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作り込まれていてとても興味深く拝見しました。図版やカットは内容の理解の助けになりますね、特にビキニの女神などぶっ飛んでるなあとおもいつつも、慣れてくると良いエッセンスですね。状況や情景のイメージを助けてくれました。「アミニズム的」という用語について、この動画中での意味を図りかねました。察するに、神の解釈が自由だった、付き合い方は人間が決めた、という意味合いなのかな、、と思いました。
人類だけでなく、縄張り争いはどの動物でもしますからね・・・。結城屋さんの動画は古代日本の考え方の一つとして非常に興味深いですね。これからも楽しみにしてます。
ご視聴ありがとう御座います!お褒め頂きまして、恐縮です!まだまだ拙い動画ではございますが、これからも結城屋の動画をよろしくお願いいたします!
とても興味深く拝見しました!出雲、越、吉備、諏訪、毛野あたりも深堀していただけると嬉しいです。伊勢、香取、鹿島などの聖地の話も是非。
ご視聴ありがとう御座います!地域別深掘りも検討しています!挙げて下さった地域はどれもいずれ深掘りしたいと考えていますので、ご期待に添えるように頑張ります!!聖地巡礼の深掘り動画も面白そうですね!こちらもぜひ深掘りしてみたいです!まだまだ拙い動画ではございますが、今後とも結城屋の動画をどうぞよろしくお願いいたします!
6:56の筑紫国造が筑紫哲也でワロww
ご視聴ありがとう御座います!筑紫君哲也さんは、他の動画でも出てきますので探してみてください笑笑ってくれてとても嬉しいです!!
箸墓古墳って百襲姫のお墓ってことか。そうなると、百襲姫と卑弥呼か全然ダブって見えてこない。マスコミでは箸墓古墳イコール卑弥呼の墓って文面をよく見かけるけど、なんだか全然違う感じがします。
ご視聴ありがとうございます!箸墓古墳の被葬者に比定されているのが百襲媛ということであって、実際の考古学的証拠が出ているわけでは無いのですが、通説では百襲媛の墓とされていますね。卑弥呼の墓の伝承が箸墓古墳の規模と類似しているため、箸墓古墳は卑弥呼の墓だと一時話題になったそうで、その事から「卑弥呼=百襲媛」という構図が出来上がったようです。実際のことは分かりませんが、僕も卑弥呼と百襲媛は全然イメージが合いません。生きていた時代も、1世紀近くズレがあるように思いますし、そもそも卑弥呼が固有名詞かどうかも定かではないですからね。卑弥呼が固有名詞かどうかが解き明かされない限り、卑弥呼が誰なのかは考えてもたどり着くはずもないと思っております。
動画内容の濃さと、ちょいちょい挟み込まれるイラストや映像センスの高さに脱帽、、笑ちなみにイラスト等はご自身もしくはチームでオリジナル制作してるんですか??
ご視聴ありがとう御座います!お褒め頂き、光栄です!イラストも動画も、わたくし一人で制作しています笑なのでどうしてもアップ頻度が遅くなってしまっています。
日本書紀は時系列がおかしいと思えるところがいくつかあると思っていましたが吉備津彦命もなのですね。五代の天皇に仕えたとされる竹内宿禰の仁徳天皇あたりは即位する前のエピソードだったのかもしれませんね。有力皇族の領地や姻戚関係から地図上に勢力図を画いての解説はとても解り易くまた今まで気づいていなかった視点からの考察でもあって大変面白かったです。
いつもご視聴ありがとう御座います!時系列的に「?」っていうのは記紀にありがちですね笑そもそも8世紀に書かれた書物なので、口伝が曖昧なのもその一因だとは思います。そうした隙間を考察で埋めてゆくのが、古代史の醍醐味です!
人口の激減から推測すると、縄文時代は人と争う前に自然との闘いが必要だったのではと思う。
何千年もの間モモソヒメの恥ずかしい汚名を今日、晴らしていただきありがとうございました。自分が後世まで私達の先祖はこんな亡くなりかたをしたんだよなんて語り継がれたらと思うと…
ご視聴ありがとう御座います!お待たせしてすみません!モモソヒメの汚名が雪げたなら、嬉しいです。逆にミマキイリビコの汚名を暴露してしまいましたが笑今後とも、どうぞよろしくお願いいたします!!
次々作品アップ待ってますよ❗
こちらもご視聴ありがとう御座います!承知いたしました!頑張ります!!
モモソヒメの絵が妙にエロいw
ご視聴ありがとう御座います!どうせ描くなら、艶っぽく的な感じです笑
最後の人間の業のような領土欲などと表現されるなど歴史を見る視線を好ましく思います。
ご視聴ありがとう御座います!お褒め頂き、光栄です。まだまだ拙い動画ではございますが、今後とも結城屋の動画をよろしくお願いいたします!
筑紫哲也もいる!
こちらもご視聴ありがとう御座います!筑紫君磐井です!笑
祖反られる姿ですね
今まで何故か隠されてきたと思われる「阿部」氏ですが、その系譜がうかがえる動画を上げて頂きまして有難うございます。阿部貞任を祖先とする私にとって分かりやすくまとめられていて、考察を含め大変貴重な学問的動画と思いました。これからも学ばせて頂きたく思います。宜しくお願い致します。m(__)m
ご視聴ありがとう御座います!学んでいただくなんて、烏滸がましくて恐縮してしまいます!楽しいでくださればそれに勝ることは御座いませんので、今後ともよろしくお願いいたします!前九年の役で活躍された阿部貞任のご子孫なのですね!私結城家も元は関東の御家人ですが、直接の先祖は仙台藩士の家なので、ご縁があるかもしれません。祖母も秋田の藤原姓なので、それこそ所縁が有りそうです。まだまだ拙い動画ではございますが、今後とも結城屋の動画をどうぞよろしくお願いいたします!
古代の箸はトングだったのですか!😲知りませんでした。これでモモソヒメの死亡事故の謎が解けました!納得です。イラストのモモソヒメが持っているのは何なのか気になっていましたが、トング型の箸だったのですね😊武埴安彦討伐ではタッグを組んだ2人ですから、暗殺説は悲しいですね💦でも、その可能性も無きにしも有らず。その辺りの謎は永久に謎のままでしょうね?それにしても、この時代の大王は奈良南部を開拓する為に、あらゆる努力したのだと改めて思いました。単純に地域の豊かさだけを見れば、ヒコイマスノミコのエリアのほうが裕福だったはず。鹿島神宮·香取神宮·伊勢神宮等を結ぶレイラインの存在も決して都市伝説ではないですね。南部を開いて宮を置いた者が覇者になれる❗️そんな認識が当時の人達にはあったのかも知れませんね?
ご視聴ありがとう御座います。さすが、お詳しいですね!近々の動画では垂仁天皇の御世が舞台になるので、いよいよ伊勢神宮などのお話になるのですが、雨の菫 さんに納得してもらえる内容になるように頑張ります。遷宮の話は単独にしようか迷っています。イクメイリビコ垂仁天皇も、わりとエピソード満載なので。今後とも、応援よろしくお願いします!
@@nihonshi さん垂仁朝で伊勢神宮が置かれたのですね。楽しみです!☺️最近視聴した他動画のコメで、「なるほど❗️」😲と思ったコメがあったので、紹介します。『この時代の天皇は妻の実家に婿入りしていたのではないか?』という説。お宮は妻の実家を増築もしくは新築したもの。この説、結城屋さんはどう考えられますか?こんな結婚なら侵略戦争する必要なく、寧ろ歓迎されたかも⁉️👀平安時代の貴族の結婚は婿入り婚だったので、弥生時代もそうだった可能性ありますよね。動画作りの際には是非ご一考下さいませ🤗
この時代の婚姻は例外も有りますが、通い婚です。夫婦は同居せず、婿または嫁が会いに行くかたちで、子供が生まれた場合はほぼ母親の家を継ぎます。そして子の中の一人が父の家を継ぎます。母系伝承、一族継承という基本的な婚姻形態で、例外を除いて世界中が古代はこの婚姻形態です。一帝一宮については諸説ありますが、①そのタイミングでの政治バランスの都合。②大王の実家の都合。③風習④権力の誇示⑤大王は一人じゃない可能性などが挙げられます。
@@nihonshi さん通い婚だった事が解っているのですね。当時の技術力にしては大王の行動範囲が広いので、妃の実家が活動の拠点になっていたと考えれば納得です。④大王1人じゃない可能性ただでさえ謎だらけの古代史に、④が加わったら、もうカオス😂💦だけど、その妃達の一族のルーツや勢力範囲まで考察していくと、2000年以上前なのに既に北陸や関東、諏訪辺りまで、同族感があって楽しいです👍💕
そうなんですよ。古代の関東や北陸にだってれっきとした古代文化や王国が存在していましたし、縄文時代から日本全国を移動していた職能系(例えば黒曜石商人とか塩商人)が存在していたので、そんなに未知の国でもなかったはずなんです。記録に残っていない事実を土地の古文書や縁起から紐解いていると、もうこんがらがって大変です笑でもそこが古代史の魅力なんですけどね!
「箸」につきまして、新たな情報を得ました・・・> 産後死譚(陰突は不認識でした)「彦坐王」・・・< あまり注意をはらっていませんでしたので、再確認いたします。
是非!彦坐王は、古代史においてかなり重要な人物だと思います。恐らく大王に匹敵する力を持っていたでしょうし、継体朝の謎にも大きく起因していると考えています!
