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【ゆっくり解説】昭和30年代の生活実態「お財布事情」はどんなものだった?

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  • Опубликовано: 15 авг 2024
  • いつもご視聴ありがとうごいざます。
    今回は「昭和30年代の生活実態「お財布事情」はどんなものだった?」
    について
    ゆっくり解説していきます。
    ▼目次▼
    00:00 オープニング
    01:08 「昭和30年代の経済状況」
    06:30 昭和30年代のお給料はどのくらい?
    07:42 昭和30年代では電話の貸し借りなどみんなで助け合っていた
    10:08 昭和30年代の電化製品を手に入れるのは困難!?
    11:51 昭和30年代ではお風呂に毎日入れなかった!?
    13:52 昭和30年代では小遣い稼ぎで血液を売っていた?
    18:04 昭和30年代では国民の3分の1が医療保険に未加入だった!?
    よろしければコメントお待ちしております。

Комментарии • 57

  • @abbtk14
    @abbtk14 7 месяцев назад +20

    東京下町だと昭和40年代になっても電話が無い家が結構あって、勝手に隣家に上がり込んで長電話とか、隣人宛ての電話が早朝深夜にかかって来るとか結構なトラブルを聞きました。それが今や子供でも一人一台スマホを持っているんだから豊かにはなったんでしょうね…。

  • @user-df3fg3jj1u
    @user-df3fg3jj1u 7 месяцев назад +11

    当時、学校の連絡簿には、【呼】マークが付いた家庭が有った。
    (電話の有る家庭、アパートの大家さんの家から呼び出してもらう。)
    来年も宜しく😊

  • @garisan7476
    @garisan7476 7 месяцев назад +9

    田舎は昭和40年代でもほとんどの家庭に井戸が有りました。自分の家にはなく隣の川から風呂水を汲んで大変だったと母親から聞きました。幼少時は家も古く五右衛門風呂でした。

  • @ibukino-sashimogusa
    @ibukino-sashimogusa 7 месяцев назад +15

    近所に何件もお風呂屋さんがあって、友達同士や兄弟でお風呂屋さん巡りをやっていました。
    年末、紅白歌合戦が始まると、ほとんど客がいなかった。
    お正月には早風呂があって2日の朝からお風呂屋さんに行きました。
    お風呂さんには叡智な映画のポスターも掲示されていて少し困りました。
    怪獣映画がやって来ると番台のオバチャンに割引券をもらった。

    • @toriri-service
      @toriri-service 7 месяцев назад +5

      湯上がりのコーヒー牛乳やフルーツ牛乳は格別でしたね😊

  • @AotoSusumu
    @AotoSusumu 7 месяцев назад +13

    40年生まれなので30年代は直接知らないけど、とにかく当時は不衛生な時代だった。トイレは洋式はおろか汲み取り式が普通で、水洗トイレなんて一部のビルくらいしかなかった。野良犬はごく普通にいて、追いかけられたこと数知れず、「犬のふんは持ち帰る」などと言う習慣はそもそもなく、道を歩いていれば踏まずに歩くためには路上に注意している必要があった。蠅や蚊、ゴキブリ、ネズミは今とは比較にならないほど多く、注射器は使い回し、喫煙者はとてつもなく多くて成人男性で喫煙していなかった人はごく一部にすぎなかった。

  • @toriri-service
    @toriri-service 7 месяцев назад +8

    7:00 コーヒー一杯が50円 昭和30年代後半になるとJR(当時は国鉄)の初乗り運賃が30円
    現在は 喫茶店等でコーヒー一杯が¥500ほど
    JRの初乗り運賃は¥150だから 鉄道の運賃は 良心的だと思う。(国鉄時代にこそ大幅値上げはしたが JR発足から36年で¥20しか上がっていない。)
    7:17 アサヒビールが日本で初めて出した缶ビールにはまだ『プルトップ』というものがなく 昔のトマトジュースのように 専用の付属穴あけ器具で プチップチッと穴を2箇所開けて コップに注ぐ(もしくはそのまま飲む)ものでした。
    昭和40年にそのプルトップオープンの缶ビールを初めて販売したのも アサヒビールでした。

