「いき」も畢竟、民族的に規定された趣味であつた。從つて「いき」は勝󠄃義における sens intime によつて味會されなければならない。「いき」を分󠄃析して得られた抽象的槪念契󠄅機は具󠄄體的な「いき」の或る幾つかの方面を指示するに過󠄃ぎない。「いき」は個々の槪念契󠄅機に分󠄃析することは出來るが、逆󠄃に、分󠄃析された個々の槪念契󠄅機をもつて「いき」の存在を構󠄃成することは出來ない。「媚態」といひ、「意氣地」といひ、「諦󠄂め」といひ、これらの槪念は「いき」の部分󠄃ではなくて契󠄅機に過󠄃ぎない。それ故に槪念的契󠄅機の集合としての「いき」と、意味體驗としての「いき」との間には、越えることの出來ない間𨻶がある。換言すれば、「いき」の論理的言表の潛勢性と現勢性との間には截然たる區別がある。我々が分󠄃析によつて得た幾つかの抽象的槪念契󠄅機を結合して「いき」の存在を構󠄃成し得るやうに考へるのは、旣に意味體驗としての「いき」をもつてゐるからである。 意味體驗としての「いき」と、その槪念的分󠄃析との間にかやうな乖離的關係が存するとすれば、「いき」の槪念的分󠄃析は、意味體驗としての「いき」の構󠄃造󠄄を外部より了得せしむる場合に、「いき」の存在の把握に適󠄃切なる位地と機會とを提供する以外の實際的價値をもち得ないであらう。例へば、日本の文󠄃化󠄃に對して無知な或る外國人に我々が「いき」の存在の何たるかを說明する場合に、我々は「いき」の槪念的分󠄃析によつて、彼を一定の位置に置く。それを機會として彼は彼自身の「內官」によつて「いき」の存在を味得しなければならない。「いき」の存在會得に對して槪念的分󠄃析は、この意味に於ては、單に「機會原因」より外のものではあり得ない。しかしながら槪念的分󠄃析の價値は實際的價値に盡きるであらうか。體驗さるる意味の論理的言表の潛勢性を現勢性に化󠄃せんとする槪念的努力は、實際的價値の有無または多少を規矩とする功利的立場によつて評󠄃價さるべき筈のものであらうか。否。意味體驗を槪念的自覺に導󠄃くところに知的存在者󠄃の全󠄃意義が懸つてゐる。實際的價値の有無多少は何等の問題でもない。さうして、意味體驗と槪念的認󠄃識󠄂との間に不可通󠄃約的な不盡性の存することを明かに意識󠄂しつつ、しかもなほ論理的言表の現勢化󠄃を「課題」として「無窮」に追󠄃跡するところに、まさに學の意義は存するのである。「いき」の構󠄃造󠄄の理解もこの意味において意義をもつことを信ずる。 しかし、曩にも云つたやうに、「いき」の構󠄃造󠄄の理解をその客觀的表現に基礎附けようとすることは大なる誤󠄄謬である。「いき」はその客觀的表現にあつては必ずしも常に自己の有する一切のニュアンスを表はしてゐるとは限らない。客觀化󠄃は種々の制約の拘束の下に成立する。從つて、客觀化󠄃された「いき」は意識󠄂現象としての「いき」の全󠄃體をその廣さと深さにおいて具󠄄現してゐることは稀である。客觀的表現は「いき」の象徵に過󠄃ぎない。それ故に「いき」の構󠄃造󠄄は、自然形式または藝術󠄃形式のみからは理解出來るものではない。その反對に、これらの客觀的形式は、個人的もしくは社󠄃會的意味體驗としての「いき」の意味移入によつて初めて生かされ、會得されるものである。「いき」の構󠄃造󠄄を理解する可能性は、客觀的表現に接觸して quid を問ふ前󠄃に、意識󠄂現象のうちに沒入して quis を問ふことに存してゐる。およそ藝術󠄃形式は人性的一般または異性的特殊の存在樣󠄂態に基いて理解されなければ眞󠄃の會得ではない(二〇)。體驗としての存在樣󠄂態が模樣󠄂に客觀化󠄃される例としては、ドイツ民族の有する一種の內的不安が不規則的な模樣󠄂の形を取つて、旣に民族移住時代から見られ、更󠄃にゴシツクおよびバロツクの裝飾󠄃にも顯著󠄄な形で現はれてゐる事實がある。建󠄄築においても體驗と藝術󠄃形式との關係を否み得ない。ポール・ヴアレリーの「ユーパリノス或ひは建󠄄築家」のうちで、メガラ生れの建󠄄築家ユーパリノスは次󠄄のやうに云つてゐる。『ヘルメスのために私が建󠄄てた小さい神󠄃殿、直ぐそこの、あの神󠄃殿が私にとつて何であるかを知つてはゐまい。路ゆく者󠄃は優美な御堂を見るだけだ――僅かのものだ、四つの柱、極めて單純な樣󠄂式――だが私は私の一生のうちの明るい一日の思出をそこに込󠄃めた。おお、甘い変身メタモルフオーズよ。誰も知る人は無いが、このきやしやな神󠄃殿は、私が嬉しくも愛した一人のコリントの乙女の數󠄄學的形像だ。この神󠄃殿は彼女獨特の釣合を忠實に現はしてゐるのだ(二一)』。音󠄃樂においても浪漫派󠄄または表現派󠄄の名稱をもつて總括し得る傾向はすべて體驗の形式的客觀化󠄃を目標としてゐる。旣にマシヨオは戀人ペロンヌに向つて『私のものはすべて貴女の感情󠄃で出來た』と吿げてゐる(二二)。またシヨパンは「ヘ」短調󠄃司伴󠄃樂の第二樂章の美しいラルジエツトがコンスタンチア・グラコウスカに對する自分󠄃の感情󠄃を旋律化󠄃したのであることを自ら語つてゐる(二三)。體驗の藝術󠄃的客觀化󠄃は必ずしも意識󠄂的になされることを必要󠄃としない。藝術󠄃的衝動は無意識󠄂的に働く場合も多い。しかしかかる無意識󠄂的創造󠄄も體驗の客觀化󠄃に外ならない。卽ち個人的または社󠄃會的體驗が、無意識󠄂的に、しかし自由に形成原理を選󠄄擇して、自己表現を藝術󠄃として完了したのである。自然形式においても同樣󠄂である。身振その他の自然形式は屢々無意識󠄂のうちに創造󠄄される。いづれにしても、「いき」の客觀的表現は意識󠄂現象としての「いき」に基礎附けて初めて眞󠄃に理解されるものである。
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online.uniwa-juku.com/content/52942/?
浜崎洋介さんの最新刊『ぼんやりとした不安の近代日本』はこちら
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はじめて、浜崎さんのお話を聴きましたが、めっちゃ好きになりました!
今でも、こんなに氣骨ある人がおるんや!死んだ浮遊例みたいな輩ばかりの世間で久しぶりに生きている人を見た感覚になった!
応援しとります!
是非、表現者クライテリオンの定期購読もどうぞ😊
@@AIAIMI38 定期購読はしてないですが、ときどきバックナンバーを買っています。刺激を受ける面白いお話が満載です。youtubeでliveな先生方のお話を聞けるとますます面白いです。
willが雑誌とyoutubeを組み合わせていますが、読者になかなか訴求力があるやり方だと思います。
テレビの討論番組とか同じ事しか言わないので「つまらない」といつも思ってしまいます。(´・ω・`)
事実は一つ。しかし、事実の多面性を全く見せないテレビ報道はマジで洗脳装置w
現代最高の哲学者。
浜崎さんの言葉の展開にぐいぐい、引き寄せられてしまう!ひかるさんの日本人にとって何が大切か叫び続けて死にたい😭って神の声としか思えないし、皆んなが魂目覚めるわ❤聞き逃さなくて良かったです。本当凄かった‼️
配信感謝致します。こんな話が聞きたかった‼️と思いました。浜崎さんありがとうございます。
どうか日本人のひとりでも多くが、自分自身を主体にし、物事のどおりに気づき生きていけます様に。
戦後日本は「父親像」そして「大人」がいなくなったと感じます。国民総幼稚化という印象です。今回のお話とても頭が整理されました。もっと聞きたいです♪
全く同感です。私の主人はずっと父性が家族間にも社会にも溢れている国の人で、私もずっとその国で暮らしていたのですが、日本にはない安心感が生活のあらゆる場面で感じられ、昔の日本もこうだったんだろうなと思っていました。
尊敬できる大人、こうなりたいと憧れる大人がいっぱいいてこの国の若者は幸せだな、と。
よい意味での信仰心(宗教は必ずしも必要でないし、逆に悪にもなります)も、大人が見本になり目先の損得や狭い世界の空気ばかり大事にしない広い視野を持つヨスガになり得ると思います。
日本人の魂の父、西郷さんが大好きです!
あっという間でした。
面白かった❗️
批評の必要性、知りたかったからよかったです!ありがとう羽賀さん。
こんなに幅広い知性教養のお二人なのに、ざっくばらんな気さくささえ感じるところが、
逆に本物を感じます🍊🌷
うまく言葉にはできませんが、自分の抱えているもやもやを言語化してもらえたみたいでとても腑に落ちる対談でした
日本の問題の原因についてに見方がまた増えました
実際にお会いしたこともあるため、言葉を選ばずに言うと浜崎さんはなんと言うか何かの壁を突き破った賢人な感じなんですよね。ただ実際は動画内よりもっと言葉は砕けてますし、いいおにーさんです😂
楽しいお話しありがとうございました。
浜崎さんのストレートな日本人全開、日本人の本音が伝わって気持ち良かったです。
こんなにわかりやすくて腑に落ちる直球に羽賀さんと話してる姿が神っぽいですね!
たくさんの人に観て聴いて感じてもらいたいですよね~。
今の日本で理想の父親、完全にお手本になる父親って難しいかなと思いました。
配信ありがとうございます。
感謝します!
活き活きした浜崎さんと羽賀さんの話は熱い。
浜崎先生は一番話しやすかったんじゃないかなと思いました。羽賀さんの普通の友達になれそう
とっても面白かったですしわかりやすかったです。
それにしても浜崎さんのお声素敵ですね!
羽賀さんがめちゃくちゃ楽しそう😊
社会性を教えるのは父親の役目のようなイメージでしたが、実際結婚して子どもができてみると社会性どころか、目標も軸もなく深夜までテレビ見てビール飲んで毎日を終えてる旦那見て、なんじゃこりゃ🫠と離婚しました。子どもや私に怒鳴るようにもなってたし、「自分の欲求ため」だけに一人で生きているような人でした。家族ができてからも。使命感を持って、【父親】になれる人が少ないと感じます。
浜崎さんの話毎回楽しみです😊奥底にある愛のような優しさを感じました😊
「いき」は生きることの「いき」・・・言葉の意味をそこまで学んでいたかどうか・・・と恥ずかしくなります🙏
ファンは戦力にならない、は、いま突きつけられている課題と感じました✨
主体にすること、素晴らしいことをおっしゃられる🍎ファンの方なり学生さんなりが、例えば、日本を守るために行動されるように育成される、ということでしょうか☀
先日、鹿児島県にうかがったとき、西郷隆盛さまが大変尊敬されていらっしゃる、と感じ、本日の神社チャンネルさんでの学びも含め、そういった学びをさせて頂けたことが救いです、有難うございます🔥
先生方、お身体を大切に、今後とも生き生きとご活躍くださいませ🍊💫当方も一歩ずつではありますが、主体的にガンバリマス💖🌸🌞
浜崎さんは本当にいい‼️ヒカルさんとも相性👍🏾
27:44 この言葉は刺さる
いやぁ 自分の家族に起こっている問題が 戦後からどう形成されて来たのかが分かりました。
お二人とも楽しそう!こんな会話一生に一度でいいからしてみたいわぁ と完全に「ファン 信者」ですね
めちゃくちゃ面白かったです✨✨大学のときの専攻が、美学で、まさに『いきの構造』を研究テーマにしていたのですが、なんとすごい解釈!!びっくりです!また再び読みなおしてみようと思いました。日本を思うお二人の対談!ほんとずっと聞いていたい感じです!ありがとうございました😊✨✨
失礼いたします、すご~い、そうなんですか・・・!!!またぜひお教えくださいね。暑い日々、どうかご自愛くださいませ。
もうジジイになってしまいましたが、「美学」を専攻される方なんて、聞いたこともありませんでした、、、
ちなみに私は、なんとなくそういうものに憧れて芸大に入ったんですけどね、、、
でも、「美学」研究なんてことができるって知っていれば、絶対にそっちに行ったはずです、、、
うーん、悔しい!
