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現在の井伊家18代当主(彦根城博物館長)は、桑名市出身の方が婿養子になってなりましたよ京都大学を卒業された方で、桑名城のあった九華公園に隣接する立教小学校の出身ですこれも何かの縁かもしれませんね
UPお疲れ様です。桑名は名古屋に巨城が整備されるまでは中京地域の最重要拠点だったでしょう。港に近い城なら伊勢湾の制海権を徳川が握っていれば、徳川本拠の三河水軍などを使っていくらでも補給ができたはずです。またこのころは半ば破却されていましたが近くに長島城という戦国屈指の堅城があるので、「徳川の敵」が長島城を修復して入城するのを防ぐためにも桑名に大城郭が築かれたのだと思います。工事助力した井伊直政も本来なら関ケ原戦での負傷の養生をしたかったはずですが、そのとき窮地を救ってくれた忠勝への恩返しだったのでしょう。三河武士の義理堅さを感じ、直政を少し見直しました。次回も楽しみにしています!
コメントありがとうございます。長島城は木曽三川の中にある城ですよね!織田信長が攻略するのにたいそう苦労したとか。なるほど、桑名の城を改修することでそれより東にある長島城の再利用を防ぐ効果もあったのですね。井伊が彦根で、本多が桑名で守りを固めるというのは徳川にとって心強いことだったと思います。
関ヶ原の後に造られたのが桑名城であれば大坂の陣のあとに造られたのが明石城。20年の間にこれだけの幕藩体制の保障が拡がったと言う事ですね。しかし。幕末の動乱は両方で止められなかった。。。
良い城ですね。平城であっても、十分な土木量を投入したら堅城になる見本です。でも櫓の数が尋常じゃないので維持管理は難しいかと思います。
やはり平城だから射撃線を増やすために櫓を多く築いたのでしょうか。そのとおり維持は大変ですね。
十万石程度では維持は難しいですよね。山形城も最上57万石の時にできた城ですが、最上氏の後は最終的に5~6万石程度に縮小してしまったので、少しでも生産を増やそうと城内の設備を取壊して農地に変えていたようですw
@@TAIRA_TAKAMORI 山形城は、面積では全国5位なので、最上家以外の藩主は維持に苦労してますね。特産品の紅花の栽培を奨励して、収入アップに努めていたりしたようですね。城主は辛いですね。
@@黒川武-v9b さん教えてくださりありがとうございます。近年山形城は整備されつつあるようですね。30年くらい前に天童に出張してたとき何度か行きました。いつかまた行ってみたいです。
3:25 侍屋敷側から本丸側の迷路のような構え。スゴイですね。枡形なんてもんじゃない。
それだけ西を畏怖していたってことですね。
昔は松本城みたいな難攻不落の城だったんですね。破壊されても残る城の遺構が素晴らしい。
形はかわっているとはいえ、桑名城の堀は残っているのが嬉しいですね。
桑名はまだよく残っている方ですね。関東の川越、宇都宮、舘林などや、関西の尼崎、高槻、膳所などは寂しい限りです。
@ 宇都宮城は、どうしてそうなったというレベルの復元が残念な限りです。
松本城は難攻不落だったのですか?知らなかったです。桑名城跡はこの夏に行きました。縄張りが、まだ残っている方なので楽しかったです。
同じく四天王の井伊直正の彦根城と桑名城はペアの存在。街道の要所に築かれた豊臣・西国大名へ睨みをきかせるために家康は重臣である二人を配置しました。