  • @toriri-service
    @toriri-service 7 месяцев назад +9

    昭和37年 ハナ肇とクレイジーキャッツの『これが男の生きる道』には「貰う月給は一万なんぼ…。」という歌詞があり 昭和38年の映画『下町の太陽』では 浅草の松屋でデートしている倍賞千恵子さんと 早川保さんが 最新式のステレオの音に酔いしれて 値段を見たら80万円と知って仰天するシーンがありました。
    最近 配信されていた特撮ドラマの『ナショナルキッド』でも 松下電器がスポンサーだったので
    旗先生が世話をしている子どもたちが トースターで焼けたパンや 炊飯器から炊きたてのごはんを おいしそうに食べる『家電品のある 豊かで楽しい生活』を演出するシーンがあり 当時の音楽や映像作品からも 生活や物価を知る事が出来ますね。

  • @podmaneliction9744
    @podmaneliction9744 7 месяцев назад +5

    ボンバイエイさん、今年もお疲れ様でした☺️

  • @user-co3nu5fj7t
    @user-co3nu5fj7t 7 месяцев назад +4

    昭和40年生まれですが
    、便利になった話は良く聞きました。ガス釜が来た時母親がずこく喜んでいました。囲炉裏でご飯を炊いていたのがスイッチを押すと後は炊き上がるまで待てば良いなんて夢のようだったと思います。そういう喜びが更に経済成長を促した筈です。しかし今はそれが当たり前でモチベーションにならなくなってしまった。

  • @Heidi.A
    @Heidi.A 7 месяцев назад +8

    仕事で知り合った大正生まれのおばあちゃんが昭和30年代に洗濯機を買った時、近所の人が見に来たらしい。

    • @matsu5600
      @matsu5600 7 месяцев назад +4

      今は高級車を買っても見に来ない。来たらむしろ変人。
      人のつながりが残っていた時代。

  • @gzunda55
    @gzunda55 6 месяцев назад +2

    昭和30年生まれです。最初の冷蔵庫は木製のタンスのような物で、引出しに潜水艦の区画扉の
    ような物がいくつかあって一番上に氷のかたまりを置いていた。1、2年で電気に置き換わった。
    洗濯機が登場するまでは母が近くの川に行っていた。そう昔話の世界です。最初の洗濯機にも
    脱水機能があったがそれは手回しのローラーに洗濯物を挟んで通すもので圧搾機というべき
    ものだった。

  • @ibukino-sashimogusa
    @ibukino-sashimogusa 7 месяцев назад +5

    東京オリンピックの前年に我が家にテレビがやって来ました、近所の人が集まってプロレスを見てました。

  • @user-lv4sr4fu8j
    @user-lv4sr4fu8j 7 месяцев назад +5

    『ALWAYS三丁目の夕日』で観た世界…

  • @matsu5600
    @matsu5600 7 месяцев назад +3

    電話がない家は近所の電話のある家にお願いして呼び出し番号として学校の名簿に載せていました。
    その家にかかってくるとうちに呼びに来てくれた。お互いに気を使うのでこんな時期は短かったと思います。電話を借りて市外通話するときは交換手を通すと通話終了後に料金を教えてくれた。
    風呂に毎日入れない代わりに夏場は行水をする習慣がありました。

  • @user-zz2tx7cg3h
    @user-zz2tx7cg3h 7 месяцев назад +4

    【電気代】
     昭和30年代に電気代はほとんど変化していないみたい。基本料金が上がって従量料金が下がったのかな。
     電気の契約形態が大きく変化した時代なので比較は難しいです。

  • @aeon-fx4dg
    @aeon-fx4dg 7 месяцев назад +4

    学校で 献血があったな! 強制だったから大変 小学1年は6年と2年は5年と一緒にするが 注射の嫌いな子供はいるので献血車の中は大変 体育館組も大変 凄い時だったなぁ!