勉強になります。世界に縄文文化を伝授する時が来たように思います。式内神社の伊予神社は愛媛開拓の祖・孝霊天皇の皇子を祀る古社。主祭神は彦狭島命。第7代孝霊天皇の皇子で、『古事記』には播磨の牛鹿の臣の祖とある。反抗勢力に対するため当地に派遣され、神崎庄に鎮座したという。彦狭島命の子孫が、大三島の大山祇神社の神職家の家系につながっていく。なぜ、彦狭島命が伊予を開拓したのに話題にならないのでしょうか?伊予は戦わずに平定された?もしかしたら大和朝廷の祖?。工学博士芸人 遼子規キンジロ
ご視聴ありがとうございます!返信が遅くなって申し訳ありません!!伊予は、深いです。と言いますか、四国が全域深いです。それに孝霊天皇や彦狭島命は、四国にのみならず、北陸の伝承にも同じようなものが見られます。つまり北陸と四国にも何かしらの繋がりを感じるんですよね。深掘りすると、えらいことになりそうですが、いずれ深掘りしたいテーマです!
連絡ありがとうございます。まさに、DNAの結果通りですね。四国ー畿内ー北陸がゴールデンラインですね。深堀を期待してます。特に、伊予は越智氏です。大山祇神社の神職家も村上水軍も越智氏らしいです。また村上海賊は天智天皇が作った島の城を使ったらしいです。
@@遼子規耕作 さまそれはまた興味深いお話です!村上水軍のルーツなんて、それだけで動画になりそうです!伊予の深掘り、頑張ります!!
日本人のご先祖様は被ってますからね。源氏系とか平氏系とか賀茂系とか、ご皇室も出雲族も我々の血に入っております。古代日本のルーツを探ると我々の家系図作成も捗ります(笑)
ご視聴ありがとう御座います!現代に生きているという事は、誰しもどこかで歴史上の人物に行き当たるのは当然なんでしょうね。家系図って作るの大変そうですね!凄く興味が有ります。我が家にも家系図が倉に残っていますが、よく見るトーナメント表のようなものでなくて1ページに一人のプロフィールが書いてある形式のものでした。なので分かりにくいことこの上ないんです笑字もきたないし苦笑まだまだ拙い動画ではございますが、今後とも結城屋の動画をどうぞよろしくお願いいたします!
この頃の出雲は元出雲の亀岡付近との説もありますよね
ご視聴ありがとう御座います!京都の亀岡の出雲大神宮のことでしょうか?これは説というより、出雲大神宮が社伝で伝えているだけで、根拠はそれ以外に見当たらないので可能性は低いと思います。あくまで可能性ですが。祭神も大国主命と美穂津姫なので、そうなると国譲りの後という事になりますし、出雲が亀岡は厳しいと思います。
縄文時代は平和だったと言うのは少し違うとおもう。生物として正しいかどうかは人口の増減で測ることができる。そういう意味で崇神天皇の行いは人類としては正しかったと言える。縄文時代が平和に見えるのは人類がそこまで増える余裕がなかったからとも言える。即ち、縄文時代では他の集団を制圧することが反映に結びつかなかっただけなのではないか?争うことのデメリットが征服することのメリットを上回るが故に争いがなくなるということです。崇神天皇はその潮目を的確に見定め、行動に移したということでしょう。縄文時代に理想を見ることはいいけど、その理由まで掘り下げて見ると違った風景が見えるのでは?
ご視聴ありがとうございます!返信が遅くなって申し訳ありません!!確かに「平和」の定義にもよりますよね。おっしゃること、理解できます!
乎!!やっと後半見る時間が出来ました。👍動画に感謝。蛇・じゃ・邪。瑞祥地名前の漢字の使い方は、知識としてあったほうが、記紀を読む時は、楽ですよ。西暦740年頃の万葉集でも、漢字を音で使い、漢字自体には、余り意味が無いようです。この使い方のせいで、卑弥呼?と言われた理由?ですかね。(笑)この場合、【邪・牟邪志の・サ】の発音に変換するのかな?【サは、狭・五】など、イツセやサヌに使われる発音。まず、天日方奇日方の母は、富山?かと(笑)タケミナカタの母も富山?2代様や神八井耳も石川・富山由来の名前ですよね。この説の場合、五十鈴姫も富山にいた。石川の重蔵神社は、天之冬衣神を祀り、大国主命の生まれた国?大国主命は、最終的には、島根を洗濯しますが、孫の天日方奇日方の奧さんは、日向姫です。長くなるので省略。日向から来たのは、大国主命の孫ですかね?サヌ達は、義兄を救出しな日向に行ったのかも?主力は、伊豆・三嶋大社の大山祇・浅間大社・コノハナサクヤ姫の子孫。瀬戸内海警備は、伊予・一宮・大山祇の孫の小千命。神社の由緒を繋げるとこんな漢字ですね。時は、国譲り後、島根の新出雲【古代出雲は、クニビキ神・中出雲が石川・天之冬衣神】ですかね?この新出雲は、天照大神の第2皇子が入り婿で祖になったのでは?サヌが富山で五十鈴姫との間の2代様が奈良を継ぎ、神八井耳が天之冬衣の越をついで、神官・宮司の祖となった?陛下の後のカーテンの家紋が多氏紋と言い・神八井耳の家紋なんですよね(笑)そこから、10代200年?かは、わかりませんが、2代様の系統は、途絶えますよね。この時に神八井耳系の直系を大王に?なので、家系ずに兄と弟があり、弟が大王になるのは、2代様の系列。兄と表現されてるのは、神八井耳の系列を表現してるのかも?で、基本 大王になれるのは、この2柱の系列。皇后は、大国主命・事代主だと考えて仮説をした場合、【蛇・邪】の子を妊るので、大国主命や事代主と違う、天津神との子?大王がサヌやイツセの系列の男子の子を宿すのは、禁忌だったのかも?ので、【入】の字には、嫁に出す、嫁がせる意味があり、11代様の娘と4代様に繫がる15代様との皇子が今の皇統だと、超難しい方法で暗合化しているのかも?因みに、日向・日に向かうは、背と言う意味で、背は、北の原字。(笑)10代様が背中を向けてるのは、北【きた】だからかな?隋書にも【北孤】とかいてるように(笑)【きた】は、【喜多】でもあり、中国語の発音で【シドウ】・【四道将軍】は、【シドウ】将軍(笑)そして、邪馬の中国語発音は、【しまい】・フキアエズ帝の波・サヌの波【波】は、中国語発音で【ドウ】。邪波と書いて【シドウ】ジャパンの語源が邪波ンでサヌ達の国を表すのなら、記紀を作った人達は、天才なのかも?しれませんね。思い付きの妄想ですから、価値の無い話ですよ(笑)。
いつもご視聴ありがとう御座います!いや、スピード感が凄くて、一度読んだだけでは全部理解できないぐらいのボリュームでした!何度か読み返します!しかし一大ストーリーを編んでらっしゃるんですね。凄いです。ちゃんと理解してから改めて質問しても良いですか?引き続きよろしくお願いいたします!
@@nihonshi 様。正しか?どうか?は、わかりませんが、福井県・滋賀県・三重県・愛知県の神社は、天照大神→太郎坊天火明命→尾張・新清田大山祇→伊豆・三嶋さくや→富士・浅間猿田彦→四日市・椿大社猿田彦→高島市・白鬚神社ニニギ→高島市→福井県・若狭一宮日向3代→若狭一宮サヌ→若狭一宮生まれ。老後の趣味で神社巡りしてるんですよ。(笑)ホンタワケ→気比ヲホド→高島ウプ主のイラスト👍です。
何これスゲー!かつて豊田有恒って作家の古代シリーズで日本武尊の妻、音橘姫がインドからの渡来人でタバーナって名前でぶっ飛んでる作品あったけど、圧力かかってたらしくて、古代史は公には議論しづらいテーマと思ってた。安倍氏のくだりや、会津の由来など、太宰府や現代の政治家の出自なんかにも関連する話。ぞくぞくするわぁ。楽しい考察、どうもありがとう御座います。
ご視聴ありがとう御座います!こちらこそ、楽しんで頂けたなら嬉しい限りです!僕的には歴史考察しているだけで、危ない領域に首突っ込んでいる意識は全くないんですけどね笑今後も結城屋の動画をよろしくお願いいたします!
四道将軍の一人、タニワノミチノウシその妻で景行天皇の祖母でヤマトタケルの曽祖母であるカワカミノマスライラツメそのカワカミノマスイラツメの父であるカワカミノマスラオの館があり、彼の祀られた神社がある地また、海部氏の祖が七代目孝霊天皇の時代に祀りだし、九代天皇開化天皇の時にカワカミノマスラオが崇敬した神社が窓から見える・・・そんな家に住んでいたりします。王家の谷と言われる伯耆谷にある古墳からは日本は唯一の双竜式環頭太刀が発掘されたり、古代では一大勢力を誇っていただろう地元・・・黎明期の大和朝廷、崇神王朝時代に大和政権に恭順したろう思います。そんな古代の栄光の地は、今や日本の原風景の感じられる超ド田舎であったりします(笑)
ご視聴ありがとう御座います!なんと!!凄い偶然ですが、次の動画でコメント頂いた河上麻須などの方々をちらっとですが登場します!ちょうど先日、川上伯耆谷古墳群のHPや紹介しているブログなども読み漁りました!久美浜湾周辺もグーグルアースで歩き回りました!笑いやぁ、何だかタイムリーで感動しました!!素晴らしいところにお住いですね。僕はそちらの周辺には実際には行った事が無いので、いずれ必ず訪れてみたいと思っています!河上摩須や丹波丹後に関しても、いずれ深掘り動画を作成したいと思っています!!その際は是非またコメントをお待ちしています!
一体何者ですか?