ひゃー‼️めっちゃくちゃ面白かったです😃✨❗️
「粋」の話とか西郷さんとか「戦力にならない」話とか乖離の話とか…、グサグサ刺さる言葉がたくさんあって本当に刺激になりました!ありがとうございます😊❗️
浜崎さん 少し前から大ファンで 茂木さんとの対談とか何度も聞いている主婦ですが
Jのオッサンアイドルが その辺の緩い主婦のおばちゃんみたいにぬるい顔してるーー
と親しい人には言ってたんです😂
スターというのは 男になるなら
もっと自分の才能や生まれ持ったもの、立場を引き受ける責任感と孤独感、孤高感があるもの
なんであのオッサンの歳になっても緩いオバハンぽいままなのか
それをみなが違和感感じないのか 気持ち悪かったんです
浜崎さん と同じ感覚だったとしって嬉しい
浜崎さんとの対談続編 楽しみです
10:14 パンと魂
12:22 美学、信仰
12:50 いきの仕組み
媚態(世俗)-意気地(武士道)-諦念(宗教)
ぐるぐるするのが生きること😮😮😮
16:50 ドラゴンボール
18:45 師匠とは
20:15 父
23:50
「いき」とは媚態、意気地、諦観の循環という言葉が心に残りました。生きているのだから悟らなくてもいい。循環しながら進化していきたいです。
そして、虐待してくる父親としてのアメリカと日本の関係。浜崎陽介さんの社会批評は分かりやすいです。浜崎さんの分析する上での様々な知見の豊富さは素晴らしいです。浅いイデオロギーによる政治批評に惑わされず、その楽屋を覗きたいし、精神分析的な見方も役立つと思いました。
浜崎さん、イキイキされて元気出ました。
羽賀さん、浜崎さんのイキに当てられたのか、少しイキり気味に感じましたが、良い回でした🍀
ありがとうございます。
友人家族師匠といった人に利害得失を超えて支えられるような経験には恵まれず
それでもパンよりも魂を掴み取って
自分で立って自分で戦って自分で切り拓こうとしてきましたけど
「違うものは違う」と言って行動できる場が見つからず、この歳になってもそれとパンを両立できずにいます
友人家族師匠の支えに恵まれなかった人が、それでも自分を保ちながら、生活の糧を得て生きていける方法について、ご教示願います
お気持ち、胸が痛くなるほど理解しました、、
しかし、魂を磨くことは、本人にしかできません🥲 もちろん、他者から応援くらいは出来ますけどね、、、
残念ながら「本人次第」でしかないんですよ、、、 そこは諦めるしかないです😢😢😢
@@takabon1085
すみません、文章の意味が伝わっていないようですね
「魂を磨く方法」についてなぞ尋ねておりません
それは自分でやりました!と言っています
対談のお二人が
じゃあ自分たちはどうやってそれができたのか?といったら
友人家族師匠の支えに恵まれたからだ
とおっしゃっていましたので
たまたま「恵まれた」にすぎない自分たちが、何の解決方法も示さず、「恵まれなかった」人たちに
これだから日本人はダメなんだよねー
みたいな言説を垂れ流すことに、果たしてどんな意味があるのか?
と思ったまでです
精神と肉体を一致して生きてきましたね。仮面を被らない生き方。😊
浜崎洋介さんのお話は初めてお聞きしましたが、凄い! キレる! と感心しました。
父親像が破壊されたアニメ批評最高❗️
媚態、意気地、諦念 面白い!
ファンではなく主体❗️
それやね!^^
粋の話、最高でした!!!!!
ありがとうございます😊
聞きやすい声でした。
有難うございました。
何度も何度も聴いています
ここまで言語化できる方を全てのメディアを見ている方がいるだろうか❓️生の声でしかも。羽賀さんも浜崎先生の言葉をみんなにわかりやすく現在の周囲の事柄やものにすぐに変換できることもすごい❗レベルが高い対談ですごく考えさせられました
確かに私も父親像がわからないです。亡くなった父親は大尊敬してますが同じようには出来ないです…父親の父親は硫黄島に突撃して父親が10才の時に戦死しているのにどこから父親像を引き継いだのだろうとこの動画を見てふっと考えています
心配なされなくても、ご自分がやりたいことをして(パンのために生きずに)活き活きと生きていけば、
あなたも何の問題もなく、理想の父親に勝手になってしまいますよ! 大丈夫!!😆😆😆
煉獄さんファンです❤
主体忘れてました😂
私の足で立ちます❤
ちなみに、一番は煉獄さんのお母さんが憧れでした😍
主体を持って母になります😊
濱崎さんの話はいつも難しすぎてわからなかったけれど今回はとても面白く聞かせてもらいました。もう一度聞き直す
ここまで丁寧に語られると説得力がありますね評論家では無く批評的な考えが必要なのかもね面白い人ですね
😊
素晴らしい動画に感謝申し上げます。
寄席のお話が出ましたが、お二人の話を拝聴いたしまして、落語と講談の間にある「怪談」に可能性があるように感じました。
広島出身の歌手浜田省吾さんが唄っておられる「BLOOD LINE」という曲で、「父母」を「アメリカと日本」を現していると語っていました。「理想の父親像が無い」というお話と全く同じ事を訴えておられます。
昨日も北極老人&羽賀師が最も通った住吉大社参拝し、先月は夏祭りで駐車禁止で行け無かったので、月1通っているので、2ヶ月振りの参拝になりました卍
媚態と意気地と諦念の解説が”いき”でした!
自分の人生が野暮にならないように媚を売り過ぎずやせ我慢をしあきらめを体験しながら”いき”に生きていきます。
私は自分の体験から、浪曲(浪花節)が、面白くて、しかも「粋な生き方」を教えてくれる、
最高の教科書になりましたよ!
義務教育で、道徳の時間に浪曲を聞く時間を必修にして欲しいくらい、日本人が忘れてきた「理想的な生き様」が詰まっています
何かあなたのご参考になりましたら、幸いです😅
浜崎さんのcritiqueの話面白かったです。とても共感できました。
好き嫌い(自分の内側から出てくる物)で物事を判断してはいけないと習ってきましたが、crisisの時に直感で判断するしかないのかと思います。
日頃、好き嫌いで物事を判断して、結局、結果どうなったかを自分で分析して好き嫌いを修正していくこと(結果のcriteria)がその直感を磨くことで重要なのかなと思いました。仮面を脱ぐ。
一神教とヒーローイズム似てる。ゴレンジャーとか多神教w 面白い!
ファンと信者、戦力ならないw わかるーwww 依存w
伝統的な家長の役割が不在になってきているのが問題あると思います。
ヒーロー、スーパーサイヤ人的な家長、父ではなく、2レンジャー(イザナギ、イザナミ)のイザナギ家長役が家庭にいない。家長の父がいないから、母もいない。
社会と家庭の垣根が低くなり、家族の役割も存在自体が消えていくように感じます。国家解体に向かっている。
社会における家庭の機能はもはやなくされ、社会で「与えられた」ステレオタイプ的な役割を個人が24時間365日、延々とこなしている。
個人の性的志向については、社会が主体となって解決する問題では本来ないのではないかと疑問が湧きます。
家庭、友人などの個人がある小さいコミュニティーでこなす問題かと思います。
多種多様な人間の能力を有効に活用するために、家庭そして国家という機能があると思います。
政治、宗教、ボランティア団体がよく「よりそう」といいますが、具体性がない。
なぜなら、1人を救うため、活かすための具体策は千差万別でザル対応しかできない。
対応しきれないという現実に耳障りの良い呪文でお茶を濁している。
新しい資本主義の原動力となる「養鶏場的」家庭の機能がない社会。そこに向かっているような気がします。
自分は、ブロイラーになりたくないので、日本の伝統的家族を再考していきたいと思います。
羽賀さん楽しそう😊
せっかくなので、浜崎氏の出演した西部邁の追悼討論を拝見したが。佐藤健志、上島義郎、藤井聡とのやり取りが非常に面白かった。特に、同じ評論家である戦後保守言論人の典型のような振る舞いを見せる佐藤健志をネメツケルように見ている浜崎洋介は実に印象的ではあった。
また、浜崎氏の周囲にいた人々を拝見した。出演者は水島総、田久保忠衛、西尾幹二、宮脇淳子、西部邁、上島嘉郎、荒谷卓(自衛官)、藤井聡、・・・戦前を知識ではなく、すくなくとも肌で知り、また戦後生々しい世代を感覚的に知る人々であった。で、やはり御両人を見ていると・・・まあ、まだまだ・・・なんだろうなあ。と御考えなのがよく分かる。
現在は中堅どころのやや上の世代に至っている、上島、藤井の両人には浜崎氏は面識があり、対談もしておられたが、こういううるさ型の頑固爺さん達に囲まれてれば、そりゃあ鍛えられるはずだろうし、世間や社会の圧力なんぞは屁でもないだろう。もっともよく喋りそうな司会の水島総がへどもどして、配慮と遠慮に汲々としているのが面白かった。
一方、占術、神道、神社、こちらの方面には、恐ろしい人々がたくさんいることはよく存じ上げているので、羽賀氏も同様であろう。
それにしても、仲の悪い西尾と西部が、共通認識で同意していながら、補足し合っているところが実に面白い所ではあった。あるいは、共通認識語でしか語り合えないという不便を感じておられたかとも思われる。また、西尾が藤井を質問し、試される藤井が回答している箇所を拝見したが、師匠の口頭試験を受ける感覚が良く解る。
果たして、この討論そのものから受ける感覚は、ご両所の仰せである、朝まで生テレビから来るのかどうか?
補記(リンク略)
・2018年02月10日 【討論】追悼・西部邁と日本
・西部邁・藤井聡(2011年12月10日)【大東亜戦争とアメリカニズム】帝国主義の時代、戦後教育のおかしさ、「日米の戦い」は黒船来航から現
うなづきまくりました。家庭内がドタバタ劇!まさにそうですね。父親は、理想の父親がわからなすぎて演じるのが難しくてドタバタになる。こどもは親を否定→自己否定。まさに現代っ子の悲劇。
ところで師匠の、パンだけでは生きていけないという言葉は聖書からの引用ですよね。
マリー・アントワネット伝説かも!😆😆😆
浜崎さんの話はとても面白く聴き入ってしまいました。現在、私の親戚の女の子が大学受験生ですが、合格を目指して頑張っています。今回の、深い話を聞いて今後の未来に対し美学を持って指針を示せる指導者にあって欲しいものだと祈らずにはいられません!
こういう話っておそらく無意識に精神分析入ってるよね 好きだからそう思うのかも知れないけど
言っときますが、浜崎さんは学者の中で、日本で唯一の分野ですが最高の学者さんですからね!! 😡😡😠
無意識じゃなくて、精神的な方向の各種学問も、当然のことながら研究された上での、このご発言ですよ!
じゃないと、中身のある有意義だと評価される論文なんて、書けませんから!😓😓😓
最近の浜崎さん、神がかってきたなあ、、
普通の日本人には理解できない高度な話を、遠慮なく活き活きと語ってる、、
こんなお話がずっと前から聞きたかった! ずっとその時を待ちながら、生きてきました!
感謝しかないです!!!
これを普通の人たちの前で語っても、理解されなくて無意味ですから、
このチャンネルだからこそ語れるんですよね、、、
芳賀さんが自分の生き方の覚悟を語られた、ほんのちょっとした軽いノリの短い言葉に、
胸打たれて泣きましたよ、、、😭😭😭
私は、お二人の親世代です。でも凄っく共します。イキイキしてますねとよく言われます。魂とパンのバランス感覚必要ですよね😊❤
以前から茂木先生のchでめちゃくちゃ面白いと思ってたんですが、数段超えて面白かったです!ゆにわ塾深田萌絵さんの会の時に入会し、その後脱退しましたが、最近畳み掛けるように気になるゲスト続きなので、浜崎さんきっかけで再入会します✨
こんな場所で、俺に会うとは思わなかった!🤣🤣🤣
西郷隆盛、楠木正成、聖徳太子。。。私は乃木希典もイメージしました。
R.D.レインが出てきた。驚きました。若い頃よく読みました。
現代のドラマでも「梨泰院クラス」のパクセロイは覇気のない僕でも憧れるというか好きですね。
私、生きてる‼️
中華文明のときも同じでした。ただし宦官と纏足だけは拒否しました。西洋文明も大々的に取り入れましたが、自己中心性の世界観は拒否しました。
それが日本人なのです。つまり、縄文人というところに戻れよという事だなあ。
一回でもいいのです!パンより魂を取った経験は。ただほとんどの人は、安全牌の中でやってしまう。そうでない状況で、名誉‐魂を取れれば、それは一回でいい!しかし、若いうちにしかできないかもしれない。。若いうちに、教養が必要だ!!
概ね同意しながら読ませていただきましたが、、
教養は関係ないですよ!😊
ただただ、ひたすらに、「正しい感覚」に気付いて、それを守って生きていくことが大切なんですわ😀
お金に支配される者は、物事が真っ直ぐ見えない。
粋の話、おもろ〜😂
友人の仏国人が、ドラゴンボールはスーパーサイヤ人(S.S.)
金髪、青い瞳、ナチ推しだ。と言ってました…
😅😅😅
配信ありがとうございます。7:35あたりの字幕、小林秀雄は直感ではなく「直観」と表現しているのでできれば訂正をお願いします。
甘ければ良い、優しければ良い
すいません、
勉強不足すぎて💦
あと14回くらい見ますww
自分にはよく解からないけど、ここに何か大切なものがある!! って、感覚、、、
若い頃に自分が西部先生に、強力に惹き付けられた頃を思い出して、メチャクチャ懐かしく、
そして、すっかり忘れていた、若々しくて大切な気持ちを思い出させていただきました、、、🙏🙏🙏アリガトウ、、
私は、西部邁(にしべ すすむ)先生のことを知って、なんとなくw 必死で学んだことが、
自分の役に立つまでに30年かかりましたよ、、、長かった、、、
(ちなみに浜崎さんは、簡単に言えば、西部先生の弟子の弟子というお立場です。つまり孫学者みたいなw)
それくらい、凄い人が言ってることって、凡人の自分の腑に落ちるまでに、長い長い時間がかかるレベルのお話です😑😑
ま、そんな感じですから、妙に頑張ったりしないで、ご自分が何故か好きで、幸せな気持ちになれることだけを、
お気楽に追求されていって下さいね😉
先は、(私のような凡人なら)まだまだ長いですから、楽〜に好きなことだけをして生きて下さい😊😊😊
あなたなら、大丈夫!
この、頼りない、ただ単に「大阪の変なおっさん🤤」な、私が保証しますwww 😰😱
浜崎さんのお話興味深かったです。私は批評するよりむしろ批評される側(写真家)の人間なので批評するより拙くても作る側の方が面白いと改めて認識しました。作る側は批評者を必ずしも必要としませんが批評者は作る側が無いと批評出来ない存在だと思います。昔、ビートたけしが言ってました「最近、おいらのような映画作ってる人間より評論家のような連中の方が偉いみたいな風潮が有るけどおかしいよね」と言っましたけどその通りだよなとうなずきました。浜崎さんも小説でも書いて評論される側の立場も経験されたら説得力が増すと思います。
本をたくさん書かれていますので、そういう意味では、大昔から彼は「作家」ですよー😊
『遥かなる山の呼び声』の高倉 健!?
恆存のパンの話は唸りました。パンを選ばなかった結果その人は死に絶えてしまった、という美学に酔いしれてはいけないですね。
善か悪か51対49の割合で良い、皆がそのくらいのバランスで生きれば、世の中は劇的変わるんじゃないかな?
昔の、朝生は、面白かった!
