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良い所と悪い所が有ったのは事実でしょう公平に歴史を語るのが大切である
今までの言い伝えが偏って居るのにも問題がある!当時は人助けで貧しかったのは日本中が貧しい時期に仕事としたら当時は最高の仕事でしたよ!
良いお話が伺えました。映画の「あゝ野麦峠」を見て不自然に思い調べたことがあります。不幸な事例を抽出して描き、悲しみの感動で惹きつけようとした形跡が伺えました。しかし今回のお話は偏りのない実話を集めた紹介で当時の時代背景から想像して全く自然です。良い部分の抽出も同様に大切なんです。何かの理由で女工に行けずに山の中で百姓の手伝いをしなければならなかった人も居たでしょう。私にはその人たちの方がつらい思いをしたのではないかと想像します。女工さんたちが皆で頑張って家族や日本を支えたのですね。先人の努力に感謝致します。
@@poction 原作者が山本茂美で無かったですか?
@@藤川いさ代 そうです
現地で説明されてるのと同じ気持ちで聞けました。ありがとうございます。
岡谷生まれなんですが、小学生時代に封切りされた「あゝ野麦峠」を当時観ただけで製糸工場や女工さんの生活とかを知らないまま今に至りました。県外に出てしまったけど、生まれ故郷の歴史をもっと知っておこうって思う。
子供が親の為家の為に身を粉にして働く、、今現代こんな状況ってあるでしょうか⁉︎身に詰まる泣ける話です。
素晴らしい解説でした。
好い話、感動しました。
小説といえども山本茂美は丹念に女工たちから聴き取り小説にしている。館長は敢えてそれに初めて触れないようにしているのだと思う。明治から戦前・戦後生糸は外貨を得る重要産業であった。それは単に岡谷だけではなく、丹波の鐘ヶ淵紡績(現在のカネボウ)、倉敷の倉敷紡績(現在のクラレ)、滋賀県の近江絹糸など全国各地にあった。ここで働いていた女工たちに共通しているのは極めて貧しかったことだ。 こういう働き場所のなかった子供は口減しの為に女衒(ゼゲン)に変われ、京都では島原、大阪では飛田新地、江戸では吉原と都会の女郎(娼婦)として売られていった。男どもは炭鉱で、蟹取り漁船で劣悪な労働条件で酷使されていた。それは右翼や左翼とは関係なく外貨を稼ぐための過酷な労働を描いたのが小林多喜二の〝蟹工船〟である。それを忠実に描いた為に彼は殺された。 彼女たちの上に今日の日本があるのには違いないが、生産性が高まった今日女工のみならず本当に日本の労働者に対する労働はい変わったのだろうか?
私は奈川村の生まれ育ちの81歳ですこのお助け小屋の所でキャンプしました潰れた小屋を薪にしてキャンプファイヤーをしました夜は肝試しもしました5年生の時です
ペンギン様失礼します。小学5年時は70年前ぐらいでしょうかね?キャンプファイヤーをされた時は、野麦峠のことは、子どもながら(失礼)知っていましたか?
現在の労働基準法が制定され世の中が安定した昭和30年代以降と、戦争をはさんで旧法の時代だった戦前とでは女工の待遇にかなり差があったと思います。また官立(公営)と民間企業とでは待遇にかなり差があると思います。映画「ああ野麦峠」で描かれた劣悪な労働条件の工場は、民間の零細企業のお話しなんだと思います。同じ明治時代の話しであっても、官立の富岡の製紙工場は女工の待遇が全然違います。
「思います」を入れつつ、見てきたような事は軽々に言わん方がいいよ。世の中や歴史は知らない事がたくさんあるから
叔母と母方の祖母は野麦峠を越えて信州に働きに行っていました。祖母はテレビドラマの野麦峠をみてあんなに酷いことは無かったと言っていました。
最高の朗読で感度しました!当時は働きたくても働け無い地域もありましたから人助けですよ!3度の食事もままならぬ時代でしたから!