ご視聴ありがとう御座います。結城屋と申します。
ちょっと的ハズレのコメントになりますが、書いてみます 日本って(家)を大事にするじゃないですか?昔から家柄の良い人はそれを自慢したり昔私は(家)って言うのは(家柄)の事かな?と思っていて、他の人もそうだと思うけど、だけどある時(家)は家柄では無く、もしかして(民族)の事じゃないかと思いました日本人て江戸時代迄(家)を存続させる為に生きている様な所があるけど、それが(家)でなく(民族)であるなら、その血を絶やさない為に必死になるのはわかる気がする
ご視聴ありがとう御座います!僕の個人的な解釈ですが、家と民族はコミュニティの大きさの違いではないかと思います。どちらも区別のための括りではなく、繋がりを意味する言葉だと思います。例えば家は、もちろん狭義では家族ですが、ご先祖様も含めた血縁者の繋がりです。そしてその家々が同じ場所で生活すれば、例えば同じ町民、市民、県民というコミュニティとして繋がり、それが民族になってゆくのだと思います。民族の括りを広げれば、同じ国の人々は国民という民族で繋がっていますし、アジア人という民族、地球人という民族で繋がっていると思います。自分の子孫を繫栄させたいのは、微生物に至るまで全ての生物の本能です。コミュニティを隔てるための区別と認識してしまうと、そこに軋轢が生まれてしまいます。民族紛争という言葉は、言葉自体が矛盾していると思っています。世界中が同じ民族だという認識の下で切磋琢磨できる時代が来ればいいのですけどね!縄文時代の人々に、民族意識は無かったと思いますし笑括りは「同じ人間」だったでしょう。僕の答えの方が的外れだったら申し訳ないです。まだまだ拙い動画ではございますが、今後とも結城屋の動画をどうぞよろしくお願いいたします!
@@nihonshi まさか返信いただけるとは思いませんでしたありがとうございます家と言っても、日本の家(当然昔のですが)はかなり、範囲が広いですよね源氏とか平家を考えても後の足利氏や戦国武将にも源氏はいるし、平家(正確には平氏)もあちこちに落人がいたり、勿論戦国武将にもいますし一人の人間(男)から始まり、妻を娶り(複数)子を成し、女の子は嫁にやるとしても、男の子は嫁を貰い更に増やします100年単位で考えると、かなりの数になります更に日本の場合、何故か使用人も血が繋がってなくても家族(家人)になる訳で、民族には程遠いけど、かなりの人数になるかと
@@user-ls6wm7gs1p こちらこそ、コメントを頂けるだけで有難いです。僕も動画を通して氏族や家系の謎についても紐解いてゆければと思いますので、今後ともよろしくお願いいたします。
神話の世界、判りやすさはもちろんの事、今風のビジュアルと、よどみない語り、ちょっと神秘的エロスで繋ぐ。こういうのを小中学生に流行らせてあげたいですね。日本人が神話を取り戻すきっかけになるでしょうね。頑張ってください。
ご視聴ありがとう御座います!日本の教育ってなぜかギリシャ神話や聖書の神話は教えるのに、日本神話はほとんどノータッチなんですよね。もっと日本神話を浸透させられるよう、頑張ります!これからも応援よろしくお願いします!!
安倍元首相の顔になってる(笑)
ご視聴ありがとう御座います!ご無沙汰しておりました!阿部さん、僕の中ではわりと「会心の出来」です笑!今回ボケが少ないので、拾ってくださってありがとうございます!今後ともよろしくお願いいたします!
やっぱ文献系は??いくらでも妄想が続く。考古学で迫ったほうが良っすネ。
ご視聴ありがとう御座います!確かに、いくらでも妄想が続きますね笑でもそこが古代史の面白いところでもありますけど笑文献での妄想に、考古学的なアプローチで信憑性を高めてゆくのが、古代史の醍醐味ですね!
氏族系譜についてはよく調べられたと思います。しかし、全体構想についてはどうか。私見を述べれば、紀元前後頃、三輪信仰を持つヤマト地域を制覇したのが神武天皇。三輪信仰の主は大物主で出雲信仰の大国主のニギミタマとされる。つまり、神武以前のヤマト諸氏族は出雲族。神武はヤマト制圧後、支配を安定させるため、出雲族の総帥の娘でもあり、三輪神の巫女でもある五十鈴姫を妻とし、出雲族との融和を図った。そして三輪信仰を簒奪し、皇室の外戚神とした。その後欠史八代と言われる時代が続くが、おそらく支配体制は不安定だったのではないか、それが倭人伝に言う[相攻伐すること7、80年]そして崇神天皇が登場する。時代は倭人伝の卑弥呼の時代250年前。叔母のヤマトトト匕モモソヒメイコール卑弥呼と組んで、大和朝廷の新時代を開く。特筆すべきは、ご指摘の宗教改革。崇神の前には宮中で深夜託宣を行う祭政不可分体制だったが、疫病を理由に託宣と政治を分離する祭政分離を行い、国家としての統治活動の合理化を図った。この宗教改革が伊勢神宮に繋がった。崇神の宗教改革を引き継いで完成させたのが、三輪神を新たに征服した山陰の出雲の国に祀り、出雲大社を創建した崇神の子垂仁天皇だ。出雲大社はヤマトをはさんで伊勢神宮と対象の位置にあることがこの証拠だ。さらに、もともと神武以前のヤマトの神話を出雲の国で起きたことにして出雲神話を成立させた。なお、倭人伝に言う狗奴国との争いは埴安の乱のことだろう。また、崇神の叔父オオビコは、埼玉県稲荷山鉄剣の所有者オワケの8代の始祖と象嵌されている。つまり、オオビコと開花天皇の実在を示す証拠となっている。オワケは雄略朝の臣下であり、年代的に崇神と符号する。神武の時代九州からヤマトまで一応の支配体制はすでに成立していただろう。当時の支配体制とはどういうものか。それは軍事的な衝突に勝利し、一方が服従を誓い貢物を贈ることを誓約するに留まる。場合により人質を差し出す。これが江戸時代まで続いた日本の統治体制だ。当然ながら、時間が経てば反乱は日常茶飯事だったろう。百済、新羅なども何度も服従を誓い人質を送ってきてもすぐに裏切った。崇神が四道将軍を既に支配していた地域にも送らざるを得なかったのもそのためだ。なお、倭人伝にいう倭人が卑弥呼を共立したというような政治学的に不可能なお伽噺を信じないことをお勧めする。これは例えば江戸幕府は、諸大名の共立により成立したと主張するようなものだ。あるいは、ロシアウクライナ戦争は戦場の力関係と無関係に話し合いで解決できると主張するのも同じ論理だろう。話し合いは軍事力の裏付けがある場合のみに成立する。大和朝廷は軍事力で圧倒し、日本制覇を果たしたもので、卑弥呼はそのシンボルとなっただけだろう。共立というようなお伽噺を説く日本の古代史学者は、政治理論を無視する無知蒙昧の徒であろう。最後に、関東にはの寒川神社、大宮神社など所々の出雲神を祀る神社が存在するが、これは崇神の子豊城入彦が皇室の外戚神を祀るものとして建立したものだと言われる。
ご視聴ありがとう御座います!まだまだ拙い動画ですが、今後ともよろしくお願いいたします!
はぁ〜記紀を、政治視点で観るとこういう姿にも解釈できるんですなぁ〜なるほどもぅ…日本海出身者はでっかいヘビ関係がお好きねぇ〜とか下品なコト考えてました(笑)ってコトはチート過ぎて長年疑問に思っていた布留の神宮も、政治的背景と時間と伝説の書き換え調整で、なんとなく筋道の見通しが立ちますが…将来のネタのお邪魔だったら消して下さい疑問の羅列ですけど神宮の配神が宇摩志麻遅命ってのを完全に見落としてました(笑)ただ布留の神宮の出雲建雄神社をみるに物部氏は元々、出雲系列だったんですかね???素戔嗚命と宇摩志麻遅命の接点(主従とか?盟主とか?とかの意味で)が解らなくてヤマタノオロチと天叢雲との繋がりで、出雲太田と布留の神宮との関係は、拙者には素地が無く説明出来なくて(みやま市に磯上物部神社ってスゴイ名前の神社はありますが…???守屋の子は鞍手と松浦に流された???でもそれだけでは…磯上と石上…😶)なので出雲系だとしたらゼロベースでヤマトに土着化出来た理由や背景が思い浮かばないのです野だたら製鉄って継体天皇より少し前ぐらいでしたっけ???物部氏はヤマト王権からの招聘?製鉄なら、安来・広瀬は金屋子神って言うイメージはありますしそれとも…宇摩志麻遅命が太田物部神社の地で没した事を考えたら、守屋の一族で、丁未の乱以降にナリフリ構わず太田の地に落ち延びた有力者がいた…とか???でもそう考えると、逆に全体の構図がバラバラになる…で…丁未の乱以降に卜部氏?中臣氏?が、政変後に蘇我の傘の下、祭祀を執ることになったにせよ卜占集団の軍事力経済力で杣之内布留の地一帯を獲って代われるものなのか???それとも蘇我勢力の中に、杣之内布留の地だけ大王家直轄領にして、卜部.中臣系列が委任統治している??以降どのような経緯で卜部氏?中臣氏?布留近辺に勢力を伸ばせたのか?それとも政変後に知行地?で与えられて歴史と記紀を書き換えた???布都御魂大神は卜部.中臣の祭祀集団により出雲(吉備布都?も)〜大和布留系列と坂東系列〜大和布留系列が2コ1に繋げられた??かも?ですかね???それに当時、布留近辺から、当時夷狄ウヂャウヂャの霞ヶ浦に進出できる理由も、逆に進出するメリットが思いつかない…いや日立氏とか有力地方政権がヤマトに従わないだけで坂東の治安自体は安定してたとも思うそれとも鹿島社家の卜部氏が大和に土着したのか?そうすると、なんで坂東の地から何をツテに都会へ就職でき、どうやって土着化できたのか?それもナゾでやっぱヤマト王権からの招聘??で、最後はそこから枚方.春日に勧請する宗教的理由とその順番にしなければならない理由が解らない…鹿島香取(太田物部)→石上→枚方→春日???ん〜伝説は勝者.為政者の都合によって書き換えられるとは解ってはいますが…なんか記紀と政治的変遷の流れの摺合せが上手くいかない…あ、吉備の布都御魂大神が取り残された…不肖ポンコツの拙者記紀、日本史は素人で…これが限界かもデス涙目デス🥹ってか将来のネタのジャマしそうなので添削してくれたあと、消します