大坂の陣の状況によっては、二家の連携が見られたのかもしれませんね。
やはり時代の産物ですねえ。東海道信州甲州あたりの譜代がきちんと動員・統制できる状況なら軍事的価値は高いんでしようが、逆に人手が集まらないと城の広大な防御線を一藩では守備することもできない。家康の頃には有効だったが、幕府の統制が効かなくなった維新の時代には(軍事的に)活用できる施設ではなくなっている。いざという時には時代遅れになっている点が大和型戦艦みたいでロマンがあります。(昨今の世界情勢を見るとロマンでは済まないことが多々ありますが)
城がいくら堅固でも、守る兵がいなければ役に立ちませんね。築城時と幕末では状況が変わっていたのはとても興味ある話です。
江戸初期に作られ、300年近く経っても機能的に時代遅れにならなかったのは、西南戦争時の熊本城くらいのものでしょう。
@@kainosuke-rekishi さん「兵がいなければ~」は新府城がまさにその通りですね。戊辰戦争時の会津城も守備兵が少ない時に急襲されて苦戦しました。
彦根と桑名で食い止める感じですかね。そこから名古屋に後詰めを集めて戦う構想でしょうか。戦国末期と幕末では戦術が違いすぎるので、当時の城郭が役に立たないのは仕方ないでしょう。
@@gionsyouji5831 さん「先鋒は井伊と藤堂(伊勢+伊賀)が徳川の定法」とはいえ、当時からとかく噂のあった藤堂ですから(w)伊賀上野や津ではなく桑名が実質最前線だったかもしれませんね。大坂の陣が終わると井伊・藤堂はそのままでしたが、本多は姫路に移って西国と畿内を遮断し、西の諸侯を睨む役割になります。
動画でも触れられてるけど見に行った経験からすると桑名城は城の遺構だと思って行くとガッカリするからあくまで公園を見に行くか、城だけじゃなく街の雰囲気(街はマジで雰囲気が残ってる)込みで見に行くのがオススメ。
桑名城ってそんなにでかいんですねーーー。関ヶ原の時に氏家卜全の孫が立てこもって全然落ちなくてみたいな話がありましたけど、忠勝が難攻不落の城に仕上げたんですねーー
面積でいえば、日本全国で十指に入るほどだったようです。
純軍事的に制海権云々で重要と言う人間がいるが、付け加えるなら当時の日本の物流主体は、河川へ沿うものの方が大きい。木曽三川の河口部分に桑名城を有する事で、軍事的に兵站輜重を円滑にするだけではなく、物流経済を優位に進める面も窺える。
取り壊したり埋め直したり縄張りすら残らんのやね
新政府やっぱクソだなあ
現在の井伊家18代当主(彦根城博物館長)は、桑名市出身の方が婿養子になってなりましたよ
京都大学を卒業された方で、桑名城のあった九華公園に隣接する立教小学校の出身です
これも何かの縁かもしれませんね
UPお疲れ様です。
桑名は名古屋に巨城が整備されるまでは中京地域の最重要拠点だったでしょう。港に近い城なら伊勢湾の制海権を徳川が握っていれば、徳川本拠の三河水軍などを使っていくらでも補給ができたはずです。またこのころは半ば破却されていましたが近くに長島城という戦国屈指の堅城があるので、「徳川の敵」が長島城を修復して入城するのを防ぐためにも桑名に大城郭が築かれたのだと思います。
工事助力した井伊直政も本来なら関ケ原戦での負傷の養生をしたかったはずですが、そのとき窮地を救ってくれた忠勝への恩返しだったのでしょう。三河武士の義理堅さを感じ、直政を少し見直しました。
次回も楽しみにしています!
