動労が、ローカル線廃止反対のさだまさしが組んで筑豊地区で無料野外コンサートをした時の話で、門司局が敵対する組合のコンサートだが、ローカル線廃止反対を謳うコンサートなら利用してくれるだろう?と臨時列車を出したものの利用は20人にも満たぬ乗客だったとか···さだまさしのファンのお里が知れると、当時の私は思いました。
地方が車社会である今、鉄道を含む公共交通自体をちゃんと利用しないと残せないことを改めて認知しないとダメですね。自家用車を手放せとは言わないが。本数が少ないことを理由にするなら、地域と連携して、沿線民が利用しやすい環境を整えて、しっかり利用する姿勢をこちらが見せるしかないかと。
よくあるパターン。
おまえらが乗らなかったから廃止なんだ、おまえらが買わなかったから生産中止なんだ、と。
まだ「運転停車」というものを知らなかった時刻表ビギナーの頃に、東京を連結して発車した出雲3号と紀伊号が名古屋で通過マークで分離するのを見付けた時、走行中に連結を切り離すものだと当時は思っていました 。
それでもよかったよね どうせ事故起こすんだし
逆に上りだと通過中に連結するのか
上りは名古屋駅で客扱い停車があったそうです(廃止直前時点で名古屋1時00分発)。
1982年に名古屋駅でDD51が機関士の飲酒運転が原因で紀伊の14系と衝突したんだよな
同時期に設定されていた特急出雲は京都駅を通過になっていたので、東京駅からディーゼル機関車を連結しているのかと思っていた。同じような勘違いをしている人がいたんですね。
紀勢貨物も廃止されちゃったし、多気駅が寝台列車も扱ってた忙しい時代は遠くなりました
かつては、天王寺発の紀勢本線経由の名古屋行き普通寝台列車『南紀』、のち亀山行きとなった『はやたま』(寝台車のみの呼称で、新宮までの列車名)など一時期は夜行列車が全線で存在した紀勢本線。
EF58もバンバン走ってた。
味わい深かったなぁ。
父の田舎が三重県の多気町だったので、急行時代からよく利用してました。牽引も東海道はEF58、関西、紀勢線はDF50でした。特急になっても牽引はしばらくEF58、DF50だったと記憶してます。
これのおかげで国鉄運転手の飲酒運転に厳しい目が向けられる様になりました😅
全国への知名度は黒歴史でした。
新聞に
「たるみ国鉄、またか!」
と大きく見出しに書かれて叩かれていましたね。
先に書き込みされてますが
DD51の事故有りましたね。
特急格上げで14系に置き換えで
寝台特急いなば、出雲2号3号と併結
この頃の、東京発の東海道ブルトレで
14系は、さくらとみずほ、出雲、紀伊
で、14両編成であった為に
8両、6両の分
分割併合が容易かった。
14系の「さくら」「みずほ」「いなば(出雲)・紀伊」は、共通運用だったと思います。
もう一点。
DD51の衝突事故。一つ気になるのが、誘導員の人はご無事だったのだろうか?(・_・;)
ブルートレイン時代の紀伊号、いつも高校の夜学の帰り、相鉄線の列車とほぼ並走、車内からいつも見ていた列車でした。ブルトレの中では地味の筆頭クラスだと思うのですが、自分の中では印象に残っている列車です。
寝台特急「紀伊」の登場する推理小説は西村京太郎原作の「寝台特急「紀伊」殺人行」に登場しました、その後、TBSドラマザ・サスペンスで放映されました、出演は若林豪・下川辰平・金田賢一が出演されました。
なお、デロッブには「劇中の寝台特急「紀伊」はダイヤ改正で廃止されました」と表記されました。
そのドラマが放送されたのが40年前の今日です。
この時期の氏の作品には紀伊を始めしらさぎ、北陸、おおぞらなど途中で方向転換するのを利用したトリックが多かったですね。
ヒロインが、斉藤とも子サンでしたかね?