ご視聴ありがとう御座います!全然邪魔じゃないので消さないでください笑凄く興味深いお話です!僕の見解ですが、お話の内容が恐らく1000年以上かけての内容が同時代として捉えているので辻褄が合わなくなってくるんだと思います。縄文後期のお話しも、古墳時代のお話しも出てきている印象でした。以下、僕の古代史世界観の一部です。素戔嗚は比定できる人物がいたのかは定かでは無いですが、正体は海だと思っています。縄文末期から弥生期にかけて海洋民または漁猟民として栄えた様々な沿岸部の人々の、海にまつわる伝承や伝説が集約したのが「素戔嗚尊」という神様になったと考えています。その後「素戔嗚の生まれ変わりじゃ!」的な人物は出てきて、重要人物として登場している可能性は大いにありますが、「theスサノオ」は海そのものと解釈しています。物部氏は古代史では比較的新しい類の氏族だと思っております。饒速日だの宇摩志麻遅だの様々おりますが、こちらの方々は恐らく素戔嗚同様、偶像と比定人物の合体した方々だと思います。物部は今でいう「武士」的な集団の名称で、しかも饒速日系の武力集団なので、武力が組織化される古墳時代頃に出てきた氏族だと思います。それ以前にも武力集団は、例えば大伴氏や久米氏などが存在しているので、ヤマト政権が全国規模になってそれぞれの武力需要も高まり、比例して力をつけて台頭した氏族だと思います。物部部民の象徴と言うか、守り神というか、シンボルが饒速日だったのだと思います。それが氏族として台頭するに至り、饒速日を祖神として奉るようになったのでは無いでしょうか。因みに饒速日自体は、恐らくどこかの地方の太陽神だと思います。饒速日降臨と三十二神のお話しは、いかにも物部氏が作った天孫降臨とは別の神話で、結果的に高天原神話に大きな違和感と共に組み込まれたお話しだと思います。つまりある程度の時期まで、物部氏は大王家と対等に近い存在だったのだと思います。飛鳥時代には貴族化して、記紀に「大王家の親戚」的な立ち位置を得たのでしょう。1000年あれば、どの一族も人が幾世代も入れ替わります。1人の英邁な人物のおかげで、一族は大躍進することもあります。1人の愚鈍な人物のおかげで、一族は衰退、滅亡することもあります。なので古代に栄えた氏族が、当然のように綿々と栄え続けるとは限らないと思います。出来星豪族だって、当然起こっていたことだと思います。允恭天皇の時代に一度それを纏めたのが「氏姓制度」であり、それまでは氏は公称では無かったのですから、それこそ古代は成り上がりの時代だったと思います。祭祀部族が武力部族に勝てたのかというお話ですが、武力が政治力に勝ったのは「平家」が初めてです。そもそも武力部族と言ったって、戦闘専門集団であったわけでは無いでしょうし、古代に祭祀と言うシステムを持っていた祭祀部族には太刀打ちできなかったと思います。武力は手段であって、目的ではないからです。一方で、祭祀は狩猟や農耕といった衣食住という根源的な目的の上に人工的に作られた目的です。このシステムを破壊しなかったのは、古代の武力部族も賢いというか、日本が現代に至るまで皇室を頂いている基礎意識になっていると思います。話が全然まとまりませんでしたが、こんな感じで思っています笑的外れなお答えだったらごめんなさい!あ、関東のお話しですが、古墳時代までに歴とした大きな国もあったでしょうし、神話もちゃんとあったはずです。むしろ関東以北の方が古い国々が幾つもあったと思います。しかも石器時代からアムール川流域まで交易している日本人ですから、関東以北が未知の国なはずもありません。記録が残っていない(見つかっていない)から、ヤマト中心の古代史感しか教えられていないので、そういうイメージになってしまいますが、関東も大都会(という言い回しが適切かは分からないですが笑)だったのではないでしょうか。ヤマトが進んでいて、関東以北が未開の地というイメージは、僕は捨てています。むしろまだヤマト王権から見たら、東国は隣国、北方は朝鮮同様外国といったイメージなのではないでしょうか。諏訪の神も、鹿島の神も、元は土着の地元神が、記紀で高天原か葦原中国の神様にされていったのだと思います。
返事添削ありがとうございます!最初は『石上神宮はナゼ皇大神宮とは別に"唯一神宮号"を名乗れたのか???』という疑問がここまでコジれて訳わからんくなるとは…前回と同じく素盞嗚尊が水に関連するな〜?とは思ってましたし、子供は海に関連する…とは思ってましたが須佐之男は海そのもの…とは辿りつけなかった前回のまま…ってかまだ、雲を掴む感覚デス…😶どんな経緯かは解らないが物部が大和王権に吸収され饒速日命も地方の太陽神話だったのが、いつの間にか記紀の一部に冷静に考えてみりゃ〜出雲太田·大和布留.杣之内·坂東霞ヶ浦一帯の3地域における縄文〜神代記紀1000年分と、3地域の政治的歴史変遷1000年分、この2項目を軽く擦り合わせてマトメちゃってん♪…って言われても拙者みたいに素地の無い者は収拾付かなくなりますよね〜器量不足でした🤣まぁよくワカランけど神武東征での剣の功績だけで天孫直系関係ないのに神宮号🆗というのは解せないし物部か天下獲って布留.杣之内を掌握するにせよ、社号は大社号でよいはず。…それだけでも杵築とならんで引けもとらず立派なのに神宮なのは???物部の陰になってた一族が、蘇我の台頭を契機に中臣が歴史の表舞台に躍り出だし、数百年かけて藤原が天下獲ったから、チート発動で気づいたら『石上神宮は皇大神宮を除けば記紀で赦された唯一の神宮号の神社』となれたのかな???とで鹿島.香取もナシ崩し的にまぎれて…気づけば枚方.春日が何か出てきた…???みたいなもう解らんので、うp主卿の深掘り解説動画での模範解答、尻尾振って待ってます😇添削読んでて『武力は目的ではない』…ってトコ、政治視点で歴史をみているんだなと、政治的変遷の時間軸視点で勉強してらっしゃるんだな〜って思いました軍事と言う政策部門は政治が志向する政治目的を対外的に達成するための外交政策を武力圧力によって"補完"する政策の1つであり、政治目的を武力で具現化する一政策であるそして施策原案から武力発動→終戦戦後処理→政治目的の結果の達成未達の是非この1連の長い時間軸を以て『戦争』と言う政治政策として見なすこととする…これは近代クラウゼヴィッツが登場する前後、政治学が発展し近代国家統治システムが確立で『政治とは何ぞや?』『戦争とはなんぞや?』が学問として成り立った時の話ですがこれを言葉こそ違えど、『政治が1番。軍事は外交を補完する政策。それが政治のあるべき姿』として、世界最古で説いたのは諸子百家の兵家で…孫武に兵学学派を仮託した孫氏と六韜を主学にする兵学の一派が始まりのようです。が…戦史ばかりやってしまうとソレを忘れがちになります😅政治はあくまでも民衆には"ビジョン.大義名分"を自身は"政治指針"を第一義に、コレを忘れべからざるべきこと洋の東西問わず武力そのものが政治秩序.世間の慣習に勝ちそのまま時代の変革に寄与するには、官民問わず"常備戦力"の存在がその時代に存在するコト。その組織が常時軍備に予算を振り分けられる租税システム、またはヒト.モノ.土地の3つソノモノを直接掌握し、経済にアクセスでき常備軍を保有できる。かつ、軍事を"常時の政治手段"として認識できる新しい政治視点を持てたと言うこと奴隷経済の上に成り立った市民皆兵のギリシア都市国然り中原中華の春秋五覇台頭然り日本の武士団勃興然りほんと、時代の変革期における『秩序』や『慣習』。『身分.規格化』された、社会の見えない壁、越えられない天井はどんな強大な経済力や軍事力を以てしても途中で心折れてるコトがありますねぇ「キミは紛れもなく草分け的先駆者の天才で、秩序破壊慣.習破壊をして勝利を勝ち獲ったのに…やっぱ一旦は、その秩序内に収まるのね…」って感じの意識が社会通念の中で生きているから無意識に秩序内に戻る選択をしたのか?破壊者のままでは不安を覚えたのか?政治手段として秩序を壊して"周りに見せた"だけなのか…『あ…やっぱカエサルの二の舞いで暗殺.政変になった』となるのか…でも時間かけて社会の考えに変化が出たら、秩序の崩壊は意外にアッサリ…って感じにもなりますし結局変革は、何かを契機に発動してしまえば、揺り戻しはあれど時間かけて変化していき社会に馴染み常態化、硬化していくものだし解らんもんです何某かの秩序慣習を壊すには強烈な個性をもつ先駆者が振り返れば社会の生け贄の形となり後に数十年かけて変革していくのだなーそして何度も何度も崩壊と安定を繰り返し、縄文神代からヤマト王権まで1000年余と積み重なり石上神宮の神宮号に隠れ埋もれていったんだな…と口伝は記紀伝説として世に溶け込むように馴染み薄れて行き、椿寿.老松と為していくのだな…と茶、すすりながら思うとです。
@@toko5418 さん添削なんてとんでもないです!ディスカッションですよ!考察の交換です!to koさんのお話し読んでいて、凄く参考になります!これからもデスカッションにお付き合いください!よろしくお願いいたします!
そう言ってもらえると助かりますこちらこそわざわざ時間割いてもらってありがたいです!動画楽しみしています☺️
作り込まれていてとても興味深く拝見しました。図版やカットは内容の理解の助けになりますね、特にビキニの女神などぶっ飛んでるなあとおもいつつも、慣れてくると良いエッセンスですね。状況や情景のイメージを助けてくれました。
「アミニズム的」という用語について、この動画中での意味を図りかねました。
察するに、神の解釈が自由だった、付き合い方は人間が決めた、という意味合いなのかな、、と思いました。
人類だけでなく、縄張り争いはどの動物でもしますからね・・・。結城屋さんの動画は古代日本の考え方の一つとして非常に興味深いですね。これからも楽しみにしてます。
ご視聴ありがとう御座います!