小林 秀雄(こばやし ひでお、1902年〈明治35年〉4月11日[注釈 1] - 1983年〈昭和58年〉3月1日)は、日本の文芸評論家、編集者、作家、美術・古美術収集鑑定家。
人物
日本の文芸評論の確立者であり、晩年は保守文化人の代表者であった。[要出典]アルチュール・ランボー、シャルル・ボードレールなどフランス象徴派の詩人たち、ドストエフスキー、幸田露伴・泉鏡花・志賀直哉らの作品、ベルクソンやアランの哲学思想に影響を受ける。本居宣長の著作など近代以前の日本文学などにも造詣と鑑識眼を持っていた。[要出典]
妹の高見沢潤子[注釈 2]は、作家・随筆家。夫は『のらくろ』で知られる漫画家の田河水泡。
長女・明子の夫は、白洲次郎・正子の次男・兼正。従弟は英文学者の西村孝次、西洋史学者の西村貞二。文藝評論家の平野謙は又従弟[注釈 3]。
・福田 恆存
(ふくだ つねあり、1912年(大正元年)8月25日 - 1994年(平成6年)11月20日)は、日本の評論家、翻訳家、劇作家、演出家。現代演劇協会理事長、日本文化会議常任理事[1]などを務めた。
概要
平和論への批判を早くから行った保守派の文化人で、同時期にはシェイクスピア戯曲作品の翻訳、演劇上演も行った。文藝春秋社「文藝春秋」、「諸君」、自由社「自由」などの保守派総合雑誌への寄稿でも知られ、産経新聞社の論壇誌「正論」は、福田と田中美知太郎、小林秀雄等の提唱によって1973年(昭和48年)に創刊された。
「レトリシャン」や「論争の手品師」といわれ、一流のリフレーミングの使い手でもあった[3]。著書に『人間・この劇的なるもの』(1956年)、『私の英国史』(1980年)、戯曲『キティ颱風』(1970年)など。
・西部 邁
(にしべ すすむ、1939年〈昭和14年〉3月15日[1] - 2018年〈平成30年〉1月21日[2])は、日本の評論家、経済学者、保守思想家。東京大学教養学部教授、隔月刊誌『表現者』顧問を歴任。
北海道出身。東大入学後にブントのメンバーとなり、東大自治会委員長として安保闘争に参加した。安保闘争から離脱後は東大大学院で近代経済学を専攻し、横浜国立大学助教授、東大助教授、英米への留学を経て東大教授となる。1980年代から保守の論客として活躍し、東大駒場騒動の際に東大教授を辞職。それ以後は在野の評論家として評論活動を行った。2018年に多摩川にて自決する。
江藤 淳(えとう じゅん、1932年〈昭和7年〉[注釈 1]12月25日 - 1999年〈平成11年〉7月21日[1])は、日本の文芸評論家。東京工業大学、慶應義塾大学教授を歴任。学位は、文学博士(慶應義塾大学)。本名:江頭 淳夫(えがしら あつお)。
学生時代に発表した『夏目漱石』(1956年)で注目され、『作家は行動する』(1959年)、『小林 秀雄』(1960年)で文芸評論家としての地位を確立。『アメリカと私』(1965年)など文明批評も多い。
概要
戦後日本の著名な文芸評論家で、小林秀雄の死後は文芸批評の第一人者とも評された[2]。20代の頃から長らく文芸時評を担当し、大きな影響力を持った。20代で『奴隷の思想を排す』、『夏目漱石』を書き上げ、特に前者の『奴隷の思想を排す』は、日本の近代的自我に対する批判を描き出し、吉本隆明を始め多方面の文学者に大きな影響を与え[3]、大江健三郎・司馬遼太郎らと共に気鋭の新人として注目され始める。1960年代初頭から文壇・論壇での活動を本格化[4]させ、1966年(昭和41年)に遠山一行・高階秀爾・古山高麗雄の4名で『季刊藝術』を創刊・主宰。1969年(昭和44年)末から約9年間に渡り毎日新聞の文芸時評を担当。
『小林秀雄』(講談社)により新潮社文学賞受賞、『漱石とその時代』(新潮選書)で菊池寛賞と野間文芸賞を受賞している。代表作『成熟と喪失』は第三の新人の作品を素材にして文学における母性について論じた代表作である。
1976年(昭和51年)に第32回日本芸術院賞を受賞し[5]、1991年(平成3年)より日本芸術院会員となる。1994年(平成6年)から日本文藝家協会理事長。日本文学大賞、文學界新人賞、群像新人文学賞、文藝賞、三島由紀夫賞などの選考委員を務めた。江藤淳というペンネームが本名に由来していることは明白だが、本人の言では「照れ隠しのようなものにすぎない」という。初め「あつし」と読ませていたがいつのまにか「じゅん」と読まれるようになった。なお1941年(昭和16年)から1948年(昭和23年)まで鎌倉の極楽寺に、戦後は市ヶ谷加賀町など東京都心部での在住を挟み、1980年(昭和55年)以降は、鎌倉市西御門に居住した。鎌倉文士の一人。
明治国家を理想とする正統的な保守派の論客として論壇で異彩を放つようになり、しばしば戦後保守派や新保守主義派の論客とは対立した。一般的には、文学者としての立場から「父性原理」や「治者の理論」にこだわり、敗戦による時代と国家の喪失の物語を自らの体験に重ねて作為し、戦後神話の解体を通して主体の回復に挑んだ稀有なる個性を、文学史と思想史の交点に描き出す事を論点とし、三島由紀夫や清水幾太郎、福田恆存らとはしばしば対比された。作家を評価する際には思想性にはこだわらず、思想的な立場の異なる左派の中野重治などを積極的に評価し、文壇に登場して間もない頃の石原慎太郎などをいち早く発見した。
プリンストン大学への留学を通じて得た米国での経験から、巨大なアメリカ社会とどう向き合うかという主題に生涯取り組み、戦後日本における西欧模倣の近代化を他の言論人に先駆けて鋭く批判した。なお、同大学に留学中、三島由紀夫から5点の書簡を受け、自作長編『美しい星』の英訳本刊行への助力などを求められている[6]。
『諸君!』1970年1月号のエッセイ「『ごっこ』の世界が終ったとき」(江藤淳コレクション〈1〉「史論」所収)では、全共闘運動を「革命ごっこ」、三島由紀夫の楯の会自決(三島事件)を「軍隊ごっこ」と斬り捨てた。更に、三島由紀夫が自決した直後に、『諸君!』で行った小林秀雄との対談「歴史について」では[7]、「三島由紀夫は、一種の病気」であると断言し[8]、吉田松陰的に崇拝されていく三島像を明確に否定する考えを表明した。20数年を経て平成には憂国忌の発起人に参画するなど、三島事件に対する考えが変化し、晩年の著書『南州残影』の取材で、蓮田善明の故郷の熊本県の歴史の地・田原坂を訪れた江藤は、蓮田が三島の才を評価していたことに触れながら、2人が西郷隆盛に発する自裁と国士の系譜にあると論じている[9][10]。
江戸城無血開城に際し敗れた幕府側の人間でありながらも、理想的な治者としては勝海舟を見出し、松浦玲と共に『勝海舟全集』[11](講談社)の編纂に参画。評伝『海舟余波』も著し、近代史の激動変転の中で、滅び去っていく死者や敗者への挽歌を綴り、晩年には西郷南洲の伝記『南洲残影』を著した。また「文藝春秋」に『海は甦える』を長期連載し、薩摩藩出身の山本権兵衛を軸に、開国からの日本海軍の創立・興隆にいたる過程を描いた長編歴史文学となった。
1970年代後半からの『忘れたことと忘れさせられたこと』・『閉された言語空間―占領軍の検閲と戦後日本』・『一九四六年憲法-その拘束―その他』などで、GHQによる戦後日本のマスコミへの検閲、GHQの呪縛から脱却できない戦後民主主義を鋭く批判した。のち1991年初頭に湾岸戦争が勃発し、アメリカの全面勝利で終結すると、小学館「SAPIO」誌上で湾岸戦争中のアメリカの検閲を取り上げ、それが、日本占領中にアメリカが行なった検閲に酷似している事を指摘した[12]。
日本人の在り方や国語文化について積極的に発言し、『自由と禁忌』(河出書房新社)では、「アメリカを代表する占領軍当局によって、このように『存在させられている』のであり…」とし、日本は実質的に独立国家ではなくなっていると主張。また、アメリカ政府が極秘で日本弱体化計画(「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」)を進めていたと[13]主張し続けた(江藤は歴史家の立場から発言しているわけではない。江藤以外にも、「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」が存在しているとする主張がある[14][15])。
妻慶子を、1998年(平成10年)12月に癌で亡くしてからはかつてのような気力を失っていったと言われている。最後は自らを「形骸」とし、自宅で自殺した。
墓所は青山霊園。
・柄谷 行人(からたに こうじん、1941年8月6日 - )は、日本の哲学者、文学者、文芸批評家である。本名は柄谷 善男(よしお)。筆名は夏目漱石の小説『行人』に因む、と一般にいわれるが、本人は否定。「kojin」という語感と響きから偶然に思いついたという[1]。兵庫県尼崎市出身。
「国家」「資本」「ネーション」とは区別されるものとして、近年は「アソシエーション」という言葉を強調している。
『意識と自然ー漱石試論』(1969年)で論壇に登場。言葉と人間との関係を追究し、近代を読み直す。著書に『意味という病』(1975年)、『坂口安吾と中上健次』(1996年)、『帝国の構造』(2014年)、『世界史の構造』(2015年)など。
・二葉亭 四迷(ふたばてい しめい、1864年4月4日(元治元年2月28日) - 1909年(明治42年)5月10日)は、日本の小説家、翻訳家。
本名長谷川辰之助はせがわたつのすけ。筆名の由来は、処女作『浮雲』に対する卑下、特に坪内逍遥の名を借りて出版したことに対して、自身を「くたばって仕舞めえ」と罵ったことによる(異説あり)。文学に理解のなかった父に言われたというのは俗説である(『予が半生の懺悔』)。長谷川二葉亭とも呼ばれる。別の号に冷々亭主人、杏雨。
江戸市ヶ谷生れ。彼の自筆履歴書によると、1883年2月1日から1885年12月25日まで、当時の専修学校(現在の専修大学)で学び、その後卒業した。また、東京外国語学校(現東京外国語大学)露語科入学後、同科が改組されてできた東京商業学校(現一橋大学)第三部露語科を1886年1月に中退[1]。
坪内逍遥と交流を結び、その勧めで評論『小説総論』を発表。1887年~1891年の間に出された写実主義小説『浮雲』は言文一致体で書かれ、日本の近代小説の開祖となった。また、ロシア文学の翻訳も多くてがけ、ツルゲーネフの「あひゞき」「めぐりあひ」は特に有名。自然主義作家へ大きな影響を与えた。
後に『其面影』『平凡』を書いたが、1909年、ロシア赴任からの帰国途中、ベンガル湾上で客死した。
・坪内 逍遥(つぼうち しょうよう、旧字体: 坪內逍遙、1859年6月22日(安政6年5月22日) - 1935年(昭和10年)2月28日)は、日本の小説家、評論家、翻訳家、劇作家。小説家としては主に明治時代に活躍した。代表作に『小説神髄』『当世書生気質』及びシェイクスピア全集の翻訳があり、近代日本文学の成立や演劇改良運動に大きな影響を与えた。本名:坪内雄蔵つぼうちゆうぞう。別号に「朧ろ月夜に如くものぞなき」の古歌にちなんだ春のやおぼろ(春廼屋朧)、春のや主人など。俳句も詠んだ。
岡本 太郎(おかもと たろう、1911年(明治44年)2月26日 - 1996年(平成8年)1月7日)は、日本の芸術家。血液型はO型[2]。
1930年(昭和5年)から1940年(昭和15年)までフランスで過ごす。抽象美術運動やシュルレアリスム運動とも接触した。
・パブロ・ルイス・ピカソ[注 1][注 2](Pablo Ruiz Picasso, 1881年10月25日 - 1973年4月8日)は、スペイン・マラガ生まれの、フランスで制作活動をおこなった画家である。
・シュルレアリスム[注 1](仏: surréalisme[注 2]、英: surrealism[注 3])は、戦間期にフランスで起こった作家アンドレ・ブルトンを中心とする文学・芸術運動である。すでに1919年から最初のシュルレアリスムの試みである自動記述が行われていたが、1924年にブルトンが『シュルレアリスム宣言』を発表し、運動が本格的に始まった。ブルトンはこの宣言でシュルレアリスムを「口頭、記述、その他のあらゆる方法によって、思考の真の動きを表現しようとする純粋な心的オートマティスム。理性による監視をすべて排除し、美的・道徳的なすべての先入見から離れた、思考の書き取り」と定義した[1]。シュルレアリスムはジークムント・フロイトの精神分析とカール・マルクスの革命思想を思想的基盤とし、無意識の探求・表出による人間の全体性の回復を目指した。ブルトンのほか、ルイ・アラゴン、ポール・エリュアール、フィリップ・スーポー、バンジャマン・ペレらの詩人を中心とする文学運動として始まったが、ジョルジョ・デ・キリコ、マックス・エルンストらの画家やマン・レイらの写真家が参加し、1920年代末頃からスペインやベルギーからもサルバドール・ダリ、ルイス・ブニュエル、ルネ・マグリット、カミーユ・ゲーマンス(フランス語版)らが参加。分野もダリとブニュエルの『アンダルシアの犬』に代表される映画などを含む多岐にわたる芸術運動に発展した。