@@sennazico7845 ええ、作品としては「おおぞら3号殺人事件」と「特急しらさぎ殺人事件」や「寝台特急「北陸」殺人事件」ですよ。
なお、東京〜紀伊方面の需要は全く無い訳ではなく、三重交通・西武バスの夜行高速バスが、現在でも一往復運行されています。
かつては東京~那智勝浦~高知の日本高速フェリーもありましたな。(*´ω`*)
夜行なら、ということですね。確か、数年前、夕方に東京を出て新幹線→特急南紀でその日のうちに新宮まで行ったことがあります。これが可能である以上、寝台特急である必要はないように思いますが。。。
結局バス1台分の需要しかないってことか(TT)
@@kenken-c2w それは違う。
新幹線とJR東海の特急でたどり着けるので。とはいえ、特急南紀も今は2両編成なので、需要は減っているのでしょうね。
ただ、那智とか熊野古道に行くと、今は外国人観光客が結構いるのですが。
前回のまりも2両よりも、紀伊鳥羽行き2両のほうが定期なので、こっちがすごい
名古屋駅での飲酒追突事故の写真が、とても衝撃的でこの列車のことで一番覚えてます。
当時、名古屋駅に写真を撮りに行きましたね。
たしか、出口機関士だったような気が。
出口林平のブルートレインアタック!
この2年後、西明石で似通った事故をやらかすんですねぇ…。😓😓😱
この列車からはやはり名古屋駅の事故を思い出します(申し訳ありませんが)
「国鉄たるみ底なし」と大きく見出しが出ていました。そして信じられないようなだらけきった内情が明らかになり、国鉄分割民営化が加速しました。
これには乗りたかったなぁ。
懐かしき紀伊号。ディーゼル特急くろしおが食堂車まで連結して天王寺・名古屋間を走っていた今から見て嘘みたいな時代です…。さらに昔は和歌山市駅と東京を結ぶ寝台車までいましたから。急行きのくに・はまゆう・志摩・紀州・しらはまなどキハ58とその仲間たちが席巻していましたね! 全ては今は昔。
東京発鹿児島行のフェリーが那智港に寄っていた時もありました。
色々な需要があるのになかなか乗車時間が短くならない場所の一つです。
まず1つ、紀伊は寝台急行ではなく寝台特急で同じ寝台特急いなばと併結されていた列車でもありました。
因みに名古屋駅でいなばと切り離されその後亀山、多気と分離して行った事は有名でしたが、この当時は南紀白浜~羽田間の航空運賃が高額であった事や、今は亡き白浜・那智勝浦港~東京の船舶がライバルとして存在していましたが、やはり国鉄の相次ぐ値上げで旅客が離れて行き、最終的には名古屋駅構内で連結機関車が飲酒運転という大問題を引き起こして廃止されたと言う経緯があったりしますよね
晩年の特急紀伊には大和や伊勢の面影はありませんでしたが、紀伊のヘッドマークに那智の滝が入っていた事がせめてもの救いだったのではないかと感じますよね。
誰かがいなばではないと言っていたが、それはゴウサントウダイヤ改正からで、いなばが正解です。ただしこのいなばは、形上寝台急行当時の銀河1号を格上げされて行き先が米子へと変更されたものです。なお紀伊には基本的にはヘッドマークはつかなかったんだけどゴウサントウダイヤ改正初日にDF50型に下りだけ亀山から紀伊勝浦までの区間掲げられたと記憶しています。
当時東京口のブルートレインは、基本EF65Pの牽引でしたが、寝台特急紀伊・いなばだけがEF58牽引で、しかもHM無しでした。
引退の時、東京駅まで写真撮りに行ったのを思い出しました。
最後の多層階建て客レは、ピーク時のムーンライト山陽、高知、松山になるのかな?