お褒め頂きまして、恐縮です!
まだまだ拙い動画ではございますが、これからも結城屋の動画をよろしくお願いいたします!
とても興味深く拝見しました!出雲、越、吉備、諏訪、毛野あたりも深堀していただけると嬉しいです。伊勢、香取、鹿島などの聖地の話も是非。
ご視聴ありがとう御座います!
地域別深掘りも検討しています!
挙げて下さった地域はどれもいずれ深掘りしたいと考えていますので、ご期待に添えるように頑張ります!!
聖地巡礼の深掘り動画も面白そうですね!
こちらもぜひ深掘りしてみたいです!
まだまだ拙い動画ではございますが、今後とも結城屋の動画をどうぞよろしくお願いいたします!
6:56の筑紫国造が筑紫哲也でワロww
ご視聴ありがとう御座います!
筑紫君哲也さんは、他の動画でも出てきますので探してみてください笑
笑ってくれてとても嬉しいです!!
箸墓古墳って百襲姫のお墓ってことか。そうなると、百襲姫と卑弥呼か全然ダブって見えてこない。マスコミでは箸墓古墳イコール卑弥呼の墓って文面をよく見かけるけど、なんだか全然違う感じがします。
ご視聴ありがとうございます!
箸墓古墳の被葬者に比定されているのが百襲媛ということであって、実際の考古学的証拠が出ているわけでは無いのですが、通説では百襲媛の墓とされていますね。
卑弥呼の墓の伝承が箸墓古墳の規模と類似しているため、箸墓古墳は卑弥呼の墓だと一時話題になったそうで、その事から「卑弥呼=百襲媛」という構図が出来上がったようです。
実際のことは分かりませんが、僕も卑弥呼と百襲媛は全然イメージが合いません。
生きていた時代も、1世紀近くズレがあるように思いますし、そもそも卑弥呼が固有名詞かどうかも定かではないですからね。
卑弥呼が固有名詞かどうかが解き明かされない限り、卑弥呼が誰なのかは考えてもたどり着くはずもないと思っております。
動画内容の濃さと、ちょいちょい挟み込まれるイラストや映像センスの高さに脱帽、、笑
ちなみにイラスト等はご自身もしくはチームでオリジナル制作してるんですか??
ご視聴ありがとう御座います!
お褒め頂き、光栄です!
イラストも動画も、わたくし一人で制作しています笑
なのでどうしてもアップ頻度が遅くなってしまっています。
日本書紀は時系列がおかしいと思えるところがいくつかあると思っていましたが吉備津彦命もなのですね。
五代の天皇に仕えたとされる竹内宿禰の仁徳天皇あたりは即位する前のエピソードだったのかもしれませんね。
有力皇族の領地や姻戚関係から地図上に勢力図を画いての解説はとても解り易くまた今まで気づいていなかった視点からの考察でもあって大変面白かったです。
いつもご視聴ありがとう御座います!
時系列的に「?」っていうのは記紀にありがちですね笑
そもそも8世紀に書かれた書物なので、口伝が曖昧なのもその一因だとは思います。
そうした隙間を考察で埋めてゆくのが、古代史の醍醐味です!
人口の激減から推測すると、縄文時代は人と争う前に自然との闘いが必要だったのではと思う。
何千年もの間モモソヒメの恥ずかしい汚名を今日、晴らしていただきありがとうございました。
自分が後世まで私達の先祖はこんな亡くなりかたをしたんだよなんて語り継がれたらと思うと…
ご視聴ありがとう御座います!
お待たせしてすみません!
モモソヒメの汚名が雪げたなら、嬉しいです。
逆にミマキイリビコの汚名を暴露してしまいましたが笑
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします!!
次々作品アップ待ってますよ❗
こちらもご視聴ありがとう御座います!
承知いたしました!頑張ります!!
モモソヒメの絵が妙にエロいw
ご視聴ありがとう御座います!
どうせ描くなら、艶っぽく的な感じです笑
最後の人間の業のような領土欲などと表現されるなど歴史を見る視線を好ましく思います。
ご視聴ありがとう御座います!
お褒め頂き、光栄です。
まだまだ拙い動画ではございますが、今後とも結城屋の動画をよろしくお願いいたします!
筑紫哲也もいる!
こちらもご視聴ありがとう御座います!
筑紫君磐井です!笑
祖反られる姿ですね
今まで何故か隠されてきたと思われる「阿部」氏ですが、その系譜がうかがえる動画を上げて頂きまして有難うございます。
阿部貞任を祖先とする私にとって分かりやすくまとめられていて、考察を含め大変貴重な学問的動画と思いました。
これからも学ばせて頂きたく思います。
宜しくお願い致します。m(__)m
ご視聴ありがとう御座います!
学んでいただくなんて、烏滸がましくて恐縮してしまいます!
楽しいでくださればそれに勝ることは御座いませんので、今後ともよろしくお願いいたします!
前九年の役で活躍された阿部貞任のご子孫なのですね!
私結城家も元は関東の御家人ですが、直接の先祖は仙台藩士の家なので、ご縁があるかもしれません。
祖母も秋田の藤原姓なので、それこそ所縁が有りそうです。
まだまだ拙い動画ではございますが、今後とも結城屋の動画をどうぞよろしくお願いいたします!
古代の箸はトングだったのですか!😲知りませんでした。これでモモソヒメの死亡事故の謎が解けました!納得です。イラストのモモソヒメが持っているのは何なのか気になっていましたが、トング型の箸だったのですね😊
武埴安彦討伐ではタッグを組んだ2人ですから、暗殺説は悲しいですね💦でも、その可能性も無きにしも有らず。その辺りの謎は永久に謎のままでしょうね?
それにしても、この時代の大王は奈良南部を開拓する為に、あらゆる努力したのだと改めて思いました。単純に地域の豊かさだけを見れば、ヒコイマスノミコのエリアのほうが裕福だったはず。
鹿島神宮·香取神宮·伊勢神宮等を結ぶレイラインの存在も決して都市伝説ではないですね。南部を開いて宮を置いた者が覇者になれる❗️そんな認識が当時の人達にはあったのかも知れませんね?
ご視聴ありがとう御座います。
さすが、お詳しいですね!
近々の動画では垂仁天皇の御世が舞台になるので、いよいよ伊勢神宮などのお話になるのですが、雨の菫 さんに納得してもらえる内容になるように頑張ります。
遷宮の話は単独にしようか迷っています。
イクメイリビコ垂仁天皇も、わりとエピソード満載なので。
今後とも、応援よろしくお願いします!
@@nihonshi さん
垂仁朝で伊勢神宮が置かれたのですね。楽しみです!☺️
最近視聴した他動画のコメで、「なるほど❗️」😲と思ったコメがあったので、紹介します。
『この時代の天皇は妻の実家に婿入りしていたのではないか?』という説。お宮は妻の実家を増築もしくは新築したもの。
この説、結城屋さんはどう考えられますか?こんな結婚なら侵略戦争する必要なく、寧ろ歓迎されたかも⁉️👀平安時代の貴族の結婚は婿入り婚だったので、弥生時代もそうだった可能性ありますよね。
動画作りの際には是非ご一考下さいませ🤗
この時代の婚姻は例外も有りますが、通い婚です。
夫婦は同居せず、婿または嫁が会いに行くかたちで、子供が生まれた場合はほぼ母親の家を継ぎます。
そして子の中の一人が父の家を継ぎます。
母系伝承、一族継承という基本的な婚姻形態で、例外を除いて世界中が古代はこの婚姻形態です。
一帝一宮については諸説ありますが、
①そのタイミングでの政治バランスの都合。
②大王の実家の都合。
③風習
④権力の誇示
⑤大王は一人じゃない可能性
などが挙げられます。
@@nihonshi さん
通い婚だった事が解っているのですね。当時の技術力にしては大王の行動範囲が広いので、妃の実家が活動の拠点になっていたと考えれば納得です。
④大王1人じゃない可能性
ただでさえ謎だらけの古代史に、④が加わったら、もうカオス😂💦
だけど、その妃達の一族のルーツや勢力範囲まで考察していくと、2000年以上前なのに既に北陸や関東、諏訪辺りまで、同族感があって楽しいです👍💕
そうなんですよ。
古代の関東や北陸にだってれっきとした古代文化や王国が存在していましたし、縄文時代から日本全国を移動していた職能系(例えば黒曜石商人とか塩商人)が存在していたので、そんなに未知の国でもなかったはずなんです。
記録に残っていない事実を土地の古文書や縁起から紐解いていると、もうこんがらがって大変です笑
でもそこが古代史の魅力なんですけどね!
「箸」につきまして、新たな情報を得ました・・・> 産後死譚(陰突は不認識でした)
「彦坐王」・・・< あまり注意をはらっていませんでしたので、再確認いたします。
是非!
彦坐王は、古代史においてかなり重要な人物だと思います。
恐らく大王に匹敵する力を持っていたでしょうし、継体朝の謎にも大きく起因していると考えています!
勉強になります。世界に縄文文化を伝授する時が来たように思います。式内神社の伊予神社は愛媛開拓の祖・孝霊天皇の皇子を祀る古社。主祭神は彦狭島命。第7代孝霊天皇の皇子で、『古事記』には播磨の牛鹿の臣の祖とある。反抗勢力に対するため当地に派遣され、神崎庄に鎮座したという。彦狭島命の子孫が、大三島の大山祇神社の神職家の家系につながっていく。なぜ、彦狭島命が伊予を開拓したのに話題にならないのでしょうか?伊予は戦わずに平定された?もしかしたら大和朝廷の祖?。工学博士芸人 遼子規キンジロ
ご視聴ありがとうございます!
返信が遅くなって申し訳ありません!!