コメントありがとうございます。
長島城は木曽三川の中にある城ですよね!織田信長が攻略するのにたいそう苦労したとか。なるほど、桑名の城を改修することでそれより東にある長島城の再利用を防ぐ効果もあったのですね。井伊が彦根で、本多が桑名で守りを固めるというのは徳川にとって心強いことだったと思います。
関ヶ原の後に造られたのが桑名城であれば大坂の陣のあとに造られたのが明石城。
20年の間にこれだけの幕藩体制の保障が拡がったと言う事ですね。
しかし。幕末の動乱は両方で止められなかった。。。
良い城ですね。
平城であっても、十分な土木量を投入したら堅城になる見本です。
でも櫓の数が尋常じゃないので維持管理は難しいかと思います。
やはり平城だから射撃線を増やすために櫓を多く築いたのでしょうか。そのとおり維持は大変ですね。
十万石程度では維持は難しいですよね。
山形城も最上57万石の時にできた城ですが、最上氏の後は最終的に5~6万石程度に縮小してしまったので、少しでも生産を増やそうと城内の設備を取壊して農地に変えていたようですw
@@TAIRA_TAKAMORI 山形城は、面積では全国5位なので、最上家以外の藩主は維持に苦労してますね。特産品の紅花の栽培を奨励して、収入アップに努めていたりしたようですね。城主は辛いですね。
@@黒川武-v9b さん
教えてくださりありがとうございます。
近年山形城は整備されつつあるようですね。30年くらい前に天童に出張してたとき何度か行きました。いつかまた行ってみたいです。
3:25 侍屋敷側から本丸側の迷路のような構え。スゴイですね。枡形なんてもんじゃない。
それだけ西を畏怖していたってことですね。
昔は松本城みたいな難攻不落の城だったんですね。破壊されても残る城の遺構が素晴らしい。
形はかわっているとはいえ、桑名城の堀は残っているのが嬉しいですね。
桑名はまだよく残っている方ですね。関東の川越、宇都宮、舘林などや、関西の尼崎、高槻、膳所などは寂しい限りです。
@ 宇都宮城は、どうしてそうなったというレベルの復元が残念な限りです。
松本城は難攻不落だったのですか?
知らなかったです。
桑名城跡はこの夏に行きました。縄張りが、まだ残っている方なので楽しかったです。
同じく四天王の井伊直正の彦根城と桑名城はペアの存在。
街道の要所に築かれた豊臣・西国大名へ睨みをきかせるために家康は重臣である二人を配置しました。
大坂の陣の状況によっては、二家の連携が見られたのかもしれませんね。
やはり時代の産物ですねえ。東海道信州甲州あたりの譜代がきちんと動員・統制できる状況なら軍事的価値は高いんでしようが、逆に人手が集まらないと城の広大な防御線を一藩では守備することもできない。家康の頃には有効だったが、幕府の統制が効かなくなった維新の時代には(軍事的に)活用できる施設ではなくなっている。いざという時には時代遅れになっている点が大和型戦艦みたいでロマンがあります。(昨今の世界情勢を見るとロマンでは済まないことが多々ありますが)
城がいくら堅固でも、守る兵がいなければ役に立ちませんね。築城時と幕末では状況が変わっていたのはとても興味ある話です。
江戸初期に作られ、300年近く経っても機能的に時代遅れにならなかったのは、西南戦争時の熊本城くらいのものでしょう。
@@kainosuke-rekishi さん
「兵がいなければ~」は新府城がまさにその通りですね。戊辰戦争時の会津城も守備兵が少ない時に急襲されて苦戦しました。
彦根と桑名で食い止める感じですかね。
そこから名古屋に後詰めを集めて戦う構想でしょうか。
戦国末期と幕末では戦術が違いすぎるので、当時の城郭が役に立たないのは仕方ないでしょう。
@@gionsyouji5831 さん
「先鋒は井伊と藤堂(伊勢+伊賀)が徳川の定法」とはいえ、当時からとかく噂のあった藤堂ですから(w)伊賀上野や津ではなく桑名が実質最前線だったかもしれませんね。
大坂の陣が終わると井伊・藤堂はそのままでしたが、本多は姫路に移って西国と畿内を遮断し、西の諸侯を睨む役割になります。
動画でも触れられてるけど見に行った経験からすると桑名城は城の遺構だと思って行くとガッカリするからあくまで公園を見に行くか、城だけじゃなく街の雰囲気(街はマジで雰囲気が残ってる)込みで見に行くのがオススメ。
桑名城ってそんなにでかいんですねーーー。関ヶ原の時に氏家卜全の孫が立てこもって全然落ちなくてみたいな話がありましたけど、忠勝が難攻不落の城に仕上げたんですねーー
面積でいえば、日本全国で十指に入るほどだったようです。
純軍事的に制海権云々で重要と言う人間がいるが、付け加えるなら当時の日本の物流主体は、河川へ沿うものの方が大きい。
木曽三川の河口部分に桑名城を有する事で、軍事的に兵站輜重を円滑にするだけではなく、物流経済を優位に進める面も窺える。
取り壊したり埋め直したり縄張りすら残らんのやね
新政府やっぱクソだなあ