宗谷本線塩狩峠のC55~JNR Pacific type C55 in Shiokari Pass
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- Опубликовано: 8 фев 2025
- 三浦綾子の塩狩峠をモチーフに、冒頭で当時の事故を考えてみました。
宗教上の使命感で身を挺したかどうかには、触れません。
どのような機関車でどのような客車だったのか?調べてゆくと寿都鉄道に残ったボールドウイン製8100型蒸気機関車でした。客車はおそらく一軸のマッチ箱タイプの客車ではなかったかと推定しました。
昭和49年までC55が残り、峠にはDLの補機がしっかりつくことは、峠が難所であることを示すと同時に、安全への配慮がかなり古くから確立していたのは塩狩峠での不測の鉄道事故を念頭にしたのでは?とも考えました。
宗谷本線はあれだけの大幹線でしたが、現在は見る影もありませんが、旭川~名寄間は発展することが期待できるでしょう。
新しい塩狩峠は様々な意味での心のアイコンとして長く語り継がれることでしょう。
#rollingstock
#蒸気機関車 #鉄道 #c55 #c57 #c62 #d51 #DD51 #DD53 #宗谷本線
貴重なSL動画投稿ありがとうございます。
Keroroさん、ご視聴頂きありがとうございます。
もっとワクワクするような動画にしていきますので、よろしくお願いします。
半世紀前の懐かしい写真有難うございました。明治の客車分離事故の牽引が8100形だった事は知りませんでした。当時8100は主に狩勝方面で使用されていたと思われ、塩狩で使用されていたとは思いませんでした。貴重な情報有難うございました。
加藤さん、ご視聴頂きありがとうございます。番号まで特定はできませんでしたが、ボールドウインの8100だったんです。北海道では頼りにされた機関車だったようです。
貴重な情報たくさんありがとうございました😊連想ゲームではないですが、宗谷線と言えばC55 C55といえば宗谷線というイメージです。塩狩峠用の補機は後部補機のDD51だけかと思っていましたがDD53 前補機の場合もあったのですね。単機運用の貨レの場合もあったというD51はやはりすごいですね👍
プさん、ご視聴頂きありがとうございます。常紋や狩勝に比べて鉄道峠のスケールは小さいですが、そこはやはり最後に残ったC55が走る峠として、名をはせました。もっと北に行っても景色が多いところが多く、宗谷本線は魅力ある路線でした。
明治近代の北海道は厳しい開拓と世相であったと思います。殉職した鉄道員と文学的背景に人々が納得したのでしょうね。語り継ぐ話は形を変えても残って欲しいですね。
そのシンボルに蒸気機関車もあって欲しい。その意味でC55型には不思議に抒情な趣があり、九州型や北海道型ともに足回りも含め美しい。
動画で聞けますが、宗谷本線を行く急行利尻の汽笛は遥かな夢に誘われます。
HMS HOODさん、ご視聴頂きありがとうございます。
宗谷本線のC55は運行距離も長く、日本離れした原野を走るのでたしかに、「不思議に抒情な趣」と言うコメントがぴったりです。
C55は梅小路の1号機を見たことがあるだけなので、向こう側の風景が透けて見えたという現役時代の走行シーンを生で見られた方々が羨ましいです。
流線型からの改造機5両(20、24、27、30、39号機)の写真もいいですね。丸い屋根で密閉式のキャブだけがそのまま残っていたのが、なぜか残りのパーツと違和感なくマッチしていて、むしろチャームポイントになっていた感じがします。これも静態保存でもいいから残っていて欲しかったです。
しかし、その流改機30号機が「DLは機嫌が悪いと峠でニュートラルにするからな~」と語る場面、機関車トーマスシリーズでも似たようなシチュエーションがあったような・・・笑
成田さん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。
そうですね。流線形の名残のスタイルは独特なので、C55のアイデンティティをこちらにも止めちゃいます。普通のはC57とほぼ同じですから。
でも北海道のC55は最後の頃とても汚かったです。
いつも楽しい動画をありがとうございます。また私の1番好きなC55末期を取り上げて頂き、誠に有難うございます。永久保存版にして毎週リピートします(笑)
塩狩峠の補機はDD53とばかり思っていて、模型化は大変だと思っていたのがDD51が多かった(写真はさいはて鈍行321レ/324レですよね)という事で、模型での再現が随分楽になりました。
また明治の事故の牽引機が8100だったことも初めて知りました。北のC55と南のC55の対照的な汚なさも。名寄までD51が入っていたのも初めて知りました。
DD51が来るまでは塩狩峠の補機も石北と同じく9600だつたんでしょうか?