伊予は、深いです。
と言いますか、四国が全域深いです。
それに孝霊天皇や彦狭島命は、四国にのみならず、北陸の伝承にも同じようなものが見られます。
つまり北陸と四国にも何かしらの繋がりを感じるんですよね。
深掘りすると、えらいことになりそうですが、いずれ深掘りしたいテーマです!
連絡ありがとうございます。まさに、DNAの結果通りですね。四国ー畿内ー北陸がゴールデンラインですね。深堀を期待してます。特に、伊予は越智氏です。大山祇神社の神職家も村上水軍も越智氏らしいです。また村上海賊は天智天皇が作った島の城を使ったらしいです。
@@遼子規耕作 さま
それはまた興味深いお話です!
村上水軍のルーツなんて、それだけで動画になりそうです!
伊予の深掘り、頑張ります!!
日本人のご先祖様は被ってますからね。源氏系とか平氏系とか賀茂系とか、ご皇室も出雲族も我々の血に入っております。古代日本のルーツを探ると我々の家系図作成も捗ります(笑)
ご視聴ありがとう御座います!
現代に生きているという事は、誰しもどこかで歴史上の人物に行き当たるのは当然なんでしょうね。
家系図って作るの大変そうですね!
凄く興味が有ります。
我が家にも家系図が倉に残っていますが、よく見るトーナメント表のようなものでなくて1ページに一人のプロフィールが書いてある形式のものでした。
なので分かりにくいことこの上ないんです笑
字もきたないし苦笑
まだまだ拙い動画ではございますが、今後とも結城屋の動画をどうぞよろしくお願いいたします!
この頃の出雲は元出雲の亀岡付近との説もありますよね
ご視聴ありがとう御座います!
京都の亀岡の出雲大神宮のことでしょうか?
これは説というより、出雲大神宮が社伝で伝えているだけで、根拠はそれ以外に見当たらないので可能性は低いと思います。
あくまで可能性ですが。
祭神も大国主命と美穂津姫なので、そうなると国譲りの後という事になりますし、出雲が亀岡は厳しいと思います。
縄文時代は平和だったと言うのは少し違うとおもう。
生物として正しいかどうかは人口の増減で測ることができる。
そういう意味で崇神天皇の行いは人類としては正しかったと言える。
縄文時代が平和に見えるのは人類がそこまで増える余裕がなかったからとも言える。
即ち、縄文時代では他の集団を制圧することが反映に結びつかなかっただけなのではないか?
争うことのデメリットが征服することのメリットを上回るが故に争いがなくなるということです。
崇神天皇はその潮目を的確に見定め、行動に移したということでしょう。
縄文時代に理想を見ることはいいけど、その理由まで掘り下げて見ると違った風景が見えるのでは?
ご視聴ありがとうございます!
返信が遅くなって申し訳ありません!!
確かに「平和」の定義にもよりますよね。
おっしゃること、理解できます!
乎!!やっと後半見る時間が出来ました。👍
動画に感謝。
蛇・じゃ・邪。瑞祥地名前の漢字の使い方は、知識としてあったほうが、記紀を読む時は、楽ですよ。西暦740年頃の万葉集でも、漢字を音で使い、漢字自体には、余り意味が無いようです。
この使い方のせいで、卑弥呼?と言われた理由?ですかね。(笑)
この場合、【邪・牟邪志の・サ】の発音に変換するのかな?【サは、狭・五】など、イツセやサヌに使われる発音。
まず、天日方奇日方の母は、富山?かと(笑)タケミナカタの母も富山?
2代様や神八井耳も石川・富山由来の名前ですよね。この説の場合、五十鈴姫も富山にいた。石川の重蔵神社は、天之冬衣神を祀り、大国主命の生まれた国?
大国主命は、最終的には、島根を洗濯しますが、孫の天日方奇日方の奧さんは、日向姫です。
長くなるので省略。
日向から来たのは、大国主命の孫ですかね?
サヌ達は、義兄を救出しな日向に行ったのかも?
主力は、伊豆・三嶋大社の大山祇・浅間大社・コノハナサクヤ姫の子孫。瀬戸内海警備は、伊予・一宮・大山祇の孫の小千命。神社の由緒を繋げるとこんな漢字ですね。
時は、国譲り後、島根の新出雲【古代出雲は、クニビキ神・中出雲が石川・天之冬衣神】ですかね?この新出雲は、天照大神の第2皇子が入り婿で祖になったのでは?
サヌが富山で五十鈴姫との間の2代様が奈良を継ぎ、神八井耳が天之冬衣の越をついで、神官・宮司の祖となった?
陛下の後のカーテンの家紋が多氏紋と言い・神八井耳の家紋なんですよね(笑)
そこから、10代200年?かは、わかりませんが、
2代様の系統は、途絶えますよね。この時に神八井耳系の直系を大王に?
なので、家系ずに兄と弟があり、弟が大王になるのは、2代様の系列。
兄と表現されてるのは、神八井耳の系列を表現してるのかも?
で、基本 大王になれるのは、この2柱の系列。
皇后は、大国主命・事代主だと考えて仮説をした場合、【蛇・邪】の子を妊るので、大国主命や事代主と違う、天津神との子?大王がサヌやイツセの系列の男子の子を宿すのは、禁忌だったのかも?
ので、【入】の字には、嫁に出す、嫁がせる意味があり、11代様の娘と4代様に繫がる15代様との皇子が今の皇統だと、超難しい方法で暗合化しているのかも?
因みに、日向・日に向かうは、背と言う意味で、背は、北の原字。(笑)
10代様が背中を向けてるのは、北【きた】だからかな?隋書にも【北孤】とかいてるように(笑)
【きた】は、【喜多】でもあり、中国語の発音で【シドウ】・【四道将軍】は、【シドウ】将軍(笑)
そして、邪馬の中国語発音は、【しまい】・フキアエズ帝の波・サヌの波
【波】は、中国語発音で【ドウ】。
邪波と書いて【シドウ】
ジャパンの語源が邪波ン
でサヌ達の国を表すのなら、記紀を作った人達は、天才なのかも?しれませんね。
思い付きの妄想ですから、価値の無い話ですよ(笑)。
いつもご視聴ありがとう御座います!
いや、スピード感が凄くて、一度読んだだけでは全部理解できないぐらいのボリュームでした!
何度か読み返します!
しかし一大ストーリーを編んでらっしゃるんですね。
凄いです。
ちゃんと理解してから改めて質問しても良いですか?
引き続きよろしくお願いいたします!
@@nihonshi 様。
正しか?どうか?は、わかりませんが、福井県・滋賀県・三重県・愛知県の神社は、
天照大神→太郎坊
天火明命→尾張・新清田
大山祇→伊豆・三嶋
さくや→富士・浅間
猿田彦→四日市・椿大社
猿田彦→高島市・白鬚神社
ニニギ→高島市→福井県・若狭一宮
日向3代→若狭一宮
サヌ→若狭一宮生まれ。
老後の趣味で神社巡りしてるんですよ。(笑)
ホンタワケ→気比
ヲホド→高島
ウプ主のイラスト👍です。
何これスゲー!
かつて豊田有恒って作家の古代シリーズで日本武尊の妻、音橘姫がインドからの渡来人でタバーナって名前でぶっ飛んでる作品あったけど、圧力かかってたらしくて、古代史は公には議論しづらいテーマと思ってた。
安倍氏のくだりや、会津の由来など、太宰府や現代の政治家の出自なんかにも関連する話。ぞくぞくするわぁ。
楽しい考察、どうもありがとう御座います。
ご視聴ありがとう御座います!
こちらこそ、楽しんで頂けたなら嬉しい限りです!
僕的には歴史考察しているだけで、危ない領域に首突っ込んでいる意識は全くないんですけどね笑
今後も結城屋の動画をよろしくお願いいたします!
四道将軍の一人、タニワノミチノウシ
その妻で景行天皇の祖母でヤマトタケルの曽祖母であるカワカミノマスライラツメ
そのカワカミノマスイラツメの父であるカワカミノマスラオの館があり、彼の祀られた神社がある地
また、海部氏の祖が七代目孝霊天皇の時代に祀りだし、九代天皇開化天皇の時にカワカミノマスラオが崇敬した神社が窓から見える・・・
そんな家に住んでいたりします。
王家の谷と言われる伯耆谷にある古墳からは日本は唯一の双竜式環頭太刀が発掘されたり、古代では一大勢力を誇っていただろう地元・・・
黎明期の大和朝廷、崇神王朝時代に大和政権に恭順したろう思います。
そんな古代の栄光の地は、今や日本の原風景の感じられる超ド田舎であったりします(笑)
ご視聴ありがとう御座います!
なんと!!凄い偶然ですが、次の動画でコメント頂いた河上麻須などの方々をちらっとですが登場します!
ちょうど先日、川上伯耆谷古墳群のHPや紹介しているブログなども読み漁りました!
久美浜湾周辺もグーグルアースで歩き回りました!笑
いやぁ、何だかタイムリーで感動しました!!
素晴らしいところにお住いですね。
僕はそちらの周辺には実際には行った事が無いので、いずれ必ず訪れてみたいと思っています!
河上摩須や丹波丹後に関しても、いずれ深掘り動画を作成したいと思っています!!
その際は是非またコメントをお待ちしています!
一体何者ですか?
ご視聴ありがとう御座います。
結城屋と申します。
ちょっと的ハズレのコメントになりますが、書いてみます
日本って(家)を大事にするじゃないですか?
昔から家柄の良い人はそれを自慢したり
昔私は(家)って言うのは(家柄)の事かな?と思っていて、他の人もそうだと思うけど、だけどある時(家)は家柄では無く、もしかして(民族)の事じゃないかと思いました
日本人て江戸時代迄(家)を存続させる為に生きている様な所があるけど、それが(家)でなく(民族)であるなら、その血を絶やさない為に必死になるのはわかる気がする
ご視聴ありがとう御座います!