上りの高知に乗ってると、多度津、岡山で2回併合するので、乗りながら入れ替えを味わえた。
特急になってからは「いなば、紀伊」出雲市延長で「出雲3.2号、紀伊」になりました。機関車はEF58が京都まで牽引でした。(後にEF65.1000番代)紀伊号は名古屋からDD51でした。かなり昔はDF50も担当でした。名古屋と亀山で2回スイッチバックが有りましたね。
三階建てと聞いてビスタカーへの対抗かと(オイオイ)キハ82系の「南紀」には乗車したことがあり駅弁のくじら弁当を食べた思い出がありますが「紀伊」は乗る機会がなかったです。
東京駅発のブルートレインでは地味な存在でした。
下りの紀伊号のラストランを撮影に東京駅と横浜駅で撮影しました。紀伊号が東京駅出発する1本前の普通電車に乗って横浜駅で見送りました。「さよなら紀伊」のテールマークがエメラルドグリーン色だったのが印象に残っています。
1978年10月2日の国鉄全国ダイヤ改正で東京ー名古屋間寝台特急紀伊号の併結相手が東京ー米子間の寝台特急いなば号から運転区間が東京ー出雲市間に延伸された出雲3・2号に変わりました。寝台特急紀伊号は1984年2月1日の国鉄全国ダイヤ改正前日の1月31日限りで廃止となりました、併結相手の出雲3・2号は14系寝台客車8両編成で単独運転に変わりました。
当時は深夜に移動する人が多かったですね。
松阪を午前2時台に発車する急行紀州とかありましたよ。
寝台特急紀伊号は名古屋ー亀山駅間関西本線を逆向き編成で運転していました、亀山駅から紀勢本線に入るため2回目のスイッチバックが行われました。東京駅🚉発着のブルートレインで唯一ヘッドマークのない列車でした。
テールマークの那智の滝のデザインがシンプルで良かった
なんせブルートレインの中じゃ14系が一番好きだったから、
それと相まって紀伊のテールマーク好きだったな
機関車のヘッドマークがあったそうだけど通常付いてないみたいだったからちょい残念
一番驚いたのが「いなば・紀伊」の併結時ヘッドマークがあった事だなぁ
残念ですが、「紀伊」のヘッドマークは正規ではなくイベント用なんです。我輩も本(写真)でしか見た事はありせんが、もしかしたら実際に運用に就いた事があるかもしれませんね!
なので、「紀伊」は1984年のヘッドマーク復活と入れ替わりに廃止となった悲運のブルートレインなんです。
それから、「いなば・紀伊」の併結ヘッドマークは我輩が知る限り見た事ありませんね! ブルトレの併結ヘッドマークは、1984年のヘッドマーク復活時の初登場なんです。
@@鋼道五十郎 14系のイラストと同じヘッドマークはイベントの時のみ
浜木綿が描かれたヘッドマークはDF50引退時
赤い紀伊半島が描かれたものは図案のみ
とこんな感じで聞いてます
いなば・紀伊の併結ヘッドマークは大宮のイベント時の写真を見たことがあります
実際には使われて無いっすね
奈良県に寝台列車が走ってたんだよなぁ
こんな便利な列車、今あればすごく人気でそうですね
紀伊が白浜まで行ってくれたらもう少し利用者が見込めたかもしれない…。😂
今でも朝7時頃到着って需要あると思うんだが
那智勝浦や新宮といったところは商業や工業が盛んなわけではないから、対東京需要はそんなにないよ。
むしろ天王寺からの鈍行「はやたま」のほうが需要あった。
たしか東京駅には一番早く到着したブルートレインだったかな。品川方面でカメラを構えて いなば。 上野方面へ走って紀伊。
東京着では唯一のEF58だったような。
名古屋発の3層建て自体は、国鉄末期まで、急行「かすが・平安・紀州」があったので、珍しくなかったけど、これは通過時刻が深夜だったため、撮影は難しかったなぁ。
寝台特急としては短距離だったのは、1960年代から1970年代ごろ、新婚旅行先の人気が熱海から南紀白浜に延伸したことがあったと思う。その需要と、かつ、羽田から南紀方面への飛行機がなかった(あるいは不便)だったためと思われる。
まぁ1980年代になると、東京からの新婚旅行先の人気が宮崎の青島海岸に映り、「紀伊」から「富士」への需要移行、ブルトレブームでヘッドマークがなかった「紀伊」の人気が挙がらなかったことがあると思う。
ただ、それでも「紀伊」の存在を思い出させてくれたのは、サンライズの予備編成を使った「臨時サンライズ紀伊」が走ったことだろうか。サンライズの予備編成は「臨時出雲」で使用されることが多いが、「紀伊」に使用されたことは嬉しかった。もちろん、非電化部分は走れないから、新大阪経由で和歌山方面に進入していったんだけれども。
確かに、言える、寝台特急サンライズ紀伊号、東京―新宮間、東海道線、大阪環状線、阪和線、紀勢本線、東京から横浜、熱海、天王寺、和歌山、御坊、紀伊田辺、白浜、周参見、串本、古座、紀伊勝浦、終着駅、新宮、良いでござる
ソ80が稼働しているのを見たのは後にも先にもあの事故だけです...
子供のころ、寝台特急「紀伊」の存在を懐疑的に見ていたが今現在この列車があればと思う考えに変わってしまったw
1970年頃のまだ蒸気機関車が多い関西本線、名古屋ー亀山間は
DD51じゃなくて
DF50なん?