一方、フランスのシュルレアリスムが日本において前衛芸術として発展を遂げたのは1930年代以降のことであり、以後、ブルトンが提唱した無意識の探求という本来の目的から離れ、「現実離れした奇抜で幻想的な芸術」という意味で「シュール」という日本独自の概念・表現が生まれることになった[2]。
・キュビスム(仏: Cubisme; 英: Cubism「キュビズム、キュービズム」、立体派)は、20世紀初頭にパブロ・ピカソとジョルジュ・ブラックによって創始され、多くの追随者を生んだ現代美術の大きな動向である。それまでの具象絵画が一つの視点に基づいて描かれていたのに対し、いろいろな角度から見た物の形を一つの画面に収めた。
・マルセル・デュシャン(Marcel Duchamp、1887年7月28日 - 1968年10月2日)は、フランス生まれの美術家[1]。20世紀美術に決定的な影響を残した。画家として出発したが、油彩画の制作は1910年代前半に放棄した。チェスの名手としても知られた。ローズ・セラヴィ(Rrose Sélavy)という名義を使ったこともある。2人の兄、ジャック・ヴィヨン(Jacques Villon, 1875年 - 1963年)とレイモン・デュシャン=ヴィヨン(Raymond Duchamp-Villon, 1876年 - 1919年)も美術家。1955年、アメリカ国籍を取得した。
近年の研究では、代表作の『噴水(泉)』を含む多くのデュシャン作品は、ドイツの前衛でダダイストの芸術家・詩人の女性、エルザ・フォン・フライターク=ローリングホーフェン(Elsa von Freytag-Loringhoven)が制作したとされている[2][3][4]。
・『泉』(いずみ、Fontaine)または『噴水』は、1917年に制作されたレディメイドの芸術作品であり、磁器の男性用小便器を横に倒し、"R.Mutt"という署名をしたものに「Fountain(噴水/泉)」というタイトルを付けたものである[1]。
マルセル・デュシャンの作とされていたが、近年の研究では、本作を含む多くのデュシャン作品は、ドイツの前衛でダダイストの芸術家・詩人の女性、エルザ・フォン・フライターク=ローリングホーフェン(Elsa von Freytag-Loringhoven)が制作したとされている[2][3][4]
九鬼 周造
(くき しゅうぞう、1888年2月15日 - 1941年5月6日)は、日本の哲学者。京都帝国大学教授。
出身は東京府東京市[1]。東京帝国大学文科大学(文学部)哲学科卒業、京都帝国大学文学博士。実存哲学の新展開を試み、日本固有の精神構造あるいは美意識を分析した。日本文化を分析した著書『「いき」の構造』(1930年)で知られる。ほかに、『偶然性の問題』(1935年)など。
人物・経歴
父は明治を代表する文部官僚で男爵の九鬼隆一。祖先は九鬼水軍を率いた戦国武将の九鬼嘉隆。母の九鬼波津子は周造を妊娠中に岡倉覚三(天心)と恋におち(隆一は岡倉の上司であった)、隆一と別居(のち離縁)するという事態となった[2]。生みの父・隆一、精神上の父・岡倉、そして喪われた母という、この3人のはざまで幼少期・青年期の周造は成長していくこととなり、それは後の精神形成にも大きな影響を与えることとなったと考えられる。九鬼は子供の頃、訪ねてくる岡倉を父親と考えたこともあったと記している。
1904年に東京高等師範学校附属中学校(現:筑波大学附属中学校・高等学校)卒業。第一高等学校独法科に進むも文科に転じる。東京帝国大学文科大学哲学科ではラファエル・フォン・ケーベルに師事した。
大学院中退後、妻とともに1921年よりヨーロッパ諸国へ足かけ8年間留学する[3]。初めドイツに渡り、新カント派のハインリヒ・リッケルトに師事するが、それでは満たされず、のちフランスに渡り、アンリ・ベルクソンと面識を得るなどし、その哲学から強い影響を受ける。と同時に遊興にも走った。パリ時代には、フランス語の個人教師として、まだ学生だったジャン・ポール・サルトルを雇っていた[4]。その後再びドイツに留学すると、今度はマルティン・ハイデッガーなどから、現象学を学んだ。九鬼は三木清や和辻哲郎などとともに日本でハイデッガーの哲学を受容した最初の世代に当たり、「実存」といった哲学用語の訳語の定着をはじめとして、日本におけるハイデッガー受容において果たした役割は少なからぬものがあるといえる。また、ハイデッガーの方も九鬼を高く評価している[5]。
1929年に帰国してから1941年に没するまで、京都帝国大学文学部哲学科で、デカルト、ベルクソンをはじめとするフランス哲学や近世哲学史、現象学を中心とした当時の現代哲学などを教えた。1929年に京都帝国大学講師に就任、1932年に博士論文「偶然性」を提出し京都帝国大学文学博士の学位を取得[6]、そして1933年助教授となり、1935年から西洋近世哲学史講座の教授となった[7]。
ヨーロッパの長期滞在の中でかえって日本の美と文化に惹かれていく自分に気づいていった九鬼は、パリでのちに『「いき」の構造』として発行される草稿を完成(1926年)。帰国後、その草稿を手直しし、ハイデッガーから受け、育んだ洞察を活かして「いきとは、垢抜けして、張のある、色っぽさ」の言葉のある『「いき」の構造』(1930年)を発表した。これは、日本の江戸時代の遊廓における美意識である「いき」(粋)を、現象学という西洋の哲学の手法で把握しようと試みた論文で、これを考察の対象にしたということだけで当時は驚きをもって迎えられた。
九鬼は1941年に腹膜炎で死去し、京都の法然院で、谷崎潤一郎や内藤湖南らとともに眠っている。墓石の揮毫は同僚の西田幾多郎によるもので、側面には西田が翻訳も行ったゲーテの「さすらい人の夜の歌」 (Wandrers Nachtlied) の一節が刻まれている。
九鬼の遺稿と蔵書は親友の天野貞祐(旧制甲南高等学校校長)に託され、現在は甲南大学図書館に九鬼周造文庫として保存されている。
家族
父・九鬼隆一(1852年 - 1931年) - 男爵
母・九鬼波津子(1860年 - 1931年) - 元芸妓。岡倉天心との不倫で騒がれた。
妻・九鬼縫子(1895年生) - 周造の亡兄・一造の元妻。中橋徳五郎の娘、中橋武一の妹。一造との間に2児あり。1918年に周造と再婚して1921年に周造とともに渡欧、1926年に単身帰国。1931年に長男に反対されたことを理由に周造に離婚を申し出る。兵庫県三田市の九鬼家の菩提寺心月院の墓所には一造の妻として葬られている。[3][8]
哲学
日本哲学研究者宮野真生子(1977年 - 2019年)執筆の「思想家紹介」(2003年)において、九鬼の哲学は「二元性」という言葉によって説明されている。
……九鬼の哲学は「二元性」という特徴を持つ。まず、西洋と日本との伝統のあいだでの二元性。この問題は『「いき」の構造』へと結実していく。さらに、「偶然性」と「必然性」あるいは「自己」と「他者」の二元性。この問題から結実するのが、主著『偶然性の問題』である。そこには、この世に偶然生まれ落ちた「この私」の個体性と実存への眼差しと、論理では語り尽くせない「この私」のあり方を如何に語り出すのか、という問いがある。それゆえ、西洋哲学の根幹に存するイデア中心主義に対して、論理からこぼれおちる「偶然性」を取り上げた九鬼の哲学は徹底して個体にこだわる実存哲学であった。さらに、自己と他者の「独立の二元の邂逅」から偶然性と個体性を語る九鬼哲学は、現代哲学における「差異」という観点とも響き合い、現在注目を集めている。
- 宮野真生子「思想家紹介」、「九鬼周造」
主な著作は、『偶然性の問題』、『「いき」の構造』、『人間と実存』など。宮野の思想家紹介においては、『人間と実存』収録の「哲学私見」が九鬼哲学の入門書として推薦されている[9]。
逸話
九鬼は留学中、フランスで若きサルトルから個人的にフランス語の練習を兼ねてフランス哲学について歓談したという逸話がある。一方でサルトルの方も、この時九鬼から現象学などの哲学についての影響を受けたのではないか、という説がある。
九鬼は嫂(亡くなった次兄・九鬼一造の妻)の縫子(中橋徳五郎の長女)と30歳の時に結婚するも、この結婚は破綻した。2度目に結婚した相手は祇園の芸妓であった。これには彼の生い立ちや独特の美意識が影響していたのではないかと思われるが、周囲では「九鬼先生が講義にたびたび遅刻してくるのは、毎朝祇園から人力車で帝大に乗り付けてこられるからだ」という噂がまことしやかに話されていたとのことである。
主な弟子に、日本で最初に医学を主題に哲学講座「医学概論」を開いた澤瀉久敬(大阪大学名誉教授などを歴任)がおり、澤瀉は九鬼全集編集委員(他の編集委員には天野貞祐ら)でもあった。
「いき」の構造
序
この書は雜誌「思想」第九十二號および第九十三號(昭和五年一月號および二月號)所󠄃載の論文に修補を加へたものである。
生きた哲學は現實を理解し得るものでなくてはならぬ。我々は「いき」といふ現象のあることを知つてゐる。然らばこの現象は如何なる構造󠄃をもつてゐるか。「いき」とは畢竟󠄂わが民族に獨特な「生き」かたの一つではあるまいか。現實を有りの儘に把握することが、また、味得さるべき體驗を論理的に言表することが、この書の追󠄃ふ課題である。
昭和五年十月
六 結論
「いき」の存在を理解しその構󠄃造󠄄を闡明するに當つて、方法論的考察として豫め意味體驗の具體的把握を期した。しかし、すべての思索の必然的制約として、槪念的分󠄃析によるの外はなかつた。しかるに他方において、個人の特殊の體驗と同樣󠄂に民族の特殊の體驗は、たとへ一定の意味として成立してゐる場合にも、槪念的分󠄃析によつては殘餘なきまで完全󠄃に言表されるものではない。具體性に富んだ意味は嚴密には悟得の形で味會されるのである。メーヌ・ドウ・ビランは、生來の盲󠄃人に色彩󠄃の何たるかを說明すべき方法がないと同樣󠄂に、生來の不隨者󠄃として自發的動作をしたことのない者󠄃に努力の何たるかを言語をもつて悟らしむる方法はないと云つてゐる(一七)。我々は趣味としての意味體驗に就ても恐󠄃らく一層󠄃述󠄃語的に同樣󠄂のことを云ひ得る。「趣味」は先づ體驗として「味ふ」ことに始まる。我々は文󠄃字通󠄃りに「味を覺える」。更󠄃に、覺えた味を基礎として價値判󠄄斷を下す。しかし味覺が純粹の味覺である場合はむしろ少ない。「味なもの」とは味覺自身のほかに嗅覺によつて嗅ぎ分けるところの一種の匂を暗󠄃示する。捉へ難󠄇いほのかなかをりを豫想する。のみならず、屢々觸覺も加はつてゐる。味のうちには舌ざはりが含まれてゐる。さうして「さはり」とは心の絲に觸れる、言ふに言へない動きである。この味覺と嗅覺と觸覺とが原本的意味に於ける「體驗」を形成する。いはゆる高等感覺は遠󠄄官として發達󠄃し、物と自己とを分󠄃離して、物を客觀的に自己に對立させる。かくして聽覺は音󠄃の高低を判󠄄然と聽分󠄃ける。しかし部音󠄃は音󠄃色の形を取つて簡明な把握に背かうとする。視󠄃覺にあつても色彩󠄃の系統を立てて色調󠄃の上から色を分󠄃けて行く。しかし如何に色と色とを分󠄃割󠄅してもなほ色と色との間には把握し難󠄇い色合が殘る。さうして聽覺や視󠄃覺にあつて、明瞭な把握に漏れる音󠄃色や色合を體驗として拾得するのが、感覺上の趣味である。一般にいふ趣味も感覺上の趣味と同樣󠄂にものの「色合」に關してゐる。卽ち、道󠄃德的および美的評󠄃價に際して見られる人格的および民族的色合を趣味といふのである。ニイチエは『愛しないものを直ちに呪ふべきであらうか』と問ふて、『それは惡い趣味と思ふ』と答へてゐる。またそれを『下品』(Pöbel-Art)だと云つてゐる(一八)。我々は趣味が道󠄃德の領域において意義をもつことを疑はうとしない。また藝術󠄃の領域にあつても、『色を求むるにはあらず、ただ色合のみ(一九)』と云つたヴエルレエヌと共に我々は趣味としての色合の價値を信ずる。
「いき」も畢竟、民族的に規定された趣味であつた。從つて「いき」は勝󠄃義における sens intime によつて味會されなければならない。「いき」を分󠄃析して得られた抽象的槪念契󠄅機は具󠄄體的な「いき」の或る幾つかの方面を指示するに過󠄃ぎない。「いき」は個々の槪念契󠄅機に分󠄃析することは出來るが、逆󠄃に、分󠄃析された個々の槪念契󠄅機をもつて「いき」の存在を構󠄃成することは出來ない。「媚態」といひ、「意氣地」といひ、「諦󠄂め」といひ、これらの槪念は「いき」の部分󠄃ではなくて契󠄅機に過󠄃ぎない。それ故に槪念的契󠄅機の集合としての「いき」と、意味體驗としての「いき」との間には、越えることの出來ない間𨻶がある。換言すれば、「いき」の論理的言表の潛勢性と現勢性との間には截然たる區別がある。我々が分󠄃析によつて得た幾つかの抽象的槪念契󠄅機を結合して「いき」の存在を構󠄃成し得るやうに考へるのは、旣に意味體驗としての「いき」をもつてゐるからである。