僕の個人的な解釈ですが、家と民族はコミュニティの大きさの違いではないかと思います。
どちらも区別のための括りではなく、繋がりを意味する言葉だと思います。
例えば家は、もちろん狭義では家族ですが、ご先祖様も含めた血縁者の繋がりです。
そしてその家々が同じ場所で生活すれば、例えば同じ町民、市民、県民というコミュニティとして繋がり、それが民族になってゆくのだと思います。
民族の括りを広げれば、同じ国の人々は国民という民族で繋がっていますし、アジア人という民族、地球人という民族で繋がっていると思います。
自分の子孫を繫栄させたいのは、微生物に至るまで全ての生物の本能です。
コミュニティを隔てるための区別と認識してしまうと、そこに軋轢が生まれてしまいます。
民族紛争という言葉は、言葉自体が矛盾していると思っています。
世界中が同じ民族だという認識の下で切磋琢磨できる時代が来ればいいのですけどね!
縄文時代の人々に、民族意識は無かったと思いますし笑
括りは「同じ人間」だったでしょう。
僕の答えの方が的外れだったら申し訳ないです。
まだまだ拙い動画ではございますが、今後とも結城屋の動画をどうぞよろしくお願いいたします!
@@nihonshi
まさか返信いただけるとは思いませんでした
ありがとうございます
家と言っても、日本の家(当然昔のですが)はかなり、範囲が広いですよね
源氏とか平家を考えても後の足利氏や戦国武将にも源氏はいるし、平家(正確には平氏)もあちこちに落人がいたり、勿論戦国武将にもいますし
一人の人間(男)から始まり、妻を娶り(複数)子を成し、女の子は嫁にやるとしても、男の子は嫁を貰い更に増やします
100年単位で考えると、かなりの数になります
更に日本の場合、何故か使用人も血が繋がってなくても家族(家人)になる訳で、民族には程遠いけど、かなりの人数になるかと
@@user-ls6wm7gs1p こちらこそ、コメントを頂けるだけで有難いです。
僕も動画を通して氏族や家系の謎についても紐解いてゆければと思いますので、今後ともよろしくお願いいたします。
神話の世界、判りやすさはもちろんの事、今風のビジュアルと、よどみない語り、ちょっと神秘的エロスで繋ぐ。こういうのを小中学生に流行らせてあげたいですね。日本人が神話を取り戻すきっかけになるでしょうね。頑張ってください。
ご視聴ありがとう御座います!
日本の教育ってなぜかギリシャ神話や聖書の神話は教えるのに、日本神話はほとんどノータッチなんですよね。
もっと日本神話を浸透させられるよう、頑張ります!
これからも応援よろしくお願いします!!
安倍元首相の顔になってる(笑)
ご視聴ありがとう御座います!
ご無沙汰しておりました!
阿部さん、僕の中ではわりと「会心の出来」です笑!
今回ボケが少ないので、拾ってくださってありがとうございます!
今後ともよろしくお願いいたします!
やっぱ文献系は??いくらでも妄想が続く。考古学で迫ったほうが良っすネ。
ご視聴ありがとう御座います!
確かに、いくらでも妄想が続きますね笑
でもそこが古代史の面白いところでもありますけど笑
文献での妄想に、考古学的なアプローチで信憑性を高めてゆくのが、古代史の醍醐味ですね!
氏族系譜についてはよく調べられたと思います。しかし、全体構想についてはどうか。私見を述べれば、紀元前後頃、三輪信仰を持つヤマト地域を制覇したのが神武天皇。三輪信仰の主は大物主で出雲信仰の大国主のニギミタマとされる。つまり、神武以前のヤマト諸氏族は出雲族。神武はヤマト制圧後、支配を安定させるため、出雲族の総帥の娘でもあり、三輪神の巫女でもある五十鈴姫を妻とし、出雲族との融和を図った。そして三輪信仰を簒奪し、皇室の外戚神とした。その後欠史八代と言われる時代が続くが、おそらく支配体制は不安定だったのではないか、それが倭人伝に言う[相攻伐すること7、80年]
そして崇神天皇が登場する。時代は倭人伝の卑弥呼の時代250年前。叔母のヤマトトト匕モモソヒメイコール卑弥呼と組んで、大和朝廷の新時代を開く。特筆すべきは、ご指摘の宗教改革。崇神の前には宮中で深夜託宣を行う祭政不可分体制だったが、疫病を理由に託宣と政治を分離する祭政分離を行い、国家としての統治活動の合理化を図った。
この宗教改革が伊勢神宮に繋がった。崇神の宗教改革を引き継いで完成させたのが、三輪神を新たに征服した山陰の出雲の国に祀り、出雲大社を創建した崇神の子垂仁天皇だ。出雲大社はヤマトをはさんで伊勢神宮と対象の位置にあることがこの証拠だ。さらに、もともと神武以前のヤマトの神話を出雲の国で起きたことにして出雲神話を成立させた。
なお、倭人伝に言う狗奴国との争いは埴安の乱のことだろう。また、崇神の叔父オオビコは、埼玉県稲荷山鉄剣の所有者オワケの8代の始祖と象嵌されている。つまり、オオビコと開花天皇の実在を示す証拠となっている。オワケは雄略朝の臣下であり、年代的に崇神と符号する。
神武の時代九州からヤマトまで一応の支配体制はすでに成立していただろう。当時の支配体制とはどういうものか。それは軍事的な衝突に勝利し、一方が服従を誓い貢物を贈ることを誓約するに留まる。場合により人質を差し出す。これが江戸時代まで続いた日本の統治体制だ。当然ながら、時間が経てば反乱は日常茶飯事だったろう。百済、新羅なども何度も服従を誓い人質を送ってきてもすぐに裏切った。崇神が四道将軍を既に支配していた地域にも送らざるを得なかったのもそのためだ。
なお、倭人伝にいう倭人が卑弥呼を共立したというような政治学的に不可能なお伽噺を信じないことをお勧めする。これは例えば江戸幕府は、諸大名の共立により成立したと主張するようなものだ。あるいは、ロシアウクライナ戦争は戦場の力関係と無関係に話し合いで解決できると主張するのも同じ論理だろう。話し合いは軍事力の裏付けがある場合のみに成立する。大和朝廷は軍事力で圧倒し、日本制覇を果たしたもので、卑弥呼はそのシンボルとなっただけだろう。共立というようなお伽噺を説く日本の古代史学者は、政治理論を無視する無知蒙昧の徒であろう。
最後に、関東にはの寒川神社、大宮神社など所々の出雲神を祀る神社が存在するが、これは崇神の子豊城入彦が皇室の外戚神を祀るものとして建立したものだと言われる。
ご視聴ありがとう御座います!
まだまだ拙い動画ですが、今後ともよろしくお願いいたします!
はぁ〜
記紀を、政治視点で観るとこういう姿にも解釈できるんですなぁ〜
なるほど
もぅ…日本海出身者は
でっかいヘビ関係がお好きねぇ〜
とか下品なコト考えてました(笑)
ってコトはチート過ぎて長年疑問に思っていた布留の神宮も、
政治的背景と時間と伝説の書き換え調整で、なんとなく筋道の見通しが立ちますが…
将来のネタのお邪魔だったら消して下さい
疑問の羅列ですけど
神宮の配神が宇摩志麻遅命ってのを完全に見落としてました(笑)
ただ
布留の神宮の出雲建雄神社をみるに
物部氏は元々、出雲系列だったんですかね???
素戔嗚命と宇摩志麻遅命の接点(主従とか?盟主とか?とかの意味で)が解らなくて
ヤマタノオロチと天叢雲との繋がりで、出雲太田と布留の神宮との関係は、拙者には素地が無く説明出来なくて
(みやま市に磯上物部神社ってスゴイ名前の神社はありますが…???守屋の子は鞍手と松浦に流された???でもそれだけでは…
磯上と石上…😶)
なので出雲系だとしたら
ゼロベースでヤマトに土着化出来た理由や背景が思い浮かばないのです
野だたら製鉄って継体天皇より少し前ぐらいでしたっけ???
物部氏はヤマト王権からの招聘?
製鉄なら、安来・広瀬は金屋子神って言うイメージはありますし
それとも…宇摩志麻遅命が太田物部神社の地で没した事を考えたら、守屋の一族で、丁未の乱以降にナリフリ構わず太田の地に落ち延びた有力者がいた…とか???
でもそう考えると、逆に全体の構図がバラバラになる…
で…
丁未の乱以降に
卜部氏?中臣氏?が、政変後に蘇我の傘の下、祭祀を執ることになったにせよ
卜占集団の軍事力経済力で杣之内布留の地一帯を獲って代われるものなのか???
それとも蘇我勢力の中に、杣之内布留の地だけ大王家直轄領にして、卜部.中臣系列が委任統治している??
以降
どのような経緯で卜部氏?中臣氏?布留近辺に勢力を伸ばせたのか?
それとも政変後に知行地?で与えられて歴史と記紀を書き換えた???
布都御魂大神は
卜部.中臣の祭祀集団により
出雲(吉備布都?も)〜大和布留系列と
坂東系列〜大和布留系列が
2コ1に繋げられた??かも?
ですかね???
それに当時、布留近辺から、当時夷狄ウヂャウヂャの霞ヶ浦に進出できる理由も、逆に進出するメリットが思いつかない…
いや日立氏とか有力地方政権がヤマトに従わないだけで坂東の治安自体は安定してたとも思う
それとも鹿島社家の卜部氏が大和に土着したのか?
そうすると、なんで坂東の地から何をツテに都会へ就職でき、どうやって土着化できたのか?
それもナゾで
やっぱヤマト王権からの招聘??
で、最後はそこから枚方.春日に勧請する宗教的理由とその順番にしなければならない理由が解らない…
鹿島香取(太田物部)→石上→枚方→春日???