産業革命ですね、、炭鉱も、
母も娘の頃兵庫但馬養父市の群是工場に勤めていました、但馬は豊岡市日高や、豊岡や朝来やなせに、、戦前戦後の外貨の稼ぎでした、野麦峠で有名に、なりました嗚呼野麦峠の岡谷官営工場があり、おかやは、二百からの製紙工場があり、おかやは日本の産業の大動脈で町も繁盛していたと学芸員さんの説明を聞いていた今は若者は何でもてに、入ります、豊か差は有難しかと云えば反対に有り難みが無くなりました娘時代から親孝行していたのです今はどうでしょう
あぁ野麦峠の映画の中で時計の時間を戻して(誤魔化して)女工をコキ使ってる場面も描かれていたが実際はどうだったのかな❔岡谷に生糸工場大小200くらいあったって話だったから当たりの職場もあればハズレの職場もあったという事なのかな❔
良い工場の話しばかりで、良くない工場の話しもきちんと話してほしかったです、公平に〜
映画はエンタメ部分はあるのは否定しませんが、吐きそうな蚕の匂いを我慢して、家族の為だけに耐えて働いた女性は事実。工女さんに限らず、この時代も昭和の人も、先人も、令和な今の人達には出来ない苦労をしていたこと。それは誰も否定出来ない昔の現実だった。私、祖父母や両親から聞いた話だけでも今がどれだけ幸せか?物価高?なんて、それこそ、大根やじゃがいもで過ごせますかね。大根や芋があれば幸せ。なのを気付かないのでしょうね。
お、マスク無しの林さんだw
美人さんですね❤
先日、富岡市から岡谷蚕糸博物館に伺いました。みんな誤解してるんです。「あゝ野麦峠」は山本 茂実の原作で山本薩夫が映画化した架空の物語です。ドラマです。これを本当にあったかのように思っている人多くて困ります。坂本龍馬もそうですが。説明は省きます。時代を考えてください。大竹しのぶが演じた工女(政井みね)は100円工女と言われていました。之が何を意味するのかは理解できる人は少ないです。学芸員の方が言われたように10年働ければ箪笥が買えたんですよ。あの時代に。300円で家が建てられた時代です。みねのお兄さんは寝ずに野麦峠を超えたわけですよ。一家の稼ぎ手は、みねで一家は働かずにも生活ができたんですよ。ブラック企業だという方、よく調べて説明していただきたいですね。
川矢雲黒斎様給金で家が1軒買えて、家族が遊んでいたとしても、、、女の子達が家族の為、日本経済の為に、苦労された現実は本当なのではないかな?家族の背景は置いといて、働き詰めだった女性、雪の野麦峠を越えて正月に帰省した事実を語り繋いでるのが本質ではないかな。
@@Eあかね 様 そのようなお考えもあっても良いのではないでしょうか。とらえ方は千差万別です。ただいえることは、当時、岡谷の製糸場で働いていた工女さんが、後の調査でに語っていた言葉の重さや、実際に働いていた人の言葉は重いですね。調べてみてください。本が出版されていますよ。
そもそもが口減らしの丁稚、時代も、経験も無ければ知らなければ軽く語れる
野麦峠の映画は、戦後左翼にありがちな偏向映画
これ自体が 戦前の国策で女性がいかに 酷使されちゃったかという映画 なんだ
ちがうね、飛騨角川ではもっと飢えていたし、諏訪の女工はかなりの高給だった イカサマ偏向恨日映画作るな
良い所と悪い所が有ったのは事実でしょう公平に歴史を語るのが大切である
今までの言い伝えが偏って居るのにも問題がある!当時は人助けで貧しかったのは日本中が貧しい時期に仕事としたら当時は最高の仕事でしたよ!
良いお話が伺えました。映画の「あゝ野麦峠」を見て不自然に思い調べたことがあります。不幸な事例を抽出して描き、悲しみの感動で惹きつけようとした形跡が伺えました。
しかし今回のお話は偏りのない実話を集めた紹介で当時の時代背景から想像して全く自然です。良い部分の抽出も同様に大切なんです。
何かの理由で女工に行けずに山の中で百姓の手伝いをしなければならなかった人も居たでしょう。私にはその人たちの方がつらい思いをしたのではないかと想像します。
女工さんたちが皆で頑張って家族や日本を支えたのですね。先人の努力に感謝致します。
@@poction 原作者が山本茂美で無かったですか?
@@藤川いさ代 そうです
現地で説明されてるのと同じ気持ちで聞けました。ありがとうございます。
岡谷生まれなんですが、小学生時代に封切りされた「あゝ野麦峠」を当時観ただけで
製糸工場や女工さんの生活とかを知らないまま今に至りました。
県外に出てしまったけど、生まれ故郷の歴史をもっと知っておこうって思う。
子供が親の為家の為に身を粉にして働く、、今現代こんな状況ってあるでしょうか⁉︎
身に詰まる泣ける話です。
素晴らしい解説でした。
好い話、感動しました。
小説といえども山本茂美は丹念に女工たちから聴き取り小説にしている。館長は敢えてそれに初めて触れないようにしているのだと思う。明治から戦前・戦後生糸は外貨を得る重要産業であった。それは単に岡谷だけではなく、丹波の鐘ヶ淵紡績(現在のカネボウ)、倉敷の倉敷紡績(現在のクラレ)、滋賀県の近江絹糸など全国各地にあった。ここで働いていた女工たちに共通しているのは極めて貧しかったことだ。
こういう働き場所のなかった子供は口減しの為に女衒(ゼゲン)に変われ、京都では島原、大阪では飛田新地、江戸では吉原と都会の女郎(娼婦)として売られていった。男どもは炭鉱で、蟹取り漁船で劣悪な労働条件で酷使されていた。それは右翼や左翼とは関係なく外貨を稼ぐための過酷な労働を描いたのが小林多喜二の〝蟹工船〟である。それを忠実に描いた為に彼は殺された。
彼女たちの上に今日の日本があるのには違いないが、生産性が高まった今日女工のみならず本当に日本の労働者に対する労働はい変わったのだろうか?