実は動画内で取り上げたタイミングは資料でも情報が錯綜しており、同年代でDD51とDF50が両方運用されていた可能性もあります。今回はその後数年で運用停止となったDF50の運用という説を取りました。もし詳しい情報をお持ちの方がいたらぜひお知らせください🙇♀
最初はDF50。79年6月から上りが、80年から全線でDD51だったと思う。
東京から紀伊勝浦、鳥羽、王寺行きの3層建ての夜行列車は今思うと夢のような話ですね。その後1972年改正で紀伊勝浦行きだけが残り急行銀河と併結となり更に1975年改正で銀河を大阪~米子間延長の上特急格上げで寝台特急いなば+紀伊の誕生、1978年改正でいなばを米子~出雲市延長の上出雲+紀伊となり1984年2月の紀伊廃止までこの体制でした。
名古屋駅での飲酒追突事故は10番線だったので中央線のダイヤも終日乱れた。
1982年3月15日
寝台特急いなばの相方
現サンライズ出雲
電車の為ルート変更なってしまったけど
現在も併結芸は何かの因縁
出雲と連結してたとは!今あったら凄く便利ですね
東海道区間運行時、「出雲」の食堂車を「紀伊」の乗客も利用できたのかも、なにげに気になる。
@@宮井信成
出雲はゴーサントーで、米子行きの「いなば」を取り込み、出雲市行きの「出雲3号」にしました。
紀伊をつないだいなばと出雲3号は14系でした。東京発が遅くて食堂車は非営業でした。確か20時40分だったかな?
食堂車をやっていたのは浜田行きの24系25型の出雲1号でした。
@@宮井信成さま。
「いなば」時代含め、時間帯の関係で食堂は非営業。
そのため「出雲」補完の同列車は、やや格落ちの感があったらしいであります。
@@宮井信成 この頃の時刻表を見てみると、「いなば(出雲)」は「食堂車非営業」と記してあります。
それと、さくら・みずほの基本編成が「いなば(出雲)」で、付属編成が「紀伊」ですね。
関西本線がアカン線、わかりみに溢れる(笑)
急行伊勢・那智号、急行紀伊号、特急紀伊の何れにも乗ったけど、急行紀伊号の3階建は覚えてない😮
上りの『いなば・紀伊』は名古屋駅が運転停車ではなく、営業扱い。名古屋で真夜中まで仕事してから2時頃の『紀伊』で東京駅へ、5時間爆睡して朝から仕事ができる不思議な列車でした。
そして急行時代、ちゃんと食堂車(オシ17)も繋いでいた。
急行時も含めて紀伊の全身でも食堂車はれんけつされたことはないです。
@@もりわききくお [ 伊勢][那智]との3階建て時代にはあった筈。
食堂車は連結がされたことは一度もありません。
出雲紀伊併結当時
東京〜名古屋 EF58→EF65
名古屋〜亀山 DD51
亀山〜紀伊勝浦 DF50
観光寝台じゃなく、サンライズ以外に定期寝台列車を今走らせても一定の需要は見込めそうだがどうだろう?
需要イコール利益ではないが😉
東京から王寺行きですか。湊町まで行かないところがポイントですね。
東京静岡3時間ちょいってかなり早いですね。
多層建てって、合理的に見えるが、始発駅からの乗客は迷うだろうな。途中駅から乗車する人もだが。構内放送や車内放送も長いだろうな。
王寺に行ってたのは知らなかった
1967年3月から1973年9月までの短い間ですが、急行大和の寝台車1両は和歌山線経由で和歌山市まで行きました。
東京発の短距離ランナーが紀伊ならば、新大阪発の短距離ランナーは安芸!
真冬などは、真っ暗なうちに終点に到着してしまう、車窓をまったく楽しめない変態列車だった。
これぞ本当の夜行列車ですね
暗いときにしか走らないぞー
紀伊って名前は薄幸なイメージ。完成しなかった大和型四番艦も紀伊という名前になる筈だったらしいし・・・。
ほぼ同じ時期に山陽路を走っていたブルトレ時代の寝台特急「安芸」もそうですね。
鉄道ファンにとっては忌々しい【高速バス】😓
最初から【上下分離】をして挑んでくるんだから、JRには分が悪すぎる😩
将来、JRのみ…どころか1本の鉄道でどこまでも行ける…という話は昔話になってしまいそうだ😰
バスが人気あるのはただ安いだけ!