ん〜
伝説は勝者.為政者の都合によって書き換えられるとは解ってはいますが…
なんか記紀と政治的変遷の流れの摺合せが上手くいかない…
あ、吉備の布都御魂大神が取り残された…
不肖ポンコツの拙者
記紀、日本史は素人で…
これが限界かもデス
涙目デス🥹
ってか将来のネタのジャマしそうなので添削してくれたあと、消します
ご視聴ありがとう御座います!
全然邪魔じゃないので消さないでください笑
凄く興味深いお話です!
僕の見解ですが、お話の内容が恐らく1000年以上かけての内容が同時代として捉えているので辻褄が合わなくなってくるんだと思います。
縄文後期のお話しも、古墳時代のお話しも出てきている印象でした。
以下、僕の古代史世界観の一部です。
素戔嗚は比定できる人物がいたのかは定かでは無いですが、正体は海だと思っています。
縄文末期から弥生期にかけて海洋民または漁猟民として栄えた様々な沿岸部の人々の、海にまつわる伝承や伝説が集約したのが「素戔嗚尊」という神様になったと考えています。
その後「素戔嗚の生まれ変わりじゃ!」的な人物は出てきて、重要人物として登場している可能性は大いにありますが、「theスサノオ」は海そのものと解釈しています。
物部氏は古代史では比較的新しい類の氏族だと思っております。
饒速日だの宇摩志麻遅だの様々おりますが、こちらの方々は恐らく素戔嗚同様、偶像と比定人物の合体した方々だと思います。
物部は今でいう「武士」的な集団の名称で、しかも饒速日系の武力集団なので、武力が組織化される古墳時代頃に出てきた氏族だと思います。
それ以前にも武力集団は、例えば大伴氏や久米氏などが存在しているので、ヤマト政権が全国規模になってそれぞれの武力需要も高まり、比例して力をつけて台頭した氏族だと思います。
物部部民の象徴と言うか、守り神というか、シンボルが饒速日だったのだと思います。
それが氏族として台頭するに至り、饒速日を祖神として奉るようになったのでは無いでしょうか。
因みに饒速日自体は、恐らくどこかの地方の太陽神だと思います。
饒速日降臨と三十二神のお話しは、いかにも物部氏が作った天孫降臨とは別の神話で、結果的に高天原神話に大きな違和感と共に組み込まれたお話しだと思います。
つまりある程度の時期まで、物部氏は大王家と対等に近い存在だったのだと思います。
飛鳥時代には貴族化して、記紀に「大王家の親戚」的な立ち位置を得たのでしょう。
1000年あれば、どの一族も人が幾世代も入れ替わります。
1人の英邁な人物のおかげで、一族は大躍進することもあります。
1人の愚鈍な人物のおかげで、一族は衰退、滅亡することもあります。
なので古代に栄えた氏族が、当然のように綿々と栄え続けるとは限らないと思います。
出来星豪族だって、当然起こっていたことだと思います。
允恭天皇の時代に一度それを纏めたのが「氏姓制度」であり、それまでは氏は公称では無かったのですから、それこそ古代は成り上がりの時代だったと思います。
祭祀部族が武力部族に勝てたのかというお話ですが、武力が政治力に勝ったのは「平家」が初めてです。
そもそも武力部族と言ったって、戦闘専門集団であったわけでは無いでしょうし、古代に祭祀と言うシステムを持っていた祭祀部族には太刀打ちできなかったと思います。
武力は手段であって、目的ではないからです。
一方で、祭祀は狩猟や農耕といった衣食住という根源的な目的の上に人工的に作られた目的です。
このシステムを破壊しなかったのは、古代の武力部族も賢いというか、日本が現代に至るまで皇室を頂いている基礎意識になっていると思います。
話が全然まとまりませんでしたが、こんな感じで思っています笑
的外れなお答えだったらごめんなさい!
あ、関東のお話しですが、古墳時代までに歴とした大きな国もあったでしょうし、神話もちゃんとあったはずです。
むしろ関東以北の方が古い国々が幾つもあったと思います。
しかも石器時代からアムール川流域まで交易している日本人ですから、関東以北が未知の国なはずもありません。
記録が残っていない(見つかっていない)から、ヤマト中心の古代史感しか教えられていないので、そういうイメージになってしまいますが、関東も大都会(という言い回しが適切かは分からないですが笑)だったのではないでしょうか。
ヤマトが進んでいて、関東以北が未開の地というイメージは、僕は捨てています。
むしろまだヤマト王権から見たら、東国は隣国、北方は朝鮮同様外国といったイメージなのではないでしょうか。
諏訪の神も、鹿島の神も、元は土着の地元神が、記紀で高天原か葦原中国の神様にされていったのだと思います。
返事添削ありがとうございます!
最初は
『石上神宮は
ナゼ皇大神宮とは別に"唯一神宮号"を名乗れたのか???』
という疑問が
ここまでコジれて訳わからんくなるとは…
前回と同じく
素盞嗚尊が水に関連するな〜?とは
思ってましたし、子供は海に関連する…とは思ってましたが
須佐之男は海そのもの…とは辿りつけなかった
前回のまま…ってかまだ、雲を掴む感覚デス…😶
どんな経緯かは解らないが
物部が大和王権に吸収され
饒速日命も地方の太陽神話だったのが、いつの間にか記紀の一部に
冷静に考えてみりゃ〜
出雲太田·大和布留.杣之内·坂東霞ヶ浦一帯の3地域における縄文〜神代記紀1000年分と、3地域の政治的歴史変遷1000年分、この2項目を軽く擦り合わせてマトメちゃってん♪
…って言われても
拙者みたいに素地の無い者は収拾付かなくなりますよね〜
器量不足でした🤣
まぁよくワカランけど
神武東征での剣の功績だけで天孫直系関係ないのに神宮号🆗というのは解せないし
物部か天下獲って布留.杣之内を掌握するにせよ、社号は大社号でよいはず。…それだけでも杵築とならんで引けもとらず立派なのに神宮なのは???
物部の陰になってた一族が、蘇我の台頭を契機に中臣が歴史の表舞台に躍り出だし、数百年かけて藤原が天下獲ったから、チート発動で
気づいたら『石上神宮は皇大神宮を除けば記紀で赦された唯一の神宮号の神社』
となれたのかな???と
で鹿島.香取もナシ崩し的にまぎれて…
気づけば枚方.春日が何か出てきた…???
みたいな
もう解らんので、うp主卿の深掘り解説動画での模範解答、尻尾振って待ってます😇
添削読んでて
『武力は目的ではない』
…ってトコ、政治視点で歴史をみているんだなと、政治的変遷の時間軸視点で勉強してらっしゃるんだな〜って思いました
軍事と言う政策部門は
政治が志向する政治目的を対外的に達成するための外交政策を武力圧力によって"補完"する政策の1つであり、政治目的を武力で具現化する一政策である
そして施策原案から武力発動→終戦戦後処理→政治目的の結果の達成未達の是非
この1連の長い時間軸を以て『戦争』と言う政治政策として見なすこととする…
これは近代クラウゼヴィッツが登場する前後、政治学が発展し近代国家統治システムが確立で
『政治とは何ぞや?』
『戦争とはなんぞや?』
が学問として成り立った時の話ですが
これを言葉こそ違えど、
『政治が1番。軍事は外交を補完する政策。
それが政治のあるべき姿』
として、世界最古で説いたのは諸子百家の兵家で…
孫武に兵学学派を仮託した孫氏と六韜を主学にする兵学の一派が始まりのようです。
が…戦史ばかりやってしまうとソレを忘れがちになります😅
政治はあくまでも
民衆には"ビジョン.大義名分"を
自身は"政治指針"を第一義に、コレを忘れべからざるべきこと
洋の東西問わず
武力そのものが政治秩序.世間の慣習に勝ちそのまま時代の変革に寄与するには、官民問わず"常備戦力"の存在がその時代に存在するコト。
その組織が常時軍備に予算を振り分けられる租税システム、またはヒト.モノ.土地の3つソノモノを直接掌握し、経済にアクセスでき常備軍を保有できる。
かつ、軍事を"常時の政治手段"として認識できる新しい政治視点を持てたと言うこと
奴隷経済の上に成り立った市民皆兵のギリシア都市国然り
中原中華の春秋五覇台頭然り
日本の武士団勃興然り
ほんと、時代の変革期における『秩序』や『慣習』。『身分.規格化』された、社会の見えない壁、越えられない天井は
どんな強大な経済力や軍事力を以てしても途中で心折れてるコトがありますねぇ
「キミは紛れもなく草分け的先駆者の天才で、秩序破壊慣.習破壊をして勝利を勝ち獲ったのに…
やっぱ一旦は、その秩序内に収まるのね…」
って感じの
意識が社会通念の中で生きているから無意識に秩序内に戻る選択をしたのか?
破壊者のままでは不安を覚えたのか?
政治手段として秩序を壊して"周りに見せた"だけなのか…
『あ…やっぱ
カエサルの二の舞いで暗殺.政変になった』
となるのか…
でも時間かけて社会の考えに変化が出たら、秩序の崩壊は意外にアッサリ…って感じにもなりますし
結局変革は、
何かを契機に発動してしまえば、揺り戻しはあれど時間かけて変化していき社会に馴染み常態化、硬化していくものだし
解らんもんです
何某かの秩序慣習を壊すには
強烈な個性をもつ先駆者が振り返れば社会の生け贄の形となり
後に数十年かけて変革していくのだなー
そして何度も何度も崩壊と安定を繰り返し、縄文神代からヤマト王権まで1000年余と積み重なり
石上神宮の神宮号に隠れ埋もれていったんだな…と
口伝は記紀伝説として世に溶け込むように馴染み薄れて行き、椿寿.老松と為していくのだな…と
茶、すすりながら思うとです。
@@toko5418 さん
添削なんてとんでもないです!
ディスカッションですよ!
考察の交換です!
to koさんのお話し読んでいて、凄く参考になります!
これからもデスカッションにお付き合いください!
よろしくお願いいたします!
そう言ってもらえると助かります
こちらこそ
わざわざ時間割いてもらってありがたいです!
動画楽しみしています☺️