意味體驗としての「いき」と、その槪念的分󠄃析との間にかやうな乖離的關係が存するとすれば、「いき」の槪念的分󠄃析は、意味體驗としての「いき」の構󠄃造󠄄を外部より了得せしむる場合に、「いき」の存在の把握に適󠄃切なる位地と機會とを提供する以外の實際的價値をもち得ないであらう。例へば、日本の文󠄃化󠄃に對して無知な或る外國人に我々が「いき」の存在の何たるかを說明する場合に、我々は「いき」の槪念的分󠄃析によつて、彼を一定の位置に置く。それを機會として彼は彼自身の「內官」によつて「いき」の存在を味得しなければならない。「いき」の存在會得に對して槪念的分󠄃析は、この意味に於ては、單に「機會原因」より外のものではあり得ない。しかしながら槪念的分󠄃析の價値は實際的價値に盡きるであらうか。體驗さるる意味の論理的言表の潛勢性を現勢性に化󠄃せんとする槪念的努力は、實際的價値の有無または多少を規矩とする功利的立場によつて評󠄃價さるべき筈のものであらうか。否。意味體驗を槪念的自覺に導󠄃くところに知的存在者󠄃の全󠄃意義が懸つてゐる。實際的價値の有無多少は何等の問題でもない。さうして、意味體驗と槪念的認󠄃識󠄂との間に不可通󠄃約的な不盡性の存することを明かに意識󠄂しつつ、しかもなほ論理的言表の現勢化󠄃を「課題」として「無窮」に追󠄃跡するところに、まさに學の意義は存するのである。「いき」の構󠄃造󠄄の理解もこの意味において意義をもつことを信ずる。
しかし、曩にも云つたやうに、「いき」の構󠄃造󠄄の理解をその客觀的表現に基礎附けようとすることは大なる誤󠄄謬である。「いき」はその客觀的表現にあつては必ずしも常に自己の有する一切のニュアンスを表はしてゐるとは限らない。客觀化󠄃は種々の制約の拘束の下に成立する。從つて、客觀化󠄃された「いき」は意識󠄂現象としての「いき」の全󠄃體をその廣さと深さにおいて具󠄄現してゐることは稀である。客觀的表現は「いき」の象徵に過󠄃ぎない。それ故に「いき」の構󠄃造󠄄は、自然形式または藝術󠄃形式のみからは理解出來るものではない。その反對に、これらの客觀的形式は、個人的もしくは社󠄃會的意味體驗としての「いき」の意味移入によつて初めて生かされ、會得されるものである。「いき」の構󠄃造󠄄を理解する可能性は、客觀的表現に接觸して quid を問ふ前󠄃に、意識󠄂現象のうちに沒入して quis を問ふことに存してゐる。およそ藝術󠄃形式は人性的一般または異性的特殊の存在樣󠄂態に基いて理解されなければ眞󠄃の會得ではない(二〇)。體驗としての存在樣󠄂態が模樣󠄂に客觀化󠄃される例としては、ドイツ民族の有する一種の內的不安が不規則的な模樣󠄂の形を取つて、旣に民族移住時代から見られ、更󠄃にゴシツクおよびバロツクの裝飾󠄃にも顯著󠄄な形で現はれてゐる事實がある。建󠄄築においても體驗と藝術󠄃形式との關係を否み得ない。ポール・ヴアレリーの「ユーパリノス或ひは建󠄄築家」のうちで、メガラ生れの建󠄄築家ユーパリノスは次󠄄のやうに云つてゐる。『ヘルメスのために私が建󠄄てた小さい神󠄃殿、直ぐそこの、あの神󠄃殿が私にとつて何であるかを知つてはゐまい。路ゆく者󠄃は優美な御堂を見るだけだ――僅かのものだ、四つの柱、極めて單純な樣󠄂式――だが私は私の一生のうちの明るい一日の思出をそこに込󠄃めた。おお、甘い変身メタモルフオーズよ。誰も知る人は無いが、このきやしやな神󠄃殿は、私が嬉しくも愛した一人のコリントの乙女の數󠄄學的形像だ。この神󠄃殿は彼女獨特の釣合を忠實に現はしてゐるのだ(二一)』。音󠄃樂においても浪漫派󠄄または表現派󠄄の名稱をもつて總括し得る傾向はすべて體驗の形式的客觀化󠄃を目標としてゐる。旣にマシヨオは戀人ペロンヌに向つて『私のものはすべて貴女の感情󠄃で出來た』と吿げてゐる(二二)。またシヨパンは「ヘ」短調󠄃司伴󠄃樂の第二樂章の美しいラルジエツトがコンスタンチア・グラコウスカに對する自分󠄃の感情󠄃を旋律化󠄃したのであることを自ら語つてゐる(二三)。體驗の藝術󠄃的客觀化󠄃は必ずしも意識󠄂的になされることを必要󠄃としない。藝術󠄃的衝動は無意識󠄂的に働く場合も多い。しかしかかる無意識󠄂的創造󠄄も體驗の客觀化󠄃に外ならない。卽ち個人的または社󠄃會的體驗が、無意識󠄂的に、しかし自由に形成原理を選󠄄擇して、自己表現を藝術󠄃として完了したのである。自然形式においても同樣󠄂である。身振その他の自然形式は屢々無意識󠄂のうちに創造󠄄される。いづれにしても、「いき」の客觀的表現は意識󠄂現象としての「いき」に基礎附けて初めて眞󠄃に理解されるものである。
なほ、客觀的表現を出發點として「いき」の構󠄃造󠄄を闡明しようとする者󠄃の殆んど常に陷る缺點がある。卽ち、「いき」の抽象的、形相的理解に止つて、具󠄄體的、解釋的に「いき」の特異なる存在規定を把握するに至らないことである。例へば、『美感を與へる對象』としての藝術󠄃品の考察に基いて『粹の感』の說明が試みられる(二四)。その結果として、『不快の混入』といふごとき極めて一般的、抽象的な性質より捉へられない。從つて「いき」は漠然たる raffiné のごとき意味となり、一方に「いき」と澁味との區別を立て得ないのみならず、他方に「いき」のうちの民族的色彩󠄃が全󠄃然把握されない。さうして假りにもし「いき」がかくのごとき漠然たる意味よりもつてゐないものとすれば、西洋の藝術󠄃のうちにも多くの「いき」を見出すことが出來る筈である。卽ち「いき」とは『西洋に於ても日本に於ても』『現代人の好む』何ものかに過󠄃ぎないことになる。しかしながら、例へばコンスタンタン・ギイやドガアやフアン・ドンゲンの繪が果して「いき」の有するニユアンスを具󠄄有してゐるであらうか。また、サンサンス、マスネエ、ドウビユツシイ〔ママ〕、リヒアルド・スユトラウスなどの作品中の或る旋律を捉へて嚴密なる意味において「いき」と名附け得るであらうか。これらは恐󠄃らく肯定的に答へることは出來ないであらう。旣に云つたやうに、この種の現象と「いき」との共通點を形式化󠄃的抽象によつて見出すことは必ずしも困難ではない。しかしながら、形相的方法を採󠄃ることはこの種の文󠄃化󠄃存在の把握に適󠄃した方法論的態度ではない。然るに客觀的表現を出發點として「いき」の闡明を計る者󠄃は多くみなかやうな形相的方法に陷るのである。要󠄃するに「いき」の硏究をその客觀的表現としての自然形式または藝術󠄃形式の理解から始めることは徒勞に近い。先づ意識󠄂現象としての「いき」の意味を民族的具󠄄體において解釋的に把握し、然る後その會得に基いて自然形式および藝術󠄃形式に現はれたる客觀的表現を妥󠄃當に理解することが出來るのである。一言にして云へば、「いき」の硏究は民族的存在の解釋學としてのみ成立し得るのである。
民族的存在の解釋としての「いき」の硏究は、「いき」の民族的特殊性を明かにするに當つて、たまたま西洋藝術󠄃の形式のうちにも「いき」が存在するといふやうな發見によつて惑はされてはならぬ。客觀的表現が「いき」そのものの複雜なる色彩󠄃を必ずしも完全󠄃に表はし得ないとすれば、「いき」の藝術󠄃形式と同一のものをたとへ西洋の藝術󠄃中に見出す場合があつたとしても、それを直ちに體驗としての「いき」の客觀的表現と看做し、西洋文󠄃化󠄃のうちに「いき」の存在を推定することは出來ない。またその藝術󠄃形式によつて我々が事實上「いき」を感じ得る場合が假りにあつたとしても、それは旣󠄁に民族的色彩󠄃を帶びた我々の民族的主觀が豫想されてゐる。その形式そのものが果して「いき」の客觀化󠄃であるか否かは全󠄃くの別問題である。問題は畢竟、意識󠄂現象としての「いき」が西洋文󠄃化󠄃のうちに存在するか否かに歸着する。然らば意識󠄂現象としての「いき」を西洋文󠄃化󠄃のうちに見出すことが出來るであらうか。西洋文󠄃化󠄃の構󠄃成契機を商量するときに、この問は否定的の答を期待するより外はない。また事實として、たとへばダンデイズムと呼ばるる意味は、その具󠄄體的なる意識󠄂層󠄃の全󠄃範圍に亙つて果して「いき」と同樣󠄂の構󠄃造󠄄を示し、同樣󠄂の薰と同樣󠄂の色合とをもつてゐるであらうか。ボオドレエルの「惡の華」一卷は屢々「いき」に近󠄃い感情󠄃を言表はしてゐる。「空󠄃無の味」のうちに『わが心、諦󠄂めよ』とか、『戀ははや味ひをもたず』とか、または『讚むべき春は薰を失ひぬ』などの句がある。これらは諦󠄂めの氣分󠄃を十分󠄃に表はしてゐる。また「秋の歌」のうちで『白く灼くる夏を惜しみつつ、黃に柔かき秋の光を味はしめよ』と云つて人生の秋の黃色い淡い憂愁を描いてゐる。「沈潛󠄄」のうちにも過󠄃去を擁する止揚の感情󠄃が表はされてゐる。さうして、ボオドレエル自身の說明(二五)によれば、『ダンデイズムは頽廢期における英雄主義の最後の光であつて……熱がなく、憂愁にみちて、傾く日のやうに壯美である』。また『élégance の敎說』として『一種の宗敎』である。かやうにダンデイズムは「いき」に類󠄃似した構󠄃造󠄄をもつてゐるには相違󠄄ない。しかしながら、『シーザーとカテイリナとアルキビアデスとが顯著󠄄な典型を提供する』もので、殆んど男性に限り適󠄃用される意味內容である。それに反して、『英雄主義』が、か弱󠄃い女性、しかも「苦界」に身を沈めてゐる女性によつて迄も呼吸されてゐるところに「いき」の特彩󠄃がある。またニイチエのいふ『高貴』とか『距離の熱情󠄃』なども一種の「意氣地」に外ならない。これらは騎士氣質から出たものとして、武士道󠄃から出た「意氣地」と差別し難󠄇い類󠄃似をもつてゐる(二六)。しかしながら、一切の肉を獨斷的に呪つた基督敎の影響󠄉の下に生立つた西洋文󠄃化󠄃にあつては、尋󠄃常の交涉以外の性的關係は、早くも唯物主義と手を携へて地獄に落ちたのである。その結果として、理想主義を豫想する「意氣地」が、媚態をその全󠄃延長に亙つて靈化󠄃して、特殊の存在樣󠄂態を構󠄃成する場合は殆んど見ることが出來ない。『女の許へ行くか。笞を忘るるな(二七)』とは老婆がツアラトウストラに與へた勸吿であつた。なほ一步を讓つて、例外的に特殊の個人の體驗として西洋の文󠄃化󠄃にも「いき」が現はれてゐる場合があると假定しても、それは公󠄃共圈に民族的意味の形で「いき」が現はれてゐることとは全󠄃然意義を異にする。一定の意味として民族的價値をもつ場合には必ず言語の形で通󠄃路が開かれてゐなければならぬ。「いき」に該當する語が西洋にないといふ事實は、西洋文󠄃化󠄃にあつては「いき」といふ意識󠄂現象が一定の意味として民族的存在のうちに場所󠄃をもつてゐない證據である。
かやうに意味體驗としての「いき」がわが國の民族的存在規定の特殊性の下に成立するに拘はらず、我々は抽象的、形相的の空󠄃虛の世界に墮して了つてゐる「いき」の幻影に出逢ふ場合が餘りにも多い。さうして、喧しい饒舌や空󠄃しい多言は、幻影を實有のごとくに語るのである。しかし、我々はかかる「出來合」の類󠄃槪念によつて取交󠄄される flatus vocis に迷󠄃はされてはならぬ。我々はかかる幻影に出逢つた場合、『嘗て我々の精󠄃神󠄃が見たもの(二八)』を具󠄄體的な如實の姿󠄄において想起󠄃しなければならぬ。さうして、この想起󠄃は、我々をして「いき」が我々のものであることを解釋的に再認󠄃識󠄂せしめる地平󠄃に外ならない。但し、想起󠄃さるべきものはいはゆるプラトン的實在論の主張するがごとき類󠄃槪念の抽象的一般性ではない。却つて唯名論の唱道󠄃する個別的特殊の一種なる民族的特殊性である。この點において、プラトンの認󠄃識󠄂論の倒逆󠄃的轉換が敢てなされなければならぬ。然らばこの意味の想起󠄃アナムネシスの可能性を何によつて繫ぐことが出來るか。我々の精󠄃神󠄃的文󠄃化󠄃を忘却のうちに葬り去らないことによるより外はない。我々の理想主義的非現實的文󠄃化󠄃に對して熱烈なるエロスをもち續けるより外はない。「いき」は武士道󠄃の理想主義と佛敎の非現實性とに對して不離の內的關係に立つてゐる。運󠄃命によつて「諦󠄂め」を得た「媚態」が「意氣地」の自由に生き(二九)るのが「いき」である。人間の運󠄃命に對して曇らざる眼をもち、魂の自由に向つて惱ましい憧憬を懷く民族ならずしては媚態をして「いき」の樣󠄂態を取らしむることは出來ない。「いき」の核心的意味は、その構󠄃造󠄄󠄄がわが民族存在の自己開示として把握されたときに、十全󠄃なる會得と理解とを得たのである。
主体にさせたい。これは響くね。
うんこの話も、すごく理解できます。汚いと言うのは、そう言った事でないです。女性は子供のうんこ💩を汚いとは、私は思ったことありません。😊
日本人は純粋で優しいから、全体主義体制に乗せられやすいのだろうか!?
お坊っちゃまくんの
お父さん、かなりイケてる
ギャグだけど😃
日本人は目覚める時が来るのでしょうか😭永遠に来ないのではないですか😭
ごめんなさい、それについては、僕はただ自分の直感でしか語ることができません、、、
本当に、申し訳ありません、、🥲🥲
ちゃんと理論立てて、証拠も揃えてコメントできれば、理想的なんですが、、
こんな、大阪のアホなオッサンに、そんなん無理に決まってるやん! 😭😭😭 無理いわんとってくれやー😥😥
それをご承知の上で、もしも気が向いたら、僕のコメントをお読み下さいね🙏
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
大丈夫だと思いますよ! 「目覚め」は一部でもう既に始まってます!