  • @user-gh2mf1oz6w
    @user-gh2mf1oz6w 7 месяцев назад +5

    聖徳太子の1万円札懐かしい。そういや、うちの貯金箱の中に五百円札、まだあったかも

    • @ToDo-gi2vv
      @ToDo-gi2vv 7 месяцев назад +1

      500円札、というと岩倉具視でしょうか。私は昭和53年生まれですが見たことありません。4歳か5歳のときに親からもらったお年玉が500円玉1枚だったのを覚えていますが・・・

    • @user-gh2mf1oz6w
      @user-gh2mf1oz6w 7 месяцев назад

      @@ToDo-gi2vv さん おっしゃるとおりです。岩倉さんが肖像画で印刷されているやつです。

    • @pastelpureakgjze5791
      @pastelpureakgjze5791 5 месяцев назад +1

      昭和30年代、スコッチウィスキーのジョニーウォーカー黒は1万円もしたとか。今では、「ジョニ黒」は為替レートの変動と関税・酒税の引き下げでぐんと安くなって有難味が無くなった。

  • @HIGHDEN65
    @HIGHDEN65 7 месяцев назад +5

    昭和40年台前半、農協の購買店から「◯×さん、⬜︎△から電話です」と言う放送がされていて◯×さんは十円玉を握りしめて購買店まで走って行っていました。
    当時、既に我が家には電話がありました。

  • @user-cn5yg8oq6d
    @user-cn5yg8oq6d 7 месяцев назад +2

    何故か周りに電話加入率の低い時代(昭和40年代後半)我が家にも電話があった。大家さんも10円持ってよく電話を借りに来ていた。手書きの電話帳があっていろんな飲食店の電話番号が書いてあった。あと、うちの親父は日本橋でパーツを買ってテレビを作ったそうな。そのテレビを見に近所の人が見に来ていたといっていた。

  • @T.mizobata
    @T.mizobata 7 месяцев назад +3

    確かに色々高度経済成長になり便利になり、かつまだまだ不便な時代。でも、皆楽しく生きてましたね。バイタリティーあふれていたよね😊

  • @saori127
    @saori127 7 месяцев назад +6

    昭和50年代をやってほしいです。聖徳太子でしたよ。

    • @yukiishi
      @yukiishi 7 месяцев назад +2

      昭和50年代半ばまで、トイレはまだ汲み取り式でした!
      ダルマポスト、黒電話ダイヤル式、懐かしいですね!

    • @saori127
      @saori127 7 месяцев назад +2

      @@yukiishi
      この辺りまだ汲み取りの家が普通にあります😅

    • @garisan7476
      @garisan7476 7 месяцев назад +2

      ​@@saori127
      田舎はまだ多いですね。うちの家も隣の家もそう!だからバキュームカー良く見るんよ😄

    • @pastelpureakgjze5791
      @pastelpureakgjze5791 5 месяцев назад +2

      @@yukiishi 電車のトイレなんざ、タンクがなくて垂れ流しだった。そのため、「停車中は使わないように」「都市部ではは使わないように」とアナウンスされていた。

  • @ibukino-sashimogusa
    @ibukino-sashimogusa 7 месяцев назад +3

    電話を借りに来る人もいましたが、1回線を共同で契約したりしていました、たまに電話をかけようとすると共同契約者さんの通話が聞こえてきて終るまで待っていました。
    そこで、こちらの通話も聞こえているのだなと思い大切な話しは出来ませんでした。

  • @user-fb7rk1cb2g
    @user-fb7rk1cb2g 7 месяцев назад +2

    今思うとおばあちゃん家って
    ある意味すごかったんだなぁ...
    お風呂があったから(因みにおばあちゃん家その時代辺りに建てられた感じがする)