特急料金込みで一万円もかかる寝台なんてそっぽ向かれるに決まってる
近鉄や新幹線が開業した後も1970年までの年末年始には臨時の急行紀伊(東京~鳥羽)が設定されていました。元々1927年頃から1945年頃には東京~鳥羽で夜行普通列車(1942年10月までは東京~山田や鳥羽でもう1往復不定期で運行されていた時もあった。)が運転されていました。その後戦後しばらくは東京直通の夜行列車は設定されていませんでしたが、1950年10月改正で急行大和の付属編成として鳥羽行が再び設定されるようになりました。(亀山~鳥羽は普通列車でした。)その後しばらくは付属編成のままでしたが、1953年に急行伊勢として独立しました。この東京直通の急行伊勢号は好評だったようで、1960年の年末年始から臨時の急行五十鈴(東京~鳥羽)が登場しました。翌年の運行はありませんでしたが、1962年に五十鈴から第二伊勢に改称され、1968年までの年末年始に設定され続けました。(併結相手は時期や上り・下りによって変化しました。又1967年~1968年には第二伊勢に加えて東京行のみ第二那智を併結するようになりました。そのためこの時期には東京行のみ急行大和・第二伊勢・第二那智の三階建ての列車で運行されていました。)1969年からは第二伊勢・第二那智から紀伊51号に改称され、運行区間も東京~鳥羽のみになりました。そして1970年の運行を最後に設定されなくなりました。
上りの紀伊が出雲と連結して名古屋駅を出発してすぐに下りの出雲・紀伊とすれ違っていたなぁ…
紀伊の寝台は三段式だったから、モノクラス編成でも二段式寝台だったらもう少し利用者が維持されていた事だろう。
84年2月当時は、14系14形や24系24形のB寝台が三段式→二段式改造が進められてましたね。
紀伊は改造対象から外された挙げ句、廃止されてしまいましたが。
名古屋駅で飲酒運転士が追突して脱線した事故もありましたね。😰
14系と24系25形は乗ったなあ。20系は乗ったことない。
↑20系も乗ったオッサン(あさかぜ52号)😁
20系B寝台車に乗ったとき
小学3年生だったので
狭かった印象が全くないです 笑
余談ですが、名古屋駅で紀伊号の客車とDD51が事故になったのは驚きました、またこんなこと言っててすいません。
一コマでゆうとこんな感じ
(DD51)そろそろ行く時間かのー
(14系客車)もう少しで紀伊の発車時刻かー、
(5分後)
(14系)あれ?おせーなDD51さん
(14系中間車)そうすね〜、これじゃ遅れるや!
(DD51)zzz
(14系)え!?待って、速度早い!!止まれDD51!!!
(14系全車)ぎぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!
(衝突)
(14系中間車)あっぶねー、助かった〜、びっくりしたー!
(103系)うわー大惨事、
その後DD51と14系先頭車一両が廃車されましたとさ。
完
確か運転士が泥酔状態だったとか・・・・・
伊勢〜大和〜那智。
当時の国労だったか、乗って残そう特急紀伊とか言うようなスローガンやってたような覚えがある。
さすがに関西本線が廃止になることはないと思いますが・・・・・
大事故や災害で東海道線が使えなくなったら貴重な迂回路になりますから・・・・・
・・・・・見通し甘いですかね?
奈良県と三重県は現在でも「東京から新幹線・飛行機で乗り換えなしでいけない」唯二つの県らしいですが、
「大和」や「紀伊」が存在してていたら大丈夫だったんですね。
リニアが名古屋まで開通したら東海道の余った線路需要を埋めるために、新幹線が近鉄線に乗り入れたりしませんかね…
米子駅や南紀白浜空港は、県庁所在地から離れすぎていて
論理的に鳥取「県」や和歌山「県」を満たしているだけで、実質的には直通していなくて草
福井県もだろ、と書こうとしたが、41年4ヶ月ぶりに東京都直通が復活してたわ 笑
紀伊半島先端は、今も昔も東京から遠い😂
嘗て山陰出張時に地元の方が東京夜行(出雲),大阪夜行(だいせん),京都夜行(山陰)と呼んでいた⇨新宮では東京夜行[紀伊],大阪夜行[南紀]かしら🙄?