まさにこの動画なんて、その「証拠」でしか、ありません👆
が、日本人全体が変わるのは、まだまだ先だと思います、、
僕の勘では、一度、世代交代して、日本人の中心世代(社会を動かす現役の大人たちのことです)が、
入れ替わるまでは、日本は変わらないと思います
(好きな言葉じゃないですけど、この場合に限って「老害」という単語がハマり過ぎで、打ち込んでて笑っちゃいました!😂😂😂)
僕の(60歳が目前、、🥶)の目には、今の20〜30代の若者たちの姿からは、
明るい希望しか見えません😊😊😊
そりゃ、アホバカも、才気走ってるのも、いますけど、それは単なる個性であって、
全部まとめて今後は、大丈夫ですわーw みんな仲良くニコニコと生きていけます!
ですから、どうかご安心くださいね
今の中心世代は最悪な、まさに「老害」なので、嫌なことも沢山ありますが、
(でも、嫌わないで! 当の本人たちも、ワザとやってるワケじゃないですから!!
今までみたいな最悪な世の中で生きていても、
必死になって全員が、少しだけでも良く生きようと、足掻き続けてきた人たちなんですから!
ある意味、若者が心から、敬愛すべき偉人たちです)
あと、30年ぐらいの辛抱です!✨✨✨ (日本限定です、、。他の国は一体いつまでかかることか、、、😭😭😭)
昨今は西郷の汚い部分を嫌う「清廉潔白な敗者」が保守を自称するケースが増えていますね。鬼滅の刃については、あれはあれでいいと思います。少年漫画ですので、子供の読み物としては。
マッカーサーと天皇が並んでいる、写真の話、私も父親の姿は、天皇ですね❤❤❤😊
3:57 西部邁東大教授と舛添要一東大准教授が中沢新一東京外大助手を東大に入れようとしたが、教授陣の反対により失敗し、舛添要一都知事なら中沢新一東大教授になれた?!NOW中沢新一京大教授みたいな卍
一般人の言葉だったと思うんですがね・・・
明治以降、男は徴兵されて死ぬかもしれない、という公的な使命を背負っていきているので女もその心づもりでそれに応じたと。かくして父権と母権が確立されたかと。
戦後、男がいなくなったというのは、つまりは父親がいなくなったと。ただ、一度や二度は体をハッタリ、立場を顧りみずに助けてもらったことがあれば、まだ大丈夫かなと思ったりする。
ファンだと、信者だと戦力にならないとWまあわかりますがねW言いたいことはW
まあ、しかしねえ。浜崎さん。ちょっとやりすぎじゃないのかねえ・・・こうまでアケスケに全部しゃべっちまうとすりゃあ・・・
まあ、友人はいなくなるなあW
最後のアイドルと、西郷の話はまあ通常は話せないのではなく話さないのだろうけれどW
しかしまあ、羽賀ヒカル氏はおおよそは同世代・・・やりやすかったんでしょうねえW
他の識者は年長者ばかりW藤井聡に水島総にW
あるいは室伏謙一でも少し上になるかW
三橋貴明は経営者で理屈っぽいから少し違うW
あるいは他に、理性、感性、論理、情緒含めてを総合的に気が合いそうなのは森永康平ぐらいかなW
人間交際や社交において、知識や、テクニック、期間、関わりの濃淡ではないということが如実に表れていて大変参考になりましたよW
あるい藤井聴との関わりを見ているとW世代は関係ないかなと思ったりするW
京大になぜノーベル賞受賞者が多いかというと、京大の裏に松陰神社があるからだと言った藤井聡の答えを聞いた浜崎氏は、「さすがだな!と思った!」とどっかで仰せだったが、ああいう歓喜というか、賛嘆の声は、中々でてくるものじゃあないW
後は、滝行まではじめた茂木誠か、適度な緊張感を漂わせる与那覇潤か・・・
と、ここまで書いてみると・・・羽賀ヒカルは広義の意味合いで浜崎洋介の専門分野とは外れており、また感性的な物言いが多いので論理で切り分けていく浜崎洋介という人物は、感覚的、あるいは情緒的なものの言い方や表現をする対談者である、秋山真人や小名木善幸とは別の喜びがあったように思われる。自ら生き生きとしてると評した通り、非常に新鮮そうでで実にたのしそうだった。
浜崎洋介は茂木誠に「村上春樹はどうなんですか?」と聞かれて・・・
「村上春樹はお好きなんですか?」と念の為に礼儀正しく配慮を見せて、
茂木が「いや・・・」というと「あ、よかった^^」と言って批判を始めたが・・・
一年程前だったか・・・・茂木氏への畏敬の念というか・・・・そういうものを表現してみせたというか・・・
当時はよほど年長の面倒くさい思想オヤジ達に辟易としてたんだろうかと思ったりしたものの・・・
ここではいきなり「村上春樹のような非現実的な小説が・・・云々と・・・
おっぱじめたので・・・・感覚的に気線があるというか・・・
同調性があったのだろう。
あるいは、「何い村上を貶すとはケシカラン!」というような雰囲気はまったくないので、安心というか、専門外の人物が教えをこうという羽賀ヒカルの姿勢の賜物というべきか?どちらもアケスケに物をいえるので何かとよかったんだろうなとW
引き続き、続編をお待ちもうしあげますよ^^
視聴していて大変に心地が良かったW
そうだろWそうだよなWと思わずうなずいた多くの視聴者がいたに違いないW
補記
ことわざを知る辞典 の解説
人はパンのみにて生くるものにあらず
人は物質的に満足すればそれでよいというものではない。物質だけではなく、精神的に満たされることを求めて生きる存在である。
[使用例] なるほど人間はパンのみで生きるものではない〈略〉しかし、学問とか賢さによって、世のためになる人の給与が、今日、不当に安すぎるのではないだろうか[松下幸之助*仕事の夢・暮しの夢|1960]
[解説] 「旧約聖書―申命記・八」にあるモーゼの言葉、およびこれを引用した「新約聖書―マタイ伝・四」にあるイエスのことばに由来します。聖書は神のことば(信仰)によって生きるとしていますが、日本では必ずしも聖書の文脈
・講談
(こうだん)とは、演者が高座におかれた釈台(しゃくだい)と呼ばれる小さな机の前に座り、張り扇(はりおうぎ)でそれを叩いて調子を取りつつ、軍記物(軍記読み)や政談など主に歴史にちなんだ読み物を観衆に対して読み上げる日本の伝統芸能のひとつ。
・落語
(らくご)は、江戸時代の日本で成立し、現在まで伝承されている伝統的な話芸の一種である。最後に「落ち(サゲ)」がつくことをひとつの特徴としてきた経緯があり、「落としばなし」略して「はなし」ともいう[1]。「はなし」は「話」または「噺」とも表記する。
都市に人口が集積することによって市民・大衆のための芸能として成立した。成立当時はさまざまな人が演じたが、現在はそれを職業とする落語家によって演じられることが多い。
能楽や歌舞伎など他の伝統芸能と異なり、衣装や道具、音曲に頼ることは比較的少なく、ひとりで何役も演じ、語りのほかは身振り・手振りのみで物語を進め、また扇子や手拭を使ってあらゆるものを表現する[1][2]。
・能
(のう)は、日本の伝統芸能である能楽の一分野。能面を用いて行われる。
江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治維新後のことである。
.・狂言(きょうげん)は、猿楽から発展した日本の伝統芸能で、猿楽の滑稽味を洗練させた笑劇。明治時代以降は、能および式三番とあわせて能楽と総称する。
・動機づけ
(どうきづけ、motivation/mòʊṭəvéɪʃən(米国英語)、m`əʊṭəvéɪʃən(英国英語)、モチベーション)とは、行動を始発させ、目標に向かって維持・調整する過程・機能。
動機づけは人間を含めた動物の行動の原因であり、行動の方向性を定める要因と行動の程度を定める要因に分類できる。動物が行動を起こしている場合、その動物には何らかの動機づけが作用していることが考えられる。またその動物の行動の程度が高いかどうかによってその動機づけの強さの違いが考えられる。
・達成動機づけ
達成動機づけとは、評価を伴う達成状況において高いレベルで目標を達成しようとする形態の動機づけを言う。ジョン・アデアは何が人に動機を与えるかを理解することは、その人たちの関心を引き労力を集中させるために必要不可欠であると論じている。行動へとつながる意思は動機によって支配され、この動機とは人の内にある心理的要求や欲求であり、それは意識的か半意識的か無意識的かを問わない。動機はメインの動機の周りを他の動機が取り囲んだ形の混合体である場合もあると論じている。[2]
マレーはこの達成動機づけを達成要求の観点から考え、人間は独力を以って高水準の目標を達成しようとする欲求があり、これによって行動が規定されると仮定し、達成動機には成功願望と失敗恐怖の二つの欲求から構成されると論じた。またアトキンソンは成功願望と失敗恐怖の二つの達成要求だけのパーソナリティの安定的側面だけでなく、流動的な周囲状況の期待感や価値観が重要だと考え、成功と失敗の価値及び成功と失敗の期待も強く影響すると論じた。
また達成行動には行動の結果の原因をどのように考えるのかにも強く影響する。結果の原因としては能力、努力、問題の困難性、偶然性の四要素を考えることが一般的であり、達成動機が高い人は内的要因である能力や努力に原因が帰属すると考える傾向が強い一方で達成動機が弱い人は外的要因である問題の困難性や偶然性に原因が帰属すると考える傾向が強い。
・内発的動機づけ
内発的動機づけとは好奇心や関心によってもたらされる動機づけであり、賞罰に依存しない行動である。これは特に子供は知的好奇心が極めて高いために幼児期によく見られる動機づけである。たとえばある子供がTVゲームに熱中しているとき、その子供は賞罰による動機付けによってではなく、ただ単にゲームが楽しいからという内発的な動機によりそれに熱中するのである。くわえて知的好奇心だけでなく、自分で課題を設定してそれを達成しようとするような状況においては自分が中心となって自発的に思考し、問題を解決するという自律性、また解決によってもたらされる有能感が得られ、動機づけとなり得る。
一般的に内発的動機づけに基づいた行動、例えば学習は極めて効率的な学習を行い、しかも継続的に行うことができる。これを育てるためには挑戦的、選択的な状況を想定して問題解決をさせることが内発的動機づけを発展させるものと考えられる。内発的動機には感性動機、好奇動機、操作動機、認知動機などがある[3]。
・外発的動機づけ
外発的動機づけとは義務、賞罰、強制などによってもたらされる動機づけである。内発的な動機づけに基づいた行動は行動そのものが目的であるが、外発的動機づけに基づいた行動は何らかの目的を達成するためのものである。たとえばテストで高得点を取るためにする勉強や、昇給を目指して仕事を頑張る場合などがそれにあたる。強制された外発的動機づけが最も自発性が低い典型的な外発的動機づけであるが、自己の価値観や人生目標と一致している場合は自律性が高まった外発的動機づけと考えられる。外発的動機づけは内発的動機づけと両立しうるものであり、また自律性の高い外発的動機づけは内発的動機づけとほぼ同様の行動が見られる。
・岸田 秀(きしだ しゅう、1933年12月25日 - )は、日本の心理学者・精神分析学者・エッセイスト・翻訳家。和光大学名誉教授。
主著に『ものぐさ精神分析』(1977年)があり、翻訳書も多数著している。 『ものぐさ精神分析』が話題になり、思想界を担う存在に。「人間は本能の壊れた動物である」とし、独自の唯幻論を提言する。
妻は、文化人類学者の船曳建夫の実姉。
・村上 春樹(むらかみ はるき、1949年(昭和24年)1月12日 - )は、日本の小説家・翻訳家。
京都府京都市伏見区に生まれ、兵庫県西宮市・芦屋市に育つ。早稲田大学在学中にジャズ喫茶を開く。1979年、『風の歌を聴け』で群像新人文学賞を受賞しデビュー。1987年発表の『ノルウェイの森』は2009年時点で上下巻1000万部を売るベストセラーとなり[2]、これをきっかけに村上春樹ブームが起きる。代表作に『羊をめぐる冒険』、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』、『ねじまき鳥クロニクル』、『海辺のカフカ』、『1Q84』などがある。それらの作品は、50ヵ国語以上で翻訳されている。
日本国外でも人気が高く、柴田元幸は村上を現代アメリカでも大きな影響力をもつ作家の一人と評している[3]。2006年、フランツ・カフカ賞をアジア圏で初めて受賞し[4]、以後日本の作家の中でノーベル文学賞の最有力候補と見なされている[注 1]。精力的に、フィッツジェラルドやチャンドラーの作品などを翻訳。また、随筆・紀行文・ノンフィクション等も多く出版している。
西部邁は、西洋文明の申し子で国学だとか、保守だとかいうわけでもなさそうな気がする。そういう次第で浜崎氏も腑分けされるような気分で、西部邁氏とお付き合いされていったのかと。思ったりする。それにしてもお見事なもんだなあ、と改めて西部氏を再評価することになる。
彼は、人生は一人の守るべき女性と、得難き友がいれば、という類のことを仰せだったが、福田和也によれば一生懸命話せば2時間でも、3時間でも話しているが、つまらないことをペラペラ話すような奴であれば高級官僚だろうが、どこぞの事務次官だろうが「黙れこのバカ!」と平気で叱り飛ばしてみているほうが冷や冷やしたとのことだったが。
スノビッシュなバナナが大嫌い・・・とそんなとこだろうか。晩年に至る少し以前、一度だけ講演の場で講演の紹介者に挨拶をしに行った時にお目にかかったが、慎ましくあるいは遠慮深く、狎れ狎れしく挨拶をするようなことはしなかったが、知識や能力ではなく、若い人(当時)と会話するのがお好みであったかのように見えた。お客様に媚びるのでもなく、迎合するのでもなく、好好爺然として嬉しそうだった、同会場で宮台真司氏の書籍即売場でをお見掛けしたが、過激な言質と日常の振る舞いのソフトさに照れ臭さそうでもあったことが印象的ではあった。つまり、愛読者に対して媚が現れていることを恥じたという風にも見えた。