  • @user-hi7jh1fd5u
    @user-hi7jh1fd5u 7 месяцев назад +1

    昭和30年代の動画を有難う御座います。朝鮮特需は戦火を交えて日本の工業技術水準の高さを熟知したアメリカが日本に軍用品の修理、整備、パーツ製造などを一任した、米国企業を戦地までの距離の問題で頼れなかったことによります。隣国で戦争が起こったからではなく、日本に高い技術力があったからです。朝鮮特需で生まれた成金は、財産管理が出来ず全員落ちぶれました。昭和32年頃の大蔵省の初任給は3万円でした。でも結婚すると冷蔵庫などの主要家電、家具、電話付き官舎に無料入居出来ました。その上、家族手当などがついて給与は6万円位に増えました。大蔵省、日銀、警察庁幹部の官舎村からは霞が関にしか止まらない東京駅行きの都営急行バスが運行していました。日銀へは東京駅から通勤専用直通バスで日本橋三井村まで行きます。当時の電話はクラス分けされていて、一般家庭電話は23区内しかかけられませんでした。官舎備え付け電話は交換局に繋がり女性オペレータに23区外接続して貰えました。殆どの家庭には電話が無く連絡先に(呼)〇〇番(〇〇様)と書くのが普通でした。一般家庭にとって電話は電報より緊急通信手段で、近隣への呼び出し電話がかかってくると奥様が走って呼び出しに行きました。当時は23区内なら10円で何時間でも繋げられていたのです。また昭和30年代に電気代が急騰したのは工業化が急激に進み電力需要が増え発電所増設に予算が必要だったからです。でもこの時点で電力会社に内部保留金を作らせたのは正解でした。直後から始まった一般家庭への大量家電製品の流入に伴う急激な電力需要増加に十分対応できたからです。それから昭和の社会人は良く働きました。大蔵省では国家予算編成時期には2週間近く職場に缶詰めが当然でした。奥様方は毎夕、お重に夕食と夜食をつめ着物に着替えて陣中見舞いと称し大蔵省の夫に届けるのが当たり前でした。私も博士号取得後、研究所に就職すると寝袋を持ち込んで住み着き、2時間睡眠で毎日20時間以上研究を年中無休で続け、新技術を発明し国民生活を豊かにして外貨を獲得しようと必死でした。先輩たちが桜花や回天に乗って命と引き換えに本土を死守したように、私達も命をかけようと誓い合っていました。過労死は名誉の戦死とみなされていました。おかげで私は結婚も出来ず、何の楽しみも無く、余命宣告を受けた寝たきり老人になりました。病床で富士通に貰ったノートPCでユーチューブを視聴して過労性の病苦に耐えています。最近の人は効率的に短時間で仕事を終え余暇を楽しむ様ですが、それではじっくり数十年先の日本まで熟慮し職場で討論してビジョンを共有し、自分の目標設定をする事を繰り返してより良い努力をする事は出来ません。私達は欧米からエコノミックアニマルと蔑視されても気にかけず信念を貫いたから日本を豊かにできました。その豊かさの中に生まれ、それを当然視する無能な寄生虫サラリーマンが低年収に文句をつけるのは、おかしいと感じます。

  • @user-gh2wk4ru5y
    @user-gh2wk4ru5y 7 месяцев назад +1

    高度経済成長期は(生まれるずっと前のことだけど)知ってるつもりでいたけど知らなかったことがまだまだあったことを今痛感した。

  • @user-be3ev8cs2f
    @user-be3ev8cs2f 7 месяцев назад +2

    昔は家庭電話は贅沢品

  • @aosi77
    @aosi77 7 месяцев назад +3

    >朝鮮戦争1950年6月25日-1953年7月27日 は昭和25~28年の戦争なのだから
    前回の動画で紹介すべきだったのでは?昭和30年代生まれに抗議されても仕方ないとは思うw