832buuchanさん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。
D51は名寄の先の音威子府までですね。塩狩峠のDL化前の補機ですが、情報掴めませんでした。狩勝峠や常紋と異なり写真映えするわけではないうえ、山深いので記録がとても少ないのかもしれません。DD51の補機はかなり初期に導入されたということですが、やはり9600だったのでしょう。
C5787は福知山では急行いずもなど牽引して活躍したのに旭川へ飛ばされて最後は遠く沖縄に静態保存されたものの荒廃のため解体撤去されたんですよね。魔理沙さんの嫌いな前面カクカクの鷹取タイプですが定年前の転勤族みたいで物悲しい気がします。
シロクニさん、ご視聴頂きありがとうございます。
たしかにC57-87は貧乏くじ引いたよ機関車ですね。北海道に渡っても撮影するファンから来るとがっかりされますし。
C55 57号、懐かしいです。初めて見たC55が、昭和49年8月、宮崎で会った57号でした。構内入換えをしていた様です。その後暗くなった頃に、57号が前補機についた下り普通列車で都城まで行きましたが、回送補機だったらしく、本務機のDF50のエンジン音ばかりが聞こえ、C55の音は汽笛位しか聞こえませんでした。結局現役のC55を見たのはそれが最初で最後でした。ピンボケのモノクロ写真が残っています。
塩狩峠とは縁の遠い話でスミマセン……
河内さん、日豊本線電化し南宮崎以南もDL化完了して、たしかC55-57とC57が入換え用で残り、目撃されたような運用をしていました。
1:55>当時の客車ですが、1909年だと鉄道院基本形客車が完成する前年なので、北海道炭礦鉄道が導入した小型ボギー客車だと思います。鉄道博物館の開拓使号や小樽市総合博物館の「い1」みたいな客車ですね。あと、8:40>ですが、北海道の鉄道は開業時からアメリカ由来の自動連結器装備で,1925年の内地の自動連結器化では取り付け高さをかさ上げしただけでした。
56kuma 迷列車さん、ご視聴頂きありがとうございます。いろいろご教授ありがとうございます。
自らの意思で身を挺したのか、事故でそうなったのかはさておき、体一つで勾配を下る客車が止まったのは奇跡なんでしょうね。
うぽつです!!
C55は北海道の副灯付きもいいですね〜
蒸機は雪の中でこそ輝く!!
うぼつさんだったんですか。ご視聴頂きありがとうございます。
私はシールドビーム嫌いではないです。関東の機関車多かったので見慣れたんでしょうね。
DD53 1は旭川に来てから、除雪用としてはほとんど使われてなかったようですね。
雪質の違いなのか、せっかくの大型DLだから除雪に使ってしまうのは勿体なかったのか、理由は定かではありませんが…
隣の北見峠でも、少し時代が下がった常紋でも、本務機よりも先に補機がDL化されてますね。
DLだと折り返しの手間がかからないことや、煙害を避ける為なのでしょうか?
Hajime86さん、ご視聴頂きありがとうございます。
DD53はたしか雪を掻きだすパワーがデカすぎて逆に雪害を与えるんではなかったでしたっけ?DD53が補機だと客レの視界は厳しいんじゃないかなと思います。
動画の通りで北と南では同じC55なのかと当時思いました。南は黒光りする車体でよく手入れされ美しい車体でした。但し末期は構内留置入換だけで客寄せパンダみたいに感じました。北はスローガンが書かれテンダーは錆が浮き泥汚れで黒と言うよりこげ茶色の産業機械みたいで汚いですが定期の客レを引く本線運用でした。何方が好みかは意見が分かれるかと思います。
k wさん、ご視聴頂きありがとうございます。
北海道はC622を除き、基本的に綺麗な機関車は全検後のものぐらいしかなかったと記憶しています。
奇麗な南九州ですが、晩年はお召し機、予備機のピカピカが目立ちました。北海道の機関車は生活感があって好きです。
一度だけファン向けにC551+47の重連運転があったようですが、特にお別れ列車はなかったのですね
チーヤンさん、ご視聴ありがとうございました。
急行利尻がDD51になった後、昭和46年夏に重連で運転しました。
そのことでしょうか?