私は奈川村の生まれ育ちの81歳です
このお助け小屋の所でキャンプしました
潰れた小屋を薪にしてキャンプファイヤーをしました
夜は肝試しもしました
5年生の時です
ペンギン様
失礼します。小学5年時は70年前ぐらいでしょうかね?
キャンプファイヤーをされた時は、野麦峠のことは、子どもながら(失礼)知っていましたか?
現在の労働基準法が制定され世の中が安定した昭和30年代以降と、戦争をはさんで旧法の時代だった戦前とでは女工の待遇にかなり差があったと思います。また官立(公営)と民間企業とでは待遇にかなり差があると思います。映画「ああ野麦峠」で描かれた劣悪な労働条件の工場は、民間の零細企業のお話しなんだと思います。同じ明治時代の話しであっても、官立の富岡の製紙工場は女工の待遇が全然違います。
「思います」を入れつつ、見てきたような事は軽々に言わん方がいいよ。
世の中や歴史は知らない事がたくさんあるから
叔母と母方の祖母は野麦峠を越えて信州に働きに行っていました。
祖母はテレビドラマの野麦峠をみてあんなに酷いことは無かったと言っていました。
最高の朗読で感度しました!当時は働きたくても働け無い地域もありましたから人助けですよ!3度の食事もままならぬ時代でしたから!
産業革命ですね、、炭鉱も、
母も娘の頃兵庫但馬養父市の群是工場に勤めていました、但馬は豊岡市日高や、豊岡や朝来やなせに、、戦前戦後の外貨の稼ぎでした、野麦峠で有名に、なりました嗚呼野麦峠の岡谷官営工場があり、おかやは、二百からの製紙工場があり、おかやは日本の産業の大動脈で町も繁盛していたと学芸員さんの説明を聞いていた今は若者は何でもてに、入ります、豊か差は有難しかと云えば反対に有り難みが無くなりました娘時代から親孝行していたのです今はどうでしょう
あぁ野麦峠の映画の中で
時計の時間を戻して(誤魔化して)女工をコキ使ってる場面も描かれていたが実際はどうだったのかな❔
岡谷に生糸工場大小200くらいあったって話だったから当たりの職場もあればハズレの職場もあったという事なのかな❔
良い工場の話しばかりで、良くない工場の話しもきちんと話してほしかったです、公平に〜
映画はエンタメ部分はあるのは否定しませんが、吐きそうな蚕の匂いを我慢して、家族の為だけに耐えて働いた女性は事実。
工女さんに限らず、この時代も昭和の人も、先人も、令和な今の人達には出来ない苦労をしていたこと。それは誰も否定出来ない昔の現実だった。私、祖父母や両親から聞いた話だけでも今がどれだけ幸せか?
物価高?なんて、それこそ、大根やじゃがいもで過ごせますかね。大根や芋があれば幸せ。なのを気付かないのでしょうね。
お、マスク無しの林さんだw
美人さんですね❤
先日、富岡市から岡谷蚕糸博物館に伺いました。みんな誤解してるんです。「あゝ野麦峠」は山本 茂実の原作で山本薩夫が映画化した架空の物語です。ドラマです。これを本当にあったかのように思っている人多くて困ります。坂本龍馬もそうですが。説明は省きます。時代を考えてください。大竹しのぶが演じた工女(政井みね)は100円工女と言われていました。之が何を意味するのかは理解できる人は少ないです。学芸員の方が言われたように10年働ければ箪笥が買えたんですよ。あの時代に。300円で家が建てられた時代です。みねのお兄さんは寝ずに野麦峠を超えたわけですよ。一家の稼ぎ手は、みねで一家は働かずにも生活ができたんですよ。ブラック企業だという方、よく調べて説明していただきたいですね。
川矢雲黒斎様
給金で家が1軒買えて、家族が遊んでいたとしても、、、女の子達が家族の為、日本経済の為に、苦労された現実は本当なのではないかな?
家族の背景は置いといて、働き詰めだった女性、雪の野麦峠を越えて正月に帰省した事実を語り繋いでるのが本質ではないかな。
@@Eあかね 様 そのようなお考えもあっても良いのではないでしょうか。とらえ方は千差万別です。ただいえることは、当時、岡谷の製糸場で働いていた工女さんが、後の調査でに語っていた言葉の重さや、実際に働いていた人の言葉は重いですね。調べてみてください。本が出版されていますよ。
そもそもが口減らしの丁稚、時代も、経験も無ければ知らなければ軽く語れる
野麦峠の映画は、戦後左翼にありがちな偏向映画
これ自体が 戦前の国策で女性がいかに 酷使されちゃったかという映画 なんだ
ちがうね、飛騨角川ではもっと飢えていたし、諏訪の女工はかなりの高給だった イカサマ偏向恨日映画作るな