  • @user-fb3oq9jq3d
    @user-fb3oq9jq3d 7 месяцев назад +2

    電話加入権かあ...バブルの頃でも八万円台だった。

  • @user-fr7bd1sh1w
    @user-fr7bd1sh1w 7 месяцев назад +2

    良かった、今日はちゃんと実態だ…

  • @user-tc4zb1lf8u
    @user-tc4zb1lf8u 7 месяцев назад +2

    それでも、現在に換算しても給料少な。😢

  • @takaajki1159
    @takaajki1159 Месяц назад

    私の子供時代、正月の初詣に行くと片手や片足無い兵隊さんがゴザ敷いてお恵みを。。。沢山居ましたよ😢

  • @bba7508
    @bba7508 7 месяцев назад +2

    ★🇯🇵の復興の力は凄いで〜⤴️⤴️👍👍❤️❤️伸び代ハンパないで〜⤴️⤴️👍👍🤣🤣🩷🩷

  • @user-rm8zs9lw2i
    @user-rm8zs9lw2i 7 месяцев назад +2

    血液不足無償で提供する人はいないだろう😅

    • @user-lm6lu8ob1t
      @user-lm6lu8ob1t 7 месяцев назад +3

      1963年に、私の従兄弟が大きな手術する為、叔父さん叔母さんは職場や知人に頼み相当な謝礼を払って血液の準備をしたようです。
      売血を止めても、一般に馴染んだ思考から、相当な費用が掛かりました。

  • @vtec2200P
    @vtec2200P 7 месяцев назад

    自分の両親達が生まれ、祖父母たちが現役だった時代だから気になりますね!

  • @kirisamereimu36
    @kirisamereimu36 6 месяцев назад

    聖徳太子の五千円札と一万円札懐かしい。

    • @pastelpureakgjze5791
      @pastelpureakgjze5791 5 месяцев назад

      何かデザインや色遣いがズッシリしていて重苦しい感じだった。

  • @reikoH-ze3qx
    @reikoH-ze3qx 2 месяца назад

    霊夢さんのお気持ちは尊いだと思います。が第一次大戦下で、直接の戦火に巻き込まれなかったアメリカが経済的な王座に踊りだし、日本も工業化に成功し、世界の五大国になったと聞きます。これが現実なのですね。私は昭和35年生まれですが、幼い頃養豚業者さんがリヤカーで家庭の生ゴミをもらって回っていました。豚の餌にするそうです。母は豚が食べられないものが混じらないように気を付けていました。

  • @hayatokanekon6339
    @hayatokanekon6339 7 месяцев назад

    父親が東京に金の卵と言われて上京した時代だな。最初は工場務めだったみたい。その後家具屋さんの営業だったみたい(両方とも倒産)

  • @ooutsuke1560
    @ooutsuke1560 7 месяцев назад +2

    昨日朝鮮戦争特需の話を聞いたばかりだろ
    まだ若そうに見えるのに
    おかわいそう。 1:37

    • @tf-du5br
      @tf-du5br 7 месяцев назад +1

      霊夢も見た目ほどは若くないからね・・・

  • @user-vu1fg9xj1g
    @user-vu1fg9xj1g 7 месяцев назад

    昭和29ねん(1954年)の日本を解説してください。

  • @user-ji5uc2ee5o
    @user-ji5uc2ee5o 7 месяцев назад +1

    霊夢さん、👩魔理沙さん、お疲れ様です、今晩は〜、可成寒くなりましたね~、明けまして、御目出度う御座います、今年も宜しくお願い致します🙇🎍、今日の話は、昭和の、30年代の話ですね~、又、旧10000円の、聖徳太子は、昭和の、確か、34年頃の登場でしたね。😅🤔💦又、旧5,000円の、聖徳太子も、有りましたからね~、😅🤔💦又、その後は、3億円事件我有りましたからね。😅🤔💦では、此の辺で失礼致します🙇令和6年1月1日😅🤔💦🙃🌹🌌🥰🍍🥳😁✨🎉🌴👨‍👨‍👧☘️🌸💐🍒🛹🧏🎊🧙👯💓😚🌼🌺😻🍉🌈😆🏵️👼😊❤✌️🙋

  • @user-xb5vv8eq4b
    @user-xb5vv8eq4b 5 месяцев назад

    国会議事堂の百円札はまだ健在だったかな?