@@Yukkuri-Lab
1971年7月15日との事です
昔 急行利尻に
蘭留ー和寒間に補機がつきました
nikyorodeponさん、ご視聴頂きありがとうございます。
利尻の運用はあまり情報が無いので確定的なことを言えませんが、通常C55一輌の牽引、塩狩峠は補機(DD51)がつき、夏の多客時は最初からC55重連で通していたと思っています。
わっさむという駅名にちょっと吹いてしまいましたな
C55というと国鉄制式採用のテンダー機関車で、最後のスポーク動輪ということで有名ですな
俗に水かきスポークと呼ばれる流麗な足回りに、細身のボイラーを持つことから、向こう側が透けて見えるとまで評されました
見る機会はないかなと思ってましたら、湘南新宿ラインでふと車窓を見るとC55のスポーク動輪があってびっくりしました
電光刑事さん、何時もご視聴頂きありがとうございます。
向こうが透ける写真をコミュニティにアップしたのでご覧ください。
目黒の動労会館のC55の動輪ですよね。昔からあります。
今は動労とは関係ないようです。
C55はC54の欠点を改良して
製造されて
各地に配属されて
そこそこ良かったじゃ
特に宗谷本線での客レの牽引
それでも塩狩峠越えは
DD51の補機が
付かないと
きつかった
軸重がそれほど
重くないので
宗谷本線で
活躍できたのかも
高橋さん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。
旭川~稚内を通して走る普通列車C55牽引の一往復が宗谷本線の華だったと思っています。
C55の魅力はやはりスポーク動輪かと思います
強度不足でC57からボックス動輪に変更になってますが、アメリカの影響なのでしょうか
個人的にはC55の方が貴婦人だと思うのですが。
デカミツさん、何時もご視聴頂きありがとうございます。スポーク動輪はC55の魅力ですね。私も、C57のボックス動輪よりC55のスポーク動輪の方が好きですね。
あぁ 東海道で特急牽引に就いていた元流線型も 北海道で余生を送っていたんですね。
上川にある『わっさむ』は本当に冬季は冷凍庫並の最低気温で 水道の蛇口🚰は凍らないよう(ここに限らないのだろうけど)『水を落とす』機構付きのようですね。
キハ22も 冬季は排雪抵抗の為 乗客が少なくても2両連結で走ってたのかな?(深名線は そうだったらしいので)
泥に汚れたDD51から 降雪量の多さと補機仕業の過酷さがわかります。DD51の目が赤いのは 後部補機用にに赤いフィルターでも入れていたのでしょうか?
とりりサービスさん、ご視聴頂きありがとうございます。C55の流線形は東北にもいたようですし、分散して配備したらしいです。
DD51の赤目はいたずらです。各動画に1,2か所いたずらを入れたり、女性を入れたりして製作のストレス解消しています。
東北にいた流線型は仙台に新製配置された27~29と1939~43年に秋田にいた38·39。ちなみに晩年、九州で標準デフのままだった10·19·55も同時期と戦後の10年間ほど秋田にいました。
小樽に50号機がいるけど煙突がへし折れていて修理してもいいんじゃないくらいボロボロになりつつあります…
ご視聴いただきありがとうございます。
小樽の50号、そんなに酷いんでしょうか?