3階建て編成って今でも確かヨーロッパでもあるよね。
確かウィーンあたりでチェコ、ハンガリー、ポーランド方面に分かれるとか・・・・。
戦前は特に伊勢神宮が皇室の皇祖神を奉る神社ということで、東京との間で皇室、宮家、宮内省(当時)と伊勢神宮との間での人物の往来が多く東海道本線に優等列車が設定され始めた初期から、東京ー鳥羽間に直通列車設けられていた。この直通列車は東海道線内は快速列車扱いで伊勢神宮の祭祀をされていた官家が伊勢神宮の祀りの際の移動にこの列車を利用しており、快速列車編成には「イロネ」クラスの一二等寝台合造客車が増結され宮家始め伊勢神宮関係者の利用に充当していた。
この快速列車は優等列車が整理削減された第二次世界大戦末期でも快速列車として残されていた。
そうしてこの列車が戦後の「伊勢」になったのである。鳥羽行快速は政治的必要性が色濃い列車である。
「紀伊」の廃止は旅客の減少はもちろんだが、廃止前年の名古屋駅飲酒運転衝突事故の「詰め腹」を伐らされたのが大きいだろう。
翻っていまの世の中で、様々な不祥事を起こしているにも関わらず即「切腹」にならない日本が本当におかしいと言うか異常にしか思わないが…。
悪かったな!ワイが最初に入った製薬会社、いま不祥事真っ只中😁
@@psychedelicraspberry517
あんたあの会社にいたんかいww
@@-hz9kj-uz3uzそう!「入った」と過去形なのがミソ(懲戒解雇じゃないよ)😁
三階建てではなく三層建てでは?
紀伊の名前で紀伊半島に行かない編成ありとはまさに洒落にならんな。まさに奇異だわ。
地方目線でいえば、東京直通の列車というのは特別感が大きかった。東京に直通する列車があるということがその地方の自慢でもあった。今の時代、それは高速バスに代わったのかな。
事大主義 笑
さすが田舎の小中華思想
もう少し長く存続していたら、東京へ行くのに何度も使っていたのではないかと思います。
現在も残っている特急南紀は紀伊の名残なのかな
昔のくろしおは天王寺〜新宮〜名古屋を運行していて
新宮電化で電化区間を走るくろしおと
名古屋〜紀伊勝浦を走る南紀に分割されたという経緯を考えると
特急南紀と紀伊の関連性は薄い。
@@山坂沙武朗 もう一つ付け加えると、「紀伊」が廃止される前に「南紀」が誕生したので、ダブっていた時代があるんですよね。
何か、帝国海軍の名称シリーズみたい。「いなば」はないけど、「那智(重巡)」「大和(戦艦)」「伊勢(戦艦)」「出雲(装甲巡洋艦)」「銀河」は陸爆であったし。
関西線の一両ディーゼルはホンマに乗り難いし周りはド田舎🚃!
しゃかたないね。昨年11月乗ったら単行で収まる客しかおらんかった…😵
二階建てB寝台でも狭いのに三階建てB寝台はもはや潜水艦内部並の狭さだろうね😅
寝台特急『紀伊』は、最後の頃は、寝台特急『出雲』との分割併合客車列車でした。
「寝台特急」のその晩年の頃は、基本的に、新幹線のないエリアをカバーするために設定されていました。現在、『サンライズ瀬戸』『サンライズ出雲』併結列車が残っているのも、その意味が大きいです。
従来、紀伊半島は、新幹線のカバーするエリアから離れているので、「寝台特急」が現存していても不思議ではありません。
本来ならば、寝台特急『出雲』は出雲大社、寝台特急『紀伊』は伊勢の神宮という、日本人の霊魂の源泉所在地に直結した列車として必要不可欠なものなのです。
人類が努力し科学を発展させ宇宙の構造もかなり詳細に判明してきた、21世紀も4分の1が終わろうとしているこんにち、まだ宗教なんか信仰してるのか
急行天竜3号·きそ1号「3階建てと聞いて」
今のJR難波の地下駅に24系作り直しで復活させて臨時でも来るようになったら、それはそれでかなりカオスだがw
草津線の複線化も貴生川までは必要と思うが、それ以上に希望としては加茂から亀山までの電化かなw
まぁもっとも加太越えでMT54がうなりを上げるのは鉄にとって魅力だろうが一般の方にとってはカオスでしかないなw
(電化後はそういう運用になるだろうからね)