人生、国家、共同体、意志疎通、等々を含めたものであったかとも思われるが、晩年にお会いした浜崎氏は拷問のようだったと、語っておられたが、衣鉢を継ぐ立場では、さぞ大変だったことであろうかと聊か同情する。社交というご指摘もご本人にそっくりな気がする。西部氏の論理より、生身のほうが彼本人をよく表していると思われる。
「クリティーク」一般的にはあまり耳慣れない言葉でしょうか? 最近は研究論文をまとめる過程において使われるようになってきた言葉です。 クリティークとは「評価、検討、判断」を行うことだとされています。 分かりやすく説明すると、みつけた論文に対して「良いところ、悪いところ」を批評する作業になります。
補記
西欧文明の起源の粋な人達
・ソロンは、古代アテナイの政治家、立法者、詩人、本名は不明。当時のアテナイにおいて、政治・経済・道徳の衰退を防ごうとして法の制定に努めたことで有名である。この一連の法制定はソロンの改革と呼ばれ、短期間のうちに失敗したが、アテナイの民主主義の基礎を築いたとして、しばしば高い評価を受けている。
・ミルティアデス(希: Μιλτιάδης、Miltiades、紀元前550年頃 - 紀元前489年)は、アテナイの軍人。ヘレスポントスのケルソネソスの僭主であったが、イオニアの反乱以後、アテナイに戻って将軍となり、マラトンの戦いでアテナイ・プラタイア連合軍を率いてペルシア軍を破った。
・テミストクレス(テミストクレース、希: Θεμιστοκλής、英: Themistocles、紀元前524年から520年頃 - 紀元前459年から455年頃)は、 アテナイの政治家・軍人[1]。紀元前493年から紀元前492年まで(諸説あり)、アテナイのエポニュモス・アルコーン(英語版)(執政官)を務め、アテナイをギリシア随一の海軍国に成長させ、ペルシア戦争の勝利を導いた。
1955年からギリシャで発行されていた旧100ドラクマ紙幣に肖像が使用されていた
・トゥキュディデス(トゥーキュディデース、古希: Θουκυδίδης, Thukydides/Thucydides、紀元前460年頃 - 紀元前395年)は、古代アテナイの歴史家で、オロロス (Olorus) の子である。ツキジデスなどとも[1]。
略歴
代表作は、ペロポネソス戦争を実証的立場から著した『戦史(ペロポネソス戦争の歴史)』(Ιστορία του Πελοποννησιακού Πολέμου) である。トゥキュディデスは、この戦争に将軍として一時参加したが、紀元前422年のトラキア・アンフィポリス近郊での失敗により失脚、20年の追放刑に処された。このためスパルタの支配地にも逗留したことがあり、この時の経験によって双方を客観的に観察することができたとも言える。また、トゥキュディデスの罠などの概念を生み出したと伝えられる。
・レオニダス1世(古希: Λεωνίδας、ラテン文字転記:Leonidas I、 ?-紀元前480年、在位:紀元前489年 - 紀元前480年)は、アギス朝のスパルタ王である。第二次ペルシャ戦役中のテルモピュライの戦いに300人のスパルタ兵士と共に参戦し、20万人以上と伝えられるペルシア軍にも互角以上に渡り合い、最期は壮絶な死を遂げた。その名声はギリシア中に轟き、スパルタ随一の英雄とされた。
・レオニダス2世(希: Λεωνίδας Β'、ラテン文字転記:Leonidas II、紀元前315年 - 紀元前235年、在位:紀元前254年 - 紀元前240年/紀元前240年 - 紀元前235年)はアギス朝のスパルタ王である。
略歴・人物
レオニダス2世はクレオメネス2世の孫で、王にならなかったクレオニュモスの息子である。レオニダスは成人に達していなかったアレウス2世の後見人を務め、その死後には老齢にもかかわらずその王位を継いだ[1][2]。
・ヘロドトス(ヘーロドトス、古希: Ἡρόδοτος, Hēródotos、羅:Herodotus、紀元前484年頃 - 紀元前425年頃)は、古代ギリシアの歴史家である。歴史という概念の成立過程に大きな影響を残していることから、歴史学および史学史において非常に重要な人物の1人とされ、しばしば「歴史の父」とも呼ばれる。
彼が記した『歴史』は、完本として現存している古典古代の歴史書の中では最古のものであり、ギリシアのみならずバビロニア、エジプト、アナトリア、クリミア、ペルシアなどの古代史研究における基本史料の1つである。
生没年は不詳であり、生年は大雑把に前490年から前480年までの間とするのが定説である[1]。前484年説がしばしば採用されるが、明確な根拠を伴ったものではない[1][2]。没年は前430年以降であることは明白であるが、これも正確には不明である[3]。概ね前490年-前480年の間に生まれ、前430年から前420年の間に、60歳前後で死亡したとするのが一般的である[3]。
・ペリクレス(ペリクレース、古希: Περικλῆς、紀元前495年? - 紀元前429年)は、古代アテナイの政治家・将官であり、アテナイの最盛期を築き上げた重鎮として有名である。また、彼と愛人アスパシアとの間に生まれた庶子で、後に軍人になった小ペリクレス(英語版)と区別して大ペリクレスとも呼ばれる。
・ソクラテス(ソークラテース、英語: Socrates[2]、古代ギリシア語: Σωκράτης Sōkrátēs ギリシア語発音: [sɔːkrátɛːs]、紀元前470年頃 - 紀元前399年[3][4])は、アテナイ出身の古代ギリシアの哲学者である[5][6]。西洋哲学の基礎を築いた人物の1人として、特に、西洋道徳哲学(倫理学)の伝統における最初期の道徳哲学(倫理学)者の1人[5][6]として認識されている[7][8][9]。謎めいた人物であり、ソクラテス自身は一切の著述を行わなかったため、弟子の主に彼の死後に執筆を行った古代の作者たち、特に彼の弟子のプラトンとクセノフォンの著作を通して知られている。 同年代の他の出典としては、アンティステネス、アリスティッポス、スフェトスのアエシネス(英語版)の著作がある。劇作家のアリストファネスは、ソクラテスの存命中にソクラテスに言及した演劇を執筆した同年代の主な作家であるが、キオス島のイオン(英語版)の断片である『旅行記』(英語: Travel Journal)は、ソクラテスの若さに関する重要な情報を提供している[10][11]。
プラトンの対話篇は、古代から残されたソクラテスに関する最も包括的な著述であり、この著作により、倫理学と認識論の分野でのソクラテスの貢献が知られるようになった。ソクラテスのアイロニーやソクラテスの対話法、あるいはエレンコス(英語: elenchus、反対論証)を有名にしたのは、このプラトンが描いたソクラテスである。しかし、実在したソクラテスとプラトンの対話篇でのソクラテスの描写との違いに関しては、疑問が残されている[12]。
ソクラテスは、後代の古代の哲学者たちと現代の哲学者たちに絶大な影響を及ぼした。芸術、文学、ポピュラーカルチャーの中でのソクラテスの描写により、ソクラテスは西洋哲学伝統の中で最も広く知られる人物の一人になった[13]。
釈迦、キリスト、孔子と並び四聖人(四聖)に数えられる[14]。
・アルキビアデス(古代ギリシア語: Αλκιβιάδης / Alkibiádēs、紀元前450年頃 - 紀元前404年)は、アテナイの政治家、軍人。ソクラテスの弟子である。アテナイの政敵により一時追放されたため敵国スパルタに味方し、結果的にペロポネソス戦争でアテナイを敗戦に導いた。
西部邁を評価できる身近な理由
・『饗宴』(きょうえん、古希: Συμπόσιον、シュンポシオン、羅: Symposium)は、プラトンの中期対話篇の1つ。副題は「エロース(ἔρως、erōs)について」[1][2]。
構成
パレロンの位置。図の中央下。
ダイバーの墓のフレスコ画に描かれたシュンポシオン。
饗宴。アンゼルム・フォイエルバッハの描画(1873年)
登場人物
後代話者
アポロドロス(Apollodorus of Phaleron) - アテナイ近郊の漁村パレロン出身のソクラテスの友人・崇拝者。激情家として知られ、ソクラテス臨終の際には大声で泣き喚いた様が『パイドン』に描かれている。
友人(グラウコン[3])
回想部話者
アリストデモス - アテナイのキュダテナイオン区出身のソクラテスの友人。回想は彼視点で語られる。
ソクラテス - 53歳頃。
アガトン - 悲劇詩人。ゴルギアスの弟子。饗宴の主催者。
パウサニアス - アテナイのケラメス区出身。アガトンの恋人。プロディコスの生徒。
パイドロス - アテナイのミュリノス区出身。弁論作家リュシアスの心酔者。彼を冠した対話篇もある。
エリュクシマコス - 医者。
アリストパネス - 喜劇詩人。『雲』によって、ソクラテスに対する大衆の偏見を広めた(『ソクラテスの弁明』)。
アルキビアデス - 容姿端麗な名家の子息にして、政治・軍事指導者。ペロポネソス戦争では主戦論を展開し、ちょうど本作回想部の設定年代(紀元前416年[4])の翌年である紀元前415年、ニキアスの和約を破り戦争再開、その後亡命生活を繰り返すなど波乱の人生を送る。彼の師と看做されていたことが、ソクラテスが告発される一因となった(『ソクラテスの弁明』)。初期対話篇『プロタゴラス』にも登場。
時代・場面設定
紀元前400年[4]頃のアテナイ。アポロドロスは友人に、紀元前416年[4]にあった饗宴の話を教えてほしいとせがまれる。
アポロドロスは、ついこの間も、別の知人からその話をせがまれたことを明かしつつ、その饗宴は自分達が子供の頃のかなり昔の話であり、自分も直接そこにいたわけではないが、そこに居合わせたキュダテナイオン区のアリストデモスというソクラテスの友人・敬愛者から、詳しい話を聞いて知っていること、また、その知人にパレロンの自宅からアテナイ市内までの道を歩きがてら、語って聞かせたので、話す準備はできていることを述べつつ、アリストデモスが述べたままに、回想が語られる。
紀元前416年、アテナイの悲劇詩人アガトンが悲劇のコンクールで初優勝した翌日、アガトンの邸宅での祝賀饗宴に招かれているソクラテスが、身なりを整えているところに、アリストデモスは出くわし、一緒についていくことになった。アガトンの邸宅に着くと、既に友人達が集っており、ちょうど食事をするところだった。食事を終え、エリュクシマコスが今夜は演説で時を過ごそうと提案、論題を「エロース」に設定し、順々に演説を行っていくことになる。
翌朝、ソクラテスが帰るまでが描かれる。
・シンポジウム (symposium) は、「研究発表会」「討論会」をさす言葉。
語源
συμπίνειν (sympinein)(意味は to drink together、一緒に酒を飲む)から派生した、古代ギリシャの「饗宴」 συμπόσιον (symposion) に由来するとされる。プラトンの対話編『饗宴』にもその様子が描かれている。「シンポジウム」は symposium の特定の言語での読みではなく、ラテン語では「シュンポシウム」、英語では「シンポゥジアム」である。
お手本
日本大百科全書(ニッポニカ) の解説
ペリクレスの戦没者葬送演説(抄)
ぺりくれすのせんぼつしゃそうそうえんぜつ
(前431/430)
われらがいかなる理想を追求して今日への道を歩んできたのか、いかなる政治を理想とし、いかなる人間を理想とすることによって今日のアテーナイ(アテネ)の大をなすこととなったのか、これを先ず私は明らかにして戦没将士にささげる讃辞の前置きとしたい。この理念を語ることは今この場にまことにふさわしく、また市民も他国の人々もこの場に集う者すべて、これに耳を傾けるものには益する所があると信ずる。
われらの政体は他国の制度を追従するものではない。ひとの理想を追うのではなく、ひとをしてわが範を習わしめるものである。その名は、少数者の独占を排し多数者の公平を守ることを旨として、民主政治と呼ばれる。わが国においては、個人間に紛争が生ずれば、法律の定めによってすべての人に平等な発言が認められる。だが一個人が才能の秀でていることが世にわかれば、無差別なる平等の理を排し世人の認めるその人の能力に応じて、公けの高い地位を授けられる。またたとえ貧窮に身を起そうとも、ポリスに益をなす力をもつ人ならば、貧しさゆえに道をとざされることはない。われらはあくまでも自由に公けにつくす道をもち、また日々互いに猜疑の眼を恐れることなく自由な生活を享受している。
よし隣人が己れの楽しみを求めても、これを怒ったり、あるいは実害なしとはいえ不快を催すような冷視を浴せることはない。私の生活においてわれらは互いに制肘を加えることはしない、だが事公けに関するときは、法を犯す振舞いを深く恥じおそれる。時の政治をあずかる者に従い、法を敬い、とくに、侵された者を救う掟と、万人に廉恥の心を呼びさます不文の掟とを、厚く尊ぶことを忘れない。
また、戦の訓練に眼をうつせば、われらは次の点において敵側よりもすぐれている。先ず、われらは何人にたいしてもポリスを開放し、決して遠つ国の人々を追うたことはなく、学問であれ見物であれ、知識を人に拒んだためしはない。敵に見られては損をする、という考えをわれらは持っていないのだ。なぜかと言えば、われらが力と頼むのは、戦の仕掛や虚構ではなく、事を成さんとするわれら自身の敢然たる意欲をおいてほかにないからである。子弟の教育においても、彼我の距りは大きい。かれらは幼くして厳格な訓練をはじめて、勇気の涵養につとめるが、われらは自由の気風に育ちながら、彼我対等の陣をかまえて危険にたじろぐことはない。
これは次の一例をもってしても明らかである。ラケダイモーン人はわが国土を攻めるとき、けっして単独ではなく、全同盟の諸兵を率いてやって来る。しかるにわれらは他国を攻めるに、アテーナイ人だけの力で難なく敵地に入り、己が家財の防禦にいとまない敵勢と戦って、立派にかれらを屈服させることができる。