土に還る前に何とかしてほしいです。
C55はスポーク動輪と板台枠だから夕陽のブラインド写真がかっこいいんだよね
門デフの57号機が好きです
すきぬさん、ご視聴頂きありがとうございます。
57号機はリンゲルマン濃度計が煙突から出ていてかわいいです。
流線型のC55が大好きなんだよね〜、1両位残して欲しかったなぁ〜・・・
0721さん、何時もご視聴頂きありがとうございます。
そうですよね。30号機の保存ではなんか変なこともありましたね。
1号ではなくて、30号を梅小路に持って行ってもらいたかった。
30号機は最後の年にすごーく汚いのを見てがっかりしました。
綺麗にして欲しかったよね〜、扱いが酷いよね〜
宗谷本線塩狩峠には、旅客貨物列車を問わず、豪雪地帯を力走する蒸気機関車がいた。
その名はC55形。
C55形は亜幹線用パシフィック車軸配置で、一時期流線形で落成して、東海道山陽本線の特急列車牽引に使われた。
戦後、流線形は、標準型に改造されて、亜幹線に集結。
北の大地北海道旭川機関区と九州鹿児島県の吉松機関区が最後の活躍の場所になった。
C551号機が京都鉄道博物館に静態保存されているほか、門デフ装備のC5553号機が大分市内の公園に保存されている。
大坂さん、21輌作られて、四国以外全国にばらまいたそうです。
C53の流線形に比べて野暮ったい感じがします。
@@Yukkuri-Lab さん、流線形蒸気機関車の試作機として、C5343号機が選ばれて、東海道山陽本線の特急列車牽引に使われて、好評だったためにC53形10両を流線形蒸気機関車にする計画案があった。
しかし、亜幹線にも広げたいとした鉄道省は、計画を変更C55形21両を流線形蒸気機関車にした。
しかし、太平洋戦争突入で、流線形カバーは取り外されて、台車がさらけ出すことになって、戦後は痛々しい姿をさらけ出した為に標準型に改造されてしまった。
その通りの経緯ですねぇ。
@@Yukkuri-Lab さん、昭和22年頃の写真では、痛々しい流線形蒸気機関車C55形の姿がありました。
またDD51をディスってますねww
exp. m.k.さん、ご視聴頂きありがとうございます。
ファンの各位ごめんなさい。
つい最近梅小路行ったときに…初めてC55見たのですが…やっぱり貴婦人と瓜二つでした…
何でもありな汽車の番人さん、ご視聴頂きありがとうございます。
C57は煙室端面が丸いので可愛いですね。
@Yukkuri-Lab さんそうなんですね、意外です!確かにC57 1やC57 44見てると結構丸いですよね〜案外小顔で丸いって感じですよね、あ〜こうやって昔の記録を見てるとその時に動いていた蒸気機関車の姿を見てみたい…と思うだけで…タイムスリップできたらいいんですけどね…
私も、もっとあれこれ撮っておけばよかったと後悔の毎日です。
宗谷本線は存続も危ぶまれているがここで恒久的にSLを走らせられないかな。他には釧網本線や函館本線の山線区間など
SKTさん、ご視聴頂きありがとうございます。
宗谷本線、名寄~音威子府辺りがいいですね。飛行機で来てもJR乗ってもらえるし、線路もしっかりしていますから。勿論C55-1を復元して走らせてもらうわけで。
戦後、カバーを外されたC55の姿は、酷かった、標準機改造の理由の一つに
「外見が悪い」と言うのも分かる😢
小樽築港機関区さん、いつもご支援ご視聴頂きありがとうございます。
私も写真で見たことがあります。うまくオリジナルのデザインを生かし、生きながらえさせて欲しかったです。
@@Yukkuri-Lab さん、昭和22年頃の流線形カバーを外されたC55形の痛々しい姿がありました。
塩狩峠越えの補機は、色あせていたDD51形やDD53形が充てられていた。
かなり痛々しい。
大坂さん、ご視聴頂きありがとうございます。
新しいのですが、掃除しないから汚いだけなんです。
@Yukkuri-Lab さん、洗車していなかったからこんな痛々しい姿をさらけ出してしまった訳ですか。
旭川も組合すごく強かったから。
@Yukkuri-Lab さん、国労旭川支局も、労使紛争最大の激戦地。
指名解雇を巡って、経営側(国鉄幹部)と国労旭川支局が激しく対立していた時代があった。
さらには、旭川機関区の機関士控室にビールや日本酒🍶の自動販売機があった位飲酒運転が当たり前になっていた⁉️
そのくせ機関区内見学厳禁とかだったはずで、じゃあ行かないよと思った記憶があります。だから旭川機関区の写真って少ないんでしょう。
C5530は解体、49も解体、50も塩害でクタクタボロボロ😢
もう終わりだよこの形式
びゅーんさん、何時もご視聴頂きありがとうございます。
1号機は梅小路に来てから山陰線テスト走行したり元気だったんですけどねぇ。
すぐに動かなくなってしまいました。好きな機関車なので残念です。
@@Yukkuri-Labかりに一号のコンデションが良好でもよく似た機関車が稼働中ですから復活劇は起こり得ないでしょうね。私は50が心配です。ボランティア保守の方々は頑張っているのでしょうがいかんせんあの立地ではペンキ塗りも賽の河原の石積みに等しく、せめてあの機関車だけでも内陸の他所へ移して欲しいものです。
台湾にもあるので、復活するかも。お金持ちですからね。
JKいねぇ😅
ご視聴頂きありがとうございます。
サムネはイエスキリストに祈る二人の日本人の女子高生なんです。