もっとも現代だと完全に近鉄線と高速バスともろ被りなので、運営的にはかなり厳しいんじゃないかなあ…
時間的に始発の近鉄特急と大差はない(一応8時台着なのでそれより早ければ多少は…?)だろうし値段は近鉄より高めになるだろうし、おまけに夜行バスもとなれば…
まあみえのように快速扱いにすれば少しはましかもしれないが…それはそれで別問題がありそうだけどね
串本か紀伊田辺まで延長できれば面白かっただろうな。
需要なかっただろうけど。
急行『那智』が、『紀伊』なっている!特急『いなば、紀伊』時代に津から東京乗車しているよ。❤😊
ゴーサントー辺りで小2。豆鉄道博士の修士課程だった。社会科見学が入学式だった。14系の出雲3号にくっついていた。絵入りマークのデザインがキレイでシールを筆箱に貼っていた。いなば時代も出雲3号時代も東京発が20時40分辺り。つないだ「親分」の食堂車は非営業だった。
ケイブンシャの大百科では、妻の出雲3号が旦那の紀伊に、あんたが14系だから私まで14系じゃないのよ!と肩身の狭い様子の紀伊を描いたマンガが出る始末。キスしながら走る特急なんて書かれていたな。
地味だったり事故だったりと冴えない紀伊だが、関東からの直行特急としての立派な立場もあった。
JALの乗っ取り女社長が勤めていた南紀白浜行きのTDAのYS11は風でよく欠航したから、紀伊は貴重なアシだったはずだ。郷ひろみのジャパン改正で残念ながら廃止に。ちなみに「みずほ」の食堂車もこの時非営業になった。
ドラマ「鉄道公安官」のある話では感動のラストシーンを飾ってエンディング同様のホームタウン特急に。
ブルートレイン「紀伊」のハレ舞台だったな。
❌「みずほ」の食堂車🍽️非営業
⭕「みずほ」の食堂車🍽️簡易営業😉
簡易営業の意味をよろしくお教え下さい。
@@NS-pb2ms「大幅に合理化され、コップや皿も使い捨ての紙製で、メニューがカレーやうなぎなどレトルトものを中心に数種類」(「食堂車ノスタルジー」岩成政和著:イカロス出版より)😉
@@psychedelicraspberry517ありがとうごさいました。
私が経験した「簡易営業」食堂車に近いもので、1981年の夏休みに博多から別府まで乗車したにちりんがありました。
583系の食堂車は車内販売の基地になっていて、レジ横にワゴンを置いて営業をしていました。
購入した飲食物や酒類を食堂車内で飲食している人がたくさんいて、食堂車が営業しているように見えました。客の中には時刻表では営業しないと書いてあるけど実際はやっているんだなと誤解している人もいました。消え行く食堂車でしたが新幹線や寝台車で結構利用しました。最近復活の兆しがあるのでこれから楽しみです。
寝台急行銀河のほうが運行距離が短かったのでは
ブルートレインの話をしているので。
客車
特別急行
全車両が指定制
寝台車が主体
この条件を全て満たさないと、ブルートレインではありません。
三階建てではなく『三層建て』でしょ?
ご自身も、5:03「多層建て」と仰ってるじゃないですか!(^_^;)
5:03 😉
@@psychedelicraspberry517 ?
タイムコード貼り直してくれたんでしょ
半角英数じゃないと跳べないから
特急「いなば」ではなく「出雲3号」と併結して走行しておりました〜‼️映像の写真ではちゃんと出雲になってるのに〜😢勿体ないな〜‼️
東京〜米子間の「いなば」を統合して出雲を補完し出雲市発着の「出雲2・3号」になったから間違いではない。
オレが小学5年生の頃はEF58牽引で普通にいなばと併結して走っていたけど、何が間違いなんだ?
53・10ダイヤ改正以前は出雲3号、2号がいなばだったことを知らないのでしょう。
今首都圏から南紀までの夜行は座席の高速バス(大宮・池袋・新宿→南紀)しかないが
昔は寝ていける手段が2つ(東京→紀伊勝浦のBT紀伊と川崎港→那智勝浦港のフェリー)が
あったんだよな。
自分は20年程前に家族旅行で川崎港からフェリー(2等寝台)で那智勝浦に行った。