われらは質朴なる美を愛し、柔弱に堕することなき知を愛する。われらは富を行動の礎とするが、いたずらに富を誇らない。また身の貧しさを認めることを恥とはしないが、貧困を克服する努力を怠るのを深く恥じる。そして己れの家計同様に国の計にもよく心を用い、己れの生業に熟達をはげむかたわら、国政の進むべき道に充分な判断をもつように心得る。ただわれらのみは、公私両域の活動に関与せぬものを閑を楽しむ人とは言わず、ただ無益な人間と見做す。そしてわれら市民自身、決議を求められれば判断を下しうることはもちろん、提議された問題を正しく理解することができる。理をわけた議論を行動の妨げとは考えず、行動にうつる前にことをわけて理解していないときこそかえって失敗を招く、と考えているからだ。この点についてもわれらの態度は他者の慣習から隔絶している。われらは打たんとする手を理詰めに考えぬいて行動に移るとき、もっとも果敢に行動できる。
まとめて言えば、われらのポリス全体はギリシアが追うべき理想の顕現であり、われら一人一人の市民は、人生の広い諸活動に通暁し、自由人の品位を持し、己れの知性の円熟を期することができると思う。そしてこれがたんなるこの場の高言ではなく、事実をふまえた真実である証拠は、かくの如き人間の力によってわれらが築いたポリスの力が遺憾なく示している。なぜならば、列強の中でただわれらのポリスのみが試練に直面して名声を凌ぐ成果をかちえ、ただわれらのポリスに対してのみは敗退した敵すらも畏怖をつよくして恨みをのこさず、従う属国も盟主の徳をみとめて非難をならさない。かくも偉大な証績をもってわが国力を衆目に明らかにしたわれらは、今日の世界のみならず、遠き末世にいたるまで世人の賞嘆のまととなるだろう。
トゥーキュディデース著、久保正彰訳『戦史』(岩波文庫)より
[参照項目] | ギリシア史
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
批評とユーモアと自嘲と自己客観化と
・アリストパネス
(古希: Ἀριστοφάνης, Aristophanēs, 紀元前446年頃 - 紀元前385年頃)は、古代アテナイの喜劇詩人、風刺詩人である。アリストファネス、あるいはアリストパネース、アリストファネースと長母音でも表記される。なお現在のギリシア語ではアリストファニスのように発音される。
代表作はソクラテスに仮託する形でソフィストを風刺した『雲』、デマゴーグのクレオンを痛烈に面罵した『騎士』、アイスキュロスとエウリピデスの詩曲を材に採り、パロディーなどを織り交ぜて優れた文芸批評に仕上げた『蛙』など。
・メナンドロス(古代ギリシア語: Μένανδρος / Menandros、紀元前342年 - 紀元前292年/291年)は、古代ギリシア(ヘレニズム期)の喜劇作家。ギリシア喜劇 (Ancient Greek comedy) のうち、「新喜劇」(アッティカ新喜劇(Attic new comedy) あるいは アテナイ新喜劇(Athenian new comedy))と呼ばれる作品群の代表的な作者である。
・アイスキュロス
(ギリシア語: Αἰσχύλος, Aischylos, 紀元前525年 - 紀元前456年)は、古代アテナイの三大悲劇詩人のひとりであり、ギリシア悲劇(アッティカ悲劇)の確立者。代表作はオレステイア三部作。
・ソポクレス
(ギリシャ語: Σοφοκλῆς, Sophoklēs, ギリシア語発音: [so.pʰo.klɛ̂ːs]; ソポクレース、紀元前497/6年ごろ - 406/5年ごろの冬[1])は、現代まで作品が伝わる古代ギリシアの三大悲劇詩人の一人。ソポクレスは生涯で120編もの戯曲を制作したが、殆どが散逸し、完全な形で残っているものは7作品にすぎない。
また、ソポクレスは、脇役を加えることにより、プロットを説明するにあたってコロスが担っていた重要性を低下させたという点で、作劇法の発展に影響を与えた。また、アイスキュロスなどの先行する詩人たちから、登場人物を大きく発展させた[2]。
ソポスレスは、ソフォクレスとも表記する場合がある。
・エウリピデス(古代ギリシャ語: Εὐριπίδης、Eurīpídēs、 紀元前480年頃 - 紀元前406年頃)は、古代アテナイのギリシア悲劇における三大悲劇詩人の1人である。エウリーピデースと長母音で表記されることもある。現代にも大きな影響を及ぼしている。代表作は『メデイア』、『アンドロマケ』など。
・モリエール
(フランス語: Molière)として知られる、ジャン=バティスト・ポクラン(フランス語: Jean-Baptiste Poquelin、1622年1月15日 - 1673年2月17日)は、フランス王国ブルボン朝時代の俳優、劇作家。ピエール・コルネイユ、ジャン・ラシーヌとともに古典主義の3大作家の1人。悲劇には多くを残さなかったが、鋭い風刺を効かせた数多くの優れた喜劇を制作し、フランス古典喜劇を完成させた。
自筆原稿や手紙は見つかっていない。また、南仏修業時代のモリエールの署名とされるものには同じ筆跡が一つとして無いなど、その生涯、特に青年期に関しては不明な点が多い。極めて裕福な家庭に生まれ育ち、青年期に演劇を志して劇団を結成するも運営に失敗、パリから逃げ出すように13年間の南フランス演劇修業の旅に出た。その甲斐あってパリ帰還後に大成功を収め、自身が率いる劇団はフランス国王の寵愛を獲得するまでに至った。彼が率いていた劇団がコメディ・フランセーズの前身であることから、同劇団は「モリエールの家(La maison de Molière)」という別名を持つ。
・ウィリアム・シェイクスピア(英語: William Shakespeare, 1564年4月26日(洗礼日) - 1616年4月23日[2](グレゴリオ暦5月3日))は、イングランドの劇作家、詩人であり、イギリス・ルネサンス演劇を代表する人物でもある。卓越した人間観察眼からなる内面の心理描写により、もっとも優れた英文学の作家。また彼の残した膨大な著作は、初期近代英語の実態を知るうえでの貴重な言語学的資料ともなっている[3]。
出生地はストラトフォード=アポン=エイヴォンで、1585年前後にロンドンに進出し、1592年には新進の劇作家として活躍した。1613年ごろに引退するまでの約20年間に、四大悲劇『ハムレット』『マクベス』『オセロ』『リア王』をはじめ、『ロミオとジュリエット』『ヴェニスの商人』『夏の夜の夢』『ジュリアス・シーザー』など多くの傑作を残した。『ヴィーナスとアドーニス』のような物語詩もあり、特に『ソネット集』は今日でも最高の詩編の一つとされている。
2002年にBBCが行った「100名の最も偉大な英国人」投票で第5位となった。
シェークスピア[4]、シェークスペーヤ[5][6]、シェークスピーヤ[7][8]とも。
「シェイクスピア」の日本における漢字表記(借字)は「沙吉比亜」だが、これは中国語での表記「莎士比亞」(繁体字での表記で、簡体字では「莎士比亚」)の「莎」を「沙」と、「亞」を「亜」と略し、「士」の代わりに「吉」を用いたもの。日本に作品が伝わってまもない明治時代などでは「沙翁」と表記されたこともある[9]。
・ジョナサン・スウィフト(Jonathan Swift、1667年11月30日 - 1745年10月19日)は、イングランド系アイルランド人の諷刺作家、随筆家、政治パンフレット作者、詩人、および司祭。著名な作品に『ガリヴァー旅行記』『穏健なる提案』『ステラへの消息』『ドレイピア書簡』『書物合戦』『桶物語』などがある。スウィフトは英語の散文で諷刺作品を書いた古今の作家のなかでも第一級といってよいだろうが、詩作のほうはそれほど知られていない。彼は当初すべての著作をレミュエル・ガリヴァー、アイザック・ビッカースタッフ、M・B・ドレイピアなどの筆名でもしくは匿名で発表した。
1976年から発行されていたアイルランドの10ポンド紙幣に肖像が使用されていた[1]。
アメリカの大統領制に続くローマ帝国
アッピウス・クラウディウス・カエクス(ラテン語: Appius Claudius Caecus、 紀元前340年 - 紀元前273年)は、共和政ローマ期の政治家・軍人。クラウディウス氏族のパトリキ (貴族)系出身。二つ名の「カエクス」は「盲目」の意である。アッピア街道とアッピア水道の建設者として知られる。
ルキウス・コルネリウス・スッラ・フェリクス
(ラテン語: Lucius Cornelius Sulla Felix、 紀元前138年 - 紀元前78年)は、共和政ローマ後期の政務官。ガイウス・マリウス、ルキウス・コルネリウス・キンナとの内乱に勝利した後、ガイウス・セルウィリウス・ゲミヌス以来120年ぶりとなる独裁官(ディクタトル)に就任した。旧来はスッラをオプティマテス(閥族派)の指導者、マリウスらをポプラレス(民衆派)の指導者とする解釈がなされていたが、現在ではそのような単純な二極構造ではなかったとも考えられている[2]。
ガイウス・ユリウス・カエサル
(ラテン語: Gaius Iulius Caesar、Juliusとも、紀元前100年 - 紀元前44年3月15日[注釈 1])は、共和政ローマ末期の政務官であり、文筆家。「賽は投げられた」(alea jacta est)、「来た、見た、勝った」(veni, vidi, vici) 、「ブルータス、お前もか」(et tu, Brute?) などの特徴的な引用句でも知られる。また彼が布告し彼の名が冠された暦(ユリウス暦)は、紀元前45年から1582年まで1600年間以上に渡り欧州のほぼ全域で使用され続けた。
古代ローマで最大の野心家と言われ[2]、マルクス・リキニウス・クラッスス及びグナエウス・ポンペイウスとの第一回三頭政治と内戦を経て、永久独裁官(英語版)(ディクタトル・ペルペトゥオ)となった[3][4]。「カエサル」の名は、帝政初期にローマ皇帝が帯びる称号の一つ、帝政後期には副帝の称号となった(テトラルキア参照)。ドイツ語のKaiser(カイザー)やロシア語のцарь(ツァーリ)など、皇帝を表す言葉の語源でもある。
従来カエサルはポプラレス(民衆派)とされてきたが、当時の政治状況を簡単に二分することはできないため、「カエサル派」とすべきだとする意見がある[5]。
・マルクス・トゥッリウス・キケロ
(ラテン語: Marcus Tullius Cicero, 紀元前106年1月3日[1] - 紀元前43年12月7日[2])は、共和政ローマ末期の政治家、弁護士[3]、文筆家、哲学者である。名前はキケローとも表記される。カティリーナの陰謀から国家を救うなど活躍し、入ることを熱望していたオプティマテス寄りの論陣を張って、ガイウス・ユリウス・カエサルやオクタウィアヌスらを食い止めようと試みたが叶わなかった。
哲学者としてはラテン語でギリシア哲学を紹介し、プラトンの教えに従う懐疑主義的な新アカデメイア学派から出発しつつ、アリストテレスの教えに従う古アカデメイア学派の弁論術、修辞学を評価して自身が最も真実に近いと考える論証や学説を述べ、その著作『義務について』はラテン語の教科書として採用され広まり、ルネサンス期にはペトラルカに称賛され、エラスムス、モンテスキュー、カントなどに多大な影響を与えた。又、アリストテレスのトピックスに関して『構想論』『弁論家について』『トピカ』の三書を著し, 後のボエティウスによるその概念の確立に大きく貢献している(例えばトピック (論理学)参照)。
キケロの名前に由来するイタリア語の「チチェローネ」という言葉は「案内人」を意味するが、ギリシア哲学の西洋世界への案内人として果たした多大な影響をよく物語っている[4]。
・ルキウス・アンナエウス・セネカ
(ラテン語: Lucius Annaeus Seneca、紀元前1年頃 - 65年4月)は、ユリウス=クラウディウス朝時代のローマ帝国の政治家、哲学者、詩人。
父親の大セネカ(マルクス・アンナエウス・セネカ)と区別するため小セネカ(Seneca minor)とも呼ばれる。第5代ローマ皇帝ネロの幼少期の家庭教師としても知られ、またネロの治世初期にはブレーンとして彼を支えた。古代ローマ時代のストア派哲学者でもあり、またラテン文学の白銀期に多くの悲劇・著作を記したことでも知られる。
・マルクス・ウァレリウス・マルティアリス(マールティアーリス、Mārcus Valerius Mārtiālis, 英: Martial, 40年頃 - 104年頃)はヒスパニア(イベリア半島)のアウグスタ・ビルビリス(現カラタユー)出身のラテン語詩人。古代ローマ皇帝ドミティアヌス、ネルウァ、トラヤヌスの統治期間にあたる西暦86年から103年の間に発表された12巻のエピグラム(エピグラムマタ、警句)の本で知られている[1]。これら短くウィットに満ちた詩の中で、マルティアリスは町の生活や知人たちのスキャンダラスな行動を明るく風刺し、地方の教育をロマンティックに描いた。マルティアリスは全部で1561篇の詩を書き、そのうち1235篇はエレゲイオンの形式を使っている。マルティアリスは今日のエピグラムの始祖と見なされている。
現代日本の知の巨人といっても過言ではないだろう。
国が言いなりだと
国民も言いなりになるんですね
主体がないということに気づかないことが問題。
あ、自分のことです。
『巨人の星』を出すなら、極めつけがあるだろう!なんで言わん?というか、・・・知らんのか?本当の父親の漫画を!!
『子連れ狼』だ!!
真の勝利への道には
男の価値が必要だ
漆黒の意志
浜崎さんと茂木誠さんは、意見合わないのかな。
めっちゃ仲良くて何度も共演されてますね
私は三浦梅園の思想のために生き、そのために死んでいきます。
絶望した時に堪えられる精神力がない子が多いのかな~おとなも
西郷の逸話って、むしろ西郷がいかにダメな奴かがわかるんじゃないのかな。
くそを皿の上でする無神経さ、その皿に刺身を載せて相手に食えという無神経さ。
戦争って細心の注意を払って遂行するものなのに、こういう無神経なことを平気でやる西郷には、逆に命を預けられないと思いますわ。
そんなエピソード聞いたことがないんですが、史実なんでしょうか?
ごめんなさい。
聞いていて疲れてきました…
この感覚の理由を内観します。
スポ根はマッカーサー的価値観かもしれん!?